モンタペルティ現象3-3


潮流に乗って

~第二次世界大戦後のモンタペルティ現象~

米 山 喜 晟





結ぴに代えて:

モンタペルティ現象が戦後世界にもたらしたこと


 すでに何度も述べたとおり、あらゆる現象と同様、モンタペルティ現象は恩恵だけをもたらすわけではなく、弊害をも伴うものであった。中世フィレンツェの場合、その影響は、まず白黒闘争、あるいはアテネ公の独裁のような、市民自身でも説明し難い、奇怪な事件を引き起こしている。 日・独・伊三国に関しても、1968年の騒乱が異常な盛り上がりを見せたことや、「赤軍派」と称する集団 が一時期過激なテロ活動を展開したことなど、共通して類似した事件が発生している。しかし中世フィレンツェの場合、モンタペルティ現象が後世に最も影響したのは安全保障の側面においてであった。モンタペルティの敗戦によって多くの犠牲者を出し、それまで連戦連勝をほこったプリーモ・ポポロの軍隊が解体されたフィレンツェ共和国では、一転して戦争に対して消極的になり、ナポリ王国など他国の軍隊に依存する傾向が強くなった。先に挙げた白黒闘争やアテネ公の独裁などといった事件も、いずれもあきらかに軍事的に弱体化したことと関連して発生しているのである。そして結局安全保障は主に外国の傭兵隊に頼ることになり、外交と財政の両面で困難な状況に直面して、共和制から、実質財政面を取り仕切っていたメディチ家中心の独裁制へと変質し、さらにそれはメディチ一族の君主制に転換して、創造力溢れる希有な共和国から平凡な領主国の一つへと転落していった。しかしそれ以前にモンタペルティ現象がいかに大きな恩恵をもたらしたかは、すでに別の論文で示したとおりである

① 米山の前掲書『敗戦が中世フィレンツェを変えた』第五章の第一節と第四節参照。

② 1968年は世界的な騒乱の年であり、それは確かに三国だけの出来事ではなかったが、少なくとも三つの国で他のどの国にも劣らず、また第二次大戦後ではその国自体の他のどの年にも劣らぬ、激しい騒乱が見られたことは確かである。特に日本やドイツでは、この年以後と較べるとこの年の騒乱は突出しているし、イタリアでは学生運動が珍しく労働運動に飛火して翌年の「熱い秋」の引金となった。

③ ドイツではRote-Armee-Fraktion、イタリアではBrigate Rosse、日本では赤軍派。

④ J.M.Najemy, A History of Florence 1200-1575, Malden (BLACKWELL PUBLISHING) 2006, pp.250-277, 9 Fateful Embrace: The Emergence of the Medici.

⑤ Ibid., 446-485, 15  The Last Republic and the Medici Duchy.

⑥ 前掲の拙稿『モンタペルティ現象はイタリア・ルネサンスにどのように寄与したか』(「百万遍第4号」所収)


 敗戦後軍国主義から国際協調的な平和主義に転換したことで、経済的恩恵をたっぷりと受けた日・独・伊の三国の場合も、当然安全保障の問題と直面しなければならなかったが、先に見たようにアメリカを主導国とする戦後構築に組み込まれていたために、基本的な方針はアメリカの意向に基づいていたはずである。しかしヨーロッパでは、やはり地元の戦勝国であるイギリスやフランスの意向が大いに影響した結果、ヨーロッパの二国とアジアの日本とで大きな違いが生じることとなった。

⑦ ウィキペディアの記述によると、NATOは冷戦の激化に伴い、イギリスとフランスが主体となり、1949年4月の北大西洋条約の締結によって「アメリカを引き留め、ソ連を締め出し、ドイツを抑えこむ」ために生まれた。


