モンタペルティ現象2-4


モンタペルティ現象は

  イタリア・ルネサンスに

     どのように寄与したか

米 山 喜 晟



第四章  第二型のイタリア・ルネサンスに与えたモンタペルティ現象の影響


 第二型のイタリア・ルネサンスは、ルネサンス様式が発生した1400年前後から始まった現象なので、1260年のモンタペルティ敗戦から約1世紀半もの年月が経過しており、いくら同じフィレンツェで発生した現象だとしても、それほど遠い未来に影響していたはずがない、と考える人がいるかも知れない。しかし国民全体に等しく衝撃を与える敗戦の影響は、その体験者とその子孫自身が意識しているよりもはるかに大きく、その分当人たちが自覚しているよりもずっと長期にわたって存続する可能性は否定できないのである。そして私は、約10年もの間、毎年のように周辺地域で戦争を繰り返してほとんど連勝していた結果、共和制ローマの再現さえも夢見たプリーモ・ポポロ政権の軍隊を潰滅させ、政権自体をも崩壊させて大量の亡命者を発生させたモンタペルティの敗戦こそ、まさにそうした後世に深い影響を及ぼした重大な敗戦であったと考えているのである。

 前章で見たとおり、この敗戦がもたらした最大の影響は、それまで戦争の推進者であった平民階級に重大な影響を与え、その一人一人に深い厭戦感情を生み出したことであった。この時のシエナ領内への遠征を推進したのは平民階級の政権の指導者たちで、反対するグェルフィ党の貴族の発言を禁じてまで出動したというのは有名なエピソード だが、天罰覿面、ヴィッラーニによると裏切りを察知した騎士階級は逸速く逃亡したため、名のある騎士は死者と捕虜を併せても36人しかおらず、彼の記録で2500人以上、実際にはおそらくそれをはるかに上回る数千人の死者と、さらに1400人以上の捕虜を出したのは、この戦争を主導した平民階級だったと伝えられている

① ヴィッラーニ『年代記』、第6巻、第77章

② 同、第78章。


 さらにこの敗戦でプリーモ・ポポロの指導者たちとグェルフィ党の騎士たちが亡命した後、およそ6年間フィレンツェを支配したギベッリーニ党も、軍事力を自分たちの党派で独占するため、平民の軍隊の武装解除に力を入れた。それでも彼らの間に平民の軍隊への恐怖心が根強く残っていたことは、フィレンツェのポデスタだったグイド・ノヴェッロが、トスカーナ全域から招いた多数のギベッリーニ党の騎士団を率いながら、市民の蜂起の気配に脅えて早々と市外に退去し、翌日それほど恐れる必要がなかったことに気付いて再度入城しようとしたが、すでに市民たちが門を固めていたため締め出されてしまったという、ギベッリーニ党軍のフィレンツェ無血退去の経緯からも想像できる

③ 同、第7巻 、第14章。


 しかし敗戦とそれに続くギベッリーニ党の支配の間に、平民階級の往年の闘志がすでに薄れていたことは、グェルフィ党とプリーモ・ポポロの指導者がフィレンツェに帰国した後も、シャルル・ダンジューの家来ジャン・ブリトーがフランスとトスカーナの騎士団を組織してコッレ・ディ・ヴァル・デルサの戦いに赴いた1269年 6月まで、モンタペルティ戦争の勝者であり、大半が平民階級である身代金が払えない捕虜を収容し続けているシエナに対してフィレンツェが自発的に戦おうとしなかったこと や、その後長い間敗戦以前の勢力圏を回復できなかったことからも明らかである。

C.Bastioni, La battaglia di Colle, Colle di Val d'EIsa 1970.


 このようにモンタペルティの敗戦は、フィレンツェ共和国の平民階級の戦闘意欲を衰弱させ、フィレンツェ自体の軍事離れを推進したのであり、それ以後と以前とでは、少なくとも平民階級に関する限り、人が変わったようにかつての好戦性を失った、と見なしても基本的には誤っていないはずである。そしてその延長上には、戦争はもっぱら傭兵に依存し、賃金を払って問題を解決しようとする、サッケッティやマキアヴェッリが嘆いたフィレンツェ共和国が見えてくるのである。人柄ということばがあるように、国柄ということばがあるならば、モンタペルティの敗戦はフィレンツェの国柄を変えたのであり、そうした大きな変化が生じている以上、この敗戦の影響は第二型のイタリア・ルネサンスの出現にも関与していたのである。

