Anant 2-5-4


60年代日本の芸術アヴァンギャルド(7)         「’60年代日本のアヴァンギャルドと、’30年代フランスのシュルレアリスム」



4.  シュルレアリスムにおける芸術家の立場

~ ダリの場合 ~



 たとえばダリは、著作が多く、豊かな文学的才能をもっていたとひろく言われているが、かれのフランス語理解力を知るには、つぎの資料がある。ダリは、シュルレアリストとの関係が微妙になった時期の1942年に、挑発的自伝、『サルヴァドール・ダリの秘められた生涯 ─ 私は天才なのか』を刊行しているが、21世紀になって出版された「校訂版(Edition critique)」注1によると、原文は稚拙なフランス語で、論理的部分はガラが修正した、ガラ執筆同然のものという注2

(注1.『La vie secrète de Salvador Dali   Suis-je un génie? )』(Edition critique établie par Frédérique Joseph-Lowery[Bibliothèque Mélusine](2006)

(注2. 本論でも、これらの証言は、一次資料としては扱わない.)


 そのこと以外にも、ダリの著述については、著述の目的をふくめて、じゅうぶんな検討をしたうえでなければ、資料として扱えないとおもう。

 そのようなダリほどでなくとも、エルンストやシャール、ポンジュの造形芸術家や詩人が、「第二宣言」の挿入文に書かれた「『シュルレアリスム第二宣言』の読解から導かれる諸結論を実践にうつす覚悟」のうえで署名をしたとはおもえない。

 しかし、ブルトンとしても、厳密なそんな読解を期待していなかったのかもしれない。かれらの芸術行為が「第二宣言」のシュルレアリスムに違反しないかぎりは、りっぱなシュルレアリスト仲間だったのだ。芸術制作では、「第二宣言」でブルトンもフランス共産党の芸術政策を批判したように、目的意識的制作行為は妨げであり、ダリの、シュルレアリスム参加から1930年代前半期の制作行為は、この時点におけるシュルレアリスム芸術の革命的作品だった。そして、ダリ自身も、シュルレアリスムのなかで芸術家になったのだ。

 しかし、作家たちが願う芸術革命社会革命は、実作芸術家の「革命」であり、実作芸術家の「社会」だから、政治家がいう「社会革命」とはズレがあるのは当然である。政治的にいわれる革命は、新しい体制樹立のための、既成体制の転覆を意味するが、芸術家の「革命」芸術は、新しい体制うんぬんより既成体制の否認や転覆、むしろ転覆にむけて挑むこと、反抗することである。それに新しいかどうかも、政治家の「社会革命」のようなものではない。

 政治家の「社会革命」、すなわち、制度革命である政治・経済革命は、新制度というなんらかの具体的達成を目的とする。そこからいうと、芸術の革命は、新しい芸術かどうかは、政治・経済革命のような判定のしようがない。芸術は、創造表現でしかありえないが、具体的なモノや「行為」である「作品」の創造では、新しい芸術とか古い芸術とか類型化できるものではない。

 新しさ」だけをいえば、ひとりひとりの画家が描くどんな絵画でも、作家レベルでは、それまでになかった新しい作品である。また、それと対極にある場合、たとえば、デュシャンのレディメイドは、かれがはじめて自転車の車輪をもちいた制作をしたときは、かれ自身でさえ芸術作品などとはおもわず、暇つぶしの遊びだった。かれが、それをレディメイドと命名したのは、類似したものをいくつか作ってからである。

 いずれにしても、「芸術」では、ふるい芸術を破壊するのは、新しい芸術のためなどではない。ふるい芸術の破壊と新しい芸術は同義語である。

 さらにまた、芸術家が願う「社会」革命でも、かれらが切実に問題にし、ターゲットとする「社会」は、制度上の社会ではなく、共同生活を営む人間集団という「社会」の原義にちかい、生活環境、芸術(仕事)環境、家庭環境でイメージされる人間関係となるだろう。画商やプロダクションへの反抗、父親への反抗、家庭的束縛からの離脱、そしてまた、恋愛生活の維持にも、芸術家にとっては抵抗すべき社会要因が介入してくる。そこに「社会革命」を必要とするところがあった。そこに政治的・経済的革命運動と提携する理由がある。そういった芸術家の革命行為を確認するために、ダリの芸術行為を見なおしてみよう。

 こうした視点から、『革命に奉仕するシュルレアリスム』にあつまったシュルレアリストをみると、なかでもシュルレアリスト、ダリには、極端な芸術革命と「生活」革命が、それなりに一体化して具現されたようにおもえる。

 現在にいたるまで、ダリのシュルレアリスムにおける評価は一定していない。シュルレアリスムといえばダリとブルトンという見方さえある。造形芸術からみた美術系シュルレアリスムの見方である(注. そうした美術系評論家の見方は、ふたつのシュルレアリスム宣言を考慮しないとろで展開されているようにおもう.)


 そうしたダリ評価を糺すためにも、シュルレアリスム・グループに参加時のダリの制作行為について、本論の見方からのべておこう。なぜなら、現代においても、芸術革命と政治革命の整合性は認められていず、芸術と政治は無関係という見方が、「社会主義リアリズムをのぞき、芸術の常識になっているからである。

 シュルレアリスム参加時のダリ は、いちはやくシュルレアリストたちのあいだで注目された作品群をエネルギッシュに制作し、発表した。ダリの代表作となっている『おおいなるオナニスト(自慰者)[Le Grand Masturbateur]』や『欲望の謎、わが母 わが母 わが母[L'Enigme du Désir, Ma Mere  Ma Mere  Ma Mere]』をはじめとする作品群である。

(注.一般には「大自慰者」と訳されている.原作の初出が何語で書かれてたかわからないが、とりあえずフランス語にした.)

 

 かれは、これら一連の作品とそれに関連した言動によって、いちやくシュルレアリスムの新たなプリンスになった。

 1929年ごろから4、5年間つづくこれらのシリーズ制作は、おそるべき数の作品を産出した。これらは、たがいに連係する作品だが、なかでも「見えない、ライオンと馬と眠る女」と名づけられた、ライオンや馬や裸婦のフィギュールを組みあわせた連作や、〈ウィリアム・テル〉シリーズ、〈晩鐘〉シリーズというひときわ密接な関係をもつ、検討すべき作品群である。それらは、いずれもおなじ意識的技法(アート)の凝縮であり、おなじ起原からおこった芸術・社会的抵抗行為の結晶だった。

 これらの抵抗がシュルレアリスムのなかで十全に発揮され、シュルレアリスト・ダリが形成されたということもできる。その形成が経過をおってあきらかになるのは、造形意思が凝集された代表作品よりむしろ、この三つのシリーズであるから、本稿ではそれに即してのべておこう。

 ブルトン自身も、シュルレアリスト・ダリについて、1935年のプラハでおこなったシュルレアリスムを紹介する講演「シュルレアリスムのオブジェの状況」で、このシリーズのなかの「見えない、ライオンと馬と眠る女」に託して語っている。これらが、いかにシュルレアリスムの芸術革命(芸術的に鎖から解きはなたれたシュルレアリスムの叛徒)に合致していると、みえたかをしめしているだろう。(図版13. 図版14



図版13: ダリ「見えない、馬とライオンと眠る女」




図版14: ダリ「欲望の謎 わが母 わが母 わが母」



 図版13と図版14は類似した図像だが、シュルレアリスム的含意が充満した画面である。ここでは、馬の姿態や吠えるライオンのたてがみのフィギュールはわかるが、「眠る女」はそれらすべてなのだろうか。図版13の馬の胴体は、仰向けに眠る女性の裸形とおもえなくもない。とおく一本の円柱がのこる廃墟とも荒野ともみえる風景の中央に、自然で、昂然とした異形が描かれている。図版14はおなじ組み合わせながら、馬か女の裸体は杯(さかずき)か器(うつわ)か小舟にもみえる。いくつものイメージを、あくことなく重ねることができる作品だ。一作品では足りず、二作品でも三作品でも制作できる自信と渇望の作品だ。描かせているのは、なにかにむかって注がれる、横溢したエネルギーのようにおもわれる。


 ブルトンがそこになにを見たか、かれがシュルレアリスムの絵画としておこなった説明は、つぎのようなものだった。


 シュルレアリスムの起源から今日にいたる技術的な一切の努力は、同じく、知的要因の最深層に浸透する道を増加させることにありました。「わたしの言うのは、見者でなくてはならず、見者にならねばならぬということです。」(注.ランボーの手紙のなかに見られる、詩人の特性についてのことば。ブルトン はしばしばこれを引用する.) つまり、わたしたちには、ランボーのこのスローガンを実践する方法を発見することだけが問題なのです。近年その効力が完全に試された方法のなかの第一線で、あらゆる形態の心の自動現象(図形的衝動に単純かつ純粋に従うことから、夢のイメージを欺し絵的に定着させることにいたるまでの可能性の世界が、画家に開けております)と、サルヴァドール・ダリが定着した偏執狂的批判(paranoïaque-critique)活動、「妄想的解釈 、および連想の体系的批判的客観性にもとづく非合理的認識の自然発生的方法 (méthode spontanée de connaissance irrationnelle basée sur l'objectivation critique et systématique des associations et interprétations délirantes) 」が、重要な役割をはたしています。          

 ダリは言っています。「二重のイメージ、すなわち、いささかの象形的解剖学的変形もなく、同時に、何らかの配列を示す一切のデフォルマシオンあるいはアノルマリテがこれまた欠如したまったく別のオブジェの表現に達しえたのは、鮮明な偏執狂的過程(un processus nettement paranoïaque)によるものである。

 必要とされるかぎりの口実、同一性等々...を、巧みにまた狡猾に用い、第2番目のイメージ、すなわちこの場合は付きまとう概念のかわりをなす第2番目のイメージを出現させるのにこれらを利用する激しい偏執狂的思考によって、このような二重のイメージの獲得は可能であった。

 二重のイメージ(実例を揚げれば、ひとりの女のイメージであると同時に馬のイメージという場合にもなりうるのであるが)は、他の付きまとう概念が第3のイメージ(たとえばライオンのイメージ)を出現させるほど強い場合、偏執狂的過程(le processus paranoïaque) をつづけていき、以下同様に、思考の偏執狂的容量(capacité paranoïaque de la pensée) の度合いによってのみ決定される数量の複数のイメージに進展していくことが可能である」。

(『オブジェのシュルレアリスム的状況』)

 

 ダリの表現が、内容的にもそれを表出する様態においても、シュルレアリスムが追求している技法(アート)と完全に合致した芸術(アート)だとしている。そればかりか、ダリのアートは、シュルレアリスムのアートの実践領域をひろげたとさえ語っている。たしかに、『シュルレアリスム宣言』の創設期のシュルレアリスムは、心の自動現象であるエクリチュール・オートマティック(自動筆記)だったのだから、ダリのいう「偏執狂的ー批判的方法(la méthode de paranoïaque-critique)」は、シュルレアリスムの技法(アート)である。ダリはそれを、ダブルイメージをもちいてみごとに実現し、シュルレアリスムの有力な新メンバーになったのだ。かれは、作品制作だけでなく、このアート理論を「腐ったロバ」のタイトルをつけ、『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌創刊号に掲載した。

 だが、このダリの功績をきわだたせるブルトン評価は対外的説明であって、ダリの理論はブルトンやエリュアールと密接な直接関係をもつものだった。

 ダリが「腐ったロバ」を発表した同時期、1930年は、ブルトンとエリュアールが共同執筆による『処女懐胎』を制作し、刊行した年である。

 『処女懐胎』は、自動筆記のような方法で、ふたりで二週間で書きあげた作品だが、自動筆記自体の実験作品ではなく、異なる意図をもつ作品である。

 タイトルの「処女懐胎(l'Immaculée Conception)」も、キリスト教の「聖母無原罪の宿り」のパロディーだけでなく、「無垢なる発想(conception immaculée)」のダブルイメージである。「無垢なる発想」とは、子供の発想や「アール・ブリュット(art brut)」の精神障害者らの着想のようなものだろう。1930年の当時は、まだこのようなジャンルはなかったから、ブルトン、エリュアール自身が、独自にそうした作品効果を期待したとおもえる。

 同書の構成は4章に分かれているが、ことに第2章「憑もの(les possessions)」が本稿に関連して興味深い。同章の節にあたる副題は、「精神薄弱(la débilité mentale)を偽装する試み」「 急性躁病(la manie aiguëe)を偽装する試み」「 脳梅毒(la paralysie générale)を偽装する試み」「解釈妄想(le délire d'interprétation)を偽装する試み」「早発性痴呆(la démence précoce)を偽装する試み」の5節である。

 同章には、唯一、通常文体で書かれた説明的序文がつけられ、ここで試みられている五種類の精神病患者にまねた記述の主旨が記されている。

 序文冒頭にはこう書かれていた。


 この本のふたりの著者は、専門家にたいしても非専門家にたいしても、つぎのような五つの試みの企図がぜったいに真面目であると主張するにはいささか懸念をいだいている。なぜなら、臨床記録から盗んだのではないかとか、またそうした記録をうまく真似たものではないかといわれる可能性が少しでもあれば、それこそこれらの試みの存在理由はまったく喪失するだろうし、そのすべての効果は簒奪されるだろうから。


 そして、3ページにわたる説明の最後は、このようにむすばれている。


つまり、われわれの目から見れば、精神病院行きのいろいろな病気の「偽装の試み」は、譚詩(バラード)や十四行詩(ソネット)や叙事詩や尻尾も頭もない詩やその他の老化したジャンルにとって代る役割をりっぱに果たすということだ。


 このような序文つきの5節の本文を紹介すれば、もっと分かりやすくなるのだが、それをすると本稿の論旨をまたはずれるから省略する

(注. 関心のある向きは、服部伸六訳『処女懐胎』[思潮社]や阿部良雄訳「処女懐胎」[『アンドレ・ブルトン集成』第4巻]の訳文を参照されたい.)


 しかし、序文の説明する同章の主意は、まさにダリの偏執狂的制作過程と「作品」の関係とまったくおなじである。『処女懐胎』は言語表現であり、ダリの作品は映像表現の相違があるだけだ。文学と絵画のちがいだけだ。

 とすると、同時期に制作された『処女懐胎』と、ダリの作品制作と「偏執狂的批判方法」理論の関係が問題となる。さらに、この関係には、『処女懐胎』の挿絵はダリが描いているという事実がまといつく。そして、ダリ当人は、ブルトン、エリュアールの共同執筆以前からつぶさにその内容を知っていたという資料もある。

 だが、それだからといって、ダリの独自性が否定できないところもある。

 ダリの「偏執狂ー批判的方法」がはじめて公表されたのは、さきにも述べたように。1930年7月刊行の『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌創刊号掲載の論考「腐ったロバ」においてだった。これにたいして『処女懐胎』の共同執筆は1930年9月におこなわれ、その第1章「人間」のみが挿絵つきで『革命に奉仕するシュルレアイスム』誌2号(10月)に発表され、全編刊行は同年11月である。とすると、ダリの論考が先行するが、ダリの影響をうけた『処女懐胎』とするには、両者の記述は近似しながらあまりにもおおきな格差もある。先行したはずのダリの「偏執狂的ー批判的方法」の方が、ブルトン、エリュアールの説明よりはるかに要約的である。「偏執狂的ー批判的方法」は、『処女懐胎』の「とり憑かれたもの」を簡略化した、言いっぱなしの理論のようにさえみえる。

 それに、使用用語においても、『処女懐胎』では、「精神薄弱(la débilité mentale)」「急性躁病(la manie aiguëe)」「 脳梅毒(la paralysie générale)」「解釈妄想(le délire d'interprétation)」「早発性痴呆(la démence précoce)」 と列挙されているが、「偏執狂(la paranoïa)」は用いられていない。偏執狂(paranoïa)に固執するのは、ダリだけであり、しかもかれは、病名の偏執狂(la paranoïa)でなく、形容詞〈paranoïaque〉を使用する。文脈からそうせざるをえないのかもしれないが、〈paranoïaque〉は形容詞だけでなく「偏執狂者」の意味もある。すると、〈paranoïaque-critique〉は「偏執狂的ー批判的」ではなく、「偏執狂者の批判」的絵画となり、ダリ自身がみずからを偏執狂に擬したのなら、ややありふれた表現となる。

 また、このパラノイア用語には出典があるようにもおもえる。それは、フロイトが1911年に発表した論文「自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察 ─ シュレーバー法学博士の回想録にもとづく考察」である。この論文が取りあげているのは、ザクセン控訴院議長ダニエル・パウル・シュレーバーの著書である。シュレーバーが1903年に出版した「ある神経病者の回想録」のなかに記された体験記述をもとに、フロイトが精神分析の観点からこれを解釈したものである。この体験記述には、同性愛妄想や世界救済計画など、各種の偏執狂的妄想が詳細かつ生々しく記されているという。あとで述べることになるが、自慰(オナニー)や去勢に執着して描いたダリにふさわしいものだったようにおもえる。(注. 筆者はこの論文を読んでいない.コンピューター資料を参考にしただけである.)

 しかも、マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに在学中からフロイトに心酔していたダリが、このフロイト論文を知っていた可能性はある(注. この論文のスペイン語訳かフランス語訳の当時の出版は確認していない.だが、なんらかの耳学問もありうる.)