 まず日本の場合は、アメリカが原案を提供した『日本国憲法』の第9条によって戦争する権利を放棄したため、戦争という古来の外交手段を失ったが、さすがに自衛権までは放棄するわけにはいかず、1950年の朝鮮戦争を機に警察予備隊が創設され、後に保安隊そして自衛隊へと発展した。しかしそれは憲法によって、専守防衛という不利な立場を強制され、さらに最強の切札である核兵器の所持も非核三原則によって抑制しなければならなかった、そうした防衛上の明らかなハンディを補うために、日本は日米安保協定によってアメリカの軍隊と核の傘に依存せざるを得ない状況におかれている。すでに見たとおり近年従来の抜群のパワーを失いつつあるアメリカが、将来どのように変化するかは神のみぞ知るという事実を考慮すると、こうした依存状態がはなはだ不安であることは明白であるが、その状態を解消するためのめどさえついていないのが今日の日本の現実である。いずれにせよこれまでは抜群のパワーを備えたアメリカ軍の庇護と、敗戦後の日本人の厭戦感情とが呼応して、冷戦時代をとおしてアメリカ依存の防衛体制は大過なく保たれて来たが、冷戦が終わった今日、隣国の中国や韓国の台頭や軍事大国を志向する北朝鮮の存在によって、そうした関係が以前よりもきびしい試練にさらされていて、長年中世フィレンツェを悩ませた安全保障上の不安というモンタペルティ現象の負の遺産が、将来の日本をも悩まし続けるという事態は避けられそうにない。

⑧ ジョン・ダワーの前掲書『敗北を抱きしめて・第二次大戦後の日本人』143ぺ一ジによると、「戦争放棄」に関してマッカーサーは、「自己の安全を保持するためでさえ」放棄すべきだと考えていたらしいが、「パリ不戦条約」の信奉者であるケーディスは、自国の安全を保障する権利はあると考えていたらしい。ダワーはこうした曖昧さが論争の火種になっていると言うが、日本人にとっては、マッカーサーの立場では生存権そのものが否定されているような感じがする。

⑨ 平凡社の「世界大百科事典』によると、1950年に警察予備隊が発足し、52年に保安隊、54年に自衛隊となった。

⑩ 核兵器のような強力な武器が存在する現代で、日本のような小さな国では、専守防衛はきわめて不利である。首都に先制攻撃を受けたら立ち直れない恐れがある。

⑪ 日本が憲法を忠実に実行した場合、危険な力の空白が発生して、他国の力を誘い込む恐れがある。日米同盟はそうした事態を回避するのに有効な手段であった。

⑫ これまでのようにアメリカが抜群のパワーを所持していた時代には、アメリカとの同盟が日本に対する戦争の強力な抑止力となっていたが、そのパワーが衰えると思わぬ間題が発生する恐れがある。

⑬ 台頭する中国を中心に安易に「東アジア共同体」を結成することは、圧倒的な人口比だけを考えても、アジアに新しいEUではなくて、新しいコメコンを作り出すことになりかねない。日中友好に反対する気持ちは毛頭ないが、ヨーロッパにどれほど多くの東欧諸国からの難民が溢れていたか、東欧諸国の人々がコメコンから離脱するためにどれほどの苦難を味わったかを考えると、共産主義独裁体制の中国との関係は、あくまで慎重でなければならず、また内政干渉される余地を残してはならない。


 ヨーロッパに存在するドイツとイタリアは、安全保障の問題に関して日本ほど不安な状態におかれていないことは明らかである。イタリアは第一章で見たような複雑怪奇な仕方で敗戦を選び、早くも1943年11月に連合国によって共同参戦国と認められているので、ムッソリーニ率いるサロー共和国に編入されたか、あるいは解散して復員した部隊以外の正規軍は、ドイツ人から「バドリオの共産主義者」などと罵られながらも パルチザンと協力してドイツ軍と戦ったことで連合軍の一部と認められ、結局イタリアの正規軍は勝ち組に加わることになった。したがって1949年4月、冷戦が激化したために東側の軍隊に対抗するためにNATO(北大西洋条約機構)が誕生した時には、当然最初からのメンバー12カ国の一員に加わって条約に調印している。こうしてイタリアはNATO創設以来のメンバーとして、普通のヨーロッパの国並に集団的自衛権を行使し得ることになり、特にモンタペルティ現象の後遺症に悩まされる必要はなくなった。勿論国民にも相応の負担が課せられていて、必要に応じて危険な地域にも派兵も行い、また長年にわたって男子は兵役につく義務があり、日本では敗戦と同時に行われた徴兵制度の廃止が実現したのは、2005年のベルルスコーニ内閣の下においてであった⑰。

⑭ 北原敦編『イタリア史』048ページの巻末年表。

⑮ G.プロカッチ著、豊下楢彦訳『イタリア人民の歴史Ⅱ』東京(未来社)1984、306ぺ一ジ。「共産主義者や行動党の人々によって組織された最初のパルチザン部隊と、正規軍の将校によって指揮編成された部隊が相並んで行動することとなった」結果である。

