Anant 2-5-5-2

「ハリコフ(ハリキウ)の作家会議」から

アラゴン事件


Part 2



 そこでは、かれの顕著な行動力が発揮された。だが、シュルレアリスム自体はどうだろう。アラゴンの盟友、アンドレ・ブルトンをはじめ共産主義思想に積極的関心をしめす文化人集団であるのはたしかだ。シュルレアリスム自体の不確定性をふくめた確認と期待が、あの極端に一方的な「自己批判文書」だったようにおもえる。念のためにいっておけば、自己批判書の文面から察しられるのは、対象はアラゴンだけでなく、サドゥールも、さらには他のシュルレアリストも、フランス共産党側では射程内にあることである。1930年とは、シュルレアリストとフランス共産党との関係は、そうした微妙な時期ではなかったろうか。

 そればかりでなく、われわれは、ポリッツォティによって、アラゴン、エルザの訪ソ理由のひとつが、生活苦にあったことを知っているから、ここから漏れきこえるもので、どうやらさきに問題にした、国際革命作家同盟のメンバー就任と、アラゴン優待路線の成立が理解できる。くどくはなるが、これからのべることに関係するから、再度、確認しておく。「国際革命作家同盟」の評議員(だったかもしれない)アラゴンは、1932年設立の、作家同盟のフランス支部、「革命作家芸術家協会[AEAR]」の機関誌『コミューヌ』の常勤編集者に就任したのである。だから、この「自己批判書」にしても、アラゴンにとっては別の意味があったとも考えられる。

 しかし、そうしたことを、エルザの尽力もふめてすべてを、アラゴン自身がどこまで認識していたのかは不明だ。(知り合ってから3年足らずのエルザとアラゴンの間で、このようなことについて、どこまで意思の疎通があったのかわからない。) 皆無ではないにしても、アラゴンが関知しないものがあったのは確かだ。

 そうしたアラゴンとエルザのフランス帰着は、ポリッツォティでは、アラゴンはブリュッセルで途中下車し、サドゥールが先行してブルトンに報告したとされている。そして、あとから帰ったアラゴンにたいして、ブルトンは、モスクワ文書を再否認して、その間違いを公開するよう要求し、アラゴンは同意したとされている。ベアールのブルトンより、強硬なブルトンである。

 だが、この間にあったことは、ポリッツォティの記述からもよくわからない。ベアールではあいまいだった自己批判書についてふれてはいるが、おなじく内容は空白にひとしい。「モスクワ文書」とその誤りとしているだけだ。

  ポリッツォティはつぎのように書いている。


 ブルトンは、アラゴンが帰るや、この彷徨えるかれの秘書官にむかって、あのモスクワ文書の誤り部分を公開するようもとめた。このときブルトンが期待していたのは、アラゴンがしぶしぶ書くのに応じたこの新しいステートメントが、シュルレアリストの内部結束を強化し、かれらの共産主義への変わらぬ友好的態度を証明することだった。だが、アラゴンの文面はきわめて漠然とした表現だったから、どちらの目的も達成されることはなかった。


 表面的にあらわれているベアールとの相違は、アラゴン評価である。ポリッツォティではアラゴンのシュルレアリスム離脱は決定しているように書かれ、ベアールではアラゴンの混乱とされている。そして、ブルトンについては、両者とも共産党へなんらかの期待があるとしている

(注.ポリッツォティでは、共産主義への期待とされ、ベアールでは言外ながら共産党のように読める.)


 経過については、ポリッツォティが詳細だが、解釈はベアールが近かったのではなかろうか。

 ベアールでは、さきにも問題にしたように、「たとえ党の文化組織で仕事ができるようにするためだったとはいえ、どうしてあの二人は党の規制を受け入れたりすることができたのだろう、とブルトンは自問した」と書かれ、そして 「『革命的知識人へ』と題された宣言文で申し開きするよう求め」たとある。ポリッツォティとベアールが書いているのは、事実としては大差ないが、ニュアンスでは相違がある。ベアールでは、「どうしてあの二人は党の規制を受けることができたのだろう」とあり、しかも、直接アラゴンに問い質したのではなく、「自問した」とある。そして、つぎの段階、「『革命的知識人へ』で申し開きする」ようにとある。ポリッツォティでも、そのあたりはおなじだが、あのモスクワ文書の誤り部分の公開とある。つまり、フロイト評価とか、ヘーゲル援用とか、トロツキー傾倒とか、狭義の項目に限定したものだ。

 ベアールのブルトンも、とうぜんこれはふくむのだが、そうしたこと一切についての党の規制を問題にしているのだ。問題にしているというより、むしろここでは、危ぶんでいると言ったほうが正確かもしれない。

 だが、両者とも、記述自体は、きわめて不確かな内容である。帰着したサドゥールとアラゴンの報告が、どんなものだったのか、何をどこまで話したかについて、どちらものべていない。状況的にも原文をふたりが持参したとはとうていおもえない。「資料」の「自己批判書」がつげるものとはいささかことなる報告だったようにおもえる。「自己批判書」にしても、ポリッツォティではモスクワ文書としているし、ベアールはこの用語の使用には慎重だ。それにまた、「作家会議」でおこったことも、アラゴンとサドゥールが、具体的にどんな報告をしたかは、まったくわからない。(参考のために、これら3冊の刊行年度と出版社を掲げておく。資料(Tracts surréalistes et déclarations collectives 1922/1969 [Eric Losfeld. 1980])、Henri Béhar: André Breton, le Grand indésirable [CalmannーLévy. 1990]、Mark Polizzotti: Revolution of the Mind, The Life of André Breton [Da Capo Press. 1997]。資料の「Tracts」の刊行が先行しているにもかかわらず、両者とも「自己批判」書との関連に言及していないのは注意すべきだ。強いて言えば、ポリッツォティは受動的に「資料」の解説を使い、ベアールは、アクティヴに対応しているようにみえる.)   

 そのようなわけもあり、ポリッツォティとベアールの見解の相違の検討はこれくらいにし、両者がともに指摘し、現物資料が手元にあるものから、検討してみよう。ポリッツォティでは、「あのモスクワ文書の誤り部分の公開」とされ、ベアールでは「『革命的知識人へ』と題された宣言文」の申し開きである。                                       

 パンフレット「革命的知識人たちへ」(Aux Intellectuels révolutionnaires)は、つぎのようなものだった。


(1) モスクワでおこなわれているサボタージュ裁判が紛れもなく示しているのは、帝国主義がソ連邦へ仕掛ける戦争の意思である。それは、知識人がおちいりがちのいかがわしい役割をあきらかにするものだった。つまり、プロレタリアートの利害のため奉仕するとしながら、じつは反革命家に買収されているような場合のことだ。


(2) フランスでの戦いの前夜、この国の政府は、かつてはソ連邦と世界革命を非難し、今また妨害をつづけているのだが、反革命勢力は、『モンド』誌なる雑誌を、金の力で所持しているようなものだ。『モンド』誌というのは、政党をこえる活動領域を謳い文句に、組合主義(サンディカリスム)的共和主義者から社会民主主義者までにいたる、種々のファシストどもを利する行為を演じている。ここで問題にしているのは、正真正銘のサボタージュ遂行者たちのグループのことだ。彼らの訴訟では、これら破壊工作者の活動を粉砕すべく審理されなければならない。

(注. バルビュス刊行の週刊誌. 後出.)


