モンタペルティ現象4-3


敗戦の効果

~ 世界史の中のモンタペルティ現象 ~

米山 喜晟



第三章 江戸幕府とモンゴル帝国

~ 波状のモンタペルティ現象の実例 ~



 先の二つの章で、筆者は単独で発生したモンタペルティ現象と、連続して発生し相互に影響しあったモンタペルティ現象について論じたが、世界史を見渡すと、それよりもさらに大規模なモンタペルティ現象が発生していたのではないかと推測される。それはある一定の範囲を全域にわたって支配する巨大な権力が確立された場合、その結果として発生するモンタペルティ現象である。ただしその権力の支配権が及ぶ全域に、あまねく一様に発生するわけではなく、湖などに発生する波と同様、あるところでは高く、あるところでは低く、場所によってはほとんど現れなかったりしている、いわば波状とでも形容すべき仕方で発生する。

 モンタペルティ現象をめったに見られない珍しい出来事として片付けるのではなく、普遍的な敗戦の効果として位置付け、現代世界に発生している様々な出来事の説明にも応用したいと考えている筆者は、敗戦の効果がはっきりと認められるこうした事例をも無視するわけにはいかないと考えているのである。かくして本章の以下の部分では、本論のこれまでの章の場合と同様、それぞれの分野の専門家たちの著書に頼りながら、波状のモンタペルティ現象が発生している可能性が高いと推測される二つの事例について論じることによって、その存在を確認するとともに、併せてこの現象が世界史にもたらしていると推測される重大な影響についても考察する。

 筆者はまさにこうした種類のモンタペルティ現象が、日本史のある時期に発生していたのではないかと推測している。日本史に関しては全くの門外漢で、おそらく受験生並の常識すら欠いていることを自覚している筆者が、そのような大それたことを主張する最大の根拠は、長年にわたる研究の結果などといった大したものでは全然なくて、ある著書の中で見付けた一連の文章に過ぎないことをあらかじめ白状しておかなければならない。その著書とは、鬼頭宏著『 日本の歴史19 文明としての江戸システム』、その一連の文章とは、「日本列島における人口の長期波動」を論じた節の中の日本の人口の大きな波を扱った箇所のことで、あまり長くないのでそのまま引用しておくと、

 「第三波は14世紀、南北朝時代頃に始まったと考えられる。この波は、1600年頃1,200万人、1721年3,100万人(いずれも推定)と再び成長傾向をみせ、とくに江戸時代前期(17世紀)の人口爆発期が注目される。ただしこの波も、末期江戸時代中期以後は再び一世紀余りにおよぶ停滞期に転じることになる」

という三つの文章である。あくまで推定された数字だとは言え、日本の人口が近代医学の進歩や産業革命による生産力の上昇などとは全く無縁な近世の初期に、約120年間に約2.6倍も増加したということは驚くべき出来事であり、人口爆発という言葉がそれほど誇張とは思われないからであり、さらにその後停滞してしまったという事実も、その人口爆発がある限られた時期に起こったことを示しているという点で、やはり重要な証拠だと思われるからである。そして筆者はこれらの文章に便乗して、この時の人口爆発こそ日本における波状のモンタペルティ現象の結果だったのではないか、と考えたわけである。

① 鬼頭宏著『日本の歴史19 文明としての江戸システム』、東京(講談社)2002.

② 同上、026ページ。


 しかし天網恢々、無知無学の馬脚はすぐ現れるもので、前述の書物の続きを読んでみると、人口爆発に有頂天になるのはいささか早とちりだったことが判明する。というのは、1600年の時点での日本の人口を1,200万人と推定しているのは、あくまで一つの推定に過ぎないのであって、国勢調査などあるはずもない1600年当時の日本の人口についてはいろいろな推定が行われており、かつては吉田東伍氏が1910年に行った講演で述べた1,800万人という数字が長らく信じられていた、ということである。しかしその推定にはどうやら不備な点があり、その数字が過大だとする批判が生じた結果、速水透氏が信濃国諏訪郡で観察された人口推移に基づき、1,200万人④ という推定を行い、その数字が「人口爆発」という表現をもたらしたわけである。ところが困ったことに、前述の書物の著者自身はその数字を過小だと考えていて、実際には1,500~1,600万人程度だと推定 しているため、結局3つの数字が現れることになった。

③ 同上、069ぺージ。

④ 同上、070ページ。

⑤ 同上。


 ということで120年間に増加した倍率は、速水説では2.58倍だが、鬼頭説では2.07~1.94倍、吉田説では1.72倍となり、速水説以外に従った場合、人口爆発という言葉は大袈裟すぎるという印象は否めないことになる。このように筆者は一度は挫けそうになったのであるが、やはりそれ以後幕末までも約1世紀半以上の間人口が停滞し続けた という事実をも考慮すると、仮に吉田説を取った場合でさえも、少なくとも江戸時代前期の120年間に顕著な人口増加が発生していたことは確実であり、その前後と比較してこの時代が日本人の人口増加にとって好都合な時代であったと推測することは許され、ひいてはそこにモンタペルティ現象の存在を予測することが許されるのではないかと考え直したわけである。そして長期にわたる戦乱の時代が終わった時期に、一定の人口の増加が推定されている以上、そこに一種のモンタペルティ現象が発生していたのではないかと推測することは、決して不当なことではないと筆者は考えたわけである。

⑥ 同上、067ページの記述によると、江戸時代の日本の全入口は、「最初の調査がおこなわれた享保6年(1721年)には2,607万人、最後の弘化2年(1846年)に2,691万人であった。江戸時代中・後期125年間の人口増加率は3パーセント、年率に直せば0.03パーセントにも達しない低さであった」とされている。


 もちろんこうした私の推測に対して、はたして江戸時代初期に発生しているもろもろの出来事が、モンタペルティ現象の名に価するか、という疑問が当然提出されるであろう。こうして本論の「はじめに」において、私が「敗戦が(損失だけをもたらしているわけではなく)、経済・文化・歴史的に見て、敗北した側の関係者の多数に好ましい結果をもたらしていると見られる現象」といういくらか曖昧な形に拡張しておいたモンタペルティ現象という概念を、江戸幕府支配下の日本に関して適用することが可能であるのか否かについて吟味しておく義務が生じることとなった。はっきり言って江戸幕府の初期の場合、上に示した概念をそのまま単純に適用することがやや困難であることは、筆者自身も認めざるを得ない。第一に敗戦とはどの敗戦のことで、第二に敗北した側の関係者とはだれのことを指しているかがが明らかではないからである。しかし逆に言えば、その2点に関して適切な解釈が可能であれば、これに類した事例をモンタペルティ現象の一種として認めることが許されるはずである。そこでまず江戸幕府の初期の場合、いかなる敗戦が原因となってモンタペルティ現象が発生しているかを明らかにしなければならないであろう。

