モンタペルティ現象6-3


第三章 なぜ現代中国では、イデオロギー闘争の終焉がモンタペルティ現象を発生させたのか



 ようやく私たちは前二章の準備段階を経て、なぜ現代中国では文化大革命というイデオロギー闘争の終焉から、通常は敗戦から発生するはずの開放・発展型のモンタペルティ現象が発生したのかを考察する段階に到達した。すでに記したとおり、四人組の逮捕がもたらした文化大革命の終焉自体、毛沢東絶対主義を国是とする特異な国家体制の崩壊を意味しているので、毛沢東が唱えた「造反有理」のスローガンの下で展開されたイデオロギー闘争の終焉は、そのこと自体を一種の敗戦と見なすことも可能なのであるが、あくまでことばの違いにこだわる立場もあり得ることを考慮して、上記のような問題を設定し、その理由を考察しておくことは無意味とは言えない。それには単一ではなく、複数の理由が考えられるので、それらを以下に列挙しておく。

1. まず真っ先に考えられるのは、文化大革命はたしかにイデオロギー闘争であったとはいえ、現実には戦争に極めて近い出来事だった、という事実である。毛沢東がこの闘争を構想し始めた当時の中国は、劉少奇、鄧小平、周恩来らの指導の下で、毛沢東が引き起こした「大躍進政策」の失敗から受けた損害からようやく立ちなおりつつあり、一見内外ともに安定を保っているかに見えた。そうした状況の中で彼がかつて有していた自らの権力を奪回し、それをさらに強大なものにするためには、結局何らかの暴力に頼る他ないと判断したはずである。若いころから、政権が銃剣から生まれることを信じてきた毛沢東には、それ以外の方法は考えられなかったに違いない。しかし当時すでに彭徳懐を失脚させ、その後任に忠実な同志の林彪を据えることによって一応解放軍を掌握していたとはいえ、直接軍事クーデターによって劉少奇を国家主席とする体制を打倒することには不確定な要素が多すぎた。軍の上層部には、朱徳、葉剣英らの長老を始め、林彪のライバルに当たる羅瑞卿や賀竜ら有力幹部がまだ健在だったからである。そこで毛沢東は、当面それとは別方面に暴力を求めざるを得なかった。

① スペンス著、前掲書、211ページの注参照。

② 厳・高共著、前掲書、中、所収の第二篇、第二章および第四章で林彪と羅瑞卿、第四章で林彪と賀竜との権力闘争が記されている。


 こうして動員されたのが、学生・生徒たちと民衆の暴力であった。姚文元らの論文で文化大革命の峰火を上げた後、1966年の春、毛沢東と江青たち文革推進派は自ら中央の権力と対決し、文革のリーダーの地位を奪取して権力の中枢に加わるとともに、各地で自分たちの尖兵となって戦うグループを組織することに努めた。やがて解放軍でも林彪の最大のライバル羅瑞卿が失脚して林彪とその配下がほぼ首脳部を支配し、もはや文革推進派に暴力で対抗できる組織が国内に存在しなくなるころには、文革推進派による迫害のために死者が出始める。こうした段階に達した1966年6月8日、以前から紛争が発生していた北京大学では、劉少奇らによって派遣された工作組をめぐる混乱に乗じ、突如造反派の教員と学生たちは行動を言論から直接的暴力へとエスカレートさせ、学長ら権力者に三角帽子をかぶらせて謝罪させた後市内を引き回すという暴力ショーを実行して、一つの全国向けモデルを提供した。この方式は、さまざまなヴァリエーションが加えられて、全市そして全国へと拡がった。こうした動きを真似て、清華大学付属中学で発生した紅衛兵運動は、「造反有理」という毛沢東のお墨付きを得て、たちまち北京市内から全国へと拡がり、8月18日には全国から集まった紅衛兵の100万人集会が開かれて、毛沢東の接見を受けるに至る

③ 厳・高共著、前掲書、上、所収の「文化大革命関係年表」5ページの1966年5月16日の項に、中共中央、「通知」(「五・一六通知)を党内に通達、「二月提綱」を取り消し、文化革命五人小組を廃止し、中央文化革命小組(中央文革小組)の設置決定、とある。

④ 国分良成編著『中国文化大革命再論』東京(慶応義塾大学出版会・2003)第二章、43~67ページの論文、楊炳章著、望月暢子訳「北京大学における文化大革命の勃発」はそのタイトル通り、北京大学の状況をリアルタイムに観察し、毛沢東自身に勧告して二度も入獄していた人物の証言である。たとえば聶元梓らのグループによって発表された最初の『大字報』は、康生夫人曹軼欧らの調査小組が北京大学に派遣されて聶と接触した後に発表されたもので、その真の起草者も明らかではないとされている。

⑤ 本章、注② の「年表」5ページ、1966年5月18日の項に、歴史学者・鄧拓、迫害を受けて死亡、54歳、とあるが、鄧拓は将来を悲観して自殺した。

⑥ 厳・高共著、前掲書、上、54ページ。マ・シ共著、前掲書、上、117~119ページ。

⑦ マ・シ共著、前掲書、上、163ページ以下。厳・高共著、前掲書、上、85ぺージ以下。


 紅衛兵は「四旧打破」を旗印に旧来の陋習と戦っただけではなく、由緒ある文化財を破壊し、資本主義臭が強いと判断したあらゆる西洋風の品物と人間を攻撃した。文化大革命の特性から考えて、また常時『毛主席語録』を携帯しているという事実から見ても、この活動には毛沢東絶対主義が貫徹していたはずだから、結局彼らの判断の基準は毛沢東にあり、毛沢東が嫌いそうだと判断した人と物には、どのような暴力を加えても許されると信じていたもののようである。とは言っても、何が嫌いかについて一々お伺いを立てることは物理的に不可能なので、彼らの鋭いが幼い直感に従って恣意的に判断したに違いない。自ら兵と名乗っていたのは伊達ではなく、彼らは大真面目で自分たちこそ革命戦争の兵士であると信じていたので、文革推進派が扇動するままに、毛沢東の敵と信じる者の住居を家捜しして貴重品を没収し、捕えた相手に暴力を振るい、抵抗する者と不運な者とを殺し続けた。こうして作家の老舎、翻訳家の傳雷夫妻らの著名人とともに、多くの罪なき市民が無知な中学生たちによる赤色テロの犠牲となった

⑧ その狂乱ぶりは、厳・高共著、前掲書、上、第一篇、第四章「旧世界への宣戦布告」90ページ以下、に描かれている。あるいは、マ・シ共著、前掲書、上、「6 紅衛兵」「7 赤色テロ」「8 混乱全国に広がる」の各章、156~220ページと221~226ぺージの写真など。

⑨ 文化大革命を通して顕著に感じられるのは、毛沢東の気持を一瞬でも早く忖度して、実行しようとする態度である。明文化されてもいない行為を逸速く実行しようとするため、忖度主義は活動を促進しエスカレートさせる。

⑩ 本章、注⑧ 参照。

⑪ 老舎については厳・高共著、前掲書、上、98~99ページ、傳雷夫妻については121ぺージおよび、丸山著、前掲書、324~327ぺージ。


 勿論こうした暴力は、中学生の間だけにとどまらなかった。紅衛兵という組織は、たちまちあらゆる集団で、おそらく多くの場合は自衛のために結成され、様々な分野で主流派と反主流派との抗争が勃発した。もはや子供たちの戦争ごっこの段階を越えて、大人たちが生存するために死力を尽くして戦う段階に突入した。すると学生の紅衛兵は不要になり、1968年8月に労働者毛沢東思想宣伝隊が北京の各大学に派遣された時点で紅衛兵運動は消滅し、同年12月には毛沢東の指示により、彼らは「上山下郷」運動のため農村に四散した。文革推進派はそのために大きな戦力を失うことになる。紅衛兵が振りかざした「造反有理」というスローガンは、当初はあらゆる組織に受け入れられて、常に分裂を引き起こす起爆剤として作用した。こうして、潜在的には全土が内戦のるつぼと化したが、賢明な指導者たちがいる所では、適当に妥協し合って大きな犠牲を避けたはずである。中央も闘争が激化し過ぎて、すでに危ない状態にある農業や工業の生産を妨げ、飢饉を招来するような事態は避けたいので、早くも1967年1月23日に解放軍の文革全面介入を命令してその調停を要請している

