モンタペルティ現象1-3


「モンタペルティ現象」試論

米 山 喜 晟



第三章  「モンタペルティ現象」に関する

いくつかの問題点



 本章では、「モンタペルティ現象」に関する問題点の内で、特に重要だと思われるものをいくつか取り上げて、それについて論じておく。

 私は前章において、「モンタペルティ現象」はけっして奇跡などに類した例外的で非合理的な現象ではなくて、むしろ条件さえ揃えば当然起こり得る普遍的で合理的な現象であることを論じたが、実際の歴史においては必ずしもそれほど頻繁に発生しているようには思えない、という疑問が生じるかも知れない。その点に関して、私は主に三通りの仕方で説明することが可能である、と考えている。 

 まず第一に、私が前章で示した三つの条件は、それほど容易には両立し難いということである。特に第一の条件と第二の条件が両立することは困難である。まず第一の条件、軍事大国として長期に戦い続けるということ自体、多くの国にとって実現が困難である。勿論それは周辺と比較しての相対的な意味においての大国だから、ブリックスに類した本物の大国である必要は全くないが、それでも多くの国々には最初から十分な資格が欠けていることであろう。さらにそれ以上に容易に想像できるのは、軍事大国として戦い続けて敗北した国が、その後に有利な国際状況に恵まれるということは、きわめて起こり難い事柄だということである。このように考えると、前章で示した三条件が並立することは、現実にはそれほど頻繁には起こらないことがすぐに分かる。ただし第三の条件は敗戦国のすべてに発生するので、第一と第二の条件が充足している度合に比例して、モンタペルティ現象が発生する確率が高まると考えることが可能なのではないだろうか。

 第二に一般的に考えて、前近代の世界の場合、あるいは現代でも前近代並の国家が関係している場合には、モンタペルティ現象か発生する可能性はさらに小さくなるものと考えられる。まだ人権という概念が確立されていない前近代、あるいは現代でも前近代並の国家においては、勝者は敗者に対して恣意的に苛酷な条件を課すことができた。たとえば第二次世界大戦後においてさえ、戦勝国ソ連は国際法を無視して敗戦国であるドイツや日本に対して苛酷な措置を取り、その記憶は今も生々しく残っている。しかし前近代においては、それはごく当然の措置であった。勝利者が敗北した敵の捕虜や占領地の人民の財産を恣意的に略奪し、殺戮した例も少なくないし、結果的に大量の餓死や病死を発生させた例も稀ではなかった。そうした状況の中では、敗者は一個の独立国として存続することすら困難だから、モンタペルティ現象が起こり得る可能性は小さかった。実は今日の世界においても、多くの国々は前近代並の国家なので、けっしてそうした状況が終わっているわけではないことは、バルカン半島やアフリカで起こっている戦争を見れば明白である。中世フィレンツェの場合は、基本的に同じカトリック教徒である隣国同士の争いであり、勝利者の仲間に有力なフィレンツェ市民が加わっていたことが、戦後の措置を緩和した。それでも敗北後間もないころには都市全体を破壊する計画が企てられた、と伝えられている。その上わずか6年足らずで最大の抑圧者マンフレーディ王が戦死して、かわりにフィレンツェを盟友にすることを望んでいるシャルル・ダンジュー王が登場するという幸運に恵まれたので、歴史上最大規模のモンタペルティ現象を実現することができたのである。

 歴史の中でモンタペルティ現象を見えにくくしたもうーつの理由は、前の理由とも関連するが、おそらくその現象が発生したことが戦勝国に悟られた場合には、その時点からその進行が妨害されたことと、そうした結果が明らかに予想されるので敗戦国の指導者によってその現象が極力隠されたことである。私たちはそうした妨害の実例を、古代の西欧世界の覇者となり、近代ヨーロッパの土台となった古代ローマの歴史に見ることができる。ローマは共和制時代に地中海のかなたの大国カルタゴと死闘を繰り返 し、これを倒して地中海の覇権を奪うことができた。ポエニ戦争とよばれるこの戦争は周知のごとく三度にわたって戦われたが、実際にはカルタゴの英雄ハンニバルがイタリア半島に攻め込んだ後に約20年近く続いた第二次ポエニ戦争で勝敗が決していた。紀元前202年のザマの戦いで敗北した後、カルタゴ人は莫大な賠償金を課せられたが、必死に奮闘して予想外に短い期間に賠償金を全額支払い、そのためかえってローマ人の疑惑を招いたと伝えられている。おそらく第二次ポエニ戦争後のカルタゴでは、モンタペルティ現象が発生したものと思われるが、そのさらなる発展を恐れたローマは、カルタゴが元の大国に戻ることがないように、カルタゴ市街を徹底的に破壊して塩を撒きその存在に止めを刺した

