モンタペルティ現象7-3


第三章 天国とフィレンツェ



 本章ではダンテが『天国篇』の中で歌っている、フィレンツェとフィレンツェ人に関連した事柄を要約して列挙しておく。


1. 『天国篇』第1歌(13~15行)で、ダンテは詩神アポッロ(アポロ)に対して、自らに月桂冠を与え給えと祈っている。『天国篇』第25歌の冒頭で、フィレンツェでの戴冠を望む彼の希望が再び表明されるが、この部分はその伏線とも取れる。


2. 『煉獄篇」第1歌で歌われている、ベアトリーチェが太陽を直視し、ダンテがその瞳の光りに見とれている内に二人が離陸するという飛翔の仕方は、愛が人を浄化して高めることを歌う清新体派のテーマを具現したものである。ダンテは『煉獄篇』第24歌でボナジュンタ・ダ・ルッカらの世代と自分たちとの違いに触れているが、ボローニャのグイド・グィニツェッリが創始した清新体派のテーマはフィレンツェに伝えられ、グイド・カヴァルカンティのグループ、特にダンテ自身によって深められた。フィレンツェで清新体派の活動がなければ、『新生」も、その延長としての『神曲』も、誕生しなかっただろう

① 極めて早い時期に書かれながら今日も学ぶところが大きい、清新体派のテーマに関する重要な論文に、池田廉「聖女ベアトリーチェ賛歌:『新生』試論」、『イタリア学会誌』第6号、京都1957 がある。


3. すでに「煉獄篇」の後半でフィレンツェ人と出会う機会は減少していたが、『天国篇』に入るとそうした機会はさらに稀になる。地獄や煉獄とは異なり、天国ではフィレンツェ人のみならず、あらゆる霊との出会いそのものが稀になってしまう。ダンテが天国で出会うのは、ほとんどが世界史上の有名人たちの霊であり、著名な存在でなくて天国に登場するのは、ごく例外的な存在である。フィレンツェ人であり、かつてダンテの知人であったために、当時の世界で全く無名であったにもかかわらず天国に登場する最初の霊は、『天国篇』第3歌34行以降で歌われたピッカルダ・ドナーティである。

 すでに『煉獄篇』第24歌において、フォレーゼ・ドナーティの口から妹が天国にいることは語られていた。天国で月天に入ったダンテが、自分と最も話したがっている霊に対してその名前と身の上を尋ねると、「自分はかつて修道女だったことがあり、たとえ前より一段と美しくなっていても、よく見ればあなたの記憶は私がピッカルダだと分かるはずです。私は他の至福者たちとともに、最もゆっくり回る天球に配置されています。私たちの感情は聖霊の喜びに同調して燃え上がるので、聖霊の意向に合わせて喜びに充ちています。私たちは誓約を守ることにおろそかで、一部欠けたところがあったために、これほど低いところに置かれるという運命が与えられたのです(43~57行)」という返事が返ってきた。

 それに対してダンテは、彼女の容貌に神聖な輝きが加わっていたために、最初は見分けられなかったが、その言葉のおかげで思い出すことが容易になったと告げ、ここで満足しているあなたたちは、もっと良く神を観想し、もっと密接に神と結び着くために、さらに高いところに昇ることを望まないのですか、という質問を投げかける(58~66行)。

 それに対してピッカルダは、他の霊たちとちょっと微笑みを交わし、それから第一の火(神)への愛に燃え上がるかのように嬉しそうに答えた。すなわち「愛の力が私たちの意志を抑制していて、私たちが今持っているものだけで満足し、それ以上は望まないようにさせています。私たちがもっと上にいきたいなどと望むならば、私たちの望みが私たちをここに配置されたお方の望みと対立することになります。もしもこの天球の性質をよくご覧になれば、愛の内にあるということがここでは必然である以上、そうした対立がこの天球では起こり得ないということをお分かりになるでしょう(70~78行)」という返答をした後、天国にいる至福者には、神の意志と自分の意志とが一体となるように神の意志の内に止まることは必須条件であり、それぞれの天球への配置を、そうありたいという望みを私たちに吹き込む王(神)自身と同様に、王国のすべての人々自身が望んでいるのだとして、自分たちの平安は神の意志であり、それこそが神が創造されたものや自然が行うことすべてが集束している海であると答えている。

 こうした問答の後に、ダンテは神の至高の善という恩寵が一様に降っているわけではないにもかかわらず、なぜ天上はどこでもすべて天国なのかという事情が明らかになったことを認めている(79~90行)。ダンテがピッカルダに完成できなかった誓約とは何かと尋ねると、彼女はもっと上にいるサンタ・キアーラの例に倣い、キリストの花嫁として生涯を過ごすために若くして現世を逃れ、(クラリッセ)女子修道院に入った(97~105行)のだが、「善行よりも悪行に慣れた人々が、楽しい回廊から私を奪い返し、その後の私の生涯がどうなったかは、神様がご存じです(106~108行)」と打ち明ける。

 すなわち彼女は兄(コルソ・ドナーティ)の手で、自分の意志に反して修道院から連れ戻され、当時の兄の盟友ロッセリーノ・デッラ・トーサと結婚させられたのである。ただしある伝説によると、彼女はその後間もなく病いを得て死んだとされている②。 このようにコルソとその仲間の悪事が告発されているのだが、煉獄におけるフォレーゼと同様、ここでもピッカルダはコルソの名前を挙げていない。その反面ダンテは煉獄のフォレーゼや天国のピッカルダのようなドナーティ家の善人に関しては、本入を登場させて長々と語らせているのである。とは言ってもドナーティ家の悪人と善人との比率があまりにもアンバランスなので、ダンテがこの一族に依怙贔屓しているなどと単純に割り切ることはできない。むしろこの一族の祖国に対する宿業の深さに対するダンテの畏怖の念が感じられ、数少ない善人は、一族の悪という甘味を引き立てる少量の塩の役割を演じているとも言える。この続きの部分で、ピッカルダは皇帝アッリーゴ(ハインリッヒ)六世の皇后でフェデリーコ二世を生んだコスタンツァを、自分がいる月天の代表として紹介している(105~120行)。ダンテはこの時ピッカルダが述べた、「(コスタンツァが)自分の意志と良き習俗に反して世間に引き戻された後も、心にまとっているヴェールを脱いだことは一度もありません(115~117行)」という言葉について、続く『天国篇』第4歌の後半で疑問を表明し、ベアトリーチェがそれに対して丁寧に答えている。

② ウテット版647ページの脚注による。ただし、注釈者のキメンツはそのことを信じていない。


4. 『天国篇』第5歌で活動家たちの霊がいる水星天に昇ったダンテは、世界史上の巨人の一人ジュスティニアーノ(ユスティニアヌス)皇帝の眩しく光る霊に会い、続く第6歌でこの皇帝の口から彼自身の生涯と創立以来のローマの歴史を聞く。やがて話題はカルロ・マーニョによる教会の救出以後に及び、(97行以下で)ジュスティニアーノはグェルフィ対ギベッリーニの党争に触れて、これを「お前たちの諸悪の根源(99行)」と呼んできびしく弾劾している。フィレンツェそのものが直接言及されているわけではないが、この当時のフィレンツェがナポリ王国と並ぶイタリアで最も有力なグェルフィ党のリーダーであったことを考慮すると、無関係ではあり得ない。ジュスティニアーノによると、グェルフィ党はフランス王権の旗印、百合の花で皇帝の鷲に対抗し、ギベッリーニ党は鷲を私物化している。「だから、どちらがより誤っているのか見極めるのは難しい(102行)」と判定する。

 この部分を執筆した当時、ダンテはすでにギベッリーニ党に転向していたけれども、現実の党派に対しては等しく批判的であった。ジュスティニアーノはギベッリーニ党に対して、正義から外れた自分勝手なことをするためならば鷲とは別の旗印を用いよと命じ、逆にカルロ二世に対してはグェルフィ党と組んで鷲と戦うことを止めよと命じて、彼らよりももっと強力な獅子の皮をも引き裂く鷲のかぎ爪を恐れよ、神の裁きは息が長く、子が父の罪のために泣くことは頻繁に起こっており、神が鷲の旗印の代わりに百合を採用されることなどを期待してはならない、と忠告している。ダンテがこの部分でカルロ二世の名前だけを挙げていることは、注目に値する。その筆致は決して好意的とは言い難いが、シチリア晩祷事件で大いに傷付いていたにもかかわらず、ダンテは当時のイタリアにおいてアンジョー家が最も有力で影響力のある存在だと認めていたことが分かるからである。


5. 『天国篇』第8歌で愛者たちの霊が配置されている金星天に入ったダンテは、前節で言及されたカルロ二世の長子カルロ・マルテッロの霊と出会い、その口を通してこの一族の現状に関するさらにくわしい情報を語らせている。

 金星天に昇ったダンテに対して、一群の光りがすばやく降って来て、その一人がかつてダンテが第三天(金星天)を歌ったカンツォーネを引用し、「全員が君を喜ばせたがっている(32~33行)」と歓迎の意を表明し、ベアトリーチェの許しを得たダンテが相手の正体を尋ねると、ますます陽気になったその霊は、自分は短命だったが、もしももっと長生きしていたら多くの不幸が起こらずに済んだのにと述べて、喜びの光りで繭のように自分の姿を包み隠しなから、「君は私を大いに愛してくれた、それには十分根拠があった。もしも私が下界に止まっていたら、私の気持ちの葉っぱの部分だけでなく、実の部分も示せたのに(55~57行)」と残念がる。

 さらにその霊は、もし生きていれば自分とその子孫が支配したと思われる、プロヴァンス、イタリア半島南部、そして生前すでに王位についていたハンガリーその他、領地となる可能性があった地方を数え挙げることで、自分の正体を明らかにしている。続いて将来父の位を継ぐはずの弟ロベルトの統治について、彼が役人に起用しようとするカタローニャ人の貪欲さが反乱を引き起こすのではないかという危惧を表明し、気前の良い父のあとを継いだ倹約好きな彼の性質を考えると、家来にはお金にがめつくない軍人が適任かも知れない、などという感想を述べる。

 この後ダンテはアンジョー家から話題を変えて、良き父から悪しき子が生まれるのは何故かと質問し、カルロ・マルテッロは、人間は各自能力に応じて社会に貢献することで、人間らしい社会生活を営んでいるとする、市民生活に関するアリストテレスの説を紹介すると共に、星の影響によって各個人にあたえられた素質は、必ずしもその人の父の職業と合致しているわけではないために、しばしば父の職業を継ぐのにふさわしくない子供が生まれるのだと説明する。ダンテはカルロ・マルテッロを、このような知識人として、また天国の金星天にいる愛者の一人として描いているのである。

 このカルロ・マルテッロは1271年生まれなのでダンテより6歳年下で、父がナポリ湾で捕虜になったために一時期王の代理をつとめ、さらに母マリーアの実家のラディスラーオ王が暗殺された後、その地位を嗣いでハンガリー王の地位に就いたが、24歳の若さで夭折した君主である。ヴィッラーニによると、彼は1294年の春、プロヴァンスから帰って来た父と会うために、フィレンツェに20日以上滞在したとされていて、その時優れた詩作によって才能を認められていたダンテと出会い、親しくなったものとされている。いくら若いとは言え、一国の王と20歳代の一市民との間に親交があったとは容易に信じ難いのだが、私が参照できた注釈書はすべて、ヴィッラーニの記述に基づいて、二人が1294年にフィレンツェで親交を結んだことを認めている③。 

③ ヴィッラーニ『年代記』第8巻13章。


 こうした一連の対話の後、続く第9歌の冒頭で、ダンテは突然カルロ・マルテッロの娘クレメンツァに呼びかけ、カルロ・マルテッロからの伝言として、彼の遺児は人に欺かれるが、欺いた者はその後正当な罰を受けることだろう、そしてそれ以上言うことはできないという言葉を伝えている。カルロ・マルテッロとの関係で最も注目すべきことは、ダンテがたとえ一人でもアンジョー家の人物を天国に置いていることである。ダンテ自身とドナーティ家の人々との関係と同様、この一族はフィレンツェとの関係が深すぎるために、一方的に断罪することが不可能だったのだろう。そう言えばダンテが最も期待した皇帝アッリーゴ(ハインリッヒ)七世のイタリア到来に際して、フィレンツェと共同戦線を張って抵抗し続けたカルロ・マルテッロの弟ロベルト王に対しても、ダンテが何らかの方法で厳しい非難を行っていても当然であるにもかかわらず、あてこすりのような表現を除くと、『神曲』にははっきりした非難は全く見られないのである

④ 『神曲』において、カルロ・マルテッロが弟ロベルトについて触れるのは、その統治にカタローニャ人の貪欲が影響することを心配し、税が苛酷にならないことを勧めた『天国篇』第8歌76~84行であるが、天体の影響で父親の職業にふさわしくない子供が生まれる場合があることを歌った箇所、「説教師になるべき者を王にする(147行)」で、ロベルト王のことを調しているという見方(ガルザンティ版844ぺージ脚注)がある。たとえそのことを認めても、ダンテのロベルト王への態度は厳しいとは言えない。


6. 『天国篇』第9歌(12行以下)に、カルロ・マルテッロと入れ代わって登場するのは、北イタリアの暴君として数々の残虐な伝説に包まれたエッツェリーノ・ダ・ロマーノの妹で、自らも奔放に生きたクニッツァ・ダ・ロマーノである。彼女は晩年をフィレンツェで過ごしたために、ダンテは彼女を目撃していたに違いない⑤。 悪名高い一族の出身である上に、その生涯に三人もの夫を持ち、煉獄の前域で会ったソルデッロを含め多くの愛入がいたとされるクニッツァが天国にいること自体、意外とも言える。彼女は(32行で)自分の名を名乗り、この星の光りが私を負かしたのでこの天にいるのだと語った後、自分の隣の光り輝く霊を紹介して、人は彼のように名声を残すために努力すべきだのに、自分の故郷、北イタリアの住民たちがそのことを忘れて争っていることを嘆き、彼らの悲惨な運命を予言する。