⑫ 厳・高共著、前掲書、上、所収の「文化大革命関係年表」9~10ページ。

⑬ 同上、7ぺージ。


 それでも戦闘は避けられなかった。そうした戦闘の一つは、文化大革命の主要メンバーの出身地である上海で発生した労働者による奪権闘争である。臨時工らの集団、工人革命造反司令部を率いる王洪文を中心に造反活動が進められたのに対して、市長派も正規工による総数80万人の「赤衛隊」を結成して対抗した。1966年12月30日、工総司の10万人が約2万入の赤衛隊を襲って、4時間にわたる流血の戦闘の後に降伏させ、全国的暴力の幕を開けた。上海ではその後も争いが続いたが、「一月風暴」と呼ばれる闘争の結果、上海市長とそのグループは退陣して、張春橋、姚文元、そして王洪文ら文革推進派の有力な拠点が誕生した。1967年7月の武漢事件もそうした戦闘の一つで、百万雄師という労働者団体が、中央から派遣された文革推進派の使者、王力と謝富治を監禁した事件である。この時はたまたまこの地域の解放軍が、中央が支持していない集団を擁護したために闘争が長引き、大規模な武闘が発生することとなり、その時期にこの土地を訪れた毛沢東自身ですら、飛行機で退避せざるを得なかった

⑭ マ・シ共著、前掲書、上、「9 上海『一月風暴』」、227~245ページ。

⑮ 同上、「12 武漢事件」285~311ページ、毛沢東の飛行機による退去は、300ページ。


 厳・高共著、前掲書、上 所収、安藤・辻作成の「文化大革命関係年表」の1967年7月20日の項に、「江青、『文で攻撃し、武で防衛する』方針を唱え、武闘広がる」とあるとおり、この時点はまだ全国で武闘を伴う奪権闘争が始まったばかりであった。そして全国で奪権闘争が進められた結果、結局一般的に採用されたのは、1967年1月31日という早い時点に黒竜江省で最初のモデルが誕生した、革命委員会という方式であった。この省では第一書記の潘復生が率先して改革を受け入れて毛沢東の支持を獲得し、同時に軍区司令官をも味方につけて、自らを主任、汪家道少将を副主任とする革命委員会を立ちあげ、日常的業務と平行して革命を実践する体制を構築することに成功した。ただし抜目のない潘のように、第一書記から革命委員会主任に横滑りできた省はわずか3つしかなく、大半は横滑りに失敗して転落し、死者にきびしい中国らしく、自殺して死後に裏切り者呼ばわりされた省レベルの第一書記が3人にのぼるという。このことは、大半の省で厳しい奪権闘争が行われて、軍の援護を得た派閥が革命委員会を掌握したことを意味している。

⑯ 厳・高共著、前掲書、上、所収の「年表」8ぺージ。

⑰ マ・シ共著、前掲書、上、「10 奪権」246~263ページ。潘復生については、247ぺージ。

⑱ 同上、248ページ。


 解放軍の側も、当然協力した分だけ権力の分け前を求めており、各地の闘争の動向の決定権を握っていたおかげで、かつてなく軍人の存在感が高まった。1967年3月、軍事委員会は「三支両軍」というスローガンを発表したが、それは左派、農民、労働者の三つを支え、軍事訓練と軍事管制を行う、という意味の言葉であり、特に軍事管制とは、部、省、地区を軍の管理下におき、司令官に秩序回復をまかせることだという。こうしたスローガンが出たこと自体、すでに紅衛兵や民兵による内戦が蔓延しつつある国内の秩序回復のためには、軍隊に頼る他はないという現実を表していたと言えよう。林彪事件後の1972年8月にこの方針が廃止されて原隊に戻るまでの間に、何と280万人もの解放軍の兵士がさまざまな職務についていた、とされている

⑲ 厳・高共著、前掲書、上、所収の「文化大革命関係年表」8ぺージ。

⑳ マ・シ共著、前掲書、上、253ページ。


 当然上層部に関しても同様のことが言える。文化大革命の担い手とされた三結合の内、革命幹部代表と革命大衆代表に比して、解放軍幹部の代表だけが突出して多数を占めていた。県レベル以上の革命委員会には4万8千人のメンバーがいたが、その圧倒的多数は解放軍将校であった。1968年の末、その年の夏の広西チワン族自治区流血の惨事 などを経て、何とかようやく全国の省に革命委員会が設立されたが、その主任29人の内、6人が上将、5人が中将、9人が少将(将軍の比率が68.9%)で、残りの9人だけが党幹部だったが、全員が軍の政治委貝を兼務していた。あるいは、広東、遼寧、山西、湖南、湖北の5省だけを見ると、県レベル以上のすべての革命委員会主任の81%から98%が解放軍将校だった。この種の数字は多くの資料で度々挙げられているが、要するに文化大革命が始まって3年も経たない内に、社会の上から下まで一気に軍人に埋め尽くされてしまった感があり、これでは毛沢東が林彪のボナパルティズムを警戒したのも無理はあるまい。中嶋著前掲書、上、には、当時の中国を「兵営国家」と評した文章があったが、この時期の中国はまさしくそのように見えたはずである。「造反有理」のスローガンとともに進められたはずの文化大革命が、結局軍人まみれの国家を生み出したのである。要するに紅衛兵の活動や相次ぐ内戦のために、中国国民はおよそ10年間に亙って、ほとんど戦争に近い状態を体験し続けたのである。この前後に共産中国は朝鮮戦争やヴェトナム戦争など国外の戦争を支援し、中国自体も1969年には珍宝島でソ連と、また1979年2~3月にはヴェトナムと戦っているが、それら本物の戦争に較べても、被害者1億人、死者2千万という人的被害の桁外れの大きさを考慮しただけで、文化大革命の方がはるかに大きな被害をもたらしたことは明白である。したがってこの運動から完全に解放されたことが、いかなる終戦にも劣らぬほど強い平和の効果をもたらしたことは当然の結果であった。

㉑ マ・シ共著、前掲書、下、「14 紅衛兵の最期」所収、「革命委員会の主力は軍人だった」20~22ぺージ、の節。「四万八千人」は、21ぺージ。

㉒ 同上、21ぺージ。

㉓ 同上。

㉔ 中嶋著、前掲書、上、「Ⅲ 奮権闘争とその矛盾、5 文化大革命の本質とその意味」所収の、「『兵営国家』としての中国」257~8ぺージ、の節のタイトルとして用いられている。

㉕ 三野正洋・田岡俊次・深川孝行共著『20世紀の戦争』東京(朝日ソノラマ・1995)。朝鮮戦争は、239~257ページ、中越戦争は、551~556ページで扱われている。

㉖ 同上、によると、朝鮮戦争における中国軍の犠牲者は、死傷者13.3万人、捕虜23.5万人、中越戦争の場合は、相互に相手方の約4万人を殲滅したと公表したが、いずれも過大な数字で、双方とも実際には戦死者4000人~5000人、負傷者はその2~3倍と見られている。文化大革命の場合は、Daniel Chirot, Modern tyrants: the power & prevalence of evil in our age, Princeton (Princeton University Press) 1996, p.198 によると、約1億人が被害を受け、少なくとも100万人、おそらく2000万人が死んだ、とされている。こうした数字を単純に比較することは馬鹿げているようだが、ともかく文化大革命が本物の戦争をはるかに上回る損害をもたらしたことは確実だと思われる。


2. さらに考えられる二つ目の理由は、文化大革命という運動が戦争に勝るとも劣らぬ強力な抑圧を国民に強い続けたため、この運動の終焉が敗戦の場合と同様に、抑圧からの解放を国民にもたらした、という事実である。文化大革命はけっして典型的なイデオロギー闘争だったわけではない。実は歴史上に見られるすべてのイデオロギー闘争にはそれぞれ推進者の個性が刻印されているのであり、単なる理論闘争を越えて暴力的な闘争にまで発展したイデオロギー闘争の場合、純粋で無色透明なイデオロギー闘争などではあり得ない。しかしその中でも文化大革命は、次項でさらにくわしく論じるとおり、毛沢東という人物の個性が特にはっきりと刻印されたものであった。しかしいかに個性的なイデオロギー闘争であったにせよ、やはり基本的な原理として採用したイデオロギー自体に強く影響されることは避け難いことであり、プロレタリア文化大革命の名で進められたこの運動が目指したことは、資本主義的活動に止めを刺して共産主義的国家を建設することであった。すでに文化大革命以前から、毛沢東はこうした目標のために、大躍進運動の時期に、当時の国民の7割以上を占めていた農民を人民公社として組織していたし、その残りに当たる都市の住民たちの多数を「国営企業」に吸収していた。だがいずれの組織も毛沢東が期待したような成果を挙げておらず、そのために劉少奇や鄧小平らはそれらの組織を改造するとともに、共産主義の理想から後退させようとした。そうした動きに激怒していた毛沢東は、文化大革命を成功裡に進めると、当然自分が当初に採用した原則を復活させただけでなく、さらに共産主義的性格を強めようとした。おそらく文化大革命が国民に及ぼした抑圧の最大の部分は、マルクス・レーニン・スターリンそして毛沢東自身に由来する共産主義的理想を国民に押し付けるための強制にあると見るのが妥当だと思われる。その内一党独裁制のように政治的性格の強い部分は、改変されずに今日の中国でも存続しているが、人民の圧倒的多数を束縛していた人民公社という組織そのものを始め、経済的性格の強い規則や制度などの多くは、毛沢東死後の転換において改廃され、その分経済活動の自由が大幅に許容されるようになった。すでに輸出入の変化において見たとおり、こうした抑圧からの解放がもたらした発展の数値には驚くべきものがあり、現代中国でモンタペルティ現象が発生した最大の理由は、文化大革命終焉後の転換に生じたこうした経済的改革、すなわち鄧小平によって推進された改革・開放政策の成果だと見なし得るであろう。