 ただし問題は現代日本の場合とは異なり、フィレンツェには「日本国憲法」のようにそうした変化を証言している文書は存在せず、またそうしたあり方を世界随一の軍事力によって担保してくれるアメリカが存在しなかったことである。すでに見たとおり、グェルフィ党支配の時代から、セコンド・ポポロの成立後まで、フィレンツェは軍事的な面でこっけいなまでにアンジュー家のシャルル・ダンジューとその子孫に依存し続けていて、明らかにそこには現代日本 のアメリカ依存に似た現象が認められる。しかしアンジュー家はフランス王家の一分家に過ぎず、その割には軍事的、外交的に有力だったけれども、実力以上に背伸びを続けて東ローマ帝国にまで覇権を及ぼそうとした無理がたたり、早くも1282年3月30日、シチリア晩祷事件によってその拡大意欲は致命的な打撃を受け、イタリア全土に対する影響力も一気に低下して、各地のギベッリーニ党の勢力が息を吹き返すこととなったその結果としてフィレンツェはモンタペルティ敗戦のトラウマを抱えたまま、依存するどころか、逆にナポリ王国を支援せねばならなくなり、アメリカの軍事力に依存できた現代の日本よりもはるかに自主的かつ現実的に、外交と軍事に対処しなければならなかった。そのためモンタペルティ敗戦の影響である軍事離れは現代日本のように露骨には現れず、ヴィッラーニやダンテがあれほどはっきりとその変化を証言しているにもかかわらず、近現代の歴史学においてその変化がほとんど無視される余地を残したのである。しかし逆にフィレンツェにおける軍事離れがそういう隠微な形で進行したために、厭戦気分がフィレンツェ人の心中に、 風土病のように根強く残ったという一面も否定できない。

⑤ ヴィッラーニ『年代記』、第7巻 、第64章 、および第68章。

 

 すでに見たとおり、ヴィッラーニはモンタペルティ敗戦以前と以後とを対照的に取り上げてその変化を証言しており、サッケッティやマキアヴェッリはモンタペルティ敗戦には全く関連させていないが、フィレンツェ人の軍事的弱体さと傭兵への依存を事ある毎に問題視して嘆いている。しかし「12世紀から15世紀にかけてのフィレンツェの軍隊」 の著者で、イタリア傭兵史の権威であるダニエル・ウェーリーはそうしたフィレンツェの著者たちに共通した見方に対して批判的である。彼はモンタペルティ戦争の教訓として、フィレンツェ市民が野戦において職業的(プロフェッショナル)な戦力に立ち向かうことはできないことを学んだことを認めていて、この点では私が述べていることと一致するようである。しかしウェーリーはその一方で、すでにフィレンツェではモンタペルティ戦争以前から必要に応じて備兵も使用されていた事実を指摘し、セコンド・ポポロ体制下のフィレンツェ人が特に傭兵に頼るようになったり、戦争を避けるようになったわけではないこと、シャルル・ダンジューの指示の下、1280年代にトスカーナで組織されたグェルフィ党の同盟軍タッリアの1500騎中500騎はフィレンツェの騎士で、その主役を担ったこと、とりわけ重大なことはセコンド・ポポロ(第二次市民政権)の時代にフィレンツェの徴兵制度がプリーモ・ポポロ時代そのままの形で復活しており、必要に応じて騎士も平民も徴募され続けたこと、カンパルディーノの戦いやピサ戦争などフィレンツェ共和国が80年代も90年代も戦争し続けていることなどから、セコンド・ポポロ政権下のフィレンツェ人が、ヴィッラーニ、サッケッティ、マキアヴェッリ等が嘆いているように軍事的に堕落していたわけではないことなどを指摘している。

D.Waley, The army of the Florentine Republic from the twelfth to the four-teenth century, in “Florentine Studies”, (op.cit.), pp.70-108.