(3) 「革命文学国際ビューロー」のアンケートにたいしてシュルレアリストはつぎのように回答した(注.詳細については、『百万遍』10号誌掲載) すなわち、帝国主義がソヴィエトにたいし戦争を布告した場合、シュルレアリストの立場は、第三インターナショナルの方針に完全に一致したものになるというものだった。シュルレアリストはさらにつぎのように言及している。すなわち、現在のように、非戦争的戦闘状況下では、革命に奉仕するためには、ことにシュルレアリストに適応した手段を行使せずにいるのは無駄のようにおもう。フランスでは歴史的に、シュルレアリストはブルジョワ知識人と対立しているのだ。シュルレアリスムは、弁証法的唯物論の原則に、いかなる保留もなく全面的に賛同しているから、シュルレアリスムの目的とするところは、プロレタリアートの目的自体といかなる点においてもことなることはありえないだろう。『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌のようなシュルレアリストの制作行為によって、いまシュルレアリスムを標榜する者たちは、この事実から、革命的知識人の団結(ユニオン)実現にもっとも益する資格もつ者たちである。革命的知識人とは、ブルジョワジーがみずからの隊列に組みこもうとしている警官的知識人に対立している知識人のことである。


(4) ある種の革命的知識人、ことにシュルレアリストは、ブルジョワジーに立ち向かう武器として、精神分析的方法を用いるにいたった。この武器は、歴史的弁証法を拠りどころとし、その適用を意図する者の手にあるときは、特に、ブルジョワジーがその周辺に張りめぐらせている防御をものともせず、「家庭」なるものを攻撃するのに有効である。精神分析は、シュルレアリストにとっては、インスピレーションのメカニズムを学び活用するのに役立つものだった。精神分析は、シュルレアリストのいっさいの個人主義的立場からの離脱の手助けとなった。精神分析そのものは、非難するとき根拠としてもちだされる異なるへ用いられたからといって、責任あると見なすことはできないだろう。フロイトのある種の後継者、いやおそらくは、今日のフロイト自身(1856~1939)もまた、 彼らが(ヘーゲルが、生涯を終える頃には、自身の方法を用いても、人間の老化いがいを表現しない、社会学的結論しか引き出せなかったように)、歴史的唯物論の再検討が可能で、精神分析がブルジョワ社会強化の考察に役立つとしていても、だからといって、精神分析の方法自体を告発するにはあたらない。この方法は、革命家にとっては強力な武器でありつづけている。


(5) 革命行為は、第三インターナショナル路線をはずれては可能ではない。トロツキー主義は、フランスではいまだ信奉者をもちつづけている。この状況にあっては、態度表明をしなければならない。第三インターナショナルの敵にたいしては、いかなる温情もいかなる手加減も、黙認できぬところだ。われわれができることとして、ここで次のことを断言しておかねばならぬと信じるのは、シュルレアリストがフランスで、革命的知識人同盟の実現で本質的な役割を演じられるとおもうからである。シュルレアリストたちのうちの何人(なんびと)も、トロツキー主義になんの愛着ももっていないこと、とりわけ、アンドレ・ブルトンが、第三インターナショナルに反対し、トロツキー側にあるとおもわせようとしておこなわれた、ブルトンの書いたもの数行の解釈は、常軌を逸した解釈であることの確言である。そのようなことは論外である。


(6) ソ連邦にたいする帝国主義介入の脅威は、革命問題の喫緊の課題である。革命的知識人が、プロレタリア階級の行動支援のため組織されねばならぬのは、この課題に照らしてのことである。1930年12月、ソヴィエト・ロシアから帰着したわれわれが、設立されたばかりの革命的芸術家・作家協会(Association des Artistes et Ecrivains Révolutionnires. AAER) に参加する必然性があったのはこの啓示からである。われわれは創設者に加わり、革命的知識人がこの協会に参加することを期待する。

 「革命的作家の発する一語ごとが、世界的な十月革命の闘いを喚起するように!」

        アラゴン、ジョルジュ・サドゥール

 (説明の都合上、各節の文頭に数字を付けた.)(前掲書[Tracts surréalistes et déclarations collectives 1922/1969])  


 配布された状況はわからない。掲載書の解説に、1930年12月配布とあるが、正確な発行年月日、部数、どのような形式で、だれに配布されたのかわからない。

 一読すると、思いこみのつよい、唐突な書出しのようだが、意外に慎重な配慮のうえで書かれているようにも読める。執筆はアラゴンとすべきだが、サドゥールの署名もあり、その後のサドゥールの行動に照らすと、実意あるものだろう。だが、これを彼らの「宣言」とすべきか「声明」すべきか、わからないような内容であるのも事実だ。

 主意は、過酷な現実の見地からみて、自分たちの行動とシュルレアリスムの行動がいかにその現実に一致しているかである。ただ、対象が知識人とあるところから、混乱がおこり、そのことがこの「宣言」、あるいは、もうひとつの「自己批判」とも言うべきものをわかりにくくしている。

 文頭第1、2節と最終第6節は、フランスと「革命」の現況であり、それへの対応の必要という前提である。


(第1節)(モスクワでおこなわれているサボタージュ裁判が紛れもなく示しているのは、)帝国主義がソ連邦へ仕掛ける戦争の意思である

(第2節)フランスでの戦いの前夜、この国の政府は、かつてはソ連邦と世界革命を非難し、今また妨害をつづけているのだが・・・・・

(第6節)ソ連邦にたいする帝国主義介入の脅威は、革命問題の喫緊の課題である


 記されている状況判断は、シュルレアリスト特有のいささかの誇張表現があるが、ロシアで実感したものによって、増幅された状況である。

 この状況でおこない、おこなうべきことをのべるというのだが、訴える対象である知識人が、ダブルイメージになっているのは否めない。真の焦点は「共産党」指導者にあるが、シュルレアリストが視野内にあるのもたしかだ。

 この宣言のわかりにくさのひとつは、このあたりの所為かもしれない。


 第1、2節自体は、ベアールでもポリッツォティでも問題にされたバルビュス批判についてである。

 「バルビュス批判」への反論は、アラゴンにとっては、核心的課題かとおもわれる。第1節では、名指しせずともバルビュス個人のことであり、第2節で、かれの『クラルテ』誌後継の『モンド』誌を、根拠をあげて公然と非難しているのは注目しなければならない

(注.『クラルテ』誌を廃し、『内乱(ラ・ゲール・シヴィル)』誌への移行はシュルレアリストの願いだった.[『百万遍』10号掲載の本論を参照])


 展開している論拠は、バルビュスは、知識人がおちいりがちないかがわしい役割を演じているということ。プロレタリアートのための文化活動としながら、実態はファシストを利する行為を演じているにすぎないにつきる。

 この主張自体は、ブルトンをはじめとするシュルレアリストの従来のバルビュス批判の根幹となんらかわるものではない。そして、「自己批判」で、アラゴンが犯した誤り、「フランス共産党のメンバー(同志バルビュスとカビー)の誹謗」に正面から反論している。反論というより、フランス共産党のバルビュス優遇を、「モスクワでおこなわれている裁判」に照らして、批判しているようにみえる。

 この解釈は、説明を要する。モスクワの工場サボタージュ裁判は、ベアールでは、「スターリンによる最も大規模な粛清のひとつ」とされているが、これはベアールの跡付け解釈である。1930年12月の時点では、「スターリン粛清」はまだ予兆レベルにあり、ましてや裁判中に、ベアールのような理解ができるはずはない。ただ、このバルビュス批判を、組合主義(サンディカリスム)批判にむすびつけ、「ここで問題にしているのは、正真正銘のサボタージュ遂行者たちのグループのことだ。彼らの訴訟では、これら破壊工作者の活動を粉砕すべく審理されなければならない」と結論しているのは、華麗な修辞だが、モスクワでおこっていることのなんらかの反映かもしれない。モスクワで、リーリヤ、オーシップのエルザ・グループから入手した情報をふりかざしたのかもしれない。ロシアで得た知識を後ろ盾にしたフランス共産党への反論はほかにもある。裁判にかこつけ、バルビュスについてフランス共産党にむけて語られる、「組合主義(サンディカリスム)的共和主義者から社会民主主義者までにいたる、種々のファシストどもを利する行為」などもそうだろう。これはスターリン主導の指導原理であり、フランス共産党も無視できない論理だった。