㉗ 7割という数字は、本論、第二章、注(51) 参照。さらに上原一慶編著『躍動する中国と回復するロシアー・体制転換の実像と理論を探る』京都(高菅出版・2005)25~43ぺージ所収の論文、余勝祥著「中国における企業システムの転換」の表1-2-1(27ページ)によると1979年現在、国有セクターが都市部従業員数の78.3%で工業総生産の81.3%を占め、残りを集団セクターのみで分担していた、とされている。

㉘ マ・シ共著、前掲書、上、「序章 毛沢東はなぜ文革を始めたのか」所収、国内のジレンマ、28~30ぺージ、の節。


 文化大革命が国民に及ぼし続けた影響には、もう一種類、イデオロギーからではなく、毛沢東個人から発生する抑圧が存在していた。文化大革命がもたらしたものが毛沢東絶対主義を国是とする体制である以上、毛沢東に対する個人崇拝が、国民に数々の抑圧を強いたとしても、決して不思議ではない。紅衛兵が常時『毛主席語録』を携行していたこと自体、一種の抑圧だと見なすことが可能である。毛沢東が個人的に国民にもたらしたと思われる抑圧の中で、特に際立っていたと推測されることは、彼が中華人民共和国の知的・文化的活動一般に及ぼしていた強力な抑圧である。すでに多くの入々によって指摘されている通り、毛沢東個人と知識人一般との関係は最悪であった。勿論郭抹若のような若干の例外はあったが、それはまさに典型的な原則を強化する例外であった

㉙ 中嶋著、前掲書、上、「II 文化大革命の現場から」所収、「4 世界のベストセラー『毛沢東語録』の内幕」182~195ページ。

㉚ そうした記述は多数見られるが、たとえばスペンス著、前掲書、184ページ以下。

㉛ 郭沫若は文革当時、1966年4月という早い段階で自己批判を行った。彼は経歴その他から考えて、きわめて弱い立場にあることを自覚していた点を考慮すべきだろう。


 本来文化大革命という現象自体が、毛沢東絶対主義という特異なイデオロギーに基づいて知的活動一般を抑圧するものであった。その中でも最もはっきりと抑圧があったことが記録に残されているのは、教育と学問研究の分野である。毛沢東自身は、内戦などのため時折中断されているとはいえ、当時の一般的中国人よりも長い期間を学校で過ごしていた上に、一時期小学校の校長を務めたことがあるにもかかわらず、そして学業の妨げになることが明白であるにもかかわらず、中学生や時には小学生までを革命闘争に動員することに賛同したばかりか、それまでにも一種の疎開として必要に応じて行われていた「下郷」運動を一段と強化し、多くの就学中の若者を、貧農に学ばせるためと称して農村に下放している。また自分は専門教育を受けた医師を身辺に抱えてその恩恵に浴しているにもかかわらず、専門教育を必要としない「はだしの医者」の普及に力を入れている。こうした立場を徹底させれば、ポル・ポトの知識人・専門家虐殺事件に行き着くはずである

㉜ 毛沢東は24歳で中等師範学校を卒業した後も、北京大学の図書館に勤めながら研究会に加わったり、論文を書いたりしており、その後も政治活動に加わりながら、ジャーナリストの卵のような生活をしている。そして26歳には長沙師範学校付属小学校の校長に採用されている。

㉝ 厳・高共著、前掲書、上、「文化大革命関係年表」6ページ、1966年8月1日の項。

㉞ 毛利和子編『毛沢東時代の中国』東京(日本国際関係問題研究所・1990)第九章の論文、内田知行著「戸籍管理・配給制度から見た中国社会・建国~一九八○年代初頭」268ぺージの60年代前半に関する記述。

㉟ 厳・高共著、前掲書、上、所収、『文化大革命関係年表』10ぺージ、1968年12月22日の項。

㊱ 李著、前掲書、には、侍医の著者の他、多くの専門医、漢方医、歯科医らが登場する。

㊲ 山田著、前掲書、146ぺージ以下によると、ポル・ポト政権は、子供の医師や薬剤師を起用して民衆を震え上がらせた。『ワイルド・スワン』の著者も、まだ少女だったころにはだしの医者をした経験を記しているので、二つの状況に大差はなさそうである。


 結局文化大革命の究極の目標とは、毛沢東絶対主義の無知蒙昧な信者だけを残してその体制を永久に存続させるために、暗黙裡に推進された体制批判の予備軍である知識人・専門家の虐待・虐殺運動であった、と考えても大きな誤解ではあるまい。したがって文化大革命の終焉がもたらした、こうした体制からの解放は、教育活動と学問研究の再生・復活にそのまま通じていたと言えるだろう。私は前論文で、全世界の先進諸国の大学に中国人留学生が溢れているという、一見異常とも言える状況を紹介した。これは転換以後の体制において生れた新しい価値観がもたらした結果であり、本人たちの努力の成果であることは言うまでもないが、その背景に文化大革命によって教育を受ける機会を奪われた彼らの親たちが、人口抑制策のために一人しか産めなかった自分たちの子供に、自分が望んでも果せなかった学問研究の夢を託しているという事情があることを考えれば、十分納得できる話である。

㊳ 本論「はじめに」の注① の論文の205ぺージ。

㊴ 勿論、毛沢東の死後、1979年に登場した「一人っ子政策」のためである。多少は手直しを加えられたが、すでに30年を経過して、中国は少子高齢化への道を進んでいる。


3. 第一章や前項においてすでに指摘したとおり、文化大革命は単なるイデオロギー闘争ではなく、毛沢東の個性が強く刻印された、世界史上例のない極めてユニークなイデオロギー闘争であり、マルクス・レーニン主義よりもむしろ毛沢東絶対主義という原理に基づいていたと考えた方が実情に近い。このことが文化大革命による人的・物的損害を大きくしたことや、中国独特の悲劇を多数生み出したことは否定できない。しかしその後の発展を考える場合、毛沢東絶対主義の特異性にもいくつかの利点があったことを認めなければならないだろう。

㊵ 1970年9月13日、林彪は毛沢東を「当代で最も偉大なマルクス・レーニン主義者であり、マルクス・レーニン主義を天才的、独創的、全面的に新しい段階に高めた」と礼讃しているので、すでに比類なき孤高の思想家として持て囃されていた。


 文化大革命が開始された当初は、毛沢東と林彪と文革推進派は心を一つにして、奪権闘争に専念していた。ところが奪権に成功して毛沢東の権力が比類なき高みまで上昇した途端に、それは強力な権力特有の自律性を持ち始めて、相対的なものから絶対的なものに変質してしまったのである。こうして文化大革命は、厳・高共著『文化大革命十年史』の構成からも窺える通り、毛沢東の権力奪回闘争から、ナンバー2に対するもぐら叩きゲームに変化したのである。こうした変化の最大の犠牲者は林彪で、主にナンバー2であったというだけの理由のために、彼は死なねばならなかったのである。文化大革命のこうした変化は、毛沢東の個人的な意志から生じたものではなく、むしろあまりにも強力になったため絶対主義的権力と化した権力そのものから発生する自律的な動きであった。もはやこの権力は余りにも強大になり過ぎたため、自らを相対化するナンバー2の存在を許さなかったのである。