⑤ Davidsohn, op. cit., II, p.797 によると、クニッツァがカヴァルカンティ家の邸宅に住んでいたために、モンタペルティ敗戦後にカヴァルカンティ家が亡命した際、彼女の実家であるギベッリーニ党の名門ダ・ロマーノ家の威光によって、カヴァルカンティ邸は破壊も没収も免れた。


7. 同じ第9歌(67行以下)で彼女に交代したのは、先に彼女によって紹介されたフォルコ(フォルケット・ダ・マルシリア)で、彼は自らの生い立ちとともに金星天の代表、ラアブのことを語り、彼女からの連想で話題は聖地に及び、「それ(聖地)はほとんど教皇の記憶に上らない(125行)」と、ボニファツィオという名前は挙げていないが、この時期の教皇を非難している。そして教皇への言及から自動的に連想されたように、フォルコはフィレンツェについて触れ、フィレンツェを大悪魔ルチーフェロの娘だと断定し、フィオリーノ金貨という呪われた花で教会人を堕落させたと非難している。その後フォルコは福音の教えを忘れて実利を追い求め、聖地解放の大志を忘れている聖職者たちをも非難し、ヴァティカーノその他のローマの選ばれた土地は間もなく悪事から解放されるという(1309年のアヴィニヨンヘの移転の)予言でこの第9歌を閉じている。

 まるで1252年以降のフィオリーノ金貨の鋳造がカトリック教会全体の堕落の原因であるかのごとき、このトロヴァトーレの強引な論法に対しては、フィレンツェ人ならずとも疑問を呈したくなるはずである。だがその反面金融業でシエナを圧倒する一方で、当時の最も重要な産業、羊毛加工業においてもその地位を躍進させていたフィレンツェは、ダンテのような資本主義的経済活動全般に批判的な立場から見ると、ヨーロッパ世界の諸悪の根源のように見えたとしても不思議ではない。

⑥ 拙著68ぺージ以下で記したとおり、フィオリーノ金貨の鋳造は皇帝権力の空白に乗じて、国威発揚のために行われた。すでに1238年から銀貨の鋳造を行っており、持ち込まれた金を加工して手数料を取る委託加工方式であれば、大量の金の備蓄がなくとも金貨の鋳造は可能で、フィレンツェが特に富裕でなくとも、皇帝による制裁さえ恐れなければ実現し得た。


8. あたかも第9歌における唐突なフィレンツェ批判が一つの区切りでもあったかのように、ダンテはその後数歌に亙ってフィレンツェヘの言及をやめている。続く『天国篇』第10歌、第11歌、と第12歌で、ダンテは第四天、すなわち太陽天に配されている知者の霊たちを歌う。そこではドミニコ教団を中心とする12人の霊とフランチェスコ教団を中心とする12人の霊が登場して、トンマーゾ・ダクィーノ(聖トマス・アクィナス)がフランチェスコについて、またボナヴェントゥーラがドメニコ(聖ドミニクス)について語り、お互いにライヴァル教団の教祖を賛美し合う。

 続く第13歌では、トンマーゾがサロモーネ(ソロモン)に関するダンテの疑問に答える。さらに第14歌の冒頭でベアトリーチェはダンテに代わってサロモーネに質問し、復活した後には、霊たちの光がますます強くなるという返答を得ている。そこへ新しい霊の群れが加わるが、眩し過ぎてダンテの記憶の限界を越えていた。このときダンテがベアトリーチェの目を見たため浮力が生じて、彼らは第五天、すなわち武人の霊が配されている火星天に入る。

 以上の5歌の舞台は、もっぱら知的巨入たちが歌い踊る太陽天に終始していたために、フィレンツェとはほとんど関係がない。とは言ってもフィレンツェは、フランチェスコ教団とドミニコ教団のいずれにとっても13世紀前半から重要な拠点であったから、勿論無関係ではあり得ず、たとえばブランチェスコ教団については、「私はしっかり言おう。私たちの教団という書物を一枚ずつ調べる人がいたら、あるいはまだその中には、“自分は昔のままだ” と読み取れるページがあるかも知れないが、カザールの者もアックァスパルタの者もそうではあるまい。一方は規定をゆるめ、他方はきつくしているから(第12歌、121~126行)」というボナヴェントゥーラの言葉があり、前者はダンテがフィレンツェで知り合ったスピリトゥアーリ派の指導者の一人ウベルティーノ、後者は1287年ミノーリ派の総長を務め、後に枢機卿となり白黒闘争の調停のためにボニファツィオによってフィレンツェヘ派遣されたマッテオに言及したものとされている

⑦ ガルザンティ版884ページの脚注。


9. こうして5歌にわたってほとんどフィレンツェから離れていた『天国篇』の関心は、第15歌におけるダンテの高祖父(曾祖父の父)カッチャグイダの登場で、一転してフィレンツェに集中する。カッチャグイダが元の席に戻るのが、第18歌の途中(48~50行)なので、それまではほとんどフィレンツェが話題に上り続ける。これまで断片的に示されて来たダンテのフィレンツェに関する考えが、ここでまとめられているのである。

 まず彼の登場の様子について歌われ、ダンテは夜空で流星を見る人のように、一つの星が天の十字架の右腕から足元に向かって流れるのを見たことと、その星は光りの群れに沿って走り、透明なアラバスターの向こうで動く火のようだったこととを記している(19~24行)。ダンテはさらにその光が、ヴィルジリオの作品中でアンキーゼが冥界で息子エネアに出会った時の言葉、「ああ息子よ、ああ限りなき神の恵みよ、お前に対してなされたように、一体それはだれに対して、二度も天の扉を開き給うたか(28~30行)」をそっくりそのままラテン語で告げたと記している(25~30行)。その言葉を聞いたダンテは、初めてその霊に注意を向け、その後ベアトリーチェに顔を向けて、そのいずれからも眩しさによって圧倒される。ベアトリーチェ、の微笑の余りの美しさに、ダンテは恩寵と天国の極致に達したと感じた(31~36行)。カッチャグイダの霊が語り始めた言葉は、当初深遠すぎてダンテには理解できないが、それは彼の考えが人間の限界を越えていたためである。そして一旦彼の熱烈な愛情が吐露されてしまうと、言葉の調子は低下して、生きた人間でも理解できるものとなった(37~45行)。

⑧ ウテット版756ページの脚注によると、 Eneide, VI, 835 sgg.


 こうしてダンテに理解できた最初の言葉は(46行)、「私の子孫に対してかくも親切であったあなた、三位一体の神は祝福されますように(47~48行)」というものだった。さらにその霊は、「我が子よ、決して白黒が変わることなき神の膨大な書物でそのことを読んで以来、感謝しつつも久しく引き摺ってきた渇望をお前は癒してくれた。そして私はこの光りに包まれたまま、お前に高く飛ぶための羽根を与えてくれたお方(ベアトリーチェ)のおかげで、お前と話している(49~54行)」と続けて、神とダンテとベアトリーチェに対する感謝の言葉を述べた後、ダンテの考えは神の鏡を通して自分にはすべて明らかではあるが、聖なる愛がより良く満たされるために、お前の声で尋ねたいことをはっきりと発言するように、すでにそれに対する返答は確定しているからと、ダンテに質問をうながした(55~69行)。ベアトリーチエの微笑による了解を得たダンテは、質問に移る。彼はまず相手の父親のような歓迎ぶりに心からの感謝の意を表した後に、あなたのお名前を教えてほしいと懇願する(73~87行)。

 こうして「待望久しかったとは言え、私を喜ばせている私の子孫よ、私はお前の先祖だった(88~89行)」で始まる、彼自身とその一族に関する説明の最初の部分(91~96行)が行われる。まずダンテの姓(アリギエーリ)の元となった人、アラギエーロは100年以上も煉獄の(傲慢の罪を罰している)第一の岩棚を回っているが、彼はカッチャグイダの息子でダンテの曾祖父に当たるので、ダンテの祈りによってその苦しみを短縮してあげるようにと勧めている。

 続いて彼の話題は彼自身が生きていたころのフィレンツェに移るが(97~133行)、その話題は次の節で論じることにしてカッチャグイダとその一族に関する記述(130~148行)を続けると、彼自身はサン・ジョヴァンニ洗礼堂でカッチャグイダと名付けられ、モロントとエリゼーオという兄弟がいて、妻はポー川沿岸(フェッラーラ)出身であり、その姓に基づいて息子にアルディギエーロまたはアラギエーロという名前が付けられ、そこからダンテの一族の姓が生まれたことなどを教えている。カッチャグイダは、その後皇帝クッラード(コンラート三世)に従って十字軍に加わり、皇帝に大いに気に入られて騎士の位を授けられたが、教皇たちの無関心のために回教徒に奪回されたままになっている聖地で、回教徒たちの不正な教えと戦う内に彼は魂を汚している偽りの世から解放されて、殉教者としてこの平安に達した、と語った(134~148行)。

⑨ ウテット版764ぺージの脚注によると、11世紀から14世紀にかけてフェッラーラでアルディギェーリ家が繁栄しており、カッチャグイダはその一族の娘と結婚して、息子の一人がアラギェーロと名付けられ、その子孫はアリギェーリと名乗った。他の兄弟の子孫は元の姓のエリゼーイを名乗り続けた。

⑩ ガルザンティ版913ぺージの脚注は、第二次十字軍を率いたクッラード(またはコッラード、コンラート)三世だと断定しているが、ウテット版764ぺージの脚注は、ヴィッラーニの『年代記』第4巻9章の記述に基づいて、クッラード二世説をも併記している。


 『天国篇』第15歌の末尾近くで自分の一族の騎士号の由来を聞いたダンテは、続く第16歌の冒頭で自分の高貴な血統への誇りを歌う(1~6行)。感激の余りダンテが自分の先祖に、ローマで初めて用いられたという voi という敬称で語りかけたため、ベアトリーチェが失笑したことをも記した後、「あなたは私の父上です。私に話すための勇気を与え、これまで以上に私を高めて下さいました(15~16行)」という感謝の言葉の後、カッチャグイダの先祖はどんな人々か、彼が子供だったころの年代は何年か、当時のフィレンツェの人口は何人か、当時のフィレンツェで高い地位にあったのは誰か、等の質問を並べ立てる。それに対してカッチャグイダは、受胎告知の日から彼の出生までの間に、火星が580回獅子座の下を回った(火星の1年は687日でその580倍を365で割ると1091.67となり、彼は1091年の生まれになる)こと、先祖はサン・ジョヴァンニのパリオの起点となるポルタ・サン・ピエロに住んでいたことだけを告げ、それ以上は黙っている方が良いとして、自分の一族に関する話を打ち切ってしまう。その態度は謙虚で潔いが、同時にダンテが身近な血族に触れることを避けているという印象は拭えない

⑪ なぜかダンテは自分の曾祖父の世代以後の先祖や親戚については、非業の死を遂げたジェーリ・デル・ベッロ以外触れていない。


 以上の対話で注目すべき事柄の一つは、カッチャグイダがフィレンッェからかなり遠いポー川沿岸部出身の妻と結婚していて、ダンテの姓もその女の一族に由来しているということである。しかしその一方でダンテは、自分の一族がローマ人由来の生粋のフィレンツェ人であることを誇りとしていた。同時に自分の先祖が十字軍参加によって騎士号を得ていることを誇り、14世紀初頭のイタリアで、彼が十字軍活動の意義をこれほど高く評価していたという事実も注目に値する。


10. 『天国篇』第15歌から第18歌に亙るカッチャグイダとダンテとの対話は、主に

Ⅰ. カッチャグイダとその一族に関する事柄

Ⅱ. カッチャグイダが生きていたころのフィレンツェとダンテの時代のフィレンツェとの比較

Ⅲ. ダンテの将来の運命

Ⅳ. 火星天にいる他の霊たち

という四つの主題にまとめることができ、すでに第一の主題は前節で扱ったので、本節はフィレンツェそのものについて論じた二番目の主題について扱う。

 カッチャグイダが長男のアラギエーロのことを語り終えた途端、一族に関する言葉を中断して、突如「古い城壁に囲まれたフィオレンツァは(第15歌、97行)」とフィレンツェのことを歌い出している。この唐突な話題の変更ぶりからも、ダンテがどれほどこの「古き良きフィレンツェ」の賛美と、それと対比される自分の時代のフィレンツェの弾劾という主題を歌いたかったかが伺えるであろう。しかもその対比の中で、彼は自分が生きている時代のフィレンツェが抱えている社会問題を、凝縮したような形で披露しているのである。カッチャグイダは、まず彼が生きていた12世紀前半のフィレンツェは、「真面目でつつましく平和だった(si stava in pace, sobria e pudica)(99行)」ことを告げ、それから女性の生活について語り始める。当時の女性は本人よりも目立つような衣装や装身具は身に着けていなかったと述べた後(100~102行)、「娘は生まれることによって、(結婚までの)時間と持参金が、その一方は少なすぎ、他方は多すぎるために、父親に冷汗をかかせるようなことはなかった(103~105行)」という奇妙な表現が現れるが、これは持参金の高騰と女性の早婚が極端に進んだ1300年前後のフィレンツェの状況を批判している言葉だとされている。つまり当時のフィレンツェでは、女性が早婚化したのに対して男性は[特にエリート層では有利な結婚のため国外で実績を残そうとして晩婚化する例などが見られるために]そうはならず、夫婦の年令差が拡大した結果、夫と死に別れて子供を残したまま実家に戻って再婚する若い未亡人、「残酷な母」の問題が発生する一方、男性は高齢のために生まれてきた子供の養育に手が回らず子供が非行に走るなど、多くの社会問題が発生したことが、現代の研究者クラピッシュ=ジュベルやハーリヒらによって論じられている。 亡命直前のダンテは、こうした社会問題を目の当りにしていたのである。

⑫ その典型は若い時フランス等を遍歴して一財産築いた、『年代記』の著者ボナッコルソ・ピッティ(1354~1430)である。

C. Klapisch-Zuber, La "madre crudele", Maternità vedovanza e dote, in La famiglia e le donne nel rinascimento, Roma-Bari, 1988, Cap.X, pp.285~303.  及び、 D. Herlihy, SOME PSYCHOLOGICAL AND SOCIAL ROOTS OF VIOLENCE IN THE TUSCAN CITIES, in Cities and Society in Medieval Italy, London 1980, pp.129~154.


