Avant 番外編5


[’60年代日本のアヴァンギャルド 番外篇]


Part 5



 『風流夢譚』は深沢七郎の描く、はじまったばかりの’60年代日本のアバンギャルド的「風俗画のアレゴリー」と評価すべきものだ。’60年代の日本は、「皇太子・正田美智子の結婚」パレードと国民的国会デモで劃された時代だった。

  『風流夢譚』がどのような小説だったかは、すでに「天声人語」や今泉の読み方や「ハイレッド・センター」の座談会で語られたもののように、すでにさまざまな読み方が通用している。そうしたなかで、この小説を確かめるためには、読者自身の目で現物をまず読んでもらうことが前提になる。しかし、2022年の現在、現物は手軽に入手できない。

 だから、本論では、冗長、重複の非をおそれず、引用を多用する作品紹介をしながら論をすすめることをおことわりしておかねばならない。

 まず、とうじ記された、文芸評論家江藤淳の作品要約を引用しよう。これは、雑誌『群像』(1961年1月号)に掲載された、「創作合評」(花田清輝、江藤淳、寺田透出席)で江藤が担当した作品紹介である。この「創作合評」がおこなわれたのは、記載によれば1960年11月17日であり、「東京毎夕新聞」(1960年11月16日)紙上に右翼系の批判がはじめて掲載された翌日である。「東京毎夕新聞」の知名度からも、評者らは、これら右翼の反応をまだ知ることなく語っているとおもわれる。また、後年の江藤は、明治国家を理想とするような、正統保守の現代文学評論家だったのだが、1960年11月には『風流夢譚』を推奨し、みずから担当しているのは、注目すべきだろう。

 かれはつぎのような「夢譚」紹介をしている。 


─ 最後の深沢七郎さんの「風流夢譚」(中央公論12月号)。これは「私」が見た夢の話です。私がいい時計なのか安物かわからないような時計を持っていて、この時計は腕に巻いていないと止まってしまう。ある晩私の時計が一時三十分を指しているときに帰宅して、一時五十分に眠りについて夢を見る。井の頭線で渋谷に出て、八重洲口行きのバスにのろうと大盛堂書店の前へ行くと、バスを待つ人がいっぱい並んでいる。その人たちの話を聞いていると、都内に革命のようなものがおこっているということがわかる。左欲(サヨク)の革命かと隣の人に聞くと、そうでなくて、政府を倒して、もっとよい日本を作るのだという。その人の話によると、そこでは警察も下っぱの巡査はみんな民衆とおなじ行動をしていて、刑事だけが反抗してピストルの射ち合いをやっている。それから悪魔の日本をやっつけるために韓国のデモの人たちがピストルや機関銃を届けてくれた。アメリカは機関銃を五十丁ばかり、ソ連も二十丁ばかり。「話せるねえ、各国は」と私が言って横を見ると、ヌード・ダンサーの春風そよ子さんも並んでいる。自衛隊も味方についているという。そこへ「女性自身」という旗を立てた自動車がやってきて、「これから皇居へ行って、ミッチーがやられるのをグラビアにとるのよ」といって女性記者が嬉しがって騒いでいる。飛んで行きたいと思っても、夢だから飛んで行けない。「私が変だと思うのは」という言葉がたびたびあって、それで夢らしいところをあらわそうとしている。いま敵は火炎放射器を持ち出して抵抗しているなどという噂が流れている。そうすると、私の傍で編物をしている女が、自衛隊がこっちについているから、火炎放射器なんか平気だという。軍隊が〝キサス・キサス〟を演奏しながらこちらへやって来る。バスに乗り込んで皇居に行ってみると、ちょうど皇太子夫妻が殺されるところで、首を切ると金属的な音がして首が転がる。そこに侍従のような老紳士がいて、天皇、皇后も首を切られていると教えてくれる。行ってみると、皇后のスカートの端から英国製というマークが見える。侍従のような老紳士が両陛下の辞世の解釈をしてくれる。そこへ昭憲皇太后が出てきて、甲州弁で私と喧嘩をする。そのうちに素晴らしい花火が打ち上げられます。それを見ているうちに、自分はこんないい花火を見たら思い残すこともないから、ひとつ死んでやろうと思って、辞世の歌を作る。そうすると傍にいた古歌に詳しい老紳士から「それは、万葉の防人のうたにあるではないか」と言われる。これはいけないと思って、もう一つ歌を作って、大声で読みあげながらピストルで自分の頭を打つと、頭の中から白いウジがいっぱい出てくる。そこで甥に起こされて夢から覚める。ウェストミンスターの置時計が二時を告げる、見ると、自分の止まったり動いたりする腕時計も二時になっていて、(あッ、俺が夢を見ていた間は、この時計も起きていたのだ)と私は涙が出そうになるほど嬉しくなったという話です。(下線は筆者)


 使われている用語は正確で、客観的に要約しようとしているが、原文の引用配分からみると、あきらかに「デモ・ゲバ」風俗のパロディー小説として読んでいる。右翼と「天声人語」があれほど問題にした天皇殺害も、パロディー化した非現実的革命情景であるにすぎない。ほとんど問題にしていない。