① カルタゴから描いているのは、森本哲郎『ある通商国家の興亡―カルタゴの遺書』 東京 1989、特に189~206ページの「奇跡の経済復興」。

 ローマ側からは、塩野七生『ローマ人の物語Ⅱハンニバル戦記』 東京 1993、 「第九章カルタゴ滅亡」など。



 このようにモンタペルティ現象が発生した場合、戦勝国がそのことに気付くと改めて攻撃し、極端な場合には地上から抹殺してしまう恐れがあった。勿論敗戦国の指導者がこのことを予測しないはずはなく、可能な限りそうした事実を隠そうとしたに違いない。カルタゴにおいても、指導者層の間では当然こうした懸念が生じたはずだが、うまく隠しおおすことができなかったために破滅したのである。あるいは両雄並び立たずという諺があるように、カルタゴは早晩破壊される運命にあったのかも知れない。いずれにしても前近代世界にあっては、モンタペルティ現象が発生した敗戦国の指導者と国民は、極力これを隠そうとしたはずである。指導者と国民が賢明であればあるほど、その国で発生していた経済的、文化的繁栄は隠されたに違いない。だから今日のようなメディアが存在していない時代には、たとえモンタペルティ現象が発生していても報道されることはなく、結果的に全く記録されずに終わった可能性は否定できない。とりわけ記録された資料だけで過去を再現しようとする近代的な歴史学では、そのような隠された現象を発見する可能性は小さい。むしろフィレンツェのように前近代にありながら、この現象が記録を通して再現できること自体全く例外的なケースなのである。したがって前近代においても、小規模なモンタペルティ現象が案外繰り返し発生していた可能性は否定できない。

 第二の問題点として強調しておきたいことは、敗戦一般とモンタペルティ現象が敗戦国のその後の時代に及ぼす影響の重大さである。第一章で記したとおり、私はモンタペルティ現象に関する仮説を提起した際、敗戦をフィレンツェ発展の重大な契機と見なしたことに対して、因果関係として明らかに矛盾しているのではないかという指摘を受けたことがある。しかし敗戦によって齎されるさまざまな改革がその国の将来に深い影響を及ぼし、そのことが発展の契機となり得ることは、矛盾しているどころか、十分合理的に考えられる事柄である。また実際勝利よりも敗北の方が、ある国に対して深刻な影響を及ぼす可能性が高いことは、いくつかの実例に当たれば容易に推察できる。たとえば日本の近現代史において、日清、日露の両戦争の勝利の影響と第二次世界大戦の敗北の影響とを比較して、後世に及ぼした影響がどちらがより深刻であったかを考察するだけでも、敗北の影響の重大さは十分想像できるはずである。さらに忘れてはならないことは、敗戦の影響が半永久的と呼べるほど長期に及ぶ可能性があるということである。極端な例を挙げると、ユダヤ人のように敗戦の結果国民全体が亡国の民となって世界をさまようことさえあり得るのであり、この一例からだけでも、敗戦の影響が勝利の影響とは比較にならないほど重大な結果を齎す可能性があることを認めなければならないであろう。私の考えでは、これまでの歴史学は敗戦の影響について客観的に把握する試みが乏し過ぎたように思われてならない。もちろん個々の敗戦については、これまでに膨大な研究が行われており、その帰結としての影響についても必ず言及されてきたことは否定できない。しかし私は個々の敗戦の過程とその影響に関する研究成果をさらに客観化し、一般化して論じる試みが不足していたのではないか、と考えるのである。私はそうした敗戦の影響の一つのモデルとしてモンタペルティ現象という仮説を提出し、その是非を問おうとしているのである。

②  ただしすでに見たとおり、敗戦が滅亡につながる前近代の戦争または現代においても前近代国家相手の戦争に関しては、こうした論理は成立ちにくい。



 すでに述べたように敗戦の影響は長期に及ぶのであるが、モンタペルティ現象の場合もその例外ではない。それどころか私は、この現象が回復不可能な亡国をもたらす致命的な敗戦(その場合は影響は永久に続く)ほどではなくとも、少なくとも国民に塗炭の苦しみを及ぼす苛酷な敗戦に全く劣らぬほど、長期にわたって影響を及ぼす可能性がある、と考えているのである。しかも長期にわたる占領や略奪や賠償などで貧困に苦しむ敗戦とは異なり、なまじ発展や繁栄を伴っているだけに、市民自体敗戦の影響だと自覚できないまま行動しているところに、この現象の影響の特異性があるものと思われる。

 私の見るところ少なくとも14世紀のフィレンツェ史には、この現象の影響と見なす以外に説明が不可能な大事件が二度起こっている。その一つは、1302年ダンテやペトラルカの父のペトラッコがフィレンツェから追放された白黒闘争であり、もう一つは1342年に共和制の伝統の強いフィレンツェ市民が、自らの発意でナポリ王の家来を招いて終身君主に祭り上げたと伝えられているアテネ公の独裁支配である。以下でそれらの事件を検討して、そこにモンタペルティ現象の影響が認められることを論証することによって、その影響がいかに長期に作用するかを示したい。

