Anant 2-4-3-15



「ハイレッド・センター」


Part 5




 1970年11月25日、三島由紀夫がおこした三島事件である。かれはこの日、みずからが結成した「楯の会」会員の4名をつれて、自衛隊の市ヶ谷駐屯地の東部方面総監を訪問した。三島は総監を強要して、自衛隊隊員を集合させた。そしてかれは、日の丸と七生報国と記した鉢巻きをつけて、総監室のバルコニーから隊員らにむかって、クーデター参加の呼びかけ演説をした。隊員らは冷笑しただけだった。これを見とどけ総監室にしりぞいた三島は、帯同した日本刀をもちいて、同伴会員ひとりの介錯をうけ割腹自殺をした、という事件である。

 この事件が『櫻画報』に反映するのは、執筆時期や、実際の刊行日が関連するから、第20号(12月20日刊)からとなる。

 表面的には、事件そのものではない。赤瀬川のその間の証言にも、事件について正面からのべたものはない。しかし、三島のこの事件は、芸術家の直接行動として、赤瀬川の「櫻画報」に、見方によっては、決定的な刺激剤になったようにおもえる。

 赤瀬川が、ジャーナル掲載終了後に刊行した『櫻画報永久保存版』の「主筆デスク日記」によると、第19号(12月13日刊)の「零円札之ポスター」校正中に他誌編集者の電話ではじめて知ったことになっている。その編集者の説明では、三島が全共闘の学生と自衛隊本部に侵入し割腹したと聞いたとある。そして、それを知った赤瀬川がおこなったのは、さきの「善は急げ! 悪も急げ!」の 悪も急げ!の加筆だったそうだ。

 この事件の反応らしいものが、わずかにあらわれるのは、次号からである。

 第20号(12月20日刊)の副題は、19号を継承する「櫻紙(チリガミ)図絵」だが、見ようによっては、「朝日ジャーナル」編集部無視の読者への直接行動であり、劇中劇といえなくもない、「零円札」交換の路線を、修正したことになる「櫻紙(チリガミ)図絵─初ノ字尽クシ」三図が掲載された。1頁目の「初ノ字尽クシ1」は、桜の古木の切られた太い枝にランドセル姿の少女が腰かけ、幹についた水道栓の蛇口から、桜の花弁がこぼれ落ちる絵図である。切断された古木の頂(いただき)には日の丸の旗がたてられている。そして、よく見なければわからぬほど、かけ離れて小さく記されている文字は、初潮と読めるものだった。「初ノ字尽クシ2」は、それなりの浮世絵風の絵柄をもつ初夜である。

 これらは桜紙関連としては、さほどフシギなパロディーではない。しかし、「初ノ字尽クシ3」は、いささか趣向をかえたものであった。

 海原と砂丘を背景に、リアリスティックにおおきく描かれた、血したたる日本刀の刃を、懐紙でぬぐう左手である。血塗りの刃と拭う懐紙から昇る陽(ヒ)の光がたんねんな放射線に描きこまれていた。さらに、ページ下方には、割り込み絵のように建物図があった。それは、とうじの新聞、雑誌にしばしば掲載された、市ヶ谷自衛隊本部の正面玄関だった。

 そして、この「初ノ字尽クシ3」に記されていた文字は、初犯だった。

 三島割腹事件を初犯とは、いかにも奇異な表現である。だが、このことばは、この行為が赤瀬川にあたえた意味をしめすのだろう。

 たしかに、三島の行為は、被疑者死亡の監禁、傷害罪で起訴される事件、執行猶予付きとはいえ有罪判決をうけた赤瀬川とおなじ初犯となる犯罪である。しかも、意図ある初犯である。近年の三島は、類似的な自死をテーマとする「憂国」を書き、「英霊の声」を書き、幕末志士の映画に出演し割腹自死を演じているし、また、この行為に矛盾しない芸術論を開陳していた。一年前の1969年9月に発表した「行動学入門」では、「犯罪行為の中に美を発見し、ロマンティシズムを発見したのは、幕末の劇作家黙阿彌である。黙阿彌のヒーローはすべて犯罪者であり、泥棒であった。社会が爛熟し、平和が続くとわれわれは行動的ヒーローの原形を、そのようなところに求めざるを得ない結果へ傾いていく」などとも書いている。(注. 「行動学入門」[『三島由紀夫全集 34』])

 三島の初犯は、赤瀬川の初犯のように、芸術行為のなかで出くわした犯罪である。

 三島の行為は、政治行為ではなく、芸術的パフォーマンスとしかいえないものであった。1970年の日本の自衛隊本部で、内部同調者も事前工作もなく、クーデター演説をおこなうこと自体、実体性あるアジテーションではなく、政治行為としてありえないことである。それに、かれのパフォーマンスのクライマックスは、日本刀をもちいた割腹としかおもいようがない。企画、プロデュース、原作、脚本、演出、主演、すべてが三島由紀夫という演劇公演企画である。この公演は、かれの計画どおりに、みごとに上演された’60年代「デモ・ゲバ」風俗の芸術行為だった。銃器一丁ももたず、時代遅れの刀二本だけの武器で、妨害もされることなく、「市ヶ谷自衛隊本部」を芸術舞台に仕立てあげ、「楯の会」会員という準主演の役者を養成し、自衛隊員のコーラスという共演者集団を登場させ、また、即時報道するメディア対策もおこたりなく、全国テレビ中継させて、興行的にも成功させたのである。さきに紹介したピノチェリー芸術行為もふくめるような、戦後アヴァンギャルド芸術の一類型を、間然するところなくしめす芸術行為とすることができよう。

 おそらく、赤瀬川が直感的にこれを「初犯」としたのは、このような意味すべてをふくめてとおもわれる。かれは、すでにこのとき、おなじ’60年代アヴァンギャルドの立場にありながら、異なる芸術体験から、かれなりに三島芸術に違和感をもつ立場から、芸術行為を体験していた。

 かれは、さきにもふれたように、この年、1970年5月には、じぶんの千円札事件を説明して、「表現は犯罪を包んでいる」を書いている。赤瀬川の、犯罪を包んでいる「表現」の主張は、三島の犯罪行為の美とは、相容れないものであった。

 赤瀬川のいう、「表現は犯罪を包んでいる」というのは、赤瀬川の個人問題からかたられた芸術論であった。社会と融合できている個人は表現する芸術を必要としない。表現の必要があるのは、社会にうけいれられない自分があるからである。犯罪はまさに、じぶんをうけいれない社会に、自分を受けいれさせてやるという行為である。じぶんが持っていないものを持っている社会から、強奪してじぶんももつのである。じぶんを排除する者を除去することによって、排除されない融合を願うことである。

 赤瀬川によれば、表現とは本来的にそうした犯罪と同根のものだが、それにいたらず、擬似強奪をやり、擬似排除をやり、疑似融和をもとめることだという(注. 簡単すぎる要約ですが、詳細は「表現は犯罪を包んでいる」[『オブジェを持った無産者』]を参照してください.)

 論考としては、’60年代のファッション思想だった疎外論をあげるまでもなく、特別なものではないが、擬似としているのに注目しなければない。

 かれは、「その活動によっていわば擬似的に『世界』にまぎれこんでいるのだろう。・・・・ つまり『私』の活動は、その活動による目の前の変化を認めることになる。それは私の見ている世界でありながらも、私の活動している世界でもあり、私と世界とにある許しがたい関係は、私の感度に集中してくるよりも目の前の変化に集約されてくる。ごく悲観的に考えた場合の表現とはそういうものだろう。それは私の活動によって、『私』が擬似的に世界にまぎれこんでいくときに成立するのである」、としているのだ。つまり、活動は、世界との緊迫的関係、「直接行動」によるものでなければ、擬似欺瞞となる。「直接行動」は、’60年代「デモ・ゲバ」風俗の思想であり、いままで語ってきた、ネオダダイズム・オルガナイザーをはじめ、アヴァンギャルディストのかかげた指標であり、ハイレッド・センターが究めようとした芸術思想だった。

 そのような行為としては、三島の芸術行為は、アヴァンギャルド芸術ではなく、全能の芸術家、天才芸術家の行動的ヒーローの芸術という既成芸術システムの、ケタタマシイ現代版にすぎなかったが、直接行動性においてはうたがいもなく’60年代「デモ・ゲバ」風俗の嫡出子であった。

 そうした、この事件からうけたなんらかの衝撃が、この「初犯」桜図絵(チリガミ)を描かせたかとおもわれる。いごNo.21(12月27日刊)から、『櫻画報』はあわただしい展開をみせる。

 1971年の新年第1回(1月1日、8日合併号)No.22の1頁には、天下泰平の鉢巻きをした、「櫻画報」のメイン・キャラクター二人のひとり、「泰平小僧」がはじめて登場する。かれの口からでる吹き出しには「ご町内の皆様/新年あけましてまったく御目出度うございます/古シンブン、古ザッシ、ボロなどによる転生輪廻のチリガミ交換/桜紙を懐に抱いて/今年もピョンピョン跳ね上がりましょう」と書かれていた。三島が死の当日の朝、編集者に渡した絶筆の四部作『天人五衰』は、転生輪廻が主題だったのはいうまでもない。

 このはじめて登場し、まだ名前のない「泰平小僧」は、三島事件がパロディーにせよ、対称点にあるのはあきらかである。やや幽霊のようにくろずんで描かれたかれの頭には、デフォルメした日の丸と「天下泰平」としるす白鉢巻がまかれていた。市ヶ谷自衛隊本部のバルコニーから演説する三島がつけていたのは、日の丸つきの「七生報国」と書かれた鉢巻きだった。泰平小僧が身につけているのも、楯の会会員の制服をおもわす二列ボタン、肩帯つきの代物で、その胸元に白手袋の握り拳をあてて、「次が勝負だゾ」(欄外余白)と叫んでいる、ようにみえる。