⑯ ウィキペディアの「北大西洋条約機構」の項の記述による。

⑰ 北原敦編『イタリア史』057ぺ一ジの巻末年表。実施は2005年からで、廃止が決定されたのは、2004年7月のことであった。


 他方あれほどヨーロッパの広範囲に戦火を広げ、そのために周辺の国々から恨まれ恐れられていたドイツでさえ、自らの安全保障に際して『日本国憲法』のような厳しい制約を受けることはなかった。もちろん敗戦当初は連合軍の内の4国によって占領され、一度は武装解除されたが、ソ連占領地区が離脱した後に冷戦が激化すると、早くも主権回復後の1950年に連邦共和国の再軍備検討が解禁され、フランスなどの執拗な反対や挫折した欧州防衛共同体構想にもかかわらず、結局フランスもドイツの再軍備を認め、1955年11月ドイツ連邦軍が誕生し、同年NATOに加盟した。こうしてドイツもイタリアと同様NATOの一員として集団的自衛権を行使することによって、特にモンタペルティ現象の後遺症に悩まされる必要がなくなったと見なし得るだろう。当然国外派兵などの負担はあり、またイタリアとは異なり、現在も男子は全員9ヵ月の兵投を課せられている。なおNATOの存在は東欧の軍事的脅威に対して効果を発揮し、冷戦期間l中ヨーロッパでは戦火をまじえることを避けることができた。前章で見たとおり、アメリカの戦後構築の一環として、それまで強硬に反対していたソ連が1990年7月、統一ドイツのNATO残留を承認した結果、今日もNATOの主力の一つとしてヨーロッパ諸国の信頼を得ている。しかし第一次、第二次の両大戦において猛威を振るったあのドイツが、今日最も信頼できるメンバーとしてNATOを支えている姿は、やはりあの無残な敗戦を抜きにしては考えられず、こうした現状もモンタペルティ現象の影響の一つと見なし得るだろう。

⑱ ウィキペディアの「北大西洋条約機構」の項によると、当時のフランス政府はドイツ再軍備とNATO加盟に反対して欧州防衛共同体構想で対抗したが、肝腎のフランス議会の批准が得られず、結局ドイツ再軍備とNATO加盟を認めた。

⑲ ドイツ連邦軍が誕生したのは、1955年11月12日でNATO にも加盟。

⑳ ウィキペディアの「ドイツ」の項の記述による。ただし良心的兵役拒否が認められ、4割が10~12ヵ月の期間、介護などの代替役務に携わっている、という。

㉑ アイケンベリーの前掲書、249ぺ一ジ。この問題はアメリカによる冷戦終了後の戦後構築の最大テーマの一つであったが、1990年5月のゴルバチョフのワシントン訪問が、ソ連の方針の転換点であったとされている。


 なおユーロという統一通貨によって、今日NATOよりもはるかに大きな影響を日常的に及ぽしているEU(欧州連合)の存在自体、加盟国の敗戦を抜きにしては考えられないものである。周知のごとくEUは当初シューマン宣言に基づき、1952年7月にベネルックス三国とフランス、ドイツ、イタリアの6力国で結成されたECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)として発足した。すでに記したとおりベネルックス三国とフランスは、最後には勝ち組に加わったものの、第二次大戦中には4年間以上ドイツの占領下にあり、しかも自力でドイツの支配から脱出したわけではなくて、たとえパルチザンがいかに奮闘し、ドゴールの亡命政府がロンドンからいくら吠えていても、連合軍の力に助けられないかぎり自力だけでナチズム体制から解放される可能性はほとんどゼロに近かった、という事実を考慮すると、長期にわたって敗戦体験を味わっている、いわば准敗戦国なのである。

㉒ ウィキペディアによると、シューマン宣言とは1950年5月フランス外相ロベール・シューマンが提唱し、ECSCはその2年後に6カ国で発足した。

㉓ 木村編『ドイツ史』巻末年表、043-044ぺ一ジによると、ドイツ軍は1940年5月10日にベネルックス三国に侵攻、6月14日パリ入城、6月22日フランス降伏。連合軍のノルマンディ上陸は1944年6月6日だから、ベネルックス三国の解放はそれ以後のことで、パリ入城は同年8月25日だという。

