イタリア学事始め             ― よき師、よき友と共に ― 
                       池田 廉



 竹橋の東京外語の学舎は、私が入学したころ(昭和19年)は老朽化した木造で受験予備校のような趣があった。新入生14名ほどの中で、私は最年少であり、年配の級友の中には夏休み明けの頃まで、私立の文学部と掛け持ちで通っている者もいた。一般教養の授業では、講義の終わる頃に、事務方の人が風呂敷のようなものを持って現れ、学生の名札を集めに来て、これも驚かされた。名札は、朝、玄関脇に掲げられていて、各自はそれを持って教室に入るのが習わしであった。 イタリア語科には温厚な人柄の主任教授粟田三吾先生、ボローニャ大学法学部卒の経歴を持つ気鋭の柏熊宣三先生が居られた。お二人は主に自著の入門書『伊太利亜語入門』(富山房)、『イタリア語入門』(研究社)をテキストに授業を進められた。戦中の混乱期とあって、もっぱら語学の授業が重視された。 

 だが授業の話はさておき、この時代の勤労動員の中での個人的な思い出に触れてみたい。昭和20年の東京大空襲のころ、私達は東十条の特殊合金を製造する工場で働いていた。その少し前の二月にも、下町の一部が焼失された空襲があり、その日の夕刻、職場を後にして、電車の往来が途絶えた王子の鉄橋を歩いて渡り、巣鴨の新校舎まで辿り着いた。そこで私達を気遣ってか待って居られた柏熊先生にお会いすると、下町の一部が昼間、被害を受けていたことを聞き知っていて、もし君の自宅(日本橋橘町)が焼失しているようなら、麹町白河町の私宅に来るようにと励まされた。その日、わが家の焼失は免れたが、その折の先生の親身な言葉が深く心に残った。

 戦後の昭和22年、当時イタリア文学専攻の唯一の講座を持つ京都大学へ進むことにした。東海道線の切符を徹夜して買い求め、翌日ごった返す急行列車に乗り込んだ。静岡駅に着いても、車内の乗客は車窓を開めたままだった。窓から無理やり乱入しようとする旅客を防ごうと必死だったのである。約14時間の長旅の後、翌朝、久方ぶりに見る京都の街は昔のままの鄙びた印象であった。当時、京大文学部、伊語・伊文専攻科には、著名な黒田正利先生(『ダンテと其時代』、警醒社、大正十年)が居られた。また附属図書館には、ダンテ研究資料約2000冊を収めた「旭江文庫」(大賀寿吉氏寄贈)の存在がよく知られていた。老先生は、学者然とした風貌の割には気さくなお人柄であった。たまたま先生の研究室で、ピランデッロの戯曲「エンリーコ四世」のテキストを専攻生2、3名と共に読み進める折り、傍らの飯盒に “ふかし芋” が準備されていた。食糧難の時代の懐かしいエピソードである。

 昭和25年の卒業に際しては、黒田講師、泉井久之助教授と共に、帰国後間もない野上素一助教授から卒論試問を受けた。私の研究テーマは『ペトラルカ詩集』であり、この人文主義の先駆者にして優雅な恋愛詩人でもある文学者に関心を抱いた端緒は、戦中、パラチフスに罹り、阿佐ヶ谷の河北病院の病床で、大類伸、平塚博共著の『伊太利史』(三省堂、昭和8年)を読んだ折りであった。しかも、慣れない古文の読みに近づけたのは、たまたまトロント在住の従兄弟から送って貰った、明解な Fabietti 注釈本のお蔭でもあった。どうやら、近刊間もないこのテキストを大学近くの書店で見つけてくれたらしい。

 この戦後の野上研究室の助手時代、私はもっぱら学会誌(『イタリア学会誌』)の編集に携わった。また白水社『新伊和辞典』(1964)の編集に関わることになった。不慣れな編集の仕事ではあつたが、原稿の依頼などで、斯学の高名な先生方にお会いできたのは、そのお陰である。晩年の新村出先生にはダンテに関する寄稿文をお願いして、お話しを聴くことができ、また大類先生には、『新伊和辞典』への推薦のご意向をお聞きしに、ご自宅を訪れた。先生はその頃、日本の城郭の研究に専念しておられたが、小生の帰り際に、貴重なペトラルカ手稿の “Vat. lat. 3195"(複写版)” を差し上げましょう、とのお言葉を戴いて、ただただ恐縮したことを思い起こす(その後、文学部の図書室への寄贈書とさせて頂いた)。なお、お二人の先生がたが共に下町の出自とあって、雑談の中で神田明神や堀留の地名をお聞きしたことも忘れ難い。在学中、外語で同期の親友、初見昇君(後に東大東洋文化研究所勤務)と共に、渥美半島折立の杉浦民平氏(『ルネサンス文学の研究』潮流社、1948)を訪ねたことがある。その折、氏はイタリア語の手ほどきを東大在学中に粟田先生から受けたとお聞きした。小生の初めての翻訳『ガラテオ』(図①)出版に際しては、同氏から“軽妙な訳文”(『展望』、書評)との過分の書評を頂いた。