 単純にいえば、「七生報国」はしょせん天下泰平の証といえなくもないものである。だがそれでは、画面にみなぎる奇妙な暗さの説明がつかない。

 赤瀬川の天下泰平は、1968年7月に村松画廊で開催された、ベトナム戦争を対象にした「反戦と解放」展に出品したデフォルメ日本国旗のオブジェに記されたことばだった。日の丸の赤丸部分が星条旗であり、その左右白地に天下泰平と大書され、旭日星条旗と命名したものである。これを、日本国の国旗というのは、旗竿に黒縞があり、てっぺんに金の球があるからである。戦前日本の全戸に掲げられた国旗の旗竿は、すべてこうだった。(図版10)


図版10:「旭日星条旗」



 この天下泰平の旭日星条旗は、すでにこの『櫻画報』にもいくたびか姿を見せているいるのだが、泰平小僧の鉢巻の天下泰平の由来は、「反戦と解放」展にはじめてあらわれた「天下泰平」である。この展覧会に出品されたのは、壁に林立する数十本の「天下泰平」旗こと「旭日星条旗」と、「東越南太郎の談話」という配布ビラだった。内容は、展覧会開催目的へのパロディー的異議申し立てだった。

 この「反戦と解放」展覧会は、ベトナム反戦をかかげたチャリティー展で、収益金をベ平連をとおしてベトナム人民へ送金するものだったらしい。赤瀬川の出品作品は、この反戦企画を揶揄するものだった。その非難表現のオブジェとパロディー・パンフレットである。

 「東越南太郎の談話」は、赤瀬川が東越南太郎なる四十二才の学生の談話を筆記した体裁をとっている。赤瀬川のとうじの立場がわかるから、その一部を引用する。ヘタな大阪弁は、パロディーというより、意識のタガをゆるめるためとおもわれる。


 「反戦と解放」展のことでしょ “ベトナム支援カンパ〟ねェ。これ逆説のつもり? じゃなきゃちょっとおこがましいんじゃないの? ハッキリいうけど・・・・・(ママ)。 まァうしろめたくは思ってるんだろうけどね。支援してもらわなあかんのはコチラの方ですよ。ベトコンのお兄さんの血の一滴ずつでも送ってもらわんとどうしょうもないのとちゃうか? アレ、ベトコンなんて敵性用語やったナ。まあこの際早口でしゃべらならんさかいカンベンしといて。ま、とにかくメンソレとバンソコをベトナムに送るほど余裕があるんやったらコチラかてケガするくらいのことやったらどやねん。わざわざ画廊代払わんかて道ばたでやること仰山おまっしゃろ? へたにベトナムのことばっか考えすぎるからアカンのや。ベトナムのことをベトナムの方ばっか向いて考えてもどないもんやろなァ。足もと見て考えたら先にやることいっぱいおまっせ。国会へ国会へで国会にばっかデモしてラチあかんかったの忘れたわけやおまへんやろ。デモいうのもアチコチ行かんとあかんのや。銀行とか自衛隊とか新聞社とか行くとこいっぱいあるやろ。こらちょっと話が横道にそれてしもたわ。

 ほいでその出品作品いうのは “反戦と解放” いうテーマに関係あってものうてもいいんやってねェ。なんやオリンピックみたいに悠長なことやなァ。むこうはバクダンで人を殺してはるんやで。しんそこべトナム人民と連帯するとかいうんやったらな、野戦病院反対とかいうくらいで遠慮しとらんと、日本にきてはるベトナム帰休兵を鉄砲でブチ殺すくらいのことせなあかんで。こなこというとまた小児病やいうやろな。そら実際はいろいろ事情もあってそないなことできへんやろけど、直接ベトナムのこと思うんやったら、そのくらいの気概もたなサマになれへんでェ。それにいざというときはわてらかて皆小児病になること覚悟しとかなあかへんで。

 また横道にそれてしもたわ。こらやっぱ “反戦と解放” いう展覧会自体が芸術いうもんを横道にそらそういうコンタンやさかいしゃないわ。ねェ。せっかく横道つくったんやからこの際じゃんじゃん横道にそれて「芸術」なんかほっぽりなげてもええんとちゃうか? できへんこと無理してくっつけるとアブハチ取らずやで。ベトコンのお兄さんに “日本のプチブルはんがメンソレ送って来はった” いわれるのがオチやで、支援カンパなら支援カンパでちった命はらんといかんわなァ。出品者いうのは皆自分の体を出品して、皆で一日絶食してその日の三食の飯代を集めるとかねェ。意思表示することに意義があるんやったらお祭りの神社の寄付みたいにねェ。それぞれの名前並べて誰それさん十五食連続絶食三千円也という具合にねェ。すっきりいきたいねェ。ごまかさずにねェ。事が事やさかいあんまかんたんに “意志表示” なんていわんといてんか。

 ほいで出品者の売上金いうのがベ平連経由でベトナムに行くんやてね。ベ平連いうのも代々木の近くに落着いとるのやろか。いや代々木いうても国立競技場の・・・・・ほなかていうてはりますよ。カンパする人は国立競技場の観客席にいてはるとかなんとか。


 一言でいえば、芸術家が集まってやる「反体制」芸術行為は、こんな行為ではなくほかにあるということである。

 1968年7月の日本は、「大阪万博」黎明の、二年前であり、大学紛争に集約された後期「デモ・ゲバ」風俗が、絶頂直前のときである。この年1968年には日本全国の115大学で、紛争が発生し、65校は年内に解決しなかった(年表)。すでに『百万遍』No.2に載せた本論、第1章「’60年代日本の風俗画」でのべた政治的時代背景をもつ社会であった。


 絶頂の1969年の日本では、東大安田講堂封鎖が、「機動隊8000人、警備車700台、ヘリコプター3機、カッター23、エンジン削岩機4、ハシゴ車10、消火器478、催涙ガス弾4000発」をつかって解除され(1.19)、4月28日の「沖縄デー」では、「社会党・共産党・総評、沖縄返還問題で初の統一中央大会(代々木公園)、13万人参加. 反日共系学生・反戦青年委員会労働者ら、銀座・有楽町一帯の道路を占拠. 国電・新幹線深夜までストップ」と年表にしるされている。大学問題や、政党がらみの沖縄問題に凝集されたものだけでなく、一般市民においても、「新宿駅西口地下広場の反戦フォークソング集会、7000人. 機動隊ガス弾で規制、64人逮捕(2月より毎週土曜日集まる)」(6.29)とある。(注.「  」は 『近代日本総合年表第4版』[岩波書店]より)


 こうした’60年代「デモ・ゲバ」風俗のなかで、革新的芸術家集団が企画した「反戦と解放」展だったのだろう。

 赤瀬川批判の大略は、この引用だけでほぼわかるから、その個々についてはのべない。ただ、本論にかかわるところだけ、かれの意識と無意識が混在した超現実[surréaliste])の自動筆記のようなパロディー芸術表現の解釈をしておこう。

 これは、意識せずしてされた、消去法で開陳するかれのアヴァンギャルド芸術論だ。

 「ほいでその出品作品いうのは “反戦と解放” いうテーマに関係あってものうてもいいんやってねェ」と、「こらやっぱ “反戦と解放” いう展覧会自体が芸術いうもんを横道にそらそういうコンタンやさかいしゃないわ。ねェ。せっかく横道つくったんやからこの際じゃんじゃん横道にそれて『芸術』なんかほっぽりなげてもええんとちゃうか?」は、連係するものである。谷川の狐拳構造でいえば、芸術家は芸術作品(行為)によって「大衆」に自己主張するのだから、その作品が「主張」をしないということは、「『芸術』なんかほっぽりなげてもええ」ことになる。狐拳構造がなんらかの形で赤瀬川にあるのは、三角構造の第三極、メディアについて、「わざわざ画廊代払わんかて(メディアなんか無視して)」としていることから、推測可能である。このメディア販売企画展のばあい、「“反戦と解放” いうテーマ」に関係しない作品が、「購入者」に芸術表現しているのは作家値段だけだろう。そんな「『芸術』なんかほっぽりなげてもええ」ことになる。

 この解釈は、先入観にしばられた、こじつけ放言ときこえるかもしれない。だが、かれのこのパロディー2行は、さきの評論家中原佑介と中村宏のあいだでかわされた、「タブローは自己批判しない」注 の議論そのものを、芸術作家として一蹴するものである。『櫻画報』の野次馬が蹴飛ばすように、問題提起そのものを無効にするものだろう。(注.「第2章『デモ・ゲバ』風俗のなかの『反芸術』4) ‘60年代日本の『反芸術』(その2)① 芸術評論家の『反芸術』 ─ 東野芳明の『反芸術』とそれをめぐって)」[『百万遍』No.5]を参照)

 あえて、付言すれば、「反戦と解放」展の企画は、既成体制芸術規格の「知識人」的展覧会企画であって、「反体制」の芸術行為と自己矛盾、自己否定することである。

 だが、そうした自己矛盾、自己否定する芸術家の行動を、そう整理してみせることで、かれはすませているのではない。

 かれの矛先は知識人の「反体制」運動そのものにむかう。メディア経由で集まった「出品者の売上金いうのがベ平連経由でベトナムに行くんやてね。ベ平連いうのも代々木の近くに落着いとるのやろか。いや代々木いうても国立競技場の・・・・・(ママ) ほなかていうてはりますよ。カンパする人は国立競技場の観客席にいてはるとかなんとか」。

 ベ平連というのは、「『ベトナムに平和を!市民連合』の略称。1965年に日本で結成されたベトナム戦争を終わらせることを目的とする市民運動の組織」(『広辞苑』第7版))であるが、1968年のこの時期、赤瀬川がどこまで運動内容を知っていたかはわからない。

 とうじ周知されていたベ平連は、小田実や鶴見俊輔、小中陽太郎、開高健らが結成した運動で、『反戦のすすめ』(小田、小中共著)とか、『平和を呼ぶ声 ベトナム反戦・日本人の願い』、『反戦の論理.全国縦断日米反戦講演記録』(いずれも、小田、鶴見、開高共著、共編)を刊行し、アップ・ツー・デートな活動を積極的におこなっている集団にみえた。ことに、1961年に『何でも見てやろう』の超ベストセラーを書いた小田実や、1964年の『週刊朝日』に特派員記事「ベトナム戦記」を連載した開高健は、それらの作品で知られる知識人である。前者は、貧乏留学生の、実践的アメリカ、ヨーロッパ旅行記であり、後者は、ベトコンと戦う南ベトナム・アメリカ軍従軍記である。いずれも既成知識人になかった直接行動のルポルタージュとして、ひろく読まれていた。ここでの赤瀬川は、このていどのレベルでベ平連を見ていたのではないかとおもわれる(注.ベ平連のその後あきらかになる活動については、世界2極構造崩壊期の日本知識人の活動として、’60年代の知識人運動論のなかで検討すべきものがあるが、本論では問題としない.)

