モンタペルティ現象5-3


冷戦後世界のモンタペルティ現象

米山  喜晟


第三章 なぜ現在中国人だけが元気なのか


 私たちは前章において、冷戦後世界でモンタペルティ現象が発生するために必要だと考えられる三つの基本的条件を設定した。続いて、かつて東側陣営に属した国々の内、それらの条件に合致する国々を選抜した。その結果、それらの基本的条件に合致していたのは、ロシア連邦、ヴェトナム、中国、ラオスの4カ国であった。本章ではその4カ国に関してさらにくわしい検討を行い、前章で推定したモンタペルティ現象の発生原理に基づいて、冷戦後世界で現在実際に発生しているモンタペルティ現象の発生過程を追跡する。

 前章で選抜された4カ国に関して具体的に考察を行う際に、まず忘れてはならないことは、複数の国々がモンタペルティ現象の恩恵に浴する場合も有り得るということである。すなわち、先に挙げた4カ国すべてにこの現象が発生することも、あり得ないわけではない。しかし、もちろんその可能性には程度の差が存在する。本章ではそれぞれの国について、前章よりもくわしく吟味するが、その際の基本原理は前章のそれと同じなので、本章で行う作業は、前章で行った吟味をさらに詳細にわたって検証するに止まる。一般の敗戦後に発生するモンタペルティ現象の場合、それが発生するための原動力は、敗戦前と敗戦後との間に生じる戦争に対する姿勢の転換であった。それと同様に冷戦終結後の場合でも、やはりこの現象が発生するためには、資本主義に対する姿勢の転換が不可欠である。この論理に従うならば、冷戦後にこの現象が発生するためには、冷戦の進行中に資本主義との戦いを積極果敢に実践していて、冷戦終結の過程でそうした戦闘的な姿勢を明確かつ急激に転換して資本主義と和解し、冷戦後には国際社会と協調して、資本主義的活動を展開しなければならない。したがって前章の判定の際に用いた、冷戦の最中にいかに積極果敢に資本主義と戦っていたかという実績の違いこそが、それぞれの国でモンタペルティが発生する可能性の大小を左右している要素なのである。このような原理に基づき、上述の4カ国において資本主義との戦いぶりにどのような差が見られるかを確かめる必要がある。

 この点に関して、インドシナ半島の二国には他の二国に比して明らかに不利な点があるように思われる。まずラオスに関しては、人民民主共和国の建国がヴェトナム戦争に敗れたアメリカ軍の撤退という外的条件に影響されている点や、その建国が1975年の12月と、他の東側諸国に較べて著しく遅いために、1986年のチンタナカン・マイ(新経済政策)発表までの期間がわずか約10年と極めて短いという事実によって、たとえ建国直後に国内で相当過激な共産化が進められていたとしても、転換以前に行われた資本主義との戦いの実績は、他の三国に比較してはるかに乏しい、と言わざるを得ない

❶ 桃木他編『東南アジアを知る事典』、東京(平凡社)2008、580ページ、にラオスで経済自由化と市場経済化への改革が行われ、2006/07年度に初めて貿易黒字化を達成したとされている。共同通信社、前掲書、208~209ページ。


 それに対してヴェトナムの場合は、ハノイの政権の樹立は中国よりも古く、統治期間の長さやその実績は中国に勝るとも劣らないものである。ただしこの国がおかれていた立地条件のために、国土を完全に統一するまでの期間が極めて長くかかっている点が問題である。ソ連の場合は(その後も多くの地域が併合されたとはいえ)早くも1922年、中国においても1949年の時点で国土の大半を統一しているのに対し、ヴェトナムでは南北統一を実質的には1975年まで、公的には翌76年4月まで待たなければならなかった。ヴェトナムはそれまでの間確かに戦い続けていたし、その相手は世界一の超大国アメリカが率いる連合軍であり、その戦いは考えただけで気の遠くなるほど苛酷な戦いだったのだが、彼らが戦い続けた相手は資本主義そのものというよりもその特殊な形態である植民地主義であり、同時に彼らの戦争は革命戦争というよりも、国土を統一するための独立戦争という性格が強く、その分資本主義との戦いという意識が希薄だったことは否定できないであろう。とりわけ南側の半分に関しては、76年に統合されてからまだ日が浅く、その部分の条件はラオスとほとんど等しいことを認めざるを得ないのではないだろうか。それだけに中ソ両国に比較すると、この国が統一された後に全土で展開された資本主義との戦いにおける蓄積は小さく、中国に遅れること8年目の1986年12月に提起された、市場経済を一部導入するドイモイ(刷新)政策が与えた衝撃も、中国の改革開放政策などと比較すると限定的なものであったと言わざるを得ない。したがってたとえこれらの国々で冷戦後にモンタペルティ現象が発生しているとしても、第一条件に関する蓄積が比較的小さいために、その勢いは中ソほど大きなものにはなり得ない、と予測することができるであろう。

❷ 桃木他編、前掲書、550~565ページ、特に554ページ以下あるいは560ページ以下にドイモイに関する記述が見られる。さらに共同通信社、前掲書、204~207ページ。


 とは言っても、ラオスはようやく1991年以降西側諸国に門戸を開き、ヴェトナムはさらに遅れて1995年にアメリカと和解して西側諸国との関係を深めつつあるというのが現状であり、転換が実行されてからまだ日が浅く、これから発展が始まろうとしているところである。したがってこれら二国に関しては、目下のところそれほど顕著なモンタペルティ現象が現れておらず、また先に述べた理由によって中ソ両国ほど大きな可能性があるとは思えないが、それでも(とりわけ戦争に勝ち抜いたため、アメリカとの和解が遅れたヴェトナムでは)今後奇跡的な経済発展が発生する可能性がないとは言えない。