 まず白黒闘争についてであるが、この事件の経過は、ディーノ・コンパーニという同時代の大物政治家によって『(白黒)年代記』が記され、自ら経験したヴィッラーニもくわしい記録を残し、ダンテを初めとする多数の関係者に関しても、その欠席裁判の記録などの資料が残っていて、1302年という時代からは信じられないほどの文献資料に恵まれている。さらに19世紀にはイシドーロ・デル・ルンゴがそれらの文献を近代歴史学の手法で徹底的に洗い直し、大著『白派と黒派』としてまとめ上げ、ダンテの研究者によって再三再四吟味されているので、大きな変更の余地はあり得ない。当時のフィレンツェは、銀行家のチェルキ家を中心として大地主カヴァルカンティ家に代表される有力市民やダンテなどのグループが主流派として統治していたのであるが、その勢力下にあった小都市ピストイアで白派と黒派の紛争が発生し、仲裁のために両派の代表をフィレンツェに引き取ったことから、フィレンツェにもその紛争が伝染して、ダンテもその一員だった主流派が白派を、それに対抗して古いグェルフィ党の貴族コルソ・ドナーティや有力銀行家のバルディ家らの反対派が黒派を形成して、抗争が始まった。1300年に争いが激化したため、市政府はコルソやグイド・カヴァルカンティら両派の過激分子を追放したが、争いは収まらず、それを知った当時の教皇ボニファティウス八世が調停に乗り出そうとした。チェルキ家の当主ら白派のリーダーがその提案を拒否したため、教皇はこのころアンジュー家のシチリア奪回を応援しにナポリ王国に来ていたフランス王子シャルル・ド・ヴァロアの率いる500騎をフィレンツェに派遣した。するとこの軍隊に続いてコルソら黒派の亡命者がフィレンツェ市内に入城し、それに呼応して民衆の暴動が勃発、騒乱が6日間も続いたために白派政権は崩壊し、その主なメンバーはフィレンツェから亡命して、黒派が政権を奪取した

③ Dino Compagni, Cronica delle cose occrrenti ne’tempi suoi には, ムラトーリの R.I.S., Ⅸに収録されて以来いろいろな版がある。『白派と黒派』は, I. Del Lungo, Da Bonifacio Ⅷ ad ArrigoⅦ, Milano 1889 として刊行された, 後に増補改訂されて, ‘I Bianchi e Neri’と改題された。


④ 以上の経過はコンパーニの『年代記』の後半の要約である。前半ではジャーノ・デッラ・べッラがリーダーとなって、閥族を市政から排除することを決めた「正義の規定」の成立までとそのジャーノの追放の経緯を記している。



 この紛争は、経緯がかなり細部まで分かっているにもかかわらず、その歴史的意味の解釈に関しては定説がない点がユニークである。フィレンツェ史の権威オットカールやサルヴェーミニはその主要な研究テーマを13世紀に限定することで言及を避け、ダーヴィットゾーンはボニファティウスの特異な権力欲に主要な原因を求めている。比較的近年にこの紛争を論じたパレンティは、「(「正義の規定」によって)すでに市政から疎外されていたマニャーティ(閥族)同士の争いがフィレンツェ市内で新しい支配階級の大部分を巻き込むことに成功したという事実は注目すべき事柄だ」 とコメントしている。つまりパレンティは、その展開の意外さに驚いているわけである。さらにパレンティは、「たしかに私たちは、1280年から1295年までの年月を特色付けて来たフィレンツェの政治闘争に比較して、白派と黒派との激しい一連の復讐戦は実際【時代遅れの】紛争だということができる」 として、明らかに階級闘争史観に基づく大胆な切り捨てを行っている。結局パレンティにとって、閥族がフィレンツェ統治に参加することを禁止し、彼らの暴力に厳しい罰則を課した「正義の規定」をめぐる13世紀の紛争は階級闘争史観に符合する良い紛争であり、白黒闘争は閥族同士の抗争に過ぎないから時代遅れの悪い紛争だったということになるわけで、要するに白黒闘争はその意味を考察するに価しない時代錯誤的な事件だとして解釈を放棄していると見なすことができるであろう。しかし実際には必ずしも厳密に遵守されたとは思えない「正義の規定」をめぐる紛争と比較して、白黒闘争がそれほど軽視できるものとは思えない。数年後に首謀者のコルソ・ドナーティが失脚するなどという修正が加わるが、結局この紛争で権力を握った黒派の子孫がその後のフィレンツェ共和国の指導者であり続けており、この闘争の勝利者の中からデッラ・トーサ家、アルビッツィ家、メディチ家などといった将来のトップ・リーダーが現れるのである。少なくとも指導者層の交代という点で、この闘争は測り知れないほど深い影響を残した

⑤  Davidsohn, op.cit., Vol.Ⅳ, Ⅲ, Cap.I, Bonifacio Ⅷ e Firenze. 

 ボニファティウスの身長は1603年に彼の墓が開かれた時に測定され、192センチだったという。


⑥ 前章注㊴  S. Raveggl e altri, op.cit.に収められた、 P.Parenti, I MAGNATI IL LORO POTERE, IL LORO CONFLITTO,  p.316.