 そうでなければ、あれほどの奇妙な確信をもって、この用語をシュルレアリスム、デビュー論文で使用できたはずがない。「奇妙」というのは、あんなに自信をもって「偏執狂的ー批判的」方法をのべていたのにかかわらず、1940年代以降のかれの作品は、トレード・マークとなった「偏執狂(paranoïa)」のタイトルを濫用しながら、あの偏執狂理論の切迫した迫力を失い、奇をてらったダブル・イメージにすぎないものが大半だからだ。

 しかし、いずれにしてもここで主張された「偏執狂的ー批判的」方法は、ブルトンやシュルレアリストたちに注目され、シュルレアリスムの革命的芸術にみえたのだ。ブルトンが引用している『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌の記述そのものには、ブルトンかエリュアールの加筆があったのではないだろうか。そして、そうであってもなお、これを語らせたかれの言行一致の高揚ぶりが、ダリ評価をさせ、『処女懐胎』の挿絵依頼になったのかとおもう(注.あるいは、『処女懐胎』第2章序文冒頭の記述は、このフロイト論文に関連していたのかもしれない.)

 ブルトンらにとっては、理論などだれが言おうと、どうでもよかったようにみえる。このころのかれらには、理論より実践が喫緊の課題だった。

 そうした見地から、そのころのダリ作品は、まぎれもない光輝を発散していた。ここには、たんなるアート革命だけでなく、かれらにとっても重要な何事かを示していたのかもしれない。それは、シュルレアリスムの政治との関係を説明するために、のちにブルトンが述べ成文化した、「『世界を変革すること』とマルクスは言いました。『生活を変えること』と、ランボーは言いました。これら二つのスローガンは、シュルレアリストにとっては、一つになるのです」(「作家会議における発言」1935年)に結実することになる。『シュルレアリスム第二宣言』のもうひとつのテーマである、生活を直視する新しいシュルレアリスムの課題、「愛」の課題である。

 ダリにおいてはこれは、まず、これら三シリーズの絵画で、はげしい偏執狂的思考を際限もなく湧出させる在り処としてあらわれる。

 そこでおこっていたのは、ダリの生活行為と芸術行為の交叉がひきおこした、ダリの二つの「革命」の合流した渦巻だった。明瞭にそれを表出させているのは、『見えない、ライオンと馬と眠る女』と並行してはじめられたウィリアムテル・シリーズの最初の作品『ウィリアム・テル』である。(後出の図版「ウィリアム・テル」を参照.)

 この作品自体には、タイトルにある、スイスの伝説的民衆英雄、われわれが知っている、息子の頭上にのせたリンゴを射落とす弓の達人を想起させる情景はどこにもない。どこから見ても、あのウィリアム・テルとは無縁であり、映画「アンダルシアの犬」の腐ったロバの載ったグランドピアノが見えるところからは、シュルレアリスムの絵画である。かれの心象風景におけるこのタイトルは、かれの生活行為と創作行為をからませなければよくわからない。

 ダリは前年1929年の夏、かれの作品を称賛しているポールとガラのエリュアール夫妻を、スペインの故郷、カタルーニアのカダケスのアトリエのある別荘にヴァカンス招待をした。かれらの訪問ははじめてではなかったが、今回は比較的長期間であり、ガラとダリにとってははじめての出会いにひとしかった。

 そして、この滞在中、ガラとの恋愛がはじまり、発展して、ガラはエリュアールと離婚し、5年後の1934年には、ふたりは結婚することになる。この関係は生涯つづき、ガラのダリにあたえた影響は周知である。だが、このように要約できる出来事は、別角度から見とどけておかねばならない。

 ヘレーナ・ジャーコノヴァ(Helena Dimitrievna Diakonova)、通称ガラ(1894-1982)は、ヴォルガ河畔のタタール文化をうけつぐ商業都市カザン生まれのロシア女性だった。

 彼女は、1912年、18歳のとき、スイスの結核療養サナトリウムで、17歳のエリュアールと出会い電撃的に相愛の仲となった(注.この項はおもに〈Jean-Paul Clébert:Dictionnaire du Surréalisme〉による.)

 たがいの文学、芸術嗜好が共鳴し、どちらかといえばガラ主導で、影響を与えあったといわれる。ガラのそれまでの経歴はわからないが、あたらしい芸術・文学に特別な関心があったとおもわれる。彼らは1917年、結婚し、翌年娘セシールが生まれている。

 1921年、ふたりはともに、ケルン在住のダダの芸術家、マックス・エルンストに会いにでかけ、彼ら三人はつよい共感をもった。翌年、エルンストはエリュアール夫妻の勧めでパリに滞在する。ガラとエルンストは急速に恋愛関係となるが、自由な恋愛を信条とするポールは意に介することなく、三人の関係はいごも継続している。エルンストがシュルレアリスム・グループに参加したのは、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』(1924年)に感銘したからだから、これ以後のことである。

 つまり、ガラとポールの関係は、エリュアールとブルトンが出会う以前からあり、エルンストもまた、ブルトンと出会うまえからエリュアール夫妻と芸術仲間だったのだ。だから、第一次大戦終了(1918年)数年後にブルトンと知り合い、シュルレアリスム創設に参加したポールを経由してふたりは、創成期からのシュルレアリスムとシュルレアリストの主張と動向をつぶさに知っていたのだ。にもかかわらず、芸術・文学につよい関心をもつガラが、ポールと、のちにはエリュアールも参加したこのグループに加わらなかったのは、留意しておかなければならない。

 ロシア革命前に生活拠点を西欧に移していたガラが、ソ連邦ロシアとなった母国といかなる繋がりがあったのかわからない。彼女が所持したパスポートの国籍もどこだったかわからない。彼女の父はユダヤ系の弁護士だったというから、インテリゲンチャーやユダヤ人を排斥したロシア革命からナチス・ドイツの時代をつうじて、フランスとスペイン暮らしとはいえ、まちがいなく不安定な社会的身分にあったとおもえる。それは、のちに述べるアラゴンの「伴侶」エルザ・トリオレの状況だった。余談ではあるが、20世紀アヴァンギャルドの詩人、ギョーム・アポリネールも死の数年前までロシア国籍だった。そして、そのことがかれの芸術と生活に影響した先例もあるから、本論でも無視することはできないだろう。20世紀アヴァンギャルドは、第二次大戦後のアメリカ・アヴァンギャルドもふくめて、政治社会的に不安定な弱者と大きくかかわってくる。

 ダリと出会ったときのガラは、このような女性だった。文学・芸術へつよい関心があり、しかもアヴァンギャルド芸術を好み並はずれた行動力をもつ、確乎として自立した女性だった。アンドレ・ティリオンの回想録によると、美しい姿態で、だが、誇りたかく尊大で、柔らかみのかけた厳しい顔つきの女性だったという

(注.『革命なき革命家たち(Révolitionnaires sans révolution)』.ガラの写真は多数残っているが、とうじの仲間たちにこのように見えていたということである.)


 そして、彼女は、ポール・エリュアールやエルンストとの関係からも察知できるように、先端のアヴァンギャルド芸術や文学の実態と動向、ことにシュルレアリスムについては、最新の内部事情まで熟知していたのは容易に想像できる。しかし、そうではあっても、彼女がシュルレアリスムのイベントにさえ参加した記録はどこにもない。それは、シュルレアリストのサロンに出入りしながらも、シュルレアリスムとは一線を劃した独自の芸術観があったからかとおもわれる。

 そうした35歳のガラと出会ったときのダリは、26歳のそれなりのアヴァンギャルド絵画の実作経験があり、ブニュエルとセンセーショナルな映画制作もしていたが、マドリードやパリの短期滞在は別にして、故郷カタルーニア地方を離れたことのない、孵化していないアヴァンギャルド芸術家の卵だった。卵というのは、ガラやポールの目から見てである。

 そうしたダリとガラが、どのように惹かれあったのだろうか。たがいがたがいを選び、それによってたがいのそれまでの生活を一変させ、変更した生活を賭して、あたらしい生活にたちむかったようにおもえる。あたらしい生活とはかれらの芸術生活であり、現実社会に対峙するかれらの芸術生活である。言い換えれば、かれらの芸術生活のためにガラはダリを選び、ダリはガラを必要としたのである。

 そのときガラは、芸術上の位置からいえば、最先端のアヴァンギャルド芸術作品に精通した、評論家であり教師であり画商だった。

 そうしたガラが接したときのダリはまことに好ましい芸術家の卵だった。すぐれた画家の天性の才能と気質をもちながら、その能力を発揮できない、自己矛盾にみちた、独り善がりのみたされぬ青年だった。そうした状態が、かれを遠隔地からではあるが、シュルレアリスムに向かわせていたのだろう。

 そんなダリにとって、パリのシュルレアリスム社交クラブから来たガラは、このうえなく魅惑的な女性だった。スペインの生活環境からいって、女性アヴァンギャルド芸術家との親しい交際などは一度もなかったはずのかれが、最新の芸術事情につうじ、かれの作品を好意的に批評し、おそらくは大胆に、かつ、親身にみずからの意見をのべる彼女に、たちどころに恋愛感情をもったのは不思議ではない。ましてや同伴者ポールは、さきに見たような恋愛観の所持者であっただけでなく、のちに彼の妻となるニュッシュと行動をともにすることが多くなっていたというから、ふたりはほとんど制約なく、じぶんたちの感情を吐露することができたのだろう。

 そして、かれらの関係は急速に進展した。ダリにとってガラは、はじめて性愛関係をもった女性だという(注.前掲書)

 性愛は、ダリのブルジョワ・モラル観に関連する自己矛盾のひとつだった。ガラはそうしたことについて、かれの視野をひろげたとおもう。

 というと、まるで日本の大正時代の娼家小説や昭和小説の通俗テーマの焼き直しのように聞こえるかもしれないが、この場合はそうではない。愛と性愛の関係、愛における性愛は、シュルレアリストの愛の課題のひとつだった。性愛はシュルレアリスムの探究する対象だった。かれらは、グループ内で性愛についての討論会をひらき、この問題を継続して討議している。それは計画的におこなわれたイベントで、1928年から1932年まで継続して開催され、最初の2回分は終末期の『シュルレアリスム革命』誌に掲載されている。そして、ブルトンの手元に保存されていた未発表の討議記録は、今ではシュルレアリスム研究資料集のなかの『性に関する探究(Recherches sur la sexualité)』 (1990年刊)のなかで読むことができる。

 ポールやエルンストと「愛」の関係にあったガラが、シュルレアリストのこの探究をどのようなレベルであるにせよ、知っていたにちがいない。そしてそれを、芸術的にせよ、生活的にせよダリに伝えたのはじゅうぶん想像できる。

 そうした意味で、『性に関する探究』でシュルレアリストが語った、性欲についての考え方を、ここで記しても、あながち本稿の主意と離れることがないから、一部だけ紹介しておく。

 4年6ヶ月間にわたり不定期におこなわれた座談会は、テーマもあらかじめ定められず、各人がかってじぶんの関心ある性に関する話題を提供し、出席者全員がじぶんのこととして、かならずそれに答えねばならないというものだった。会は結果的に12回開かれていて、一回の開催で、性愛についてのなんらかのテーマが少なくとも10項目いじょうは語られたのだから、それだけでもほとんど全ての性愛行為が網羅されているようにみえる。

 また、出席者はその回毎に入れ代わり、12回すべてに出席したのはブルトンだけであり、その他の出席者はじつに多様である。参加人数も一定でなく、かならずしもシュルレアリストではない者が、シュルレアリストに連れられて出席したことがおおくあったようだ。とはいえ、赤裸々にじぶんの性について語るシュルレアリスムの集会だから、とうじのシュルレアリストに思想的にちかい人たちだったようにおもう。

 本稿で引用するのは、そうしたなかの第9回座談会(1930年11月24日)の約四分の一である。これを選んだ理由は、本稿でかかわってくるマスターベーションの話題であるし、ポール・エリュアールが出席しているからである。

 出席者は、「ボーエ、ピエール・ブリュム、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、ウーム、レナ夫人、ヴィクトール・メイエ、レモン・ミシュレ、シュニッツラー、シュヴァルツ、アンドレ・ティリオン、カティア・ティリオン、ピエール・ユニック、アルベール・ヴァランタン、シモーヌ・ヴィヨン」(ママ)とされている。出席者は15名で、男性12名、女性3名である。シュルレアリストはブルトン 、エリュアール 、ティリオン、ユニック、ヴァランタンの5名だけだ。のこりはティリオン夫人とヴァランタンのパートナーとおもわれるシモーヌ・ヴィヨンと、それに、シュルレアリスムの周辺にいた芸術家やティリオンが同伴したコミュニストの活動家とある。

 引用箇所にいたるまでに話された4項目と、引用以後の5項目の話題の提案者を列挙すればつぎのようだった。


[引用以前の話題]

(発話者)              (提案事項)

アンドレ・ティリオン ─ これまで、寝室から出ずに、最高何回セックスをしたことがあるか?

エリュアール     ─ セックスをしようとして不首尾に終わる状態を、どれくらいの比率で経験したか?

ブルトン                 ─ これまでに何人の相手とセックスをしたか? だいたいの数字は?

ユーム       ─ 今までに一番長い禁欲期間はどれくらいだったかを尋ねたい。セックスなしで過ごした最長の期間は?


[引用以後の話題]

 (発話者)             (提案事項)

アンドレ・ティリオン ─ セックスの前か後に、互いに触れ合うか?

ウーム      ─ 思春期を過ぎてから、同性の人物に対して性的魅力を感じたことがあるか、何度くらいあるか?

ヴァランタン    ─ 女性は二人の男性間の関係について、どの程度関心をもち、気にかけるものか、そしてどの程度までその関係を認めるか、その関係をどういうふうに想像するか? それから、二人の女性間の関係についてはどの程度認めるか、どれくらい実践したことがあるか?

          ─  (男性にも同じ質問)

レナ夫人     ─  あなたはいくつのとき初めて、1.体液を射出したか(原注.女性については初潮を問うものであろう.) 2.セックスをしたか?

ヴァランタン   ─ 何と言うか?

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  以下の引用箇所の最初の発話者名は、記録ノートに欠落していると原注にある。


   (提案者)                  

   [不明]   ─マスターベーションのときどんなイメージを思い浮かべるか?

アンドレ・ティリオン ─ いくつかのシーンがある。例えばまだ寝たことはないが、激しく欲望を感じている幾人かの女性を思い浮かべる。その女性たちが体のある部分(エロティックな)を見せている様を思い描く。そうでない二つの場合には、僕は愛する女性のことを思い浮かべた。勃起のしかたも年とともに変わってくる。17歳のときは、誰か一人の女性のことを思い浮かべながらマスターベーションしていた。今では、そういうはっきりしたイメージからは卒業して、夢にも似たメカニズムの作用を感じている。つねに快感を得ている。

ヴァランタン   ─ 最初は、愛した女性に吸ってもらっているところを思い浮かべる。マスターベーションの最中に、イメージが変化して、他の女たちの姿が漠然と浮かんでくるんだ。快感に達する瞬間に、初めの女に戻る。つねに快感を得ている。

エリュアール         ─  普通は、愛した女のことを、つまり妻のことを思い浮かべて、たいていは彼女がぼくとセックスしているところか、あるいは一般に(快楽のために)セックスをしているところを想像する。自分の性器を眺めるのも快楽だ。でも快感を得られずに終わることもある。普通は得られるんだが。快楽に達しなかったときには、下劣きわまる妄想がそれに続き、誰か女とセックスをしに出かけたくなる。でも、ぼくの答えはみんな計算づくで、嘘ばかりだよ。(注.原注では、まだ離婚していないガラのこととある.)

ブルトン              ─ さまざまな女たちのイメージが、消えがてに連続していく(夢、かつて知っていた、あるいは今知っている女たちだが、決して本当に愛した女ではない)。だいたいにおいては、射精せずに中断してしまう。

カティア・ティリオン ─ 最後に答えたいわ。

ユニック      ─  13歳でマスターベーションを覚えた。第一段階では、女性のイメージなし。第二段階。最初の接触にもとづいて想像したイメージ(いくらかの女性とつきあったのちに)。第三段階。現実のシーンに関係するイメージ。性交のイメージはけっして思い浮かべない。主目的は、最後に訪れる体の反応にある。しかし、終わったあとに気が滅入るのがいやで、射精せずにすますこともしばしばだ。

メイエ       ─ 6歳と11歳のあいだで、最初に女性と触れ合った。それ以前は、ごく漠然と、頭で考えた性行為の(断片的)イメージ。以後、一緒に寝た女のことを思い浮かべたことは一度もない。16歳までは、性交のイメージ、そしてオーラル・セックスのイメージ。

シュヴァルツ     ─ 女の体をはっきり思い浮かべたことは一度もないが、はっきりイメージしなくとも、女性性器の影響をいつもこうむっていたと思う。現在では、自分の性器を見ながら、快楽はつねに得ている。愛した女のことを思いうかべることはけっしてない。現在ぼくの思い浮かべるイメージは、触覚に由来する、エロティックなイメージだ。

ブリュム      ─ 三段階。 1.最初の性体験までと、2.愛なしで関係をもったころには、想像上の女性のイメージ。3.愛を知ってから。愛していた女性のことを思い浮かべる。こういうイメージのなかで、ぼくは自分の想像する女性に同化する。三回に一回は射精を避ける。

シュニッツラー   ─ 二つのまったく異なるやり方だ。たいていは我がものにできなかった女性のイメージ。あるいは大勢での、エロティックなシーンを盛大に思い浮かべる(狂宴)。例えばプールや浜辺を舞台に。一方、触覚が大事な鍵を握るような、優しさあふれるシーンを想像することもしょっちゅうある。

レナ夫人      ─ マスターベーションするときに、わたしは大好きだった女性、つまりわたしの姉のことを思い浮かべながら、とことんまで快感を味わうの。

ウーム       ─  二つの時期がある。15歳から17歳までは、女を知らなかった ─ プラトニックな憧れはあったけれど。15歳から19歳までは、シュヴァルツが言ったような、ナルシス的なイメージ。それから、19歳から25歳にかけて、ある女性と知りあってからは、女をつねに犠牲とするような、サド的なイメージだ。そして、想像上の女性とのセックスを思い描くことは、つねに避けてきた。

カティア・ティリオン ─ 子供のころは、ふたつの性器を思い描いた。男のと、女のと。セックスについてまったく漠然とした考えしかなかったわ。自分で経験してからは、イメージを思い浮かべることはない。夢を除いては。男の性器が動くとこを想像したって、セックスをしているときのような喜びに達することは絶対できないわ。嫌悪さえ感じてしまう。

ミシュレ       ─ いつでも快楽をえているよ。女性と関係など持つずっと前から。イメージはなしか、最後の最後、射精の瞬間に。夢に似た、無意識状態なんだ。思い浮かぶ女性のイメージは、二人か三人を越えることはなく、別に知っている女性ではなくて、まあ偶然出会った女性というばあいもあるけど、夢の中で再会するというわけだ。

ヴィヨン       ─ するときは決まって、読書しながら。しだいに興奮状態になるの。男とのセックスを経験してからも、ずっと続けているわ。今では機械的に、さっさと済ますだけだけど。イメージは思い浮かべない。一種の無意識状態になるのよ。全然エロティックでない本を使ってやることもあるわ。


(提案者) 

エリュアール        ─ 異性の前で、隠すことなくマスターベーションをして、射精にまで至ったことがあるか?