❸ 注❶ および❷ の資料の記述によるが、解釈次第で多少ずれるかも知れない。


 以上の二国に比較すると、中ソ両国に資本主義との戦いにおける歴史的蓄積がはるかに大きいことは、誰の目にも明らかである。すでに前章で見たとおり、ソ連では早くも1918年の時点で戦時共産主義体制が採用され、直ちに共産主義を実現する試みが行われた。しかしあまりにも過激な試みは多数の餓死者を出して農民や水兵の反乱を招くことになり、結局レーニンが生きていた1921年に、市場経済を一部復活させるネップを採用せざるを得なかった。しかしレーニンの後継者スターリンは、1924年に一国社会主義を打ち出した後、1929年の農業集団化の開始と第一次五ヶ年計画の採択によって、再び共産化に向けて大きく進路を変えた。この時の進路変更は、多くの反対者の粛清を伴っていたことでも有名である。スターリンに関しては、革命の同志たちの生命など顧慮することなく、自らの信じる共産主義社会実現という理想への道を突き進んだのか、それともライバルを倒して自らの独裁的権力を確立するために、共産主義の理想を利用したのかという疑問が発生する

❹ モンテフィオーリ、前掲書、上、95ページ以下。亀山、前掲書、65ページ以下。

❺ この時の左転回は、「クラーク(富農)に死を」を合言葉にしていたという。だからこの時の粛清は単なる手段ではなく、'それ自体が目的であったと見なし得るであろう。モンテフィオーリ、前掲書、95ページ以下。


 この独裁者の下でソ連の資本主義との戦いが準められていたまさにその時期、アメリカ発の大恐慌がソ連を除く全世界に波及したために世界の資本主義の基盤は大きく揺らぎ、その動揺の結果として世界は第二次世界大戦へと突入した。スターリンが強引に推進した重工業化政策が、この戦争を勝ち抜くために威力を発揮したことは否定できない。そしてスターリンの油断や彼が行った軍部の粛清による戦力の低下についてはきびしい批判があるものの、ヨーロッパでヒトラーをねじ伏せた主役が、スターリンの下に結束したソ連だったという事実は認めざるを得ない。フルシチョフの個入崇拝批判などの影響で、スターリンの死後のソ連には彼のように強力な独裁者は現れなくなったようだが、その後も社会主義国家としての国民に対するきびしい統制は続いた。いずれにせよ、ソ連では何度か共産化に向けての資本主義との戦いが激化して、その度に民衆が苛酷な試練に巻き込まれたことは確実である。

❻ フルシチョフのスターリン批判の秘密報告の中の一項目として、スターリンがヒトラーの侵略に備えず、多くの有能な軍事指導者をその地位から追いやり、粛清したことを告発している。


 おそらくソ連では、第二次世界大戦に勝利したという成功体験と、東側諸国約20カ国の盟主という名誉ある地位が、その後の体制の変化を容易に許さなかったものと思われる。官僚社会の硬直化と経済活動の衰退が日増しに顕著になり、国民の不満が高まっていたにもかかわらず、ソ連でこうした状況に対する本格的な改革のメスが入れられたのは余りにも遅く、1985年にゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任して、ペレストロイカ(立て直し)政策を提案するまで待たねばならなかった。それは計画経済の限界を補うために個人営業や協同組合を認めることに始まり、国営企業法の制定を通してソ連経済を刷新する試みにまで進んだものの、ゴルバチョフには共産主義体制を抜本的に改革する意志はなく、飲酒制限政策などによって、あくまで共産主義体制という現状の改善を目指すものであった。しかし国民の期待は、ゴルバチョフの意図をはるかに超えていたのである

❼ 上島、前掲書。中村、前掲書。佐藤優『自壊する帝国』、東京(新潮社)2006。イデオロギー国家の崩壊に、日本人のヨーロッパ宗教史の研究者が証人として立ち会っていた。同書の64ページ以下に「反アルコール・キャンペーン」の現実を描いた節がある。


 すでに記した通り、クーデターの失敗によってソ連は15の共和国に分裂し、その中心部分を引き継いだロシア連邦に人口の約半分が移行した。それらの共和国にはごく一部に独裁に近い体制が残ったものの、大半は少なくとも形式的には一院制または二院制の議会を持つ民主主義体制の国家に.生まれ変わり、それらの大半は現在ベラルーシのミンスクを首都とする独立国家共同体(CIS)に加盟している。このようにソ連は解体して、かつてレーニンがプロレタリアート独裁によって共産主義社会を実現するために採用した、共産党による一党独裁制を完全に放棄したのである。こうした国家の解体は当然経済危機を招いた。ソ連の本体の部分を受け継いで二院制の民主国家に生まれ変わったロシア連邦共和国は、1990年代にインフレや財政危機に悩まされ続け、その窮状は世界に喧伝されて、一時はそのまま没落しかねない有り様だった。フランシス・フクヤマ著『歴史の終わり』 はこうした状況を予見して、アイケンベリー著『アフター・ヴィクトリー』 はまさにそうした状況の最中に書かれた著書である。おそらく当時の世界には、ロシアでモンタペルティ現象が発生する可能性など、真面目に考えようとする人はいなかったに違いない。しかし苦境に追い込まれてからのロシアには、かつてヒトラーのドイツを捩じ伏せた底力でも見たとおり、私たちの予想をはるかに越えた回復力が備わっていたのである。世界第二位の生産量を誇る原油の急激な値上りを挺子にして、ロシア連邦は急速に立ち直り、いまや明らかに自信を取り戻しつつある。そして中国とともに最も有望な新興4カ国、BRICsの一角に加わり、世界の期待の視線を集めている、と言っても過言ではないであろう。それに較べると、冷戦時代の末期にジャパン・アズ・ナンバーワンと持て囃された日本 や、『アフター・ヴィクトリー』において1990年代の世界で「圧倒的優位を保っている」 と評価されたアメリカの経済力には、もはや昔日の輝きは見られない。