 もっとも江藤は、このあとにつづく作品評価から推測すると、戦後の革命伝説から「デモ・ゲバ」風俗を見ているのではなく、デカダンスや破滅願望を見ているとおもわれる。しかし、かれの革命情景の引用語句は正確である。左翼革命を左欲(さよく)革命といい、革命取材に「嬉しがって騒いで」あらわれる週刊誌『女性自身』の女性記者や、「キサス・キサス」を演奏しながら行進してくる革命軍など、パロディー小説の要点はとらえているとおもう。

 こうした江藤の要約引用にあるように、この小説は、あきらかに1960年6月の国会デモをピークとした戦後左翼運動をひとつの焦点にしたものである。深沢がそこに見たのはあきらかにお祭り騒ぎの左翼「革命」だった。しかし、ひとこと断っておかねばならないが、かれはその後の生涯をつうじて、特有で独自なものとはいえ、一貫して反体制姿勢をもちつづけた。だから、ここでも単純な左翼揶揄ではない。

 しかも、深沢の視線には日本だけでなく国際的な気配りがあることを、江藤は気づいていたのか、いなかったのかわからないが、指摘しておかねばならない。それは、「悪魔の日本をやっつけるために韓国のデモの人たちがピストルや機関銃を届けてくれた.アメリカは機関銃を五十丁ばかり、ソ連も二十丁ばかり」などだ。ソ連が日本の革命を期待するのはもっともとしても、韓国が援助してくれるのには当時の状況が深くかかわっている。韓国では、この年1960年3月には、1948年建国以来の大統領だった李承晩が、学生蜂起によって失脚しアメリカに亡命している。かれは反日、反共の筋金入りの大統領で、1950年の朝鮮戦争を生きのびた人物である。だから、「韓国のデモの人たち」の援助は、こまかい配慮ある記述である。それに、江藤の要約ではわからないが、原文では、自衛隊の賛同は最初からわかっているのだ。これにもとうじの風聞の背景がある。1950年の朝鮮民主義人民共和国側の大韓民国への侵攻にさいして、首相、金日成は、南側朝鮮は侵攻の手がかりさえあたえれば、人民も兵士も歓迎、呼応して蜂起すると、スターリンに保証していたというのがあった。

 こうしたとうじの革命神話のパロディーが、ここには秘められているような描写である。

 アメリカが「革命」支援をするというのは、元来、植民地独立戦争によって建国したこの国の由来や、「終戦」時からなんとなくあった、アメリカ占領軍を「解放軍」とするような、一般的国民感情を念頭におくものかどうかは、わからない。それとも、この小説の物語発端にあるニセの金時計が、おそらく駐留軍関係の、アメリカ婦人のサギ的置き土産で、それがこの「革命」物語を支配しているのだから、風刺的洞察かもしれない。アメリカの公称「民主主義盟主」への風刺である。

 だが、曖昧、矛盾にみえても、その事実提示自体が、論文でなく小説である所以だから、あまり問題にはならない。要は、近隣諸国が歓迎してくれるパラダイスの「革命」ということだ。

 天下泰平、楽しい「革命」であるのは、「キサス・キサス」を演奏しながら登場する革命軍音楽隊によって頂点にたっする。ただし、この楽曲も、日劇ミュージック・ホールのギター演奏を職業としている深沢自身が愛好する曲だろうから、たんに一方的に突き放した揶揄ではなかろう。これはのちにのべる根幹にかかわる事項に関係してくるが、この小説の文学性のカギのひとつになるだろう。

 そして、物語はここから皇居にむかうことになる。そこで描かれたのが、物議をかもした光景だった。だが、江藤では、デカダンス革命からしかみていないようだ。殺された皇太子夫妻の首が「金属的な音をだして転がる」とか、皇后のスカートの端から英国製のマークが見えるとか、昭憲皇太后が「甲州弁で私と喧嘩をする」とか、さらりと要約しているだけだ。

 原文にあるのはそれだけではなかった。皇太子妃は、作品中唯一固有名詞をもちいて「美智子妃」と記されている。明治天皇の皇后、昭憲皇太后も固有名詞だが、こちらは明治か大正かわからない過去の皇后と断り書きがある。なお、ヌード・ダンサーの春風そよ子さんも登場するが、これはフィクションだろう。

 しかし、たしかに、そこに描かれていた問題の情景は、江藤のいうようにデカダンスのナンセンス光景だ。そこでは、一滴の血も流れないし、マサキリなる架空(?)の刃物には、一筋の血糊も付着していない。今泉の想像裡では、苦悩と恐怖のサディズム的光景だったはずだが、斬られた首は、人形の首のように「スッテンコロコロカラカラカラと金属製の音がして」転がっていったのだから、苦痛や恐怖の表情を浮かべていたはずはない。人形劇かテーマ・パークの光景だった。

(注. 甲州方言を調べていない.「楢山節」が架空だったようにその可能性がある.「柾木・切り」の可能性もある.)