 続いてカッチャグイダの話題は建築へと飛び、当時は今日のように無人になっている家などはなく、アッシリアのサルダナパーロ王のように贅沢を誇示する趣味も伝わっていなかったことや、当時はローマ人の建築も高さにおいて今日のようにフィレンツェ人のそれに負けてはいなかったが、今は差を付けられている。しかしフィレンツェは転落に際しても、ローマの上を行く惨状を示すだろうと予言する(106~111行)。

⑭ 勿論廃墟と化していた古代ローマの建築ではなく、当代ローマの民家の建築との比較である。なおフィレンツェに無人の家が増えたという表現は、ガルザンティ版91ぺージの脚注では少子化のためとされ、ウテット版761~762ページの脚注では政情不安による亡命のためというよりも、豪邸過ぎるために住民が住んでいる気配がないため、と解釈されている。


 その後カッチャグイダは、当時のフィレンツェを代表する名士ベッリンチョン(ベッリンチォーネ)・ベルティが、骨のバックルのついた革のベルトを締めており、その夫人も化粧せずに鏡から離れるのを、「私は見た(112行)」と証言する。また当時の名門、ネルリ家とヴェッキオ(ヴェッキエッティ)家の人々が、裏張りの付かない一枚革の服で満足していたことと、その妻たちがつむ(紡錘)や糸巻き棒に満足して糸繰りの作業に従事しているのを見たと語る。

 ここで再び女性に関する話題に戻り、当時の婦人たちの方が幸福だったと断言する。何故なら誰もが自分の墓について安心しておれたし、夫がフランスに旅立って、空の寝台に置き去りにされるような者は一人もいなかったからである。それに対して現在のフィレンツェでは、政情不安のために国外亡命することもあれば、夫と死に別れて婚家を去り、何度も嫁ぎ先を転々とする可能性があり、当然自分の墓がどこになるかが確信できない。だから当時の婦入たちは、揺篭をしっかりと見守り、誰よりも先に両親を楽しませる幼児の言葉であやしたり、糸巻き棒で糸を繰りながら、子供や孫たちにトロイア人や、フィエゾレやローマの話をしてやった。もしも当時、(贅沢な生活で悪名高かったトシンギ家の)チャンゲッラや(不正な法律家として知られた)ラーポ・サルタレッロのような人がいたら、現在のフィレンツェにチンチンナート(ローマの独裁官キンキナートゥス)やコルニリア(グラックス兄弟の母、コルネリア)が現れたほどの驚きを与えただろう。マリア様のおかげで自分はこのように落ち着いた、立派な市民生活と、信頼の厚い市民の地位、快い住居に生まれることができたのだと語った(97~133行)。

 すでに見た通り、この後第15歌の終わりまで自分の一族に関する事柄を語った後、続く第16歌中でダンテがカッチャグイダに対して行った三つの質問の内の残りの二つ、すなわち当時のフィレンツェの人口は何人で、最も高い椅子(地位)にふさわしいのは誰だったかという質問に答える形で、再びフィレンツェの過去と現在の比較に取り掛かる。ただしその返答はいずれも明快とは言えない。まずカッチャグイダは、当時の都市部の人口は現在の5分の1だと答えている(46~48行)。ダンテのころのフィレンツェの都市部の人口をヴィッラーニは3万人と見なしているので、その説に従うとカッチャグイダの時代には6000人程度となり、注釈者たちは通常その数字を挙げている。 ただしこれはあくまで都市部の人口であって、現代の研究者によると、フィレンツェ共和国のペスト以前の人口は約9万または12万入と推定され、ダンテの時代にはそれより多少多かったものと考えられている⑯。 それでも決して大きな数字とは言えないが、3万と約12万という4倍の差は、カッチャグイダが「マルテ像から洗礼堂まで(第16歌47行)」とフィレンツェの古来の都市部のみに限定して論じているいるために生じたものである。いずれにせよダンテは絶対数を記していないので、具体的にどのような数字を考えていたのか明らかではない。

⑮ ウテット版768ぺージの脚注など。30,000という数字は、ヴィッラーニ『年代記』第8巻39章の冒頭で、市民の人口3万以上、領域部では6万以上、と記されている。

⑯ (1878年にパリで刊行されたフランス語の原著からのイタリア語訳)

D. Herlihy e Ch. Klapisch-Zuber, tr. di Mario Bensi, I toscani e loro famiglie uno studio sul catasto fiorentino del 1427, Bologna (Il Mulino) 1988, pp.236-243  で、フィレンツェの都市部と領域部の人口が検討されているが、ペスト以前の1340年ごろには全体で約12万人だったと推定されている。1300年以降1340年までの間、気候不順による飢饉、戦争、銀行の倒産等の経済不振その他、いわゆる「14世紀の危機」と呼ばれる状況のために、ペスト大流行以前とは言え、さすがのフィレンツェも人口は漸減傾向にあったらしい。


 ダンテはこのように一応当時の人口の規模を示した後、カッチャグイダの口を通して、その後のフィレンツェ領域部の拡大に関して厳しい批判を繰り広げる。ダンテとヴィッラーニに代表される年代記作者らとの最も顕著な違いは、フィレンツェの領域部の拡大に対して、ダンテが徹底的に否定的な立場を取っていることである(第16歌49~78行)。もちろんヴィッラーニといえども領土の拡大を闇雲に求めているわけではないが、プリーモ・ポポロ当時の市民の愛国心の強さを評価していることから、少なくとも連戦連勝を繰り返していた当時の領土の拡大に関しては、肯定的であると見なして差し支えないであろう。そしておそらくこの判断は、普通の市民の平均的なものと見なし得るであろう。

⑰ ヴィッラーニ『年代記』第6巻69章。ヴィッラーニはこの章で、プリーモ・ポポロ時代のフィレンツェ人が質実剛健で粗衣粗食に耐え、愛国心が強かったと賞賛している。


 ダンテはそれとは対照的に、あくまでカッチャグイダの言葉を通してであるが、彼の時代にはカンピ、チェルタルド、フェギネなどの住民が外人と見なされていて、職人の最底辺まで旧市民で構成されていたことを誇りとし、国境が拡大されずにガルッツォやトレスピアーノに固定されたままだったらよかったのに、と現状を嘆いている。そうすればアグリオン出身の不正な司法改革者バルド・ダグリオンや、シーニャ出身の汚職役人ファツィオ・デイ・モルバルディーニを国内に抱え込んで、その悪臭を我慢しなくても済んだからである。

 さらに「もしも世界で最も逸脱している人々が、カエサルに対して継母のようにではなく、実母のように優しく接しておれば(すなわち聖職者たちが皇帝に反抗しなければ)、今フィレンツェ人として両替や商売に精を出している男(リッポ・ヴェッルーティ)は、彼の祖父がそうしていたように(フィレンツェではなく)シミフォンテで行商を営んでいたはずだ(58~63)」という一節が続くが、それは教会が皇帝権に抵抗したために帝国の体制が弛緩し、トスカーナでもコムーネによる領域部への侵略が容易になったことへの批判である。

 もしも昔の秩序が維持されていたら、モンテムルロはグイド伯爵家のものであり、後に自派のリーダーとなるチェルキ家も、シェーヴェ川渓谷のアコーネ教区に止まり(したがって白黒闘争も発生せず)、また恐らく婚約不履行のためグェルフィ対ギベッリーニ闘争の直接の原因となったブォンデルモンティ家もグレーヴェ川渓谷に止まっていた(そのためにグェルフィ対ギベッリーニの闘争も発生しなかった)だろう。

 こうした実例を挙げた後、ダンテは断固として持論を展開する。それは、「諸君の食い合わせがそうであるように、人間の混交こそが、常に都市の不幸の原因なのだ(67~69行)」というもので、盲目の子羊よりも盲目の雄牛の方が先に転げ落ち、多くの場合5本の剣より1本の方がよく切れる、として拡大志向をあくまで否定する。さらにかつて滅びたルーニ、オルビサリアや、さらに現在滅亡中のキュージやシ(セ)ニガッリアなどを例に挙げ、都市が滅亡する以上、家族が滅亡することも珍しいことでもなければ、理解し難いことでもあるまい、と念を押している。

 さらにダンテは一般論に転じて、一見長く続く事物の場合は分かり難いが、人間の場合と同様、人間に関係する事物には必ず滅亡が伴う、と説いている(70~81行)。ここでカッチャグイダはようやく話題を転じて、自らの時代のフィレンツェの指導者に関するダンテの質問に対して答え始めるが、この回答においてもカッチャグイダの言葉は極めて曖昧である。カッチャグイダは玄孫の質問に対して、当時の主だった人物を挙げる代わりに、当時繁栄していた主要な家を挙げることで答えているからである。ごく例外的に現れる個人名も余りにも断片的で、それが重要人物であることは確かだとしても、必ずしもダンテが求めている当時のフィレンツェを代表する人物であるとは信じられない。そして延々と羅列されている家名にも、何らかの確固とした基準や序列のようなものは認められず、思い出すままに雑然と語られているという印象は否定できない。

 カッチャグイダは、月によって潮の干満が起こるのと同様に、フィレンツェでは絶えず運命による干渉が作用しているので、時間の経過のためにその名声が隠されてしまう高貴なフィレンツェ人がいても決して驚くには当たらないという前置き(82~87行)に続いて、まずウーギ、カテッリーニ、フィリッピ、グレーチ、オルマンニ、アルベリーキなど、当時すでに没落しつつあった「著名な市民たちを見た(88~90行)」ことから語り始める。

 それに続いて、まだ「古くかつ偉大だった(91行)」サッネッラ、ラルカ、ソルダニエーリ、アルディンギ、ボスティーキなどをも見たことを証言する。さらに過去と現代との顕著な対比として、「間もなく船全体の災難となるほどの重い悪業の家(チェルキ家)を、現在新らしく積み込んでいる(ポルタ・サン・ピエロ)地区には、グイド伯家とその後だれであれ、ベッリンチォーネという高貴な名前を名乗る人々(アディマーリ家その他)の先祖となるラヴィニャーニ家があった(94~99行)」と歌っている。こうして由緒あるラヴィニャーニ家を賛美するとともに、白黒闘争のリーダーであるチェルキ家を、まさに1300年当時ダンテ自身が白派に属してその勢力下で活動しているにもかかわらず、カッチャグイダに「悪業(fellonia)(95行)」という言葉を吐かせることで、誤解の余地のない否定的評価を行っているのである。

 ダンテは『神曲』全体においてチェルキ家には2度しか触れておらず⑱、 言及することすらおぞましいかのごとき敬遠ぶりで、黒派のリーダーのドナーティ家とはまさに対照的である。これはあくまでカッチャグイダの言葉を通した評価であるが、おそらくダンテ自身のグェルフィ党白派のリーダ、チェルキ家に対する最終的な評価だったと考えて差し支えないものと思われる。さらに個々の家に関する証言は以下の通り(100~147行)延々と続く。

⑱ ガルザンティ版の索引(1490ぺージ)によると、『天国篇」第16歌の65行と94~96行。


 デッラ・プレッサ家はすでにいかに統治すべきかを心得ていて、ガリガーイ家は騎士号を得て剣の柄や握りに金箔を付けていた。ベル形模様の紋章の一族(ピーリ)を始め、サッケッティ、ジュオーキ、フィファンティ、バルッチ、ガッリとスタイオ桝で不正を働いたことを恥じている一族(キアラモンテージ)もすでに偉大だった。カリフッチの基となった一族(ドナーティ)もすでに偉大で、シーツィイとアッリグッチは大官椅子で運ばれていた(高い公務についていた)。

 ここでドナーティ家は、その名を出さずに、しかし肯定的に言及されている。傲慢さのあまり破壊された一族(ウベルティ家)がどのようであったかを自分は見ているし、黄金の玉(ランベルティ家の紋章)は、フィレンツェのあらゆる重大事件に加わって活躍していた。教会の司教が空席になる度に会議に加わっては私腹を肥やしている人々(ヴィズドーミニとトシンギ)の先祖たちも、同様に活躍していた。逃げる相手には龍となり、刃向かったり財布を見せる相手には子羊のようにおとなしくなる尊大な一族(アディマーリ)は、すでに台頭していたがまだ小物で、ウーベルティーノ・ドナート(ドナーティ)は、舅(ベッリンチォーネ・ベルティ)が自分の娘をその一人に嫁がせた時、彼らと親戚になることを好まなかった。このように一度は名前を出すことを避けたかに見えたが、ここで一人の大物の名前を挙げることで、ドナーティ家がすでに市内屈指の名門だったことを伝えているのである。

⑲ アディマーリ家がこれほど辛辣に扱われている理由について、ウテット版773ページの脚注は、この一族のボッカッチーノが、亡命後に没収されたダンテの財産を入手したためだとする、白黒闘争研究の権威、デル・ルンゴの説を紹介している。