❽ CISは1992年12月に、ベラルーシのベロヴェーシの森で合意が成立し、1993年に12カ国が加盟した(ただし永世中立のトルクメニスタンは准加盟国)。

❾ フランシス・フクヤマ著、渡部昇一訳『歴史の終わり、上・下』、東京(三笠書房)1992。

❿ アイケンベリー、前掲書。

⓫ この呼び方は、投資銀行ゴールドマン・サックスのエコノミスト、ジム・オニールの2001年11月30日付けの投資家向けレポートのタイトルで初めて用いられた。

⓬ この言葉は、エズラ・F・ヴォーゲル著、広中・木本訳『ジャパン・アズ・ナンバーワン・アメリカヘの教訓』、東京(TBSブリタニカ)1979、のタイトルであった。

⓭ アイケンベリー、前掲書、293ページのフランス外相ヴェドリーヌの演説。同様の趣旨のことは、同書の234ページや252ページ以下にも記されている。


 1948~49年に大陸の領土の大半をまとめ上げ、1949年10月中華人民共和国の建国を宣言した毛沢東も、スターリンと同じ謎に包まれていると言えるだろう。1949年蒋介石の国府軍を台湾に追い落として、国家の大半をまとめあげるまでの毛沢東は、軍紀を厳しくして住民の信頼を獲得し、地主の土地を小作人に分配する「土地革命」によって貧農層の心をつかむなど、的確な指導によって英知に輝いているかに見えた。1950~60年代の日本にも、毛沢東の信奉者が多数存在していたように思う。1950年、毛沢東が劉少奇たちの反対を押し切って、朝鮮戦争に100万の大軍を派遣した時も、その決断は国民にとっては苛酷なものであったが、一般的にはアジアの共産主義のリーダーとして、やむを得ない決断だったと評価されてきた。ところが1950年代の末ごろから、中国にはハエが一匹もいないとか、稲穂の上に寝られるほど稲が密に植えられているとかいう、信じられないような噂が伝わって来るようになった。どうやらそれは1958~60年に行われた大躍進政策に関する噂だったらしい。今日残されている記録を見ると、そのころから毛沢東の判断力は怪しくなり、その後回復することがなかったという印象を受ける。特に反右派闘争で反対者を一掃した後、自らが信じる共産主義の政策として推進した大躍進政策においては、まず全国に人民公社を広め、ようやく自分の土地を手に入れたばかりの農民たちに集団農業を強制した。しかも密植や深耕などという新しい手法を採用させて土地を荒らし、大量の肥料なしでは耕作できない土地が増えた。おまけに全国に小型熔鉱炉を建設して製鉄を試みたり、四害駆除運動によってスズメまで撲滅するなど、次々に繰り出された政策によって国民は大損害を蒙り、全国的に飢饅が発生して2000万~5000万人という大量の餓死者を出すに至り、1959年毛沢東は自らの政策の失敗を認めて国家主席を辞任した

⓮ フィリップ・ショート著、山形浩生・守岡桜訳『毛沢東・ある人生・上・下』、東京(白水社)2010、の上・249ページあたりから、毛沢東は共産党の指導者として本格的に活躍し始める。土地問題についての方針は、252ページ。中国共産党の革命を実現させる原動力となる土地革命についての方針を打ち出したのは、毛沢東自身であった。

⓯ 同上、下・96ページ以下。結果的には余りにも愚かな戦争だが、その主要な責任は金日成にあると見なさざるを得ない。

⓰ ショート、前掲書、下・157ページ以下。 李志綏著、アン・サートン協力、新庄哲夫訳『毛沢東の私生活・上・下』、東京(文芸春秋)、上・358ページ以下。李は毛が二度目にモスクワを訪問したあたりから異常な昂揚状態にあったことを証言している。


 しかし1965年の前後から、毛沢東とその仲間は、当時実権を握っていた実権派、彼らが走資派と呼んだ人々に対して戦いを開始する。演劇やエッセーの批判などという思わぬ分野で攻撃の火蓋が切られ、壁新聞などを通して攻撃はあらゆる分野へと拡がった。その動きは当時軍部を率いていた林彪によって支援され、毛沢東夫人江青らに扇動された紅衛兵が全国各地に現れ、首都北京に招かれて毛沢東に拝謁し、走資派と呼ばれる官僚や知識人や専門家に対して全国至るところで暴力を振るい、資本主義の残滓と見なされたありとあらゆるものを破壊した。スターリンは政敵を倒すのに秘密警察と強制収容所を用いたが、毛沢東は主に紅衛兵や人民自身を用いて走資派と戦った、とされている。しかしスターリンの場合と同様、毛沢東に関しても、彼が果して共産主義の理想のために革命の同志たちをあのように激しく攻撃したのか、それとも権力を奪取するための口実として共産主義という理想を利用したのか、という疑問が生じざるを得ない。ともかく中国では、共産主義社会の実現のために、文化大革命という資本主義との戦いが10年以上にわたって進められたことは事実なのである。

⓱ 中嶋、前掲書。厳・高、前掲書その他。

⓲ 文化大革命を調べれば、中国式の人民裁判の実態は明らかだが、中国にももちろん強制収容所は存在していて、その実態は、ユン・チアン著、土屋京子訳『ワイルド・スワン、下』、東京(講談社)1993、の第24章、「どうかぼくの謝罪を聞いてください」-----労働キャンプの両親(1969~1972年〕、などに記されている。


 田野倉稔著『ファシストを演じた人々』 は、ムッソリーニ支配下のイタリア人の実態を描いた痛快な本だが、おそらく文化大革命時代の中国人の多くも、「共産主義者を演じた人々」だったのではないだろうか。ところが現在の中国における共産主義の元祖マルクスの人気はというと、中国社会科学院が上からの指示で所属各研究所にマルクス主義研究センターを設けたが、内部の反発が強くだれも研究に参加しないため、看板倒れに終わっているということである。「今さらマルクス主義とは、時代が30年前に逆戻りする感じだ」というのが、研究者たちの感想のようだが、毛沢東が聞いたら何というであろうか。