 とはいえ、そこに執拗に書きこまれていたのは、たんなるデカダンス革命だけではないだろう。ここにある「革命」は、「いつもスクラムをくんだり、バリケードなんかばかりではツマラナイけど」これはオモシロイとされたところからみると、’60年代「デモ・ゲバ」風俗の革命アレゴリーである。しかし、皇居で展開された物語はそれだけではない。原文では、「『皇居へ乗り込むんですか。それじゃァぜひ連れてってください』、と私は喜んで、その女のヒトに頼み込んだ」と、特別に「皇居」が強調されている。

 そこでおこったエピソード、昭憲皇太后と「私」の甲州弁での喧嘩にしても、半行で片付けられるものではなかった。

 原文エピソードはつぎのように記されている。


 「昭憲皇太后が来た、昭憲皇太后が来た」 

 とまわりの人が騒ぎたてるので見ると、65歳ぐらいの立派な婆さんである。広い額、大きい顔、毅然とした高い鼻、少ししかないが山脈の様な太い皺に煉白粉をぬって、パーマの髪も綺麗に手入れがしてあるし、大蛇の様な黒い太い長い首には燦然と輝く真珠の首飾りで、ツーピースのスカートのハジにはやっぱり英国製という商標マークがはっきり見えているのだ。私が変だと思うのは、この昭憲皇太后は明治天皇の妃か、大正天皇の妃かも私は考えないし、そのどちらも死んでいる人だのに、そんなことを変だとも思わないでとにかく昭憲皇太后だと思ってしまったのはどうしたことだろう。

 昭憲皇太后が目の前に現れると私はその前に飛んで行って、いきなり、

 「この糞ッタレ婆ァ」

 と怒鳴った。そうすると昭憲皇太后の方でも、

 「なにをこく、この糞ッ小僧ッ」

 と言い返して私を睨みつけるのである。私が変だと思うのは、「糞ッタレ婆ァ」というのは「婆ァのくせに人並みに糞をひる奴」とか、「婆ァのひった糞はやわらかくて特別汚いので、汚ねぇ糞をひりゃーがった婆ァ」という意味で「糞婆ァ」というのは「顔も手も足も糞の様にきたない婆ァ」という意味なのである。ふだん私は「糞婆ァ」という言葉はよく使ったが、「糞ッタレ婆ァ」などという嫌な、最低の言葉は使ったことがないのに、ここで「糞ッタレ婆ァ」と言ってしまったのはどうしたことだろう。また昭憲皇太后が「なにをこく」とか「糞ッ小僧」などという甲州弁を知っているかどうか、皇室ではこんな風なときに使う悪態はアクセントも違った言い方をするのだと思うが、夢を見ているのは私だから、私以外の知識が夢の中に出て来る筈がないので、これはあとで考えると納得することができたのだった。「糞ッ小僧」と言われて私は怒りだした。いきなり昭憲皇太后に飛びついて腕を掴んでうしろへねじった。でかい声で、

 「なにをこく、この糞ッタレ婆ァ、てめえだちはヒトの稼いだゼニで栄養栄華(エーヨーエーガ)をして」

 と怒鳴った。すると昭憲皇太后は、「なにをこく、この糞ッ小僧ッ」

 とわめいて私の顔をひっかくのだ。私はカンカンに怒って、「エイッ」と昭憲皇太后に足がけをくれて投げ飛ばした。「どすん」と昭憲皇太后は仰向けにひっくり返って、(あれ、うまくいったなァ、俺はこんねに強かったのか)と私はびっくりした。(起き上がられては)と素早く私は昭憲皇太后の首を両股で羽交締めにした。昭憲皇太后は両足でバタバタ暴れながら、私の股をひらいて逃げようとするのだが、私が変だと思うには、私は両股に力を入れていないのですぐ逃げられてしまうのに、昭憲皇太后はいくら踠いても私の股はひらけないのだ。(困る~、逃げられてしまう)と私は思っているのに逃げられないのはどうしたことだろう。その時、横で、さっきの老紳士が、「皇后陛下の辞世のおん歌は」

 と言って読み始めたのだった。


 描かれているのは、いかなる「革命」幻想にも、「デモ・ゲバ」風俗にも無縁の情景である。昭憲皇太后は「私」と対等にケンカしている。見方によっては、『おくま嘘歌』のおくま婆さんや『楢山節考』のおりん婆さんのように、深沢が好意をもつ老婆である。身近に感じる人間的昭憲皇太后である。昭憲皇太后の年齢が65歳ぐらいと書かれ、おくまの歳が「今年63」だったのはたんなる偶然だろうか。

 深沢のパロディーにまとわりついているのは、庶民的天皇イメージである。本稿ではふれないが、歌会始に集約される天皇家の文学、和歌にたくした「辞世のおん歌」の解釈、三種の神器の庶民的評価、列記されたエピソードすべては、「庶民」の見方で一括処理されている。

 そうした「天皇観」をかれのなかで芸術的に誘発したのは、あの「皇太子・正田美智子の結婚パレード」だったのは、まちがいない。

 かれは、『風流夢譚』執筆に先立ち、1959年4月の結婚パレードで日本中がわきたった直後、文芸雑誌『群像』(1959年10月特大号)の1ページ組の「一言」エッセー欄に、「これがおいらの祖国だナ 日記」と名づけた短文を掲載している。