 実は筆者自身、これまでの論述の際にこの問題に関してあまり厳密に検討してこなかったことを、率直に認めておかなければならない。中世イタリアのフィレンツェやシエナ、あるいは古代日本などの場合、モンタペルティ戦争やコッレ戦争あるいは白村江の戦いなどと一度きりの敗戦を問題にしておきながら、日・独・伊三国の場合は、第二次世界大戦という、数年間にわたって世界のかなりの部分を巻きこんだ一連の戦争に関して、たとえば前半はドイツが優勢だったなどという途中経過は一切無視して、最終的な結果だけを総括して敗戦と呼んでおり、一言で敗戦と言ってもその意味するところに大きな差異があったからである。筆者自身、たしかにこの点だけでも、自分のモンタペルティ現象に関する論証には問題があったことを認めておかねばならないと思う。しかし中世イタリア都市の場合や、古代日本の場合は、それがただ一度の敗戦であるとは言え、一国の体制を根本から変革するだけの重大な結果を伴う戦争だったのだから、その結果は長期にわたる一連の戦争に匹敵する重要性を帯びていて、実質的にはそれらが意味するところにあまり大きな違いがなかったという事実を指摘することによって、自らのための弁明としておきたい。もちろん多くの戦争は、そのように簡単に決着がつくわけではなく、むしろ長期にわたって一進一退を繰り返すのが普通であり、そのような場合、最終的に敗北するまでに行われた一連の戦争全体を一括して敗戦と呼ぶことにする。

 そこで江戸幕府の問題に戻ると、それらがいかに重要な結果をもたらしていたとしても、ここでいう敗戦とは関ヶ原の合戦や大坂夏の陣などといった個々の戦いではなく、結果的に徳川氏を頂点に祭り上げた一連の戦いのすべてということになるであろう。たとえば家康自身も徳川氏の一族郎党も、他の大名に較べると深くは関与していなかったと伝えられている文禄・慶長の役も、それが結果的に豊臣政権の基盤を大きく掘り崩し、徳川政権成立のために大いに貢献している以上江戸幕府成立をもたらした一連の敗戦の内の重要な一部であることは否定し得ない。あるいは徳川氏と全く関係の無い、東北や九州で行われた戦争であっても、日本全土を支配した江戸幕府とは無関係であり得ない以上、関与の程度は極めて低いとは言え、一連の戦争の一部と見なさざるを得ないであろう。鈴木真哉著『〈負け組〉の戦国史』 は、タイトルどおりの問題を扱った新書で、その冒頭で戦国時代は何年続いたかという問題が論じられているが、厳密にいえば年数を確定することすら困難なほど長期に及んだ戦国時代を通して、最終的に元和偃武(1615年)にいたるまでのあらゆる戦争が、それら一連の戦争の内に含まれていると見なされねばならない。

⑦ 鈴木真哉著『〈負け組〉の戦国史』、東京(平凡社)2007。


 次に江戸幕府の成立に関連して、「敗北した側の関係者」とはだれかという問題が残されているが、まず前述の新書の〈負け組〉の人々こそ、その骨格に当たる部分だと見なしても差し支えあるまい。前述の著書では〈負け組〉を定義するために興味深い試行錯誤を行った後に、「こうして整理してゆけば、徳川将軍家を頂点とする究極の〈勝ち組〉グループから外れた者が、最終的な〈負け組〉になったという、プロローグでいった構図がはっきりするであろう」 と記されているが、筆者のいう「敗北した側の関係者」も、まずはその骨格の部分はほぼそれと同じく、戦いに敗れたために、徳川将軍家を頂点とする支配層に属することができなかった人々を意味しているということができそうである。ただし前述の著書で扱われているのは、〈負け組〉と呼ばれている以上、少なくとも自ら戦いに参加したか、あるいはやむを得ず参加させられた人々だけである。しかしたとえぱ関ヶ原の戦いが戦われていた日にも、その戦場に登場したのは後に見るとおりせいぜい20万人足らずの人々であり、残りの千数百万人の日本人は、平凡な日常生活を営んでいた。このようにたとえ戦国時代といえども、当時の人口の大部分を占めていた農民の多くはそれほど戦さに加わっておらず、たとえむりやり戦争に狩り出されても、戦いが済むと大半はもとの農耕生活に復帰していたものと見て差し支えないであろう。それどころか、幸運にも一度も戦場に狩り出されることなく、戦国時代を無事平穏に生き抜いた農民もかなり多数存在していたはずである。さらに農民以外でも、職人や商人その他、戦争に参加しなかった人々が多数存在していた。おそらく当時の日本人の多数を占めていたと思われる、戦いに加わらなかったこうした人々の場合、先に記した一連の戦争との関係をどのように考えるべきなのであろうか。

⑧ 同上、39ページ。


 この点に関して、筆者はたとえ自分自身が戦いに参加して〈負け〉ていなくとも、戦いの結果として勝利者との間に被支配関係が発生した場合には、当然敗者の一部分と見なされるべきであり、「敗北した側の関係者」の仲間に加えられなければならない、と考えている。そして最終的に勝利者となった徳川家康が征夷大将軍という支配者の地位 につき、江戸幕府という全国を統治する政府を設置していることから、征夷大将軍の任命者である天皇とそれを取り巻く貴族たちの地位に関しては若干の疑義が残るものの、そうした例外を除くと、江戸幕府の支配下におかれた日本人全員が被支配者という立場におかれている以上、支配者の仲間に加わることができなかった人々は、例外なく「敗北した側の関係者」に属していると見なすことができるのではないだろうか。たとえ自分は一度も戦いなどに参加しておらず、一度も負けた覚えはないなどと主張しても、江戸幕府が全国一律に敷き詰めた支配体制から逃れることができない以上、その支配に服していることを認めざるを得ないからである。したがってここでモンタペルティ現象の有無を吟味する場合、まず譜代と外様などといった区別は一切抜きにして、江戸幕府が発足した当初に支配者の一部としての存続が認められていた集団に属し、その一員として収入にありついていた人々を全員支配階級と認め、それ以外の人々をすべて被支配階級として、「敗北した側の関係者」の一員と見なすことにしてはどうであろうか。このように「敗戦」と「敗北した側の関係者」に規定した上で、筆者は江戸時代の初期にモンタペルティ現象が発生していたかどうかについて吟味してみることにする。