⓳ 田野倉稔著『ファシストを演じた人々』、東京(青土社)1990。

⓴ 2010年10月9日付けの読売新聞、藤野彰編集委員が執筆した記事による。


 近年の評伝類によると、スターリンの一連の行動の動機は権力欲によるところが大きいようだが、毛沢東の動機もそれに劣らず権力欲によるところが大きいようである。しかし生きていたころの二人は、少なくとも世間一般の評価では、決してそのようには見られていなかった。スターリンと毛沢東の死に対して、当時の世界の多くの人々がどれほど哀悼の意を表したかは、勿論誇張されていたことは否めないが、当時の新聞を読めば明らかである。そして彼らが何か他人にはない特別な信念に基づいて、他人には見えない理想を追い求めているのではないかという幻想こそ、彼らのカリスマの基盤になっていたように思われる。たとえ史的唯物論の信奉者といえども、信仰に近いものや予言の影響などとは無縁ではないはずである。むしろそうした人々こそ、自分は唯物論者だという確信のために、かえってそうした影響に対して無防備である可能性が高いのかも知れない。筆者にはスターリンと毛沢東とそしてレーニンにも共通していたのは、共産主義社会を待望するマルクスの言葉、特に資本主義国家の崩壊に関する彼の予言への信仰だったのではないかと思われてならない。ただし毛沢東には、中国の歴史書の耽読というもう一つの趣味があり、彼はそこからも同時代の他の政治家たちには思いも及ばぬ発想を汲み取っていたらしい。いずれにせよ毛沢東は、自分より1歳若いフルシチョフよりも、17歳年長のスターリンをはるかに敬愛していて、1956年にフルシチョフが行ったスターリン批判に、自分に対するあてこすりを感知して怒った形跡がある。これら二人のリーダーの不和のために、スターリン時代には一枚岩の結束を誇った東側陣営も、1960年以降は中ソ対立の時代に入り、中国はかつてソ連と争ったユーゴスラヴィアの例にならい、東側陣営から非同盟の第三世界へと移行してしまう

㉑ スターリンについては、モンテフィオーリ、前掲書および亀山郁夫、前掲書など。毛沢東については、ショート、前掲書、李、前掲書、およびユン・チアノ、ジョン・ハリテイ共著、土屋京子訳『マオ・だれも知らなかった毛沢東、上・下」、東京(講談社)2005。

㉒ たとえば朝日新聞の場合、1953年3月6日付けの朝刊の一面のトップ記事で危篤が報じられ、夕刊で大きく死去が伝えられていて、一面のコラムでは、「大衆への愛情で貫く」と賞賛されている。そして1976年9月10日付けの毛沢東の死亡記事でも、田中角栄前首相他12人の絶賛の嵐とともに、その偉業が伝えられている。

㉓ 共産主義革命によって、資本主義に毒されていない新しい人類が出現するという幻想は、古い人類の抹殺をも正当化する。それは日本の赤軍派の虐殺の論理でもあった。

㉔ 李、前掲書、上、200ページ以下に、毛沢東の読書について記されている。

㉕ ショート、前掲書、下、125ページ以下。


 文化大革命の騒動を通じて、毛沢東はライバルの劉少奇を失脚させ、ふたたび国家の実権を掌握した。毛沢東の面白いところは、一度頂点に立った途端、自分の配下にいるどのグループに対しても、はっきりと距離をおいていたことである。彼は自分が実権を取り戻すための原動力となった妻の江青とそのグループをも信用しておらず、自分を崇拝する振りをして『毛主席語録』を振り回す林彪をうさん臭く感じていたらしい。事実林彪一家は、1971年9月毛沢東暗殺計画に失敗して飛行機でソ連に亡命する途中、墜落事故を起こして死亡した。その一方で毛沢東は、江青らのグループが嫌っていた周恩来を重用し続け、文化大革命がまだたけなわだった1971年にアメリカの密使キッシンジャーの訪中と周恩来との会談を許し、翌72年2月には資本主義の総本山アメリカ大統領ニクソンの訪中を歓迎して会談に応じ、自分の没後の1978年に実現するアメリカとの国交回復への道を開いている。さらに毛は1973年以降走資派のナンバー2と見なされ、有能さにかけては定評のある鄧小平の復位をも許している。1976年、第一次天安門事件の責任を取らされた鄧小平が、再びほぼ完全に失脚したことは確かであるが、すでにそれ以前の筆頭副総理時代に、この有能な策士は多方面の実力者との関係を深めて、失脚後に備えていたふしが伺われる。こうした江青のグループと周恩来とその配下の実務家たちという二つのグループヘの毛沢東の対応ぶりから判断すると、結局毛沢東は二つの拮抗するグループに支えられて、トップに立っていたかったのだと推測せざるを得ない。古来絶対王政の強大な権力の由来は、封建勢力と新興ブルジョワ勢力という拮抗する勢力に対する調停者的な役割によって説明されてきたのだが、まさにそれと同様毛沢東の権力も、自らが支援して作り出した江青らのグループと、周恩来ら実務家のグループという二つの拮抗する勢力に支えられていたために、その調停者的役割によってあれほど大きく見えたのであろう

㉖ 最初は兵士に読ませるために『語録」を出版したのが林彪であった。ショート、前掲書、下、214ページ。厳・高、前掲書、上、3ページ、74ページ、その他、同巻末の文化大革命関係年表、3ページの1964年5月の項に、『毛主席語録』出版、とある。

㉗ ショート、前掲書、下、307ページ以下。

㉘ 同上、317ページ以下。この伝記では、気に入りの王洪文が未熟で、周恩来はガンなので、その代役がどうしても必要になったためだとされている。

㉙ 絶対王政には、王権によって封建制の下で四分五裂していた国家を統一し、重商主義によって国富を伸ばすという役割があったが、毛沢東はもっぱら統一のみに貢献した。


 しかし江青らのグループの権力は、所詮若き日の毛沢東が思い描いた幻想の上に築かれた砂上の楼閣に過ぎず、毛沢東の死と共に消滅する運命にあった。事実毛沢東が1976年9月9日に死去すると、早くも同年10月6日には華国鋒によって江青ら四人組の逮捕が行われ、鄧小平は1977年7月正式に復位した。そしてその翌年の1978年12月の中央委員会全体会議において、4つの現代化を推進するための改革開放路線が提案されている。それはこれまで文化大革命が約10年にわたって攻撃し続けた資本主義を受け入れ、国際的市場経済に参入するという試みであった。要するにソ連では政治中心に改革が進められたが、途中から国家全体が崩壊し、その中から生まれたロシア連邦は、好むと好まないにかかわらず全面的な転換に直面せざるを得なかったのに対して、中国では共産党による一党独裁体制を維持したまま、もっぱら経済面において改革開放を行うという転換が選ばれたのである。しかし中国の改革が少なくとも資本主義に関しては中途半端なものではなかったことは、その後中国が世界の資本に門戸を解放し、その産業が「世界の工場」と呼ばれるまでに発展したという事実によって明らかである