㉔ 同上、043ページ、によると、1940年6月18日にド・ゴールがロンドンに「自由フランス国民委員会」を設立して、ドイツ軍への抵抗継続を宣言したとある。


 要するにECSCとは、本物の敗戦国と准敗戦国とが過去の苦い体験を繰り返さないために、経済と軍事の重要資源の共同管理を企てた組雛だが、周囲の国々からその経済的利点が認められて名称を改めながら加盟国を増やし続け、ついに今日のEU27カ国体制にまで拡大した。その拡大の勢いには驚くべきものがあり、かつて東西世界の境界領域と見なされていたフィンランド、オーストリアや、かつて東側世界そのものだった東欧諸国も加盟していて、さすがに永世中立を国是とするスイスは加盟していないものの、ロシア周辺部など一部の地域をのぞくヨーロッパの大半の国々か参加している。この拡大衝動の原動力は何だったのかと考える時、やはりその最初の核となった6つの国の敗戦または准敗戦体鹸を見逃すわけには行かないだろう。いずれもそろって戦後にモンタペルティ現象がもたらす恩恵をたっぷりと受けているが、同時に安全保障面での不安を抱えていて、そのことがこうした拡大衝動の隠れた原因になっていると見なすことができるだろう。

㉕ こうした共同管理による共通市場という発想は、古内『現代ドイツ経済の歴史』の第1章で、ドイツ占領下に生じた広域の市場が示唆したものであり、元パルチザンによって推進されたことが論証されている。

㉖ オーストリアとフィンランドは1995年、バルト三国は2004年、ブルガリアやルーマニアは2007年といった具合で、さすがにこれらの国々の参入は遅い。


 いずれにせよNATOとEUという二本の柱に支えられているので、日本とはまったく異なり、ドイツもイタリアも深刻な安全保障上の危機に襲われる心配はなさうである。ただしそうした状態を恩恵と感じないで束縛と感じる人々も存在していることも否定できない。このようにヨーロッパの国際関係において、モンタペルティ現象は驚くべき影響を及ぼし続けているのである。さらに西ベルリンは、西ドイツ繁栄のショウウインドウとして自由主義経済のすばらしさを宣伝し続け、特に東欧諸国に対して深刻な影響を及ぼしたことは明らかであり、ソ連やコメコンの崩壊にもはっきりとモンタペルティ現象の影響が認められるのである。

㉗ ネオナチのメンバーにとっては、ドイツのNATO 加入は不愉快な現実である。

㉘ インターネットで「世界飛ぴ地領土研究会」が掲載している「西ベルリン」の項では、西ベルリンは正式には「米・英・仏3カ国占領地域」であって、西ドイツの領土でも飛び地でもなかったことが記されている。いずれにしても東ドイツからの亡命者が相次いだ(1949年から60年までに東ドイツの人口の4分の1にあたる250万人)ことで、資本主義体制の方が共産主義体制よりも暮らし易いことを証明することになった。


 他方アジアに関しても、モンタペルティ現象がヨーロッパに勝るとも劣らぬ影響を及ぽし続けていることは、すこし戦後史を考えてみると明らかである。すでに触れたとおり日本史関係の書物では戦後日本の驚異的な発展を「奇跡」と記すことはめったになくて、大部分の文献は「奇跡の」という修飾を抜きにした「高度成長」という言葉で表現している。どんな辞書にも記してあるとおり、「成長」とは本来子供や植物などが自然に大きくなることで、本来「奇跡」とは正反対の現象だと言えるであろう。こうした呼び方によっても、日本人は戦後経済の驚異的な発展を、むしろ子供の成長のように自然な成り行きとして受け入れていた、と言えそうである。私などの世代にとって、安保闘争の混乱の後、岸内閣に代わって登場した池田内閣が、1960年10月「国民所得倍増計画」を発表したこと は記憶に生々しいが、今から考えると、これこそまさにかなり以前から進行していた日本によるアメリカ経済のキャッチアップ計画の公式宣言だったのである。そしてこの計画は、アメリカの模倣を繰り返すことによって、その後の佐藤内閣や田中内閣の下でも着々と進行した。このように国家の主導の下で、組織的、計画的に先進国の経済をキャッチアップすることによって日本の「経済の奇跡」が実現したのだが、そうなるともはや「奇跡」ではなく努力の当然の成果と見なされることとなったのであろう。