㊶ 第一篇は劉少奇、第二篇は林彪、第三篇では江青に代表される王洪文、鄧小平ら。

㊷ 会社などでも、強力なワンマン社長の下では、ナンバー2は自動的に淘汰されている。


 この場合毛沢東個人は何らかの指示を出す必要はなかった。紅衛兵が進んで毛沢東の意図を読み取ろうとしたように、権力を支えている者たちが必死になって毛沢東の意志を忖度して、まず劉少奇を倒し、続いて林彪を自滅させてしまったのである。その後、同じ力が作用して、江青、王洪文、鄧小平ら、自薦、他薦のナンバー2候補が正式のナンバー2に昇格することを妨害し続け、難病を患い死を目前にした毛沢東は、辛うじて同僚の中でも無名で目立たない存在だった華国鋒を後継者に指名することに成功した。しかしもしも毛沢東がもう少し長生きしていたら、華国鋒とて無事であったかどうかは分からない。晩年の毛沢東はいよいよ気まぐれになり、その行動は予測しにくくなったとされているが、文革推進派と実務官僚という対立する二つの勢力に支えられて存立している絶対的権力が自己の存在を誇示するためには、それ以上の方法は考えられない。ある意味、人民の予測から逸脱していればいるほど、絶対的権力の自律性が誇示されることになるからである。

㊸ 無名な後継者の指名は、独裁者の権威を一層高める効果がある。


 そうした逸脱の最たるものが、ニクソンの訪中までをもたらした対米交渉であった。珍宝島でソ連と戦火を交えたとはいえ、相手方のトップはフルシチョフとは違って堅実な官僚タイプのブレジネフで、一応周恩来とコスイギンの会談も行われていたため、中国にはこの時点で緊急避難的にアメリカにたよる必要はなく、これはむしろ主に1969年4月に党規約で毛沢東の後継者と明記された林彪を完全に部外者にしたまま、自らの自律性を誇示するために行った行為だと見なすべきであろう。勿論1969年のニクソンによって発表されたグアム・ドクトリン以降のアメリカの態度の変化の影響も無視し得ないが、そうした変化に反応して従来敵視してきたアメリカ帝国主義と交渉すること自体、たとえば林彪や文革推進派のような忠実な同志にとっては、余りにも唐突な決断であると見なさざるを得ないであろう。厳・高共著前掲書所収の年表によると、国家主席間題における毛・林関係の齟齬が公になりつつあった1970年12月18日に毛沢東がエドガー・スノーと会見し、「ニクソンを歓迎する」と語ったとされていて、このあたりに毛沢東外交の新しい展開の出発点が見られるようである。何と毛沢東はその年の5月に、全世界の人民に対して、アメリカという侵略者との対決を呼びかける声明を発表しているのだから、180度の方向転換と見なすことができる。

㊹ 米国の大統領が共和党・保守派のニクソンなので、意外性がさらに高まり、毛も周もその点にも期待したようだ。

㊺ ソ連の危険が薄らいだことも、逆に毛沢東の対米交渉意欲を高めたはずである。

㊻ しかし何よりも、林彪を交えないで進めている重大案件であることが、毛沢東の意欲を掻き立てたはずである。

㊼ マ・シ共著、前掲書、下、「18 戦争の影」所収「対米解放」116~120ページ、の節。

㊽ 厳・高共著、前掲書、上、「文化大革命関係年表」11ページ。

㊾ 同上、10~11ぺージ。


 こうした外交政策の転換は、まさに林彪との抗争と平行して進められ、林彪が死去した年の翌年の2月にまずニクソン大統領が、さらに9月には日本の田中角栄首相が訪中して、中国の国際世界への復帰が進行し始める。あまりにも強大になり過ぎて、もはや一貫性を保つことが不要となった独裁権力は、最終的な段階で過去のしがらみを捨て、国際社会への参加に向けて舵を切ったのである。この時毛沢東と林彪との摩擦を利用して、中国の繁栄にとって不可欠な進路変更に毛沢東権力を導いたのは、周恩来の手腕であったことは言うまでもない(51)。いずれにせよ文化大革命が生み出したのが、単なる東側陣営のマルクス・レーニン主義的権力ではなくて、むしろそうした権力との抗争・対決を辞さない毛沢東絶対主義的権力であった(52) という事実が、従来の中国の外交政策からの転換を可能にして、将来の発展の基礎となったという事実は否定し得ない。

㊿ 同上、12ぺージ。

(51) 周恩来は毛沢東に対して卑屈に見えるほど忠実ではあったが、独自の構想力があった。

(52) ユーゴだけは一見似た立場にあったが、国家の基盤が脆弱過ぎた。


4. モンタペルティ現象を発生させるための不可欠な要件の一つは、変化した敗戦国家に対して国際社会が好意的な反応を示すことであった。中世フィレンツェの場合は、フィレンツェを取り巻く国際環境が、シャルル・ダンジューのナポリ王国征服の結果一転したため、一旦は敗北したはずのグェルフィ党とポポロによる政権が息を吹き返し、敗戦によって受けたさまざまな試練を糧にして、経済的・文化的大発展を遂げることになった(53)。この場合にはむしろ国際関係自体が先に変化して、中世フィレンツェはその変化に助け起こされたという感が強い。そのためにモンタペルティ戦争の敗戦の影響自体は見過ごされやすく、私が行った指摘も簡単には理解され難いようである。

(53) 米山喜晟著『敗戦が中世フィレンツェを変えた』東京(近代文芸社・2005)。


 それに対して第二次世界大戦後の日、独、伊三国に関しては、モンタペルティ現象という言葉は私以外誰も用いてはいないものの、それらの国々の戦後の復興が共通してしばしば奇跡と称えられたことは周知の事実である(54)。アイケンベリーの『アフター・ヴィクトリー』はこの時の戦勝国、特に超大国となったアメリカの戦後処理の功績を高く評価した著書である(55)。勿論アメリカの慎重で寛大な戦後構築の背景には、ソ連の勢力拡大と中国革命などによって発生した冷戦への配慮があった。戦後処理が常にうまくいくとは限らないことは、同書の第五章で論じられた1919年の戦後構築における失敗が、早くも14年後にドイツでナチズム政権を誕生させ、20年後に第二次世界大戦を勃発させた事実によって明らかである(56)

(54) 拙稿『潮流に乗って 第一次世界大戦後のモンタペルティ現象』、「国際文化論集・第11号」、大阪(桃山学院大学総合研究所・2009)。(「百万遍・第5号」所収)

(55) 本論文の「はじめに」の注② の著書。

(56) 同上、「第五章一九一九年の戦後構築」127~177ページ。


 文化大革命後の中国の転換の場合でも、国際社会の反応が、その成否を左右する重要な要素であったことは言うまでもない。勿論個人的にこの変化を受け入れようとしなかった人々もいなかったわけではないが(57)、一般的に見て国際社会は中国で生じた転換に対してきわめて好意的な反応を示した、と言えそうである。それにはヴェトナム戦争での敗北を

目前にしたアメリカが全面的な方針転換を迫られていた(58)、という事情も有利に影響したことは否定できない。いずれにせよ、前項で記した毛沢東が林彪をつんぼ桟敷においたまますすめた交渉の結果が、中国に新しい展望を開いたことは確実である。国連ではすでにニクソン訪中の前年の1971年10月に、台湾の国民党政府の代わりに中華人民共和国を代表と認めるという決議がアルバニアの提案により圧倒的多数で可決される(59) など、国際社会では共産中国を容認する動きが加速されていて、中国をめぐる国際関係は全般的に好転しつつあった。しかしせっかく大統領の訪中で世界の注目を集めたアメリカとの関係も、台湾問題などがネックとなって劇的な改善をもたらすにはほど遠く、正式に国交が樹立されたのは、ニクソン訪中から約7年も後のカーター大統領の時代、1979年1月1日のことであった(60)。しかし毛沢東存命中の中国には国際的環境を活用し得る基盤が存在しなかったことや、毛沢東死後の過渡期的状況などを考慮すると、西側陣営のリーダー米国との国交回復はまさに絶妙のタイミングで行われた、と見なすことができるであろう。

(57) 最もきびしく中国の方針転換を批判した書物の一つに、シャルル・ベトレーム著、山田侑平訳『毛沢東に背いた中国』東京(日中出版・1980)がある。

(58) 本章の注㊼。

(59) 天児著、前掲書、「第六章 革命と近代化の確執 毛・周体制と米中接近」217ぺージ。

(60) 同上、「第七章 改革開放・近代化へ邁進 毛沢東『準軍事外交』から鄧小平『改革開放外交』」へ、251~262ページ。


 またそれ以前に中国の経済発展の始動期を助けたのは、岸内閣時代に一時中断されたものの、LT貿易を通して、国交が回復する以前の1962年から粘り強く中国との貿易を続けていた日本の存在である(61)。第二次世界大戦以前に長期にわたって中国に侵攻していた日本(62) は、米国よりも早く1972年9月に中国との国交を樹立したばかりでなく、中国で発生していた変化を敏感に察知し、改革・開放政策が軌道に乗り出した1979年以降はODA援助を継続し、中国における港湾や空港、道路や鉄道、あるいは病院建設などのインフラ建設を支援するなどの形で、中国が新しく採用した政策の推進に協力した(63)。当時の日本人には、政治家から一庶民まで、今日の日本人からはとても想像できない、中国人との和解を望む熱意があったのだ(64)