⑨ 豊臣秀吉が「関白」という形で統治しようとしたのに対し、徳川家康は武家支配の伝統的な形を採用して征夷大将軍の称号に基づき幕府を構えることにした。


 江戸時代というのは、私たち門外漢にとって真に不思議な時代である。正直のところ、若いころの私自身、この時代を理解していたとは到底思えない。率直に言うと現在の私自身もその理解は極めて怪しいことを認めておかなければならない。もしも私の思い違いでなければ、私自身が受験その他を通して多少とも学校で日本史を学んでいた昭和20年代から30年代の始めにかけて、江戸時代は学問の世界でかなり厳しく見られていたように記憶している。ただしそれはあくまで漠然とした印象に過ぎないことを白状しておかなければならない。

 今私の手元には、本論のための泥縄式の勉強の資料として図書館から借りて来た、大石慎三郎監修の下で講談社から刊行された「新書・江戸時代」シリーズの第3巻、佐藤常雄+大石慎三郎著『貧農史観を見直す』 があるが、その裏表紙の一行目には、「江戸時代暗黒史観を排し」と記されているので、どうやら私の記憶の中のイメージは、全く根拠のないものではなかったようである。お世辞にも大著とは言えないけれども、5冊一組のシリーズが集中的にそれを攻撃しているところを見ると、やはりそれらの著書の批判の対象となっている「江戸時代暗黒史観」なるものは一時期相当広い支持を得ていて、ちょっとやそっとでは消し難い影響力を発揮しているとしか考えられないからである。ただし先の著書から「暗黒史観」との対決を期待しては失望するはずである。そこで私にとってなつかしい「江戸暗黒史観」やそれに類するものが派手に叩かれているのは、主に表紙や裏表紙の部分に限られていて、その中身では最も「暗黒史観」に関連が深そうな「3. 農民は貧しかったか」の章ですら、「農民が貧窮していたのか」という節で、「貧窮史観」なるものがごく簡潔に紹介されているだけに過ぎず、「暗黒史観」「貧農史観」「貧窮史観」などとさまざまな名前で呼ばれている史観そのものの批判がくわしく記されているわけではないからである。その書物の著者たちは、やってもらえればさぞ興味深いと思われるそうした史観の批判にはあまり深入りすることなく、それとはかなり異なる江戸時代の農民像を、具体的に提出しているのである。だからなつかしい「江戸暗黒史観」がこてんぱんにされるのを期待していた私のような読者は、いささか期待はずれな感じを抱いたとしてもやむを得ないであろう。

⑩ 佐藤常雄・大石慎三郎共著『新書・江戸時代3 貧農史観を見直す』、東京(講談社)1995。

⑪ 同上、110~111ページ。


 そう言えば私が人並み外れて乏しい自分の才能を嘆きつつ、イタリア語の習得に費やしていた時期に、たしか江戸時代ブームというものが開花して、久しく続いていたような気がする。おそらくそうした歳月の内に、私がぼんやりと記憶していたそれに較べて、江戸時代像はすっかり好転してしまっているようである。たとえば本章の冒頭近くで引用した書物の著者による「環境先進国・江戸』 などは、悪名高い「生類憐みの令」をも見直していて、同時代の世界の政府に較べて、むしろ江戸幕府を高く評価していると見なすことができそうである。

⑫ 永井荷風のような人々にとっては、明治時代以後は野蛮な時代であった。そういう見方が常に日本人の一部によって支持されてきたことは否定できないであろう。そして江戸時代の文化は、たしかにそうした見方を支えるだけの遺産を残しているようである。インターネットの「江戸ブーム」の項では、昭和の初期にも江戸ブームがあったとされている。そう言えば山本周五郎、藤沢周平らに代表される時代小説の大半、特に捕物帳の舞台は戦前からほとんど常に江戸時代であった。戦後も熱心な江戸贔屓は存在していて、杉浦日向子に代表される一群の人々が江戸時代を舞台にした漫画やエッセーあるいはテレビ番組を通してブームを巻き起こしていたらしい。

⑬ 鬼頭宏著『環境先進国・江戸』、東京(PHP研究所)2002。この書物は江戸時代を「災害見本市のような時代」と捉え、それに対して社会がどのように対処したかが示されている。


 このように江戸時代に対する評価が高まりつつあるという近年の状況は、江戸時代の前期にモンタペルティ現象が発生していたのではないかという私の主張にとって、好都合なものであることは言うまでもない。要するに「元和偃武」によって、この時期に江戸幕府の支配下に服したことが、日本人に好ましい結果をもたらしていたことを論証すれば、一応江戸時代の前期の日本にモンタペルティ現象が発生していたことを示すことができるはずだからである。徳川家康が築いた独裁体制を弁護する役割は、「家康をののしる会」の会員でなくとも、たしかにそれほどかっこうの良い役割ではない。しかし世界史の中に認められる敗戦の効果を普遍的に評価するためには、これはどうしても避けて通れない作業のようなので、以下で私がこの時期にモンタペルティ現象が発生していたのではないかと推測する根拠を簡単に列挙してみることにする。


1. 戦いに巻き込まれて生命、財産、地位その他を失い、致命的な打撃を受けた人々を除いた一般の日本人にとって、先に挙げた〈負け組〉に関する著書の中で実質的に150年以上続いたと見なされている、豊臣秀吉による海外遠征をも含めた一連の戦争が終わり、平和が到来したという効果は、他の何よりも大きな恩恵をもたらしたはずである。その平和が半端なものではなかったことは、「実際に大名の軍役動員のなされた事例として、1614~15(慶長19~20)年の大坂の陣、1637~38(寛永14~15)年の島原の乱そして幕末の異国船警戒のための海防、東北諸大名の蝦夷地出兵、1866(慶応2)年の長州出兵などを挙げることができる」 という一文の前半からも推察できる。本論にとって重要なことは、何よりもまずこの一文からも想像できる幕末以前の江戸時代の平穏さである。関ヶ原の戦いの締めくくりとも言うべき大坂の陣を除くと、実質大名を動員せねばならないような戦争に近い反乱は、島原の乱ただ一度に過ぎなかったというのは、やはり驚くべき事実だと言えるのではないだろうか。勿論それに代わるものとして一揆や打ち殿しが結構発生していたことは事実であり、慶安の変(1652年)や大塩平八郎の決起などが起きていたことも無視し得ないけれども、島原の乱と幕末の混乱期の騒動を除くと、百姓一揆や打ち段しは通常幕府の正当な裁きを求めて起きていて、反幕運動には程遠かったようであり、また慶安の変などは反乱が勃発する前に、浪人仲間の密告で早期に計画が露見している ことからも、結果的には当時の幕府の支配の安定ぶりを証明していて、「例外は法則を強化する」という諺にぴったりの実例と見なされるべき事例である。そして大塩の事件(1837年)などは、がたが来はじめた幕府崩壊の予兆と見なされるべきものである。要するにこの驚くほど長期にわたる平和状態から、応仁の乱の前後から150年以上続いた戦乱の後、一部の例外を除いた日本人は、何はともあれまず平和を望んでいたことと、ようやく到来した平和をできるだけ維持しようとしていたことが、推察できるはずである。しばしばお家安泰という利己的な動機ばかりが強調されている、前田、黒田、池田、加藤、山内などといった旧豊臣家臣の大名家の家康加担にも、一日も早く長期安定政権を成立させて、戦乱の時代の幕を引きたいという、この時代の日本人の大多数が共有していた願いに影響されていたことを見逃してはならないはずである。