⑳ なぜかダンテは Ubertin Donato と記しているが、ガルザンティ版の索引ではその名前の後に(Ubertino Donati) が括弧付きで併記されており、モンダドーリ版『天国篇』135ページの脚注では Ubertino dei Donati と表記されているので、疑問の余地なくドナーティ家の一人である。


 またカポンサッキはフィエゾレから市場に移住を終えており、ジュウディやインファンガーティも良き市民となっていたとして、すでにこの時期でも周囲の町からの人口流入が始まっていたことを記す。今日では信じ難いことだが(となぜか大袈裟に驚きながら)、古い城壁への出入り口は今はなきデ・ラ・ペーラ家に基づいてペルッツィ門と呼ばれていたことを証言する。トスカーナ侯ウーゴの美しい紋章の一部を拝領して、聖トンマーゾの祭日にその名前と功績を称えて祝う家は、いずれもウーゴから騎士の称号とその特権を得ているのだが、今日帯状の飾りを紋章に付けているくせに、ポポロと手を組んでいる者(ジャーノ・デッラ・ベッラ)がいる(127~132行)。カッチャグイダのこの口調は、『正義の法規』を成立させた改革者として後世の歴史家たちのの評価の高いジャーノに対して、決して好意的だとは思えない。 

㉑ これはあくまでカッチャグイダの言葉からの印象であるが、ダンテ自身も民衆の先頭に立つタイプの指導者を好まなかった可能性が高い。


 すでにグァルテロッティやインポルトゥーニはいたものの、もしも新しい隣人(ブォンデルモンティ)が現れなかったら、ボルゴ区はもっと静かだったはずだ。正当な怒りのためにお前たちフィレンツェ市民を殺し、お前たちの幸福な生活に止めをさし、お前たちの涙の源となった家(アミデーイ)は、彼ら自身もその親戚も尊敬されていた。おおブォンデルモンテよ、お前は他人に唆されて、なんと拙いやり方で婚約を破棄したことか。 もしもお前が初めてフィレンツェに来た時、神がお前をエマ川に捧げて下さっていたら、多くの人々が幸福なままでいられたはずだ。 しかしフィレンツェの平和が終わるとき、橋を見守っている一部破損したマルテ(軍神マルス)像に、(ブォンデルモンテという)犠牲を払うことは運命だったのだ、などと後世の不幸を嘆く。このようにカッチャグイダは、生前市民がまだ泣くための原因がないので平穏に暮らしていて、正しく栄誉に満ちて生きている祖国の人々を見たことを証言する。敗戦によって百合の花の国旗が逆さまに吊される恐れもなく、そしてまだ百合が白から赤に変えられてはいなかった、 という言葉で一連のフィレンツェ談義を終わる。

㉒ ヴィッラーニ『年代記』第5巻38章には、アミデーイ家の娘と婚約していたブォンデルモンテ・デイ・ブォンデルモンティが、ドナーティ家のグァルドラーダに美しい娘を見せられたために婚約を破棄してその娘と結婚し、その復讐としてモスカ・デイ・ランベルティの一言で殺害されたために、フィレンツェでグェルフィ・ギベッリーニ闘争が勃発した経緯が記されている。この紛争の火元もドナーティ家であった。

㉓ ウテット版774ページの脚注によると、最古のイタリア語による『神曲』の注釈本の完成者フランチェスコ・ダ・ブーティの注釈に、ブォンデルモンテが初めてフィレンツェに来た時エマ川で溺れかけたことが記されている。

㉔ ヴィッラーニ『年代記」第6巻43章によると、1251年7月、フィレンツェのポポロはギベッリーニ党員の一部を追放して、旗印を赤地に白百合から白地に赤百合に変えた。


11. 『天国篇』第17歌に入ると話題は一転して、ベアトリーチェに勧められたダンテは、最も気掛かりな事柄、すなわち自分に「どんな運命が近付いているですか(26行)」と質問する。それに対してカッチャグイダは、「明瞭な言葉と正確な言語で(34~35行)」で、ダンテを待ち受けている残酷な運命を予言する(31~99行)。まず「フィレンツェから立ち去らねばならない(48行)」、このことはローマでボニファツィオによって望まれていて、間もなく実行され、世の常のごとく民衆の声が罪は敗者にありと判定するだろう。しかし神の裁きが、真実の証人となるだろう(52~54行)。 ダンテは「最も心から愛しているものをすべて捨てる(55~56行)」が、それは不幸の始まりに過ぎず、他人のパンがいかに塩辛く、他人の家の階段の昇降がいかに辛いかを味わうだろう(56~60行)。しかしダンテを最も苦しめるのは悪い亡命仲間たちで、全面的な忘恩と狂気と悪意とでダンテに逆らうが、間もなくこめかみに重傷を受けるのは彼らの方だ。彼らの行動は彼らの獣性の証拠だから、ダンテは自分だけの党派を立てて孤立した方が良い(61~69行)。ダンテはチェルキ家に対して厳しかったが、説明がくわしい分、白派に対してはさらに厳しい、と言えるであろう。 

㉕ この3行について、ガルザンティ版929ぺージ、ウテット版779ページ、ザニケッリ版317ページの脚注は、ボニファツィオとコルソの末路を暗示している可能性を指摘する。

㉖ 結局白派は、フィレンツェ市内でグェルフィ党強硬派の行き過ぎを抑制し、ローマ教皇庁の干渉を排除している限り存在価値があったのだが、市外ではギベッリーニ党と区別がつかなくなったのである。ダンテのギベッリーニ党転向もそのためである。


 しかしダンテを待ち受けているのは暗い将来だけではない。ヴェローナのバルトロメーオ・デッラ・スカーラの居城がダンテの最初の避難所となり、気前の良い彼はダンテが求めるよりも先に与えて、親切にもてなしてくれるだろう(70~75行)。またそこでは、今はまだ幼いが、やがて軍事的才能と気前の良さで名声を得るカン・グランデとも出会うだろう。カン・グランデのおかげで運命が変わる人が多いので、ダンテも彼を念頭におくように、しかしそのことを言わないように(76~92行)、などと忠告した後に、将来起こる信じ難い事柄を語った。このように一旦中断した後再び元の話題に戻り、以上のような罠がダンテを待ち受けているが、将来敵どもの悪行が罰せられた後も、彼の名声はずっと続くのだから、隣人を羨望しないようにという言葉(97~99行)で、一連の予言を終わる。

㉗ ダンテがスカーラ家の庇護の下にいるのは1315年からの4年間なので、この予言は意外な印象を与える。事実ダンテはそれ以前にオルデラッフィ、マラスピーナ、ポッピのグイド伯などの庇護を受けている。この言葉は亡命から間もないころ、フォルリーの領主スカルペッタ・オルデラッフィの使者としてスカーラ家を訪ねていて、その1303~1304年当時の滞在の印象が強烈だったためかも知れない。あるいは1315年10月にフィレンツェとの帰国をめぐる交渉が決裂し、改めて死刑宣告が下されたのを契機に、トスカーナ近辺を離れた後、最初にスカーラ家に頼った、という事情によるものかも知れない。だがダンテはその後、ラヴェンナのポレンタ家に移って、そこに子供の一部を呼び寄せて一緒に暮らした後に死去している。以上の記述はガルザンティ版930ページの脚注と、その巻頭の「伝記」、XIX~XXページ、さらにサンソーニ版全集の巻頭に付けられたミケーレ・バルビの解説「ダンテ・生涯・作品・評価の変遷」の9ぺージ、13ぺージの記述などによる。

 

 それに対してダンテは、迫り来る時に対してはすでに覚悟はできており、摂理で武装しているので、たとえ自分にとって一番大事な場所を奪われても、歌のためには他の場所がある(106~111行)と述べて、今巡っている三界の旅について大胆に歌うことを約束した(112~120行)。喜びで一段と輝いたカッチャグイダは、「あらゆる虚偽を除いて、お前が見たものをはっきりと示せ(127~128行)」と激励し、それは最初は苦くとも有益な栄養となるはずだと述べて、『神曲』の中で著名な人々の霊魂が歌われているのは、根拠ある実例を示すためだという解説を加えている(124~142行)。続く第18歌でカッチャグイダは、戦士の星、第五天にいる霊たちを紹介するが、彼以外にフィレンツェの関係者はいない。その後彼は自分の席に戻る。


12. 同歌52~68行で、ダンテはベアトリーチェの顔に見とれている内に、正しい君主たちの霊がいる六番目の木星天に上る。そこでは霊たちの光りが集合して文字や百合や鷲など図像を形成し、さまざまなメッセージを送っている。ダンテはその光景を見て、将来現れる教皇(ジョヴァンニ二十二世)は、砂漠で一人生きて(サロメの)舞踏の褒美としてその首を与えられたために殉教したジョヴァンニ(ヨハネ)のことで頭が一杯なので、ピエトロのこともパウロのことも知らないよ、と言うだろうと記して、実はフィレンツェの守護聖人、ジョヴァンニの像が刻印されているフィオリーノ金貨のことしかその念頭にないことを皮肉っている。


13. 続く第19歌の後半では、霊たちの群れが形成する鷲の像が、同時代の君主16人を非難する。その中には、イタリア情勢に無関心な皇帝アルベルト・ダウストリア、美男王と呼ばれた悪人フィリッポ四世、アンジョー家のカルロ二世など、フィレンツェに全く無関係とは言えない君主たちも混じっている。アラゴン家のジャコモとフェデリーコの兄弟も非難の対象となっているので、ダンテがギベッリーニ党に特に甘いわけではない。


14. 第21歌でダンテは観想する霊たちがいる七番目の土星天に昇り、続く第22歌の後半でダンテは全速力で梯子を伝って、八番目の恒星天の双子座に昇る。ここは特定の霊のための場所というよりも、キリストとマリアの勝利を祝うための天である。なおダンテは、自分が生まれて初めてトスカーナの(フィレンツェの、とは記されていない)空気を味わった時(117行)、太陽と共に自分を照らしてくれた双子座こそ自分の才能の源泉だと信じていたので、感謝の言葉を述べると共に、今後も進み続けるための力を求めている(112~123行)。その直後ベアトリーチェに勧められて下界を見たダンテは、「この地球を見て、その見すぼらしさに思わず笑った(134~135行)」と記す。他の7つの天がそれぞれ立派に回転しているのを見た後、ダンテは双子座とともに回りながら、人間を獰猛にする麦打ち場、すなわち地球を丘から河口までもう一度眺めた後、ベアトリーチェの瞳を覗いた。ここでは地球は語られていても、フィレンツェは無視されている。


15. このように『天国篇』では、末尾に近付くほどフィレンツェ離れがすすむのであるが、ダンテはもう一度だけ、かなり長くフィレンツェについての夢を歌っている。それは第25歌の冒頭の12行である。

 「かつて私は子羊として美しい羊小屋で眠っていて、子羊に戦いを仕掛ける狼の敵としてそこから締め出されたのだが、もしも天と地がそのために手を貸してくれ、長年にわたって私を憔悴させたこの聖なる詩篇が、私を羊小屋から締め出している残酷な心を克服することができたならば、私はすでに声も髪の毛もすっかり変わった詩人として帰国し、かつて洗礼を受けたのと同じ水盤で頭に月桂冠を頂くのだが。なぜなら私はその水盤で魂を神に近付ける信仰に加わり、その信仰を承認して、ピエトロが私の頭の回りを廻ったのだから(1~12行)」

 これはその前の第24歌で、ピエトロから信仰に関する試間を受けて合格したという記述の続きだが、同時にダンテが生涯に亙って、優れた詩篇によって「美しい羊小屋」と呼ぶフィレンツェに名誉ある帰国を果し、月桂冠を受けることを夢見ていたことの証拠である。ダンテは自分があれほど厳しく批判し、久しい交渉の後に1315年10月15日に改めて死刑を宣告された祖国に対して、まだこんなことを期待していたのである。それは勿論フィレンツェが祖国であるためだが、それと同時に当時フィレンツェがイタリアで最も繁栄しつつあり、イタリアの中心となりつつある都市だったことと無関係ではないだろう。

㉘ ガルザンティ版巻頭の「伝記」XIX~XXページ。


16. この後フィレンツェは無視され続けるが、第29歌103~105行で、フィレンツェにはラーポやビンドという名前が多いが、あちこちの説教壇で毎年話されている作り話の数には遠く及ばないと記されて、唐突な形で引き合いに出されている。いずれの名前にもこっけいな響きがあり、将来の陽気なフィレンツェ文化を予告している

㉙ その後のフィレンツェでは、『神曲』の世界から一変して、アントニオ・プッチらのこっけいな詩や、ボッカッチョの『デカメロン』、サッケッティの『三百話』等の笑いに満ちた世界が始まる。


17. ベアトリーチェに導かれて、第30歌でダンテは最後のエンピレオ天に昇り、そこで将来アッリーゴ七世が座るはずの玉座を見る(130~138行)。ベアトリーチェはダンテにその玉座を示しながら、彼のイタリア遠征を妨害したイタリア人を非難している。すでに記したとおり、ダンテはこの皇帝によるイタリアの改革に期待したが、フィレンツェやナポリ王国その他の抵抗でそれは挫折した。無人の豪華な玉座は、ダンテの失意と諦念を象徴している。


18. 第31歌の55行以下でベアトリーチェを振り返ったダンテは、そこに彼女ではなく、ベルナルドがいるのを見た。第32歌の9行で、ベアトリーチエがマリア、エヴァ、の下でラケルと並んでいる姿が描かれている。 フィレンツェ出身のはずのベアトリーチェに関して、ダンテはその出自には全く触れない。それと対照的なのはダンテの妻の実家ドナーティ家で、グェルフィ対ギベッリーニの党争や白黒闘争の原因となったフィレンツェの呪われた家の人々を、三界のすべてに登場させている。多数の先祖や親戚が登場させられたり言及されたりしながら、登場どころか一度も言及されていないダンテの妻のジェンマは、一人の縁者も登場せず、言及もされることなく、自分一人で登場して煉獄から天国へとダンテを案内したベアトリーチェとは、まさに対照的な存在である。だがそのベアトリーチェは『煉獄篇』第30歌115行以下で、生前フィレンツェで見たダンテがいかに有望な青年であったかを証言しているのである。