 こうした通説の批判は、ブルクハルトやデーヴィスにも共通した、フィレンツェというコムーネが基本的に共和制の下で順調に発展したとして、その連続性を重視する見方の一つだと言えるであろう。軍事史にくわしいウェーリーがその論文の中で記している傭兵制度やフィレンツェの軍事に関する記述は優れた示唆に富み、私はひたすら敬意を表さざるを得ないのだが、そこから引き出された、セコンド・ポポロ政権下におけるフィレンツェ人の軍事に対する態度に特別嘆くに値するものを認めようとしない結論に関しては、やはり疑間の余地が大いにあることを表明せざるを得ないのである。そして彼が挙げている80年代、90年代の戦争を具体的に検討すると、敗戦前のプリーモ・ポポロ時代と問題のセコンド・ポポロの時代とでは、戦争の頻度、動機、戦い方、そして平民階級の関与の仕方などには顕著な変化が見られる、と言わざるを得ない。たとえば、彼が挙げている外国の王の指示よって編成され旗印の下で戦うタッリア(同盟軍)への参加自体、プリーモ・ポポロ時代のフィレンツェ共和国では、想像だにできなかったことである。

 あるいはウェーリーが言うとおり、セコンド・ポポロ時代のフィレンツェ人の戦争に対する態度は一概に嘆くにあたらないものかも知れないが、とにかくプリーモ・ポポロ時代と異なり、この時期のフィレンツェは戦うことに極めて慎重になっていることは明らかである。その代表的な例が80年代末のカンパルディーノ戦争であり、敗戦以前の徴兵制度を復活させて戦ったとはいうものの、相手はプリーモ・ポポロ時代に自分の勢力圏下に属していたアレッツォであり、しかも相手がシチリア晩祷事件で生気を取り戻したギベッリーニ党勢力の一翼に加わって軍備を増強し、フィレンツェ領内に侵入して挑発を行った後に、たまたまフィレンツェを通過したアンジュー家のシャルル二世から指揮官と援軍を借り受けてようやく開戦に至ったという経緯は、プリーモ・ポポロ時代には考えられなかった慎重さである。しかもフランス人指揮官の出身地ナルボンヌに基づいて「ナルボーナ・カヴァリエーレ」を鬨の声に用いた合戦では、はるかに少数の相手と戦って大いに苦戦していて、コルソ・ドナーティが軍規に反して行った奇襲によって辛うじて勝てたと伝えられている。 いずれにしてもすでに戦争の動機は、かつてのフィレンツェ共和国の国威発揚と勢力拡大という積極的なものから、ギベッリーニ党勢力の攻勢への対処という消極的で受け身なものへと、明 らかに変化している。

⑦ ヴィッラーニ、『年代記』、第7巻 、第131章。


 さらに久し振りのその勝利に気を良くしたグェルフィ党は、90年代に入るとトスカーナのギベッリーニ党の最も伝統的な牙城であるピサの打倒を計画し、ピサの宿敵ジェノヴァおよびそのライバル、ルッカと同盟して三方から攻撃を開始するが、グェルフィ党の貴族たちが自ら推進した戦いに勝利することで権力を取り戻すことを恐れた平民階級の政権は、順調に勝ち戦を進めていたにもかかわらず、ピサと和平を結ぶことを選び、ピサ攻略計画は挫折する。平民階級の政権にとっては、祖国の勝利よりもその結果生じるグェルフィ党貴族の復権や横暴を阻止することの方が重要になっていて、そのためには同盟国との約束を完全に履行しようとはしなかったのだ。これでもフィレンツェの軍事的姿勢が変化していなかった、と断言できるのであろうか。要するにセコンド・ポポロの時代に入ると、プリーモ・ポポロのころとは全く異なり、平民階級の戦意が衰えたために、フィレンツェが攻勢に出ることは極めて困難になっていて、敵が攻めこんで来たことに対処するという形を取らないと、まともに戦えないという状況が生じていたのである。

⑧ 同、第8巻、第2章。


 ウェーリーも絶賛している 皇帝ハインリッヒ七世との戦争は、まさにそのように守りに徹した典型的なケースで、ドイツの騎士団を率いた皇帝の軍隊相手に戦闘によってフィレンツェが勝利したわけではなく、相手の戦力がフィレンツェを包囲攻撃して占領するには小さ過ぎるという状況を冷静に判断して篭城を続け、相手を撤退させたというだけのことだが、結果的には相手の軍隊を迷走させ、最終的には翌年の皇帝の病死をもたらしたのであった。たしかにこの時のフィレンツェの戦いぶりは見事であり、カタルーニャ人の傭兵隊などと協力しながら、市民自らが戦ったことは事実である。しかしたとえいかに皇帝軍という名分があるとはいえ、それほど大きくない外国の軍隊が我が物顔に領内に攻め込んで来たとしたら、おらくどんな国の国民でも戦ったはずである。その数年後に戦われた勢力圏をめぐるモンテカティーニの戦いでは、備兵に大きく依存した戦い方をしながら、傭兵隊長の指揮が機能しなかったために、フィレンツェは惨敗を喫したが、市民はほとんど変わらぬ日常生活を送っていたことが記録されていて、このあたりからフィレンツェの傭兵依存のシステムが確立されつつあったことが推察され、終始押され気味だったが相手の死で敗北を免れたカストルッチョ・カストラカーニとの一連の戦いを経た後、1320年代後半にようやく傭兵制のシステムが財政的に完成されたものと見なされている