 赤瀬川のみるベ平連は、’60年代日本の類型的革新知識人の位置づけからであろう。だから、「ベ平連いうのも代々木の近くに落着いとるのやろか」となる。代々木とは、日本共産党本部の所在地である。

 そして、無意識的連想のように、その前にのべられた、「へたにベトナムのことばっか考えすぎるからアカンのや。ベトナムのことをベトナムの方ばっか向いて考えてもどないもんやろなァ。足もと見て考えたら先にやることいっぱいおまっせ。国会へ国会へで国会にばっかデモしてラチあかんかったの忘れたわけやおまへんやろ」とむすびつくと、それはちがった意味をおびる。’60年代「デモ・ゲバ」前期のピークだったあの1960年6月のさい、国会進入をはかるデモ隊を国会内から静観していたばかりか、かげにまわって抑圧した日本共産党執行部幹部と、’60年代日本の「反体制」運動の挫折を無意識のうちに喚起させる。「国立競技場の観客席にいてはる」は、そのようにしか読みようがない。

 だから、「野戦病院反対とかいうくらいで遠慮しとらんと、日本にきてはるベトナム帰休兵を鉄砲でブチ殺すくらいのことせなあかんで。こなこというとまた小児病やいうやろな」になる。小児病は日本共産党が、過激な反日共系学生や反戦青年委員会労働者を論難するときもちいたキメ台詞(ぜりふ)だった。

  だが、’60年代「デモ・ゲバ」風俗のなかで、見かけとはいえ後期「デモ・ゲバ」の絶頂を迎えようとするこの時、1960年「国会」デモをこのように援用するかれの直感は、すでに’60年代デモ・ゲバのひとつの実態をここに見抜き、そのつぎを予感していたのだろうか。「まァうしろめたくは思ってるんだろうけどね。支援してもらわなあかんのはコチラの方ですよ。ベトコンのお兄さんの血の一滴ずつでも送ってもらわんとどうしょうもないのとちゃうか?」は、パロディー特有の重層した感情のひだからでたことばだ。まずむけられているのは「反戦と解放」展企画を直接対象とするのだが、それは、「支援カンパなら支援カンパでちった命はらんといかんわなァ。出品者いうのは皆自分の体を出品して、皆で一日絶食してその日の三食の飯代を集めるとかねェ。意思表示することに意義があるんやったらお祭りの神社の寄付みたいにねェ。それぞれの名前並べて誰それさん十五食連続絶食三千円也という具合にねェ。すっきりいきたいねェ。ごまかさずにねェ。事が事やさかいあんまかんたんに“意志表示〟なんていわんといてんか」であって、ベ平連 がらみとなって、なかば諦観気味である。

 そのしめ括りが、並列して出品された「天下泰平」の旭日星条旗オブジェとなるのだろう。ベトコンを支援する「米兵連(←ベ平連)」である。なんとまァ、天下泰平の「反戦と解放」運動なのか! ということだろう。しかし、また、この天下泰平は、朝鮮戦争特需景気ではじめて味を知り、安全保障条約改定がほどよい催淫剤となった旭日星条旗の日本の「天下泰平」でもある。わたしたちがやっているのは、そんな日本の天下泰平社会の芸術行為ではありませんか、ともなっている。

 このパロディー・オブジェ「天下泰平の旭日星条旗」自体は、「反戦と解放」展をこえて、自立性ある「作品」となっていく。赤瀬川じしんでも、この「天下泰平・旭日星条旗」そのものは、『櫻画報』やその他の作品にしばしば登場するものになる。『櫻画報』No.7のハナサカヂヂイでは、トノサマがゴホウビにくださったの字のついた梱包づづみのたいそうなゴホウビには、「天下泰平・旭日星条旗」が、晴がましくひるがえっていた。そこでは、「ベ平連」視点が消滅し、日本と合衆国だけになる。それは、さらに適用時代をひろげると、半世紀後のいまの日本でも、たとえば、2021年の幻の東京オリンピックの開会式で、先頭にたつ日本選手団の旗手がかかげるのが、この「天下泰平・旭日星条旗」であっても、なんら場ちがいにはみえないものになる。いまだに有効性を発揮するパロディーだ。

 だが、しかしながら、1971年新年第1回目の『櫻画報』にはじめて登場したキャラクターの「泰平小僧」命名の由来となる「天下泰平・旭日星条旗」は、そうしたたんなる日米関係パロディーではない。そのちがいは、一方は鉢巻であり、他方は国旗であったことにあらわれている。

 きりりと締められた鉢巻には、内なる芸術家・赤瀬川の、外なる芸術家・赤瀬川へのいらだちと、ひとつの「覚悟」があるようにみえる。「泰平小僧」とおぼしきキャクター登場の第22号『櫻画報』(1971年1.1-1.8合併号)の本文、「新年特別付録」は、「禁転載  櫻マル秘情報」とした二枚の「本邦に於ける野次馬の分布図」と「本邦における〈櫻軍団・櫻義勇軍〉の分布図」であった。

 内容は、全県記入の日本地図に、県ごとに大小複数の馬と、黒白の桜の花弁が描かれていた。そして、野次馬分布図には総数約1億500万頭とあり、〈櫻軍団・櫻義勇軍〉分布図には総数229名(12月10日現在)とあった。なにやら秘密集団の組織員数配置図のようであり、また、当時の革命政党組織パロディーのようでもあるが、10年前に深沢七郎が描いた、キューバ音楽〝キサス・キサス〟を演奏しながら皇居へむけて行進した革命軍とくらべると、時代的直接性の迫力を欠くパロディーで、とりたたてて云うべきものはない。にもかかわらず、この欄外余白には、「傍目にはいかに狂気の沙汰に見えなくても、本紙としては純粋に狂気の情に出たるものであることを、常に御理解いただきたく思います」と記されていた。

 これは、「天下泰平」旭日星条旗の鉢巻をつけた「小僧」の説明ともなるだろう。かくなる旭日星条旗を国旗とする天下泰平の国で、芸術家として、なにをすべきかであり、ひそかにこうやらざえうをえない表明である。

 この「なにをすべきか?」の切実性の対極には、三島の行動があったかとおもわれる。三島の行動が、直接行動なのはまぎれもない事実である。

 直接行動は、「東越太郎の談話」でも、「すっきりいきたいねェ。ごまかさずにねェ」といい、それを「支援カンパなら支援カンパでちった命はらんといかんわなァ。出品者いうのは皆自分の体を出品して、皆で一日絶食してその日の三食の飯代を集めるとかねェ。・・・・・ それぞれの名前並べて誰それさん十五食連続絶食三千円也という具合にねェ」と、説明している。三島の行為は、出演者は、皆自分の体を出品して、命はった行為だった。

 展覧会という間接的芸術行為とはいえ、2年前の芸術行為において、そのように直接行動性を問い糺した赤瀬川としては、この三島の(芸術)行為を直視し、なんとしてもアヴァンギャルド芸術家として、ごまかすことなく峻別し、行動しなければならない。その覚悟が、亡霊のようなすがたであらわれた「天下泰平・旭日星条旗」の鉢巻をしめた泰平小僧の原形だった。亡霊は、三島事件の暗示とともに、姿定まらぬ妄執の表現だろう。ここでいう直接行動の執念は、ハイレッド・センター以来、「千円札裁判」行動でも見られたように、つちかい実践してきた芸術思想であり、規範となる芸術情念である。

 これを、それなりに示したのが、次号No.23(1月22日刊)からはじまる「花嵐1~8」の『櫻画報』最終シリーズであった。

 赤瀬川の対抗思想がまずあらわれたのは、「花嵐1」ではじめて登場した、泰平小僧馬オジサンのペアー・キャラクターだった。馬オジサンには、「野次馬」があるから、継承にもみえるが、これまでの野次馬は、写真的にリアルな荒馬だったが、馬オジサンは、マンガ・キャラである。しかも、若干、馬ヅラだった三島に、似ていなくもないオジサンの顔つきである。そうした、馬オジサンと、「楯の会」制服着用で鉢巻をつけた泰平小僧のペアーは、とうじのだれがみても、あきらかに三島「楯の会」事件のパロディーである。

 だが、これはたんなるその場かぎりのものではなくなる。このペアー・キャラクターは、朝日ジャーナル版「櫻画報」全31回中、23号以降の9回のみの登場にもかかわらず、『櫻画報永久保存版』をはじめ、すべての「櫻画報」シリーズや『追放された野次馬』のシンボル・キャラクターに赤瀬川は位置づけることになる(注. 泰平小僧と馬オジサンの呼称は、「花嵐3」からである.) 同時連載中の 『現代の眼』でも1971年2月号「現代退屈考」に馬オジサンらしきものがはじめて登場し、3月号「現代睡眠考」には泰平小僧とペアで登場することからもあきらかである。というのは、赤瀬川のなかで、「櫻画報」が掲載誌をはなれ、有機的に自立した「作品」になりはじめたということかもしれない。