      

         図1『ガラテーオ』外箱表


 昭和30年、戦後第2期のイタリア政府給費留学生として、パドヴァ大学に赴いた。この頃は、在留邦人が強制帰国を余儀なくされた直後のことであり、ヴェネト地方のどこでも日本人に出会うことはなかった。で、何も知らぬ北伊のこの大学を選んだのは、ローマ大学のボスコ教授からの手紙で、パドヴァのヴイットーレ・ブランカ教授の許で学ぶようにと勧められてのことであった。ブランカ教授(1913年生れ、図③)は、当時「イタリア語・文学の国際学会」の創設に尽力して居られ、そのことが関係していたのかも知れない。


              図3 ブランカ教授夫妻


 ところで同じ敗戦国とあって、冬の学寮は暖房のスチームも効かず、厳しいものがあった。それでいて、夕刻、学寮の食堂に入るのには、きちんとした背広のネクタイ姿が求められ、眼の前のパスタ料理の傍らにはワインのフラスコが置かれていた。しかも学生たちの背後にボーイが控えて立っている。なんとも成熟したヨーロッパ市民社会の現実の一面を垣間見る思いであった。

 ブランカ先生の一般講義では、中世末のイシドールスのラテン語文体の分析などが論じられていた。一般教養の概論ではと予想していた私にはそれも驚きであつた。どうやら講義でも、ご自身の研究対象の関心事を、直接論じることが通例のように思えた。で、先生の助手ペコラーロ君が代講の折にも、彼は研究対象のトンマゼーオについて、夢中になって講じていた。今は亡きこの旧友の名は、今日、パドヴァ大学の大講義室の入口に掲げられている。

 その後、ブランカ先生とオルガ夫人------レジスタンス運動期には共に活躍とか------には、イタリア滞在の折々に大層お世話になった。大運河を間近に眺めるマンションの広い書斎で、アカデミア橋近くのその後の新居で、或いはサン・ジョルジョ島のチーニ財団の研究室でお話しを聞いた。留学の2年目に、政府の給費が切れるのを気遣ってか、チーニ財団と “ISMEO“ との協賛の形で、ヴェネツィア商科大学(カ・フォスカリ)に日本語講座を開いて下さった。また後に、ピサのノルマーレ校での研究に推薦を頂いた。また、『君主論』(改訳、中公新社、2001年)の解説に苦慮している折には、この分野のご自身の論文(抜刷)をわざわざアカデミア橋を渡って、小生の宿まで届けて下さった。訳書『カンツォニエーレ(俗事詩片)』(名大出版会、平成4年、図②)出版の際には、心温まる推薦文を頂き、大阪外大での学術講演の折には、原作者の挿絵(スライド)を示されて、『デカメロン』を講じられた。で、ふと顧みると、遠い国からの初めての留学生とあってか、先生の愛弟子の末席を汚していたのかもしれない。


  

          図2『カンツォニエーレ』中扉  


 さて、話は前後するが、帰国(昭和32年)後、すぐに同窓の小松実君(のち、‘左京’の文名で知られる)から葉書を頂いた(図④~⑥)。


       図4 小松左京氏葉書(1957.10.18付)




  図5・6 小松左京氏(大阪外大にて、1988.10.29)


 また、昭和39年のころ野上研究室には、修士課程に学ぶ同窓の学究、秋山余思、阿部史朗、荒谷次郎、在里寛司君らがおり、共に『新伊和辞典』の編集に当たった。たまたま、その頃、私は神田の洋書店で『ペトロッキ大辞典』二冊本を見つけて買い求めており、語彙の豊富さや、各ページの下段に古語を収める工夫などの、巧みな編集に感心していたこともあり、趣きは異なるものの『ペトロッキ小辞典』(1915年)を底本に選ぶことを勧めた。この編集の数年間、もっぱら夏休みに白水社の社内や北軽井沢に借り受けた仕事場で、語彙カードの書き込みや整理に追われた。時には浅間山を間近に望む野上山荘に招かれて、『迷路』の作者、年齢を少しも感じさせぬ、弥生子先生の若々しい声をお聞きした。

 なお、辞典の編纂に関しては、後年、その収録する語彙や関連する図版、情報量の豊かさで画期的な『伊和中辞典』(小学館)の編纂に関われたことは望外の喜びであった。この辞典の企画、編纂は、同窓の畏友西村暢夫君の並々ならぬ努力に負うものであった。ご存じのように、同君は、日伊文化の交流に早くから着目し、多方面の分野(洋書の輸入、出版活動、料理の普及など)で活躍して来られた。この辞典の編纂に当たって、ガルザンティ社の協力が得られ、また幅広い専門分野の先生方の協力が得られたのも同君のお蔭である。なお執筆は同君を始め、荒谷、在里、また筆者らの手になる。また、この折りの、「文流」スタッフや「小学館」編集部の陰のご尽力も忘れ難い。