 こうしたことは、バルビュスの名指し回避にもかかわるかもしれない、フランス共産党への反論としては、アップ・ツー・デートな反論だったのではなかろうか。

 とはいえ、バルビュスが名指しされない、特殊事項に限られた記述が、どのように他のシュルレアリスト、ことにブルトンに、解されたのかはわからない。しかし、ブルトンに限って言えば、この「宣言」後のアラゴンらへの寛容な対応を勘案すると、なんらかの事前説明がアラゴンからあったのかもしれない。かれらが第一次大戦中はじめて出会った、陸軍病院勤務以来の長い交友関係からいって、ありえないことではない。

 そして、その説明には、ロシア出国にあたり署名した件(くだん)の自己批判もかかわっていたかもしれない。「自己批判」書については、その都度(つど)指摘したように、目的をふくめて実態のよくわからぬものだ。ベアールやポリッツォティにとっても同様らしいのは、すでにその扱いについて指摘したところだ。

 そのあたりのことが、アラゴンのこの「宣言」には、いたるところに露呈しているようにおもわれる。  

 文頭にこうしたバルビュス批判があるのは、「自己批判」の実態意味があらわれているようにもおもえる。党文化の立役者、バルビュスと対等、あるいは凌駕する意図である。

 ロシアで実践されていることを背景にバルビュスを批判し、シュルレアリストを正当化するのだ。事実、さきにものべたように、ハリコフの「作家会議」では、アラゴンのシュルレアリスム説明は、一刻とはいえバルビュスを凌駕し、非難させることができた。そして、結果的にバルビュスが復活したのは、シュルレアリストの共産主義文化政策への具体的関与が劣っていたからだ。このようなフランス共産党への配慮が、アラゴンのこのあいまいな記述になったのかもしないのだ。

 そうはいえ、やはり、第一、二節のこの解釈は牽強付会であり、そのようには読めないとされるかもしれない。たしかに、とうじの一般的な「革命的知識人」や、アラゴンと緊密な関係にないシュルレアリストたち(エリュアール、ダリらをふくめた)には、そうだったろう。しかし、1930年12月のフランス共産党文化指導部の知識人たちには、モスクワ裁判からはじまるこの表現は、それなりの効果を発揮したのではなかろうか。

 ブルトンがそれをどこまで承知していたのかは、わからない。しかし、「宣言」の各節を仔細に読むと、それまでのブルトンの主張が周到にちりばめられている。たとえ口頭であったにせよ、アラゴンのなんらかの事前説明があり、了解があったと考えられなくもない。

 これについては、のちにふれるが、アラゴンの自信は、フライング気味とはいえ、最終節にあらわれているようにおもう。「設立されたばかりの革命的芸術家・作家協会への参加」である。

 「革命的芸術家・作家協会(Association des Artistes et Ecrivains Révolutionnires. AAER)」というのは、アラゴン不在中の1930年秋、ブルトンとアンドレ・ティリォンが趣意書を書き、推進していた組織である。ティリォンによると、「革命的」という語を、「マルクス主義的倫理および哲学と両立する一切の倫理的、哲学的思想を包括する」と定義し、この組織の設立思想と目的は、「労働者のサンディカリスム組合運動と提携できる、文学、芸術、科学のある種のサンディカリスム(職能組合)の創設」であった。そして、この協会は、アヴァンギャルドから従来の芸術家にいたるすべての革命的傾向をもつ芸術家を結集することだった。

(注.『革命なき革命家たち(Révolutionnaires sans Révolution)』) 

 

 実践視点からいえば、ブルジョワ市場の独占に対抗し、「芸術家の独立」を保障する組合だった(注.1970年代日本の吉村益信がこころみた「アーティスト・ユニオン」はこれに似たものだろう.) 第一次世界大戦終結とロシア革命成立の混乱期から、1935年あたりから表面化する新たな騒乱期の狭間である1930年という、とうじの現実にそくした、ブルトンらの積極的な「共産主義」的対応だったようにおもう。

 ポリッツォティやベアールによると、これらは、つぎのように位置づけられている。

 ブルトンはこの「革命的芸術家・作家協会(AAER)」推進に専念してしていたが、アラゴンの言う、いつかはくるフランス共産党からの援助を期待して、中断した。しかも、ブルトン自身の関心も急速に減退していた。ブルトンは、ブルジョワ市場の脅威は、AAERが提供するつもりのまさにその共産主義機構の脅威の方がもっと恐ろしいことを知りはじめていたのだ。これは二年後にはさらに明確になった。『リュマニテ』紙は、フランス共産党後援の『革命的作家・芸術家協会(Association des Ecrivains et Artistes Révolutionnaires. AEAR)』の設立を告示した。これは、まさに名称からしてブルトンらの計画のレプリカだった。


 このような要約的記述は、その後の経緯からみると正しくもあり、また、仔細に行間から読むと、説明を要する大小の空白が各処にある。ささいな表現では、「アラゴンの言う、フランス共産党からの援助」とは、何であり、また、アラゴンが、いつ、どこで言ったものかわからない。

 (かれらの記述からそうは読めないのだが、)アラゴン帰国報告、あるいは、「宣言」執筆のアラゴンが語ったのだろうか。しかもそれによって、「急速にブルトンの関心が減退した・・・ 」とある。それなりの減退理由は記されているが、これまた跡付けにちかいものだ。真の理由は、「宣言」第1節にそれとなく示されているのではなかろうか。『モンド』誌を非難するにあたり、「政党をこえる活動領域を謳い文句に、組合主義(サンディカリスム)共和主義者から社会民主主義者までにいたる、種々のファシストどもを利する行為」と、アラゴンが指摘してみせたところだ。

 それにまた、ティリォンによれば、帰国したアラゴンはAAERに加盟するにあたり、かれらとかなりの討議をかさねたとある。(注.前掲書) すでにティリォンとブルトンによって定式化されていた協会(AAER)の活動方針について、アラゴンは難色を示したのではなかろうか。ティリォンは、それをアラゴンの加盟へのたんなる躊躇としか語っていないが、アラゴンにはことなる期待があったのかもしれない。

 むしろ、「革命的芸術家・作家協会(AAER)」設立に賛成し、それをバルビュスにとってかわる活路と見ようとしたのではなかろうか。そうしたことが、ブルトン、ティリオンの「AAER」促進断念に関係したのかもしれない。

 1930年12月のこの宣言から、「国際革命作家同盟」のフランス支部として「革命的作家・芸術家協会(AEAR)」が設立される、1932年までの2年間たらずのあいだに、従来のシュルレアリスム史としては、見かけのうえからは、おおきな変動があった。

 1931年7月にアラゴンが『世界革命文学』誌に掲載した詩篇「赤色戦線」を契機におこった「アラゴン事件」である。この事件によって、アラゴンとシュルレアリストとの関係は錯綜したものとなり、最終的には断絶することになる。ただし、この断絶は従来いわれているものと、本論はいささか異なる見方をする立場にあるから、のちにそれについてのべるにしても、1930年12月のこの「宣言」に関連するアウトラインだけは示しておく。

 1932年1月、アラゴンはこの詩によって告訴された。シュルレアリストは、擁護行動をおこし、『アラゴン事件』という非難声明をだして賛同署名を募った。そして、約300名の賛同者を得た。この結果にたいして、ブルトンは、1933年、『詩の貧困』を書いて、この詩篇自体は批判した。その文中、フランス共産党の文化政策について、シュルレアリスト内部にとどめておくべき出来事に、暴露的にふれるところがあった。アラゴンは、『リュマニテ』紙上でこの批判に反駁した。それを不満としたエリュアール、ダリら9名のシュルレアリストは『道化師!』と題する共同声明をだし、アラゴンとの断絶を宣言した。ただし、この声明には、ブルトンは参加していない。