ウーム       ─ 一度ある。

シュニッツラー   ─ しょっちゅうある。

レナ夫人      ─ しょっちゅうだわ。

ブリュム      ─ 一度も。考えただけで我慢ならない。

シュヴァルツ    ─ 二度。一度は暗闇のなかで。

ヴァランタン    ─ ほとんどいつでも。

マイエ       ─ しょっちゅう。

エリュアール         ─ しょっちゅうだね。

ヴィヨン     ─ 一度もない。それにそんなにすぐには済まないわ。耐えられないくらいの喜びですもの。

ユニック      ─ 何度か。一人の女性を前にして。

ミシュレ      ─ 一度もない。べつにそんな欲求もないし。

カティア・ティリオン  ─ 一度も。アイディアとしては悪くはないわね。

アンドレ・ティリオン  ─  二度ほど。一度は、ぼくの抗議にもかかわらずに、うんざりだったよ。二度目も同様。

ブルトン                ─ 幾度か。愛していない、ある女の前で。  

                                                  (『性に関する探究(Recherches sur la sexualité)』[野崎歓訳])


 シュルレアリストの性にたいする問題意識が、これだけの断片でも、あるていどまでわかる。背景にあるのは、性愛の関係なのだが、ここにあるのは、性(性欲)と性愛への真摯で実証的な探究である。(注. sexualitéは〈性欲〉と訳すべきだろう.)

 話された内容からいえば、60年代日本にかぎらずそれ以前でも以後でも、酒席の馬鹿話や、若者たちの真面目な打ち明け話でも、これくらいのことはいたるところで聞かれた話しだ。だがこのばあいはいささか事情がちがう。

 この試みは、1930年ごろのフランスの社会風俗を勘案すると、たんなる実証的探究というより、「反社会道徳」的な革新的企画だった。どのようにに革新的だったかは、1960年代日本のアヴァンギャルドと比較しすればあきらかである。シュルレアリストは公開することを前提にしておこなっていた。しかも、一回限りの企画ではなく、ブルトン保存の記録には、以下つづくとあったという。いずれにしても、シュルレアリストの目的をもつ継続企画だったのだ。その革新性は、日本のアヴァンギャルディストたちを参考人にすれば、すこしは分かりやすいかとおもう。

 ‘50~’60年代日本の文芸アヴァンギャルディストたちのなかに、このような座談会の候補者をさがせば、『芽むしり子撃ち』や『(続)セブンティーヌ』を書いた大江健三郎や、『仮面の告白』『鏡子の家』の三島由紀夫、『太陽の季節』の石原慎太郎らがいるだろうが、彼らでは、とてもおなじ工合にはいくまい。彼らが、彼らなりの話をすることはありえても、それは彼らの芸術や生活信条からではないだろう。なぜなら、誰ひとりとしてこのような「探究」を必要とした者はいなかったようにおもえる。彼らの描く性欲のシーンはアクセサリーであり、適当に書くだけで、正面から問題視する対象ではなかった。それにまた、彼らが自分自身の私生活に関連させて話し、筆名や実名で公開するなどありえないことだったろう。それが、シュルレアリストが遺した、ことさらに特異とはいえないこの記録の価値である。生活の変革を目標とする芸術運動であるシュルレアリスムの一貫性をあらわすものだ。


 そして、シュルレアリスムに憧れていたダリ についていえば、つぎのようになる。

 サルヴァドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネクが破りきれていなかった芸術家の卵の殻が、シュルレアリスムの生活を変革する性愛思想を身につけていたガラとの性愛関係のなかで壊れ、蠢いていた芸術家の頭部が外にあらわれたのではなかろうか。

 1929年、ガラと出会ったのちのダリの作品は一変する。セックスを人間本能とむすびつけるフロイト思想のオブラートにくるまれているとはいえ、『おおいなるオナニスト(Le Grand Masturbateur) 』とか『欲望の謎、わが母 わが母 わが母(L'Enigme du Désir, Ma Mere Ma Mere Ma Mere(ママ))』など、みずからの性欲を暗示する露悪的タイトルをもつ大作(110×150cm)が描かれはじめる。

 ガラとの出会の結果がもたらした最大の成果は、自分が自分であることの自信だろう。それによって、かれ生来の自己露悪願望がちゅうちょなく作品につぎこまれるようになった。

 ダリのこれまで空転していた芸術才能のひとつは、芸術家の必要条件である自己顕示欲だった。その異常なまでに過剰な自己顕示欲は、露出症ともいえそうな、露悪願望というか、自己暴露願望となっていた。かれ生涯の軌跡を展望できる今だから言えるのだが、かれのもっていたこうした願望は人なみはずれたスケールだった。

 性愛についてダリの考えが、おそらくガラとの恋愛関係のなかで一変し、この暴露願望が芸術願望と合体し芸術的に昇華されたのだろう。このような見方を完結させるには、1929年のこれら大作とセットで見なければならない。

 とくに「おおいなるオナニスト」(図版15)は、絵画構成からも、とうじの絵画界には存在しなかったような作品である。そのころはまだ新しい絵画だったキュビスム絵画にせよダダ絵画にせよ、何を描いているかはわからないにしても、何かを見せようとしている。描かれた何かを、これを見よと主張している。だが、ダリの「おおいなるオナニスト」は、鑑賞者にとっては、何を見せようとしているのかよくわからない。つややかな色彩のやわらかい塊のやや出たらめの横顔かとおもえば、その下部にはバッタがしがみついている。しかも、よく見れば、バッタの腹部にはアリが群がっているようだ。かとおもえば、舌舐めずりするライオンの頭が、ちいさく無造作に、落書きのように描かれている。遠景には、さらにちいさく、だがくっきりと、裸の男が石像と抱きあっている。そのほかにも、釣り針から垂れさがる肉片、不安定に積まれた小石やコルク栓、いたるところに点々と、なにかが描きこまれている。さらにによく見れば、正面のやわらかい塊の右方先端は、目をとざした裸の女性の上半身となり、その伸ばされた口元がむかうのは、パンツを履いた男性の下半身、布地ごしに垂れ下がったペニスである。画面一枚に、さまざまな規模のさまざまなものが、さまざまな技法で描きこまれている。



 図版15: ダリ「おおいなるオナニスト」



 このような鑑賞は、絵画鑑賞ではなく、隠し絵探しである。それが芸術になるのは物語的に絵探しをするからだ。そして、見る者に物語的絵探しの意欲をもたせるのは、キー・ワード、おおいなるオナニストがあるからだ。

 多重イメージで、見る者に鑑賞させる絵画は、フランドル絵画のボスやマニエリスム絵画にはあったが、印象派以降の現代絵画にはなかった。多重イメージだけでなく、物語としてひとに見させるのは、まさにこのキー・ワードによってである。このタイトルによって驚きの絵画、シュルレアリストの絵画になる。 


 しかも、この多重イメージにせよ、タイトルとの関係にせよ、それは見る者にむけて描かれたものではない。この開かれた窓のあるやわらかい形象、と目をとざした横顔は、ダリのアトリエがあったポルト・リガトの海岸の自然岩と自身の自画像のダブル・イメージだと評論家は解釈する。ダリの身辺にいた者はいざ知らず、鑑賞する者はそれに気づかなかったろう。ダブル・イメージの効果はほとんどおよぶことはない。むしろ、その効能は、制作するダリにむかって発揮されているようにおもう。

 かれが述べていた 二重のイメージ、すなわち、いささかの象形的解剖学的変形もなく、同時に、何らかの配列を示す一切のデフォルマシオンあるいはアノルマリテがこれまた欠如したまったく別のオブジェの表現 に達しえた、「鮮明な偏執狂的過程」が、彼じしんのなかで発動されているようにおもえる。

 つまり、ここで描かれているのは、かれの心にある形象である。かれの心象では、あのポルト・リガトの海岸の岩もじぶんの横顔も、「いささかの象形的解剖学的変形もなく、同時に、何らかの配列を示す一切のデフォルマシオンあるいはアノルマリテが欠如したまったく別のオブジェ」なのだろう。しかし、それは、鑑賞者には介入できない領域にあるダリのオブジェだ。

 そのように見ると、ダリのなかでおこっている偏執狂的容量の度合いは、さきの解釈がおこなった、海岸の自然岩とみずからの横顔のダブル・イメージに収まるものではなく、肌色と見えなくもない明るい色合いのやわらかい塊は、裸の女体であり、その先端にある鮮明に描かれた女性の顔は、他のいっさいのイメージを追いはらい、まごうかたない女性の恍惚の顔をうかびあがらせている。ダリのすべてを占有してしまうのだ。

 そのようなことに気づくと、これはいかに見てもガラになる。女性の首をのばし目をとじた横顔にいたる胸部の位置にある窪みは、結核治療をうけた手術痕と見えなくもない。

 描かれているのはガラとの性愛である。ポルト・リガトの海岸の岩陰の思い出か、奔放な夢想かはわからない。そんなことはどちらでもよいようになる迫力が、この絵画にはある。

 この迫力の由来は、ダリのひろがった性愛の視野ではなかろうか。それは、さきに引用したシュルレアリストの「性の探究」からあるていどまでは想像できるとおもう。引用したオナニーについての議論は、その討議はかれらの出会より後のことだから、直接は無関係だが、そこで語られていたものは手がかりになる。

 オナニーはだれしもがさまざまにおこなう性欲行為だが、ポール・エリュアールが過激に語っていたような、性愛表現になりうるものである。ガラを想ってひとりでおこなうオナニー、ガラの眼前でおこなうオナニー、ガラの手をかりておこなうオナニー、ガラによるフエラチオ、ガラとの性行為もまたダリにとってはオナニーだろうが、オナニーがこの性愛のすべてであるのは、とざされた目のガラによってあらわされている。

 『おおいなるオナニスト(The Great Maturbator)』である。マスターベーションの自画像を描いた20世紀画家は、エゴン・シーレ、クリムトとほかにもいる。彼らの作品と比較すれば、ダリの作品はまったくことなるものだ。かれらは、オナニーをする自画像を描いたのだが、ダリはオナニストたる自画像を描いたのだ(注.エゴン・シーレやクリムトの作品はインターネットで検証されたい.)

 しかも偉大なオナニストになったすべてが、ここには描かれている。ガラを愛し、ガラに愛される自画像であり、芸術家サルヴァドール・ダリの物語だ。

 こうした鑑賞のすべては、このタイトルなればこそ成立するものである。そして、このタイトルの絵画を制作することができるようになったのが、ダリがえたひとつの自信のあらわれである。

 この自信は、ガラとの性愛関係からえた視野のひろがりによって、もつことができたのだろう。

 そして、いまひとつの大作も、これとふかくかかわってくる。『欲望の謎、わが母 わが母 わが母 [L'Enigme du Désir, Ma Mere Ma Mere Ma Mere(ママ)]』(図版14)は、1929年にパリのゲーマン画廊ではじめて開いた個展出品作であり、かれのはじめて売れた作品である。この年の夏、ゲーマンはポール・エリュアールに推奨されて、かれらが滞在するカダケスへダリの作品を見るために訪れ、自分の画廊に展示することにした。それによって開催されたのがあの個展だったのだろう。制作が来訪のあとだったか、制作中だったのかわからない。しかし、カダケスでのガラとの出会後であり、その出会いが喚起した最初の大作だったのはたしかだ。この作品は、後年、ダリが、みずからが好む作品に自選した10点あまりの作品のひとつとなっている。そしてまた、「おおいなるオナニスト」へ、アート的にも内容的にも連鎖し、発展する作品である。



図版14: ダリ「欲望の謎 わが母 わが母 わが母」



 海岸線のみえる砂地にオブジェが横むきにあるほぼ同一の構図である。設置された岩石状のオブジェの左辺は、「おおいなるオナニスト」とまったくおなじ位置に、まったくおなじ顔が描かれている。だが、この顔は「オナニスト」よりちいさく、付属的である。しかし、窓のような二つの穴がひらいた、本体一面の窪みの約半数には、「わが母」と読める文字がある。このオブジェの左方中景や窓穴から見える遠景には、おもわせぶりなオブジェが描かれている。おもわせぶりとは、「おおいなるオナニスト」のように、その後、ダリの初期作品にしばしばあらわれるライオンの頭部、バッタ、短剣、卵、それに魚の寓話的形象の複合オブジェだからだ。ことにライオンの頭と卵は、この作品でもそこだけでなく、本体の岩盤オブジェ左辺の顔に対称する位置、右辺上方と、オブジェの右方前景にも再度描かれているから、たんなる思いつきでなく、ひときわ意味をもたせたものかもしれない。卵やライオンは「オナニスト」にも描かれていたし、これからのべる「ウイリアム・テル」シーリーズでもひんぱんにあらわれる。バッタ、短剣についてもどうようだ。

 しかも、この中景の複合オブジェには、裸の男の背中がみえる。背中というのは、これらライオン、バッタ、短剣に抗っているか、抱きかかえているようにみえることである。そして、傍には、これを見つめる、髪をなびかせた女性の顔がある。

 このように観ていくと、この作品も、「おおいなるオナニスト」ほど明晰ではないにしても、そのタイトルからして、なにやらおずおずと呟いているようだ。

 だが、それにしても、こうした細部はさておき、カンバス中央部をどうどうと占有した岩盤オブジェ、ことにタイトルに反映している〈わが母〉がいちめんに記されたオブジェは、どう解すればいいのだろうか。タイトル『欲望の謎、わが母 わが母 わが母』についても、〈欲望の謎〉と〈わが母〉がつづくのは気がかりだし、〈わが母〉が三たび繰り返されているのはもっとわかりにくくなる。

 わかりにくいというのは、とつぜんこれを観る、いまのわれわれにわかりにくいのであって、とうじのシュルレアリストたち、エリュアールやゲーマン、そして、ゲーマン画廊でこれを観た他のシュルレアリストやシュルレアリスム愛好家たちには、暗黙の了解があるタイトルだったのではなかろうか。だからこそ、個展会期中に購入する者があらわれたのではなかろうか。その了解は、欲望の謎母への欲望の謎である。フロイトのエディプス・コンプレックスのいう、父を殺し母と寝床を共にしたエディプスの「謎」である。じじつこのオブジェの左辺の顔は、「おおいなるオナニスト」で鮮明に描かれていた自画像の原型であり、右辺の上方では小さくはあるがライオンの頭が吠えている。〈わが母〉を中央においた、自画像と父である。きわめてわかりやすい構図になる。

 そして、この顔は横むきに描かれ恍惚として目をとざしてる。三たび呼ばれる〈わが母〉とあわせれば、母を想ってマスターベーションをおこなう自画像となる。

 しかしながら、背徳的なこのイメージは、たしかに、ダリが外向けに示したかったものなのだろうが、見かけとちがい、なにやらまだ口ごもっているようにみえる。現実のダリの母はかれが15歳のとき死んでいるから、この作品を観るわけはない。そればかりでなく、とうじは異端とはいえ最先端フロイト学説の防腐剤がほどこされているから、かれの個人的背徳性は、やや抽象化されている。

 だが、それでもなお、他方では、ダリ自身は、さきにしたシュルレアリスト的な解釈を、期待していたのもたしかとおもわれる。

 なぜなら、かれ自身が、つぎのような証言をのこしているからである。どの時期の発言か確認できていないが、しかし、背景にある宗教観から、キリスト教信仰に復帰した後年になされた、自作品解説ではないかとおもう。シュルレアリストの庇護をはなれ、独自の正当性を保証したかったのかもしれない。

 かれは、この作品制作中に一枚の宗教版画をみつけ、それからこの構想の確信をえたと記している。かれは書いている。


 ─ わたしはよく、快楽から母のポートレートに痰を吐きかける(spit)のだが、それについてまったく精神分析的な説明をえた。われわれは、じぶんの母親をこのうえなく愛していながら、彼女に痰をはきかけたいとおもう。だが、修道士たちにおいては、吐痰(expectration)は尊崇の印(サイン)なのだ。いまや、そのことをひとびとに理解させるのだ!