⑭ 藤井譲治編『日本の近世3 支配のしくみ』、東京(中央公論社)1991、56ページ。

⑮ ウィキペディアの「慶安の変」の項によると、徳川頼宣の影響力を封じるための「やらせ訴人」であったとされている。


2. 江戸幕府成立を決定付けた関ヶ原の戦い(1600年9月15日)には、その後の江戸幕府の性格を決定付けた重要な特長が認められるようである。それは「天下分け目の戦い」などと呼ばれているにもかかわらず、秀忠が率いる3万5千の兵が信州の戦いに手間取って参加できなかったという失態が影響して、実際に戦いに加わった徳川氏の戦力は両軍全体の中のごく一部に過ぎなかったという事実である。たとえば総勢約15万余、西軍約8万、東軍は7万とする笠谷和比古やほぼそれに近い藤井譲治の説に対して、東軍約10万、西軍約8万とする高木昭作の説など若干の食い違い があるが、傍観やサボタージュや裏切りが横行した実際の戦闘ではそうした戦力差は大して意味がなかったようである。たとえば笠谷説によると、家康は3万あまりという結構大きな軍を率いて布陣していたにもかかわらず、徳川軍の内で実際に戦ったのは松平忠吉、井伊直政、本多忠勝らが率いるわずか6,000人余に過ぎなかったとされている。 そしていずれの説においても、この日の戦いは主に石田三成、小西行長、宇喜多秀家ら豊臣政権の吏僚派と呼ばれる人々と、福島正則、加藤清正、黒田長政、浅野幸長、山内一豊ら豊臣秀吉の家来の中で武功派と呼ばれる人々の軍勢の間で戦われたという点では、意見が一致している。さらにこの戦いに決着を付けたのは、家康の事前の工作に基づく小早川秀秋の軍勢の裏切りだった。そうなると、いかに井伊や本多が奮闘したといっても、この戦争の勝敗を決定したのは、徳川一門以外の戦力であったことは明らかである。誰よりも明瞭にこの事実を認識していた家康は、この戦いの後にまず戦功があった豊臣系大名に対して所領の大盤振舞を行った。それは同時に、それらの大名に対して、従来の所領を従来通り統治する権利を認めたことをも意味している。江戸幕府はこの時点で、日本を中央集権的に一元化して統治するための基盤を放棄した、と言えるだろう。こうして、江戸時代全体を通じて、それぞれの藩が独自の方針で統治できることになったわけである。その後力をつけた幕府によって次々と設けられた、参勤交代、さまざまなご用普請の強制、転封や改易などといった手段による厳しい統制にもかかわらず、各々の藩による統治という原則は維持され、この後江戸時代を通して、各藩が相互に競争し合い、各地に多種多様な御国文化を開花させるための地盤が用意されたわけである。

⑯ 笠谷和比古著『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』、東京(講談社)1994、134ぺージ(西軍約8万)および146ぺージ(東西両軍15万)、藤井譲治編、前掲書、46ページ(東軍7万余、西軍8万余)、井上光貞他編『日本歴史大系8 幕藩体制の成立と構造』、東京(山川出版社)1996、151ページ(東軍約10万、西軍約8万)。

⑰ 家康を守る3万人は傍観し、吉川広家が制した毛利軍などはサボタージュしたようである。サボタージュしていた小早川秀秋の軍勢は徳川軍の銃撃を受けて、約束通り東軍に寝返った。

⑱ 笠谷和比古著、前掲書、137ぺージ以下。

⑲ 同上、151ページ以下。

⑳ 藤井譲治編、前掲書、51ページ以下。特に52~3ページの表1参照。


3. 江戸幕府が生まれる前に豊臣政権が存在して、国家統一のためにいろいろな試みを実行していたことは、様々な仕方で徳川政権の国家統一の推進を助けたはずである。まず秀吉による朝鮮出兵の失敗は、江戸幕府に対外戦争を抑制させ、先に見たような平和政策の貫徹を容易にした。また全国統一のために不可欠であった検地や刀狩りによる兵農分離政策 も、すでに秀吉の手で実行されていたために、家康は比較的抵抗なくさらに徹底して推進することができた。外交政策やキリシタン対策に関しても同様のことが言えそうである。淀君母子を抹殺した大坂の陣によって、後世の人々が抱いている彼の印象が悪化したことは否定できない が、久しく続いた戦乱の世の後に、安定していて永続的な支配体制を残すという目的のためにはやむを得なかった、とする弁護の声には説得力があるようである。事実家康は、当時の日本の状況の中ではこれ以上のものは考えられないほどの安定して永続的な体制を構築することに成功したと言えそうである。まさにこの安定と永続性という側面に、江戸幕府の最大の強みがあった。もちろん時代が下がって戦乱の時代が忘れられるころになると、そうした性格は煩わしい制約として人々を悩ますことになるはずだが、150年以上におよぶ戦乱が収まったばかりのこの時代の日本人にとって、安定と永続性こそ、統治者に最も強く求められていた特性だったと言えるであろう。そしてそれは信長や秀吉の政権には期待し得ないものであった。刀狩りによって戦争に駆り出される心配がなくなり、検地に基づく年貢制度によって税の負担に一定の歯止めがかかり、農業に専念することが可能になった農民は、小家族に分立、独立していく社会の中で、個々人が一定の村の規則に従いつつも、自分の利益のために働くことが可能になったのである。職人や商人に関しては、基本的に江戸幕府の財政基盤としてはあてにされていなかった分、平和、安定、永続性を追及する社会の到来はさらに有利に作用したはずである。農民も可能な隈り米作以外の分野に手を伸ばして、職人や商人と利益を分けあった。こうして当初は耐え難いほどの負担に見えた年貢の負担も、さまざまな副業の収入によって、現代の所得税などよりも軽微な負担となった地域も少なくはなかったようである