㉚ この政策は華国鋒が主導する時代に推進されたが、開放への期待が大き過ぎたために1979年度に大赤字を出して手直しが必要になり、「洋躍進」の時代と呼ばれた。

㉛ その後の中国経済の資本主義的発展に関しては無数の著書が出ている。最近の中国経済の膨張ぶりについては、日本経済新聞社編『日中逆転・膨張する中国の真実』、東京(日本経済新聞社)2010その他、数百冊の書物が出ているそうである。


 以上の経過から見て、ソ連の方がより古くから資本主義と戦い続け、しかも自らの意志で選んだというよりも予測不可能な運命に翻弄されて、より徹底的な転換を体験せねばならなかったことは確かである。しかしながら当面の状況に限定すると、冷戦後の世界でモンタペルティ現象が発生するためには、中国の方がはるかに有利な条件に恵まれていたものと考えられる。その第一の理由は、すでに見たとおり現在は急速に立ち直りつつあるとはいえ、ロシア連邦がソ連の崩壊がもたらした破壊的影響から完全に回復していないということである。90年代にロシアを襲った経済危機と並んで、国内に抱えていたイスラム教徒との「文明の衝突」問題が、ソ連の崩壊を契機に一時期公然たる戦争状態を引き起こしてその後もその影響が尾を引いていることが、現在のロシア連邦の順調な回復に水を差している。それに加えて東欧に有していた多くの衛星国のみならず、国内に封じ込めていたはずのバルト三国さえもが一気にロシアの勢力圏から飛び出して、ヨーロッパ連合(EU)に逃げ込んだという事実や、ソ連が15の独立国家に分裂したため、ロシア連邦自体の人口がほぼ半減しているという現状がある。やはり40数年にわたって世界の二大陣営の一方の旗頭であり続けたことから生じる疲労は、今日のロシア連邦にも根強く残っており、その後の転換もまだまだモンタペルティ現象の完全な開花をもたらすには至らないのである。

㉜ 特にイスラム過激派の度重なるテロを引き起こしたチェチェン共和国独立問題がある。


 それに対して中国では、文化大革命が終わった後も、暴動なら何度か繰り返されているものの、国家の崩壊や分裂は発生しなかった。1960年代に拡大した中ソ関係の亀裂の結果、1969年3月には珍宝(ダマンスキー)島では武力闘争が発生しているが、こうした紛争でさえ中国がソ連と手を切り、他の東側諸国よりも先にアメリカや日本に接近して、資本主義市場に参入する契機として役立ったのである

㉝ 珍宝(ダマンスキー)島問題は、1991年同島を中国領と認めることで解決した。


 第二の理由は、まさにこの転換の時期の問題である。中国はソ連よりも30年も遅れて共産主義国家になったにもかかわらず、ソ連よりもずっと早い1978年の時点で、公式に資本主義を受容する方針を打ち出している。したがって中国が資本主義と戦ったのは、わずか約30年間にすぎない。しかしその間に激しい資本主義への攻撃を繰り返した文化大革命の約10年間が含まれるので、中国の資本主義との戦いの歴史には、ソ連以外のどこの国にもひけを取らないだけの蓄積がある。しかも中国においては、毛沢東の没後わずか2年目に、資本主義に対する国の方針が大きく転換されたのである。もちろん改革開放の方針が提出されたからといって、直ちに国民全体にその方針が伝わるわけではなく、資本主義化は当初少数の経済特区や経済技術開発区などに制限されており、現在でさえ繁栄はもっぱら都市部に限定されているようであるが、人民公社を解体して生産責任制を採用するなどという方針は、やはり絶対多数を占めている農民の生活に直ちに影響するものであった。何よりも10年間にわたって暴風のように全国を席捲した文化大革命の直後だけに、その根本原理が否定されたことの衝撃は大きかったはずである。国家そのものが崩壊したソ連とは異なり、中国では中国共産党の一党独裁体制がそのまま維持されていたのだが、そうした状況は少なくともこの時点においては、人々の視点を経済、特に資本主義にいかに対処すべきかという一点に絞らせたため、かえってこの転換が強い衝撃を与えた可能性が大きい。このように中国はソ連と争っていたおかげで、東側陣営に属していたどの国も実行できなかった大転換を、1978年という早い時期に実行することができたのである。

㉞ 1958年以来中国の農村を支えた人民公社は、1978年に導入された生産請負制により分断され、1982年の憲法改正により政社分離が行われた結果、自治体は郷鎮社隊、企業は郷鎮企業として分立した。その結果若干の例外を除いて、人民公社は1984~5年に消滅した、とされている。

㉟ それは勿論良い意味の衝撃で、中国人は走り始めた。その後の中ソ両国の経済活動の伸び方を比較すると、その違いは明らかである。ロシア経済が回復した近年でさえも、成長率に大差が認められる。本章の注㊻ 参照。


 それに対してソ連では、主に30年代にスターリンが農業集団化や五ヶ年計画を強行して共産化を推進したが、それは何といっても第二次大戦以前のことであり、すでにその時の犠牲者たちは運良く粛清を免れて生き延びた場合でさえもとっくに他界していて、その記憶も半ば伝説と化していたために、そのことと1991年にソ連が崩壊して翌92年の元日にロシア連邦が誕生したこととの間には、ほとんど何の関連も認められることはなかったはずである。もちろんロシアの場合でも、一党独裁で秘密警察が跳梁跋扈する共産主義体制から、二院制の民主主義体制に転換したことは、大きな衝撃をもたらしたはずだが、敗戦を伴うことなくクーデターの失敗から生じたあまりにも大きな変化は、国民の大多数によって単なる体制の転換というよりも、運命のいたずらとして受け取られていた可能性が高い。中国の場合のようについ最近まで紅衛兵や造反のデモ隊の暴力的な騒動によって無理矢理強制されてきた資本主義との戦いが、一片の提案によって否定されてしまうという異変に較べると、冷戦中と冷戦後の落差から生じる影響力は、少なくともその当座に限った場合、はるかに小さかったはずである。しかもソ連の転換は、中国に比べて10数年も遅れて実現しており、現在ようやくその効果が現れはじめたばかりなので、まだソ連でモンタペルティ現象が発生していなくとも当然なのである。