(61) 日中間の断絶から、LT貿易の開始に至る経緯は、添谷芳秀編著『現代中国外交の六十年・変化と持続』東京(慶応儀塾大学出版会・2011)「第1部「歴史」と戦後日中関係」の「第4章 戦後初期日中関係における「断絶」の再検討(1958~1962)・「闘争支援」と「経済外交」の協奏をめくって」93~114ページ、に記されている。

(62) 日中間の戦争は1931年から1945年まで続いた。当時と今日とでは、戦争や植民地に関する世界の通念が大きく変わっていることを忘れてはならない。

(63) 規模が拡大した今日の中国経済から見ると、ODAの金額はそれほど大きくは見えないが、当時最低限度必要とされていたインフラを補充して将来の発展に寄与した点で、金額以上に効果を発揮していた。

(64) 周知のごとく、国交回復を実現した当時の首相田中角栄と外相大平正芳は、下級兵士および公務員として、日本が侵攻していた当時の中国で勤務した体験があった。


 それに較べると当時アジアで猛烈な発展ぶりを示していたいわゆる「四匹の虎(韓国、台湾、香港、シンガポール)」には、それぞれの独自の事情があったために、90年代までは香港を除くと中国と直接大規模な交流を結ぶには至らなかったらしい(65)。しかし元来東南アジアの国々では、中国から脱出して各地で地歩を築いてきた数千万人にも及ぶ華僑の影響力が強く(66)、彼らも故国との往来や通商を容易にしてくれることが予想される新しい政策に期待して協力を惜しまなかったはずである。やがて90年代に入って韓国やそれらのアセアン諸国と中国との交流が全開の状態に達すると、経済特区を始めとする中国全土相手の貿易や外資による直接投資の大きな部分をそれらアジア諸国と日本が占めたのは当然である(67)。その中でも1997年に英国から中国に返還されるはずになっていた香港は、1979年以来常に中国への直接投資額のシェアの大きな部分を占め続けたのである(68)。勿論米国を始めとする他の欧米諸国との関係も無視できないが(69)、日本その他のアジア諸国が中国の国際社会への復帰を支援したことが、中国経済の発展にとって最も強力な追い風となったことは誰も否定できないはずである。

(65) 王著、前掲書、154ページの図50、海外直接投資に占める香港・台湾資本の比重、によると、台湾資本がその図に現れるのは1990年からである。また2010年に習近平が、シンガポールと中国との国交20周年記念式典に参加したことを伝えた記事に、1990年10月3日に両国の国交が樹立されたことが記されている。さらにインターネットで読める創価大学平成19年度『紀要』に掲載された、新井高志著の論文『韓国外交史における韓中外交・韓国の対中外交樹立の目的とその影響』によると、中国は北朝鮮の金日成が1991年10月に訪中した際、米朝修交が成立するまで中国は韓国との修交をしないようにと要請し、鄧小平がそれに同意したにもかかわらず、中国はその翌年の1992年に韓国との国交を樹立したと記されている。それらの国々とは異なり、本注冒頭の図によると、香港は早くも1979~83年当時から、中国への直接投資の約6割を占めており、多少の変動はあっても常に5~7割のシェアを堅持し続け、90年代の後半にようやくシェアの5割を割るに至っている。それまでの蓄積たるや、日米両国をあわせても遠く及ばない。

(66) 南・牧野共編、前掲書、第10章、171~190ページの論文、杜進著「中国は国際社会にとって脅威か? 中華経済圏の形成と米中経済摩擦」の「1 大中華圏の生成」の節、特に172ぺージ。


(67) 同上、174ぺージの表10-1によると、アジア諸国が中国への直接投資で占める比率は、1992年で89.7%、2003年で61.8%。

(68) 本章、注(65)の香港に関する記述。

(69) 同上、の図によると、米国は1979年以来日本と大差のない1割前後の割合を占めている。1990年代後半からその比率が縮小し、世界のその他の国々の投資の比率が増える。


 なお中国で改革・開放路線が定着し始めたのと同じ1979年末以降、ソ連がアフガニスタンに大量の軍隊の派兵を開始したため、70年代を通して定着していた米ソ間のデタント(緊張緩和)が一気に破綻したことも、中国に有利な流れを形成したことは否定できないであろう(70)。ソ連は1978年にアフガニスタンで発生した社会主義者と軍部のクーデターに乗じて、中東に有力な拠点を築いて東側陣営の拡大を図ろうとしたのだが、結果的にはおよそ10年に及ぶ泥沼のような戦闘の後に、何も得ることなしに撤退したばかりか、その後にソ連の体制自体の崩壊を招くこととなった(71)。この戦争がソ連を慢性的に消耗させ続けていたために、中国は以前ほどソ連の軍事的圧力を感じることなく経済活動を展開できた上に、ソ連の勢力拡大を妨害することに専念している米国から一段と好意的な扱いを受けることができた。さらに1980年には米国の呼びかけに応じて約50カ国のモスクワ・オリンピックのボイコット仲間に加わることで、20年来の敵・ソ連の面目を丸つぶれにすると共に、始まったばかりの対米関係をさらに緊密なものにした(72)

(70) ソ連と東欧諸国の穀物不足や、米国のヴェトナムでの敗勢などによって、1960年代末、米ソ間のデタント(緊張緩和)が進み、70年代の大半はそうした風潮が支配的だった。

(71) 共同通信社編『世界年鑑2010』東京(共同通信社・2010)228~229ページ。サミュエル・ハンチントン著、鈴木主税訳『文明の衝突』東京(集英社・1998)373ページ以下。ハンチントンは、この戦争を(冷戦開始以来?)最初の文明間の戦争として重視している。

(72) 共同通信社編『世界年鑑1981』683ぺージの、ソ連のスポーツの項の末尾に、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、カーター米大統領が1980年のモスクワ・オリンピックのボイコットを呼びかけたために、米国、西ドイツ、日本、中国等が参加せず、参加国は81カ国、7000人にとどまったことが記されている。


5. さらにモンタペルティ現象の存在を証明するために論じている私には、もう一つ忘れてはならない事柄がある。それはまさに中国で改革・開放政策への転換が行われつつあったこの時期に、日本では第二次世界大戦後のモンタペルティ現象が進行していたことである(73)

(73) 拙稿『「モンタペルティ現象」試論』、国際文化論集・第39号、大阪(桃山学院大学総合研究所・2009)「百万遍第3号」所収。および拙稿『潮流に乗って・第二次世界大戦後のモンタペルティ現象』(前掲)「百万遍第5号」所収


 この時期日本で発生したモンタペルティ現象は、主に二つの仕方で中国に好影響を与えたものと思われる。その一つは当時日本で進行していた、敗戦の結果生じた純粋な形のモンタペルティ現象に特有の軍事離れの影響である。第二次世界大戦に敗れた日本は、米国の占領下にあってそれまでも軍国主義路線からの徹底的な転換を強いられた。当時在日中の大学院生レベルのアメリカ人の青年までが加わって執筆したとされる新憲法の草案には戦争放棄が宣言され、軍隊を持たないことが明記されていたが、日本の国会はそうした規定をそのまま受け入れたために、原則としては軍隊が持てない国家が誕生した(74)。その後自衛権に基づいて自衛隊を創設することで一応丸腰の状態は解消した(75) ものの、現在も在日米軍によって力の空白を補填せざるを得ないというのが実情である。しかし周辺諸国にとっては、日本の軍事的弱体化は好ましい事態であった。とりわけ戦前日本の軍事力に散々悩まされた中国にとって、日本軍の脅威から解放されたことの心理的恩恵は私たちの想像以上に大きい可能性がある(76)。ただし近年の中国には米国は勿論、ロシアやインドのような強力なライバルが存在するために、そうした恩恵は限定的だと見なすべきであろう。

(74) ジョン・ダワー著、三浦・高杉・田代共訳『敗北を抱きしめて』下、「第12章・GHQが新しい国民憲章を起草する」および「第13章・アメリカの草案を日本化する」151~249ページ。

(75) 1950年、朝鮮戦争が勃発したため、日本駐留中の米軍が朝鮮に派遣されて手薄になったのを補うために、同年8月にマッカーサーの承認を得て警察予備隊が創設され、さらに米国の期待に応えて1952年8月に警察予備隊は保安隊に改組、海上保安庁内の海上警備隊も保安庁内の警備隊に改組された。1954年に成立したMSA条約が日本のさらなる防衛努力を求めたため、政府は防衛二法を強行成立させ、保安隊は陸上自衛隊、警備隊は海上自衛隊に改組され、航空自衛隊が新設されて今日に至る。