㉑ こうした政策は、身分を固定化して幕府権力の安定をめざしたものとして従来は批判的な見方が強かった。それに対して、尾藤正英著『江戸時代とはなにか 日本史上の近世と近代』、東京(岩波書店)1992、38ぺージは、「しかし支配者の権力意志だけでは、270年に及ぶ平和の持続を可能にした条件の説明としては、不十分であると思われる。むしろ右にみたような「役」の体系としての社会を作りあげ、かつそれを強大な武力と法規との力により安定的に維持することをめざしたのが、この時期の支配者たちの主要な意図であって、それはある程度まで国民全体の要求にも合致するものであったために、その政策は成功し、その結果として政権の維持も可能になった、とみるべきではあるまいか」と理解を示している。

㉒ インターネットによると、「家康をののしる会」は旭堂南陵が大阪の講談師らしい特色を出そうとして1975年に始めたもので、関西の不景気も、阪神タイガースが負けるのもすべて家康のせいにしてののしる講談の集いで、2006年の12月に復活したらしいが現状は分からない。たしかに笑える企画であるが、逆に家康の影響力の大きさの証明とも言えないことはない。

㉓ 佐藤常雄・大石慎三郎著、前掲書、111ぺージ以下、117ページには「現実には10パーセント未満の税率になるものと思われる」とある。たしかにそうしたことは言えるし、現代のサラリーマンの税率と比較した場合には、当時の農民の実質の税率の方が低い場合があるかもしれない。ただし農民同士を比較した場合には、「トオゴオサンピン」などと言われるとおり、現代は第一次産業の所得の捕捉率が低いので、一律に年貢を課せられていたという事実だけでも、当時の農民は現代よりも厳しい条件の下にあったのではないだろうか。


4.  前項で記したような条件が確立されると、当然人々は可能性を最大限に生かして自己の利益を追及するはずである。こうして安定と永続性とは、一見そうした特性とは正反対に見える開発への意欲を刺激することになる。余裕がある個人もそうだが、上からの制約や強制的な出費がいろいろあっても、独立採算性が認められていて開発の利益を確保することが可能となった各々の領主たちも、当然自領の開発に熱中した。先に挙げた私の泥縄式勉強のための虎の巻の中でも、大石慎三郎が分担した「1. 国土利用の転換点」の「大開拓の時代」の項には、おそらく専門家にとっては常識だと思われるが、私のように無知な門外漢には目から鱗がおちるような事実が、次々と指摘されている。その項ではまず戦国時代から江戸時代前期にかけての時期は、日本列島の三つの画期の内の一つであるとされていて、その後に「日本における耕地開発の推移は、中世の室町時代中期を1とすれば、江戸時代初頭の江戸時代成立時には1.7、江戸時代中期の享保では3となり、いかに耕地造成の規模が大きく、開発のスピードが速かったかをうかがうことができる」 という一文が続く。普通「新田開発」と呼ばれている江戸時代前期の耕地開発は、幕府、諸藩、土豪、商人、そして農民自身の手で進められ、それよりも長く続いた戦国時代の1.86倍の規模におよんでいるのである。もちろんこの時代の開発事業は新田に限られていたわけではなく、大小様々な規模の治水・潅概工事を始め、鉱山の開発、道路や水路、神社仏閣の建設など多岐にわたって進められ目覚ましい成果を残している

㉔ 同上、31ぺージ以下。

㉕ 江戸時代とは、新田開発と河川修理、森林の保護などの他、江戸城および江戸自体の建設、各城下町や五街道をはじめとする主要道路と水路の建設と整備、佐渡金山、石見銀山その他の鉱山の開発、日光東照宮や寛永寺その他の造営など、それぞれが研究の対象となるような建設と開発が相次いで行われ、日本らしい景観を完成させた時代であった。


 このように多年にわたる平和、地方分権、安定と永続性を指向する政策、開発など、簡単に列挙しただけでも、江戸幕府発足後に確実にモンタペルティ現象が発生していたと推測し得る手掛かりは少なくない。たとえば私のように事情にうとい門外漢でさえ、明らかに先の書物の著者たちとは系統を異にしていると推察し得る、佐々木潤之介『江戸時代論』 でさえ、「江戸時代の石高全体の増加の様子を一年平均でみると、17世紀前半で10万石弱、17世紀後半で5万石余、18世紀以降は4万石弱である。17世紀の前半に大規模な耕地造成(新田開発)がおこなわれたことがわかる」 という文章で、元和偃武以後半世紀間の日本人の開発熱を証言していて、終戦とほとんど同時にモンタペルティ現象が発生していた可能性を示唆している。

㉖ 佐々木潤之介著『江戸時代論』、東京(吉川弘文舘)2005。

㉗ 同上、322ぺージ。


 しかし同書の総論に当たる部分において以下の文章に記されている現実は、モンタペルティ現象の明確な発現を何十年も遅らせていた可能性も感じさせる。

「17世紀なかばころまでの年貢は、二公一民・五公五民などといわれた。この重い年貢を収めたあと、農民の手元には、かつがつの生活に必要なもの以上の物は残らなかった。そのような状況のなかでも、農民たちの生活と生産のための努力が続けられたが、鎖国が完成した直後に、全国的にはげしい凶作が農村をおそった(寛永飢饉)。とくに、小農民たちは打撃をうけ、農村は荒れはてた。年貢を確保できなくなることをおそれた幕府は、田畑を売買することを禁じ(永代売禁令)、それまでの農政を修正して、衣食住にわたって農民の生活を細かく定め、農業生産を高めるための手だてをし、援助をした。また大名や旗本に、それぞれの領地の農民の支配と管理を入念にするように命じた。幕府や大名たちは灌漑用水の整備や新田の開発をするなど、農業の振興に力をそそいだ。大名や旗本たちにとって、その領地を安定的に治めることが、将軍に対する忠義ともなった。加賀前田領の改作法などは、その大名の農政の代表的なものであった。ようやく危機から立ち直った小農民たちの、その後の成長は著しかった。寛文・延宝期(1660~70年代)になるとほとんどすべての家が小家族の家となった。」

㉘ 同上、16~17ページ。


 もしもこの通りだとすると、日本人の大半が敗戦した側の関係者となった元和偃武の効果の現れ方はかなり遅かったかも知れないが、江戸幕府という体制がすでに見たとおりまず何よりも平和の維持、各藩の独立、そして安定と永続性などを基礎としている事実を認めるならば、この体制が備えていたさまざまな美点の遅効性こそ江戸幕府の特性の一つだったのであり、筆者はそのためにこの現象が全面的に現れる時期が多少遅れたのだと言いたい。