Ibid.,  p.320.


1308年にコルソ・ドナーティを失脚させた市民たちのリーダーはロッソ・デッラ・トーサであり、14世紀末から1402年までフィレンツェがジャンガレアッツォ・ヴィスコンティと戦った時のリーダーはマーソ・デッリ・アルビッツィであり、そのアルビッツィ家に代わってフィレンツェを支配し、後にその一族の末裔がトスカーナ大公となったのはメディチ家であった。



 2006年に刊行されたナジェミーの『フィレンツェ史 1200~1575年』では、この紛争はパレンティほど単純には切り捨てられてはいないが、その論調はやはり疑問符に満ちている。ナジェミーもパレンティ同様白黒両派を構成する主要な階級を吟味してどちらの派にも貴族、上層市民、庶民が一式揃って混じっていることを確認した後に、「しかし、主にバルディ家やスピーニ家などといった銀行家の家族が、なぜ商人でもない(つまり貴族という意味)ドナーティ家に派の主導権を握らせたのかを想像することは困難である」 という疑問の念を表明するこの一文によって、ナジェミーがパレンティと同様一種の階級闘争としてこの紛争を見ようと試み、結局それが無理であることを認めていることが分かる。しかしギルド(アルテ)の歴史や実情にくわしいナジェミーは、白派の指導者がシャルル軍の到来を拒否するために、当時の主要な21のギルドではなく、日ごろ市政には加われなかったものも含めて、何と72ものギルドの代表の意見を求めたという興味深い事実を伝えている。その際、はっきりと反対を表明したパン屋のギルドだけが唯一の例外で、それ以外のすべてのギルドの代表はシャルルの軍隊を受け入れることに賛成した、と記している。その結果フィレンツェは黒派を援護するシャルルの部隊を受け入れざるを得なくなり、白派の失脚が決まったということになる。要するに白黒闘争などと呼ぶと分かりにくいが、外国の軍隊を利用したクーデターだったと考えると、決して理解できない事件ではない。ナジェミーの記述はこの点をはっきりさせた点で評価し得る。

⑨  J. M. Najemy,  op.cit.,  p.90.


⑩  Ibid., pp.91-2.


 

 しかし先に引用した文章でも明らかな通り、一応市民の支持を得て市政を担当していたはずの白派の政権がなぜかくも簡単にクーデターで倒れたのかとか、あるいは72のギルドの内71までが、白派の期待していた通りシャルル・ド・ヴァロアの部隊を拒否しようと提案しなかったのかといった疑問は、パレンティらが選んだ階級闘争という視点からでは全く理解できないのである。ところがそこに当時のフィレンツェ市民が強くその恩恵に浴していたモンタペルティ現象の存在を補助線に加えるならば、この時のフィレンツェ市民の行動は全然意外なものではなくなる。モンタペルティで完敗を喫したフィレンツェは、教皇庁が企画してフランスの王子シャルル・ダンジューが実行したイタリア十字軍の成功のおかげでギベッリーニ党の支配から解放され、シャルルが王として君臨するナポリ王国と教皇庁とシャルルの母国フランスとを結ぶ枢軸の一員として受け入れられ、両国とその周辺に進出することで経済的大発展を体験しつつあったのである。したがって教皇がナポリ王国から派遣したフランス王子の率いる軍隊となると、まさに恩人たちのグループの集合体のような意味を帯びていたのである。だからフィレンツェ共和国には、この訪問を断ることなど到底無理だった。唯一の例外であるパン屋をも含めて、すべてのギルド要人たちはフィレンツェと教皇庁、ナポリ王国、フランス王国との関係の重要さを理解していたはずであり、その関係を傷付ける可能性がある行為を避けようとしたのである。

 6日間続いた暴動は勿論群集心理の現れに他ならないが、白派が従来のグェルフィ党の協調路線から外れて、安易に単純過ぎる自主独立路線を進んでいることに対する危惧の表明という側面があることは否定てきないはずである。だからこの闘争は、従来の外交関係を維持してモンタペルティ現象を貪欲に利用し続けるか、それとも白派の方針に従って教皇の干渉を排除し、正義を完遂するか、という選択に関する一種の路線闘争であったと見ることができる。従来の路線によって最も恩恵を受けて来た金融業者が、グェルフィ党の首領である貴族を一時的にリーダーに担いだことが、どうしてそれほど意外なのか、ナジェミーの疑問自体がむしろ私などには理解し難い。自分たちとその子孫の未来が懸かっている以上、市民の多くが熱狂的に参加したとしても少しも意外ではない。モンタペルティ現象を体験したフィレンツェ市民にとって、実情はともかく、少なくともこのころまで局外者には協調関係を維持するかに見えたフランス王―ナポリ王―教皇庁という三者が共同して派遣した軍隊とあれば、断りようがなかったとしても決して意外ではない。皮肉なことに、なんとそれから二年足らずの内にアナーニの屈辱事件が発生してボニファティウスとフランス王フィリップ美王との不和が天下に知れ渡り、教皇は憤死するのだが、まだこの時期にはフィリップの弟シャルルはボニファティウスの指示に忠実に従って行動していたのである。モンタペルティ現象の恩恵にどっぷり浸かっていたフィレンツェ市民にとって、これら三つの権力の集合体に逆らうことがいかに困難だったかを、71のギルドのリーダーの解答が示している。この紛争をパレンティは時代遅れの闘争と軽視し、ナジェミーも解釈に苦しんでいるが、それはそれ以前のフィレンツェの歴史の経過を十分考慮していないために他ならない。モンタペルティの敗戦の影響を正しく評価しておれば、極めて自然にこのクーデターの意味が理解できるはずである。たしかに前近代から近代への歴史を進めた要素として階級闘争は重要であったが、歴史を動かしているのは階級闘争だけではなく、民族性や宗教は勿論個々の事件や偶然も影響し得るのであり、とりわけ勝利や敗戦の影響は国民全体の生活を直撃するため、決して小さくないのである。