㊱ ロシア連邦の首脳部も、基本的に旧ソ連の高級官僚たちだったから、多くの民衆には大変革とは見えなかった可能性がある。だからせっかくの転換も衝撃は緩和された。

㊲ 西側諸国、特にアメリカの穏健な対応が、特にロシア連邦や旧衛星国への衝撃を緩和したはずである。干渉によって怨恨や屈辱感を残さなかったことは評価すべきである。


 第三の理由は、中国にはこの転換をロシア連邦よりもはるかにドラマチックにする原因が存在していたことである。それは今さらいうまでもなく毛沢東の存在である。中国共産党において、毛沢東はソ連のレーニンとスターリンの役割を一身に兼ねていた、と言えるであろう。なぜならレーニンのように共産党による一党独裁国家を建設し、ソ連とは異なる方式によってではあるが、体制の批判者を処罰するシステムを発明した後に、スターリンと同様農業集団化や工業の国有化によって共産化を推進したからである。レーニンの戦時共産主義の試みと同様、毛沢東の大躍進政策は国家に多大の損害を与え、多くの餓死者を出すという惨状をもたらし、毛沢東は一度は実権を部下たちに譲ったが、1965年前後から江青や林彪たちの支持を受けて実権を取り戻し、約10年間にわたって文化大革命を推進した。その期間中に各地で武闘が発生し、1967年の7月の武漢事件では毛沢東自身上海に逃れねばならなかったし、獄死した劉少奇を始め、その犠牲者は数百万入から一千万人にのぼるとされている

㊳ 社会学者のDaniel Chirot の著書 "Moden tyrants: the power & prevalence of evil in our age", Princeton University Press, 1996, p.198 によると、約1億人が被害を受け、少なくとも100万人、おそらく2000万人が死んだ、という。


 1966~68年にかけて全国で猛威を振るった紅衛兵運動も、コントロールが困難になることを恐れた指導部の指示で労働者思想宣伝隊が北京のすべての大学に派遣されたために、1968年9月には消滅した。さらに同年12月毛沢東が発表した「知識青年の上山下郷に関する指示」によって、都会の高校生、中学生たちは農村で貧しい農民から再教育を受けるという方針が宣言された。その後10年間にわたってこの方針は実行され、参加者は1600万人余に上ったとされている。彼らには通常高等教育を受ける機会が与えられず、機械化の進まぬ農村で肉体労働に従事する生活が待っていて、しかも彼らは多くの場合単なる足手まといにすぎず、農民にとっては決して歓迎すべき存在ではなかったらしい。だからごくわずかな例外を除くと、都会生活に復帰することが彼らにとって最大の目標とならざるを得なかった

㊴ 厳・高、前掲書、上、文化大革命関係年表、10ページ、1668.12.22の項。

㊵ チアン、前掲書、下、第二十二章、「思想改造」の章、特に182ページ以下。


 このように毛沢東とは自分が夢見る共産主義社会というユートピア建設のために、国民に容赦なき試練を与え続けた鬼神のごとき存在であり、おそらくその時点では誰も口に出しては言えなかったはずだが、その死は国民全体にとってまさに一つの解放であった。さらにそれからわずか1ヵ月も経たない内に、文化大革命を推進した毛沢東の妻江青らの4人組が逮捕されて完全に失脚したことが、時代の変化を確認するのに役立ったはずである。こうした毛沢東関連の二つの大事件の2年後に提起された改革・解放の方針は、あらゆる面で当時の状況を一変させる転換として、中国人たちに受け入れられたはずである。さらにその翌年の1979年に「一人っ子政策」が企画され、80年代に実施されたことも、こうした転換の一部として受け取られ、国民は時代が変わったことを改めて肝に銘じたはずである

㊶ 死期が迫った毛沢東の様子とその死は、ショート、前掲書、330~336ページ、その死と四人組逮捕については、厳・高、前掲書、下、351ページ以下。

㊷ 逮捕された江青が毛沢東の妻だったことが、転換を確認させたはずである。

㊸ 若林敬子編、杉山太郎監訳『ドキュメント・中国の人口管理』、東京(亜紀書房)1992、「総論 中国の人口管理」3ページ以下。


 ソ連では体制の転換に際し、毛沢東の死と江青らの逮捕に匹敵するほど強烈な印象を与える事件は起こらなかった。ソ連崩壊の契機となったクーデターでさえも未遂に終わっており、元来影が薄かった首謀者のヤナーエフは逮捕されたものの、わずか3年後に恩赦決議によって釈放されている。対するエリツィンも酔っ払いの老人に過ぎなかった。これがスターリンの時代だったらどれほど大量の血の雨が降ったことであろうか。全く信じ難いばかりのロシアの変わりぶりだが、かつて粛清が相次いだソ連としてはまことにあっけない幕切れであった。その分独裁者毛沢東の死とその妻の逮捕(後に自殺)ほどには、体制の転換ぶりを天下に告知する力は乏しかったはずでである。おそらく中ソ研究の専門家であれば、中国人の方が元気であるという現状について、さらに多くの、そしてさらに重要な理由を指摘できるはずである。少なくとも現時点においては、経済活動において中国の方がソ連よりも活気に充ちているという判定を否定する人はいないであろう。1978年の改革開放政策決定後、中国は西側諸国との関係を改善し、外国資本と資本主義のノウハウを積極的に受容して、勿論試行錯誤を繰り返しながらではあるが、経済的にはその後ほぼ一貫して右肩上がりの順調な発展を遂げており、とっくにモンタペルティ現象が開花していると言っても過言ではあるまい