 アラゴン事件と名づけられたこの出来事についての本論の立場は、つぎのようなものである。

 ブルトンの「(集まった賛同署名を指す)世論をまえにして」という副題をもつ『詩の貧困』の声明と、エリュアールら9名の『道化師!』によって、シュルレアリストとアラゴンの関係が完全に断絶したのではなく、真の断絶は、1935年の「文化擁護のための国際会議(大会)」後の『シュルレアリストが正しかったとき』の共同声明によって、表明されたものである。「アラゴン事件」について、まえもって指摘しておきたいのは、このようなことがあったにもかかわらず、「AEAR」は、「AAER」となんらかの関係があったとしか考えられないことである。

 さもなければ、一年半後の『リュマニテ』紙が、フランス共産党後援の『革命的作家・芸術家協会』の設立を告示できるはずはない。《Association des Ecrivains et Artistes Révolutionnaires. AEAR》と《Association des Artistes et Ecrivains Révolutionnaires. AAER》である。ベアールやポリッツォティは、シュルレアリストとは無関係としているが、これは同一とするのが順当な考え方である。

 もっとも、組織というものは名称ではなく機能という視点にたてば、『リュマニテ』紙が告示した《AEAR》と、《AAER》はおなじものではない。また、ベアールらがいうように、《AEAR》について、ブルトンもティリォンも、なんの相談もうけず参加も求められなかったのは事実だろう。

 だが、そのような視点でない観点から見ることである。これは、おそらく、アラゴンが中心になって推進し、現実化したものだろう。そのさい、アラゴンの念頭に、みずからも参加した《AAER》とブルトンらのシュルレアリストが存在していなかったとは言えない。

 というのも、作家(écrivain)と芸術家(artiste)の入替は、修正を提案した、あのブルトン、ティリォンの造形芸術作家を主対象とする企画意図からはなれるだけでなく、造形芸術には冷淡だったアラゴンの芸術観に適い、また、なによりも、アラゴン自身が「国際革命作家同盟」の支部名企画者にふさわしい同盟員だったからである。

 そして、こうした形式的類似性だけでなく、なにより指摘しておきたいのは、ブルトンらシュルレアリスト自身が、「革命的作家・芸術家協会(AEAR)」の現実活動に、異論もなく参加していることだ。

 翌年、1933年1月には、ブルトンは「AEAR」の文学部門のメンバーに任命され、機関誌『赤い冊子(feuille)』に協力している。同誌の執筆者は、バルビュス、アラゴンであり、『道化師!』の署名者だったエリュアール 、ペレ、ルネ・クレヴェールをふくめ、サドゥール、ユニックらのシュルレアリストだった

(注.ティリォン前掲書.)


 「アラゴン事件」があったにもかかわらず、シュルレアリスム行為としては、共産党との提携行動は、この時点では継続していたとすべきだろう。そして、その提携行動には、アラゴンにかぎらず、サドゥール、ユニック、クルヴェールらは積極的だったのではあるまいか。シュルレアリストとアラゴンの交流も、ベアールやポリッツォティが暗示するほど、「アラゴン事件」によって断たれたのでなく、なんらかの連携があったかとおもえる。ことに、1935年の『シュルレアリストが正しかったとき』までの、ブルトンとアラゴンの関係には、曖昧なところがおおい。むしろ、断絶は、「シュルレアリストが正しかったとき」からとすべきだろう。

 なお、『詩の貧困』と『道化師!』そのものについては、すでに掲げた種々のシュルレアリスム関係書で論じられているから、本論では、これらと別の見方をするとき以外は立ち入らない。

 そして、このように、「文化擁護のための国際会議(大会)」(1935年)までのシュルレアリストとフランス共産党の関係を見たうえで、アラゴンの1930年12月の『革命的知識人たちへ』を読みつづけると以下のようになる。

 「宣言」の立場と主要な提案は、冒頭第1、2節と最終第6節にあるようなものだったが、3、4、5節は、シュルレアリストがその状況下において、共産主義文化政策に貢献できることである。シュルレアリストが、今までおこなってきたこと、 今、おこなっていること、そして、今後できることの説明であり、弁明である。

 周到な配慮がみられるから、各節の解説をこころみよう。

 第3節は、アラゴンがハリコフの作家会議でも紹介した、刊行したばかりの『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌創刊号巻頭の電文を掲げ、シュルレアリスムの立場は第三インターナショナルの方針に一致していることをまずのべている(注.詳細は『百万遍』10号の本論参照.)

 つづけて、「シュルレアリストはつぎのように言及している。すなわち、現在のように、非戦争的戦闘状況下では、革命に奉仕するためには、ことにシュルレアリストに適応した手段を行使せずにいるのは無駄のようにおもう」と論をすすめる。記されているのは説明であって、シュルレアリストの行動説明である。シュルレアリスムは、ブルジョワ文化に対抗する「芸術・文学」であり、シュルレアリストは弁証法的唯物論に賛同し、ブルジョワ知識人と対立している。シュルレアリストが目的とするところは、プロレタリアートの目的となんら代わらない。したがって、シュルレアリストたるわれわれは、今後も革命的知識人の結集を具体的におこなう最適の資格と立場にある、ということだ。

 のべられているところは、今後やるべきことをふくめて、当時のシュルレアリストの政治的文化行動論として特別なものはどこにもない。

 しかし、「非戦争的戦闘状況下では、シュルレアリストに適応した手段を行使せずにいるのは無駄のようにおもう」は、ブルトンが書いた『待機する力』を思いださせるものがある。

 これは、1926年1月、『内乱(ラ・ゲール・シヴィル)』誌創刊をひかえ、最終号になるべきはずの『クラルテ』79号にブルトンが掲載したものである。しかし、1935年の『シュルレアリストが正しかったとき』の宣言を契機に、フランス共産党と断絶したシュルレアリスムの政治的立場を明確に定めた、ブルトンの論考集『シュルレアリスムの政治的位置』(1935年刊行)には収録されていない論考だ。そして、ブルトン生前のいかなる論集にも再録されなかった論文である。シュルレアリスムの研究家は問題にしていないが、とうじのブルトンが書いたものであったのにはかわりない。

 ブルトンはそこで、「ブルジョワ社会転覆」としての「革命」の必要と、その「革命」の直接手段にちかい「ブルジョワ思想の告発」が、それまでのかれの主張の中心だったのだが、『内乱(ラ・ゲール・シヴィル)』誌刊行を眼前にして、「革命」に関する議論を、「革命」のために何ができるかに主張を移動させていた。そして、そのためのシュルレアリストの役割を、文学、芸術を媒体として大衆の「宣伝・教育」にあるとした。つまり過激性のうすれた地道な「扇動」にあるとしたのだった。このような推移は、第三インターナショナルの当時はじまった見解に、わずかとはいえ移行させたようにみえるものだった。

 そればかりか、その移行は、主張自体より、「ロシア」あるいは「共産主義インターナショナル(コミンテルン)」に向けられる視線の熱さに表現されるようなものだった。そこでは、「われわれは身も心も『革命』に属している。そしてこれまでのところ一度も(共産党の)指図を受け入れなかったのは、『革命』を推進するひとびとからの命令にそなえるためだった」とか、「重要なのは、われわれにとって、絶望が、つねにわれわれにとって動機として認められてきたあの絶望が、新しい社会の門出では、やまるということである。ロシアに向けて、われわれの視線をむけさえすればよかったのだ」と、記されていた。まるで、1930年のアラゴンが、「ハリコフの作家会議」でのべてもよかったような表現である。

 そして、事実上においても、ブルトン、アラゴン、エリュアールらのフランス共産党入党がはじまったのだ。しかも、直後の『内乱(ラ・ゲール・シヴィル)』誌挫折を経てもおこなわれたのである。

(注.挫折にさいして出された『正当防衛』を経由してなお遂行された、シュルレアリストたちの大挙入党については、『百万遍』10号誌の本論を参照.)