 このように、まず敗戦の概念を一つの戦争の敗北に限定せずに、長期にわたって続いた一連の戦争の最終的結果にまで広げ、さらに敗戦した側の関係者を、自ら直接戦争に加わった場合はもちろんそうだが、たとえ自らが戦争に直接参加していなくとも、敗戦の結果の影響から逃れることができない人々全員にまで広げることによって、江戸幕府やそれと同様一つのまとまった世界を制覇した権力の成立は、この種のモンタペルティ現象を引き起こしている可能性が高いことを、筆者はまず指摘しておきたい。そうした制覇が良い結果をもたらすか否かは状況次第であるために、それはあくまで可能性であって必然性ではないことは、今更断る必要はあるまい。

 そうした一例としてすぐに我々の頭に浮かぶのは、長い内乱の時代が終わってオクタウィアヌスが第一人者に選ばれた時代のローマである。久しく続いた一連の戦争の結果を一つの敗戦と見なし、それまで共和制の下で有していたオクタウィアヌスと対等の権利を失い、彼の下に臣従することになったローマ市民全員を敗戦した側の関係者と見なすことによって前提条件を整えた後に、すでに塩野七生著『パクス・ロマーナ ローマ人の物語Ⅵ」 によって明らかにされている、オクタウィアヌスの統治の美点のいくつかを列挙すれば、ほとんど江戸時代の場合について論じた場合と同様の自然さで、そこにモンタペルティ現象が発生していたことを証明し得るものと予測される。しかしその論証の仕方は、すでに江戸時代に関して行ったものとあまりにも似すぎてしまうように思われるので、本章ではもう少し毛色が違い、ある意味でやはり大いに論議の余地のある事例を取り上げることにする。

㉙ 塩野七生著『パクス・ロマーナ ローマ人の物語Ⅵ』、東京(新潮社)1997。


 その事例とは、13世紀初頭にモンゴル族を統一して中央アジアに広大な帝国を築いたチンギス・カンとその子孫が形成したモンゴル帝国の支配下におかれた人々の間で発生したと予測されるモンタペルティ現象 である。とりわけクビライによる支配が確立された中国では、江戸時代初期に勝るとも劣らぬモンタペルティ現象が発生していたのではないかと筆者は想像している。

㉚ 江戸幕府やローマの帝政とは異なり、当然この場合征服王朝によるモンタペルティ現象をどう見るかという、厄介な問題が現れる。


 といってもこの方面の事情にうとい私は、他の事例の場合と同様、何冊かの概説書に全面的に頼らざるを得ないことを白状しておかなければならない。何しろ私のこの方面に関する知識ときたら、いくつかの版で読んだマルコ・ポーロの『東方見聞録』 程度に過ぎないのだが、この時代を知るためのニュース・ソースとして杖とも柱とも頼むマルコ・ポーロの存在自体が、杉山正明著『クビライの挑戦 モンゴル海上帝国への道』 や同じ著者による、『モンゴル帝国の興亡(上) 軍事拡大の時代』 および『モンゴル帝国の興亡(下) 世界経営の時代』 などにおいて疑問視されているのだから、はなはだ心細いと言わざるを得ない。と言っても、ジェノヴァの捕虜を収容する牢屋で、マルコ・ポーロが語った事柄を、ピサ人の捕虜仲間ルスティケッロがイタリア語なまりのフランス語で記したものと伝えられている、原題を直訳すると『百万』 というこの書物の内容そのものは、当時の権威ある文献の記録と一致しているそうだから、私達の目的のためには、その著者マルコ・ポーロの存在の有無にこだわる必要はそれほどなさそうである。それに加えて少なくとも欧米の研究では、マルコ・ポーロは堂々と存在していて、2004年にアメリカで出版され、早くも2006年に『パックス・モンゴリカ チンギスカンがつくった新世界』 というタイトルで翻訳が刊行されたウェザーフォードの著書の中でも、『百万』は信頼できる資料として用いられている。さらにイタリア史研究の権威ジョン・ラーナーも、マルコ・ポーロについて立派な研究書を刊行しており、その翻訳が近年日本でも出版されている㊴。 

㉛ 岩村忍著『マルコ・ポーロの研究』、東京(筑摩書房)1948、はかなり分厚い本だったように記憶しているが、『東方見聞録』の翻訳が読み易くアレンジされ、解説されて入っていたのではなかったか。それが私が最初に読んだ『東方見聞録』だった。現在最も入手しやすいのは、愛宕松男訳『東方見聞録1・2』、東京(平凡杜)2000。

㉜ 杉山正明著『クビライの挑戦 モンゴル海上帝国への道』、東京(朝日新聞社)1995。

㉝ 同上『モンゴル帝国の興亡(上) 軍事拡大の時代』、東京(講談社)1996。

㉞ 同上『モンゴル帝国の興亡(下) 世界経営の時代』、東京(講談社)1996。

㉟ ISTITUTO DELLA ENCICLOPEDIA ITALIANA, DIZIONARIO ENCICLOPEDICO ITALIANO, ROMA 1970, Vol.IX, pp.596-7.

㊱ Ibid., Vol.VII, p.758.

㊲ J.ウェザーフォード著・星川淳監訳・横掘冨佐子訳『パックス・モンゴリカ チンギス・ハンがつくった新世界』、東京(日本放送協会)2006。

㊳ たとえば、同上の348ぺージで交易路の「駅」の美しくて豪華なことの証人にされている。

㊴ ジョン・ラーナー著・野崎嘉信・立崎秀和訳『マルコ・ポーロと世界の発見』、東京(法政大学出版局)2008。


 私個人としては、イタロ・カルヴィーノが彼を通してフ(ク)ビライに報告させた「見えない都市」と同様、マルコ・ポーロ自身は実在していなくても何一つ差し支えないのだが、その場合何者かが、旅行家マルコ・ポーロという人物をでっちあげて、彼に延々と語らせるなどという面倒なことをなぜしなければならなかったのか、何よりもその動機が知りたいと思う。ただしたとえば紀貫之が女性に扮して『土佐日記』を書いたように、物々しい肩書付きの高位聖職者の使節などの場合、無名の庶民に成り済まして著述するという作業の解放感が、それだけで十分動機となり得たことをも認めなければならないのかも知れない。あるいはカトリックしか公式に認めていない当時のヨーロッパ諸国の宗教政策に抵触する恐れがあったために、そうした粉飾を行ったのか。それともそれ以上に深い意図が隠されているのであろうか。