Waley, op.cit., pp.101-3.

R.Davidsohn, Storia di Firenze, Cap.Ⅳ, pp.985 sgg.


 このように軍事的には防衛中心の消極的な国家へと変化していたにもかかわらず、あるいはむしろかえってそのことが好影響して、フィレンツェはその経済力と外交によって着実に勢力圏を拡大、友好関係すなわち被保護関係にある中小コムーネに、そのお目付け役の役人たちを送り込むことに成功している。たとえばサッケッティは14世紀の末にトスカーナの各地を転々として、カステッラーノ、ポデスタ、ヴィカーリオ等の役職についている が、彼のノヴェッラにも記されているとおり、軍事的にあまり強力とは言えないフィレンツェを背景としての外地での役人勤めは、生命の危険さえも伴う不安なものだったようである。おそらく彼は、外交官だったマキアヴェッリと共にフィレンツェの軍事的弱体さを文字どおり体感させられた生き証人であり、彼らのフィレンツェ共和国の軍事に対する批判には、無視し得ない体験の裏付けがあるように思われる。

F. Saccheti, IL TRECENTNOVELLE, Roma 1996, A cura di Valerio Marucci, pp. XXXVⅢ‐XL、NOTA BIOGRAFICA.

 

 マーヴィン・B・ベッカーの「初期ルネサンスにおけるフィレンツェの領域国家と市民的人文主義」 は、まさにサッケッティが活躍した1370年代以降の八聖人戦争からチョンピの反乱を経てシャンガレアッツォ戦争にいたる時期の財政状態を克明に追及していて、ウェーリーの論文同様目から鱗が落ちるような記述が多い。とりわけその感が強いのは、傭兵隊長への支払いに追われて四苦八苦していたはずのフィレンツェ共和国の財政が、巨額の関税や、利子の支払いによって信用の高い強制国債や、領域部や衛星都市から取り立てる税などによって、私たちがサッケッティやマキアヴェッリを通して得ている印象よりもずっと健全で安定していたことであり、またその堅実な財政が、巧妙に運用されるモンテ(積み立て共済)などを通して豊かな市民生活を支えていたことである。 ベッカーの論文も、これまで見た論文と同様、フィレンツェ市民の嘆きとはうらはらに、フィレンェ共和国の順調な発展ぶりを証言している。ヴィッラーニ、サッケッティ、マキアヴェッリらの共和国の軍事面の頼りなさへの嘆きと、デーヴィス、ウェーリー、ベッカーら現代の研究者が把握している、さまざまな混乱にもかかわらず健全に発展し続ける共和国の実態とでは、ほとんど対照的な印象が禁じ得ないが、どちらが真実だったのだろうか。おそらくそれは実際に生きることと、後世からそれを見ることとの違いであろう。実際ルネサンス期のイタリアであれだけの地位を占め続けたフィレンツェは、後世から客観的に評価すると、決して軍事的に弱体な堕落した国家ではあり得ないだろう。しかし生きていた当人たちは、傭兵依存に傾斜していく頼りない軍事力をバックに、治安の乱れた僻地や外国で活動しなければならなかったのであり、一度災難に会えば一巻の終わりだったのだから、後世の学者が把握したものとは全く異なった世界を生きていると感じたのも事実だったのである。そして市民たちの体験に基づく証言自体が、モンタペルティ敗戦の影響を証言しているのだ。

M.B.Becker, The Florentine territorial state and civic humanism in the early Rennaissance, in “Florentine Studes”, (op.cit.), pp.109-139.