 皇太子妃が民間から選ばれたことには僕は反対だった。皇室だけは血族結婚でなければ困ると僕は思う。せっかく、今まで血族結婚が続いて、ようやく効果が現れて来たのだと僕は思っていたからだ。何故なら、天皇陛下や皇太子殿下が賢明な頭脳の持主だったら皇室にとっても、国民にとっても不幸なことだと思うからだ。また天皇陛下や皇太子殿下が賢明などではなく、普通の頭脳の持主でも皇室や国民は不幸だと思うからだ。当たり前の頭脳の持主なら天皇とか、皇太子とかという職業はやっていけないと思う。もし、天皇陛下が普通の人間なら人生観などということを考えるので自分の職業に疑問を持って、日夜考え続けなければならなくなってしまうからだ。そして悩んだり、苦しんだりするから皇室自身の悲劇が生まれると思う。幸いに、今まで、大正天皇、今生天皇、皇太子殿下など人生観とか自分の職業については考えたことのないお方だと僕は思うのである。ご自身の生活はどんな風に収入があって、どんな風に消費されているのか考えたことがないから皇室の生活が続けていられるのだと思う天皇も人間だと言われるけどそうしたことを考えないから架空のもので、皇太子殿下は二十四歳になるまで人生観など一度も語っておられないのである。それで僕はいつも天皇陛下や皇太子殿下のことを(馬鹿な人だナ)と思っていた。それだけれど、そんなことを言っては悪いような気がしたので家の者ばかりで話しあっているぐらいだった。また、帝王学を勉強されているので、帝王学というものは人間が生活して行くこととは全然違う学問らしいと思っていた僕はこんども皇太子殿下は血族結婚をして、次の皇太子殿下はもっと弱い頭脳の持主が生まれれば何の苦悩も感じないですごしていられることになると思っていた。そうして血族結婚は今後何代もずーっと続いて肉体的にも変わった形になればいいと予定を組んでいたのだった。こんど皇太子妃が民間から選ばれて新種が交配されてしまったので僕の予定はすっかり狂ってしまった。去る四月十日の御成婚の日、

 (あの写真は、当分ダメだな)

 と僕はがっかりした。あの写真というのは僕が想像していた写真のことである。その写真は、将来、新聞紙や週刊誌に載る天皇御一家の写真のことである。血族結婚が長い間続いて、頭脳は弱くなって、頭も顔も小さく足長蜂のような形で、胴体は長くてムカデの様な、手や足は無毛で兎の様な形で、眼鏡をかけていて、大きさは一メートル四十糎ぐらいの皮をむいた蝦や蝦蛄(シャコ)の様で、くねくね動いている天皇御一家の写真を予想していたのだった。そうして将来、国民は「これがおいらの祖国だナ」と国宝の様な、偶像の様な、神秘な、驚異や、尊厳の眼で見つめるのだ

 (それが、すっかりダメになっちゃったんだよ)

 と、僕はご成婚の日にテレビを見ながらガッカリして眺めていた。テレビに映る御写真は美男美女の結婚式だったが、僕の瞼の裏側は未来の予想の写真を眺めていた。天皇陛下や国民が幸福になるにはもっと血族結婚が続けばいいと思う。これが僕の精一杯の祖国愛なのだ。(下線は筆者)

 (注. 本エッセーは『群像』に掲載されただけで、いかなる海賊版も出版されていない.)


 というような、グロテスクで奇妙にみえるものだった。しかし、きわめて明快な意見表明だった。あきらかに、「人間宣言」をした象徴天皇という戦後天皇制の問題指摘である。

 皇太子と民間人女性の、鳴り物入りの婚姻は、「天皇」の神格化否定を実証するものだった。だが、深沢は、日本人のあのような熱狂的歓迎ぶりをみて、皮肉な違和感をいだき、戦後天皇像をかれなりに表明すべきとおもったのだろう。

 そして、そこでかれがした直感的把握は、的確な指摘をふくむとせざるをえないものだった。

 「天皇陛下や皇太子殿下が賢明な頭脳の持主だったら皇室にとっても、国民にとっても不幸なこと」というのは、2022年のいまでは、深沢がこれを書いたときには知るよしもなかったのだが、みごな予言となっている。

 「もし、天皇陛下が普通の人間なら人生観などということを考えるので自分の職業に疑問を持って、日夜考え続けなければならなくなってしまうから、当たり前の頭脳の持主なら天皇とか、皇太子とかという職業はやっていけない」などは、昨今報道される皇太子(秋篠宮)や皇太子一家の動向からも、それがいかに正鵠をえていたかがわかる。また、それほどたしかではないが、伝え聞かされる「皇后陛下のご不調」も、まんざら無関係とはいえないのかもしれない。それに、「天皇陛下ご自身」についても、その皇太子時代、学習院大学通学中、学生食堂で連日かれが選ぶメニューは、カレーライスであって、その理由をたずねた学友に、「ぼくのところは国家予算で賄われているから、しかたないんだ」と答えたエピソードをどこかで読んだ記憶がある。これなどはまさに、「ご自身の生活はどんな風に収入があって、どんな風に消費されているのか考えたことがないから皇室の生活が続けていられる」に、すれすれに抵触する「お答え」であるようにおもえる。