⑪  ナジェミーによると、シャルル・ド・ヴァロアの軍隊と黒派がフィレンツェに入城したのが1301年11月の初頭で、早くも11月8日には黒派のプリオーレたちか選ばれている。フィリップ四世の宰相ギョーム・ド・ノガレとコロンナ一族がアナーニの屈辱事件を起こしたのは1303年9月8日のことなので、わずか二年で状況は激変した。さらにフィリップの策謀で教皇庁自体が1309年にローマからアヴィニョンに移転した。



 14世紀のフィレンツェで、モンタペルティ現象の影響が認められるもう一つの事件は、ヴィッラーニ自身が「大変特異なので、それに立ち会った作者の私にも、後世の人々が果して真実と信じてくれるかどうか疑わしい」 と書いているほど奇妙なアテネ公を独裁者に選んだ政変である。この事件には二つの伏線があり、その一つはスカーラ家から25万フィオリーノで支配権を買い取ったはずのルッカを、ピサによって武力で奪いとられたことへの民衆の怒りであり、もう一つは当時百年戦争の影響で三大銀行が倒産に直面するなど、フィレンツェ経済が危機に瀕していたという事実であった。こうした危機的状況に対処するために、フィレンツェ市民が選んだ方針は、ナポリ王の家来でカストルッチョ戦争の時に一時カルロ王子の代理をつとめたアテネ公グァルティエーレ・ディ・ブリエンヌを招聘することで、当時の政府は彼をルッカ奪回の戦争の指揮官として招いたつもりだったのに、アテネ公自身が領主に就任することを宣言し、これに民衆が呼応したため、政府は交渉を通じて一年間だけ支配権を任せることを許した。だが市民総会が開かれると民衆の間から彼を終身領主に推薦する声が止まず、アテネ公はその声におされて終身領主として君臨することになる。しかし彼は勝手にピサと協定を結んでトスカーナの盟主におさまり、フィレンツェのルッカ奪回は実現せず、さらにアテネ公とその家来の横暴ぶりが市民を憤激させ、一年足らずで暴動が発生して、アテネ公は君主の座を追われてしまったというのがその経緯である。

⑫  ヴィッラーニ 『年代記』 第12巻第1章の冒頭の言葉。



 この事件に関しては、短期間で終わっている上に後代への影響も乏しいので、19世紀のパオーリの研究 以後は論文らしい論文は書かれていないようである。ナジェミーはその『フローレンス史』の「5  14世紀 力の対話」の二つ目の節「1340年代の危機と三度目の人民的政府」の中でこの事件を取り上げているが、ヴィッラーニを驚ろかせた終身領主就任の経緯については全く触れていない。ただ英仏間の戦争のためにバルディ銀行を初めとする多くの銀行が危機に瀕していたことと、それにもかかわらず上述の25万フィオリーノに加えてさらに40万もの強制国債を課されて来たことなどを記した後、エリートたちは「特権的な外国人の手中に大幅な権力を持たせることを選び」、「彼らの会社を救うために必要とされる必然的に不人気となる政策を実行させることを望んで」、アテネ公ブリエンヌを招いた、と記している。だがアテネ公には彼独自の思惑があって、エリートたちの望む政策を実行しなかったために地位を追われたのだと説明している。ナジェミーはアテネ公がエリートの意に反して、小ギルドや賃金労働者に様々な配慮を示し、フィレンツェの守護聖人の祭日に労働者の行進を許した事実を指摘して、ヴィッラーニやマキアヴェッリよりもアテネ公にずっと好意的な評価を下している点が興味深い

⑬  C.Paoli, Della signoria di Gualtieri duca d' Atene in Firenze, in ‘Giornale Storico degli Archivi Toscani’ , Vol. VI,  Firenze 1862.


⑭  二つの引用はいずれも、 J. M. Najemy, op.cit., p.135.