㉚ 天国でベアトリーチェの回りにいるのは、ルチーアを除くとほとんどがユダヤ人の女性、それも聖母やその母アンナ以外は、旧約聖書の女性たちである。


第四章 モンタペルティ現象の痕跡



 本章は、以上の各章で見てきた『神曲』中のフィレンツェに関する記述の中から、この都市国家で発生していたと予想されるモンタペルティ現象の痕跡を見出そうとする試みである。結論から先に記すと、私はモンタペルティ現象の痕跡と見なし得る事柄を少なくとも4件見出すことができた。それ以外にも痕跡らしきものを見出す可能性がないわけではないが、とりあえず本論ではそれらの4件を指摘することで、13世紀後半のフィレンツェにモンタペルティ現象が発生していたという自分の仮説を補強しておくことにする。

 あるいは『神曲』のように優れた文学作品を、単なる歴史の資料として読もうとする態度を嫌悪する人々が存在するかも知れない。私自身そうした嫌悪を正当な感情として、十分理解できるつもりである。それにもかかわらず、『神曲』にはヴィッラーニその他の年代記類とは異なった視点から見たフィレンツェ像が把握されていることは否定できない事実なので、やはり当時のフィレンツェを知るために不可欠な歴史的資料の一つとして利用せざるを得ない。さらに私がすでに何度か指摘した通り、この時代のフィレンツェに関する研究者の一人から、ヴィッラーニの『年代記』において13世紀後半に生じたとされているフィレンツェの変化について、そのような変化が存在したことを否定する見解が表明されている。まさにヴィッラーニが記したそうした変化こそ、私の仮説にとって決定的な重要性を有しているので、私はそうした変化の有無に関する検証を避けるわけにはいかない。その検証のためには、間題の対象となっている時代の大半を生きた作者によってほとんど同時代に書かれた『神曲』は、まさに最適な文献なのである。こうした理由によっても、私が『神曲』を一個の歴史資料として利用することを許していただかねばならない。

 先に記したように、ヴィッラーニの記述に対して否定的見解を表明しているのは、C.T.デーヴィスの「古き良き時代」という論文である。デーヴィスは、ヴィッラーニがその『年代記』において、プリーモ・ポポロ時代のフィレンツェ人が粗衣粗食に甘んじて質実剛健な生活を営み、愛国心に富んでいたことを賞賛しているという事実を取り上げて、ヴィッラーニは「古き良き時代」というトポスを利用して、それ以前に長い期間を通して生じていた気風の変化を1250年代のプリーモ・ポポロ時代以後の変化だと見なすことによって、自分と同時代のフィレンツェ人にお説教を垂れているのだとした上、プリーモ・ポポロ時代とヴィッラーニがフィレンツェについて論じた1339年ごろとの間には、その状態にも政府にも明らかな差はなかった、とさえ断言しているのである。これはまさに、私が敗戦を契機にして生じたと考えてモンタペルティ現象と呼んでいる、13世紀後半のフィレンツェに生じていたはずの変化を真っ向から否定している意見なので、私は無視するわけにはいかないのである。

C.T. Davis, Il Buon Tempo Antico, in Florentine Studies, London, 1968, pp.45-69.

② ヴィッラーニ『年代記』第6巻69章。

③ 本章注① の69ページ。But when he (=Villani) made his great survey of her power (c, 1339) [Villani, XI, 91-94], the state and government of Florence was not so obviously different from her state and government between 1250 and 1260. デーヴィスはこのように、プリーモ・ポポロ時代とヴィッラーニが執筆したセコンド・ポポロ時代の間に、フィレンツェで大きな変化は生じていないと断言する。


 デーヴィスの論文における最大の問題点は、モンタペルティの敗戦の結果フィレンツェ人が体験したとしてヴィッラーニが詳細に記している事柄を、事実の記録としての資料的重要さを評価せず、トポスに依存したお説教の材料として片付けてしまい、プリーモ・ポポロ政権の崩壊の結果生じた変化の歴史的意義を無視していることである。たとえば軍事面一つ取り挙げても、毎年のように自国民を召集して周辺部への出兵を繰り返していた好戦的なプリーモ・ポポロの政府と、試行錯誤の末に主に外国の傭兵に依存するシステムを構築しながらも、出兵に要する費用のために、戦闘に関してはるかに慎重にならざるを得なかった1339年当時のセコンド・ポポロの政府との間に明らかな差がなかったなどと、誰が断言し得るであろうか。

④ Najemy, op. cit., pp.66-72.  拙著、57~72ぺージ。この時期は対外戦争が続いた。

⑤ モンタペルティ敗戦後、アンジョー王朝の支援によってギベッリーニ党支配から解放されたフィレンツェ共和国は、その後もアンジョー家の軍隊に依存し続けるが、シチリア晩祷事件で同王国が弱体化したため、市民軍の再建を試みるなどの試行錯誤が続き、14世紀20年代のカストルッチョ戦争などを通して、主に市民に割り当てられる強制国債で、外国人傭兵に頼るシステムが確立される。ダヴィトゾーンは、約8年間フィレンツェの実権を握ったボルドーニ家が強制国債を割り当てる制度を設け、傭兵を管理するための役所(L'Ufficio della Condotta) を創設したため、市民に憎まれて失脚したが、制度と役所は残ったという経緯を明らかにしている。Davidsohn, op.cit., Vol.IV、 PP.985 sgg.


 私が『神曲』に見出したモンタペルティ現象の第一の痕跡とは、その中にダンテが書き残したフィレンツェ像が、ダンテの高祖父カッチャグイダが賛美してやまない古き良きフィレンツェと、ダンテがその貪欲ぶりを非難し続け、時にはフィオリーノ金貨をばらまいて教会を堕落させるルチーフェロの娘などと歌うことをも辞さない同時代の堕落したフィレンツェとに、真っ二つに分裂していることである。

⑥ 『天国篇』第9歌127~132行。


 カッチャグイダは『天国篇』第15歌で、「今でもそこから3時と9時の鐘を聞いている古い城壁[その一部を用いて建設された修道院から鐘が聞こえる]の中で、フィオレンツァは真面目に慎ましく、平和の内に安住していた(97~99行)」と、まず当時の町の様子を全体的に賛美した後、後世との違いを細々と語り始める。女性は後世の女性のように贅沢ではなく、建築も質素で豪邸などは建てられていなかったことなどが語られ、当時最も尊敬されていたベッリンチョン・ベルティ夫妻やその他高貴な家族の質素な生活ぶりを実際に見たことをも証言する。さらにダンテの時代に較べると、自分の墓を心配する必要がなく、商用でフランスヘ行く夫に棄てられることもないために、女性たちは後世よりも幸福だったと断定し、糸紡ぎや子供の世話に打ち込む彼女たちの穏やかな日常を賞賛を込めて語ったのち、「マリアは高い叫び声で呼ばれた時、このように落ち着いて麗しい市民生活と、信頼できる市民の地位と、楽しい住居に私を委ねられた(130~132行)」ことを、ひたすら感謝している。

 ところがダンテに言わせると、1300年前後のフィレンツェは、それとは対照的な状態にあった。そのことを端的に語っているのは、『地獄篇』第16歌において、グェルフィ党の三人の貴族に出会ったダンテが、その一人ルスティクッチから、「礼節と勇気がわれらが都市に、常にそうであった通りに残っているのか、それともすべて消滅してしまったのか(67~69行)」と問い詰められた時に思わず彼が叫んだ、「新入りの民と突然の稼ぎが、フィオレンツァよ、汝の内に傲慢と放縦を生み、汝はそのために泣いている(73~75行)」という言葉である。これによっても、ダンテが同時代のフィレンツェは堕落していると信じていたことは明らかである。

 それを聞いた質問者は、ダンテがこれほど短い言葉で聞き手を満足させたことを褒めてはいるが、ダンテの返答が質問の趣旨からいくらかずれていることは否定できない。なぜなら質問者が尋ねているのは、最近地獄に落ちて来た宮廷人ボルシェーレが嘆いていた、フィレンツェでは礼節や勇気などといった騎士階級の美徳が消滅したというのは事実かということであるのに対し、ダンテの返答は庶民をも含めた都市全体の変化を語っているからである。すなわちダンテは、新たに多くの住民が移入してきたことと近年の好景気とが齎したフィレンツェ全体の堕落ぶりを証言していて、質問者が期待するよりもはるかに大きな問題を論じており、牛刀を用いて鶏を裂いているという印象は否定できない。それでも気の良い聞き手たちは、そのように堕落したフィレンツェには優れた騎士の美徳など残っているはずもないと判断して、ダンテの返答を好意的に受け入れたのである。いずれにせよ、この問答は1272年まで生存していたとされるグイド・グェッラ没後に関するものであり、「突然の稼ぎ(subiti  guadagni)」という言葉によっても明らかな通り、デーヴィスが考えているような長期にわたる市民の気風の変化などではなく、近年のフィレンツェの変化に関するものである。したがってこうした市民の気風の重大な変化は、近年突如として発生したものだとダンテが証言していることをここで改めて確認しておきたい。

⑦ ガルザンティ版172ページの脚注。


 後にも挙げる通り、フィレンツェの堕落ぶりを嘆く言葉は他にも稀ではないが、その中でも特に惨めな印象を与えるのは、すでに第二章で引用した、不安定な政情のために朝令暮改を繰り返していることを批判して、フィレンツェを寝返りをうつことで痛みをこらえる病気の女にたとえた『煉獄篇』第6歌の一節(148~151行)である。このように『神曲』に描かれたフィレンツェ像は、質素で健全な古き良きフィレンツェと傲慢と放縦に泣く堕落したフィレンツェとに二分されているのである。

 問題はそうしたフィレンツェの変化が何時生じたかということだが、先に挙げたデーヴィスの立場は、これほど大きな変化は当然長期にわたってゆっくりと生じたものだと見なしていた。しかし少なくともダンテは、すでに先に確認しておいた通り、そのようには考えていなかったようである。その証拠は先に見た「突然の稼ぎ」という言葉であるが、その他にもあって、それは『煉獄篇』第12歌の100行目以下のすでに引用した6行である。その一節によって、すでに論じた通り、ダンテが1237年当時のフィレンツェはまだ完全には堕落していなかった、と見なしていたことが分かる。だから次第にフィレンツェの領域が拡大して、新たに編入された地域の元外人による市内への移住が進むと共に市民間の分裂が深まり、1215年にはグェルフィ・ギベッリーニ両党派による流血の闘争が勃発していたにもかかわらず、ダンテのフィレンツェ像は1237年にはまだ完全には変質してはいなかったのである。

 実はそれに先立つ『煉獄篇』第11歌において、フィレンツェの質的変化に関する決定的な証言が行われていたのである。したがってその後に現れた第12歌の前掲の6行は、その前歌の証言を知っている人々には少しも意外ではなかったはずである。その決定的な証言とは、グッビオ出身で国際的に活躍した細密画(ミニアチュール)の名人オデリージが、同じ傲慢の罪で罰せられているシエナ人プロヴェンツァーノ・サルヴァーニについて語った6行(109~114行)である。この一節は極めて重要な事柄を二つ証言している。

 その一つは、1260年9月4日に発生したモンタペルティの敗戦が、フィレンツェ人の傲慢の狂気を打ち砕いたということである。事実この敗戦によって、約10年間にわたり周辺の都市と戦い続けたプリーモ・ポポロ政権が崩壊した。ダンテは1250年に発足したプリーモ・ポポロ政権全般に関してまとまった見解をどこにも記していないが、その末期に関しては「傲慢の(superba)狂気」に取り愚かれていたと見なしていたのである。この見解はヴィッラーニの『年代記』などとも共通するもので、そこでは高位聖職者を処刑して教会から破門されたり、反対するグェルフィ党の騎士を侮辱した上に口封じしてまでモンタペルティ出兵を決定するなど、プリーモ・ポポロ政権末期の狂態が詳細に記されていて、 この時代がデーヴィスに批判されているほど美化されているとは、到底認められない。ともかくオデリージは、モンタペルティの敗戦がフィレンツェ人からこの好戦的な狂気を取り除いた、と証言しているのである。その前に傲慢の狂気と呼ばれている好戦性が取り除かれていなければ、フィレンツェ人がその後貪欲の狂気に取り愚かれて、経済活動に奔走することなどあり得なかったのだから、この証言は13世紀後半にフィレンツェが体験することになる、一連の変化を引き起こした最初にして最大の衝撃を明らかにしたものとして重要である。要するに私が主張している通り、モンタペルティの敗戦こそが、フィレンツェのその後の経済的・文化的発展の契機であったと、ダンテもオデリージの口を通して認めていたのである。