 しかも、執筆の当時は、令和天皇も秋篠宮も誕生以前なのだが、これらすべては、当該結婚によって生じた事態であるのはたしかだろう。

 これは蛇足だが、次代天皇候補の秋篠宮の長男悠仁の進学大学が学習院か東大かが報道対象になるのも、深沢のエッセー記述を裏づけているようにおもえる。もっとも、学習院入学生と東大入学生の偏差値レベルの大衆基準からいうのであって、東大生が賢明な頭脳の持主で、学習院生がそうでないなどと、筆者は思っていないことを、予め釈明しておかねばならない。

 さらにまた、こうした予言解釈は、牽強付会といわれかねない読み方だが、このエッセーの最後に記述されているのは、まがいもなく人間「象徴天皇」の矛盾をさし示すものだろう。 

 後半に描かれた描写は、いささか異常におもえるかもしれない。これについては、とうじの右翼は一年前に文芸誌に発表されていたこのエッセイにまったく気づいていなかったようだが、さすがに文芸評論家や編集者は承知していた。しかし、例外者(三島など)をのぞき、「夢譚」を評価することはあっても、これを称揚するものはいなかった。中村智子にいたっては、気味のわるいものとしているほどだ。

 だが、深沢がこのグロテスなイメージにたくしたのは「象徴天皇」の問題点の核心にふれるものである。日本国憲法制定時の「天皇の位置」の説明のひとつはあきらかにこのようなものだった。すなわち、人間天皇を「国宝の様な、偶像の様な神秘な、驚異や、尊厳の眼で見る」ということだったのだ。

 生身の人間を「象徴」として、「架空」のように位置づけるのは、現実的にはいかにも矛盾である。深沢はそれを、「帝王学というものは人間が生活して行くこととは全然違う」といっているのだが、たがいに排斥しあう矛盾関係としている。

 そして、かれはその矛盾の克服をグロテスクなイメージで語っているのだが、これはたんなるパロディーであって、かれの真意はそこにはないだろう。

 真意は、皇太子と民間人正田美智子の結婚に、過去の天皇像が忘れられて、歓迎され迎えいれられる「天皇」を目のあたりにしたとき、1946年1月1日に一線を画された天皇像をいかにしても明確にしておかねばならぬと感得したのだろう。そして、すでに当初からそこにあった矛盾、’60年代を前にした日本で、いわば戦後はじめて突出してきた矛盾をぜひともあきらかにしておくために書かれたのが、このエッセーだったかとおもわれる

(注. 深沢の戦前天皇へのおもいは、このエッセー以前では、「王氏白書曰、積禍似戯」(「自叙風ポルカ」)[(『言わなければよかったの日記』(1958年)に収録)」に記されている.)


 そして、一年後に執筆されたのが、このエッセーが昇華された小説『風流夢譚』だった。   

 『風流夢譚』は1960年6月末に構想され、8月には完成していたというから、直接の執筆動機は、6月15日の「国会デモ」だろうが、これに「皇太子・正田美智子の結婚」パレードが相乗作用をおこしたのだろう。敗戦時のかれのおもいとのギャップである。’60年代日本の現実感覚への違和感である。その曰く言い難いものの表現が『風流夢譚』となったのだろう。それは期せずして、’60年代日本の風俗画のアレゴリーとなった。

 「デモ・ゲバ」風俗と、「皇太子・正田美智子結婚」パレードにはじまる「パレード」風俗のアレゴリーである。

 だから、いままで読んできた「夢譚」解釈も、「デモ・ゲバ」風俗だけでなく、皇居を舞台にし、江藤とはちがう見方ができる。そこに色濃くあらわれるのは、あの「エッセー」の端緒となった皇太子結婚であり、象徴人間「天皇制」の色彩(いろどり)である。

 さきに引用した昭憲皇太后のエピソードはあきらかにそうした角度から読める。

 天皇が「神格を否定し」人間天皇になったというのは、たんに裕仁個人ではなく、「天皇」は万世一系なのだから、過去にさかのぼりすべての天皇が人間天皇になったことになる。皇族も天皇の構成要素だからおなじ扱いとなる。だから、人間化した昭憲皇太后と「私」があのようなお付き合いをしてもなんらさしつかえない。このような「罵り合い」も、庶民間でかわされるときは、親近感のあらわれとなり、仲間としてたがいに受けいれている証となる。現実の昭憲皇太后は、深沢も周到に描いているように、崇敬措くあたわざる威厳にみちた魅力ある老婦人というのが通説だ。だがそれは、「神格した」皇太后像であって、人間化した庶民的老女像ならこうなるというのだろうか。

 この解釈は、右翼や「天声人語」が問題視した場面にいたっては、さらに錯綜したものとなる。皇太子や美智子は、国宝の様な、偶像の様な、神秘な、驚異や、尊厳の眼で見つめるべき「象徴」人間なのだから、彫像や鋳造仏像とおなじはず、というのがひとつの読解である。あるいは、「神格化」天皇は、1946年1月に無用の廃物像になっているのだから、人間「天皇」の住む皇居の後片付けの光景と読めぬこともない。それとも、50~60年代に流行した俗謡「死んだはずだよお富さん」をおもわす、民間人正田美智子さんが美智子妃になったことを暗示するのだろうか。もっともこの場合、「死んだはず」なのは、戦前天皇なのかもしれないが

(注. その一節は「粋な黒塀 見越しの松に/仇な姿の 洗い髪/死んだはずだよ お富さん/生きていたとは お釈迦さまでも/知らぬ仏の お富さん」であり、「死んだはずだよ お富さん」はそれだけで流行語となった.)