㉙ たとえば同じ山川出版社から刊行された、木村編『ドイツ史』巻末年表、046ぺージ、1950年の項の「経済の奇蹟」や、北原編『イタリア史』516ページの見出しの「奇跡の経済」など、確実にこの言葉を使っている。それに対して、おそらくどちらの国にも劣らない成功を収めた日本の場合、同じ出版社の宮地正人編『日本史』東京2008、518ぺージでは類似の内容に関して「高度経済成長」というタイトルが付けられ、わずかな紙数とかなりきびしい論調で記され、さらにそれに続く「切り落とされたもの」で経済成長の影の側面が記される。これは一例だが、日本経済に関する記述では、ほぼ「高度成長」で統一されていると見て差し支えなさそうである。

㉚ 宮地編『日本史』巻末年表、044ぺ一ジ、1960年の項。


 こうした計画は、どこの国でもその意志さえあれば実行可能であり、まず韓国を初めとするアジアの国々で取り入れられ、実行されることになった。そしてその成果は「漢江の奇跡」や「四匹の虎」などとなって現れ、さらに中国にも受け入れられてG2時代の到来をもたらそうとしているのである。このように日本の場合、モンタペルティ現象は単なる奇跡に終わらず、一種の成長モデルを作り上げたことで他のアジア諸国にも波及し、今日も絶大な影響を及ぼし続けているのである。しかし残念ながら、アジアには日本のそうした先駆者的役割を認める国は少ないだろう。世界の植民地解放のために果した日本の客観的な役割と同様、日本がアジアの経済発展のために果したモデルとしての客観的な役割は正当に評価されておらず、それどころか戦後日本の「経済の奇跡」は、むしろアジア諸国における日本の脅威に対する警戒心を強めるためにだけ作用したようである。このように経済の驚異的な発展が近隣諸国の警戒心を強め、嫉妬を引き起こすことも、モンタペルティ現象の負の遺産の一つに数えることかできるかも知れない。だがもしも戦後日本にモンタペルティ現象が発生せず、アメリカ経済をキャッチアップするシステムが構築されていなかったと仮定すれば、成長のモデルが存在しないために、アジア経済の発展ははるかに遅れていたに違いない。そう言えば、「アジア的貧困」という言葉がつい近年までアジアを呪縛し続けていたのではなかったか。

㉛ 猪木武徳の前掲書『戦後世界経済史 自由と平等の視点から』 の第5章第3節「東アジアの奇跡」参照。「四匹の虎」すなわち、韓国、台湾、香港、シンガポールの筆頭、韓国の場合の高度成長は「漢江の奇跡」と呼ばれるが、1965年以降日本の資金援助と協力を受けて実現したものであるにもかかわらず、韓国国民にはそうした実情はあまり伝えられていないようである。

㉜ 毛沢東亡き後の中国で、鄧小平の主導によって行われた共産党独裁下の路線の転換は、それまでの政治一辺倒主義から経済主義への転換という形を取り、おそらく実利的傾向の強い中国人の心性ともマッチしていたらしく、軍国主義から平和主義への転換の際に起こるモンタペルティ現象にも似た、驚くべき成果を生みだしつつあるように見える。しかし国家が情報を独占している現状では、現在公表されている成果がどこまで信憑性があるのか良く分からないことも事実である。一党独裁で人治主義的傾向が強く、いかなる情報操作も可能な体制では、言論統制と宣伝の力で一時的に国民を幻惑してその支持を得たとしても、権力闘争が繰り返されて活力を使い果たし、結局粛清と強制収容所とに依存せざるを得ないのではないだろうか。隣国としては、余力のある内に民主主義体制に軟着陸することを期待するしかあるまい。


 最後に中世フィレンツェの場合と同様に、現代の世界に関しても、モンタペルティ現象という概念を用いれば、歴史の謎と見なされている問題に有力なヒントを与え得ることを示して、本論を締めくくることにしたい。