 三島由紀夫と「楯の会」の関係は、文化大革命の毛沢東と紅衛兵の関係にかさねる見方ができなくもない。日本「デモ・ゲバ」後期の学園紛争期の全共闘学生と革新知識人の関係にもあてはまるものである。’60年代「デモ・ゲバ」風俗のなかのアヴァンギャルド芸術家であった赤瀬川は、三島事件を’60年代「デモ・ゲバ」風俗の芸術事件として、まず三島事件をこのように総括することからはじめたかともおもわれる。このペアー・キャラクターにおける赤瀬川の位置は、ひとり二役で、泰平小僧であり馬オジサンである。’60年代初期と1971年の芸術家、赤瀬川である。

 こうして登場したペアー・キャラクターが演じる「花嵐1」の第1頁の画像はつぎのようであった。

 とうじの学生下宿みたいな部屋で、電気炬燵にはいったふたりである。馬オジサンは鼻糞をポリポリほじりながら、「あーァ 正月とはいえ お年玉をくれる人もいないし 退屈だなァ・・・・」となげいている。かれらの背にある本棚にならぶ書籍の背表紙は、「糞ざかりの森」「エ面の告白」「人徳のよろめき」「金閣痔」「出歯隠入門」「文化人防衛論」と記されている。ことごくが三島由紀夫著作のもじり書名である。ただ、ここには、「オブジェを持てない有産者」とか「あいまいな海」「桜画報永久保存版」「花嵐二」「花嵐三」とか、赤瀬川じしんの既刊、未刊、仮想刊行本が共にならんでいるには留意しなければなるまい。あきらかな対抗措置である。

 そして、欄外余白には、「花の嵐か鼻クソ嵐か、退屈まぎれの印刷嵐か、都はけだるい桜の嵐で、沖は荒縄がトグロを巻いたゾ」と、本文いじょうの大活字で記されている。つづく二頁目は、おなじ炬燵の馬オジサンの鼻糞ほじりに、「退屈そうなツラしてても 結構忙しそうじゃないの?」と問う泰平小僧に、「忙しくても退屈なの」と答える馬オジサンだが、壁にはおおきな張り紙があり、「欲求不満で出るもの鼻血ブー 退屈すぎて出るもの鼻糞バー  (野次馬軍団退屈問題対策局)」と大書されていた。そして追記するように、「そういうわけ・・・・・オメエもやってみねェか」の馬オジサンのセリフがかぶせられている。

 そして、『現代の眼』(1971年2月号)には、ほぼ同時執筆とおもわれる「現代退屈考(憂いの野次馬)」が掲載された。その先頭頁には、「フアー タイクツ ダー」とおおあくびする一頭と、ポリポリ、コリコリと鼻糞をほじりながら、「鼻クソでもほじるか・・・・・」とか「こんな状態じゃ 責任感が ジャマになって  しょうがないなァ・・・・」とぼやく二頭の野次馬が描かれている。しかし2頁目は、おなじ鼻糞ほじりの4頭の馬の背景は、「ギャー」と大声が聞こえる市ヶ谷自衛隊本部の建物である。この添え書きには「傍目にはいかに狂気の沙汰にみえようとも・・・・(ママ)」とあった。そして、第2、第3の馬が、「あの先生は 死ぬまでに一度も 鼻クソをほじくったりなど しなかったそうだ」とか、「それはまた 偉い人だねェ」とつぶやいている。

 これら『朝日ジャーナル』の「櫻画報」と『現代の眼』の「現代退屈(憂いの野次馬)」は、分割された一作品であり、そこから読むと、赤瀬川の意図はあきらかである。三島の直接行動へのかれの回答となる、かれの直接行動は、「鼻糞ほじり」であろう。

 「鼻糞ほじり」は、ひとが退屈したときひそかにやる、ささやかな行為である。この鼻糞ほじりは、憂いの野次馬の行為である。三島の行為もまた、さきの『行動学入門』で「爛熟の平和」の耐えがたい芸術行動を語っているような、憂いの芸術行為だった。

 そして、三島と赤瀬川の憂いはおなじ状況、’60年代終焉と’70年代の時代到来である。

 1969年の’60年代後期「デモ・ゲバ」の絶頂とみえるものだったが、結果的には’60年代の後始末のはじまりだった。

 さきにも示した年表上の学園紛争を再度要約するとつぎのようになる。


1.19 東大安田講堂封鎖解除

2.18 日大、機動隊を導入し文理学部を最後に全学の封鎖を解除(3.12 潜行中の全学共闘会議議長秋田明大逮捕).

3.1  京都府警ら機動隊2300人、京大の要請なしに構内に出動、学生ら160人負傷. 9.22 封鎖解除(機動隊の駐留による逆封鎖の〈京大方式〉挫折).

7.9 大学臨時措置法反対で紛争中の早稲田大学、8学部全学スト. 9.3   機動隊、大隅講堂・第2学生会館の封鎖解除

7.24 東京教育大評議会、筑波学園都市への移転と新大学構想を決定

   11.14 文部省、筑波新大学創設準備調査会を設置.

8.7 大学の運営に関する臨時措置法公布. 8.17施行(期限5年以内). 10.17 臨時大学問題審議会設置(会長小林俊三).

8.12 私立大学7団体の代表、私学人件費の50%国庫補助を坂田文相に要望. 文相、明年度予算で初の人件費助成100億円計上を約束

11.5 警視庁、山梨県大菩薩峠で武闘訓練合宿中の赤軍派53人を逮捕. 武器押収.


 大規模な学生運動が鎮圧され、政治的対抗措置が、経済成長を背景に確実におこなわれていたのが、よくわかる状況である。沖縄デーや国際反戦デーでは、「社会党・共産党・総評、沖縄返還問題で初の統一中央大会(代々木公園)、13万人参加. 反日共系学生・反戦青年委員会労働者ら、銀座・有楽町一帯の道路を占拠.国電・新幹線深夜までストップ. 佐藤首相私邸・御茶ノ水・品川・渋谷などでもゲリラ行動.逮捕965人(4.28 沖縄デー)」や、「 社・共両党・総評、全国600カ所で統一行動、85万人参加.反日共系学生、各地でゲリラ活動、機動隊と衝突、1505人逮捕(10.21  国際反戦デー)」とかのたがいの連携のない二種類の行動的反対運動がおこなわれているが、運動の凝縮こそあれ、社会にひろがる効果はみえぬものだった。こうした社会状況の一方では、政府は経済優先政策をすすめ、1969年には「社用天国」があらわれている。これは、「全国94万企業の交際費が、サラリーマン2600万人の天引所得税を上回る」注 (注.『近代日本総合年表』)ことになり、その恩恵が、サラリーマンほとんどにおよび、かれらは、それなりに享受している。それは、20世紀後期日本の遊興街やゴルフ場信仰の起源となり、日本人の贅沢趣味、奇妙な「ブランド信仰」の発祥源でもあった。皮肉にも、莫大な印税収入をえた三島は、1959年に白亜の豪邸と庭園に古代ギリシャ・ブランドのアポロ像を建て、この「パレード・万博」風俗の先駆者でもあった。パレードと「万博」は、見せることを目的とする風俗である。

 そうした爛熟と平和の世、「天下泰平」社会における(憂いの)退屈である。

 赤瀬川は、新年合併号掲載の、「天下泰平」鉢巻をまき、こぶしを握って決意をのべる、亡霊のような泰平小僧と、「野次馬」および「櫻軍団、櫻義勇軍」二枚の分布図を掲げた頁の余白に、「傍目にはいかに狂気の沙汰に見えなくても、本紙としては純粋に狂気の情に出たるものであることを、常に御理解いただきたく思います」と、記していた。そして、また、どうじに制作したとおもわれる『現代の眼』の「現代退屈考(憂いの野次馬)」では、市ヶ谷自衛隊本部を舞台とする「事件」とおもわれる光景に、「傍目にはいかに狂気の沙汰にみえようとも」と記している。

 たんなる反語パロディーとできなくもないが、赤瀬川の、意識的か無意識か判断がつきかねる、真意が示されているようにみえる。

 まず、赤瀬川が、三島の直接行動と自分の行動をどう峻別しようとしているかである。

 この前提にある、赤瀬川のいう「本紙としては純粋に狂気の情」たる、『櫻画報』・鼻糞(「花嵐」)シリーズについて一言説明しておこう。本論ではその詳細をのべないが、執拗にくりかえし描かれる「鼻糞」テーマは、たとえば、機動隊が鼻糞の山におし潰されるとか、隊員のフェース・ガードを開くと鼻糞のかたまりだったとかである。およそナンセンスで、なかば異常とおもわれるほどだ。30万部の発行部数をもつ革新週刊誌『朝日ジャーナル』掲載マンガとしては、とうじの読者層は三島事件にそれなりの関心をもつものが多かったから、読者直接のパロディー効果はあるが、編集部の期待どおりであったかはわからない。

 パロディー芸術の視点からいえば、江戸末期の浮世絵に「放屁合戦」なる一連の作品群はあるが、鼻糞を主題にすえたカルカチュアや風刺コント、小説はフランス、イギリスをふくめて最初かとおもう。赤瀬川は、ささいでとるにたらない鼻糞をテーマにした「作品」を『朝日ジャーナル』に掲載したのである。アヴァンギャルディストとはいえ新人芸術家としては、現実的にかなり大胆な行動といえよう。しかも、連載初期の「ハナサカヂヂイイ」などと比較すると、あきらかに意識的な態度変更である。

 それに、「いかに狂気の沙汰にみえようとも・・・」という三島の行動と分別(ぶんべつ)するのに、この鼻糞ほじりを、「退屈すぎて出るもの鼻糞バー」とし、それに対比させて、「欲求不満で出るもの鼻血ブー」とする。そして「現代退屈考」の野次馬に、「あの先生は 死ぬまでに一度も 鼻クソをほじくったりなど しなかったそうだ」と言わせている。このたんなる言いがかりにもおもえる対比は、赤瀬川の思想系譜では一貫性ある主張だった。

 赤瀬川は、一年半前の『デザイン批評』10号(1969年10月刊)の特集「エロスの創主体」号に、パロディー評論「欲望の反射炉」 を掲載している。その最後の第4項目に「糞百文字」がある

(注.『追放された野次馬』(第3章 非武装地帯の野次馬)では、これだけが独立した小編として再録されている.)