⑮  Ibid., pp.136-7.  この記述から見ても、ナジェミーは明らかにすでにマキアヴェッリの『フィレンツェ史』等でこの事件を知り尽くしている人を相手にこの部分を書いていることが分かるが、この事件を銀行家の陰謀として単純化することが妥当かどうかについては疑問を抱かざるを得ない。第一アテネ公を独裁者に祭り上げた銀行家が彼に何を求めていたかは全くさだかではない。そうした具体的な要望も何一つ明らかに示されていない。



 ナジェミーの記述に対する私の最大の疑問点は、銀行家たちがブリエンヌをフィレンツェの独裁者として招いた、と単純に断定していることである。ただ倒産の危機が迫っていたという理由だけで彼らがアテネ公を独裁者に担いだと断定するのはあまりにも短絡的である。第一いかに銀行家の影響力が大きいからと言って、彼らが主に市外で活動していることを考慮すると、市民総会で下層民たちを激高させてアテネ公を終身領主に祭り上げさせるだけの影響力があったとは到底考えられない。それに銀行家たちが独裁者に何を求めていたかも、具体的なことは全く明らかではない。単なる免税を求めたのか、それとも倒産を免れるために、共和国の金庫から彼らの銀行に資金を注入させようとしたのであろうか。いずれの場合にせよ当然そういう動きがあれば記録されるはずだが、アテネ公はやたらと私腹を肥やしたという記録しか残っておらず、銀行家たちと何らかの具体的な交渉があったとは記録されていない。そして一年足らずでアテネ公打倒に立ち上がった仲間にバルディ家やフレスコバルディ家等の有力銀行家が真っ先に加わっていたのである。免税であれ資金の注入であれ、何らかの魂胆があれば、少なくとも打倒の動きに真っ先に加わることはないであろう。そうした目的のためには、相手が貪欲に金を蓄えていた方が取引しやすいからである。それに資料から見るかぎり、下層民たちは銀行家に扇動されたためではなく、あくまで自らの意思で激高していたとしか考えられない。だからこそヴィッラーニも極めて異例な出来事であると見なしたのである。アテネ公独裁の支援者に有力銀行家たちが加わっていたことは古来誰もが認めて来たことであるが、ナジェミーの記したように彼らの意思だけでこの事件が発生したとはとても考えられず、これはあくまで 市民全体を巻き込んだ事件だったことを忘れてはならない

⑯  N.マキアヴェッリの『フィレンツェ史』、第2巻第36節では、アテネ公打倒に立ち上がった三つのグループの内、大司教アーニョロ・アッチャイオーリの率いる第一のグループにバルディ、フレスコバルディ、スカーリらそうそうたる銀行家が加わっていたとされている。アッチャイオーリ家自体も大銀行家であった。


⑰  ナジェミーはこの事件をもっばら経済や階級の側面から見ていて、アテネ公が市民の人気取りに行った行為や残酷非道な振る舞いなどを完全に省略しているが、社会史的に極めて興味深い現象が生じていたのである。その記号論的な意味については拙著『敗戦が中世フィレンツェを変えた』第五章第四節参照。


 

 私はこの事件に関しても、モンタペルティ現象の影響を抜きにしては説明不可能だと考えるものである。すなわちこの現象の影響によって、フィレンツェでは危機が起こり次第ナポリ王国に依存する習慣が生じていた。とりわけ軍事的な危機が生じた場合には、ナポリ王国に依存してきたのである。この事件の場合も銀行の危機以上に大きな原因として、ルッカをめぐる軍事問題があった。25万フィオリーノもの大金をスカーラ家に払い込んだにもかかわらず、ヴィスコンティ家の軍事的支援を受けたピサによってルッカを掠め取られ、その後マラテスタ家の傭兵隊長などに金をしぼり取られるばかりで、ルッカを獲得することはできなかった。銀行の危機などとは無関係に、ルッカをめぐる市政府の不手際が民衆の怒りをかきたてて来たのである。そしてベネヴェント戦争後のフィレンツェは、こうした場合の切札としてナポリの王権に依存し続けてきた。古来民主的な共和制の伝統を誇ってきた共和国としては信じ難い事実だが、1266年のベネヴェント戦争以後、1328年のカストルッチョ・カストラカーニ戦争の終結までの63年間の内、1267~80年、 1313~21年、1325~28年と3分の1をはるかに越える通算約24年間にわたって、いずれもアンジュー王朝の君主たち、シャルル・ダンジュー王、ロベルト・ダンジュー王、カルロ皇太子に領主権を委ねてきたのである。だから当然この時もナポリ王国に依存しようとしたが、1278年生まれのロベルト王はすでに64歳と、当時としては高齢であり、1325年当時ですら皇太子を派遣していたほどだから、とても領主就任を依頼できず、その皇太子も1328年に死去して空位になっていたのだから、1325年当時カルロ皇太子の代理を務めていたアテネ公に白羽の矢が立ったのはむしろ当然な成り行きだったのである。ただし1328年以後10数年間はカルロが死去したためそうした試みが行われておらず、人々の記憶も薄らいでいた。おそらくそのためかえってこの手段への期待は高まっていて、そのことが民衆の熱狂を引き起こした可能性が認められる。いずれにせよ一時的とは言え、外国の君主に領主権を引き渡すという行為は極めて異常だと言わざるを得ないのだが、13世紀後半から14世紀初頭のフィレンツェではこうした行為が常習化していたのである。これはモンタペルティ現象を抜きにしては絶対に考えられない行為であり、このこと一つ取っても、この現象を無視してはフィレンツェ史を理解することは不可能であることが分かるはずである。アテネ公の事件は、状況が一変している中で旧来の手法に頼ろうとしたために、共和国自体が自ら進んで被害者になった一種の詐欺事件のような事例だと見なすことができるであろう。