⑧ ヴィッラーニ『年代記』第6巻77章。


 先に挙げた6行はさらにもう一つ、1300年前後のフィレンツェ人が「貪欲の(putta)狂気」に取り愚かれているということをも証言している。この「貪欲」こそは、ダンテが『地獄篇」第1歌で、「貪欲」の狼を、「好色」の豹や、「傲慢」の獅子よりもはるかに危険な動物として描いて以来、人間にとって最も恐るべき悪徳とされているものなので、フィレンツェ人の症状は、「傲慢の狂気」から「貪欲の狂気」に進むことでさらに危険な状態に陥ったと見なすことができる。ここでオデリージが、フィレンツェ人の狂気が傲慢から貪欲へと一挙に転換したとせず、その両者の間に若干の時間的隔たりがあったように語っていることも、モンタペルティ敗戦以後ギベッリーニ党の占領下で苦難の時を過ごした後に、ベネヴェント戦争に勝利して成立したアンジョー王朝の助力によってグェルフィ党政権が復活し、その後急速な経済発展に向かったというフィレンツェ史の現実とぴったりと符合しているのである。なおこうした重要な事実の指摘を、ダンテは自分自身の口やフィレンツェやシエナ等モンタペルティ戦争の関係者の口を通してではなく、細密画の名人としての高い国際的評価を獲得していた、「グッビオの誉れ(l'onor  d'Agobbio)」オデリージの口から語らせることによって、一種の客観性と公平感を与えることに成功している。おそらく当時オデリージのようにボローニャやローマなど各地を転々と渡り歩いていた国際的な職人の間では、当然この種の情報交換が行われていたはずであり、そうした情報の一つとしてフィレンツェ人の気風の変化をごく自然に語らせている手法は、誠に冴えていて見事である。いずれにせよダンテは『神曲」において、フィレンツェはモンタペルティの敗戦を契機にして一変した、と証言していたのである。

 私が『神曲』で見出したモンタペルティ現象の第二の痕跡は、この作品中に敗戦の関係者が多数登場して、重要な役割を演じているという事実である。関係者の内、まず最初に登場して最も重要な役割を演じているのは、ダンテの時代のフィレンツェで数々の謀略によってこの敗戦を齎した張本人だと信じられていた、ファリナータ・デッリ・ウベルティである。彼は『地獄篇』第10歌で、霊魂不滅を信じなかったエピクロスの徒たちと共に、炎に包まれた石の墓、と言うよりは蓋のある石棺の中で焼かれていて、たまたまダンテのトスカーナ語を耳にしたので話しかけてきたのである。たとえいかに優れた知謀の人であろうとも、敵国フィレンツェからの一亡命者がシエナの外交と軍事とを思うがままに切り回したとは到底信じ難いので、ヴィッラーニの『年代記』でファリナータが相次いで仕掛けたと記されている一連の謀略は、近代の歴史学では受け入れられていないようである。 しかし『神曲』を記した当時のダンテがそれらの謀略を事実だと信じていたことは、フィレンツェの人々が自分の子孫に冷たく当たり、永久に追放している理由を尋ねたファリナータに対して行った、「アルビア川を真っ赤に染めた大虐殺と阿鼻叫喚が、我が町の教会に集まった人々に、そのような誓いを唱えさせたのです(85~86行)」という返事によっても明らかである。二人の対話は敵対するグェルフィ・ギベッリーニ両党を代表する辛辣なもので、グェルフィ党が最終的に勝利したことを自慢したダンテに、ファリナータは彼自身の追放が迫っていることを告げてしっぺ返しする。このようにきびしく対立しながらも、ダンテはエンポリにおけるギベッリーニ党の会議でフィレンツェの破壊が提案された時、彼がたった一人で反対したことを自らの口から語らせていて(91~92行)、ファリナータが彼一流の仕方で愛国者であったことをも公平に伝えている。地獄の業火などものともせず、腰から上をすっかり乗り出して、祖国と党派と一族のことを夢中になって論じている姿は、自分の息子の運命のことだけで頭が一杯で、二人の対話に一瞬口を挟んだだけで消えた(52~72行)グイド・カヴァルカンティの父親と対照的である。

⑨ 本論第一章の注⑩。


 『地獄篇』第15歌に登場するブルネット・ラティーニは、この戦いには参加していないが、敗戦によって大きく運命を変えられたので、関係者の一人と見なすことができる。彼はフィレンツェ政府の使節としてスペインヘ向かう途中で敗戦の知らせを受け、そのまま当時ヨーロッパの学問の中心であったパリに亡命、フランス語で『トレゾール』という大部の百科事典を著し、ベネヴェント戦争の後グェルフィ党支配下に服したフィレンツェに帰国したとされている。ヴィッラーニの『年代記』は1294年の出来事としてその死を記した際、彼を「修辞学の最高の師」と呼び、ダンテ自身も「いかにして人は不朽になるか」を教えられたことを感謝している。 修辞学は単なる机上の学問ではなくて、会議場で弁論を重んじるようになったセコンド・ポポロ政権の時代には、政治家にとって不可欠な実用の学問であり、彼がパリから持ち帰った百科事典は、ローマを代表する雄弁家キケロの雄弁術を紹介したものとして歓迎され、 フィレンツェの政治に実際に貢献したのである。要するにラティーニこそは、軍国フィレンツェが崩壊した後のフィレンツェ人たちに、平和的な生き方と弁論術を指南した偉大な啓蒙家兼教育者だったのである。

⑩ ヴィッラーニ『年代記』第8巻10章。

⑪ 『地獄篇」第15歌85行。

⑫ ヴィッラーニは本章注⑩ の文中で、「彼は世俗的な人であったが、フィレンツェ人を洗練させ、巧みに語るよう、そして政治によって我々の共和国を導き治めることが出来るよう目覚めさせた点で先駆者であり師匠だったために、彼のことを記した」とする。


 続く第16歌に登場するグイド・グェッラ、テッギアイオ、ルスティクッチの三人組は、モンタペルティ戦争で惨敗を喫したフィレンツェの騎士団の主要メンバーである。名門グイド伯家のグェルフィ党員を代表するグイド・グェッラはそのリーダーであり、テッギアイオはモンタペルティ遠征に繰り返し反

対したことで、後にヴィッラーニらにその先見の明を賞賛されることになるアディマーリ家の騎士、ルスティクッチは高貴すぎる彼らに代わってダンテと言葉を交わすその代弁者である。彼らは亡命後も戦い続け、まずエミリア地方のモデナやレッジョでグェルフィ党の援軍としてギベッリーニ党と戦って敵を追放し、その際の戦利品によって亡命後の生活の基盤を確立した後、カルロ・ダンジョー一世の下でベネヴェント戦争を戦ってその勝利に貢献した。 テッギアイオは1266年に死去したとされるが、他の二人はシャルル王の協力を得てフィレンツェに帰国した後、栄光に包まれてグェルフィ党のフィレンツェ支配に参画している。

⑬ ヴィッラーニ『年代記』第6巻77章。

⑭ 同上、86章。

⑮ 同上、第7巻2章、4章、6章、8章、9章(ベネヴェント戦争)の各章が活躍を記す。


 さらにダンテは『地獄篇』第32歌で、政治的裏切り者が罰せられている一面銀世界のアンテノーラを歩いていた時、うっかりして一つの頭を蹴とばしてしまう。相手がモンタペルティと口走ったために興味を抱いたダンテは、ヴィルジリオの許しを得て相手の名前を尋ねるが、相手が頑強に拒否するので髪の毛を引き抜くと、その悲鳴を聞いた周囲の一人が「どうした、ボッカ」と尋ねたために、相手の名前を悟る。それはモンタペルティ戦争の際、開戦早々にフィレンツェ騎士団の旗手の腕を切り付けて旗を倒し、仲間とともにフィレンツェの騎士団に大混乱を引き起こしたボッカ・デッリ・アバーティであった(76~108行)。この裏切りもファリナータの謀略の一つと見なされていて、ボッカ自身はその場で切り殺されるが、その仲間たちが暴れたためにフィレンツェ騎士団の隊列は混乱し、もはやドイツ人の騎士団の猛攻には耐えきれず、開戦早々逸速く総崩れして逃走したために、その時点でこの合戦の勝敗の帰趨は決定したらしい。皮肉にも早々と逃走したおかげでフィレンツェの騎士たちはドイツ騎士団による殺戮を免れ、ポポロ階層が最低でも2000人以上、実際にはおそらくその数倍の死者を出したのに対して、騎士階層の死者で名のある者はわずか36人に止まったと伝えられている⑯。 恐らくこうした経緯も、その後のフィレンツェにおける「正義の規定」の成立や騎士階層の急激な没落と無関係ではなさそうである。 先に挙げたグイド・カヴァルカンティの父親、『地獄篇』第25歌に登場する5人の盗賊たちの多数、あるいはジャンニ・スキッキらも同じ世代の人々なので、『地獄篇』に多数登場するフィレンツェ人たちは、モンタペルティ戦争の世代を中心に配置されている、と言っても過言ではない

⑯ ヴィッラーニ『年代記』第6巻78章。同じ箇所でヴィッラーニは、フィレンツェ人の死者は2500人以上、捕虜は1500人以上とするが、この数字は少なすぎるようである。拙著79ページで記したとおり、シエナの儀式用の公式記録、『命日表』に戦場に残された遺体や、捕獲した捕虜の数が記されていて、それによるとフィレンツェ方の死者が一万以上、捕虜が一万五千以上とされている。もちろんルッカその他の同盟都市の軍隊も混じっていて、その比率は不明だが、半数以上、むしろ大半はフィレンツェ人だったと見て差し支えないであろう。だから死者はヴィッラーニの数字の2倍以上、捕虜は軽く数倍に上ったものと思われる。コッレの戦いでも見られた通り、普通コムーネは国外の戦闘に敗れても祖国に戻って防衛するものだが、それすら行えなかったのは、捕虜が余りにも多かったためではないだろうか。戦死者の内、騎士階級の比率は通常の戦闘に較べて小さ過ぎたようである。

⑰ アンジョー王家の軍隊の支援を受けて帰国したグェルフィ党は、1282年にセコンド・ポポロ政権が成立するまでフィレンツェを統治したが、その支配は派閥争いが激化したために頓挫した。その背後には、彼らが横暴なために市民に憎まれていた、という事情があった。モンタペルティでの逃走も、市民の不信感を強めていたに違いない。フィレンツェ市民が騎士階級の横暴に抵抗して「正義の規定」を制定した過程は、フィレンツェ史研究の原点のごとき以下の2つの著書によって明らかにされている。

G. Salvemini, Magnati e popolani in Firenze dal 1280 al 1295, Milano (Feltrinelli) 1966.   N. Ottokar, Il Comune di Firenze alla fine del Dugento, Torino (Einaudi) 1962.

⑱ 本論第一章の注㉔ 参照。


 さらにシエナ側の首領プロヴェンツァーノ・サルヴァーニが『煉獄篇』第11歌で言及されていることは先に記した通りだが、彼の叔母のサピーアまでが『煉獄篇』第13歌106行以下で、甥の名声に嫉妬するあまり、コッレ戦争の際には祖国の敗戦を神に祈り、シエナ軍が敗北したことを知って狂喜する余り、神に向かって「すでにもう、私はあなたを恐れません(122行)」と叫んだことをダンテに告白している。直接関係しているのはコッレ戦争だが、彼女を嫉妬で狂わせたのは、言うまでもなくそれ以前のモンタペルティ戦争の勝利であった。さらにもう一人の重要な関係者、すなわちシエナに当時世界最強を誇ったドイツ人の騎士800を派遣して、フィレンツェの敗北を準備したマンフレーディ王までが、『煉獄篇』第3歌103行以下に登場する。フィレンツェ史上の出来事で、モンタペルティ敗戦ほどフィレンツェ内外の多くの関係者が『神曲』に登場する事件は他にはない。こうした事実によっても、ダンテがどれほどこの敗戦の影響を重視していたかが分かるはずである。幸運にもわずか5年半後にベネヴェント戦争が発生し、その影響でフィレンツェにも政変が生じたことは事実であるが、それにもかかわらず敗戦がもたらした好戦的なプリーモ・ポポロ政権の崩壊や、エリート階層の亡命者の集団が国外に逃れたこと、その内のかなりの多数がフランスを転々としなければならなかったことなどは、その後のフィレンツェ史に絶大な影響を与えたはずである。私の考えでは、こうした影響を抜きにして、近年に刊行されたナジェミーの『フローレンス史 1200~1575』において、従来のフィレンツェ史以上に明確に指摘されている、13世紀後半におけるフィレンツェの文化的・経済的飛躍が十分に説明し得るとは、到底考えられないのである。私は、そのナジェミーの著書をも含めて、現代のアカデミズムのフィレンツェ史研究では、モンタペルティ敗戦の影響が余りにも軽視されていると言わざるを得ないのである

⑲ 文化に関しては、Najemy, op.cit., p.28m,   経済に関しては、 Ibid., p.96. ナジェミーは、13世紀後半にフィレンツェがヨーロッパー流の経済・文化大国になったことを確認している。この事実によっても、デーヴィスの断定には疑いが生じるはずである。

⑳ これまでになく13世紀後半におけるフィレンツェの躍進を認めているナジェミーですら、モンタペルティ敗戦の影響については考慮していない。その索引を見ても、この戦闘についてはp.61とp.71の2度しか触れておらず、プリーモ・ポポロ政権の崩壊がもたらした、政治、外交、軍事、社会などの広範囲に及ぶ影響を無視している。


 『地獄篇』第26歌はすでに引用した通り、「喜べ、フィオレンツァよ。何故ならお前はかくも偉大に、海にも陸にも翼を羽ばたき、そして地獄にまでお前の名が轟いているのだから(1~3行)」という、アイロニーに充ちながらも、格調の高い言葉で始まっている。その後に地獄で5人のフィレンツェ人の盗賊に出会ったという報告や、間もなく隣の小都市プラートが望んでいる通りの惨事がお前たちの身に降り懸かるという不吉な予言が続くので、内容的には明らかにダンテの祖国に対して投げかけた呪咀の言葉と見なし得るものであるが、その格調の高さと世界全体に翼を広げているという高揚感は、いかなる読者にも明らかなものである。私が『神曲』で見出したモンタペルティ現象の第三の痕跡は、ダンテがフィレンツェについて語る時に感じられる、この高揚感である。