 シュルレアリストと共産党との真の具体的関係は、1926年のこの時点からといえるだろう。そして、その流れが『シュルレアリスム革命』誌の廃刊をもたらし、1930年の『革命に奉仕するシュルレアリスム』にいたったのである。

 この視野にたつと、アラゴンの1930年の言動、および、この宣言の第3節に記されているところは、アラゴンのシュルレアリストであることをなんら逸脱しない。ブルトンにとっても、それ自体については、こと改めて異をとなえるものではなかったろう。むしろ、ロシア帰りのアラゴンがしめすフランス共産党との協調路線の展望に、なんらかの期待があったのではなかろうか。

 そうした見方を採用する方が、ブルトンの全体像を理解するうえでは必要かとおもう。  

 このような、ブルトンとアラゴンの同調関係は、第4節、および、第5節にいっそう明確にあらわれている。ことに第5節は、ブルトン擁護論と読むべきだろう。だが、それにいたるまえに、フロイトについてのべられた第4節を、まず見ておく。


電子版読者のため、原文を再掲載する。

(4) ある種の革命的知識人、ことにシュルレアリストは、ブルジョワジーに立ち向かう武器として、精神分析的方法を用いるにいたった。この武器は、歴史的弁証法を拠りどころとし、その適用を意図する者の手にあるときは、特に、ブルジョワジーがその周辺に張りめぐらせている防御をものともせず、「家庭」なるものを攻撃するのに有効である。 精神分析は、シュルレアリストにとっては、インスピレーションのメカニズムを学び活用するのに役立つものだった。精神分析は、シュルレアリストのいっさいの個人主義的立場からの離脱の手助けとなった。精神分析そのものは、非難するとき根拠としてもちだされる異なる精神へ用いられたからといって、責任あると見なすことはできないだろう。フロイトのある種の後継者、いやおそらくは今日のフロイト自身(1856~1939)もまた、(ヘーゲルが、生涯を終える頃には、自身の方法を用いても、人間の老化いがいを表現しない、社会学的結論しか引き出せなかったように)歴史的唯物論の再検討が可能であり、精神分析がブルジョワ社会強化の考察に役立つとしていても、それだからといって、精神分析の方法自体を告発するにはあたらないのだ。この方法は、革命家にとっては強力な武器でありつづけている。


 のべられているのは、「自己批判」で問題になったフロイトについてだ。フロイトの精神分析は、シュルレアリスム創設の理論的根幹にかかわるものであり、また、第一次大戦中、精神科医学生だったブルトン、アラゴンにとっては、共産党メンバーにたいして絶対的自信をもつ分野だった

(注.ベアール、ポリッツォッティら、シュルレアリスム研究家では、シュルレアリスムのフロイト傾倒を共産党側が論難したとしているが、その真偽と詳細は、すでに見た経緯からも、批判の実体がよくわからない.フランス共産党一部のシュルレアリストへの敵対者たちを除き、大きな問題ではなかったのではあるまいか.また、とうじのロシア共産党で、本質的問題にされたかは疑わしい.)


 俯瞰的に、記されているところをみれば、政治的立場の部外者への説明としての「無意識の言い間違い」を誘導する自動筆記の技法や、オイディプス・コンプレックスにかかわるシュルレアリスムの作品についてである。(初源的シュルレアリスムは、エクリチュール・オートマティック[自動筆記]のことだったのを思いださねばなるまい。)

 「精神分析的方法 ・・・・ この武器は、歴史的弁証法を拠りどころとし、その適用を意図する者の手にあるときは、特に、ブルジョワジーがその周辺に張りめぐらせている防御をものともせず、『家庭』なるものを攻撃するのに有効である」は、シュルレアリストとその制作(行為)を説明するものだろう。ことに、1930年のこの時点では、とうじ注目されていた最新のシュルレアリスム作品である、ダリの『欲望の謎 わが母 わが母 わが母』(1929年)や「ウィリアム・テル」シリーズの初期作品が、念頭にあったのではなかろうか。『ウィリアム・テル』(1930年)は、ブルジョワ公証人の父から勘当されたダリが描いた作品である。ガラへの献詞付きだったこの作品は、はじめてブルトンが購入したダリ作品でもある(注. 詳細は、『百万遍』10号掲載の本論を参照.)

 述べられていることをこのように読むと、もっぱらこの節に書かれているのは、外部への説明と同時に、シュルレアリスト、ことにブルトンへの、万感をこめた目配せのようにもみえる。

 この目配せは、シュルレアリストのフランス共産党への態度表明として、核心にふれる第5節をしめすにあたりなされたというわけである。

  第5節はこのようなものだった。


(5) 革命行為は、第三インターナショナル路線をはずれては可能ではない。トロツキー主義は、フランスではいまだ信奉者をもちつづけている。この状況にあっては、態度表明をしなければならない。第三インターナショナルの敵にたいしては、いかなる温情もいかなる手加減も、黙認できぬところだ。われわれができることとして、ここで次のことを断言しておかねばならぬと信じるのは、シュルレアリストがフランスで、革命的知識人同盟の実現で本質的な役割を演じられるとおもうからである。シュルレアリストたちのうちの何人(なんびと)も、トロツキー主義になんの愛着ももっていないこと、とりわけ、アンドレ・ブルトンが、第三インターナショナルに反対し、トロツキー側にあるとおもわせようとしておこなわれた、ブルトンの書いたもの数行の解釈は、常軌を逸した解釈であることの確言である。そのようなことは論外である。                                                      

 言われているのは、誠心誠意、シュルレアリスム、ことにブルトン擁護の弁明であり、シュルレアリストの役割の強調である。とうじのシュルレアリスムとソヴィエト・ロシアの状況を勘案しながら子細に読むと、意外なまでに巧妙な説得性をもつ記述である。煩瑣だが、逐語的解釈をする。

 文頭の「・・・・第三インターナショナル路線をはずれては可能ではない」は、1930年は、さきにものべたように、スターリンが第三インターナショナルを掌握した年であり、また、スターリンがトロツキーを放逐しながらもなお完全掌握を達成していない時期だったから、おそらくアラゴン独自の最新情報を加味した、フランス共産党への効果的な態度表明である。

 それにまた、つづく「トロツキー主義は、フランスではいまだ信奉者をもちつづけている」にしても、たんなる一般論をこえるものである。シュルレアリストのなかでトロツキーに関心をまずもったのは、ピエール・ナヴィルだった。シュルレアリストたちのなかではきわだって早期に共産党に入党していたかれは、1930年のとうじすでに離党し、「第二宣言」に記されているところによると、亡命中のトロツキーと面談をはたしていた。そして当のナヴィルは、『革命に奉仕するシュルレアリスム』には参加せず、ブルトンらのシュルレアリスムを批判していたのだ。シュルレアリスムのトロツキー主義者は、ナヴィルたちというわけになる。じっさいのところ、ブルトンがトロツキーを知ったのは、ナヴィルからだったろう。

 だが、それにしても、『シュルレアリスム第二宣言』でトロツキーについて言及しているのは、いうまでもなくブルトンそのひとである。「第二宣言」では、マルクス、レーニンとならべて、トロツキーの名が掲げられ、彼の引用がおこなわれているのはたしかだ。しかし、その引用とて出典は、バルビュスの『クラルテ』からと明記されている。バルビュスもまた、いまだ存在するトロツキーの信奉者ということになる。

(注.『文化と革命』に収録.とうじフランスでの全訳の有無は不明.)