㊵ イタロ・カルヴィーノ著・米川良夫訳『マルコ・ポーロの見えない都市』、東京(河出書房新社)1972。


 マルコ・ポーロの実在を巡って脱線しすぎたが、クビライが宋を征服した際の襄陽と樊城の陥落(1273)から鄂州の接収(1274)や賈似道の蕪湖の敗戦(1275)を経て臨安無血入城 にいたる一連の戦い全体を「敗戦」と見なし、かつての南宋の国民全員を「敗戦した側の関係者」と見なすならば、この敗戦によってかつての南宋の国民の多数の間に好ましい結果がもたらされていたこと、すなわちモンタペルティ現象が発生していたことは、ほぼ疑いの余地がなさそうである。紙数も限られているので、そのように判断し得る理由を以下で箇条書しておくことにする。

㊶ 杉山正明著『モンゴル帝国の興亡(下) 世界経営の時代』、前掲書、86ぺージ以下。

㊷ 同上、100ページ。

㊸ 同上、102ページ。

㊹ 同上。


1. すでに長い戦乱を勝ち抜いてきたモンゴル人は、戦いや占領に関して十分経験を重ねていて、その戦い方も初期のころに中央アジアの平原で繰り広げられたもの に較べるとはるかに洗練されたものになっていた。たとえば先に挙げた杉山正明著『モンゴル帝国の興亡(下)……』の記述などによると、クビライによる南宋の占領は、大規模な土木工事や忍耐強い外交交渉によって、なるべく流血を避けるように配慮され、しかも投降した敗者に対してきわめて寛大なものであり、従来の地位をそのまま保証して味方として活用するケースもしばしば見られたということである。その結果として皮肉にも抵抗が長引き、関ヶ原一発で帰趨が決した江戸幕府の成立とは違って抵抗勢力の鎮圧までに時間がかかった上に、その後も日本(1274・1281)や東南アジアヘの遠征 などのために、平和が到来するまでに長い時間を要したけれども、その分豊かな南宋の人材や資産のかなりの部分は次代に活用されることが可能になった。しかも人口比にして1000対1 と言われるほど少数だったモンゴル人の支配であったがために、善政を布かないかぎり永続しないことは、十分理解されていた。何しろすでに江戸幕府の版図のおそらく何百倍もに匹敵する広い領域を支配下においていたモンゴル勢力は、その最後の仕上げとして、経験と人材の粋を活かし、この先進地域の統治に着手したわけである。このように南宋の人々は出発点からして恵まれていたと言えそうである。「設立された公立学校の数は2万0166校にのぼる」 という事実に代表される善政が布かれて、かつての南宋の国民の大多数の生活に貢献したことは疑いの余地がないものと思われる。

㊺ 杉山、ウェザーフォードの書物は、モンゴルの初期の拡大時代の戦闘について、モンゴル側が恐怖作戦を用いたせいもあって、殺戮した人数は誇張されている、としているものの、それでも敵対する多数の兵士や住民を殺害していたことは確かである。

㊻ 同上、94ぺージの呂文煥の処遇は、その代表的な例である。

㊼ 同上、124~140ページ。我が国にとっては大きな国難であったモンゴル軍の来襲だが、モンゴル側の資料から見ると、日本やジャワなどを襲って敗退した軍勢は、本格的に戦うために編成された軍隊ではなかった、ということである。一度目では大した被害を受けたという自覚はなかったようだし、二度目の来襲には、無傷のまま接収した南宋の膨大な数の軍人の失業対策的な意味があり、多数の移民船を伴っていたということである。そして三度目に本格的な進攻が企画されていた時、東方三王家の大反乱が勃発して、日本遠征どころではなくなったらしい。ジャワから撤退した軍勢などは、「出先の出先が、それぞれの裁量で「現地任用」した出来合いの部隊と言ってよい」(140ぺージ)そうである。こうした軍事路線から、ナヤンの反乱(1287年)を機に、平和友好路線へと転換された、とされている。

㊽ ウェザーフォード著、前掲書、384ページ。

㊾ 同上328ぺージ。こんな細かい数字がどのようにして算出されたのであろうか。


2.  前項でも指摘した通り、江戸幕府の場合と比較すると、日本やジャワの征討に失敗するなど、平和の到来までに多少もたついた感は否定できないけれども、強大なモンゴル帝国の一部に併合されたことは、国民たちの生活に長期にわたる平和をもたらしたことは否定できない。1242年にポーランドやハンガリーから自発的に撤退して北西の限界を画し、1260年にエジプトのマムルーク王国に敗れたことで南西の境界線が引かれたころから、無限に広がるかに見えたモンゴル帝国にもようやく限界が見え始めたようである。「1242年から1293年のあいだにモンゴル帝国は最大限に拡張し、四つの戦がモンゴル世界の境界線を画すことになった。ポーランド、エジプト、ジャワ、日本である。これら四つの地点を結ぶ版図の内側は徹底的な征服を受け、従来とはっきり異なる種類の統治に根本的な順応を強いられたが、そのいっぽうで、一世紀という前例のない期間、平和を享受し、商業・技術・知識の面で空前の爆発的発展をとげることになる」 というウェザーフォードの文章には、たとえば中国でモンゴルの平和ははたして丸一世紀続いたのか(51)、などという基本的な事実関係に関する疑問が生じはするものの、その言わんとすることにはおおむね賛成できるのではないだろうか。

㊿ 同上、338ページ。

(51) 愛宕松男・寺田隆信著『モンゴルと大明帝国』、東京(講談社)1998。「第八章 中華帝国の復活・太祖洪武帝(寺田分担執筆)」の冒頭(257ページ)で、「胡虜に百年の運なし」という予言が当たって、モンゴル族による中国全土の支配は90余年で崩壊したとある。


3. クビライが統括するモンゴル政権と江戸幕府の最大の違いは、後者が経済の基盤を農業に求めたのに対して、前者は商業に求めた点にある。だから、平和の到来こそ多少もたついたものの、モンタペルティ現象の発現は、江戸幕府よりもずっと早くかつ大規模だった可能性が高い。華南の豊かな米作地帯を占領したにもかかわらず、モンゴル政権の中央政府は財政を農業に依存させる意図を全く持たなかったらしい。以下は、全く杉山正明著『クビライの挑戦……』からの引用であるが、「中央政府の収入の80パーセント以上が塩の専売による利潤であった。くわえて、10パーセントから15パーセントにのぼる商税の収入があった。(中略)まったくといっていいほど農業生産物にはたよっていない。そちらは、地方財政にふりあてられた。その土地でできたものからえられる税収は、その土地でその土地のために使ってしまう。これが、クビライ政権の基本スタンスであった。」(52) さらに同書では、クビライ政権が通過税を取らず、最終の売却地で「売りあげ税」をはらえば良いことにしていて、その税率は一率に30分の1、およそ3%と定められていたとされている(53)。 率直にいうと、こうした記述からいろいろな疑問が生じることはたしかである。たとえば塩の専売だけで税収の80%以上がまかなえたという事実から、国民はよほど高い塩を買わされていたのではないかなどと考えてしまうし、「売りあげ税」はたしかに安いが、マルコ・ポーロが衣料材料などに課せられたと語っている「十分の一税」(54) との関係はどうなっているのかとか、あるいは国民にとっては中央政府であろうと地方の役所であろうと税の痛みは同じだから、地方の役所から課せられる税負担は重くはなかったのか等々、できれば著者にたずねてみたい質問が即座に次々と浮かび上がる。しかしたとえそうした疑問点が多少残るとしても、13世紀の最後の四半期に、モンゴル支配権の中に出現した巨大な市場が世界史上前代未聞ものであったことや、この時代にクビライらモンゴル人君主の治下でまさに未曾有の規模で商業が繁栄したことをを疑う人はいないし、今更筆者が受け売りを繰り返す必要はないものと思われる。こうした市場の存在や商業の繁栄だけでも、クビライの支配下でモンタペルティ現象が発生していたことに疑問の余地はないものと思われる。