 ここでのべられているのは、論理的には、この「鼻糞」とは無関係、あるいは背反するようにきこえるかもしれない。それに、あらゆる「糞」がらみの用語乱発のなかで、「鼻糞」の使用は一回かぎりである。赤瀬川じしんでも、『櫻画報』の鼻糞アイディア発想時には、この『デザイン批評』のエッセイ発言は意識からすべり落ちていたかもしれない。しかし、論理思考ではそうであっても、感情思想では、まぎれもない通底部があり、赤瀬川の三島行動峻別の基盤がある。これを一読すると、さきの「欲求不満で出るもの鼻血ブー 退屈すぎて出るもの鼻糞バー 」が、たんなる冗談をこえる諷刺となる。

 とはいえ、そのようにこれを要約する自信は筆者にはないから、引用することにする。

 「欲望の反射炉」の冒頭リードも関係するから、まずそこからはじめる。 (注.『追放された野次馬』(第3章 非武装地帯の野次馬)には、掲載されていない.)


 実直な官僚は、頭にポマードを塗りこめている。へルメットは石を防ぎ、ポマードは遠心力を防ぐ。内に向けたバリケード。膨張する欲望を抑える蓋である。もう一つの蓋は眼鏡だ。それはガラスの蓋であり、欲望をガラス越しの映像にとどめる。その中で欲望は糞となって出て行く。肛門には蓋がない。したがって実直な官僚は糞の出る真空管となる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

糞百文字

 やけ糞というときの糞、糞度胸というときの糞、糞落着きというときの糞、糞リアリズムというときの糞、糞頭というときの糞、糞ッ垂れというときの糞、糞野郎というときの糞、糞爺ィというときの糞、糞婆ァというときの糞だけでなく、下手糞、耳糞、目糞、糞面白くない、糞喰らえといったすべての過剰する糞を味噌糞にしてひとつの回路に集中し、〇(ゼロ)メートル地帯に満々とたたえられて糞ダムとする糞力発電所がどこかにあるのだ。

 その糞力による発電で電線の中を糞が往復し、糞の臭うテレビには糞のCMが点滅し、糞のドラマ、糞の実況放送、糞のニュース解説があふれ出ている。あるいはまた冷蔵庫は喰い物を糞力で冷やし、洗濯機はパンツを糞力で洗濯し、掃除機はゴミを糞力で吸い取り、そして糞のはみ出そうな満員電車が糞力で動いているのだ。あきらかに私達の過剰する糞が無断で利用されているのであるこれではだめだ。私達は糞をなおざりにしている間に糞を吸い取られているのである。やけ糞のつもりが糞を吸い取られて、糞度胸のつもりが糞を吸い取られて、糞落着きのつもりが糞を吸い取られて、糞真面目のつもりが糞を吸い取られて、糞リアリズムのつもりが糞を吸い取られて・・・・・・・・ それらのいたずらに濫費している私達の糞が吸い取られて、凝固して国家をなしているのであるその凝固するときの糞力のために、私達の糞は知らぬまに吸い取られているのだ

 たとえば、その糞力の余波を借りながら頭に糞をつめこんでいた大学が糞頭の工場になったのはいいにしても、その糞頭の糞はふたたび糞頭自身の糞力となって糞頭の工場を占領し、工場側はついに汲取屋を導入するハメとなり、その結果は工場のもつ糞力の糞をも汲み取られてしまったように、国家は汲取屋を組織して汲取った糞でさらに汲取屋に糞力をつけながらたえず巡回しているのである。糞力発電所はあきらかに国家の手中にあるのだ。私達はそこに糞吸い取られた糞を奪還しなければならない。そして同時に、私達に過剰する糞を渡してはならないのだ。

 私達は過剰する糞をたんねんに点検し、私達の体にある吸取り口をたんねんに点検し、汲取屋を妨害し、汲取屋の糞力の糞を抜き取って糞抜きにし、あげくのはては凝固する糞の国家を溶解し、その還元した糞を最後の一片まで取り返さなければならない。それらの作業の糞力のためには、まず私達の体の中の過剰する糞の点検からはじめなければならないだろう。そして私達が過剰する糞を永年の間なおざりにしているうちに、私達の体のどこかに汲取口が出来てしまい、私達はそれを一つ一つ潰していかねばならないのだ。

 そして国家の組織する汲取屋を追い出す慎重な作業の中で、ヤケに糞を充填し、度胸に糞を充填し、落着きに糞を充填し、真面目に糞を充填し、リアリズムに糞を充填し、頭に糞を充填し、糞っ垂れに糞を充填し、野郎に糞を充填し、爺ィに糞を充填し、婆ァに糞を充填し、下手に糞を充填し、そして鼻に鼻糞、耳に耳糞、目には目糞をみなぎらせながら、その糞の過剰を超えて肉体を拡大しなければならない。そして過剰する糞も過剰しない糞も一滴ももらさず一体となって、その拡大する一体と一体とがくっついていくこと自体によって、国家のしめている空間を自動的に埋めつくさなければならないのである。

 

 ここにあるは、タイトル「欲望の反射炉」にあるように欲望である。欲望の扱い方を語っているのだ。人間ひとりひとりがもっている「欲望」は、ひとりひとりがもっている糞という前提だが、そのように見なければならぬという主張でもある。

 は、フランス語の〈merde〉、英語の〈shit〉のように、だれしもがかかえている排泄物の用語であるにもかかわらず、ことごとくが卑語であり、人前ではばかられることばである。フランスの小説では、〈 m.〉と表記したほどである。イギリスのGilbert & George の1980年代の作品に、『Shitted(脱糞)』 なる作品がある。(図版11) イタリアの挑発的アヴァンギャルディスト、ピエロ・マンゾーニは、じぶんが輩出した糞の缶詰を制作し、同重量の純金価格で販売した。社会的挑発価値があることばである。(図版12)

 



図版11:「Shitted」



図版12:マンゾーニ「糞の缶詰」



 だが、赤瀬川はたんなる挑発ではなく、正面から扱っている。

 は、「価値のない不快で、ばかげた、軽蔑すべきモノ」であり、「困ったもの」である。「糞百文字」がいうように、呼びかけに使うときはいらだちいきどおりけいべつをあらわすものである。だが、驚き驚嘆称賛の本音を庶民がしめすとき、おもわず口から出ることばでもある。欲望は、そのようなものである。

 ひとが、ささいなもの、はずべきもの、無価値なものとして、かかえ、増殖し、排泄している欲望、それなくしては生きていけない欲望は、このように処遇されているのだ。

 そうでありながら、「あきらかに私達の過剰する欲望は無断で利用されているのである。これではだめだ。私達は欲望をなおざりにしている間に欲望を吸い取られているのである」。そればかりか、「それらのいたずらに濫費している私達の欲望は吸い取られて、凝固して国家をなしているのである。その凝固するときの欲望力のために、私達の欲望は知らぬまに吸い取られているのだ」。

 そして、やらなければならぬのは、「私達は過剰する欲望をたんねんに点検し、私達の体にある吸取り口をたんねんに点検し、汲取屋を妨害し、汲取屋の欲望力の欲望を抜き取って欲望抜きにし、あげくのはては凝固する欲望の国家を溶解し、その還元した欲望を最後の一片まで取り返さなければならない」のである。このためには、「まず私達の体の中の過剰する欲望の点検からはじめなければならない」という。糞を欲望に言いかえ、『櫻画報』の鼻糞ほじりに関係するところを書き出せばこうなるだろう。第3パラグラフは、大学紛争についてであって、大学をさきにのべたペギー・グッゲンハイム・ギャラリーにこじつければ、まんざらあてはまらぬこともないが、ここではふれない。

 だが、そうなのだ、ここで語る赤瀬川は、あきらかにじぶんの問題、ひとりひとりの個人問題として語っているのだ。ここでいう「国家」は、じぶんに対する社会的組織の国家である。じぶんに対する社会組織なら、役所、裁判所、美術館、画廊、出版社、すべての組織があてはまるものだ。国家権力が成立する「糞力発電所」の説明、「糞喰らえといったすべての過剰する糞を味噌糞にしてひとつの回路に集中し、〇(ゼロ)メートル地帯に満々とたたえられて糞ダムとする糞力発電所がどこかにある」などは、「糞頭」、「糞ッ垂」、「糞野郎」、「糞爺ィ」、「糞婆ァ」を芸術家とすれば、かなり平易な比喩であり、直喩となる。制作時の「反射炉」の欲望にもえる芸術家である。つづく「下手糞」「耳糞」「目糞」「糞面白くない」「糞喰らえ」は、アトリエでの芸術家の独言かもしれない。そして、「糞力発電所」は、いうまでもなく、狐拳構造の(美術館・画廊・出版社・新聞)メディアだ。芸術家の糞力、すなわち、「欲望」が発揮するエネルギー(物事をなしとげる気力・活力。精力)を、誘導し電力化(流通化)する発電所(メディア:媒体)である。それとも、ここでいうメディアは、さらにおおきい社会組織、「国家」を視野にいれると、「汲取家」としたほうがよいのかもしれない。生身の画廊主の糞(欲望)のエネルギーが、どこかの発電所で無断利用されることにもなる。