Ibid., p.129, によると、さすがのフィレンツェの財政も15世紀末には悪化したとされるが、それまでは曲がりなりにも健全だったらしい。その代わり領域部や衛星都市からもきびしく税を取り立てたらしい。


 このようにモンタペルティの敗戦で国柄が変わってしまったことは、第二型ルネサンスの形成にいくつかの仕方で貢献したが、大体以下の4つにまとめることができるだろう。


1.  モンタペルティ敗戦が平民階級に甚大な被害を与えた結果、彼らの間で厭戦感情が強まり、徴兵制から傭兵制への移行を促進した。徴兵制によって戦っていたプリーモ・ポポロの時代とは異なり、備兵に依存するようになったフィレンツェ共和国は、戦争のために住民を拘束する必要が減少し、市内と領域部の人々の行動の自由度が高まった。


2.  その代わり戦う毎に莫大な資金が必要になり、自然と戦争には慎重にならざるを得なくなったため、フィレンツェ共和国は戦争に対して受け身にならざるを得なくなった。こうしてフィレンツェは軍事力よりも、外交と経済力にたよる平和国家として存続し、そのための人材として人文主義者を登用して学問の振興に貢献した。フィレンツェの弱体な軍事体制は、外国の標的になり続けて、特にジャンガレアッツォとフィリッポ・マリーア時代のヴィスコンティ家に悩まされている。ハンス・バロンのようにジャンガレアッツォとの戦争の試練が、第二型ルネサンス誕生の契機だと見なしている研究者も存在するが、こうしたことはモンタペルティ現象の影響による国柄の変化なしにはあり得なかった。


3.  前項の事情から、フィレンツェはなるべく戦争を避けようとして、全イタリア的にはほぼ一貫して平和維持の立場を取り続け、イタリア全土の勢力均衡政策の推進者となった。アンジュー家が健在だった時代にはアンジュー家と強固な同盟を結ぶことによって、一時的にではあるがパクス・アンジョイーナを構築し、15世紀にヴィスコンティ家が断絶した後、フィレンツェの外交を独占的に指導していた老コジモは、それまでヴェネツィアと深い関係があったにもかかわらず、勢力均衡政策の立場からフランチェスコ・スフォルツァのミラノ支配を逸速く支持して、25年間のイタリア半島の平和を保証するローディの和平を成立を支援し、その孫の大ロレンツォも生命の危険を冒してナポリ王の許に赴き、平和な体制を維持するよう説得している⑮。 とはいうもののこの時期にも、フィレンツェをも含めてイタリアでは紛争が絶えなかったが、1494年にフランスのシャルル八世がナポリめがけて攻め込むまで、勢力均衡政策が効を奏しておおむね平和が保たれていた。そしてこの40年間の平和が第二型ルネサンスの莫大な遺産を作り上げたといっても過言ではあるまい。したがってモンタペルティ敗戦で生じたフィレンツェの国柄の変化こそイタリア・ルネサンスを盛り立てた重要な要因の一つであったことは明白である。


4.  全イタリア的に考えると、イタリア屈指の富裕国フィレンツェが傭兵制を確立させたことは、他の国々にも同様の制度を普及させた。この制度は悪名高いが、イタリア全土における富の再配分という意味では、第二型ルネサンスの成果を残すことに貢献したことは否定できない。こうした点でもモンタペルティ現象はイタリアに無数に点在する文化遺産の形成に貢献し、今日までイタリアに影響を及ぼし続けているのである。


⑭  Najemy, op.cit., pp.290-291.

⑮  Ibid., pp.pp.359-361.




終 章


 まず第一章で、私はイタリア・ルネサンスと呼ばれている現象は、二つの型に分類できることを示した。すなわちすでに12世紀末から始まり、13世紀以降に顕著に現れたイタリア人の異常な活力の表現である第一型と、1400年ごろを境として明瞭になる、芸術におけるルネサンス様式や学問おける人文主義などで表現されている第二型とである。ヤーコプ・ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化 一試論』は、主に第一型を論じ、その活動にヨーロッパ近代化の先駆的なモデルを見出そうとしているが、かなり第二型にも言及している。ハンス・バロンの『初期イタリア・ルネサンスの危機』は第二型の形成について論じ、現代のアカデミズムにおいて第二型が主流である。