 これらは、エッセー読解とはことなる文学作品、ことに寓話の読み方になる。

 『風流夢譚』は、「風俗画のアレゴリー」と評価すべきものとのべたが、本稿の最後に「夢譚」のもつアレゴリー性について簡単にのべておくことにする。

 江藤要約の主要部の「夢譚」原文はつぎのようなものだった。


 その夢は私が井の頭線の渋谷行きに乗っているところからだった。朝のラッシュアワーらしく乗員は満員だった。客達はなんとなく騒いでいて「今、都内の中心地は暴動が起っている」とラジオのニュースで聞いたとか話してあっていて、私の耳にも聞こえていて、私もそれを承知しているのだった。渋谷の駅で降りて私は八重洲口行きのバスに乗ろうとするのだが、何の用事で私は八重洲口に行くのか知らないのだ。これは、夢というものはそんなことまで考えていないものだ。バスの乗り場の大盛堂書店の前まで行くと、バスを待っている人がずーっと道玄坂の上まで並んでいてしまいはどこだかわからないのである。どうしたことか私はその一番先頭へ立ってしまったのだった。私が変だと思うのはこんな秩序を乱すようなことをふだん私はしないのに、そんなことをして、また、まわりの人達も文句を言わないのはどうしたことだろう。そこで私は立っている間にまわりで騒いでいる話を聞いていると、都内に暴動が起こっているのではなく、革命の様なことが始まっているらしいのだ。

 「革命ですか、左慾(サヨク)の人だちの?

 と隣の人に聞くと、

 「革命じゃないよ、政府を倒して、もっとよい日本を作らなきゃダメだよ」

 というのである。日本という言葉が私は嫌いで、一寸、癪にさわったので、

 「いやだよ、ニホンなんて国は」

 と言った。

 「まあキミ、そう怒るなよ、まあ、仮に、そう呼ぶだけだよ」

 と言って、その人が私の肩をポンと叩いた。

(・・・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 「どこへ行ったんですか? あのバスは?」

 と隣の人に聞くと、

 「警視庁と、いま射ち合いをやっているので応援に行ったんだよ」

 と教えてくれた。

 「えッ、警視庁とやるんですか? そいつはまずいですねぇ」

 と私が注意すると、

 「いや、警察も、下ッパ巡査はみんな我々と行動を同じにしているが、刑事は反抗していて、いまピストルの射ち合いをやってるんだ」

 と言うのだ。

 「わー、ピストルがあるんですか? こっちにも?」

 と聞くと、

 「あゝ、あゝ、ピストルでも機関銃でもみんなあるよ」

 と言うのだ。

 「そいつは安心ですねぇ、いつでもスクラムをくんだり、バリケードなんかばかりでツマラナイけど、どこからピストルや機関銃を?」

 と聞くと、

 「各国で応援してくれたんだよ、悪魔の日本をやッつけるために、こないだの韓国のデモの人達が船でとどけてくれたり、アメリカでも機関銃を50丁ばかり、ソ連でも20丁ばかり

 と言うのだ。

 「話せるねぇ、各国は」

 と私は言って横を見ると、ヌードダンサーの春風そよ子さんも並んでいた。私が変だと思うのは、彼女はマニキュアをしながらバスを待っているのだが、指をうごかさないでヤスリの方を動かしているのである。彼女がこんな磨き方をする筈がないし、私は声もかけないで黙って見ているだけなのは、どうしたことだろう。それが変だとも思わないで、私はさっきのヒトに、

 「それだけ機関銃があれば大丈夫ですねえ」

 と言った。その時、またバスが来て私の前に止まった。みんなわーっと騒いでバスに乗り込んで運転手をひきずりおろしてバスは動き出したが、私は相変わらず停留所の前に立っているのだった。

 「どこへ行ったんですか? あのバスは?」

 と隣のヒトに聞くと、

 「あのバスは自衛隊を迎いに行ったんだ」

 と言うので驚いた。

 「そいつはまずいですねえ、自衛隊なんか来ては」

 と言うと、自衛隊も俺達と行動を同じにしていて、反抗するのは幹部だけで、下ッパはみんな農家の2、3男坊ばかりだから、みんな献身的に努力しているのだ」

 と言うのだ。

 「いつから、そうきまったんですか?」

 と私は聞いた。急にうしろで、「いつからきまったなんてことないヮ、そういうことになっているのよ」

 と女の声がした。ふりむくと中年の職業婦人らしいヒトが編物をしながらやっぱりバスを待っているのである

 「あなたも喧嘩をしに行くんですか?」

 と聞くと、

 「喧嘩じゃないわよ、戦いよ、会社に出勤するつもりで来たけど、革命があるというので私も行くことにしたのよ」

 と言っているが、これから戦いに行くというのに買い物でも待っているように編物を編んでいるのだ。

 「僕も行くかなァ」

と言うと、

 「あら、そう、そんなら私と一緒に行かない?」

 と誘ってくれた。

 「大丈夫ですか?」

 と私は急に怖気づいた。

 「ダイジョウブよ、さっきのバスは自衛隊と一緒になって、銀座で反動分子と戦ってるけど、こんど来るバスは皇居へ乗り込んで・・・(ママ)