⑱  1267年にシャルル・ダンジューに限定的に領主権(シニョリーア)を委ねたことは、同一君主の下にいる友邦として、ナポリ王国やプロヴァンスなどとの交流に有利に作用したはずで、テルリッツィの資料に見られる職人階級のナポリ進出などにもその影響が認められるのではないだろうか。明らかに君主制に対しても、シャルル・ダンジューに対しても好意を抱いていないダーヴィトゾーンは、いまいましい事実として、フィレンツェは当初シャルルを6年と4分の3自分たちの「シニョーレ(領主)」に任命して、彼が派遣するポデスタを受け入れたが、実際にはその2倍の13年間その地位にあったことを認めている。R. Davidsohn, op.cit., Vol. Ⅱ, P.Ⅰ, Cap. VⅡ, p.843.



 現代日本におけるこれに対応する怪事件となると、1960年と70年前後の日米安保条約をめぐって異常な盛り上がりを見せた闘争と、1976年に日本政界における最大の実力者田中角栄を逮捕に追い込んだロッキード事件が考えられる。いずれも周知の事件なので深入りする必要はないと思われるが、共に戦後の発展に関して最大の恩恵を受けたアメリカが関係し、日本の防衛問題とも関連していることが否定できないであろう。たとえば安保闘争の異常な盛り上がりは、それが一見日本の将来の路線を左右する闘争のように見えたためだが、日本国民が現実に軍事的に依存しているアメリ力との同盟に反対する、いわばフィレンツェで言えば白派の立場の闘争だったために、シャルル・ド・ヴァロアに当たる支援者は現れず、派手に騒いだ割には影響は乏しく、闘士たちの多くは企業戦士として日本経済の発展に協力することになった。その点で岸首相のアメリカの保護の下での発展を望む「声なき声」に支持されているという判断は正しかったのである。ともかくフィレンツェでモンタペルティ現象に関係が深いナポリ王国がらみの怪事件が発生しているように、日本のモンタペルティ現象に最も関係の深いアメリカがらみの怪事件やクーデターが発生する可能性が最も高いことは、当然と言えば当然なのである。

⑲  庶民にとっては、ロシアと中国につくか、アメリカにつくか、という二者択一で、学生の多くはアメリカにつくことに抵抗したが、まともな社会人は、マスコミやマルクス主義者の社会主義体制に好意的な宣伝に引っ掛かることはなかった。



 この事件とそれを引き起こす基になったナポリ王国への依存は、 この現象がもたらす最も深刻な影響を私たちに示唆してくれる。それはこの現象が軍事大国からの転換の結果として発生するために、それを体験した国民の軍事離れを引き起こし、国防力を著しく弱めるとともに、可能な限り外国の軍事力に依存しようとする習性を生み出すことであり、敗戦後に国民の間で強力な厭戦気分が高まり、その気分を制度化して定着させようとする試みが生じることである。フィレンツェで発生したそうした制度化の試みの一つが、このアンジュー王朝への依存であった。モンタペルティ敗戦によって、当時のヨーロッパ世界における最強の軍隊だと信じていたドイツ騎士団を、ベネヴェントとタリアコッツォで二度も破ったフランス騎士団を主体とするナポリ王国軍は、フィレンツェ共和国にとって十分頼り甲斐のある軍隊に見えたのである。だからかつてトスカーナ地方であれほど猛威をふるったプリーモ・ポポロの軍隊は、カンパルディーノの戦いの際に、一応類似の組織が再建されはしたものの、長く持続することはなかった。その後も時たま再編されることはあったようだが、もはやポポロにはかつての戦闘意欲は消えていた。たとえば1290年代には、勝ち戦だったにもかかわらず、ポポロが主導してピサ攻略を休戦にもちこんだとされている

⑳  かつてプリーモ・ポポロ時代にはフィレンツェの支配下にあった都市アレッツォを中心とするギベッリーニ党勢力相手のこの戦いは、シチリア晩祷事件とシャルル・ダンジュー一世の死に乗じて巻き返しをはかる戦意盛んなギベッリーニ党の中心アレッツォの度重なる挑発に応えて行われた戦争だが、フィレンツェはシャルル・ダンジュー二世にフランス軍の援軍を求め、ナルボンヌ伯エムリと老練な補佐官ギョーム・ベルナールを借り受けて、「ナルボーナ・カヴァリエーレ」を鬨の声として戦ったとされている。かなり兵力に差があり、フィレンツェ軍が有利だったにもかかわらず、アレッツォ軍の攻勢が続き、コルソ・ドナーティが軍規に反して行った奇襲のおかげで薄氷の勝利を得た。この時フィレンツェ側は1600(内600がフィレンツェ人)の騎士と10000の歩兵を動員したとされ、かつての市民軍が一時的に復活したかに見えたが、フランス騎士団に依存するその戦い方は大きく変化していた  