(76) あるいは全く国策に基づく官製デモかも知れないが、小泉首相の靖国参拝に対する中国人学生の反応には、今にも日本人が攻めてくるような真剣さが感じられた。


 おそらくそれ以上に大きな影響をもたらしたのは、日本の経済的モデルとしての役割である。そこで見逃すことができないのは、1978年の秋、当時はまだナンバー2だった鄧小平が、政府代表団長として日本を訪問し、国交回復以来懸案になっていた日中平和友好条約の批准書を交わすとともに、新幹線やトヨタ自動車などの先進的技術や施設の視察を精力的に行っている、という事実(77) である。今日の日本にとってはすでに遠い過去の栄光に過ぎないが、「四匹の虎」などにもはっきりと日本モデルの効果があらわれていて、1981年にマレーシアのマハティール首相が発表したルックイースト政策の名称が端的に示している(78) 通り、この当時の世界において日本は最も成功した経済的モデルだと見なされていた。まさにトップの座について国政を指揮し始める直前の時期に、当時のアジアにおける先進モデルの展示場のごとき日本を訪問したことは、経済改革の必要性およびそれがもたらす可能性に関する彼の信念を一層強化したはずである。中国以外にはソ連しか行ったことがなかった毛沢東と違って、若いころ数年間フランスで苦学し、モスクワにも若いころから何度も滞在した他、国連本部で演説するためにニューヨークをも訪れたことがあり、当時の中国人指導者の中では例外的に国際感覚が豊かだった鄧小平にとっても、おそらくこの時の訪日は、その短い期間では考えられないほど大きな影響をもたらしたに違いない(79)

(77) 天児著、前掲書、253ぺージ。肖敏捷著『人気中国人エコノミストによる中国事情』東京(日本経済新聞出版社・2010)32~35ページも、この視察を重視して、35ぺージでは、「日本に学ぼう」の大号令となった、と記している。

(78) 残念ながら、その地域の対日感情は必ずしも良好とは言えないので、こうした事実がまともに考慮されるとは思われないが、1993年の世界銀行のレポートで「東アジアの奇跡」とさえ呼ばれたほどの発展を遂げている、韓国、台湾、香港、シンガポールの内、前の2つは長年日本の植民地であり、後の2つは第二次大戦中日本の占領下にあったことと、今日の経済発展とは無関係ではあり得ない。

(79) 肖著、前掲書、34ぺージも鄧小平の国際感覚を評価している。


 経済特区のみならず全国各地において、あっという間にそれらのモデルが採用された。さらに後発のために新しい技術や機械を選択できることや、人件費が抜群に安いという利点を活かして、中国の企業は優位に立ち続け、次第に先進諸国の企業を凌駕して、世界の工場の地位を確立したばかりでなく、膨大な人口の力で世界の市場とまで呼ばれ、すでに日本からGDP世界第2位の地位を奪い取るに至っている(80)。これまでに何度か私が指摘しておいた通り(81)、モンタペルティ現象は単独で終わらずに、類似の現象を誘発することがある。どうやら中国のモンタペルティ現象の場合も、第二次世界大戦後の日本に発生したモンタペルティ現象によって誘発されたものと見なすことが可能である。こうした見解の是非はともかく、西側世界、特にその内でもアジアの部分が、中国の方針転換を好意的に受け入れたことは、誰からも是認いただけるはずである。

(80) 日本経済新聞社編『日中逆転 膨張する中国の真実』東京(日本経済新聞出版社・2010)。

(81) そうした予測の下に、シエナに発生したと思われるモンタペルティ現象を論じたのが、拙稿『敗戦の効果・世界史の中のモンタペルティ現象』「国際文化論集・第42号」大阪(桃山学院大学総合研究所・2010)28~50ページ、「第二章 フィレンツェとシエナ同時多発的モンタペルティ現象」、である。(「百万遍第6号」所収)


6. すでに私がいくつかの論文において指摘しておいたとおり(82)、敗戦後の転換が人間の動きを解放し、その移動を容易にすることが、モンタペルティ現象を増幅させるための要件の一つである。前論文ではこの要件に関して、先進国における中国人留学生のシェアの大きさを示すに止めた(83) が、本論文では中国の経済発展にとってより直接的に重大な意義を有していたと思われる、文化大革命の終焉後に生じた中国農民の動きを眺めることにしたい。すでに見た通り、鄧小平の時代が実権を握った後に真っ先に行った改革の最大のものは、何といっても1980年代半ばまでに完了した人民公社の解体である。当時の全人口の7割以上を占めていた農民の大半を囲いこんでいた、まさに毛沢東主義の象徴のようなこの組織を解体したことは、毛沢東絶対主義からの転換を全国に宣言すると同時に、農民の行動にかぶせられていた目に見えない覆いを取り除く役目をも果した、と言えるはずである。勿論農民のすべてが集団活動から一挙に解放されたわけではなく、一部の人々は郷鎮企業に横滑りして共同経営の成員にとどまったのだが、やはり多くの人々は貸与された農地を自分たちの家族の責任で経営することになり、労働条件その他は自らの責任において決定することとなった。その結果農民の活動が一拳に多様化したことは言うまでもない。さらに人民公社の解体が完了したころには、1979年から始められていた経済特区の実験に、大連や上海などを含む「沿海経済技術開発区」の実験が加えられて(84)、改革・開放政策はますます進展しており、縛りがゆるくなった農民の受け皿がタイミングよく増え続けていたのである。

(82) たとえば、本論の「はじめに」の注① の論文の178ぺージに、「第四にそうした転換が個入の解放や行動の自由度の増大と結びつき、第五に敗戦前後の体験が国民を鍛えることで、モンタペルティ現象はさらに大きく開花することであろう」と記しておいた。

(83) 同上、205ページ。

(84) 王著、前掲書、48ページの表4。


 ただし中国では1958年に初めて全国的に公布された『戸籍登録条例』によって、都市部の住民は「城鎮戸口」、農村部の住民は「農村戸口」と、別の戸口に登録されており、農村から都市への移住は著しく困難であった(85)。実は中国の戸籍制度自体、都市住民の食糧確保等の目的のために、農民の都市流入を制限するための手段として利用されていた(86) という事情があった。だから1984年以前には、農民の都市への移動は原則禁止とし、農村の余剰労働力問題はできるだけ農村地域内で解決すべきだとされていた(87)。しかし1984年になると、農村の「生産責任制」が定着した結果、生産性が向上して食糧難問題が解決されたたために、農村の余剰労働力問題はますます緊急の課題となった。こうして農民の都市への移動は、改革・開放政策の成功と平行して許可され始め、その数は次第に増大した。深尾光洋編『中国経済のマクロ分析』第六章の論文、李天国著「中国における就業と労働市場」(88) の記述を要約する形で、その経緯を以下で簡単に紹介しておくことにしたい。

(85) 毛里和子編、前掲書所収、第九章の内田論文、263ぺージ。

(86) 同上。

(87) 深尾光洋編『中国経済のマクロ分析 高成長は持続可能か』東京(日本経済新聞社・2006)第六章の李天国論文、中の203ぺージの記述。第2章、注(54) 参照

(88) 同上。


 農村の余剰労働力の受け皿としてまず着目されたのは、農村に近い集鎮(中小都市)で発達していた郷鎮企業であった。そうした企業の中には、優れた経営手腕によって発展しているものが少なくなかったので、中共中央は1984年1月1日付の「農村工作に関する通知」によって、農民の農村から集鎮への移動を解禁した(89)。ただし農民は食糧を自弁するなどの条件付きで、社会保険などの保証を受けることなしに、試験的に移住が許されたのである(90)。さらに同年10月の「通知」によって、一定の条件を充たすことで集鎮への「非農業人口」としての転籍が認められることになり、約450万人がこの種の戸籍を取得した(91)

(89) 同上、203~204ぺージ。

(90) 同上、204ぺージ。彼らは「食糧を自弁する戸籍証明」が発給され、事故等も自己責任で対応したらしい。

(91) 同上、204ページ。なお同ページの注(34) によると、「集鎮」は都市ではなく、小さな町を指すので、非農業地域と訳すべきだとし、都市への移動はもう少し先だとしている。


 しかしそれだけでは発展しつつある都市の工業やサービス業の労働力の需要には全く応えられないことが明らかなので、1985年1月1日、中共中央は「農村経済を活性化させる十項政策」を発表したが、ここでは集鎮ではなく都市という言葉が用いられ、初めて農民の都市への移動が認められた(92)。さらに1986年7月に出された「規定」によって、国営企業が農村から従業員を募集することが初めて許可された(93)。また1988年7月の「貧困地域労働力資源開発工作通知」によって、地域間と省間の移動を奨励して、大・中都市の労働部門に農村の労働力を吸収するよう呼びかけた(94)