 ナヴィルとバルビュスへの、軽重がことなる責任転嫁が、ここでは巧妙におこなわれているようにみえる。

 だがこれは意図的ではなかったのかもしれない。「第二宣言」とうじ、ブルトンがトロツキーについてどこまで知悉していたかわからない。というよりもむしろ、どのでいどまでソ連邦における政治情勢を承知していたかということである。スターリンについても同様である。「第二宣言」のなかで描かれているトロツキーは、トロツキーその人というより、かれの論文だ。トロツキーとスターリンの深刻な政治対立という視点から言えば、かなり無邪気な立場にあったのではなかろうか。むしろ、その確執は、ロシア帰りのアラゴンによっては知ることになったのではなかろうか。また、スターリンについては、アラゴンから伝えられ、はじめて関心をもったていどではなかったろうか。

 第5節の「シュルレアリストたちのうちの何人(なんびと)も、トロツキー主義になんの愛着ももっていないこと、とりわけ、アンドレ・ブルトンが、第三インターナショナルに反対し、トロツキー側にあるとおもわせようとしておこなわれた、ブルトンの書いたもの数行の解釈は、常軌を逸した解釈であることの確言」は、アラゴンにとっては、事実指摘いがいのなにものでもなかったのではなかろうか。

 なぜなら、「トロツキー主義になんの愛着ももっていない」は、トロツキー主義というからには、ブルトンが「第二宣言」で書いているようなトロツキーの断片思想ではなく、確乎たる政治的立場であろうから、ブルトンら「シュルレアリスム第二宣言」派のシュルレアリストは、「何人(なんびと)も愛着など持ちようもなかった」のはたしかだ。「第二宣言」のブルトンの書いたもの数行の解釈というのが、なにをさすのかはわからない。しかし、いずれにしても、「論外」というのは確信だったろう。

 とは云え、ここで記されている「革命行為は、第三インターナショナル路線をはずれては可能ではない」とか、「第三インターナショナルの敵にたいしては、いかなる温情もいかなる手加減も、黙認できぬところだ」については、アラゴン、サドゥールのインターナショナル理解とブルトンが同じだったかは不明だ。ブルトンがどのようにこれを読んだかも不分明の領域にある。

 現在のわれわれには、「革命行為は、(スターリンの)第三インターナショナル路線をはずれては可能ではない」とか、「(スターリンの)第三インターナショナルの敵にたいしては、いかなる温情もいかなる手加減も、黙認できぬ」というように、あきらかに読めるのだが、ブルトンではどうだったろう。これらについてとうじ沈黙していたブルトンを、ベアールやポリッツォティはどう解していたのだろうか。

(注.ブルトンがこれを問題視するのは『シュルレアリストが正しかったとき』[1935年]の声明からである.)

 

 ブルトンはこのとき、スターリンの第三インターナショナル掌握を、アラゴン経由とはいえ、事実として承知していたとおもわれる。かれにとって重要なのは、「シュルレアリストがフランスで、革命的知識人同盟の実現で本質的な役割を演じる」ことであり、そのためにはアラゴンがロシアで入手してきた現況判断に、暗黙俚かもしれないが、同意していたのではなかろうか。

 それは、つづく最終節の判断についてもどうようである。

 「ソ連邦にたいする帝国主義介入の脅威は、革命問題の喫緊の課題である。革命的知識人が、プロレタリア階級の行動支援のため組織されねばならぬのは、この課題に照らしてのことである」は、シュルレアリストの実践的役割を強調するものであるが、この状況判断は、とりわけスターリンの一国社会主義(段階革命論)の立場に立つとき有効になる。

 トロツキーの永久革命論の観点からいえば、「喫緊の課題」などとはいえぬものだ。むしろ、一国社会主義の弱点とされかねない状況判断となる。

 にもかかわらず、このようにかなり明確な反トロツキー主義の立場に拠りながら、ブルトンらが創設したAAERを支持するこの声明を、ブルトン当人が黙認しているのは、いささか奇妙におもえる。

 もっとも、この時点のブルトンには、スターリンの政治主張も、そうした両者の葛藤も知る由もなく、ただ華麗な宣言とみえただけかもしれない。この「ソヴィエト・ロシアから帰着したわれわれが、設立されたばかりの革命的芸術家・作家協会(AAER)に参加する必然性があったのはこの啓示からである。われわれは創設者に加わり、革命的知識人がこの協会に参加することを期待する」の結語に、感銘をうけ同意したのではなかろうか。

 それにまた、それにつづけて記されたエピローグ「革命的作家の発する一語ごとが、世界的な十月革命の闘いを喚起するように!」という、レーニン、トロツキーにもつうじる革命原論は、従来のブルトンらの主張に完全に合致したものだった。  

 ブルトンがこうしたスターリン主義に正面から反論し、態度表明をするのは、五年後の1935年の『シュルレアリストが正しかったとき』の共同声明以降のことである。

 この声明は、1935年6月パリで開催された「文化擁護のための国際会議(大会)」の直後にだされたシュルレアリストの共同声明である。これにいたるまでの経緯の概略はすでにふれたが、それまでのブルトン自身は、スターリンおよびフランス共産党への態度表明を、一方ではさしひかえていたようにみえる。一抹の期待があったようにもおもえるのである。

 このとき、ブルトンは、スターリンの動向がそれなりに察知できたとすべきかもしれない。声明『シュルレアリストが正しかったとき』は、ブルトンにとって、共産主義との離別ではなくスターリンが掌握するフランス共産党とコミンテルンとの訣別を宣言するものだった。

 ただし、これらについても、ベアールをはじめとする従来のシュルレアリスム研究者たちと本論の立場はいささか異なるものがある

(注.「文化擁護のための国際会議」については、その後出版された 『文化の擁護 ----- 1935年パリ国際作家大会』(ウニベルシタス叢書580)[Pour la défense de la culture Les textes du Congrès international des écrivains  Paris, juin 1935]) を参照すると、ブルトンの声明は、この大会状況と齟齬をきたすところが多い.いまの筆者の手にはいささかあまるが、次回はこの解明をできるだけおこないたい.)


 そうした見地にたてば、1930年12月の現実の時点では、ブルトンとアラゴンはシュルレアリスムと「共産主義」をめぐって、なおなんらかの同じ期待をもっていたことになる。

 それが『革命的知識人へ」のこのパンフレットである。

 いまとなってはよくわかるのだが、それは同床異夢的な期待だった。ブルトンにとってはコミンテルンが、シュルレアリスト・アラゴンをうけいれたように見えた。ロシア・コミュニストにシュルレアリスムは理解されたようにおもえたのではなかろうか。

 そしてアラゴン自身にとっては、シュルレアリスムはコミュニストに受けいれられ、そこにかれらの輝かしい前途があるようにみえたのではないだろうか。

 かれらふたりは、いわば軸足の置き方がちがったのである。アラゴンの軸足は、どこまで自覚的だったかはわからないが、ロシア共産主義の側にあった。ロシア共産主義からシュルレアリスムを見たのである。むろんここで言うのは、シュルレアリスムは、コミンテルンにとって、かけがえなく有益で好ましいという前提あってのことだ。

 そうした変化は、すでにポリッツォティらも指摘しているように、ロシア旅行と「ハリコフの作家会議」の出席で体感したものから生じたのはたしかだ。だが、その震源はエルザとの出会いにあり、エルザそのひとの影響であるのは、うたがいもないことだろう。

 エルザとの出会いが、化学反応をおこしたのか、触媒反応だったかはわからない。しかし、ダリがガラとの出会いによってシュルレアリスト・ダリになったように、シュルレアリスト・アラゴンは、エルザと出会うことによって、フランス共産党員のシュルレアリスム作家アラゴンになったのはたしかだ(注.アラゴンがレアリスム小説を主張しているのは承知している.)