 だが、利用する利用されるは、かれの問題提起のの核心ではない、ひとつの核心の指摘は、「私達の欲望は吸い取られて、凝固して国家(組織)をなしているのである。その凝固するときの糞力(欲望が発揮するエネルギー)のために、私達の糞(欲望)は知らぬまに吸い取られている」にあるだろう。「組織」は個人、個人の欲望がつくり、維持しているのだ。しかも、凝固させるために、私達の欲望のエネルギーは利用されているという。凝固させるとは、硬直化すること、さらにいえば、無機化すること、形骸化させることだろう。総合タイトル「欲望の反射炉」からみれば、合金化、鉄筋コンクリート化して使用するようなイメージかもしれない。

 そしてまた、「私達」とは、表面的には「欲望の反射炉」の冒頭にある実直な官僚とすればわかりやすいが、一般論ではなく赤瀬川じしんをふくめる私たちすべてだろう。

 私たちすべてがしなければならぬのは、「汲取屋の糞力の糞を抜き取って糞抜きにし、あげくのはては凝固する糞の国家を溶解し、その還元した糞を最後の一片まで取り返さなければならない」ことだと、私達のひとりである赤瀬川は、断言する。まずすべきこと、できることは、「汲取屋の糞力の糞を抜き取る」ことだが、それはどうすればよいのか? かれは、これにたいしても、「まず私達の体の中の過剰する糞の点検からはじめなければならない」と応えている。

 「糞の点検」、これは、炬燵にはいった馬オジサンが、コリコリ、カリカリ掻きだした鼻糞を白紙にならべて点検する「花嵐 1」(『櫻画報』23号[1971年1月22日])の光景に合致するだろう。だが、問題は、鼻糞、自分の欲望のカケラのなにを点検するかにある。

 赤瀬川による欲望は、通常いわれるような、目標のある、あれが欲しい、これが欲しいという見地からの単純な願望ではない。20世紀アヴァンギャルディストたちが信奉した、フロイト系心理学の「欲望」、イドとかエスに還元される欲望ではない。’60年代前期アヴァンギャルディストたちや、ヒッピーらの至上の欲望でもない。かれは欲望を、異なる角度からみている。

 「エロスと創主体」特集誌に掲載した「欲望の反射炉」の第2項目は、「必要なもの」であり、このように書いている。


 いわゆる「浮気」をするものに必要なものは、妻、夫、恋人などである。

 いわゆる「モモ切り魔」となるものに必要なものは、モモを切らせない人、人がモモを切るのを防ぐ人々である。

 また、強姦をするのに必要なものは、姦を阻む人々である。

 覗き見をするのに必要なものは、覗かせない人、覗くのを防ぐ塀である。  


 欲望が発揮するエネルギーは、社会のなかではじめて実在化する。自分の欲望などといばっていても、他者なくしては無意味、存在しないのだ。欲望が発揮するエネルギーは、社会(反射炉)の天井や壁面に衝突して、さまざまな「物事をなしとげる」。壁も天井も存在しなければ、永遠の宇宙のかなたに放出されて、エネルギーはエネルギーでなくなる。「妻、夫、恋人」で反射するから、「浮気」となって熱くなる。「姦を阻む人々」にぶつかれば、「強姦」となって欲望の所持者にかえってくる。「偽札を探索している」人たちに衝突して屈折すれば、芸術エネルギーは「ニセ札」つくりになるかもしれない。

 とすれば、どうすればよいのか? 「浮気」「モモ切り魔」「強姦」「のぞき見」に、さらに徹底的に欲望のエネルギーをあびせかけて、それらを溶解させるのだ、中途半端なエネルギーでは、欲望は「浮気」「モモ切り魔」「強姦」「のぞき見」に凝固して、微細な粒子となり、さらに固(かた)まって社会組織の端末、犯罪となるかもしれない。欲望はどんなささいな欲望でも油断なくたえずエネルギー放射させ、凝固させてはならない。すこしでも凝固させれば、それは国家の糞力までにはならずとも、汲取屋の糞力ぐらいに簡単に転用されるのは、芸術家とメディアの関係をみればあきらかだろう。

 こうしたことを、欲望(糞)ともいえぬ、微細な欲望のカケラ、鼻糞とはいえ、軽視することなくよくよく点検し、その欲望にそくした対応をおこたりなく実行することが、馬オジサンが実践してみせ、泰平小僧にむかって「そういうわけ・・・・・オメエもやってみねェか」という、鼻糞ほじりのわけだったかとおもわれる。退屈であっても、退屈だからすることはちゃんとあるということである。退屈な芸術家であっても、芸術家なりのすることがあることにもなる。

 それがまた、三島の直接行動にたいする赤瀬川の回答でもあろう。「花嵐5」には、機動隊員のフェース・ガードを開けると鼻糞のかたまりがあらわれ、「ワァーこの野郎 鼻糞をこんなに貯めこんでるよォ」(泰平小僧)とか、「これだけの退屈をよくぞガマンしたるものだ」(馬オジサン)の対話がある。そして、頁余白に、「鼻糞をあんまり貯めすぎると頭のなかまでコチコチになって頭痛を引起し、健忘症となり、ついにはヒステリックになって割腹などする場合もある」と記されている。さきの「花嵐1」で、部屋の壁に張り出されていた「欲求不満で出るもの鼻血ブー 退屈すぎて出るもの鼻糞バー」と連動するものである。凝固化した欲望によるフラストレーション行動ということであろう。

 だがそれは、三島行動のかれなりの総括としては、それなりに完結したものであるが、赤瀬川じしんの直接行動をあきらかにするものではない。たとえば、かれのいう、「汲取屋の糞力の糞を抜き取って糞抜きにする」とは、具体的になにをするかが、芸術家の主張としては重要である。「鼻糞ほじり」のこのときは、「退屈すぎて出るもの鼻糞バー」、そして、これをほじること、それいじょうの行為ではなかったのではなかろうか。

 「鼻糞ほじり」がいかなる直接行動であり、現実に何をひきおこしたかがわかるのが、8回までつづけられた「花嵐」の果てにあらわれた「朝日ジャーナル」版『櫻画報』最終回とその結末事件である。

 『朝日ジャーナル』(1971年3月19日号)に掲載された、ジャーナル版「櫻画報」最終回はつぎのようなものであった。満開の桜があしらわれた背景の前面におおきく描かれていたのは、「朝日新聞」新聞題字が水平線からわずかに顔をのぞかせている、日の出か落日をおもわせるイラスト・マンガで、「アカイ アカイ アサヒ  アサヒ」と4行に分けて記されている。その遠景、中景を背景に、これらをふり返りながら立ち去るフンドシ姿の馬オジサンと泰平小僧のふたりが下辺に描かれている第一頁目があった。

 そして、これにかぶせるように、「本誌重大発表」として、「このたび、櫻画報の包装紙をどのように包みなおすかという問題につきまして、慎重に検討を重ねてまいりました結果、本日を期して我々穴馬社員一同は、アッと驚く第二次乗取りを決行することに致しました。果たしてそれは、イツ、ドコで、ドノヨーな形でなされるのでしょうか。それは新聞の折込みかも、NHKテレビかも、電光ニュースかも、あるいは便所のラクガキになるかもしれません。以後身辺無差別に留意されたくここに一言ご挨拶申し上げます」と掲げられていた。ただし、恒例の欄外余白に、「朝日は赤くなければ朝日ではないのだ。ホワイト色の朝日なんてあるべきではない。せめて櫻色に・・・・・(ママ)馬オジサンと泰平小僧は、包紙をほどきながらそう思った」とあった。

 この最終回は、連載当初から定まっていた期間契約であるから、なんの問題もない。また、画題にしても、遠景の満開の桜に「サイタ サイタ サクラガサイタ」と描かれているのは、第1回「櫻画報」の再現であり、中景の「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」にしても、これと首尾一貫して最終回にふさわしい、ことさらに異例な表現ではなかった。なぜなら、「サイタ サイタ サクラガサイタ」は、すでに説明したように、戦前尋常小学校、国定教科書の一年生国語の第1頁だったが、「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」は、これを受けついだ終戦時の国民小学校では、そう記されていたのである。赤瀬川の兄や姉たちは「サイタ サイタ サクラガサイタ」を学び、かれじしんは「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」からはじめたはずである。35才以上の『朝日ジャーナル』の読者には、パロディー性なきにしもあらずだが、『風流夢譚』ほどのインパクトさえもつものではなかった。

 だが、『櫻画報』最終回の第2、3頁目は、「櫻画報社」の看板をかかえた泰平小僧と馬オジサンが炬燵のうえから「サテ今度は・・・・」、「・・・・・ドコを乗取ろうかナ?」と、イラスト・デザイン化して放射状にたんねんにならべられた、虚虚実々の数百の新聞、雑誌名を吟味、検分している絵柄であった。

 この最終回は、『櫻画報』で連載中に逐次なされていた芸術主張の帰結だった。「メディア」への拒否権行使、「メディア」からの自主性の主張である。朝日新聞社発行の30万人読者をもつ週刊誌『朝日ジャーナル』という巨大メディアにむかっておおこなわれた現実行為だった。メディア包装紙論は、すでに「櫻画報」No.18の「錯乱坊(サクランの果実) & 錯乱棒(サクランの棒)」から、「特別な編集後記」として、「本紙と本紙の包紙とを混同するものが多々あった・・・・・ その包み紙の模様と本紙の紙面とを混同されては困るのだ」といわれていた。ただここでの主張は説明したとおりの、メディア常識に違反しない、許容範囲内の一見妥当な言い分であり、いちおう、「本紙が選定した優秀な包み紙」などとしているから、とくべつ注目されるものではなかった。だが、それとは別に連載中におこなわれていた、ひとつのメディアに登場させたキャラクターを他のメディアで用いることは微妙な、しかし、本質にかかわる問題がある。