 と言うので、私は喜んだ。

 「皇居へ乗り込むんですか。それじゃァぜひ連れてってください」

 と私はその女のヒトに頼み込んだ。私が変だと思うのは、その女の人は編物をしながらバスを待っているのだが、二つの毛糸の玉を道に転がしたまま編んでいることなのであるこんな風に道にころがしておけば糸が汚れてしまうのに、私は見ているだけで、拾ってやろうともしないのはどうしたことだろう

 そのうちにまわりの人たちの話し声は、

 「もう皇居は、完全に占領してしまった」

 ということになっていた。そこで私は誰かが呼んでいるのに気がついた。ひょっと向こうを見ると「女性自身」という旗を立てた自動車にスシ詰めに人が乗っていて、その人達がみんなこっちを見ているのだった。

 「これから皇居へ行ってミッチーが殺られるのをグラビアにとるのよ」

 と女の記者が嬉しがって騒いでいて、すぐにもそこへ飛んで行きたいのだが、私が変だと思うのは、そこへ走っても行かないで返事もしないで相変わらずバスを待っているのはどうしたことだろう。そのうちまわりの人達の話し声は、

 「いま、銀座で、敵は火炎放射器を持ち出して頑強に抵抗している」ということになっていた。

 「そいつはまずいですねえ、火炎放射器では」

 と私は怖気づいた。

 「火炎放射器なんかヘッチャラよ」

 というのはさっきの編物をしている女のヒトである。黙って聞いていると、

 「火炎放射器の欠点はミサイル砲で吹っ飛んでしまうことで、こっちでも自衛隊の人達がそんなときの用意にミサイル砲を持って来たから」

 と言っているので私は安心した。そのとき、どこかから吹奏楽の音が聞こえてきて、だんだん近くなって来るのだ。

 「軍楽隊もこっちへ帰順した」

 とまわりの人達が騒いで拍手をやりはじめた途端、青山車庫の方から軍楽隊が〝キサス・キサス〟を演奏しながらこっちへ来たのだった。私が変だと思うのは、(あの、キサス・キサスはルンバでやってるのかしら、マンボでやってるのかしらん)と思ってるのに、私は別のことを言っているのだ。

 「クンバイ・クンバイ・チェロをやればいいのに」

 と別の曲の注文を誰に言うともなく言っているのはどうしたことだろう。それからバスが来て目の前に止まったのだった。みんな「わーっ」と乗り込んで運転手をひきずりおろしたので、私も「わーっ」と騒ぎながらバスの中に入ってしまったのだった。すぐバスは満員になって動きだして皇居へ向かったのだ。赤坂見附から三宅坂を通って、桜田門は開いていて、バスは皇居広場に向かって行った。皇居広場は人の波で埋っているのだが、私のバスはその中をすーっと進んで行って、誰も轢きもしないで人の波のまん中へ行ったのだった。そこには、おでん屋や、綿(ワタ)菓子屋や、お面(メン)屋の店が出ていて、風車屋が、バァーバァーと竹のくだを吹いて風船をならしている。その横で皇太子殿下と美智子妃殿下が仰向けに寝かされていて、いま、殺られるとこなのである。私が驚いたのは今、首を切ろうとしているその人の振り上げているマサキリは、以前私が薪割りに使っていた見覚えのあるマサキリなのである。私はマサカリは使ったことはなく、マサカリよりハバのせまいマサキリを使っていたので、あれは見覚えのあるマサキリなのだ。(困るなァ、俺のマサキリで首など切ってはキタナクなって)と、私は思っているが、とめようともしないのだ。そうしてマサキリはさーっと振り下ろされて、皇太子殿下の首はスッテンコロコロと音がして、ずーっと向こうまで転がっていった。(あのマサキリは、もう、俺は使わないことにしょう、首など切ってしまって、キタナくて、捨てるのも勿体ないから、誰かにやってしまおう)と思いながら私は眺めていた。私が変だと思うのは、首というものは骨と皮と肉と毛で出来ているのに、スッテンコロコロと金属製の音がして転がるのを私は変だとも思わないで眺めているのはどうしたことだろう。それに、(困る~、俺のマサキリを使っては)と思っているのに、マサキリはまた振り上げられて、こんどは美智子妃殿下の首がスッテンコロコロカラカラカラと金属製の音がして転がっていった。首は人ごみの中へ転がって行って見えなくなってしまって、あとには首のない金襴の守殿模様の着物を着た胴体が行儀よく寝ころんでいるのだ。私は御守殿模様の着物を眺めながら、横に立っている背広姿の老紳士に、