㊹ 当時、ゴルバチョフとエリツィンは60歳、ヤナーエフ53歳と、平均寿命が短いロシアではすでに老人に近い中高年同士の争いであった。

㊺ ロシア連邦共和国は1996年8月に死刑執行を停止したが、テロなどの関係では例外もあるらしい。

㊻ たとえば、IMFのW.E.Oデータベースによって、2004年から2009年までの経済成長率の平均を比較すると、ロシアは4.60、中国は11.46である。

㊼ 日本経済新聞社編、前掲書、第二章その他。


 いわば中国とは、逸早く東側陣営から飛び出して、独立独歩、大転換をやってのけることに成功し、将来は分からないにせよ、今のところは冷戦終結後に生じたモンタペルティ現象を独占している、世界中で唯一の国なのである。おそらくこれこそ現在中国人だけが際立って元気に見える理由なのである。たとえその繁栄に与かる人がごく一部だとしても、その膨大な人口から考えて、私たちは世界史上最大規模のモンタペルティ現象を目の当りにしているのである。ただし筆者は、ソ連やヴェトナムやラオスにも、そしてそれ以外のいくつかの東側諸国にも、将来モンタペルティ現象が発生する可能性がないとは断定できないことを、あわせて記しておきたいと思う。

 だがその一方で、かつておよそ20もの国々が東側陣営に属していながら、目下その内のただ一国だけにしかモンタペルティ現象が発生していないという現実も無視できないはずである。このことは、古来この開放・発展型のモンタペルティ現象がいかにまれにしか起こらないかという理由を説明するためのヒントを与えてくれる。すでに見た通り、戦争における敗戦の場合も、イデオロギーの戦いにおける敗北の場合も、モンタペルティ現象が発生するためには、両立することが困難ないくつかの条件に合致する必要があり、さらにさまざまな個別的状況によって支えられることが望ましいのであるが、そうした要件をことごとくクリアーすることは至難の技であるために、開放・発展型のモンタペルティ現象は、歴史上ごく稀にしか発生しないのであろう。

 なお前章の吟味の際には客観的に適用することが困難なので省略したが、筆者が吟味に利用した三条件の他に、個人に関連する二つの条件が存在した。それは

4)その転換が個人を解放すること、および

5)敗戦(冷戦終結後の場合は国家が信奉するイデオロギーの転換)体験が個人を鍛えること、

の二項目であった。それでは今日モンタペルティ現象が発生していると判定された中国の場合、これらの条件にも合致しているであろうか。勿論今さら検討する必要がないほど、現在の中国はこれらの条件に合致しているといえるであろう。改革開放政策の結果、突然多くの中国人が外国に進出し始めた。たとえば『世界統計白書』に掲載された2005年度の各国の留学生・外国人学生の出身地別割合の表を一瞥しただけでも、そのことは明白過ぎるほど明らかである。アメリカの場合15.7%(2位はインドの14.2%、日本は7.5%)、イギリスでは16.5%(2位はギリシャの6.2%、日本は1.9%)、ドイツでは11.9%(2位はポーランドの6.4%、日本は1.0%)、フランスでは6.1%(2位は1.5%のスペイン、日本は0.9%)と、いわゆる主要な先進国における外国人留学生のシェアの首位を独占しており、勿論日本でも66.1%と2位韓国の17.9%をはるかに引き離していて、その韓国においても65.1%と2位日本の7.1%以下とは比較にならない多数を占めているのである。これは5年前の統計であるが、現在も世界には中国人留学生が溢れているといっても過言ではあるまい。留学生のみならず一般人も中国人の移住者が極めて多数であることは、ヨーロッパやアメリカのみならず、日本の各都市で目にする通りである。転換以前の中国では、他の共産圏の国々同様、外国に移住することがきわめて困難であった。

㊽ 手嶋龍一巻頭論説『世界統計白書データで見える世界の動き・2008年版』、東京(木本書店)2008、444ページ。


 5)に関しては、文化大革命が貧しい農民に教えを乞うという毛沢東の理念に基づいて、下放という方式で多数の知識入や学生たちを農村に送り込んだことが、まさにそうした試練に当たるであろう。ユン・チアン著『ワイルド・スワン』 は、女性三代の苦闘を描いた記録であるが、三代目にあたる著者自身の回想として、思想改造のためヒマラヤの麓の山村に送りこまれ、はだしの医者まで体験した一少女の文化大革命の現実が描かれている。著者の父親が共産党の幹部でありながら、文化大革命の最中に毛沢東を名指しで批判したために、彼自身は失脚して再教育を課せられ、彼の一家はこうした苛酷な試練を与えられたのである。チアンは後に英国に留学してこの記録を残しただけでなく、ハリデイとの共著で毛沢東の伝記『マオ』 を書き残して、父の復讐を行っている。

㊾ チアン、前掲書。

㊿ チアン・ハリデイ共著、前掲書。


 彼女の場合ほど極端ではなくとも、多くの知識人には似たような運命が待っていたらしい。『毛沢東の私生活』(51) を書いた毛沢東の侍医李志綏のような人でさえ、時おり工場や農村に送られて労働に従事させられていた。残されている写真を見るかぎり、毛沢東のかたわらで常に意気軒高な微笑を浮かべているこの医師でさえ、晩年の毛沢東には相当辟易させられていたようである。もちろんこうした体験は人の生命を奪うこともあったが、生き抜いた人々にとっては掛け替えのない試練となった。たとえば次期の中国のトップを占めるはずの習近平が、幼いころ父が失脚したため農村に下放され、若くして村のリーダーとなったエピソードが最近の新聞の紙面を賑わしていた(52)。あるいは外国入で初めて芥川賞を受賞した楊逸も、父親の下放体験がなければ、そのような運命には巡りあわなかったことであろう(53)。こうした事例から見るかぎり、文化大革命とはまさに一種の戦争であり、戦争に勝るとも劣らぬ訓練の機能を発揮していたことは確かである。このように中国は、個人に関する二条件にもしっかりと合致していることは確実である。

(51) たとえば李、前掲書、下、296ページ、において著者は北京紡績工場で働き、三日おきに毛沢東に報告に行っている。

(52) 2010年10月18日、中国共産党第17期中央委員会で中央軍事委員会副主席に選出され、次期のトップになることが確定したと見なされている習近平は、副首相まで勤めた父が文化大革命当時に失脚したため、1969年16歳の時に陵西省の田舎に下放され、横穴式住居に住むという珍しい体験の持主である。朝日新聞、10月20日付けの朝刊の8面の「苦労人プリンス」というタイトルの記事(林望)が、こうした経歴を伝えている。