 まずこのフィオレンツァという呼び方自体、『ノヴェッリーノ』その他の著作やヴィッラーニらによって用いられているフィレンツェという一般的な呼び方に較べて、堂々としていると同時に華麗である。ダンテは生涯に亙ってフィレンツェのことをフィオレンツァと記していたようである。 ただしその最も早い用例は、『地獄篇』第10歌92行でファリナータの口から発せられたとされる「フィオレンツァを破壊せよと皆が賛同した時に」、もしくは『饗宴」第1部第3章に記された「いとも麗しくかつ名高いローマの娘、フィオレンツァ」なので、ダンテはどうやらフィレンツェから亡命した後に、祖国をこのように呼び始めたものと思われる。亡命以前のダンテは、なぜかその名を記すことなく、『新生』などにおいては、その第6章に見られる「我が淑女が至高なる主によって置かれ給うた町」などに類した、回りくどい呼び方で祖国を呼んでいたらしい。ところが亡命した後、一貫してイタリア語ではフィオレンツァ、ラテン語で書かれた『俗語論』(1、6その他)や『書簡』(1その他)などではフロレンティアと呼んでいた

㉑ 以下はサンソーニ版全集899ページの索引、 Fiorenza の項から得た知識である。

㉒ Davidsohn, op.cit., IV, p.899 の脚注によると、ダンテのテキストではほぼ常にFiorenza、ラテン語ではFlorentiaと記されているが、『饗宴』に2箇所だけFirenzeと記された例が見られるそうである。ただしそれは写字生の誤りだろうという推測が記されている。


 ダンテはただ白派政府の与党の一員であったというだけの理由で、クーデターによって白派を倒した黒派によって追放されたという運命のために、その後フィレンツェを支配した黒派だけでなく、黒派の支配に順応したフィレンツェ人そのものをも非難し続けた。しかし余程きびしい亡命体験を強いられたためであろうか、『天国篇』第17歌61~69行のカッチャグイダの言葉からも明らかな通り、味方であったはずの白派に対しても黒派に勝るとも劣らぬきびしい非難の言葉を浴びせかけており、やがて『帝政論』に見られる通りギベッリーニ党の支持者に転向し、1310年にイタリアに南下したアッリーゴ(ハインリッヒ)七世の軍勢を熱烈に歓迎している。 このように祖国フィレンツェを怨みながらも、同時に人一倍祖国を愛する愛国者として、彼は祖国を注視し続けた。そうしたアンビヴァランス(愛憎葛藤)のために、ダンテのフィレンツェに関する表現は多くの場合、激情と誇張に充ちたものとならざるを得なかった。と言ってもダンテがフィレンツェについて平静、あるいは一見肯定的に語る場合もないわけではない。たとえば『地獄篇』第10歌26行では、ファリナータに「あの高貴なる祖国」と呼ばせ、『地獄篇』第23歌で偽善者の群から何者かと問われた時には、ダンテ自身「私は麗しいアルノ川の畔の大きな町で生まれた(94~95行)」と素直に答えている。『天国篇』第16歌25行の「サン・ジョヴァンニの羊小屋」や『天国篇』第25歌5行の、「私が子羊として眠っていた麗しき羊小屋」などという呼び方にも悪意は感じられない。

㉓ 皮肉にもグェルフィ党からの転向者であるダンテが、ギベッリーニ主義の原理に関する最も基本的な著書『帝政論』を残すことになった。


 そう言えば祖国を褒めている箇所もない訳ではなく、『煉獄篇』第6歌の127行以下にはそうした稀な例が見られる。そこでダンテはまずイタリアの都市には独裁者が多いと歌った後に、「わがフィオレンツァよ、論議し合うお前の民のおかげで、お前はこうした逸脱から免れていることに、十分満足することができるぞ(127~129行)」と記している。ひょっとするとこれを書いた時、ダンテは白黒闘争の立役者として一時期独裁者に近い存在だった、コルソ・ドナーティの非業の死(1308年)を意識していたのかも知れない。続いて他の都市では人々は正義を意識しつつも口にすることをためらうと指摘した後、「ところが、お前の民は唇に正義を載せている(132行)」とし、また他の都市では多くの人が公職に就くことを断るのに対して、「お前の民は、呼ばれてもいないのにあわてて返答し、“私が引き受けましょう”と叫ぶ(134~135行)」とその公務への積極さを証言する。この後に続く6行(136~142行)は、第二章で引用したので繰り返さないが、すでに記した通り受け取り方によってはまさにフィレンツェの絶賛とも取れるであろう。しかし富を追及する貪欲さを強く恐れ、憎んでいたダンテの感性は、経済的繁栄を良しとする現代的常識とは大きく隔たっていることを忘れてはならない。

 そして次の143行目からダンテの一見穏やかな誉め言葉は一挙に逆転する。すなわち1301年の白黒闘争の時、黒派のクーデターによって、10月半ばに誕生した白派の政府が11月7日に崩壊した事実に基づいて、フィレンツェの朝令暮改ぶりを痛烈に皮肉る言葉が続き、フィレンツェを病苦に悩んで寝返りを打つ女にたとえる言葉によって締め括られている。最後の部分がフィレンツェに対する罵倒の言葉であることは明らかだが、127行以下の一見賞賛にも似た言葉は、どのように解釈すべきであろうか。いずれも客観的事実の羅列のように見えるので、私などは当初賛辞として読んだが、これまでに見て来た事柄を考えると当然な通り、注釈書の類は一見賛辞とも取れる言葉の裏に常に皮肉や風刺を感知している。たとえば「富裕」「平和」「知恵」など、ダンテのフィレンツェに関する賛辞には、常にその背後にそれを皮肉る疑問符がついているのである。

 しかし以上のように平静に祖国を語ったり、一見賞賛とも取れる複雑な仕方で祖国を皮肉っている箇所は、むしろ例外である。通常のダンテはもっと単純に、フィレンツェを「大量の悪の巣(地・15・78)」とか、「我らが悪しき国(地・16・9)」、「邪悪なる森(煉・14・64)」などと決め付け、親友フォレーゼの口から、僻遠の地であるために粗野で珍しい習俗で有名なバルバージャ地方以上にひどい本物のバルバージャ(野蛮の地)だと語らせ(煉・23・94~96)、天国においてさえ「フィレンツェから正しく健全な民の許に来たので....驚愕は完壁とならねばならなかった(天・31・39~40)」などと皮肉らないではいられず、フィレンツェ人を「狼たち(煉・14・50および59)」と呼ぶことをためらわない。そうした表現の最たるものは、『天国篇』第9歌でフォルケットが歌った、「自らの創造主に最初に叛いた者、そしてその嫉妬が多くの不幸を生んだ者(ルチーフェロ)の種子から生まれた汝の町は、あの呪われた花(フィオリーノ金貨)を造りかつ広めた。するとそれは羊飼いを狼に変えたので、羊たちや子羊たちの道を迷わせた(127~132行)」の6行で、教会の堕落はそれよりはるか以前から進行していたにもかかわらず、あたかもすべては1252年に鋳造され始めた金貨のためであるかのごとくフィレンツェを告発している。このようにダンテは機会ある毎に、祖国を悪の根源のように非難し続けたのである。ダンテがこのように憤慨し続けた理由の一つは、当時のフィレンツェがイタリア、そしてヨーロッパ全体の中でも抜群の繁栄を続けていたことである。

 ここでまずイタリア語圏の状況を眺めると、当時その半島南部を支配していたアンジョー王朝下のナポリ王国は、一応イタリアにおける最大の版図を誇っていたものの、1282年3月30日に発生したシチリア晩祷事件によって広大なシチリアの領土を失った上に、一時期は国王のカルロ二世がアラゴン家の捕虜になるなど、アラゴン家との戦いに消耗していたために繁栄とは程遠い有り様だった。

 また何世紀にも亙ってアドリア海から地中海、黒海におよぶの広大な海上の覇権を握っていたヴェネツィア共和国は、強力な海軍力を有し、ライバルのピサ共和国を破って意気盛んなジェノヴァ共和国の猛追撃を受けていて、1298年のクルツォーラ(現在はクロアツィア領コールチュラ)島沖の海戦で大敗を喫するなど、海上帝国の存亡に関わる危機の時代に直面していた。他方この海戦の勝者であるジェノヴァ共和国も、まだ対決は始まったばかりで、栄華を誇るにはほど遠いことを誰よりも強く自覚していたはずである。

 ロンバルディーア同盟の雄として、皇帝権との戦いを勇敢に指揮したミラノ共和国も、ヴィスコンティ家とデッラ・トッレ家の覇権争いが続いたために分裂・混乱し、かつての栄光は当面望むべくもなかった。

 そうした中でローマは、ボニファツィオ八世のアイディアから生まれた1300年の大赦祭が多くのキリスト教徒を集めることに成功したために未曾有の好況に恵まれるが、所詮一時的なエピソードに過ぎず、さらにボニファツィオの強引な政策のほころびがすでに様々な方面に現れ始めていた。

 このように先輩にあたる有力なライバル国家が戦争や危機に瀕していた中にあって、度重なる内紛にもかかわらず、フィレンツェだけはすでに約30年間、様々な分野で発展を重ねていた。とりわけ1284年にメローリア岩礁沖においてジェノヴァから致命的な敗戦を喫したピサがイタリア史の表舞台から退場した後、古くからの金融大国として栄え、その余力で辛うじてトスカーナにおけるフィレンツェのライヴァルの地位を保って来たシエナが、13世紀のロスチャイルドなどと呼ばれ、カルロ・ダンジョーのイタリア遠征資金の半分を調達してベネヴェント戦争にも多大の貢献をしたボンシニョーリ銀行の危機的状況が1298年に顕在化したために、当然他の銀行にも危機が波及して、その国際的な地位と信用が一挙に沈下した結果、フィレンツェのライヴァルの地位から転落した。 その結果フィレンツェは、トスカーナ一帯とその周辺部に比類なき覇権を確立し、イタリア国内におけるその相対的な地

位はさらに上昇した。

W. M. Bowsky, Un comune italiano nel Medioevo Siena sotto il regime dei Nove 1287-1355, Bologna (Il Mulino) 1986, pp.342-357.  バウスキーのこの著書はカリフォルニア大学の出版物として、1981年にバークレーその他で刊行された、 A Medieval Italian Comune, Siena under the Nine, 1287-1355 を著者が自らイタリア語訳したものである。さらに、中山明子「中世シエナの金融業~ボンシニョーリ銀行の興亡、およびシャンパーニュの大市との関係を中心に~」『イタリア学会誌』第47号、東京(イタリア学会)1997など。


 視野をヨーロッパ全体に広げても、英仏両国はフランドル地方等の勢力圏をめぐる覇権争いに忙しく、アラゴン家も本家とシチリアに生まれた新しい分家との関係は決して良好ではなく、皇帝権は無気力なハプスブルグ家のドイツ王アルベルトの手中で握り潰された状態にあったから、状況はイタリアと大差がなかった。このように当時のヨーロッパでは今日「14世紀の危機」と呼ばれている、戦乱、疫病、一揆などの暴動などが相次いで襲来する苦難の日々はまだ始まっていなかったものの、すでに広い範囲で紛争が相次いでおり、そうでなくとも停滞や無気力が広がっていたのである。

㉕ 中世の後半より13世紀まで拡大を続け、一種のバブルを形成していたヨーロッパ経済は、14世紀に入ると危機の時代を迎え、天候不順による飢饉、暴動、戦争などが相次ぎ、1348年のペスト大流行によって人口は一気に減少、その後も疫病、戦争、暴動が続いたため規模を大幅に縮小して再出発した。 Ruggero Romano, L'ITALIA nella crisi del secolo XIV, in TRA DUE CRISI: L'ITALIA DEL RINASCIMENTO, Torino 1971.   および、この危機の結果イタリアに蓄積されていた膨大な富が投資先を失い、「文化への投資」が行われたために、イタリア・ルネサンスが開花したとする、 R.S. Lopez, HARD TIMES AND INVESTMENT IN CULTURE, in The Renaissance Basic Interpretations, Lexington etc. (D.C. HEATH AND COMPANY) 1974.


 こうした中にあって、ほとんど唯一フィレンツェだけが、経済的にも文化的にも、飛躍的発展を続けていたとすれば、当然人々の注目を浴びたはずで、ダンテも捨てて来たはずの祖国の発展から刺激を受け続けたのである。祖国は日毎にイタリア語圏における影響力を高め、亡命者ダンテを脅かしただけではなく、グェルフィ党のリーダーとしてカルロ王やその息子のロベルトと協力し合い、やがてはダンテが最も期待した皇帝アッリーゴ七世によるイタリア制覇を妨害したばかりか、彼を病死に追いやる原動力となったのである㉗。 

㉖ 本論の第一章の3節で記した通り、ダンテの死の翌年に亡命先のラヴェンナではポレンタ家の親フィレンツェ系の一族によるクーデターが成功していた。G.E.I. IX p.559.