(注. 出典は不明.この項は、英語版Wikpediaによる.意味不明なところがあるが、引用符もあるから、信憑性はあろう.本論引用の意図は、ダリ自身がそのように説明していることである.)


 マスターベーションということばは回避しているが、いかにもそれを暗示し、それでいながら、この行為を正当化する両面性のある説明である。

 とはいうものの、このタイトルの「わが母 わが母 わが母」については、ツアラがダダ最初期に書いた詩篇、「わが暗闇のおおいなる悲しみ(The Great Lament of My Darkness)」からの借用とされている。この詩篇を筆者は照合していないが、ツアラのそのころの作品傾向からいって、性的イメージとはかけ離れたものかとおもう。ツアラのこのタイトルから類推すると、幼年期のツアラの母への呼びかけであり、充たされぬ愛の悲哀がしるされ、ダリはこの詩に忘れがたい共感をいぜんからもっていたのではあるまいか。この借用は、マスターベーションのリアリズムを希薄化させるが、なんらかの真摯な借用だったかもしれない。ダリのなかでは、〈わが母 わが母 わが母〉は自己の心を裏切るものではなかったようにおもう。

 だが、こうしたツアラ所縁のタイトルにせよ、いわば言わずもがなの説明は、他面では、シュールレアリスト的であろうとすることがあったようにもおもえる。1924年の初期シュルレアリスムには意図的に距離をとっていたツアラは、1929年のそのころ、ブルトンらに接近し、『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌に積極参加していた。ツアラの過去の実績からいっても、とうじのシュルレアリストたちのなかの重要メンバーだったのだ。ツアラ詩の借用はシュルレアリスムへの賛同である。

 それにしても、このダリ自身の画面上の〈わが母〉のあつかいは、やや不注意である。〈わが母(ma mere)〉は〈ma mère〉の誤記である。さらにまた、エディプス的にいうのなら、むしろ〈ママン(maman)〉とすべきところだろう。観客向けの、視覚映像とタイトルのあいだには、わずかな隙間があるようだ。

 しかし、一方では、このフランス語の誤記は、ガラがこの制作に関与していないのをしめしているかもしれない。学生時代、ガルシア・ロルカと親友だったほどのかれが記憶していた詩と独自のおもいが連鎖反応した末の借用かもしれない。こうしたことは、この作品『欲望の謎 わが母 わが母 わが母』は、ダリのはじめてのシュルレアリスムの大作なのだが、表面的に掲げている課題、エディプス的〈わが母〉は、ダリにとっては、実感のとぼしいシュルレアリスム指向の課題だったかともおもわせるのだ。

 かれに、この作品を制作させた動機、偏執狂的過程を作動させた動機は他にある。ガラへの想いである。ガラを暗示しているのは、中景オブジェに、女性像がさりげなく組みこまれていることだけだ。しかし、この女性像は複合オブジェで、ひときわ表情豊かに描かれている。画面上のほかの均整のとれた確信的描写に比して、この複合オブジェには偏執狂的衝動の気配がただよっている。さきにものべた、ライオンの頭、バッタ、卵、短剣をにぎる手という、以後の作品にも描かれることになる一連のシンボル形象が一挙にあらわれるのは、この複合オブジェがはじめてだったのではなかろうか。ガラとの性愛的出会いが喚起した衝撃と、それに起因する情念が渦動しているようにおもえる。

 わが母、わが母、わが母・・・・・を描く課題形象をとりまく群小形象は、左辺中景の複合オブジェを起点に左回りに自分の顔、卵、ライオン・・・・と、花飾りのようにとり巻いている。照り映えるこの花飾によって、わが母は、15歳のとき失った母ではなく、象徴的母になり、いまの母となる。

 ガラへの想いによって惑乱する自画像である。この惑乱は、左辺の顔に描かれたアリの群があらわしているようにおもえる。これら巣穴に群がるアリたちは、映画『アンダルシアの犬』では、満月に狂った男がみずからの掌に見つめていたものだが、巣穴にあるダリの頭脳を侵食ている。そして、そこから編み出された形象は、これからおこることへの緊迫した予兆なのだろう。「欲望の謎、わが母 わが母 わが母」 である。みずからにとっての「ガラの謎」であろう。

 そして、この作品は、おなじ年に描かれた、さきの『おおいなるオナニスト』へと発展する。それは、ガラとダリの現実関係と並行していたのかどうか、それはわからない。しかし、この年1929年後半期をすごすダリを、年譜的に語れば、つぎのようになる。

 ヴァカンスを終えたポール・エリュアールは、ガラをのこしてパリへ帰る。その後のガラとダリがどのような関係で何をおもい、どのような暮らしをしていたのか、そして、そこに、エリュアールがどのように関係していたのか、わからない。ダリだけでなく、ガラのなかでも、そして、エリュアール においても、いろいろなルビコン河が越えられたにちがいない。さまざまなことがいわれているが、彼らのことはわからない。たしかなのは、そのころダリが、『ポール・エリュアールの肖像』と題する作品を制作していることだけだ。図版16. 参考のため1933年制作の『ポールとガラ』図版17.もあげておく.) しかし、この年11月には、ゲーマン画廊(1929.11.20-12.5)での個展と前後して、ふたりは同棲生活にはいっている。既婚婦人とのそのような関係をとがめた父は、年の暮れ、ダリを勘当している。



図版16: ダリ「ポール・エリュアールの肖像」



図版17: ダリ「ポールとガラ」



 そうした状況下で翌年描かれたのが、さきに述べた『見えない、ライオンと馬と眠る女』であり、『ウィリアム・テル』にはじまる〈ウィリアム・テル〉シリーズである。

 〈ウィリアム・テル〉は、『ウィリアム・テル』(1930)、『ウィリアム・テルの老年期』(1931)、「ウィリアム・テルの謎」(1933)とつづくが、これらの作品に託されたものは、それぞれ異なるが、一貫してウィリアム・テルをタイトルにもち、のちにふれるように、同根の主張がこめられているようにみえる。

 ところで、この1929年の『欲望の謎 わが母 わが母 わが母』と『おおいなるオナニスト』から直結した、1930年制作の『ウィリアム・テル』は、つぎのような作品だった。(図版18.『ウィリアム・テル』)

 この作品には、「ガラへ(à Gala)」の献辞があり、最初の購入者はブルトンだった。それは、この作品が、ガラとの関係を、さきの三作とはちがった状況で告げるものであり、また、ブルトンも納得したシュルレアリスム作品ということで、ダリ作品ではエポックメーキングなものだった。



図版18: ダリ「ウィリアム・テル」



 この作品、タイトルのウィリアム・テルをまず探さねばならぬような絵画が、まず見せているのは、手に血のついたハサミをにぎった半裸の男と、顔をおおいながらかれを非難するように指さしながら、立ち去っていく若者のすがたである。イヴが不在する失楽園の光景だ。それに、かれらがたがいに指さしあう手の交叉は、システィーナ礼拝堂のミケランジェロが描いた天井画の指先を思いださせる。ここに描かれているのは、あきらかに父から勘当されたダリであり、その勘当をかれがどう受けとめたかということだろう。

 垂れさがったペニスを見せている男の脚に、よくよく見るとウィリアム・テルとしるされているところからすると、これがウィリアム・テルである父である。父の右膝が圧えている小函には裸の女性とペニスのような肉片がセットで描かれ、かつ、ウィリアム・テルが手にしたハサミに血痕があるのは、若者のペニス切断をしめしているのだろう。いかにも直截な勘当理由の説明である。禁断の性愛を犯した者の追放である。   

 若者のペニス切除が成功したかどうか、だれもが描く「失楽園」の、追放されるアダムの陰部がつねにそう描かれていたように、イチジクかブドウの葉っぱで隠されているから、わからない。しかしながら、周辺をとりまく情景は、「失楽園」にはそぐわない光景だ。

 まず、単純にそうなのは、左手上方の光景である。腐ったロバの死骸がのったグランド・ピアノがあって、そのピアノを足蹴にして天空に飛立つ白馬が描かれている。白馬のペニスは、テルとはちがい勃起している。そして、ピアノにむかい演奏しようとする男には、ライオンが顔をつきつけ、阻んでいるようにみえる。「腐ったロバ」自体は、同年創刊された『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌に掲載した、「腐ったロバ」の論考では、「美学的、人間主義的、哲学的等のあらゆる次元の恥ずべき俗悪な理想を越えて、われわれの自慰(オナニー)と露出症と犯罪と愛のあきらかな源泉へと導くすべてに役立つもののために、現実を荒廃と化すことに寄与しよう・・・・・」とされているが、ここでは、まだそうした意図はまったくないだろう。 

 腐ったロバがのせられたピアノは、『アンダルシアの犬』のワン・シーンであって、シュルレアリストたちのあいだでセンセーショナルな評価をえていた。これは、映画『黄金時代』(1930年10月上映.監督ブニュエル、脚本ダリ、キャスト.エルンスト、製作ド・ノアイユ子爵)の華麗なブルジョワ・サロンへ侵入する干し草荷車のシーンにも見られたように、ブルジョワ生活に挑戦し、破壊するシンボルとみるべきだ。意気軒昂とブルジョワ倫理を蹴飛ばして、自由な性愛生活にむかって飛び立とうというわけだ。あるいは、「シュルレアリスム」美学を武器にして、対抗しようというのかもしれない。

 そのようにみると、他の細部もにわかに意味をおびてくる。追放される若者の足元にある鳥の巣には卵がならんでいる。すでに卵は産まれているのだ。あとはふたりでおこなう孵化だけなのだろうか。また、さきの裸女とペニスが、函入りなのは、とじこめて逃げないように蓋しておくという、父が失敗した試みの表現かもしれない。源氏物語絵巻の物語表現だ。

 連作絵巻とするなら、『おおいなるオナニスト』や『欲望の謎』にも描かれていた「卵」も、物語におけるエピソードのような、表現単位となる。「卵」は産まれた性愛の孵化をまつ表現かもしれない。性愛から愛が孵化するのは、現実=具象的にも抽象=観念的にもとうぜんのなりゆきである。そして、また、「欲望の謎」にあった短剣、「オナニスト」における垂れ下がった肉片や、目を閉じた女性が唇をさしのべる、ペニスをおおう下着に付着していた血痕にもそれなりの意味が托されていたのがわかる。

 そう考えると、このダリ・ガラ物語では、ひときわ見定めておかねばならないのはライオンだろう。ライオンは、『欲望の謎』にも『おおいなるオナニスト』にも描かれていたし、〈ウィリアム・テル〉シリーズの他の作品にも出てくる。常識的には、父のシンボルのようだ。だが、作品『ウィリアム・テル』にもあったように、はたしてそうだろうか。

 「欲望の謎」にあらわれるふたつのうちひとつは、本体形象であるわが母の、左辺自画像の対極に位置し、口をひらき後方を見ている。対面していないのに注意しておかねばならない。いまひとつのライオンは、複合オブジェの頭部となり、女性像とおなじ左方向へむかっているようにみえる。「おおいなるオナニスト」では、ペニスにむかって首をのばす女性のかたわらで、女性と同方向に顔をむけ、舐めまわすように舌をつき出している。「欲望の謎」ではどちらともいえぬが、「オナニスト」のライオンは、あきらかに怒りとか威嚇とはほど遠い顔つきである。無上の喜悦をしめす表情である。ライオンが牙をむき、攻撃的表情をみせるのは「ウィリアム・テル」のライオンだけだ。だが、このライオンが威嚇的なのは父らしきものにむかってである。

 このように網羅すると、ライオンの形象は父ではなく、ガラにあてはまることになる。そして、ライオンをガラだとすれば、かれらの関係のはじまりの制作かとおもわれる、さきの「欲望の謎」への見方が変わる。「母」をはさんで対抗する自画像ではなく、「母」の頭部がライオン、つまり、ガラとなる。オナニー、すなわち、至高の夢想にふける自画像が、「絶頂の瞬間」におもい描くのは、母なるガラとなる。しかも、この母はライオンでもある。出会いからすでに、ガラはダリにとってそうした存在になっていたのだ。『欲望の謎』、すなわち、欲望の不思議をおもい知らせた女性になっていたのだ。そのようにおもうと、複合オブジェがつたえるもの、ライオンの背に卵をかつぎあげようとする裸の若者、妨げようと脇からのびる短剣を握った手、そして、バッタ・・・・ ダリが伝えたがったものがすこしはっきりしてきた。やはり単純なシュルレアリスム絵画ではないのだ。1929年の出会い時から、ダリはガラに性愛の守護神をみていたのだろう。

 そして、この聖獣にみちびかれて、『おおいなるオナニスト』をへて、『ウィリアム・テル』にいたる。父の束縛へまず挑戦する。この守護神は、かれらの性愛を阻害する内的障害だけでなく、外的障害へも威力を発揮する。粗雑な解釈となるが、ダリの性的コンプレックスと、自己疎外をもたらす父親のブルジョワ家庭コンプレックスへの挑戦である。

 〈ウィリアムテル〉シリーズは、この最初の『ウィリアム・テル』だけでも、〈オナニスト〉、〈テル〉、〈アンジェラス(晩鐘)〉三シリーズのメイン・ストーリーであるダリ・ガラ物語の説明には、じゅうぶんだ。しかし、〈アンジェラス〉というメイン・ストーリーの第三ステージにうつるまえに、ダリ自身の生活革命にかかわることだけを、のこる〈ウィリアム・テル〉2作品から簡略に見ておこう。

 勘当によって行使された、父という、従来の生活環境の絶対的権力への反抗は、『ウィリアム・テル』が語るようにそれなりに敢行された。「父」への反抗の結末は、翌年1931年に発表された『ウィリアム・テルの老年期』(図版19)で語られている。



図版19: ダリ「ウィリアム・テルの老年期」



 「欲望の謎」「オナニスト」「見えない、ライオンと馬と眠る女」「ウィリアム・テル」四作品とおなじように、おそらくはカダケスの風景を背景に描かれた絵画だ。全体像はみえないが、なかば崩れた神殿の台座に立つ、下半身がカーテンで隠れた裸体群像が画題らしい。なかでも『ウィリアム・テル』にも描かれていた老人(?)が主題である。老人はいうまでもなく父なるウィリアム・テルだろう。

 素裸のかれはなにやら悲嘆にくれている。そして、とりまく六人の裸女たちの悲しみ方からすると、性的な悲嘆のようだ。しかも、テルのバストにある、ひときわ豊満な乳房から察すると、嘆きのもとは、どうやら性的男性の喪失らしい。

 このようにいうと、いかにも卑俗で、せいぜいのところ、virilité)の力の衰退が象徴する父権喪失を、もったいぶって語っているようだが、それはこの絵が真に語っているものではない。現にわずか一年間で、ダリの現実の父がとつぜん老人性不能症におちいること、沈黙の容認に転じたわけでもあるまい。さきの「欲望の謎 わが母・・・・・・」が、実在した母と無関係だったように、現実の父の衰退と屈服を語っているのでない。

 この光景が語っているのは、ひとつの権力の終焉を描くことによって、必然的にそれをもたらした新しい力の誕生を、自信をもって告げることである。それとて、声高に告げるのではなく、みずからのなかでの謳歌のようにきこえる。

 この絵の下絵には、宗教絵画「東方の三博士の礼拝」があのではなかろうか。それを確認するには、キリスト教の公現祭(エピファニー)を思い出さねばなるまい。キリスト教では、12月25日のクリスマスがキリスト誕生の祝日なら、それとセットになる、1月6日の公現祭は、神の出現を知った東方の三博士が、貢物をたずさえ来駕した祝日である。クリスマスがキリスト誕生を祝うのであれば、公現祭は、そのキリストの、神の子の公認を祝う日である。東方より來た三博士が、聖母マリアの膝に抱かれる幼児キリストにむかい礼拝し祝賀する絵画には、かずかずの名画があり、だれもが知っている宗教画のテーマである。

 東方三博士礼拝のすべての絵画では、幼児キリストと礼拝する三博士をとりまくひとびとは皆、よろこびに充ち溢れている。そして、東方の三人の博士たちは、各自遠隔の地から来たせいか、描かれているひとりは、通常かならず黒人である。

 この「ウィリアム・テル」でも、慶びと嘆きの相異はあるが、男性を喪失した老人を悲嘆にくれた女性たちがとりまいている。なかでも、右側に立って目だつ三人の女たち、背をむけてひときわ悲しむふたりは、ひとりは白い肌だがもうひとりは黒い背中をみせて泣いている。背をみせるということは、画家が色面を強調するためではなかろうか。肌の色からいえば、老人の股間に手をさしのべている三人目の女性の肌の色は、横に立つ女の白色とは微妙にちがう色調が選ばれているようだ。三人は、三様の肌の色をしている。

 だがこうした「東方の三博士礼拝」絵画との関連は、構図とか形態の絵画表現を問題にしているのではなく、発想的に、「公現祭」が、無意識的記憶によるにせよ、ダリの秘められた意図にあったのではないか、ということである。