(53) 楊逸の父はハルビンの大学で漢文を教えていたが、文化大革命で農村に下放されたため、一家がその影響を受けている。しかしその体験がなければ、彼女は日本在住の作家にはなっていなかったであろう。


 ところでもう一つ確認しておくべきことは、敗戦後に生じる普通のモンタペルティ現象と、冷戦終結がもたらしたモンタペルティ現象との違いである。残念ながら冷戦終結は、普通の敗戦がもたらす好ましい効果を十分にもたらしてくれないことを私達は肝に銘じておかなければならない。敗戦は前章で見たとおり、多くの悲惨な現実をもたらしはするものの、同時に人類社会に幸福をもたらす多くの可能性をも含んでいた。まず何よりも当該の戦争状態を終わらせて平和をもたらすだけではなく、うまくいけばその後の戦争をも予防してくれるという効果が期待できた。ところが冷戦終結の結果として発生したモンタペルティ現象にはそうした平和関連の効果が全く期待できないことが、悲しむべき現実なのである。これまで私が指摘してきた二つのモンタペルティ現象の場合は、中世のフィレンツェやシエナ、現代の日独伊三国を立派な、あるいは立派すぎるほどの平和国家に変身させた。ところが冷戦終結後のモンタペルティ現象は、平和に関しては全く貢献していないと言わざるをえないのではないだろうか。モンタペルティ現象によって経済力を高めた中国は年々軍事費を膨張させ、周辺の国々との間でトラブルを引き起こし、もっぱら恫喝することでこれを切り抜けようとしている。せっかく充実させた経済力も、自らの独裁権力の安定と勢力圏の拡大にのみ傾注している。しかし今日の中国の繁栄をモンタペルティ現象と見なすならば、そのような状態は永遠に続くわけではなく、文化大革命という試練を受けた個人が開放という潮流に乗って発展を続ける時間もそう長くは続かないはずである。とりわけ一人っ子政策によって創られた小皇帝たちの時代(54) には、個人の人権の重みが増して、今日のような独裁体制を維持することがさらに困難になるはずである。モンタペルティ現象による繁栄には終わりがあることを知るには、日本の例を見るだけで十分だろう。現在中国の指導者たちはそれほど時間が残されていないことを肝に銘じて、経済力に余裕のある間に、国民の希望を汲み上げ少しでも多く実現できるような体制を建設するために、せめてロシア連邦並の民主主義体制に転換するために努力すべきである。

(54) この言葉は、青樹明子著『「小皇帝」世代の中国』、東京(新潮社)2005、のタイトルに負うている。




まとめ


 これまで三つの章を通して、冷戦後世界に生じていると予想されるモンタペルティ現象について考察してきたが、このあたりでその経過をまとめ、結論を記しておかなければならない。本論は、まず「はじめに」において、どのような方法で冷戦後世界のモンタペルティ現象を考察するかについて予告した。

 第一章では、東側陣営に属したとされているおよそ20カ国の各々について、それらがそのような体制を選ぶに至った経緯を個別に概観し、それぞれの国の特性を明らかにすることによって、続く第二章で行う吟味と選抜のための基盤を用意した。

 第二章では、まずモンタペルティ現象自体に考察を戻し、敗戦が国民に与えると思われるプラスの影響を列挙して、その効果がさらに広汎である可能性があることと共に、本論では「開放・発展型のモンタペルティ現象」に関してのみ考察することをも明らかにした。この型のモンタペルティ現象が発生するために必要な条件について考察した結果、それは

1)敗戦以前には軍事優先の好戦的な国家だったこと、

2)敗戦によってそうした体制を転換し、国際社会と協調的な関係を保つに至ったこと、

3)国際社会がその転換を好意的に受け入れたこと、

4)そうした転換が個人の解放に結びついたこと、

5)敗戦体験が国民の個々人を鍛えたこと、

の5つに集約できるという結論に達した。

 もちろん冷戦の終結と敗戦とでは事情が異なる。以上の5条件を冷戦後に適用するためには、いくつかの条件を修正しなければならない。まず東側諸国がいずれもマルクス・レーニン主義を信奉して資本主義からの脱却を志向していたという事実に基づき、「軍事優先主義的好戦性」という第一条件を、「資本主義との戦いにおける積極性」に修正することが不可欠であり、また国民の個々人に関する二つの条件はあらゆる国に起こり得るとともに比較が困難なので省略することにして、冷戦後世界でモンタペルティ現象が発生するための条件として、

1)資本主義との戦いにおける積極性、

2)その方針の転換と資本主義社会への積極的な関与、

3)国際社会によるその転換の容認、

の3条件を決定した。

 つづいて第一章でおこなった東側陣営の形成過程の概観に基づき、それらおよそ20カ国のそれぞれに関して、以上の3条件に合致しているか否かを吟味した。その結果3条件すべてに合致するのは、ソ連の崩壊後にその本体の半分を引き継いだロシア連邦、中国、ヴェトナム、ラオスの4カ国に過ぎないという結論に達した。

 第三章では、前章で選ばれた4カ国それぞれについて、個々の事情を考慮しながらさらに詳細な吟味を行い、まず資本主義との戦いという点で、ラオスは転換までの期間が短いこと、ヴェトナムに関しても、南半分には同様の事情があることと、さらに両国とも資本主義社会に開かれるのが遅かったことなどの理由で、現在のところモンタペルティ現象が発生している可能性は比較的低いと判定した。残る二国の内で、ロシアはソ連崩壊のダメージから完全に立ち直っていないなどの理由で、やはりその可能性は比較的低いのに対し、文化大革命という10年にわたる資本主義との戦いの記憶の生々しい中国こそ、1978年という早い時期に始められた「改革・開放」政策による転換のエネルギーは膨大なものであり、イデオロギー戦争という特殊な戦いの敗戦だとは言え、私たちが目のあたりにしているのは人類史上最大規模のモンタペルティ現象であるという結論に達した。


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