(92) 同上、204ページ。

(93) 同上。

(94) 同上、94~95ぺージ。


 こうして「民工潮」(95) と呼ばれる出稼ぎ労働者の大量移動が発生し、多くのトラブルが発生した(96) 上、1989年から91年まで不況が続いたために、この時期には移動を制御・禁止する「通知」が繰り返し出されたが、いずれもあまり功を奏さなかったらしい(97)。そして1992年に鄧小平が「南巡講話」(98) を発表したころから、国内の景気は回復して「民工潮」はさらに一段と拡大した。それに対し1993年11月の中共中央の会議の「決定」は、農村余剰労働力の農業以外の産業への移動を奨励・促進する方針を明確に打ち出した(99)。その後李論文は、今日では是正されているが、出稼ぎ農民が不完全な管理体制のため、所持すべき身分証明書その他もろもろの経費を市当局等から毟り取られていた実情などを記している(100) が、まさに農民が巨大な潮流となって都市になだれ込むに至った状況は、以上の中共当局が行った様々な決定や通知から推察できるはずである。

(95) 同上95ページ、内陸部の省から沿海部へと出稼ぎに向かう労働者の集中移動のこと。

(96) トラブルは、乗りなれない交通機関、トイレ、食糧調達、宿泊施設、社会治安、労働市場管理、就業中の事故、賃金の支払い等に関連して連日、無数に発生した。

(97) 同上、205ぺージ。

(98) ヤン著、前掲書「第Ⅲ章 垂簾の治者・富強中国の夢」 5 引退はしたが [1990~93年]、298ぺージ以下。

(99) 注(87) の李論文、205ページ。

(100) 同上、205~206ぺージ。


 李論文によると、2004年度の場合、1.2億人、または1.03億人と、資料によって差はあるものの、とにかく1億人以上の農民がこうして都市で働いているそうである(101)。出稼ぎ労働者は3Kの仕事を押し付けられることが多い上に、都市戸籍を持つ従業員よりも労働時間は50%多いにもかかわらず、平均給料は60%にも達していないなど、二元構造に由来する差別構造は深刻であり(102)、中国の格差問題の底辺におかれた存在であるため、このような労働者の数が多数に上ることは決して喜ぶべきことではないが、ともかくこれほど大きな人の流れが発生していた事実によっても、文化大革命の終焉からモンタペルティ現象が発生していたことが推察されるのである。

(101) 同上、207ぺージ。国家統計局の調査では、1.2億人、農業部のそれでは、1.03億人。

(102) 同上、賃金差別は、209ぺージ、事故が多発する劣悪な条件は、210ページ。非国有企業で起きた労働災害の被害者の8割は、出稼ぎ労働者だという。まさに蟹工船の世界であるが、二元構造の基になっているのは毛沢東時代の戸籍制度だから、亡霊を呼び出して再度革命を起こしてもらっても無駄である。


7. 文化大革命が戦争と同様に、多くの人を殺して取り返しのつかない損害をもたらしたことはすでに記したが、結果的に人々を鍛えたことは否定できない。前項で紹介した李論文と、毛里和子編『毛沢東時代の中国』第9章の論文、内田知行著「戸籍管理・配給制度からみた中国社会・建国・一九八○年代初頭」(103)、とを読み較べると、改革・開放政策によって生じた人の移動の質的変化が窺えて興味深い。勿論農民以外の人の移動も頻繁に行われてはいたけれども、何と言っても転換後の中国における人の移動の主流は、先に見た通り発展しつつある都市への農民たちの流入であった。それに対して、内田論文が概観している建国から文化大革命までの中国国内の人の動きは、とてもそのようには単純化できない複雑なものであるが、ほぼ一貫して流入と排出の繰り返しであったらしい。1958年の戸籍制度の確立以後、大躍進政策に乗じた農民の都市流入の動きが生じたため、それを制止するための中共中央の「指示」や「緊急通知」による措置が講じられた(104)。毛沢東の政策が失敗して農村が都市人口の扶育が困難になると、口減らしのための都市の労働者の帰農政策や青年子女の下郷運動が断行された。以下内田論文を要約しながら、主な動きをたどってみる。

(103) 本章注(85) と同じ。

(104) 同上、266~267ぺージ。


 1961年6月に中共中央は、様々な条件に基づく都市人口の削減を決定し、まず都市人口1300万入、都市部の職員・労働者950万人の削減を実施し、その後も何度か同様の削減を行った(105)。さらに青年層に関しても、都市青年の下郷運動が行われ、62~65年に都市知識青年その他を158万人下郷させた(106)。また盲目的な流入や還流を「規定草案」に基づいて徹底的に取り締まっている。ただし食糧危機は都市よりも農村の方が厳しかったので、飢餓線上の母子などが乞食をするために都市に流入することは一時的に許可されたそうである(107)。こうして都市への流入の取り締まりを厳しくしている最中に、文化大革命が発生した。文革が始まると下郷青年は隊伍を組んで農村を離れ交流の旅に出たが、多くの青年は住みにくい農村に帰る事を願わず、都市部に居座った(108)。そこで1967年7月9日付の『人民日報』の社説は知識青年の即時帰村を要求(109) し、さらに12月22日の『人民日報』は、「知識青年は農村へ入れ」という毛沢東の指示(110) を掲載して、下郷運動をさらに強化した。その結果内田論文には「文革期の66~76年の間に下郷運動によって農村に移動した人の総数は1700万人にのぼった。もっとも、同時期に1300万人の農民が都市労働者に採用された」(111) と記されている。後半の一文はそれまでの記述と整合性を欠いているような印象を受けるが、ともかくそういう事実があったということであろうか。

(105) 同上、267ぺージ。

(106) 同上、267ページ以下。

(107) 同上、269ページ。意外にも農村よりも都市の方がゆとりがあったらしい。農村は都市によって収奪されていたのである。

(108) 同上、269ページ。

(109) 同上、269~270ぺージ。

(110) 同上、270ぺージ。それにしても知識青年とは持ち上げたものである。同時に知識への軽蔑がこめられているのではないか。

(111) 同上、270ぺージ。


 文革期にはもう一つ重要な移動があり、それは三線建設のための移動(112) であった。これは国防・安全保障上の理由から行われた重工業の奥地建設、経済拠点の内陸部への移転に伴う人の移動であるため、下郷運動とは意味が異なるものの、進んだ地域から遅れた地域への移動である点で、ある程度共通していたようである。経済効率を無視して進められた建設事業は、後に撤収を余儀なくされたものもあったらしい(113)。いずれにせよ、国際社会との関係が安定するとともに、緊急に推進する必要はなくなったと見なすことができる。広い土地に恵まれた黒龍江省への移動(114) のように、農民が自発的に、政府の許可なしにおこなった移動も見られたとは言え、文化大革命が終焉するまでの中国人の移動の大半は、もっぱら当局の指示と強制に基づいたもので、そうした指示と強制は多くの場合、移動する人々の願望に逆らうものが多かった、と言わざるを得ない。しかし前論文でいくつかの事例を紹介した通り、下郷運動は年少の知識青年に書物の学問からは絶対に得られない生きる知恵を与えたことは確実である。『ワイルド・スワン』の著者が毛沢東の死去に際して咄嵯に政治的に正しい嘘泣きができた(115) のも、それまでに辛酸を舐め尽くした成果であった。我が国の外交官や政治家や経済人がこういうしたたかな人々と対等に渡り合えるであろうか。

(112) 同.上、270ー271ページ。

(113) 同上、271ページ。

(114) 同上、271ページ。

(115) マ・シ共著、前掲書、下、281~282ページ。


 以上で見て来たとおり、文化大革命というイデオロギー闘争の終焉は、敗戦に酷似した影響を中国に与えた。だからイデオロギー闘争の終焉が、中国にモンタペルティ現象をもたらしたことは、当然の結果だったのである。ただし本物の敗戦の場合とは異なり、このモンタペルティ現象には、中国の好戦性や侵略欲を抑制する効果をあまり期待できないことは、明らかだと思われる。しかし現代中国のモンタペルティ現象は、すでに別の形で世界史に影響していた可能性が認められる。そのためには、以下の中ソ両国の輸入と輸出の伸びを比較した表を見ていただきたい。


年度          1975    1980    1985    1990

ソ連輸入    100      166.7   259.9    264.8

輸出          100      206.7   302.9    252.9


中国輸入    100       202.7   854.7   1743.6

輸出          100      189.7   565.7    2096.5    (116)


(116) この表は、本論、第二章の注(63) で記したミッチェルの著書のアジア篇の中国の項と、下記のヨーロッパ篇のロシアの項から作成した。B.R.Mitchell, INTERNATIONAL HISTORICAL STATISTICS, EUROPE 1750-2000 Fifth Edition, NewYork (Palgrave Macmillan) 2003, p.584.