 これは、〈ウィリアム・テル〉シリーズの冒頭作品『ウィリアム・テル』に、父なる神によるエデンの園追放の図が組みこまれていたことを思いださせる。そこでは、形態的にも「失楽園」絵画との関連は、なかばあからさまにしめされていた。しかし、これは、周辺に描かれていたものによって、キリスト教絵画をパロディ化すること、キリスト教を揶揄、嘲笑する反抗の絵画としても、映画「黄金時代」(1930年)がそうだったように、みえるものだった。とうじのシュルレアリストたちには、そのようにみえたにちがいない。

 だが、この『ウィリアム・テル』と『ウィリアム・テルの老年期』をセットにすると、すこし見方が違ってくる。エデンの園から追放されたアダムとイブは、追放自体を別の案件とすれば、とにかくかれらは人類の祖となっている。そして、「公現祭」で祝福されたイエスは、神の子、イエス・キリストとして承認されたのである。すると、アダムとイブをダリとガラに擬し、公現祭のイエスをダリに擬したらどうなるか。アダムとイブはかつて存在しなかった人間の祖となったのである。聖書が語る公現祭までのイエスは、誕生しただけであって、広く世のなかで承認されていなかったといえる。

 そうした公現祭を下絵にする『ウィリアム・テルの老年期』は、こうしたダリの無意識ともいえる秘められたよろこびと自信を、ひそかにあらわしていると言えなくもない。

 ここで出来事として描かれているのは、父の権力喪失自体ではなく、それを克服する新しい力の誇示である。力とは、たんなる思いこみではなく、それなりの効果を発揮することである。それは、シュルレアリストのなかで公認されたこともあろう。しかし、なによりも、これらいっさい、すなわち、父権衰退をふくめて新生ダリを見まもっているガラの公認だろう。

 父権というダリの旧来生活の権威への挑戦でもある、この 『ウィリアム・テルの老年期』でも、ガラの影はおおきく描かれている。カーテンごしに見えるライオンの影である。このライオンがガラなのはいうまでもなかろう。カーテンのむこうでは、ライオンが凋落する父権を監視しているようだ。しかも、影とはいえ、このライオンの影は画面中央いっぱいに描かれている。これはガラのいる新しい生活からの、色褪せたかつての生活の眺望である。

 だが、ここで描かれている〈ウィリアム・テル〉シリーズの核心ともいえるダリが公言する主張は、これでもなかろう。それがなんであったかを知るには、ガラとの同棲からはじめられた〈ウィリアムテル・シリーズシリーズ〉を収束させ、第三ステージに移るとき描かれた、1933年の最後の『ウィリアム・テルの謎』を見ておかねばならない。(図版20



図版20: ダリ「ウィリアム・テルの謎」


 描かれているのは、一見して、さきの二作品とはまったく異質なものだ。ハンチング帽のこの男は、とうじならだれが見ても、レーニンであるのはあきらかだ。チョッキを着てハンチング帽をかぶった男は、そのころレーニンを描くマンガの定番だった。この絵面(えづら)もまさにマンガの範疇にはいるものだ。のびきった男の肢体、帽子の庇(ひさし)までがのびて、支えの器具がいるほどだ。しかも、身体の左右は非対称である。右の臀部だけ長大化し、これまた支えを必要としている。履き物も左はサンダル、右は靴下のちぐはぐだ。彼がたいせつに抱えているのは、どうやら産着にくるまれた赤ん坊らしい。かろうじて自立した、不安定なあやうさと、いかがわしさが漂っている。

 ここまで見ると、ダリが見せたがったものが何か、わかったような気になる。

 直截にこれについて述べるまえに、いままでのことを集約し、これにつないでいくために、ダリ自身が、ウィリアム・テルについて語っていることを聞いておこう。それは、1942年に書かれた『サルヴァドール・ダリの秘められた生涯』の一節である。1942年のダリといえば、1935年ごろ再度あらためて政治への態度表明をしたブルトンらのシュルレアリストたちと行動を分かち、シュルレアリスムとの距離をはかりながら独自路線を公然とあゆみはじめていたころのことだ。

 したがって、1942年のここにしるされているものが、かならずしも1930年のダリの意図をそのとおりに示しているとはいえない。しかし、核心部分では、一貫したものがまだ反映しているとおもわれるから引用してみる。


・・・・勘当の身だった私が家族からもらったのは、ただ迫害のみだった。父にとって私が身近にいるだけで恥辱だったので、できることなら、彼は私がポルト・リガトに住めないようにしたかったに違いない。/ 勘当されて以来というもの、私は父の情熱的、食人種的両面感情(アンビヴァレンス)の特徴であるウィリアム・テルの林檎を頭上に載せていたが、こうした感情は遅かれ早かれ父性的復讐という先祖返り的、儀式的憤怒の弓を引いて、贖罪の生贄という終局的な矢を射ることに終わるものである。すなわち、農耕神サトゥルヌスが自分の息子たちを貪り食い、父なる神がイエスキリストを十字架につけ、アブラハムがイサクを生贄に捧げ、グスマン・エル・ブエノが息子に彼自身の短剣を貸し与え、そして、ウィリアム・テルが息子の頭上のリンゴを射たように、父親が息子を生贄にするという永遠の主題である。(足立康訳『わが秘められた生涯』 pp.349)(「」 以下は『La Vie Secrète de Salvador Dali』[1952年刊 フランス語版]にはない.)


 ガラとふたりでじぶんたちの自宅ともいうべきアトリエのあるポルト・リガトへ、帰って来たときの記述である。スペイン関連の故事一件をのぞき、あいもかわらず聖書や神話を多用する説明である。しかも、読み方によっては、かつて、自分たちをアダムとイヴやキリスト擬したように、ここでもおなじ論理が瞥見できる。それにまた、「自分の顎でわが子を貪り食うサトゥルス」は、ルーベンもゴヤも描き、ゴヤの描いたなまなましい作品もルーベンスの作品も、プラド美術館に収館されているから、ダリは一時期、恒常的にみていたはずだ。ダリの思考はいつもダリの名画の記憶によって組み立てられ、それによって表現されているようにみえる。名画とは、技術(アート)的模範であるだけでなく表現内容でも規範となるものである。『ウィリアム・テルの謎』の画像でも、ウィリアム・テルが赤子を腕に抱えているところからみると、ルーベンスやゴヤのサトゥルヌスがつよく念頭にあってのことだろう。ギリシャ神話によると、ゼウスの父神である農耕神サトゥルヌスは、吾子に殺されるという予言におびえ、5人の子供が生まれるとすぐに呑みこんでしまったと伝えられている。だが、ルーベンスやゴヤのサトゥルヌスは、いずれも吾子を「貪り食う」情景が描かれていた。

 そうした、1942年の記述と1930年代のウィリアム・テルの関係はひとまずわきにおき、ダリがはじめに描いた二作品「ウィリアム・テル」と「ウィリアム・テルの老年期」は、矢で射られた息子の立場から見た父親像であるが、あの、ふたつの作品だけの父子関係なら、わざわざウィリアム・テルと命名するまでもなく、父と子の相克として、いたるところにあり、また、さまざまな近代文学のテーマだった。

 ところが、ダリの記述がかかげる4例の父子関係を読むと、第3作目の「ウィリアム・テルの謎」にいたって、ダリが「ウィリアム・テル」とした意味がはっきりするようにおもう。ここに描かれているのは、さきの2例のようなダリの主観的なウィリアム・テル像でなく、客観的視点からのウィリアム・テル像である。やはりこれは、1918年のロシア革命によって、ソヴィエト・ロシアの建国を達成し、1924年に死去しいまや絶対的地位にあるウラジーミル・レーニンとすべきだろう。

 ウィリアム・テルも、たんなる弓の名人だっただけでなく、スイスの農民戦争の英雄だった。伝承によると、かれはみごとに息子の頭上のリンゴを射抜いたにもかかわらず、けっきょくは捕らえられ、護送中脱走し、オーストリア公国の代官ゲスラーを射殺した。これが契機となり、農民反抗は激化し、スイス独立が達成されたとされている。

 ウィリアム・テルの矢を射た行為は、アブラハムのイサクのように、息子を生贄にする行為だった。息子はどうなるのか、はたしてこれでよいのか、息子はどうすべきか、がダリの「ウィリアム・テル」が提示した課題とすべきだろう。だが、1930年の「ウィリアム・テル」は、父だった。そして、1933年では、レーニンは象徴であって、ダリの現実ではブルトンであり『シュルレアリスム第二宣言』であり、ことにブルトンの、芸術と政治のシュルレアリスムであるようにおもう。

 これら1930、31年と1933年のウィリアム・テルで共通に問題とされているのは、かれが共鳴し、ある意味では頼みにしているものでも、共感し期待しているからこそ、いっそうしなければならぬ反抗である。自分であるためにせざるをえない反抗である。

 かれは、シュルレアリスムの芸術、その芸術理論によってかれの「作品」は活路をみいだし、『ウィリアム・テルの老年期』が描いているように、父の拘束から脱することができた。現に、文学と芸術を一体化した芸術思想として扱うシュルレアリスムに出会う以前のかれは、ひときわピカソに憧れていた。シュルレアリストたちに直接出会うことなく、そこにとどまっていたなら、『おおいなるオナリスト』とか『欲望の謎 わが母 わが母 わが母』のような、タイトルと相乗作用する作品は制作できなかったろう。

(注. 同誌創刊号に掲載した、ダリの独自の芸術論、パラノイア芸術論も、『シュルレアリスム宣言』(1924年)のピエール・ルヴェルディーの「イメージは精神の純粋な創造物である。それは比較からはうまれえず、多少とも距った二個の実在の接近からうまれる。近づけられた二つの実在の関係がかけ離れ、しかも適切であればあるほど・・・・」からはじまり、「手術台のうえで、ミシンとコウモリ傘が偶然出会ったように美しい」を経て、『通底器』(1935年)などで語られている芸術論と、それをうるために狂気を良きものとする、ブルトンらの扱い方を知らなかったら、成立しなかった理論だろう。ダリにとってはシュルレアリスムは作品を編む縦糸だった。それがなければ、ダリの作品は、シュルレアリスム以前のかれの作品のように、各種アヴァンギャルディストのたんなるエピゴーネンにおわるか、ばらばらな作品の累積にとどまっていただろう.)


 しかしながら、ブルトンのシュルレアリスムは、『革命に奉仕するシュルレアリスム』創刊号巻頭に掲載された、モスクワ宛のあの電文「同志のみなさん/帝国主義がもしソ連邦に宣戦を布告すれば我々の立場は第三インターナショナルの方針に従うものとなろう/フランス共産党の立場である」であり、ダリ自身は心にもなく、無条件で『革命に奉仕するシュルレアリスム』に賛同するシュルレアリストだと名乗っているのだ。

 1933年のダリにとっては、シュルレアリスムへの全面的賛同は、ガラとともに活路を見い出しかけていたかれらの芸術生活を、束縛しかねないものだった。

 レーニンを語るときのブルトンは、かつての父のように、ガラとの芸術生活を阻害するものだった。父のとき阻害されたのは、ガラとの性愛生活だったが、ブルトンのシュルレアリスムの場合、阻害されるのは、ガラとの愛の芸術生活である。ダリ=ガラ共同制作による芸術生活を阻害するものである。単純にいえば、「帝国主義がもしソ連邦に宣戦を布告すれば我々の立場は第三インターナショナルの方針に従う」のなら、そこではダリとガラが育む芸術生活は不可能となるだろう。

 ここで云う推測上の懸念は、当時のダリとガラが軌道にのせはじめていた現実生活から述べているのだ。ダリの制作したシュルレアリスム絵画は、シュルレアリストたちやシュルレアリスムを愛好するノアイユ子爵だけでなく、コンテンポラリー・アートを好む新しいコレクターに購入されはじめていた。従来のシュルレアリスム愛好家を確実に魅惑し、さらに愛好家の枠をひろげはじめていたのだ。それによって、父に勘当されてもかれらの同棲生活はなんとか展望できるものになっていたのだった。ポルト・リガトのガラとの家を建てることができたのは、ノアイユ子爵がかれの作品を購入したからといわれている。

 そうした現実生活の背景のもとで描かれたのが一連の〈ウィリアム・テル〉シリーズだった。なかでも、『ウィリアム・テルの謎』は、芸術と政治を不可分とするブルトンのシュルレアリスムにたいするダリの認識と態度表明を、画像とタイトルでかれなりにおこなうものだった。〈謎〉についていえば、かつての「欲望の謎」と比較すれば、「欲望の謎」は、「わが母、わが母・・・・」によって「ガラの謎」であったが、「ウィリアム・テルの謎」は「の謎」「父の欲望の謎」に重複するものでもあった。そうした〈謎〉の緩衝地帯をもうけたうえであえて、レーニンらしき人物画、「ウィリアム・テルの謎」を描いたとおもわれる。

 大義をいだく父は、サトゥルヌスにせよ、わが子イエスをつかわした神にせよ、アブラハムにせよ ・・・・・ 吾子を生贄にするのである。

 ただし、これを書いたダリは、1942年のダリであるのは留意しなければならない。『サルヴァドール・ダリの秘められた生涯』 が書かれたときは、ソヴィエト・ロシアでおこなわれたスターリンの大粛清(1937-38)が、既成事実としてすでにひろく知られていたときだった。だから、ここにあげられている4例はいずれも、言外には、スターリンを、サトゥルヌス、神、アブラハム、そして、ウィリアム・テルに擬したものである。そして、レーニンもまた、ウィリアム・テルはスイス独立の英雄からのみ見られているが、ウィリアム・テルの息子の立場からみるべきという、この主張が奇妙な説得性をもつものになっている。だから、1942年のこの記述は、ダリの〈ウィリアム・テル〉シリーズの作品(1930~33年)には、正確には、該当しない。

 しかし、1942年の説明は、ダリの深層では、1933年の『ウィリアム・テルの謎』にも通底しているし、また、刊行されたほとんどすべてのダリの芸術論にもかかわるから、これが刊行された経緯をすこし述べておかねばならない。

 引用した日本語版『わが秘められた生涯』の原本である英訳版『The Secret Life of Salvador Dalí 』は、ニューヨークの The Dial Press から1942年に出版されている。ところが、フランス語版の刊行は1952年である。さきにもふれたが、近年さらに、『La vie secrète de Salvador Dali   Suis-je un génie? 』が刊行され、それによると、その原文テキストなるものはきわめて読みにくいもので、ガラの筆跡も多いとあるから、今まで刊行された英仏語両版のあつかいは注意しなければならない。だが、その検討はダリ研究者にまかすとして、本稿に関連するところだけを問題にしよう。

 同書の初出がこの1942年刊行の英訳版である理由は、あるていどまで推測できる。

 1942年は、第二次世界大戦のさなか、連合国側劣勢のときである。パリはナチス・ドイツに占領され、フランスはヴィシー政権下にあった。 パリのシュルレアリストは事実上活動を停止し、ブルトンらシュルレアリストのおおくは合衆国各地に滞在していた。デュシャンなどその他の芸術家についても同様である。

(注. レジスタンスの時代である.モスクワ宛電文をブルトンとともに執筆したアラゴンや、積極的にこれに賛同したエリュアールは、すでにシュルレアリスムと離別していた.アラゴンは、コミンテルン指示のレジスタンスに参加していた.エリュアールもその周辺で活動していたとおもわれる.)


 そうした世相のもとで、このような書籍がパリで出版できるはずはない。すでにこの執筆じたいが、フランスでの刊行を視野にいれていなかったと考えるべきだろう。元来、ポルト・リガト、パリ、ニューヨークを頻繁に往来していたダリとガラは、合衆国ではシュルレアリスムの芸術家として優遇されていたようにおもう。かれは、大戦開始直前の1939年4月にニューヨークで開催された万国博覧会では、パヴィリオンのひとつ、「ヴィーナスの夢」館のデザインを一任され、ガウディー調の、とうじのアメリカでは奇抜なファサードをもつ展示館を建設し、人気をえたといわれている。だから、この時局のもと、合衆国に生活基盤をおいていたのは不思議ではない。 

 そして、大戦中とはいえ国土は戦禍にさらされず、文化環境は維持されていた1942年11月のニューヨークで、ダリ生涯はじめての回顧展が開催された。37歳のかれの回顧展とはいささか奇妙におもえるが、展示されていたのは、絵画43点、デッサン17点のみとはいえ、翌年1月まで2ヶ月間つづいた合衆国8大都市の巡回展だった。しかも、その直前の同年10月から11月には、同じニューヨークで、ブルトンとデュシャンが共同企画した国際シュルレアリスム展、「シュルレアリスム帰化申請第一書類展」が重なって開催されているから、両展覧会の関係は微妙である。

 しかし、ダリ展に関していえば、それまでにかなりの愛好者をアメリカ合衆国でもつ画家だったということになる。そして、画家のばあいの愛好者は、芸術運動であるシュルレアリスムやダダとはちがい、作品の愛好者である。つまり、1929年以来のダリとガラの芸術生活をささえた、作品を購入する愛好家ということになる。しかし、それまでのダリ芸術は、シュルレアリスム芸術にむすびつけられていたから、このダリ展開催も主催者(企画者も主催者もダリの記述からはわからない.ガラが関与していたのではなかろうか)の意図は、国際シュルレアリスム展と関連させたところがあったにちがいない。そして、ダリとしては、特異な自主性のあるシュルレアリスム芸術家であることを示さねばならなかったのだろう。

 そうしたときに刊行されたのが、英訳のこの『The Secret Life of Salvador Dalí 』である注1。たんなる作品説明書ではないが、さきにのべた理由をふくめて、あきらかにこの出版は、合衆国でおこなわれたダリ展を契機におこなわれたのはまちがいなく、また、ダリにとって、将来をふくめたダリ作品の宣伝をかねていたのはたしかだろう。たしかに、コレクターにとっては、ダリの芸術観としてうけとられたのは事実だ注2

(注1.日本語訳『・・・・・秘められた生涯』は生活とすべきかとおもう.  注2. 翻訳本の解説では、瀧口修造や東野芳明がそのように理解していた節がある.) 