(52) 杉山正明、前掲書、204ぺージ。

(53) 同上、205ぺージ。

(54) マルコ・ポーロ著・愛宕松男訳注『東方見聞録1』、東京(平凡社)2000、263ページ。


 モンタペルティ現象の存在を証明するために利用させていただいた何冊かの書物は、ほぼ全面的にモンゴル人の活動を肯定的に捉えたものであった。そしてそれらの概説書が口を揃えて嘆いているのは、従来世界中の人々がモンゴル人の征服と支配に対して抱いていた誤解と偏見についてであった。ところが主に中国の資料に基づいて書かれた元代に関する概説書(55) を瞥見すると、クビライの短所を嗜利黷武しりとくぶ=利を貪るのあまり収斂(税のとり立て)の政を顧みず、武功を頼んで無名の用兵をみだりにすること)だとするきびしい批判を正当なものと認め、それが個人の資質か征服王朝の特性かを吟味する(56) など、これまで利用した書物類とはまったく異なった空気が流れているのである。そして問題の人物マルコ・ポーロも、必ずしもクビライの統治を手放しで賛美していたわけではなく、たとえば十二名の大官の一人で死刑にする権利を乱用して多くの女性を辱めたアクマッド(57) の悪行を伝え、それに関連して「カーンはカタイ人に全幅の信頼を置かず、この地の統治は一にこれをタルタール人・イスラーム教徒・キリスト教徒などといった自分の身近に仕える忠誠な人々のみに委任した。換言すれば、カタイに縁のない人々にカタイ国の統治を委ねたわけであった」(58) と語っている。このように外国人の支配の下で発生したモンタペルティ現象の場合、いかに経済的に繁栄していても、その評価をめぐってさまざまな意見が生ずることは当然であり、むしろ不可避な事柄だと見なすべきだろう。モンタペルティ現象に関しては、今後考えなければならない事柄が多数存在するが、征服王朝下のモンタペルティ現象はまさにそうした問題の中でも特に重大なものの一つだと言えるであろう。

(55) 本章の注(51) 参照。

(56) 同上、「第七章 元朝の末路(愛宕分担執筆)」の冒頭(234ページ)で紹介された、清の乾隆朝の史家趙翼のクビライに関する論評。

(57) マルコ・ポーロ、前掲書、294ぺージ以下。

(58) 同上、298ページ。


 いずれにせよ、こうした型のモンタペルティ現象が世界史上に繰り返し発生して、世界の文明を豊かにしてきたことはほぼ確実だと言えるのではないだろうか。このように敗戦にもさまざまな積極的な効果が存在することは明らかであるにもかかわらず、これまで論じられることが余りにも少なかった。今後はさらに学識豊かな各方面の専門家によって、モンタペルティ現象をめぐるさまざまな問題が解明されることを期待したい。




まとめ



 筆者は本論の「はじめに」の部分で、従来敗戦がもたらす積極的な効果に関する研究が余りにも乏しい現状を指摘して、その不備を補うために、モンタペルティ現象の概念を拡張し、「敗戦が、経済・文化・歴史的に見て、敗北した側の関係者の多数に好ましい結果をもたらしていると見られる現象」と定義した。またそれに該当する事例を、単独で発生した場合、二個以上が連続して発生し共存している場合、ある領域内全体に波状に広がっている場合の三種に分けて論じることにした。

 第一章は、モンタペルティ現象が単独で発生した場合を扱い、その代表として倭国の水軍が朝鮮半島で体験した白村江の戦いを取り上げた。この敗戦の後にいかに国土の防衛が強化されたか、また天智大王の没後壬申の乱が発生し、新しい王朝の主天武が、倭国から日本へ移行するためにいかに大きな改革を行ったかを示して、白村江の敗戦がモンタペルティ現象をもたらしたことを証明した。それに類した敗北として、漢の高祖の冒頓単于に対する敗北や、その先例にならって戦う前から敵と妥協することを選んだ宋の遼に対する外交や、南宋の金に対する外交など、あるいは秀吉の失敗から学んで外国への出兵を避けた江戸幕府の方針など、後世に好影響をもたらしたと思われる敗北や妥協の事例を吟味した。

 第二章はすでに筆者が何度となく論じたフィレンツェのモンタペルティ現象に続いて、シエナで発生していたと推測されるモンタペルティ現象を論証した。まず1269年にシエナ軍がトスカーナのグェルフィ(教皇派)党軍に敗れた経緯を記した後、敗戦後のシエナでは、閥族を排除して、上層市民を中心とした9人委員会体制が成立したが、これがいかにすばらしい善政を布いたかを、具体例を挙げて論証し、その成果を示すことでこの時期のシエナでモンタペルティ現象が発生していたことを証明するとともに、すでにフィレンツェで発生していたモンタペルティ現象が、シエナのモンタペルティ現象の発生のために好影響を与えていたことをも示唆した。

 第三章では、ある領域全体を制覇した政権の下では、部分的に高低の差があるいわば波状のモンタペルティ現象が発生し易いことを指摘し、その実例としてまず江戸幕府を取り上げた。平和政策、藩の自治、安定と永続性、旺盛な新田開発の意欲などといった特性から、江戸時代前期にはモンタペルティ現象が発生していたことを論証した。次いでモンゴル帝国に併合されたかつての南宋国民にも、同様の現象が起こっていたらしいことを推測した。内戦が終息し、帝政が始まったばかりのローマでも同様の現象が認められるのではないだろうか。このようにモンタペルティ現象は、ある文明の成立のための原動力となっていた可能性が高いのである。



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