 第二章では二つの型とフィレンツェの関係について検討した。第一型の提唱者はブルクハルトなので、彼の著書に基づいて論じると、この型においてはフィレンツェの登場は比較的遅く、著者が当時のイタリアの状況を紹介している箇所では、当然フィレンツェはワン・オブ・ゼムにすぎない。ところがイタリア・ルネサンスをヨーロッパの近代化の突破口と見なすブルクハルトが、「個人の発展」その他、近代化のための里程標と見なしている具体的事例に関しては、もっぱらフィレンツェ人の言動を中心に叙述されていて、その面でのフィレンツェ人関連の記述の比率が圧倒的に高い。第二型に関してはルネサンス様式自体がフィレンツェで生まれたものであることがすでに16世紀のヴァザーリによって認められ、改めてフィレンツェとの関係を論じる必要はない。

 第三章以降でようやくモンタペルティ現象についての論議が始まるが、まずこの章では第一型との関連が記される。ブルクハルトの描いたイタリア像は、近代化の牽引車という面に関してさえ、おそらく当時の実情とは乖離していたはずで、それは彼がもっぱら残された文献を基にしてこの時代を論じたためである。というのは当時、そして今日でも残されているルネサンス時代の文献が、著しくフィレンツェ人に依存しているからである。ブルクハルトがその著書を執筆した当時の状況を把握することは困難だが、今日の状況から推定することは可能で、重要な著者の約4割あまり、マイナーな著者を含めて計算した場合でも2割をフィレンツェ人が占めていて、その比率は他の都市を圧倒している。そしておそらく今日以上にフィレンツェの比重が高かったと思われる当時入手できた文献に頼っているため、ブルクハルトはこの時代の進んだ面をフィレンツェ中心に描かざるを得なかったのである。

 そうしたフィレンツェとトスカーナの知的生産性の優位が、一気に高まったのは、モンタペルティ敗戦直後の20年間のことで、この敗戦以外にその理由は考えられない。根強いファリナータ謀略説からも推察し得るように、フィレンツェはこの敗戦で無知であることの危険さを悟り、国際関係に関する情報とその背景となる人文関係の知識の重要さに目覚めたのである。フィレンツェ人の集団的亡命の行き先が当時の知的先進国フランスだったことや、モンタペルティ敗戦以後の国際関係の変化がこうした意欲を現実的に刺激し続けた ことも重要である。さらに知識の呪術的効用への期待も加わってフィレンツェとトスカーナの知的生産性はさらに高まり、約2~3世紀にわたってその優勢が続いた。フィレンツェとトスカーナはモンタペルティ敗戦前後に生まれ変わったのであり、その変化なくしてはこうした持続性は説明できないことを認めるべきである。

 第四章では第二型イタリア・ルネサンスとモンタペルティ現象の関係を論じている。国民全体が衝撃を受ける敗戦には、国家体制のみならず生活様式まで変化させてしまう強力な影響力があり、筆者はモンタペルティ敗戦こそそうしたものの一つであったと考えている。この戦争がそれまで好戦的だった平民階級に大打撃を与え、厭戦感情を叩きこんだので、幸運に恵まれて復活したセコンド・ポポロは戦争に対して消極的になり、必要な場合のみ、しかもナポリ王国に依存しながら慎重に戦うようになった。そうした厭戦的な性格は傭兵依存の体制を完成させ、そのための財政的配慮からさらに戦闘意欲が低下して基本的に戦争には慎重になった。そうした姿勢は15世紀にも維持され、フィレンツェは勢力均衡政策の旗手としてローディの和平以後40年間の平和の主要な担い手でもあった。13世紀の後半に好転した国際関係に乗じて経済活動に専念した結果、フィレンツェは経済的にも文化的にもイタリアの一流国家としての地位を築いたが、そのために生活が贅沢になり、さまざまな変化が生じて必ずしも市民は幸福にはなっていない。ダンテやヴィッラーニがこうした変化を様々な形で証言しているにもかかわらず、ブルクハルト以来現代に至るまでの研究者たちは、フィレンツェが古来富裕で、おおむね順風満帆に発展してきたものと見なして、そうした変化の存在を認めようとしていない。しかし13世紀後半に生じたフィレンツェおよびトスカーナの急激な変化とイタリアにおける特異な地位を理解するためには、そうした変化をもたらしたモンタペルティ現象を認めざるを得ないはずである。私は当時に生きた人々の証言に基づいてこの現象を論じているのであり、敗戦による変化を担造しているわけではない。むしろ現代の代表的な研究者たちの方が、せっかくの証言を歪曲したり割り引いたりして、変化をまともに受け入れようとしていないのである。

(完)



 

モンタペルティの丘のシエナ軍(現代模擬戦)


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