 こうした意図があったとすれば、その原本執筆がかならずしもダリではなく、ダリ・ガラ共同執筆でもなんらさしつえないはずだ。ダリの芸術生活を回顧するような、かれの幼年期からの生活報告も、かならずしも自伝的事実でなくてもよいだろう。通常の回顧録なら、著者は、過去のみずからの行為を想起するすることによって、そのときの自分を客観的に示そうという意図がある。だが、ここにはそうした意図はまったくない。そのときのかくあるべき自分を拡大して説明するために、過去の行為をあてはめるのである。〈かくある自分〉としたが、そうではなく、むしろかくある芸術家とすべきだろう。さらに言えば、かくあるダリ=ガラ芸術家となるかもしれない。

 そうしたことは、とうぜん作品説明にもおよんでいる。『ウィリアム・テル』『ウィリアム・テルの老年期』『ウィリアム・テルの謎』は、よく知られていたダリの代表作品だった。だから、これについても、1942年の時点から、なんらかの衝撃的で高邁な芸術的意味をもつ独自の説明をしなければならない。おそらく、それがこのわが子を貪り食うサトゥルヌスから、わが子を十字架にかけた神、イサクを生贄にささげるアブラハムをウィリアム・テルにむすびつける記述になったのではなかろうか。

 とういうのは、1952年に刊行されたフランス語版のLa Vie Secrète de Salvador Dali』では、引用の「」以降の当該記述は完全に削除されているのだ。そして、これにもまたそれなりの意味があったようにおもえる。

 1929年からダリと同棲生活をおこなっていたガラは、ポール・エリュアールと13年間維持してきた結婚契約を1932年に解消し、1934年にダリと結婚している。しかし、この離婚と結婚は民法上のもので、カトリック教聖職者によって承認される宗教上の結婚が、戦後、エリュアールの死(1952年)ののち、1958年におこなわれている。

 結婚とか離婚は、自由性愛を旨とし実践していたシュルレアリストたちにおいても、相応の意味をもつものだった。たとえばブルトンのばあいでも、シュザンヌ・ミュザールとの性愛から、おこなわざるをえなかったシモーヌ・カーンとの離婚が成立するには、双方の、おもに絵画コレクションをめぐる財産分与で紛糾し、かなりの期間を要したという。

(注. シュザンヌとの結婚は実現していない.1935年、ブルトンはジャクリーヌ・ランバンと結婚している.)


 ガラとポールのばあいでも、ポールが望む離婚ではなかったといわれている。ふたりのあいだでは、離婚後も、親密な書簡が頻繁にかわされているのだ。この民法上の結婚は、旧弊な社会環境で暮らすダリが望んだともおもえるし、あるいは、ガラ自身の希望ともおもえる。

 しかし、生前離婚を容認しないカトリック教による宗教的結婚を、この機にいたって希望したのは、ユダヤ教徒とおもわれるガラではなく、ダリ自身の願いだったのではなかろうか。1952年とうじのダリは、ガラのポートレートでもある『ポルト・リガトの聖母』と名づける宗教画まがいの一連の作品を、制作しはじめていた(1948-1949年)。これらの作品は、ダリ作品のそれまでの形象を周囲に配置したダリ絵画であるのはたしかだが、描かれている背景は、そのほとんどがポルト・リガトの風景を背後に描かれている。まるで、ダリ版の「ルルドの聖母マリア」である。日本の評論家のなかには、これを瀆聖の絵画などというものもいるが、その後、生じていることからみるとそれは適合しない。

 この絵画は宗教界で歓迎されたといわれるし、かれらの宗教上の結婚の翌年、1959年には、ダリはヴァチカンにおいてローマ教皇ヨハネス23世の謁見をうけている。そのさい、かれはキリスト教をテーマにする作品構想を語ったというが、これはダリ側の一方的な証言ではなく、おそらく事実だろう。ダリは、芸術家としてキリスト教カトリックに受けいれられたのだろう。筆者は十数年前ではあるが、システィーナ礼拝堂に隣接するヴァチカン美術館で、数点のダリ作品が陳列されているのを観た記憶がある。かつて、映画『黄金時代』で、ブニュエルをはじめ、エルンストたちシュルレアリストと、あれほどまでに衝撃的、かつ、侮蔑的にカトリック教をあつかったダリをおもいだすと、その格差に整合性をもたせるにはつぎのように思うしか仕方がない。かれの芸術作品と、著述発言、たとえば、「The Secret Life of Salvador Dalí」(1942)と「La Vie Secrète de Salvador Dali」(1952)だけでなく、「Journal d' un Génie」(1966)や「Oui」(1971)を緊密な補完関係にあるものではなく、むしろまったく別個の作品としてあつかわねばなるまい。これら著述作品は、造形作品を説明しない、独立した小説として扱うべきかともおもう。すなわち、小説のなかではいうことに整合性があり、それなりに読むべきところがあるが、それと現実の作品制作時の思想にはズレがあることである。

 そうした視点を加味しながら、この英訳版『わが秘められた生涯』についていえば、つぎのことが言えよう。

 独自性を主張しながら、反抗と狂気のシュルレアリスムを掲げていることである。独自性とは、少年期のエピソードからそのときの芸術生活にいたるまで、読者を動転させるように、オモシロ、オカシクのその過激な反抗ぶりを語りながら、慎重に、かつ、確乎として政治と一線を劃そうとするようにみえることである。ブルトンと異なるシュルレアリスムである。

 本論で引用した、フランス語版で削除された作品〈ウィリアム・テル〉シリーズを説明した箇所などもそれに該当する。「アブラハムがイサクを生贄に捧げた」ことは、神への絶対服従としてとうぜんの解釈だろうが、それを「父なる神がイエス・キリストを十字架につけた」ことにまで拡大して見せるのは、思想基盤のない非論理的アジテーターのレトリックだ。この削除の一節はそればかりでなくじつに見事なレトリックで構成されている。農耕神サトゥルヌスが自分の息子たちを貪り食ったのは、正確には、生贄ではない。わが地位保全のためにおこなった、ローマ建国のロムルス、レムス誕生神話をはじめいたるところにある逸話である。それをこのようにならべると、スターリンが暗黒裁判でおこなったのはまさにこの農耕神サトゥルヌスの行為だったのだから、労働者、農民の国、ソヴィエト・ロシアを統べるスターリンを連想させる見事な表現である。

 だが、こうした効果をうちに秘めながらこれらの表現は、過激な印象を十分に発揮し、かつてシュルレアリストたちがパリで実行した、アナトール・フランス国葬のさい配布した、誹謗中傷のパンフレットの「ひとつの死骸」や「サン=ポル・ルウの夜会」の乱闘事件など、かずかずの伝説的事件をおもいださせるかもしれない。やはり、このダリ という画家は、あのシュルレアリストのひとりということだ。

 これを書いたダリ自身は、そうしたシュルレアリスト効果を意識していたにちがいない。なぜなら、これが記されている同書11章の文頭は、「わが闘争 ─ シュルレアリスム革命への参加と私の立場 ─ シュルレアリスムのオブジェ 対 夢の記述 ─ 批判的偏執狂的活動 対 オートマティス ・・・・」と列挙する副題がついている。しかし、「 ─ シュルレアリスム革命への参加と私の立場 ─ 」とか「 ─ 批判的偏執狂的活動 対 オートマティスム ─」と記されているにもかかわらず、書かれた内容は、かれがパリでシュルレアリストたちに出会ったころの、ダリ側からの、一方的な思い出話に終始している。おそらく、かれが書くか、しゃべりちらしたものをあとで意図的に編集したものだろう。

 とはいえ、この文節副題は、この章が、シュルレアリスムとの相同性を示すとしているのはあきらかだ。

 書き出しは、「わが闘争(mon combat)」として、contre)と味方pour)に区分した30組の項目が一覧表にしてならべられている。一部だけ引用すればつぎのようなものだ。

           

 意味があるような、ないような組み合わせの列挙だ。基準がどこにあるのか、支離滅裂で、とらえどころがない。

 しかし、支離滅裂の狂乱のかげにかくれて、意外に冷静なおもわくが見え隠れする。政治とか革命を敵視しているのは、まぎれもない事実だ。しかも、この敵、味方の一覧表に先立って、この章の副題のひとつが「シュルレアリスム革命への私の立場」とあるのだから、何をかいわんやだ。

 ダリがシュルレアリスムに参加したのは、『シュルレアリスム革命』がひときわ政治革命に近接した、第二期シュルレアリスムの『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌以降のことだから、私の立場は、政治と革命を削除したシュルレアリスムへの参加になる。

 それに、また、言いたい放題にもみえるこの一覧表も、一望のもとで全体像をながめると、意外なまでのダリ論理の筋道が見えてくる。

 ターゲットは、やはり、ブルトンだろう。ことさらにブルトンを苛立たせるように記し、また、他方では、ブルトンのシュルレアリスムを無視するようなシュルレアリスムの呈示のようにみえる。

 一覧表の標記「わが闘争」からしてすでに挑発的だ。「わが闘争」は、1920年代にヒットラーが書き、ナチズムのバイブルとなった書物のタイトルだ。ダリが、シュルレアリスム・グループから事実上除名されたのは、1930年代に台頭したヒットラーを讃えたことによる。

 ヒットラーの『わが闘争(Mein Kampf)』は、生い立ちからのべ、じぶんの主義、主張の形成を過激に、説得的に説明したものだった。この『サルヴァドール・ダリの秘められた生涯』もまた、幼年期からのはなばなしい逸話から書きはじめ、芸術家としての稀代の資質と野心をエピソード的にならべたものだった。あたかも、ブルトンが忌み嫌うヒットラーの著書のような芸術書である。

 そればかりでなく、芸術家の著書としては、じゅうらいの芸術家が書かなかったという意味では、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』に倣ったようなスタイルでもある。たとえば、万能の芸術家だった、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロも、現代のピカビアやデュシャンも、ピカソもまた、『シュルレアリスム宣言』にせよ「秘められた生涯」にせよ、こんなものは書こうともしていない。そのような見方をすれば、『シュルレアリスム宣言』(1924年)と『わが闘争』(1925、6年)には、芸術と政治の違いがあるとはいえ、多種様々な共通項があり、また、それに割ってはいった「わが秘められた生涯」のようにみえる。

 そうしたダリ自身がシュルレアリスムを追放された理由を、ことさらに思い出させるような枠組みのなかで、列挙されている項目もまた、けっして無邪気ではなく、意味深長である。

  集団─個人 /  政治─形而上学的考察 / 革命─伝統 / 哲学─宗教 の組み合わせは、あきらかにブルトンのシュルレアリスムの反対像を意識している。ブルトンは当初からグループ活動を計画し、仲間を集めることに専念した。そして、「(文芸)革命」を目的にしていたのはたしかだ。さらにまた、自著の「両宣言」でも、自分の主張を、ヘーゲルやマルクスの弁証法的唯物論を援用して哲学的に説明しようとしている。そのあたりのところを、個別にあげつらい、巧妙な反対像を提示している。たとえば、「形而上的考察」を味方にすると言いながら、「哲学」をとするのは矛盾するが、おかまいなしである。「政治」に対立する「形而上的考察」であり、「哲学」に対立する「宗教」である。

 そしてまた、 心理過程─夢 / 仏陀─サド侯爵 / 東洋─西洋 は、初期シュルレアリスの活動に密接にかかわりをもっている。

 「夢」は、ブルトンやシュルレアリストたちが、フロイト理論とともに関心をもち、『シュルレアリスム革命』誌や、その母体の『文学(リテラチュール)』誌でも、各人の「夢の記述」を数多く掲載し、探究してきたテーマだ。ブルトンは、『シュルレアリスム宣言』や『通底器』で夢の探究の必要性を詳細にのべている。ダリは、そうした「夢」を味方とするが、「心理過程(mécanisme)」 をだという。ここでは、ただ「メカ二スム(mécanisme)」とだけ記されているが、「心理過程」のことだろう。フロイトが問題にした人間心理のメカニズムで、無意識とか超自我をシュルレアリスムが注目したのを指すとおもわれる。シュルレアリストは夢の探究にあたり、フロイトやラカンの心理学を関連させたのだった。ところが、ダリとしては、それを一括してとすれば、我が身を敵とすることになる。かれが、じぶんの天才を発露させたパラノイア気質も、フロイトを依り処とし、ラカンがダリの作品を注目したことがあるのを、いたるところで誇らしげに語っているからである。だから、フロイトをとするわけにもいかず、やむをえず「心理過程(mécanisme)」をとし、じぶんの作品のテーマにもした「夢」を味方とする、過去とのつじつま合わせに苦慮した結果の表現となったのではなかろうか。ただ、かれがここで言いたいのは、ブルトンのいう「夢」ではなく、じぶんの「夢」のほうが芸術的だということなのだろうか。(図版21「夢」) あくまでブルトンらのシュルレアリスムに対抗するための、言葉じりにこだわった組み合わせにみえる。



図版21: ダリ「夢」



 つづく、「仏陀」の敵─「サド侯爵」の味方、「東洋」の敵─「西洋」の味方、もほぼおなじようなものだ。若きブルトンがサドの存在を知ったのは、アポリネールに直接教えられたときである。アポリネールは独自の好奇心から、とうじはほとんど未知だったサドの著作を、フランス国立図書館の禁書室(chambre d'Enfer)で読み、ブルトンに教えたのだった。ダリがまだ、十歳前後の頃だったのではなかろうか。ブルトンは以後、サドに興味をもち仲間にも伝え、また、シュルレアリストたちも、はやくからサドについて語っている。ダリが知っているサドも、この系譜でえた知識だろう。

 ところで、この対句のいっぽうであるの「仏陀」は、奇妙な組み合わせではあるが、これは『シュルレアリスム革命』誌3号誌(1925年4月25日刊)にあらわれた特集記事あたりからでてきたのではなかろうか。

 これは、「牢獄を開け、軍隊を解散せよ」のアピールとともに、破綻寸前のヨーロッパ精神を指摘し、その救済をもとめて出した、五通の建白書のなかに、「仏教各派への手紙」と「ダライ=ラマへの建白書」がある。

 「仏教各派への手紙」はつぎのようなものだった。

 

 論理的「ヨーロッパ」はふたつの終末の槌のあいだで、さいげんもなく精神を打ち砕いている。それは精神を開閉する。だが、いまや、締め付けは頂点に達し、われらが馬具の下で苦しむにいたって久しい。精神は精神より偉大で、生の変貌はきわまるところがない。御身らのごとく、われらは進歩を拒絶する。来たりてわれらが家を打ち壊したまえ(・・・・・・・・)。来れ! われらをこれら蛆虫どもから救いたまえ。われらに新たな家を工夫したまえ!