  かれは、同時掲載の『現代の眼』誌でおこなっていたのだ。

 たとえば、『櫻画報』で、三島事件以後、ウヤムヤのうちに誕生した、この「泰平小僧」と「馬オジサン」のペア・キャラクターが、『サンデー毎日』や『中央公論』誌に掲載されることはおこりえない。それは、出版社側がしないというより、芸術家がしないようにしむけられ、出版慣例(欲望凝固)化されていたのだ。ある作家が同一原稿を複数出版社にもちこむことが、あっても不思議はないのだが、現実にはありえないようなものだ。あるいは、ある新人画家は、ひとりの画商の世話にしかなってはいけないという習慣法がある。それは、日本だけではなく、ピカソとカーン・ワィラー、ジャスパー・ジョーンズとレオ・カステリーの関係だった

(注.「戦後政治体制と現代芸術━ 第二次大戦後の芸術界の動向 ━」[『百万遍』2号]参照)

 赤瀬川はすでにそれを、「櫻画報」の連載中からやっていたのだ。ただこの場合、同時掲載誌が、『現代の眼』誌というやや問題の輪郭がぼやける要素が混在している。

 赤瀬川が1969年に、「現代~考」の連載をはじめた『現代の眼』誌は、総会屋の木島力也が設立した現代評論社が刊行する、いわゆる総会屋雑誌だったが、丸山実が編集長になるにおよんで、絶対的編集権を掌握し、とうじ「全共闘の機関誌」といわれるほど、 ’60年代新左翼系の雑誌となり、それなりの成功をおさめた’60年代「デモ・ゲバ」風俗誌だった。つまり、美術メディアで、『朝日ジャーナル』を銀座の老舗画廊とすれば、『現代の眼』は、「新興貸し画廊」というところだろうか。

 だから、たとえば、老舗画廊がちょっと関心をもった、変人の画家が、たまたま気紛れから、新興画廊の展覧会に出品したからといって、老舗画廊がことを荒立てる必要はないのである。それに、老舗画廊としても、「新興画廊」の新進人気作家の利用価値をすでに勘案した人選だったろうし、また、拘束要求には、それなりの保証がともなうのが、また慣習法にはあるからだろう。(注.赤瀬川を『朝日ジャーナル』に推薦したのは『ガロ』の長井勝一だったといわれている.)

 さらにまた、この問題は、「櫻画報」連載当初から解決済みとおもわれるような問題だった。さきにものべたように、『朝日ジャーナル』連載マンガの最初3回分のタイトルは「野次馬画報」だった。それが、なんらかの理由で、「櫻画報」に変更したのだ。連載開始後の異例の変更には、ジャーナル編集者の意向にせよ、なんらかの外力が働いたと考えるのが自然である。『現代の眼』連載マンガは、「現代~考」だったのだが、すでにその一回分に「現代野次馬考」が掲載されていたし、赤瀬川がその後も思索をふかめ、けっきょく「櫻画報」と合体する野次馬思想がそこにあらわれていたのだ。おそらく、赤瀬川はこの『朝日ジャーナル』版で、この野次馬思想を「野次馬画報」のなかに構築することを目論んで、新連載に着手したのではなかろうか。

 だが、それを「櫻画報」に変更せざるをえなかったのだ。そこには、『朝日ジャーナル』からの示唆ばかりか、赤瀬川じしんのなかでも、なんらかの自己規制が機能していたのではないかとおもえるものもある。。

 さきにも紹介した『櫻画報永久保存版』などに掲載された「主筆デスク日記」では、『朝日ジャーナル』連載開始直後の1970年7月31日の記述の最後に、なんの説明もなく唐突に、「さて、『野次馬画報』を三号雑誌としてツブスことを決定。改題は『櫻画報』」とある。前後記述の冗舌ぶりとくらべると、あまりにもそっけない二行である。あいまいな感情のからみあいがあったのだろう

(注.「主筆デスク日記」は、「作品」の一部と解すべきもので、通例の作家日記と扱うべきではあるまい.時間系列では、赤瀬川の個人手帳があって、それを資料に、『櫻画報永久保存版』(1971年8月)用の「主筆デスク日記」が制作されたとおもわれる.)


 このこだわりが、「櫻画報」No.18の「錯乱坊(サクランの果実) & 錯乱棒(サクランの棒)」と、その「特別な編集後記」あたりから露呈しはじめたところに、あの三島事件がおこり、一気に馬オジサンと泰平小僧が登場したというわけである。この馬オジサンと泰平小僧は、赤瀬川としては芸術行動でもあった。さきにも述べたように、これらがはじめてペアー登場した「花嵐1」(『櫻画報』No.23[1971年1月21日])は、『現代の眼』(1971年2月号)の「現代退屈考」と並べて一作品となるようなものである。しかも、そのことを赤瀬川は、「花嵐1」内でどうどうと語っている。炬燵でむかいあっている「泰平小僧」とおぼしき少年が、「馬オジサン」とおぼしき初対面の馬にむかって、「あれ? あんた “現代の鼻” 2月号にも出てたろ?」とたずね、「鼻じゃない眼だよォ」と応えさせている。

 これが芸術家にとって、いかなる直接行動であったかをしめすには、つぎの例をあげればじゅうぶんだろう。赤瀬川にとって『朝日ジャーナル』は、原稿料の支払いではスポンサーである。21世紀の現代のテレビ局、新聞社、雑誌社でも、スポンサー不祥事の報道を極力ひかえるのは定式である。そればかりかスポンサーの競争相手の美談は矮小化するのも通例である。それをかれは、スポンサー同業者の広告まがいの芸術行為をあからさまにおこなったのであった。

 だが、このばあいは、朝日ジャーナルは問題とせず、許容したとおもわれる。その理由は、とりあげるにおよばぬ競争相手ということもあろう。いや、それいじょうに、ジャーナル版では、「欲求不満で出るもの鼻血ブー 退屈すぎて出るもの鼻糞バー(野次馬軍団退屈問題対策局)」ていどであり、どこにも三島事件にふれる記述はなかったのだが、『現代の眼』では、「ギャー」と声がきこえる市ヶ谷自衛隊本部があり、「オッ! なァンだ ビルの上じゃ 見えねェや」とか、「どうせなら 地ベタの上で やってほしかった  なァ・・・・・」とか、「あの先生は 死ぬまでに一度も 鼻クソをほじくったりなど しなかったそうだ」など、露骨に事件を揶揄することばがならぶものだった。朝日ジャーナルは、読者がよろこぶ題材自体は歓迎しながらも、内心ホッとしたのかもしれない。これを読んで、事件に参加させてもらえなかった「楯の会」会員たちが、右翼団体の支援をうけ、「風流夢譚」のときのように、おしかけてくる可能性がないからである。赤瀬川の配慮にひそかに感謝していたのが実情かもしれない。

 つまり、ここまではまだ、赤瀬川の「包装紙」芸術論の実践は、まぎれもない直接行動であったが、まだ「鼻糞」ていどにおさまっていた。

 だが、最終回の包装紙論は、そこにとどまっていなかった。包装紙の弱点を糾弾し、これを理由に包装紙を変えると公言するものだった。「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」と書き、「朝日は赤くなければ朝日ではないのだ。ホワイト色の朝日なんてあるべきではない。せめて櫻色に・・・・・馬オジサンと泰平小僧は、包紙をほどきながらそう思った」と、まぎれもないスポンサー批判が記されていた。’60年代をつうじて、一貫して革新的学生や知識人の側にあって、それを存在理由としてきた「雑誌」編集方針の欺瞞性の指摘である。「雑誌」(メディア)への執筆者(芸術家)の拒否権発動であった。

 この拒否権行使は、『朝日ジャーナル』をまきこんだ奇妙なレベルでその効果をあらわした。

 朝日新聞社常務会は、『櫻画報』最終回掲載の1971年3月19日号の『朝日ジャーナル』誌の回収を決定する。しかも発売3日後の指示という異例の回収である。発行部数約30万部の論説中心の週刊誌の回収は、思想上の自主規制問題とされ、またどうじに、掲載広告の後始末からも、ひとつの事件であった。

 だが、それにもかかわらず、出版部、営業部をとびこえて、経営最高機関が介入し、実行したのである。

 しかも、その回収理由はいっさい公表されぬままであった。それは、半世紀後の今となっても、いまだ納得できる真相はわからない。 

(注.「朝日ジャーナル回収事件」と「中央公論事件」は、’60年代日本の二大真相未解決・マスコミ事件であるが、いまだだれも解明を試みていないのは、それ自体がフシギである.)


 事件とうじにも、その理由はおろか、その処置がいかにとられたか、具体的事実をあきらかにする一次資料はない。当事者が大報道機関の朝日新聞である。朝日新聞はおろか、他の三大紙、あるいは、五大紙も、知ってか知らずか、おこった事実について、お得意の確たる解説報道をおこなっていない。

 ただ、事件がおこった一ヶ月後の『日本読書新聞』(1971年4月19日刊)の「特集・朝日ジャーナル問題を考える」に掲載された事実経過に簡略な事実がしめされているから、それを紹介しておこう。これは、「日本読書新聞」の編集部が、「夕刊フジ」(3・19)、「週刊ポスト」(4・2)、「平凡パンチ」(4・12)、「新文化」(3・25)、「新聞協会会報」(3・28)、朝日新聞出版局職場委員会機関誌「第五街区」(3・27、3・13)から、まとめたとされている。一覧記載すればつぎのようになる。


1971年3月12日:「朝日ジャーナル」(3・19号)発売

3月15日: 朝日新聞常務会、理由を明示せぬまま回収処分決定。出版分担社長は欠席。岡田出版担当役員だけが事情聴取され、小南ジャーナル編集長は呼ばれず。

3月19日:「朝日ジャーナル」(3・26号)発売

3月25日: 常務会、今回の回収問題について岡田出版担当、足田出版局長、小南同誌編集長の三人に、前二者について「監督不行届」、後者については「業務上重大な過失」により減俸処分を決定。同時に、「出版局では出版物の編集について大幅に編集長の権限にまかされているが、勝手気侭に出版物を製作できると考えてもらっては困る」との出版担当あて社長指示。出版局内に “検閲” のためのポスト新設される。

3月26日:「朝日ジャーナル」編集部と岡田出版担当、足田出版局長との話合い。公式の回収理由「内容に読者の誤解を招く箇所があった」ということの実務上の判断基準示されず。


 事後処置として、あまりにもおおきい影響をもつ決定だが、突然、最上層部が顔をのぞかせた、やはり奇妙な事件だったとおもわれる。そして、理由とされたのは、実務上の判断基準が示されなかったとはいえ、「内容に読者の誤解を招く箇所があった」ことだったのであろう。

 誤解を招く箇所については、さまざまなとりざたがあったが、回収誌に限定すれば、とうじも半世紀後の現在でも、二点あったというのが定説である。一点は、同誌表紙にはじめてカラーヌード写真が採用されたことであり、もう一点は、『櫻画報』の「アカイ  アカイ アサヒ アサヒ」だった。同誌掲載の「特集抵抗する漂民─反文化の心象風景」などの記事については、筆者も一読したが、おもいあたるものはなかった。

 それに、くだんの表紙ヌードにしても、とうじ流布していた雑誌表紙にくらべ、ことさらいうべきものではない。ただ、格式高い『朝日ジャーナル』誌の初試みとすれば、これを新機軸とするのに異をとなえる者がいるのはわかるが、それが、常務会の緊急議題となり、回収しなければならぬほどのものかは、いかにも不可解である。 (注.筆者所持の現物紹介が、時間のつごうからできないのは残念だ.)