Bowsky, Henry VII ..., op. cit.,  によると、フィレンツェは皇帝のイタリア到着以前から、一貫して反対の立場を堅持していた。拙著、第五章第二節。


 ダンテはそのような祖国を憎みつつ、同時にその繁栄ぶりを内心誇らずにはいられなかった。なお先に概観したヨーロッパ全体の状況からも、モンタペルティの敗戦から立ち直ったフィレンツェにのみ大発展が待っていた事情がある程度理解し得るはずである。それはこの当時敗戦のみが都市国家を全面的に改革し得たからで、それももっぱら海軍力に頼っていて、その海軍が潰滅的打撃を受けたピサの敗北などとは異なり、のめりこんでいた対外戦争熱から国民を解放して商業や産業へと転換させるという、当時の世界情勢に極めて適合した解決をもたらした敗戦だったからである。このようにして、全般的に停滞状態に陥りつつあった当時のヨーロッパ世界の中で、国家全体が大きな転換を体験して国際情勢に適応したフィレンツェだけが、飛躍し得たのである。ダンテは、こうした状況のフィレンツェを憎みつつも目が離せず、ひそかに誇りとしていたことが、ダンテがフィレンツェを歌う言葉に独特の高揚感を与えていて、『神曲』の至る所に第三の痕跡として残されているのである。ちなみにフィレンツェと同様開放・発展型のモンタペルティ現象を体験した第二次世界大戦後の日本や、毛沢東絶対主義体制から解放された現代中国においても、その国民の間に、全世界に向けて翼を広げるという高揚感が認められるのである。

 続いて私が『神曲』に見出した第四の痕跡とは、そのあちこちに認められる、将来ヨーロッパ随一の偉大な存在として聳立するはずの文化・芸術の国フィレンツェの予兆である。ダンテが煉獄に入って間もないころ(第2歌、76行以下)、天使の船で運ばれて来た霊たちの中から歌手カセッラの霊が駆け寄り、ダンテは彼を抱こうとしたが、相手が霊なので三度試みていずれも失敗に終わっている。この行為によっても、二人がどれほど親密であったかが分かる。カセッラはダンテの求めに応じて、彼のカンツォーネに節をつけて歌い、霊たちはその声に聞き惚れる。結局監視役のカトーネに追い散らされてはいるが、ダンテが地獄から煉獄に移ったことを痛感させるエピソードである。ダンテはその後間もなく、まだ煉獄の門に入りきらない内に(第4歌、106行以下)、見覚えのあるリュート製造の職人ベラックァの霊を発見し、彼に話しかける。生前その怠惰ぶりで有名だった彼は、死後も全く態度を改めようとしない。カセッラとは異なり、彼は常に前向きのダンテを敬遠気味である。おそらく一気に裕福になったフィレンツェでは音楽も盛んになり、リュート製造の注文も繁盛していたはずで、そうした風潮に流されずにマイペースで生きているベラックァは意外な人気を集めていたはずであるが、同時にフィレンツェの音楽熱の高まりを示すエピソードだと言えるであろう。

 恐らく当時のフィレンツェにおいて、音楽界以上に需要が膨張していたのは、建築とその装飾を担当する絵画と彫刻の分野であった。カッチャグイダはフィレンツェの建築の変化についても言及(『天国篇』第15歌106~111行)していて、かつてのフィレンツェの民家は、ローマの民家と大差なく、現在のように豪邸などはなかったという趣旨の証言を残しているが、その言葉は13世紀末のフィレンツェにおける建築ブームの証言とも取れるものである。すなわち13世紀末頃のフィレンツェでは、ダンテが「突然の稼ぎ(subiti guadagni)」と呼んだ絶好調の経済状況の下で、ポポロの指導者とグェルフィ党員の亡命と帰国、ギベッリーニ党員の帰国と亡命などといったエリート階層の激動の受け皿としての邸宅に加えて、市庁舎を始め数々の教会等の公共物や、好況のために日ごとに増加する人口を支えるための住居など、さまざまな方面の需要に応えるための建築ブームが起こっていて、それと同時に新しい建築を装飾するための絵画や彫刻に対する需要も高まっていた。こうした需要の拡大こそ、フィレンツェの建築、絵画、彫刻の職人たちの優れた技術を育てるための温床として作用したに違いない。ここで再びすぐれたフィレンツェの観察者である「グッビオの誉れ」オデリージの『煉獄篇』第11歌における証言が重要になる。ダンテのオデリージとの対話は、すでに指摘したように第三者の視点に立つことで話の内容に一種の客観性を与えている点でも巧妙だが、ダンテが読者に伝えたいと望んでいる情報をごく自然な形で読者に伝えている点で、極めて効率の高いものである。

㉘ ウベルティ家の邸宅が接収されて、その跡地に市庁舎が建設された例でも分かる通り、その多くがギベッリーニ党の古来の豪族である亡命者の資産が接収されたために、市政府は膨大な資産を獲得した。そこでかつて亡命中に住宅を破壊されたポポロやグェルフィ党の帰還者には手厚い損害賠償が行われた。帰国したグェルフィ党とポポロの亡命者には富裕なエリートが多かったので、その関連だけでもかなりの建築の需要が発生したはずである。


 そこでダンテは、あの有名な「チマブーエは絵画における覇権を握ったと信じたが、いまはジョットが歓呼を浴びており、その結果チマブーエの名声は輝きを失った。同様にグイドはもう一人のグイドから文学の栄光を奪い、おそらくその両者を栄光の古巣から追い出す者が、すでに生まれている(煉獄・11・94~99行)」という6行を、オデリージの口から語らせている。この6行には、先に引用したプロヴェンツァーノ・サルヴァーニに関する呟きに勝るとも劣らぬほど重要な、フィレンツェに関する証言が含まれている。単にチマブーエからジョットに覇権が移ったというだけなら、フィレンツェの親方の一人が人気の点で弟子に抜かれたというだけの話であり、下手をするとフィレンツェ共和国内どころか、町内の覇権争いが話題になっているのではないかと誤解されかねないところだが、ダンテはその前に述べておいた「パリでアルミナールと呼ばれている(81行)」の一言と、オデリージとフランコというフィレンツェとは全く無関係なライバル争いを言及することによって、イタリア語圏のみならず、ヨーロッパ世界全体における覇権争いが問題にされていることを明らかにしているのである。オデリージが細密画家であることを考慮すると、ここでまず絵画に関する見解が表明されていることはごく自然である。おそらくチマブーエとジョツトに関する3行は、オデリージの出身地グッビオから直線距離でわずか30キロの距離にあるアッシージで、チマブーエが聖フランチェスコの生涯を描き始めて好評を博した後、13世紀末にジョットがそのシリーズを完成して国際的にさらに高い評価を受けたという事実と無関係ではないはずである。

㉙ ヴァザーリ著、平川、小谷、田中訳『ルネサンス画人伝』東京(白水社)2000、のチマブーエとジョットの章(いずれも小谷年司訳)9~10ぺージおよび20~22ぺージ。


 ここでさらに注目すべきことは、先に引用した6行において、すでに当時国際的評価が高まりつつあった美術界のスターであるチマブーエとジョットの後に、文学界を代表する二人のグイドとそれを凌駕する者(ダンテ自身)とをさりげなく付け加えているその巧みな技法である。チマブーエとジョットの功績は一目瞭然、彼らの作品が描かれた教会へ行けば誰でもそれを目にしてその出来栄えを味わうことが出来たが、活字文化が定着した近代以後とは異なり、二人のグイドおよびそれを凌駕する者の作品となると、ごく限られた熱狂的な文学愛好者でもないかぎり、容易に触れることはできなかったはずである。 さらに識字率が低かった当時の状況を考慮すると、美術界の二人と文学界の三人との一般大衆の間の知名度の差は極めて大きかった。そうした現実の知名度の差などを一切無視して、ここで当然のごとく二つのジャンルを対等のものとして並べていることの効果は無視し得ない。自信家のダンテ本人はそうした差など全く意識しておらず、むしろ文学の方を高く評価していた可能性が高いが、この6行にはおそらく当時のイタリアの一般人の間ではほとんど無名に近かったと思われる文学界の三人が、チマブーエやジョットに匹敵する存在であることを一般に広報する効果があったに違いない。しかも美術界の二人と共に、二人のグイドの内の一人と、(明記されているわけではないが)彼ら二人を凌駕する者(ダンテ)もフィレンツェ人なので、美術・文学という二つの大きなジャンルにおいて、すでにフィレンツェ人がヨーロッパ世界を制覇つつあることを宣言しているのである。

㉚ 実際間題として、この当時これら三人の作品を手元に置いて比較しながら読むことができたのはダンテただ一人と言っても過言ではなく、それに近い便宜があったのはポレンタ家のグイド・ノヴェッロなどダンテの周辺にいた人々と、写字生を雇うか自分自身で写すなどの手段で、作品の写しを入手できるごく少数の人々だった。

㉛ 私がこのように断定する根拠は、リンボにおいて占めている存在感が、文学者の方が圧倒的に大きいためである。しかしオデリージの言葉や、煉獄で果している造形芸術の役割を考慮すると、ダンテこそ、それまで職人の仕事として軽視され易かった造形芸術の杜会的役割の重要さを正当に評価し始めた文学者の一人だったのかも知れない。


 ダンテには、ヴィルジリオやベアトリーチェに励まされたり叱られたりしながら三界を導かれる、恭順でしばしば頼りなさそうな求道者といういわば表の顔以外に、もう一つの別の顔があることを私たちは見落としてはならない。それは当時のヨーロッパ世界を代表する文学界の第一人者としての顔である。そのことを明瞭に示しているのは、『天国篇』第1歌(13~15行)と同第25歌(1~9行)とで自らに月桂冠を求めていることで、第一人者の自負がなければ、そんなことを望むはずはない。

 さらに注目すべきは、『地獄篇』第4歌79行以下のリンボにおけるダンテと古典詩人たちとの出会いの場の光景がある。そこではリンボに戻って来たヴィルジリオを、同じ詩人の仲間であるオメロ、オラツィオ、オヴィディオ、ルカーノらが出迎え、彼らはしばらく話した後に、ダンテにも声をかけて挨拶してくれただけではなかった。ダンテはさらに、「そして彼らはそれよりもはるかに大きな名誉を与えて下さり、私を仲間に入れて下さったので、私はこれほどの知性の持主たちの6番目に加わることになった(地・4・100~102行)」と記しているのである。これは案内者が偉大な詩人なので、リンボでホメーロスら、文学界の大立者に会って言葉を交わせたという、一見とりとめのないエピソードのようであるが、実はフィレンツェ人がギリシャ人とローマ人から、世界文学の伝統を受け継いだことを宣言している場面なのである。

 野間宏の小説『わが塔はそこに立つ』には、この場面に触発されて、ホメーロスにつながるこの列に連なろうとして苦闘するドン・キホーテ的な青年が登場するが、現代日本の場合はともかく、13世紀末のフィレンツェでヨーロッパ世界の文学の伝統を明確に意識し、それを受け継ごうと志したこと自体極めて非凡な発想だったのであり、おそらくすでに『新生』という秀作を完成していたダンテ以上にその意志にふさわしい人は他に一人も存在していないことをも、彼自身はっきりと自覚していたのである。そして少なくともイタリア語圏において、自分が詩作において最も傑出した存在であると自負していたことは、『煉獄篇』第24歌のボナジュンタ・ダ・ルッカとの対話、とりわけ先に引用した、ダ・ルッカ本人が、自分たちの世代は清新体派に及ばぬことを認めた3行(55~57行)によって明らかである。ダンテはこうした自負を必要以上にひけらかそうとはしないが、無理に隠そうともしていない。自信満々なダンテは同時にあくまで楽天的であり、『神曲』完成間近の『天国篇』第25歌の冒頭の12行において、あれほどはげしく敵対した祖国から聖なる詩編を創作した苦労が認められて帰国を許され、聖ジョヴァンニ洗礼堂で月桂冠を受けることを夢見ている。この夢想は同時に、フィレンツェこそ彼が月桂冠を受けるのに最もふさわしい場所だという彼の信念の表明でもあり、祖国をローマ文学の伝統の受け皿だと考えていたことの証拠でもある。勿論この夢想が実現することはなかった。

㉜ 野間宏『わが塔はそこに立つ』東京(講談社)1962。


 いずれにしても文化・芸術の大国はまだ成長の途上にあり、完成からは程遠かったことも事実である。なぜならここに第一人者として名前が挙げられているフィレンツェ人は、ヴァザーリによって1240年生まれとされるチマブーエを除くと、グイド・カヴァルカンティが1255年、ダンテが1265年、ジョットが1267年と、すべてモンタペルティ敗戦後に成人した人々であり、最年長のチマブーエですら、その活動が全面的に展開されたのはやはり敗戦からかなり後のことだったからである。 フィレンツェ出身の世界史的な芸術家が、ことごとくモンタペルティ敗戦後に現れて活躍したという厳然たる事実こそ、モンタペルティ現象の第四の痕跡である。ギベッリーニ党支配を確立するために行われたプリーモ・ポポロの軍隊の解体は、フィレンツェ史にとって屈辱的な一ぺージではあったが、毎年のように行われた市外への出陣という負担からフィレンツェ人を解放して、各々の生業に専念させたというメリットは無視し得ないものであった。そしてダンテが列挙した美術界と文学界の旗手たちは、すべてこうした変化の恩恵を受けていたのである。美術史や文学史から見て明らかな通り、その後も文化・芸術の大国フィレンツェは、ダンテが期待したほどの速度では成長しなかったかも知れないが、結局各方面で優れた才能が相次いで現れ、やがて鬱蒼たる成果に包まれた奇跡のごとき文化大国が出現するのである。

Enciclopedia Universale, Milano (Garzanti) 2006, p.366,  によると、チマブーエの活動が確認できるのは、1272~1302年とされている。生年よりもこの年代の方が重要で、彼はモンタペルティの敗戦後12年目あたりから、その活動が跡付けられることになる。フィレンツェの世界史的偉人はようやくこのこ事から活躍し始めているのである。


 他にも探せばその痕跡がないわけではないが、少なくとも上記の4つの痕跡の存在によって、私は現代のフィレンツェ史研究がモンタペルティの敗戦の影響を無視し過ぎていること、そして中世フィレンツェにおいて開放・発展型のモンタペルティ現象が発生していたことを主張しておきたい。



* この論文は、桃山学院大学総合研究所『国際文化論集・第48号』(2013年8月30日発行)より転載したものです。(編集部・記)


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