  一読するとたしかに激烈な仏教徒礼賛であり東洋礼賛である。執筆は、アルトーだったとされている。しかし、ブルトンやシュルレアリストが、特別に仏陀を肯定したり、東洋芸術やシノワズリー(chinoiserie)やジャポニズム(japonisme)に興味をもったことは一度もない。とはいえ、ブルトンが、西洋を批判するとき、反対項にある東洋をひきあいだすことがあるのは事実だ。  

 しかしここで、ダリがこれをあげつらうのは、おそらく、1942年の合衆国という状況がかかわっているのではなかろうか。第二次大戦中のアメリカは、ヨーロッパでドイツと戦うと同時に太平洋では日本と戦っていた。戦争としては、真珠湾攻撃があっただけに、日本の方が身近な敵だった。そうしたなかで、ダリは、ブルトンとはちがって、西洋の側にあるシュルレアリストということである

(注. ブルトンは、1942年12月にエール大学に招かれ、「両大戦間のシュルレアリスム」[『野をひらく鍵』収録]と題する講演をしている。そのなかでその頃のダリを批判している.日時的には正確にはあてはまらないが、関係があるかもしれない. )


 このように、列挙されている敵、味方はブルトンを意識したものが多い。最たるものは、次項の「(敵)ご都合主義 ─(味方)マキアヴェリ的狂信」などだろう。「ご都合主義」は、1929年、分裂し、離反したシュルレアリストたちが配布したブルトン誹謗のパンフレット『ある死骸』のなかで、ブルトン批判の痛烈な根拠だった。ダリはそれにもかかわらず、ブルトンを支持したのだが、読んでいたのはたしかだろう。とすると、味方である「マキアベリ的狂信(fanaticisme)」とはダリ自身のことである。「マキアベリ的」を、「目的(利益)のための手段をえらばぬ権謀術策」と解するなら、けっこうユーモアもある自己認識になる。だが、これはまた、ブルトンのご都合主義のシュルレアリスム(芸術と政治のご都合主義の融合)にたいして、じぶんのシュルレアリスムは、「マキアベリ的狂信」のシュルレアリスムというのなら、それもまた、ひらきなおった言い分となろう。

 こうした、ブルトンへの奇妙な反抗は、さきの二作品「ウィリアム・テル」や「ウィリアム・テルの老年期」でみられた父克服の過程によく似ているようにおもう。父についてかれは、「父を満足させるには、父を私について絶望させるしかない。この絶望によってしか彼とのつながりはない」と記している。「彼とのつながりはない」を「ブルトンやブルトンのシュルレアリスムとのつながり」に置き換えれば、ダリとシュルレアリスムの関係がよくわかる。父の場合は、ダリを愛し、愛するがゆえにガラとの関係を断とうとしたと、ダリは一方ではおもっている(注.アンドレ・パリノー編 『ダリの告白できない告白』)

 ダリは父に反抗したが、父をかけがえのない存在にしていたのにはかわりない。そうしたことが、ダリとブルトン、あるいは、ダリとシュルレアリスムの関係にもあった。さきにも述べたように、シュルレアリスム集団に参加しなかったら芸術家ダリは存在していない。シュルレアリスムがダリにとって、そうしたであるのを、この奇妙な一覧表のこれまでの引用は、かれの意図とは別途に示しているようにおもう。

 しかし、抜粋した残る対句項目は、芸術行為についてだが、ここではいささか趣を異にした現実的自信の片鱗がみえる。

 最初の「野生のオブジェ─超文明的1900年のオブジェ」は、ダリ個人が制作したオブジェへのこだわりかもしれない。30年代初頭、シュルレアリスム・グループ内でまだ注目されたメンバーだったころ、かれは一点のオブジェを制作した。これはシュルレアリスム芸術史上で、のちまでのこる作品だった。(図版22



図版22: ダリのオブジェ



 ところが、すでにそのころから、コミンテルン寄りの姿勢をとりかけていたアラゴンの批判をあびた。批判そのものは他愛ないもので、真の批判は他にあったのだろうが、ブルトンをはじめダリを積極的に擁護するものはいなかった。おそらく、「超文明的1900年のオブジェ(les objets 1900 ultra civilisés)」という、この理解しにくいオブジェは、それを指すのではなかろうか。そして、「野生のオブジェ(les objets sauvages)」は、素朴なオブジェということで、「レディーメイド」の考案者、デュシャンのオブジェなどではないかとおもわれる。元来、ダリが、のちにもふれるが、デュシャンに対抗的なこだわりをもっていただけでなく、ここアメリカ合衆国では、はやくからデュシャンは神格化されたアヴァンギャルディストだった。そうした合衆国で、この敵、味方の区分は、どうしても明示しておかねばならないことである。ましてや、ブルトンとデュシャンの共同企画の「シュルレアリスム展」が眼前にあるだけに、いっそうそうなったのではあるまいか。

 そして、さらにつづく「アフリカ的現代芸術 対 ルネッサンス」 にはじまり、「ミケランジロ 対 ラファエロ」「レンブラント 対 フェルメール」とならぶ二組は、まさにブルトンらを無視する別世界である。ガラが関与して構築されたかれらの芸術世界ではなかろうか。

 「アフリカ的現代芸術(l'art moderne africain)」は、わかりにくい表現だが、20世紀アヴァンギャルド全般ではなかろうか。20世紀芸術が影響された刺激のひとつは、一般的にはジャズ、個別的にはピカソの『アヴィニヨンの娘たち』をあげるまでもなく、アフリカに起源をもっている。もっとも、ダリは、対立項に「ルネッサンス」をおいているから、そんな一般論ではなく、さしずめ造形芸術のことになろう。

 そして、ブルトンをはじめ、シュルレアリスムの画家、エルンスト、ミロ、タンギー、マッソン・・・・のことごとくは、とうじのヨーロッパ芸術教育の規範だったルネッサンス絵画、いっさいを認めていない。ブルトンにいたっては、ルネッサンス芸術を忌避するあまり、終生イタリア見物には行かないと公言したほどである(注.妻エリザのイタリア観光の同伴を問われたさいの返事.「アンドレ・パリノーとの対談」)

 しいてシュルレアリストのアフリカ的現代芸術をあげれば、エルンストの「フロッタージュ」やドマンゲスの「デカルコマニー」などもそう言えるかもしれない。

 そうした状況下で、ダリは、ルネッサンス絵画は味方だという。たんなる味方ではなく、ラファエロは「味方」だが、ミケランジェロは「敵」だと、あえて、その内部世界へ踏みこんだ評価をしている。その評価はルネッサンスにかぎらず、バロックにもおよぶ。レンブラントは敵だが、フェルメールは味方だという。クラッシック絵画全域がかれの芸術世界になっているのだ。まさに、シュルレアリスムはおろか、アヴァンギャルド芸術いっさいを無視するようにみえる。ダリのフェルメール礼賛は、このころからいたるところで語られ、のちには「レースを編む少女」の複製を用いた制作デモンストレーションをやっている。

 だが、これは、1920年代から30年代初頭のダリとは別人の感がある。1930年に公開された映画「黄金時代」では、荷車が侵入するブルジョワ・サロンのシーンでは、たしかサロンの椅子のうえに、開かれたフェルメール画集のあるワン・ショットがあったはずだ。とうじのダリが、シュルレアリストたちのなかで、フェルメールを称賛したとはとてもおもえない。こうしたダリは、仮面をかぶっていたのだろうか。そうではないだろう。ラファエロやフェルメールやゴヤを好むダリも未分化状態でとうじのダリを形成していたとおもわれる。そうしたとき出会ったのがガラである。

 ガラは、さきにも述べたように、シュルレアリスムの活動をつぶさに知りながらも、集会にもイベントにも参加しなかった。彼女が政治とブルトンらの芸術論と政治動向にいっさい関心をみせなかったのは、ガラを知っていたすべての者が証言している。これは、ポール・エリュアールが1927年にフランス共産党に入党していることからも、無関心というより、意図的、意識的であったのではなかろうか。

 彼女が故郷を離れたのち、出身地、ヴォルガ河畔のカザンが、共産主義国なったことはすでに述べた。彼女は、それから生じる、西欧圏での不安定な身分だけでなく、革新政治思想そのものに確信的に無関心だったのではなかろうか。しかし、他方では、彼女はポール・エリュアールと愛しあい結婚し、また、その後の行動から察しても、アヴァンギャルド芸術家や彼らの芸術につよい関心をもち、それに人生目標をおいていたのもたしかだ。

 ガラ自身に独自の芸術観があり、つよい芸術指向があったのはたしかだろう。それがダリとダリの作品にある共通感覚を察知し、共鳴したようにおもわれる。

 ミケランジェロを拒絶し、ラファエロを好み、レンブラントを忌避し、フェルメールを好むのは、当時としてはまだ新しい芸術嗜好にはいるだろう。ことにフェルメールの色彩に、19世紀のアヴァ

ンギャルディスト、ゴッホが着目し、プルーストが「デルフト風景」を偏愛したのは、新しい傾向として、芸術愛好家に注目されいた頃のことである。

 ラファエロについては、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチにならぶルネッサンスの三大画家のひとりだが、この三人にはそれぞれ特有の特徴がある。その特徴への好みが一致したのかもしれない。ダリのそのごの作品は、たとえば「六歳のダリ」(1950年)(図版23)などのおおくの作品は、三大ルネッサンス画家のなかでは、色彩の使い方とか主題への焦点のむすび方が、どちらかといえばラファエロ的である。



図版23: ダリ「六歳のダリ」 



 このように傲然と、アカデミック画家を選択してみせたのは、ガラとの共同芸術生活のなかで培われた新しいダリの芸術基準が、確信的になったからとおもわれる。ひとことで言えば自信である。

 一覧表をそのように見直してみると、ここにあるのは、ガラとのあいだで具現化したダリ=ガラ芸術の一覧表のようにみえる。同書の本文はダリ自身が語ったものをベースにしながら、枠組みはガラが加わったダリ=ガラ制作なのかもしれない。

 そうした意味において、やはりここで述べられているのは、ブルトンとは異なるダリのシュルレアリスムだろう。ブルトンのシュルレアリスムは、芸術を、思想形成と思想媒体としてあつかっていたが、ダリのシュルレアリスムは芸術を美術品としてあつかっている。ダリは実作者であり、ブルトンは詩人とはいえ、造形芸術の実作者でなかったから、それはなかば当然である。美術品の最大の価値は経済的価値である。なお、ここでいう「経済」は、通俗的に金銭価値としてもよいが、「人間の生活に必要な物を生産・分配・消費する行為についての一切の社会的関係」(『岩波国語辞典』)の意味である。社会的人間の生活営為では、ていどの差こそあれ経済価値をどこかで問題にせざるをえない。

 だが、誤解を避けるためにあえてつけ加えておくと、この「芸術」は、「作家ー媒体ー大衆」の狐拳三角形構造からみる本論の立場から云っているのだ。

(注. 現実社会における「芸術」の構造は「作家─媒体─大衆」相互的三角形の構造にあり、その関係から「芸術」を考察することはすでにのべた.[『百万遍』7号誌]


 だから、ブルトンは、シュルレアリスムにおいて、芸術を思想価値からあつかうといま云ったが、それはかれの芸術へのすべての対応を意味していたのではない。『シュルレアリスム宣言』や『シュルレアリスム第二宣言』での対応がそうだというのであり、かれもまた、美術コレクターのジャック・ドゥーセの美術顧問であり、のちには自身も画商だったのだから、芸術を経済価値からあつかうこともあったのだ。画商や美術顧問は、芸術の狐拳構造では「媒体」に軸足をおいた芸術家である。

 このように見ると、ダリ=ガラ・シュルレアリスム芸術のなかのガラは、ブルトン・シュルレアリスムで、「媒体」を演じたブルトンのような位置にいたのかもしれない

(注. ブルトンがペギーの依頼により、ペギー・グッゲンハイム・コレクションのカタログのために書いた『シュルレアリスム芸術の発生と展望』(邦訳名)などもこの範疇にはいり、経済価値と重複するところがあるということである.)


 もっと具体的に言えば、ガラのとった行動は、20世紀アヴァンギャルド芸術で、ペギー・グッゲンハイムにみられた行動であり、また、20世紀アヴァンギャル芸術特有の行動かもしれない。20世紀当時のアヴァンギャルド芸術では、ガラとダリの関係や、ペギーと、エルンストをはじめほとんど無名のアヴァンギャルディストとの関係だけでなく、デュシャンとティニー(アレクシーナ)の関係があり、第二次大戦後でも、ジャンヌ=クロードとクリストなどのように、たんなる恋物語ではすまされない関係がある。デュシャンにしても、ティニーに出会ったのは晩年であり、すでにそれまでに、かれの主要作品の制作は完了していたのだが、いま世界の大美術館でデュシャン作品が見られ、制作日誌などが現存する、現在の実質的デュシャン像が、芸術界に存在するのは、デュシャン ━ ティニーのペアーがあったからだとおもわれる。ティニーは、芸術感性ゆたかな女性であり、アヴァンギャルド芸術の画商ピエール・マチスの伴侶だったから、現代芸術の状況を知悉した女性だった。彼女は、デュシャンの生前では、かれの作品の管理や、画商たちとの連携を積極的に推進し、それまで文字通りホームレス暮らしだったかれの芸術生活を安定させた。デュシャンの最後の大作『落ちる水と照明用ガス灯があるとせよ』なども、この結婚がなかったら、ちがった作品になっていたかもしれない。デュシャンの作品に美術品としての価値をもたせたのであある。

 クリストのアースワークにしても、母国ブルガリアを出て、転々としてパリに来、ジャンヌ=クロードと結婚し合衆国で芸術活動をおこなわなかったら、堆積女性梱包にとどまり、あれほどのハプニング(興業)芸術を演じることはできなかったろう。かれ自身も作品署名は、クリスト&ジャンヌ=クロードとしている。彼女たちがいなかったらこれらの作品は存在しなかったということである。

 こうした現代芸術における彼女たちの位置は、正確には、すでに既刊の本論でのべた狐拳三角形芸術構造(作家ー媒体ー大衆)の媒体の位置にあるというよりもむしろ、「作家─媒体」が合体化した芸術家といえるのではあるまいか。(注.『百万遍』7号誌では、 ペギー・グッゲンハイムの動向についても、関連してのべている.)

 ことに、既成芸術のカテゴリーにはどこにもない、デュシャンやクリストの「現代芸術」の場合は、芸術家が制作と媒体の両性具有化していなければ芸術にはなりえなかったろう。芸術家を個人ではなく、集合体からみる見地が必要かとおもう。あるいはこれが、20世紀アヴァンギャルドのひとつの提案かもしれない。19世紀アヴァンギャルドは天才を見つけ、20世紀アヴァンギャルドが集合体に換言したというわけだ。

 このような視野に立つと、ガラは、出生と国籍環境の相違、資金力の有無にもかかわらず、20世紀アヴァンギャルド芸術において、ペギー・グッゲンハイムとおなじカテゴリーにはいるキャラクターにみえる。ペギーは、エルンストと一刻(ひととき)結婚したような、濃密な関係を同時代のアヴァンギャルド芸術家たちとむすび、アヴァンギャルド作品収集に決定的影響をうけている。ペギーとかれらの関係は、ガラとダリの逆転した関係とみえなくもない。それなくしては、ペギーはアヴァンギャルド・ギャラリストになりえず、ダリは現代芸術家になりえなかったのではなかろうか

(注. ダリとガラの晩年のことになるが、かれらは、Gala-Salvador Dali Foundationと複数のSalvador Dali Museumを設立している.)


 この俯瞰図のなかで、ガラと出会い、同棲生活を開始し、それに符合した最後の作品シリーズ、〈アンジェラス(晩鐘)〉シリーズは、ダリ=ガラ・シュルレアリスムのプロト・タイプの主張があきらかにあらわれている。

 このシリーズは、「夕暮れの太古回帰現象」(1933)(図版24)、「ガラとアンジェラス」(1933年)(図版25)、「ガラのアンジェラス」(1935)(図版26)、「ミレーの晩鐘の考古学的借用」(1933-35)「ミレーの晩鐘的構築物」(1933)などのタイトルをもつ作品群である。(注.タイトルについては、画集によって異同があるが、検証はしていない.)



図版24: ダリ「夕暮れの太古回帰現象」




図版25: ダリ「ガラとアンジェラス」




図版26: ダリ「ガラのアンジェラス



 これらは、いずれもミレーの「アンジェラス(晩鐘)」を題材とした作品である。

 これらの作品については、すでにあげた『サルヴァドール・ダリの秘められた生活』をはじめ、かれのおおくの著作で語られるばかりか、芸術論というべき『ミレーの「アンジェラス」の悲劇的神話 ━ 「パラノイア的=批判的」解釈』など著作が刊行されている

(注. それを集大成し解説つきの翻訳、(鈴木雅雄訳)『ミレーの〈晩鐘〉の悲劇的神話 ━ 「パラノイア的=批判的」解釈』[2003年]がある.)


 だが、これらの記述や論考は、どれも作品制作時の発言でなく、また、すでに述べたように、かれの主張は、ブルトンのシュルレアリスムと距離をおいた後では、おおきく変化するから、リアル・タイム即時性を重視する本稿では、視野の外におく。

 制作時が重なりあう〈アンジェラス(晩鐘)〉シリーズの一連の作品のうち,「夕暮れの太古回帰現象」(図版24)と、図版25、26の「ガラとアンジェラス」および「ガラのアンジェラス」のセットはことに緊密な関係にあるが、一方では、セット作品は図版24を補完する作品だ。

 「夕暮れの太古回帰現象」(図版24)は、シュルレアリストたちが歓迎しそうな作品だ。アカデミー絵画、ミレーの『晩鐘』の、シュルレアリスト的解釈である。だが、これは、デュシャンのレディーメイド、『L.H.O.O.Q.』(1919年)のダリ版といえなくもない作品だ。

 デュシャンでは、すでに語ったことがあるが、ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』の複製の顔に口髭を描き「L.H.O.O.Q.(elle a chaud au cul [彼女はおしりがあつくなっている])」とタイトルをつけた作品だった。

 とうじの欧米の先進的画学生にとって、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」とミレーの「晩鐘」と、アントワーヌ・ヴァトーの「シテール島への船出」の三作品が、もっとも目障りになるアカデミー絵画とされていた頃のことだ。

 デュシャンの「モナ・リザ」は、L.H.O.O.Q.による、モナ・リザのブラック・ユーモア的解釈である。ダリの『夕暮れの太古回帰現象』は、ミレーの『晩鐘』の解釈で、夕べの鐘を聴きながら敬虔に祈る若い農夫の男女が願っていることである。デュシャンでは、モナ・リザが考えていたのはおとこのことであり、情欲だったのだが、ダリの農夫が渇望しているのは、豊かな収穫だ。

 ダリの当初のアイディアで、物質的収穫がおおきなテーマだったのは、ミレーの原画と比較すればあきらかだ。(図版27 ミレー『晩鐘』)


図版27: ミレー「晩鐘」


図版24: ダリ「夕暮れの太古回帰現象」


 ミレーでは、収穫物運搬車は、祈る女性の足もとでなかば隠れ、車上にあるのは、空っぽどうぜんの袋数枚のようにみえる。これにたいしてダリ では、髑髏(しゃれこうべ)と化した男の顔の頭上に、まぎれもなく彼の思考のように描かれた運搬車だ。しかも、車には膨れあがった小麦袋が積まれている。貧困と餓死から逃れることを一心に祈っているように描かれている。もっとも、この骸骨については、かれの「ミレー〈晩鐘〉の悲劇的神話・・・・」の芸術論いがいでも、関連のありそうなものが、すでに1942年ごろ複数書かれている。

 かれの少年時代の思い出のなかにあるミレーの「晩鐘」である。少年ダリが通っていたカトリック系学校で、日々通過しなければならない正面玄関に架けられていた『晩鐘』の複製画だ。かれは、この絵にたくして、少年期にしばしばおそわれた不安を説明している。