㉑  ヴィッラーニ 『年代記』 第8巻第2章。



 近現代の世界と中世イタリアとでは大きく事情はことなるが、第二次世界大戦後の日本でも、中世フィレンツェに起こったのと極めて似た事態が発生した。フィレンツェはグェルフィ党とポポロを救い出したナポリ王国に軍事的に依存したが、日本は軍事的には戦勝国アメリカにさらに徹底して依存し続けている。日本でも戦争直後の厭戦気分から始まって、占領軍の指導下で生まれた日本国憲法がその厭戦気分を制度化した。占領下にあったせいもあるが、国防に関して全く配慮しない憲法に対して、日本では激しい反対は生じなかった。その憲法に従った結果、日本は60年間対外戦争を行うことがなかった。日米安保条約に依存することで、世界最強と信じるアメリカの軍事力の庇護の下、外国からの大規模な侵略を受けることはなかった。しかし北方領土問題を初めとするロシアや韓国や中国との領土問題、いくつかの国による漁船の拿捕問題、北朝鮮による拉致問題等、国益を侵害されることは稀ではなく、たとえ侵害されても対処する方法が限られているため、結果的には放置したままであることも少なくなかった。フィレンツェはかつてプリーモ・ポポロ時代には自らの支配下にあったはずのアレッツォの挑戦を受けて、フランス人の指揮下でカンパルディーノの戦いに辛うじて勝利したが、日本はかつて植民地だった国々からさまざまな侮辱を受けても戦うことはなかった。だから日本はフィレンツェ以上に戦争離れしたと言える。

㉒ ジョン・ダワー(三浦・高杉・田代訳)『敗戦を抱きしめて(増補版)』 東京2004 などに、占領軍によって「日本国憲法」が用意され、日本人に提供されて、日本人がこれを採用した経緯が記されている。この著書はタイトルからして挑発的であり、当然見解の相違はあり得るが、憲法採用などの経緯は基本的に事実に近いものと思われる。



 モンタペルティ現象はフィレンツェでは、経済的、文化的大発展を齎し、日本でもいろいろな側面での発展を齎しつつある。しかし物事には必ず表裏があり、プラスの影響だけを齎すことはあり得ない。フィレンツェの場合は、マキアヴェッリが嘆いた軍事的な弱さや傭兵への依存という形で、その後市民を悩まし続けることになる。恐らく日本の場合でも、この現象の影響はそれと類似した弊害を次々と齎すことを覚悟しておかねばなるまい。

㉓ マキアヴェッリは、『フィレンツェ史』第一巻第39節を始め多くの箇所で、 フィレンツェの軍事的失態を指摘する。ただしそれは改善すべき点の指摘などといった建設的なものというよりも、失敗を嘲笑していると言った方が実態に近そうである。クェンティン・スキナー(塚田富治訳)『マキアヴェッリ―自由の哲学者』(東京 1991) 147ページ参照。またこうした不満から、『君主論』や『ローマ史論』や『戦術論』が生まれたことは明らかである。



モンタペルティ古戦場址記念碑


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An Essay on the Montaperti Phenomenon



Yoshiaki  Yoneyama



  In my book ‘The Defeat that Changed Medieval Florence’, I showed that the defeat of the Florentine army by Siena at Montaperti played an important part in the subsequent cultural and economical development of Florence, and that a similar phenomenon happened after the Second World War in Japan, Germany, and Italy; I called this the ‛Montaperti Phenomenon’.

    J.M.Najemy’s ‘A History of Florence 1250-1575’ (2006) also admitted that the flowering of both Florentine culture and its economy happened almost simultaneously in the late half of the 13th century, but did not recognize the importance of the defeat of Montaperti. In this essay, therefore, I examine points of similarity between medieval Florence and postwar Japan not only to explain the phenomenon more clearly, but also to demonstrate the insufficiency of Najemy’s account of Medieval Florence.

   Medieval Florence and modern Japan had three principal points in common: first, they were militant and aggressive states which had fought for years prior to their decisive defeat; second, they each enjoyed an advantageous position in the international arena following their defeat; and third, the struggle to overcome postwar burdens tempered their people, leading them to their final success.

   The curious events of the 14th century in Florence, such as the conflict between White and Black and the reign of the Duke of Athens, cannot be understood without a comprehension of the Montaperti Phenomenon. However, the phenomenon has gone largely unnoticed until now because in the pre-modern world victors could treat defeated nations arbitrarily, leaving them no chance to recover. As a result, the aforementioned three points of similarity rarely came together until the advent of the modern world, and the influence of the defeat lingered for a long time.


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