 昭和39年、わが国で2番目のイタリア語科(学生定員15名)が大阪外国語大学に新設された。東京外語の姉妹校とも称されたこの学校には、古くは、仏語講師徳尾俊彦氏が居られ、数多くのイタリア語の入門書を出版されていた。また、 粟田先生との共著『新編伊語読本』(三島開文堂、昭和3年)もある。なお、この語学科の新設と共に、私は京大から移り(図⑦)、平成5年に退官したが、卒業生の中には、今日イタリア語の研究・教育・翻訳などで活躍中の者も少なくない。ご存じかと思うが、大阪外大は平成19年(2007年)に大阪大学と合併し、イタリア語学科はその外国語学部に所属している。


           図7 大阪外大にて、1988.10.29


 さて、ペトラルカ七百年祭(2004年)の『記念論集』(図⑧)に、ノルマーレ校以来の友人フェーオ教授の依頼で、論文の寄稿を求められた。で、“Tra Petrarca e Saigyo, poeta giapponese" (巻末付録3)の一文を書き送ったが、なにぶん時間を気にせぬこの国の慣習で、8年近く出版が遅れた。その間、フィレンツェ大学のフェーオ教授は急逝し、後継者D.コッピーニ教授が引き継がれた。この折り、私は小論の脚注に、“In ricordo del Prof. V. Branca"と付記しており、せめてご遺族の目に抜き刷りをお届けしたく思った。が、その消息が知れぬままにうち過ぎ、たまたま昨年末、ボローニャ大学に出講中の、和田忠彦教授の尽力を得て、マリーア・ダ・リーフ・ブランカ先生に届けることができ、ささやかな願いが叶った。なお、『カンツォニエーレ』第138歌(ソネット)の解釈に関する画期的な論文 ‘Intorno alle ≪Allegorie Esplicite≫ del sonetto CXXXVIII, 1991’ は、サンタガタ註の新版(モンダドーリ版、1996年)において注目されている。


           図8 「ペトラルカ記念論集」表紙


 さて、仄間するところ、イタリアでの日本文学への関心は近年とみに高まっているとか。以前、19世紀のイタリア語訳『竹取物語』を手にして感心したり、ダンヌンツィオのジャポニズムに驚かされたことがあったが、今日では、『源氏物語』、『枕草子』は言うまでもなく、『方丈記』、『奥の細道』、『日本永代蔵』など数々の訳書が手元に届く。こうした折、最近、東京イタリア文化会館の館長G.アミトラーノ教授から、“ナポリ東洋大学の昨年度の入学者の中、日本語専攻生が300名を数える”とお聞きした。とすれば、文系学科軽視の風潮を耳にする昨今、我が国の古典文学を学ぶには、イタリア留学がお薦めなどと、やがて囁かれはしないかと危ぶむ。

 ところで、ここ京都の街は、“人間的な規模でよい” とイタリアの友人が感心したことがある。確かに、街中で旧友に会うのには便利である。で、近頃の楽しみは、旧友の永井三明君(昭和23年卒の同窓、同志社大学教授、『ヴェネツィア史』刀水書房、2004年)や、岩倉具忠君*(京大教授、『ダンテ研究』創文社、1988年)、岩倉翔子さん(イタリア国立東方学研究所、『ルネサンスを彩った人々』臨川書店、2000年)らの方々と時折、街中でお会いして歓談するのが唯一の慰めである。



 *本稿、執筆後の3月13日、畏友の岩倉具忠君の急逝を知らされました。噫、数々の憶い出を書き綴る気力も失い...。



執筆者紹介

池田 廉 (いけだ きよし)

1947年、東京外事専門学校イタリア語学科卒業。

1950年、京都大学文学部イタリア文学科卒業。

1953年、同助手。

1966年から大阪外国語大学助教授、教授。

1993年、定年退官、同大名誉教授。


大阪外大学生部長として母校とのスポーツ競技対抗戦に臨む。主にルネサンス文学を専攻。ペトラルカ、マキアベッリ、デッラ・カーサ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの訳業。1992年、ペトラルカ『カンツォニエーレ』の完訳により日本翻訳文化賞受賞。2007年春、瑞宝中綬章受勲。


(《東京外語イタリア会会報》第3号2016年5月10日, pp.14-6より転載。関連するイタリア語論文3篇を付録する。写真・図版は筆者提供になる。2018.11.20 編集士記。)


付録1

付録2

付録3『ペトラルカと西行』








































































































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