  わたしは私のなかにひとつの莫とした不安が増大するのをゆるしていた。その不安は、ミレーの絵に描かれていた、おたがいの間に死の空白を介在させて、じっと動かずにいるふたりの人物から流れこんできたものだった。この悲痛な不安は説明不可能な怪物であり、わたしはそれを吐き気を催すまで実感するのだった。

(サルヴァドール・ダリ、アンドレ・パリノー (山根和郎訳)『ダリの告白できない告白』)


 だが、これは、〈アンジェラス(晩鐘)〉シリーズのなかのこの作品を、奇妙にズラしたところで説明しているのではなかろうか。しいて好意的に解すれば、「この悲痛な不安は説明不可能な怪物であり、わたしはそれを吐き気を催すまで実感するのだった」は、ダリが将来遭遇するものへの予感とできなくもない。

 これについては、のちにふれるとし、〈アンジェラス(晩鐘)〉シリーズのほかの4作品、ことに 『ガラのアンジェラス』と 『ガラとアンジェラス』はどちらも、ミレーの『晩鐘』らしきものが、どこかに描かれているところからみると、とうじのダリにとって、あるいは、ダリとガラにとって、喫緊の課題が托されていたのかもしれない。課題解消への祈りである。

 なかでも、図版24で強調されていた運搬車は、『ガラのアンジェリカ』(図版26)では、正面に描かれたガラがすわっている座席である。収穫物運搬車がいかに重要かをしめしているだろう。『ガラとアンジェラス』(図版25)では、ミレーの原画は背景に小さくコピーされているが、運搬車は描かれていない。だが、その代償のように、対面し、見つめあうガラとダリにおぼしき男女をドアから窺う奇怪な男が描かれている。男の頭にはオマール海老が載っている。この頃のダリ初期作品には、しばしば頭上に物を載せた男が登場するが、これは、おそらく、息子の頭に林檎をのせて矢を射たウィリアム・テルに関連させてのことだろう。とすると、この男は、伝説に添うならば、息子、すなわち、ダリとなるが、ダリ自身はすでに描かれているから、父親となるかもしれない。このような矛盾、錯乱の描出は、ダリでは常態であり、その効果が画面を活性化する、ダリ絵画の技法である。これをかれは、「パラノイア的ー批判的」技法のひとつとするのだろうか。

 ここでも、それは、真剣に、見ようによっては、深刻に見つめあうダリとガラを、邪魔するように窺きこむ父親が、高級料理、オマール海老をみせびらかして登場するのは、画面に緊迫感をあたえている。鑑賞者を、なんとなく、わかったような気分にさせるのだ。対面する男女だけの絵画なら、それがダリとガラであっても、主題や表現テクニックからみると、さほどたいした作品ではない。美術学校の優秀な学生ならだれでもが描けるような作品だ。アカデミー絵画の習作ていどのものだ。ところが、この化物の登場によって、俄然、画面は一変し、シュルレアリスムの絵画となる。

 このように、〈アンジェラス(晩鐘)〉シリーズのなかの 『夕暮れの太古回帰現象』の解釈を、気ままにひろげていけば、祈るおとこの願いは、飢えの回避であれ、物質的豊かさであれ、敬虔な感謝の祈りにはあるまじき祈願となる。そして、この背徳の解釈が、この作品が一義的にみせようとしている主張であり、シュルレアリストが悦ぶところだ。あらゆる宗教画は欺瞞であり、個人的利得のために描かれるという、シュルレアリスムの公理にもとずく、実証的な証明である。

 だが、この作品は、アカデミー絵画のたんなる欺瞞の告発だけではない。ダリ自身の真摯な祈りでもあるようにおもえる。

 祈るおとこの願いが物質的豊かさであるのは、まぎれもない事実だろう。だが、祈るおんなは、なにを祈っているのか。おとこの願いのように、マンガの吹き出しも描かれていない。また、補完作品である『ガラのアンジェラス』にも『ガラとアンジェラス』にも、直截な手がかりはみあたらない。ただ描かれているのは、どちらの作品でも、おもいつめた眼差しで、おとこ(おそらくはダリ)を見つめるおんな(すなわち、ガラ)の顔である。しかも、おとこは、どちらも背中であり、いかなる表情か窺い得ない。この二枚の絵は、まるでおんなの目つきを表現するために描かれているようだ。

 そのような参照をすると、『夕暮れの太古回帰現象』の顔をふせ祈るおんなの願いも、なみなみならぬもののように見える。

 祈るおんなのひだり腕には、紐か操り棒がつけられ、後方に繋がれているように見える。そして、原画のミレーの『晩鐘』では、遠くから聴こえてくるのは、カトリック聖堂からの鐘の音であるはずだ。

 つけられた紐は、おんながこれいじょうのおとこへ接近し、身を寄り添わせ、共に祈ることを妨げているのだろうか。アンジェリカの鐘の音は、教会の儀式の鐘にかさねることができるのかもしれない。聖職者が聖堂でとりおこなう結婚の誓いのときも、聖堂の鐘は鳴るのだろうか。おんなの願いはそれなのだろうか。

 描かれたとうじ、ガラはエリュアールと民法上の離婚はしてはいたが、まだガラとダリは、いかなる形式の結婚もしていなかった。カトリック教の戒律からは、結婚は不可能だった。そうした妨げをあらわす紐であり、祈りなのだろうか。だが、ガラ自身がこれほどまでにそれを願っていたとは、とうてい思えない。それならば、これは、ダリ自身の、あってほしいという願望の表現なのだろうか。

 そうでもあるし、また、そうでもなさそうなところがある。さもないと図版25と26のガラの眼差しが納得できない。

 ガラの眼差しは、ダリが書いた、あのおたがいの間に死の空白を介在させて、じっと動かずにいるふたりの人物にふさわしい悲痛な不安を凝縮させているものだ。表層的にそれは、「収穫運搬」の渇望にも、腕につけられた紐にもかかわっているようにみえる。

 結婚契約は、シュルレアリストにおいても、かれらの思想行動を妨げる、だが拘束されざるをえない意味をもつものだった。それは、たがいの経済保証をすることである。もちろん、夫が妻の保証をするという単純なものではなく、可能な者がおこなうものだった。それは、結婚生活にかぎらず、たとえば機関誌発行についても言えたものだった。それまでの彼らの機関誌は、提供可能な者が出資して、出版された。会費などなく、出資金皆無の者でも掲載してきた。それが、せめてもの彼らの、世間の金銭価値を軽視する証(あかし)だったのだろう。

 結婚契約でも、ほとんど同じだった。さきにのべた、ブルトンが、シモーヌ・カーンと離婚したのも、これにかかわっていた。ブルトンが、シュザンヌ・ミュザールと恋愛関係になったとき、彼女はエマニュエル・ベルルと結婚しており、無収入だった。そうしたシュザンヌが結婚をもとめ、ブルトンが応えようとしたのだった。

 ガラとポール・エリュアールの場合でも、それまでに、旅行先からパリに帰れなくなったガラへ送金することが、しばしばあったようだ(注. ベアール『アンドレ・ブルトン』) そして、また、この直後のことだが、ガラがダリと結婚したとき(1934年)、ポールは、ガラの生活をおもい安堵したという。

 そのようなエリュアールの態度は、さきの機関誌発行の譬えでいえば、刊行の資金提供と、じぶんの主張とそぐわぬ論考や作品が機関誌に掲載されることは別次元にあるといえば、説明がつくだろう。ガラは、エリュアールにとって、いつまでも理解しあえる仲間(camarade)、人生の同志だったのだろう。

 このような、かれらの状況を勘案すると、ここでの願いが結婚にかかわるとしても、あながち見当ちがいとはいえない。ことに、のちのダリの、シュルレアリストとは異なる、結婚へのこだわりを、すでにわれわれは知っているから、ダリが描いたこの絵画が、付帯的にそれを示しているとしてもさしつかえないかもしれない。

 しかし、図版Ⅱ および 図版Ⅲの、ガラのあの逼迫した眼差(まなざし)が見つめていた願いが、そんなものだったとはとうていおもえない。

 とはいえ、『夕暮れの太古回帰現象』(図版24)の、むかい合うふたりの間にあった死の空白を介在させた不安感の根元にあったものと、それはまったくの無関係とはいえないだろう。そのようにおもうと、おんなの腕につけられていた紐帯は、描いたダリの意にはそむくかもしれないが、結婚契約の絆というより、臍帯(せいたい)とみるべきかもしれない。他からの養分を補償する、臍の緒に繋がれているのである。

 臍帯はガラだけではなく、ダリにもまたついていた。父とつながれた臍の緒である。その紐帯を彼らの芸術によって、完全に切断できるのだろうか。ガラとダリ、それぞれがつけている臍帯を切りはなし、一体化し自立すること、ダリ=ガラ芸術を完成させることができるのか。その不安と恐怖が、この絵の、かれらのあいだいに介在する空間の緊迫感となっていたのではなかろうか。

 そのようにみると、図版24と同年に描かれた「ガラとアンジェラス」(図版25)の、奇妙な緊張感をあたえたあのオマール海老を頭に載せた化物の意味がそれなりに理解できる。豊かな物質的保障効果を邪悪にも確信しながら、覗き見をしているとおもえなくもない。そうしたことでは、かたわらの棚戸棚のてっぺんに並ぶ三体の石膏像も、ダリの一族のようにもみえなくもない。そして、なによりも、ガラがみつめる男は、なにやらおもい迷うようにうつむき、部屋の天井には、くらい影がながれている。ガラの眼差しは、そうした男をはたと見据えている。

 むろん、こうした状況は、これらが制作されたときのことではない。「夕暮れの太古回帰現象」と「ガラとアンジェラス」の制作は1933年、「ガラのアンジェラス」の制作は1935年としたが、この制作年時はたしかではない。だが、いずれにせよ、これらが作品化されたのは、父の反対にもかかわらずガラとの共同生活を確定させ、ダリ=ガラ芸術の端緒がつきかけた頃かとおもわれる。すでにのべた、政治への立場表明だったあの「ウィリアム・テルの謎」と、この「夕暮れの太古回帰現象」が、どうじに描かれていることからも、不確かながらも芸術的な態度表明だったようにおもわれる。苦難と苦慮のはてに到達した、自立したダリ=ガラ芸術の立場表明である。生活化されたダリ=ガラ芸術の立場表明である。

 この立場表明は、かれらの芸術生活打開の緒(いとぐち)でおこなわれた。そして、かれらはダリ=ガラ芸術を、それなりに展開することができた。シュルレアリスムの画家ダリ、とかドル亡者ダリとか、褒貶相反する評価をされた芸術家の芸術としてである。

(注. ブルトンが命名した〈avida dollars〉[avide de(à dollars]のこと.Salvador Dalli のアナグラムである.)


 だが、本論は、ダリ論ではないから、ダリ芸術についてはこれいじょうは述べない。

 ただ、ここまで語ってきたのは、とうじ、あるいはその後もふくめて、シュルレアリスム運動に参加していた実作芸術家たちが、いずれもなんらかのかたちで抱えていた共通問題を、事実上いかにダリがシュルレアリストとして克服しようとしたかである。それはある意味では、芸術運動からはじまったブルトンのシュルレアリスムのなかで、アヴァンギャルドの文学者になろうとしたアラゴン、エリュアール、そしてブルトン自身もまた直面し、矛盾したことしかいえず、曖昧にしてきた課題である。(注.ことに、ブルトンの大衆への視点に明確にあらわれている.)

 この問題は、文学者とはちがい、即物的作品によってのみ社会とつながる当時の実作芸術家たちにとって、いっそう深刻な課題だったから、ダリとガラがそれなりに克服しようとした試みは、本節のシュルレアリスムの動向の視点からだけでなく、20世紀アヴァンギャルドの遭遇した具体例として示しておかねばならないとおもった。

 それは、芸術の生活化の視点であり課題である。本論では、これまでにもしばしば、『百万遍』4号や5号で、アヴァンギャルド芸術における芸術の生活化の重要性について語ってきた。とくに『百万遍』4号に掲載した「第2章 デモ・ゲバ風俗のなかの『反芸術』(’60年代日本の芸術の状況)━ 3)トリスタン・ツアラの『ダダ宣言1918』とアンドレ・ブルトンの『反芸術』」では、芸術の生活化について、つぎのような初源的な提起をしておいた。


 現代社会における、芸術家と大衆の、作品を介する関係には、ここ(『ダダ宣言1918』)に書かれているように未だ正解のない問題があり、そのことがツァラの、このような思いつくままに感情まかせにかたる表現形式の言説であるからこそ、可能となってあらわれており、これが、「反芸術」にかかわるたいせつな課題であるというのが、筆者のいいたいことである。

 芸術家とは、現実社会では、職業であって、芸術(作品)によって芸術生活を成りたたせるものである。つまり、芸術の生活化が、現代芸術家の重大な課題のひとつである。そして、現代社会では、芸術家の作品は、大衆(マス)との関係によってしか、芸術作品にはなりえない。


 このことが、’60年代の日本をふくめて、20世紀のアヴァンギャルド運動では、結果的に克服すべき課題だったのは、’60年代日本のアヴァンギャルドのバブルがつぶれたとき、われわれが痛感したことだった。それは、文学者にもあったがとくに造形芸術家にとっては、無視してはならない課題とすべきものだったようにおもう。(より詳細な説明は、「4)‘60年代日本の『反芸術』[その2]』(『百万遍』5号)でおこなっている。)

 シュルレアリスムにおいてもおなじである。シュルレアリスム運動では、すでに述べたように、1930年の第二期シュルレアリスムのころから、ダリにかぎらず多数の実作芸術家が参加している。最初期から加っていたエルンストやタンギーだけではなく、フランスの内外から意識的に参加してきた実作芸術家によって、メンバーが増大し、アヴァンギャルド芸術界での「シュルレアリスム」の知名度は高まった。西脇順三郎を経由して瀧口修造がシュルレアリスムに関心をもったのもこの時期である。

 だが、そうした芸術家の参加にもかかわらず、ブルトンが『シュルレアリスム第二宣言』で提唱し推進しようとしていた、シュルレアリスム運動のなかでは、実作芸術家らの顕著な活動の痕跡はみあたらない。

 それは、歴史的に固着されたものになってしまった、現代のシュルレアリスムが、ブルトンのシュルレアリスムと芸術家のシュルレアリスムに、まるでふたつのシュルレアリスムがあるように処理されることにも反映しているようにおもわれる。

 すでにその兆しのひとつが、とうじのこのシュルレアリスムからあるのではなかろうか。

 しかし、ここまで検討してきたように、ダリ=ガラ芸術は、シュルレアリスムのなかで、シュルレアリスムがあったからこそ、しかし、それなりの困難と苦難のすえに誕生したのものである。とうじのシュルレアリストたち皆んなが歓迎した作品だった。すなわち、ブルトンはむろん、エリュアールやアラゴンらのシュルレアリストが標榜する「反体制」の作品とすることができたからではなかろうか。

 思想的には、それは反体制とはいわず、体制内主流に対抗する体制内反主流としか言えないものかもしれない。だが、実作芸術家には、体制作品か反体制作品しかありえないのだから、やはり、1930年代のこの時点では、実作芸術家の反体制行為としかいえぬものであろう。つまり、「反体制」ということでは、1930年のシュルレアリスムでは、あるところでは一体化していたのだ。

 それは、本稿ですでにのべた、単行本版『シュルレアリスム第二宣言』でブルトンが語っているアンケート回答でも、ふれられているところだった。

 ブルトンは語っていた。芸術作品は、「作家・芸術家自身の表現手段と不可分のものであり、完成をめざす作品を、彼ら自身のなかで、自分だけのために、きわめて特別な角度から考察することを彼らに強いるものである。その作品が、生命をもつためには、すでに存在している他(ほか)の作品との比較において位置づけられることが必要であり、ついで自分自身で、道を切り開かねばならないのだ」と、述べている。「すでに存在している他(ほか)の作品」とは、アヴァンギャルド実作芸術家にとっては、そのほとんどが「体制的」作品にほかならないのだが、それに反することをおそれず制作することからまず出発しなければならないとブルトンはしている。そして、そこから自分自身の道を切り開くのである。アンケート回答では、自分自身の道を切り開くのは、作家・芸術家の感性と誠実さの問題としている。

 ブルトンがここでいう「感性と誠実さ」は、コンテキストからは政治的なものだったのだが、それに限ることなく本稿に即していえば、このように解することもできる。芸術の感性豊かで誠実な生活化である。

 つまり、この時点におけるダリの実作芸術家としての行動は、原則的にはブルトンの1930年の主張に反するものではなく、現実的にはむしろ、ブルトンの主張を実作芸術家の立場からおぎなうとも考えられるのだ。

 ここではそのような見地から、ダリ=ガラ芸術の形成をひとつの具体例として検討してきた。

 そして、この検討は、1930年以降のブルトン・シュルレアリスムの動向、肥満し贅肉化した芸術派と政治派が分離していくシュルレアリスムをみていくために、おこなわねばならいものだった。

 さらにまた他方では、本稿の主題である、’60年代日本のシュルレアリスム理解が、いかにシュルレアリスム形成の根源を顧みない、表層的なものかを知るうえでの参考に資するためでもある。

  

 本稿は、またもや本論からは脱線しているのは承知している。次回は世界情勢のなかでのアラゴンやエリュアールらの動向に話をもどすことにしたい。


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