 これは先に引用したミッチェルの著書の数字によって作成した、1975年の数字を100として、中ソ両国の貿易の伸び率を比較した表だが、ソ連は15年間で輸入、輸出ともにようやく2.5倍前後の伸びを達成したのに対して、中国は輸入は約17倍、輸出は21倍とまさに桁外れの拡大を示しているのである(117)。勿論当時の入々がこうした数字を把握していたわけではないが、文化大革命終焉後に改革・開放政策を採用した中国の経済が従来例のなかった活況を呈していることには、世界中が気付いていたはずである。特にアフガニスタン侵攻とチェルノブイリの原発事故などで重症に陥っていた(118) ソ連の国民に対して、資本主義社会との和解という方針転換後に生じた中国経済の拡大は、自分たちの政府の政治・国際的立場の在り方に対する懐疑を掻き立てたはずである。中国で発生したモンタペルティ現象は、そうした意味で東側陣営を揺さぶるのに大いに効果があったのではないだろうか。だから中国で発生したモンタペルティ現象は、平和に関する配当は乏しい代わりに、マルクス・レーニン・スターリン主義の体制批判においては威力を発揮しており、東側諸国の多くに対して、政治的・経済的転向をうながすための影響力を発揮したと言えるのではないだろうか。

(117) 最初の5年間はほとんど差がないため、格差は80年代の10年間に生じたものである。

(118) 1986年4月26日にウクライナの原子力発電所の実験中にメルトダウンが起きて大爆発を起こした事故は、アフガニスタン戦争で消耗したソ連にさらなるダメージを与えて、その崩壊につながった。崩壊については、佐藤優著『自壊する帝国』東京(新潮社・2006)やデイヴィッド・レムニック著、三浦元博訳『レーニンの墓・ソ連帝国最後の日々』東京(白水社・2011)などでその経緯が分かる。




まとめ



 前論文において現代中国でもモンタペルティ現象が発生していることを推測した筆者は、他の国々との比較だけでそうした判断を下すことは余りにも安易であることに気付き、本論でその不備を補うことにした。そこでまず現代中国史をたどることによって、モンタペルティ現象が発生した経緯を明らかにしたいと考えた。さらに現代中国の場合、外国との戦争に敗北したわけではなく、単に国内の一イデオロギー闘争に過ぎない文化大革命が終焉しただけなのに、敗戦と同様の効果が発生したのは何故か、という理由をも明らかにしておくことが必要だと考えた。

 そこで第一章では、まず国民党政府を台湾に追い込んだ後の中国共産党政府の動きを、希代の戦略家毛沢東の行動を中心に概観した。その後次第に重症と化したソ連との葛藤のために、国際的に孤立しつつあった中国で、「大躍進政策」の失敗によって国家主席の地位を劉少奇に譲り第二線に退いていたはずの毛沢東が、忠実な同志林彪を通して解放軍を掌握しつつ、江青らが率いる文革推進派の工作で大規模な学生・生徒の紛争を引き起こし、紅衛兵運動を通して中央の奪権に成功、さらに解放軍の力で全国的に奪権闘争を展開して、毛沢東絶対主義的政権の確立に成功するまでの経緯をたどった。ここまで肥大した絶対主義的権力は、ナンバー2の存在さえ許さず、林彪が自滅した後は容易に後継者がきまらなかった。そして毛沢東は死のしばらく前、辛うじて華国鋒を後継者に指名したが、官僚と軍人からなる行政組織と文革推進派という二つの勢力の均衡の上に立つ毛沢東絶対主義的体制は、他の何者かによって相続できるようなものではなかったことをも指摘した。

 第二章では、まず毛沢東が死去した後、「四人組」逮捕で文革推進派が一掃され、一時期華国鋒が党・軍・政府の頂点に立ったが、結局鄧小平の復位を認めざるを得ず、その後数年間で、鄧小平の仲間が主要な権力を掌握するまでの経緯を見た。鄧小平とその仲間はただ単に主要な権力を奪取しただけではなく、毛沢東の方針を転換して改革・開放政策を提起するとともに、毛沢東の最大の遺産であり、当時の人口の7割以上が関係していた人民公社を解体し、また残りの多数が関係している国有企業にもメスを入れ、さらに経済特区などを通して大幅に資本主義的手法を取り入れて、生産性を高めた。そうした改革の成果は著しく、中国経済は多少の浮沈はあったものの、その後ほぼ一貫して拡大を続け、すでにGDPは日本を追い抜いて世界第二位に達し、今や世界の工場から世界の市場に変わろうとしている。文化大革命が生み出した毛沢東絶対主義的体制からの転換は、そのこと自体特異なイデオロギー国家の死滅と見なし得るので、まさに敗戦そのものと見なすことが可能であり、その結果モンタペルティ現象が発生したと解釈することはけっして誤りではないものと思われる。

 しかし真の敗戦とイデオロギー闘争の敗北との違いにこだわる立場が有り得るので、第三章は、現代中国におけるイデオロギー闘争の終焉が、なぜ真の敗戦と同様の効果を生み出したのか、という理由を考察する。その理由は以下の通り、複数存在している。

 第一の理由は、文化大革命が極めて戦争に似ていたことである。イデオロギー闘争とはいうものの、それは毛沢東の望み通り、発端近くから学生や紅衛兵の血生臭い暴力に彩られ、当時中国が関係したいかなる本物の戦争と比較しても、桁違いに多い犠牲者を出している。しかも大規模な内戦が発生したことや、至るところに内戦の可能性が認められたために、事態の収拾のために軍入に依存する機会が激増し、その結果として一時期はほとんどの権力機構に軍人が加わり、とりわけ地方の各種委員会の成員の圧倒的多数を軍人が占めるという状況が発生した。したがって文化大革命の終焉は、そうした状況に終止符を打つことによって、まさに終戦と同様の効果を発揮したのである。

 第二の理由は、文化大革命が中国人に対して、マルクス主義・共産主義的抑圧を強化すると同時に、専門家と知識人とを憎悪する毛沢東の個人的価値判断に基づく知的・文化的抑圧をも加えていたために、鄧小平が推進した毛沢東絶対主義的体制からの転換は、それら二種類の抑圧からの中国人の解放を意味し、まさに敗戦による軍国主義的戦時体制からの解放に勝るとも劣らぬ効果を発揮したことである。

 第三の理由は、林彪との関係が悪化していた毛沢東が、ソ連の脅威を緩和するとともに、自らの権力が林彪や文革推進派から独立した絶対的なものであることを誇示するため、従来の自らの外交方針との矛盾を無視して、キッシンジャー・周恩来らの用意した米国や日本との関係改善に着手し、将来の中国の国際化を準備しておいたことである。

 第四の理由は、鄧小平が推進した毛沢東絶対主義的体制からの転換とその後に推進した改革・開放路線を、当時の国際社会すなわち日米両国や当時躍進中であったアジアの国々が好意的に受け入れ、その時期には多少ずれがあったが、ほぼ全面的に協力したことである。元来東南アジア諸国で強力な影響力を有していた華僑の協力も、当然中国の経済発展を加速させた。

 第五の理由として、この時日本では、第二次世界大戦の敗戦後に発生したモンタペルティ現象が進行中であったことも重要である。敗戦後の日本における産業の復興ぶりは、アジアの国々に対してモデルとして機能したが、当時経済発展の最中にあった日本は、方針転換後の中国に対してもモデルとしての役目を果たすとともに、自らも進んで中国の経済発展のために協力したのである。

 第六の理由は、鄧小平による転換が、多数の中国人、とりわけ人民公社と戸籍制度によって束縛されていた莫大な数の農民の移動を可能にして、その行動半径を拡大させた結果、改革・開放政策の成果を一段と増幅させたことである。

 さらに第七の理由として、文化大革命時代に毛沢東や文革推進派によって課せられた多くの試練、たとえば毛沢東が紅衛兵に強制した下放などが、戦争と同様当時の中国人を鍛え、今日の中国人の活躍の基礎を準備したことが考えられる。

 以上のさまざまな理由によって、文化大革命というイデオロギー闘争の終焉は、一国の敗戦と酷似した状況を現代中国にもたらしており、その結果おそらく世界史上最大規模のモンタペルティ現象が発生し、現在も進行中なのである。


* この論文は、桃山学院大学総合研究所『国際文化論集・第45号』(2012年1月31日発行)より転載したものです。(編集部・記)


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