 しかも、いずれの場合も、ガラもエルザもかなり意思的な働きかけをしたようにおもえる。ガラについては、具体的な証言資料はないが、エルザでは若干の手がかりとなる証言があるから、その実態は、あるていどまで推測はつく。

 アンドレ・ティリオンは、エルザについてつぎのように記している。


 エルザは人生を愛していた。人生を享受することにし、そのためには代償がいることを承知していた。イデオロギーも物質的苦労も、どちらも彼女をうんざりさせるものだった。彼女には、ルイーズ・ミッシェルの適性も、女性労働者ジェニーの使命感もなかったのだが、(必要なときには、その時だけは)政治的になったり手仕事をやってのける勇気をもちあわせていた。状況が彼女にペナルティを課せば、そこから逃げず、またすばやく脱出する術を知っていた。(下線は筆者)(André Thirion: Révolutionnaires sans Révolution [p.169])


 さらにまた一方では、「エルザは、資本主義的な快適な生活を愛していた。だが、困窮しないかぎりにおいて、金銭より名誉のほうを好んだ」とも言っている。

 彼女を忍耐心のあるレアリストであり快楽主義者として、ティリオンは語っている。これはガラについても言えそうだが、うえの記述はガラとの相違もまた語るものだろう。

 ダリ=ガラ・ペアーが20世紀芸術に産出したものについては、『百万遍』10号誌でその概略を示したが、アラゴン=エルザ・ペアーのその後については、つぎのように言うことができる。

 第二次世界大戦直後の戦勝国フランスでは、フランス共産党は、シャルル・ド・ゴールの国民連合や社会党とならぶ三大政党のひとつとなった。アラゴンは、1950年にはフランス共産党の中央委員に就任している。それはいうまでもなく、フランスの(出版)文化の領域でおおきな権力を発揮できたことを意味する。これはまさに、エルザの好みにかなうものであり、アラゴン=エルザ・ペアーが獲得した成果であろう。

 そしてそのごの彼らについては、エルザは1970年に死去したが、ルイ・アラゴンは1982年まで作家として、また、フランス共産党員として活躍している。

 その死においては、パリのフランス共産党本部があるコロネル・ファビアン広場で、盛大な葬儀が挙行され、共産党幹部すべてが出席した。時のフランス大統領フランソワ・ミッテランは、つぎのような声明をだして哀悼の意を示した。


 フランスは今、そのもっとも偉大な作家のひとりを失ったことで深い悲しみに沈んでいる。ルイ・アラゴンは今世紀を長らく生きてきたが、その苦悩と希望を最後まで見とどけてほしかった。彼の詩の魔術とその作品の力は、彼をわが国民文学の最高の地位に位置づけている。私は彼の思い出の前に深く頭をさげる.(稲田三吉訳.『アラゴン研究』から引用)   


 まさに、栄光の文学者のあかしであり、1960年代日本のアラゴン理解はこの系譜にある。


 しかしながら、ここに到達するまでに、ことに「ハリコフの作家会議」から以降のアラゴンの軌跡に、エルザの関与がどのようなものだったかの証言は、どこにもない。ただ、今まで引用してきたティリオンの『革命なき革命家たち』(1972年刊)があるのみである。

(注.第二次大戦戦後の回顧録であり、ことにエルザの死(1970年)直後の執筆であるから、客観性にはやや欠けるとおもわれる.)


 そこに記されていた、「エルザは、(必要なときには、その時だけは)政治的になったり手仕事をやってのける勇気をもちあわせていた」から類推すると、かなり積極的な関与があったとしても不思議ではない。むしろ、そう思うほうが、アラゴンのフランス共産党における異例の待遇の説明がつく。

 そればかりではない。この経路は間接的にはシュルレアリストたちにもおよぶものではなかったろうか。

 さきにものべたように、1932年1月の『リュマニテ』紙に、「革命的作家・芸術家協会(AEAR)』創設の告示がだされたとき、シュルレアリストはだれひとりとしてそれに参画していなかったのは、事実である。しかし、ポリッツォティによれば、この年10月、スターリンの指令によって、ブルトンは協会の執行部に参加を要請され、翌年1月にはAEARの文学部門事務局メンバーに任命されている。その後の参加行為はすでに記したところだ。

 他方、ベアールはその間のことを、つぎのような書き方で説明をしている。

 『リュマニテ』に公示された数日後、ブルトンは再三の攻撃に対抗するようアラゴンに圧力をかけ、アラゴンは不本意ながらもレオン・ムーシナックに手紙をだす。その後アラゴンは態度を豹変させ、1932年3月10日の決裂にいたったと言う。

 そして、さらにベアールは、「シュルレアリスムの主要な推進者二人の間の美しい友情は大がかりな瞞着によって弄ばれたと考えざるをえない」と述べ、つづけて、「ソ連では、ハリコフで論壇をはったプロレタリア作家たちがスターリンによってまもなく排斥され、そのスターリンが党の文化部門を再び掌握してしまったのである。スターリンの出すあらたな指令に ----- やや遅ればせながらも、----- 対応した革命的作家芸術家協会(AEAR)は、すべての左翼知識人に協調を説いた10月には、フレヴィルが今度は協会の執行部にくわわるようブルトンに要請に来ることになる」と、書いている。(下線は筆者)(アンリー・ベアール『アンドレ・ブルトン伝』 pp.284)(塚原史、谷昌親訳)

 大略すぎるこの記述は、三年後の1935年のAEARが実質主宰した「文化擁護のための国際作家会議(大会)」と混同したものであり、1932年のこの時期は、まだ仏ソ相互援助条約(1935年)も締結されず、スペイン内戦(1936年)もおこっていない。

 したがって、ベアールの文脈からの要請がブルトンらにあったというより、ポリッツォティから類推できるような、直接要請がされたのではあるまいか。そして、そうしたことの背景には、必要なときには政治的になれるエルザの影が見え隠れするのは否めない。フランスからのなんらかの情報によって派生的におこった、要請だったのではあるまいか。

 さきにものべたように、こうした不確かな手がかりしかないのだが、その後のアラゴンの、スペイン内乱やレジスタンス期の行動やフランス共産党内の安泰した位置 ----- 「仕事」に比しての厚遇 ----- は、ソ連邦からの影の後楯があったとするほうが説明がつきやすい。

 ことにそれは、シュルレアリスムの歴史のなかでは、つぎのようなことにも現れているのではないだろか。

 エリュアールのブルトンとの別離とフランス共産党への急速な接近である。いささか本稿の論旨とははずれるが、エリュアールは、日本ではそれなりのシュルレアリストとして評価されているようだから、アラゴンに付属したあまり日本では知られていない政治的エリュアール を紹介しておこう。

 エリュアール(1895~1952)は、第二次世界大戦終了後、7年目に、アラゴン(1897~1982)はむろん、ブルトン(1896~1966)より若く、その壮年期に宿痾により死去している。

 そして、その墓は、パリのペール・ラシェーズの墓所、区画97の末端にある。ここは、パリ・コミューヌの聖地「連盟兵の壁」の正面に位置する区画で、モーリス・トレーズをはじめフランス共産党の重鎮の墓がならぶ一劃である。フランス共産党の代表詩人として葬られたのだろう。1930年代、アラゴンのシュルレアリスム追放に奔走したエリュアールからおもうと、想像もできない終(つい)の棲(すみか)である。

 エリュアールがブルトンとどのような経緯で別離し、どのような経緯でアラゴンと行動を共にするようになったかは、ベアールやポリッツォティなど既存のシュルレアリスム資料からは判然としない。