 ホブズボームは、その著書『極端な時代 20世紀の歴史』の「第Ⅱ部 黄金時代」に含まれる「第9章 黄金の歳月」のⅢを、「それまでの半生、破滅の淵にあるかのように見えた資本主義体制が、このように異常なまでの、まったく予想外の勝利を収めたことを、どう説明すべきなのだろうか。説明を必要としているのはもちろん、長期にわたる経済的あるいはその他の困難と混乱の一時期に続いて、これまた長期にわたる経済的な拡張と幸福の時期があったというたんなる事実ではない。(中略、ここで著者はコンドラチェフの波と関連して19世紀の事例に触れる)説明を要するのはそのことではない。この長期的好況の異常な規模と深さである。それに先立つ危機と不況の時代の異常な規模と深さの時代を揺りもどす、いわば振り子のような規模と深さであった。(改行)資本主義世界経済のこの「大躍進」の規模そのもの、かつて例のないその社会的結果について、真に満足のいく説明はない」 という文章で書き始めている。続いて著者は間接的に説明を企てるかのように、混合経済や国際分業などを論じているが、結局この問題を大きな謎として放置している。

㉝ ホブズボームの前掲書、上巻、400ページ。


 実はホブズボームがこの問題に触れるのはこれが初めてではなく、(書かれた時期の順序は分からないが、少なくとも読者に対しては)それよりもずっと早く、序文の中でこの謎を提起していたのである。「それにしても、第二次世界大戦後の資本主義は、いかにして、またなぜ、1947年から73年にかけてのかつて前例のない、そしておそらくは異常な、あの「黄金時代」へと盛り上がっていったのだろうか。それは資本主義研究の歴史家も含めて、誰もが驚いたことであった。たぶんそれは、20世紀研究の歴史家が直面させられる大問題でもあった。その答についてまだ一致した意見もないし、私に説得力のある答があると主張することもできない。かなり納得のいく分析は、おそらく20世紀後半の「長い波」全体を距離をおいて見ることができる時までまた待たなければならないだろう。」 いわばこの問題は、「極端な時代」と題されたこの著書の一方の極端である経済的繁栄に関するものなので、この著書にとっての、またそれだけではなく20世紀の歴史そのものにとっての、重大問題なのである。

㉞ 同上、14ページ。


 さてこれまでの私の説を読んで下さった方には、この問題に関する私の考えはすでにお分かりのはずである。敗戦後に生ずる国をあげての戦争から平和への大転換には、予想をはるかに越えた成果を生み出す可能性があり、第二次大戦後の世界でも、敗北した日・独・伊三カ国においてそうした現象が発生して、「経済の奇跡」と呼ばれた。ヨーロッパではドイツとイタリアだけでなく、フランスやベネルックス三国などの准敗戦国でもモンタペルティ現象に準じる現象が発生してさらに経済を盛り上げた。さらにアジアでは、日本が「所得倍増計画」によってアメリカ等先進国の経済をキャッチアップするシステムを構築し、そのシステムは1965年以降の韓国における「漢江の奇跡」などの形でアジア全体に波及して、世界の好況を支え続けた。このように日本は、敗戦国のモンタペルティ現象に加わっただけではなく、先進国の経済をキャッチアップするシステムをそれまで世界でも最もまずしい地域の一つだったアジアに波及させることで、ホブズボームが20世紀最大の謎と呼んでいる「黄金の時代」を実現するために二重に貢献していたのである。

 なお日本がアジアにモデルを示したキャッチアップ・システムは、本来モンタペルティ現象の中から生まれたものなので、すべては直接的・間接的にモンタペルティ現象から生まれたものと見なすことが可能なのである。いずれにせよ「黄金の時代」をコンドラチェフの波だけで説明することには無理があり、すでにドイツの奇跡に関してアーベルスハウザーが指摘していたとおり、そこに敗戦の影響を認めないわけにはいかないのである

㉟ アーベルスハウザーの前掲書、120ページ以下で、著者は戦争の影響を無視しては、ドイツ経済の奇跡が説明し得ないことを説いている。


 ということで、モンタペルティ現象の存在を認めてその効果を考慮すれば、ホブズボームの謎が解けるのではないか、というのが私の考えである。残念ながら私の力では、専門的にこの謎についてこれ以上論じることは不可能だが、このヒントを活用して下さる優秀な経済史の専門家の登場を期待して、この論文を終わることにする。


* この論文は、桃山学院大学総合研究所『国際文化論集・第41号』(2009年12月22日発行)より転載したものです。(編集部・記)



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