 それは、赤瀬川マンガにしてもおなじである。すでに説明した内容だが、やはり、回収せねばならぬとは、とうていおもえない。

 回収は、すでに指摘したように、思想上の問題であり、現に朝日新聞の公然たる右傾、保守化の露呈とか、「良識の言論機関」の看板を損なうような言説が巷にあふれだしていた。また、「風流夢譚事件」でも問題となったが、雑誌、新聞、テレビの生命線である「広告」部門への影響は現実におこった。また、これだけの処置は、ジャーナル編集長の更迭だけではすまず、編集部の抜本的改変をともなうから、その結果は三ヶ月後の『朝日ジャーナル』二冊(6月11日、18日号)の休刊をもたらしたのは自明だった。また、それは、現在の国会図書館をはじめ国公立図書館、大学図書館がアーカイブとして所蔵している『朝日ジャーナル』誌の2号分が欠如していることでもある。

 いったいこれほどのマイナス影響を、あえて承知のうえでやるほどの理由ある内容が、これらにあったどうか、やはり、いかにしても理解できない。

 赤瀬川当人にも意外だったのではなかろうか。『櫻画報』第31号制作中、瞬時もおもわない効果とその結果だろう。

 だがこれは、「鼻糞ほじり」がおこした結果である。三島行動にたいして、赤瀬川じしんの直接行動がもたらした結果だった。「汲取屋の糞力の糞をわずかでも抜きとって糞抜きにする」行為になっていた。芸術家のメディアへの拒否権の実効性ある行使である。

 かれのさきにのべた、「現代野次馬考」の野次馬行動規範からいえば、この事件がおこったのは、実権派たる朝日新聞社の、体制内賛成者にとって、『朝日ジャーナル』は「体制内反対者」だったのだろう。そして赤瀬川のやったことは、体制内反対者の実権派野次馬物語に、野次馬自身の蒼ざめた野次馬をあびせかけたのである。まさに、「私達は過剰する糞をたんねんに点検し、私達の体にある吸取り口をたんねんに点検し、汲取屋を妨害する」こと、退屈した野次馬がやることを、かれは鼻糞ていどの(芸術)欲望直接行動で実現したのだった。それは、実権派の正体をいくぶんかでも暴露することであり、芸術家はスパイであるという赤瀬川の、ハイレッド・センター承認済みの「スパイ規約」芸術論に合致するものだった。

 赤瀬川にとって、ジャーナル版『櫻画報』の結末は想定外とはいえ、かれが展開しようとした「野次馬」思想は、着実に実現されたとここではいえるだろう。かれはさきの「現代野次馬考」(1969年9月)の幻の野次馬軍団宣言で、「野次馬はすでに、すべての東京の実権派からひとつの力と認められている・・・・・ いまがちょうどよい時期であるということ」とのべていたのだが、その一端を一年半後にみずから顕在化したようにみえるものであった。

 かれが、このチャンスをさらに活かさないはずはなかった。朝日新聞社の対応は、かれ自身におよぶものでは今回はなかったが、自分の問題として、これらの詳細と自分の立場表明について、ケース入りクロス装丁豪華版の『櫻画報永久保存版』(1971.8)にまとめて、青林堂から発行した。

(注.回収によって、原稿料支払いはどうなったのかわからない.しかし、この回収事件は、赤瀬川作品への評価や依頼がマイナスに作用したとは、この時代の風潮を勘案すると、おもえない.)


 内容は、ジャーナル版全作品と、それ以降の8月1日までの4ヶ月間に他誌に掲載した、「櫻画報」12作品、および、「包み紙回収事件の全貌」と「主筆デスク日記」である。「包み紙回収事件の全貌」は、掘りさげた論考というより、事件を報じる各種出版物の、イラスト化した現物紹介や、記事の抜粋、インタービューの再引用の組合せで、内容的になんら目新しいものはなかった。しかし、みごとなパロディー構成であり、新規の芸術作品として通用するものだった。青林堂では、三年後には、売り切れ、増刷を計画したほどである

(注. 増刷計画は、今回は谷川関係以外は扱わない「資本主義リアリズム講座」の連載中におこった「第二次千円札」事件をふくむメディア批判に発展させて、『櫻画報・激動の千二百五十日─赤瀬川原平資本主義共和国』(1974年10月)として増補し、出版され、これもまた完売した.)

 

 この効果的表現形式は、「千円札事件」がおこったさい、ハイレッド・センターが「ハイレッド通信」の「目薬特報」でおこなった報道芸術ともいうべき形式である。制作時間と表現効果を勘案した(オオゲサに云えば)新芸術媒体ともいえるものである。ジャーナル版終了後3ヶ月間の掲載誌は、「月刊漫画ガロ」をはじめ「黒の手帳」がほとんどだが、「現代の眼」「日本読書新聞」や「小説新潮」など、「朝日ジャーナル」とは、規模、性格を異にする多種多様のメディアだった。仲介媒体(メディア)が、自然に選別されたということになろう。直接行動ならではの、ひとつの成果といえる。この方針は、本稿はじめに問題にした、アングラ雑誌『写真時代』掲載から単行本『東京ミキサー計画』刊行にいたるメディア選別方式にも、うけつがれるものになる。

 ‘60年代がおわった1970年11月と1971年3月の、三島由紀夫と赤瀬川原平というふたりの芸術家の「直接行動」を比較すれば、それらは、’60年代「デモ・ゲバ」風俗の二種類に弁別できる芸術行動であったとおもわれる。

 「朝日ジャーナル」回収事件に凝縮してあらわれた「櫻画報」にまつわる芸術行動は、かつてないということでは、あきらかにアヴァンギャルド(前衛)芸術、’60年代日本の「デモ・ゲバ」風俗が生みだしたアヴァンギャルド芸術だった。


 ‘60年代日本のアヴァンギャルディストというのは、希望の光をとおくに見つけたようにおもいながらも、ふたたび暗黒の気配がただよいはじめるのを察知したわかい芸術家たちだった。そうしたなかで、ハイレッド・センターの創設メンバーたちは、「芸術とは何か」をもっとも不可欠の基本として、集団行動のなかで考えた芸術家たちだった。

 かれらのとった立場は、芸術概念を思弁的に考えるのではなく、じぶんたちの芸術を、社会関係のなかで確かめようとしたのだとおもう。

 それは、いままでのべてきたように、現代の芸術家にとって「芸術」は、芸術家と「媒体」と「大衆」という狐拳権力構造をもつものであって、芸術家は三分の一の存在にすぎない。その権力構造のなかで、いかに既成芸術家のように利用されず、’60年代用語でいえば、搾取されず、芸術家として自立性をもつことができるかを、理論ではなく、行動のなかで追求したのが、ハイレッド・センターであったのではないかということである。

 なお、ここでひとこと断っておかねならないが、媒体とは、芸術素材やジャンルに言い換えることができる表現媒体と、「大衆」への仲介をするいわゆるメディアの二重の意味でもちいている。また、「大衆」は、権力構造からいえば、すでにいままでのべてきたように、受容者・鑑賞者、あるいは、協力者・共同制作者として、芸術家の権力行使の対象となるもののことである。

 ‘60年代がおわった1971年に赤瀬川原平が「櫻画報」でおこなった芸術行為は、ハイレッド・センターにはじまるものであり、ハイレッド・センターのひとつの帰結だったかともおもわれる。本稿では、ハイレッド・センターの創設展である「第5次ミキサー計画」と「第6次ミキサー計画」について、これが具現したもの、ことに「自立学校」への関心をみとどけることによって、逆にハイレッド・センターをまず展望しておこうとしたのである。

 ハイレッド・センターについては、次項で、創設展の「第6次ミキサー計画」の声明文に書かれた、今泉、川仁両氏への「紐」・「梱包」・「洗濯バサミ」(表現媒体)の貸与をふくめて、創設時のハイレッド・センターのメンバーが芸術についてどう考えようとしていたか、むしろ、どう感じていたか、どのようなことにこだわっていたかを、みていくつもりである。それは、これまでもいくどものべた、ハイレッド・センター創設の契機になったふたつの座談会「直接行動論の兆 ─ ひとつの実験例について」と「直接行動論の兆Ⅱ」を中心におくものである。この座談会記録は『形象』7号と『形象』8号に掲載されたものであり、どこにも復刻刊行されていないから、資料価値もあるかとおもう。

 なお、本稿でのべた谷川雁の思想は、’60年代の芸術論として、これだけでも独立して再考すべきものがあり、また、21世紀のアメリカや日本で現在おこっているポピュリスムを予告するとおもわれることも付言しておきたい。


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