 だが、ブルトンのトロツキーとの会見によってはじめられた独立革命芸術国際連盟(FIARI)(1938年)には参加していないのだから、このころにはすでに共産主義の見方を、ブルトンからアラゴン的なものへ変更していたのではないだろうか。

 エリュアールは、第二次大戦ちゅう独仏休戦協定(1940年)後のヴィシー政権下のフランスで、1942年フランス共産党へ再入党している。そして、南仏に設立された共産党組織である全国作家委員会に参加し、レジスタンス作家として活躍した。アルジェのフォンテーヌ社から秘密出版された『詩と真実』収録の詩篇「自由」が、英軍の航空機から北フランスに撒布され、抵抗(レジスタンス)するひとびとを鼓舞したのは有名なエピソーである。

 しかし、全国作家委員会の代表者はルイ・アラゴンそのひとだった。ベアールはこれに言及することなく、彼らの再会をやや感傷的に記すのみである。1943年、パリに住むポールとニュッシュのエリュアール夫妻は、偽名パスポート携帯で南仏からモンパルナス駅に到着したルイ、エルザ・アラゴン夫妻を出迎え、旧交をあたためたとある。

 1930年代の前半、パンフレット『道化師』や『シュルレアリストが正しかったとき』で、エリュアールとアラゴンの相互理解が、断絶したのは事実だろう。

 しかし、その後の彼らの関係はどうだったのだろうか。エリュアールが、FIARIには参加していないということは、第二次大戦勃発の動乱時にアラゴンと直接会うことはなかったにしても、なんらかの連絡をとりあっていたのではなかろうか。さきに示した彼らの再会は、そう考えなければ説明がつきにくい。

 ベアールの記述によると、大戦直後のフランス共産党の文化担当相はアラゴンで、公式代表詩人はエリュアール、代表画家はピカソとある(注.『アンドレ・ブルトン伝』 塚原、谷訳)

 ピカソについては、ファシズム弾劾の象徴的作品「ゲルニカ」を描き、とうじだれしもが認める20世紀アヴァンギャルド画家だったことをおもうと、そのように言われるのも不思議ではなくても、アラゴンとエリュアールの位置づけは、かれらの実績からすると不自然におもわれる。

 それでも、アラゴンの文化担当相については、1930年代以来の、スターリンがらみのロシア共産党との関係からすると、説明がつかぬことはない。

 だが、エリュアールについてはどうだろう。フランス共産党のかれの信用と処遇は、アラゴンあってのことではなかっろうか。

 エリュアールは、死の直前、それまでのかれの詩のアンソロジーともいえる『万人のための詩』を出版している。タイトルはロートレアモンから採用したとおもわれるが、シュルレアリスムが賞揚したロートレアモンとは縁(えん)もゆかりもない代物である。ロートレアモンでは、詩は万人によってつくられねばならぬ、のコンテキストのもとで言われたのだが、ここでは万人によって読まれるべき詩といった情宣的おもむきを託したタイトルのようにおもう。(注.『百万遍』4号誌掲載の本論を参照.)

 詩篇「自由」もふくまれるこの詩集の末尾には「頌(ほめたたえる歌)」のセットがあり、つぎのような「ジョゼフ・スターリン」が筆頭に掲載されている。


人々は  はるかな風景からあらわれた

どれも心を持つ人たち  だが力を失っていた人たち

かれらは霧に包まれていた、  金を夢みる  鉛であった

人々は  ひ弱なその幼年からあらわれた

ためらいがちに  遅れがちに  かれらは雲をあこがれた

惨めさと慈しみは  神聖であった


おお  ぼくに似た  老人の  幼児の  死者たち

賦役を朽ちさせた  健康な顔たち

きみらの欲望の  自由になるのぞみ

幸福になる  強くなる  のぞみ

じつに澄明な窓硝子のやさしさ  兄弟の

顔の映る波を乱さぬやさしさ  それを持つ強さ


千の兄弟たちが  マルクスをはこんだ

千の兄弟たちが  レーニンをはこんだ

ぼくらのスターリンは明日のために今ある

今日スターリンは不幸を消してくれる

信頼は  かれの愛の頭脳の果実

理性の房、  そのみのりのゆたかさ!


かれのおかげで  ぼくらは秋をしらない

スターリンの地平は  つねにあたらしい

不安のないぼくらの生  闇の底でもぼくら

生みだす生  えがく未来!

ぼくらに  明日のない日はない

正午のない夜明けも  熱のない爽やかさも、


ひとりの人間としてぼくらの心に住むスターリン

灰色の髪を持ち  限りあるいのちの形の下に

人間の葡萄畑のなかで  血の色の火と燃える、

いちばんすぐれた者たちに酬い

労働に悦びの美徳をあたえる  人

日々の労働は生にはたらきかけるから、


地上に国境のない希望をかかげるため

スターリンを選んだ  その生と人間。  (安東次男訳)


 発表されたのは、エリュアールの死(1952年)の2年前、1950年とある。スターリンの死は1953年で、フルシチョフによるスターリン批判は1956年だから、スターリン共産主義政権の絶頂期に書かれたものだ。

 作品としては、アラゴンの「赤色戦線」を思いださせるような作品である。しかし、カルカチュア化された「赤色戦線」に比して、スターリンの手は共産主義同志たちの血で汚れている。所謂モスクワ裁判(1936~1938)によって、1934年の第17回党大会の代議員1966人中、1108名が逮捕され、その大半が銃殺刑に処された。1934年の中央委員メンバー139名のうち110名が処刑か自殺している。この詩を書いたエリュアールの目には、おそらくこれを読んだアラゴンの目にもまた、そうした血汐は見えなかったのだろう。まさに、フランス共産党詩人の面目躍如たるものがある。

 とはいえ、こうした一、二編の詩作品だけで、フランス共産党における遇され方の説明がつくものではない。アラゴンあってのことだろう。

 さらにまた、エリュアールは、死の直前までガラとのあいだで文通をつづけていたのはひろく知られている。出版されている書簡集には、該当するものはないが、親密な意見交換がおこなわれていたのはまちがいあるまい。

(注.『Lettres à Gala(1924~1948)』


 ダリ=ガラ・ペアーはここ(エリュアール )では、アラゴン=エルザ・ペアーと交差するのである。ある意味では、シュルレアリスムが、ガラとエルザのレアリスムと交差したと言えるかもしれない。

 なお、今回をひとまずおえるにあたり、シュルレアリスム関係の今回にかかわる出来事を年譜風に列挙すればつぎのようになる。


1932年1月5日;『リュマニテ』:「革命的作家・芸術家協会(AEAR)」創設の告示

☆            3月10日:アラゴン、シュルレアリスムと訣別

          10月  スターリン指令により、ブルトンに協会の

                   執行部参加を要請

              「アラゴン事件」(ブルトンの命名); 『赤色戦

                   線』と「詩の貧困」

1933年 : ナチス台頭

1935年5月 :  仏ソ相互援助条約

       6月 :「文化擁護のための国際作家大会」

         8月 :  「シュルレアリストが正しかったとき」

1938年7月 : 宣言「独立革命芸術のために」(独立革命芸

          術国際連盟(FIARI)結成への呼びかけ)

☆1939年4月 :  ダリ 、ニューヨーク万国博覧会で「ヴィーナ

             スの夢」館を建設し人気をえる.

☆        8月 :  独ソ不可侵条約

☆      9月  :  第二次世界大戦

☆1940年6~7月 : 独仏停戦協定、ペタン独裁政権

☆1941年 : ブルトン、合衆国へ出国/合衆国参戦

☆1942年 : エリュアール 、フランス共産党へ再入党



目次へ




©  百万遍 2019