 「あの着物の模様は、金閣寺の絵ですか? 銀閣寺の絵ですか?」

 と聞いた。私の直感で、この紳士は皇居に関係のある人だと睨んだからだった。   


エロ(Erró)による、「ボスの乾草運搬車」の風刺画



 これを読んで思いだすのは、ヒエロニムス・ボスのファンタスティク絵画とかアレゴリー絵画といわれる絵画を観たときの印象だ。ボスの「乾草運搬車」や「悦楽の園」の画面は、モザイク絵のように、たがいに無関係な情景がまき散らされていて、しばらく眺めていると、なんとなく連携していくような、そして、やがて画面全体があらわしたがっているものがわかる気になる。ボスの場合は、それぞれを詳細に、大胆に描いているくせに、なにやら怪しげな、口に出すのをはばかっているような気配がある。ひざまずき祈る修道僧のかたわらで、尼僧が平然と酒らしき盃を口にふくんでいたり、郵便配達人が駆け抜けていたりする。「乾草運搬車」では、車に積みあげた乾草の山では、楽譜をまえにしたギターをひく男と女、背後の茂みで抱きあう男女や酔っ払いがいて、そばでは天使が天をあおぎ一心に祈っている。乾草積載中の車の脇では、歯科医とおぼしき男が店を開き、女の口から歯を抜きとっている。ほかにも、亭主(?)をなぐりつける女とそれをとどめる神父の手がみえ、貴婦人と赤ん坊を抱く侍女がしずかに立っている。さらには、収穫する農夫のかたわらに置かれたテーブルでは、これまた尼僧と僧侶が酒をくみかわし、テーブルの下では、男たちが殺し合いの真っ最中だ。中景には、国王と枢機卿を先頭にした貴族と聖職者たちの行列が、しずか進む情景が描かれている。

 この三面折りの油彩画は、現代のわれわれが見ても、意味ありげな批判的寓意を発散しているようにおもえるのだが、15世紀後半のフランドルのひとたちには、ひとつひとつの行為や出来事の意味がわかり、それらがたがいに連結して、われわれにはまるわからない強烈な伝達をこの絵画に感得していたのではあるまいか。

 そこでは、ならべ組みあわされるイメージが異質であればあるほど、それが見る者の想像力のなかで融合されたとき、つよい衝撃(ショック)をもたらしている。ボスの絵画魅力はそこにあるようにおもえる。

 このような見方で『風流夢譚』を読むと、引用したところだけでも、「夢譚」は’60年代日本で書かれたものだから、われわれには、ボス絵画いじょうに切実な寓意が感じられる。

 たとえば、編物をしながら、革命に参加する中年の職業婦人の場合だ。彼女は、「二つの毛糸の玉を道に転がしたまま」熱心に、編物をつづけている。それでいて、「会社に出勤するつもりで来たけれど、革命があるというので私も行く」という。いかにもアンバランスな行為の組合せだ。しかも、彼女の関心は、戦いの現場、銀座より、皇居にあるという。こうしたアンバランスな行動は、ヌードダンサーの春風そよ子さんのマニキュア行為にもある。もともとここには、中年女性やヌードーダンサーの革命参加というナンセンスな前提があるのだから、こうした行為もナンセンスのうわ塗りで、かえってナンセンスをたがいに麻痺させるものかもしれない。そうして麻痺したナンセンスからみえてくるのは、想像まかせのつぎのようなものとなる。

 彼女たちにとって、「革命」も「皇居」でおこっていることも同程度の関心事なのだろう。現実界の彼女たちは、「皇太子・正田美智子結婚」パレードと6月15日の「国会デモ」のテレビ中継を、おなじ程度の熱心さでながめた女性たちなのだ。

 そして、さらに連想の触手をのばせば、彼女たちにとっては、あの日、国会や「皇居」でおこったことは、自分たちの編物やマニキュアとおなじくらいの関心事だった。ただし、ここでは、書かれていたことをもっと思い出さねばならない。編物の女性は、出勤途中の中年女性であり、マニキュアをしていたのはヌード・ダンスを職業とする女性ということだ。編物女性は、会社出勤をとりやめて「革命」と「皇居の出来事」へ行くときめたのだ。彼女にとって、「編物」は気晴らしにせよ必要からにせよ、「編物」と「仕事」と「革命」と「皇居」は、同格の生活関心の対象となろう。ヌード・ダンサーにとってのマニキュアもおなじようなものだ。彼女たちのマニキュアの仕上りは、職業にかかわるものだ。それは、舞台ばえのためもあろうが、なによりも、裸身を衆目にさらし、舞台でおどる自らを武装し、気持ちよく仕事をはたすのに、ふかくかかわる行為になろう。彼女もまた出勤途上の行為だったのではあるまいか。

 つまり、ふたりの女性たちにとって、「革命」と「皇居の出来事」は、生活に匹敵するものだった。

 これらふたりの女性エピソードは、このように読むことが可能だし、また、この深沢作品だからこそできる楽しみである。

 だが、この「革命」と「皇居の出来事」を生活関心から見たにしても、その関心はどのように生活に結びつくと深沢は描いているのだろうか。

 それは、まず、このように描かれた編物する中年女性やヌード・ダンサーの女性像から、逆算していえば、彼女たちは、1960年6月15日の「国会デモ」や1959年4月10日の「皇太子・正田美智子結婚パレード」のテレビ中継を、熱心に見たことは想像できるが、国会の所信表明演説や宮中恒例の歌会始などのテレビ中継などを見る姿はいかにしても想像できないことである。それは、当時の首相池田勇人の「所得倍増計画」の所信表明演説や、美智子妃殿下のはじめての「歌会始」のわか紹介のテレビ放送であってもとても見たとは思えない。深沢の描く彼女たちがもつ関心は、そうしたものである。

 それならば、彼女たちが関心をもつ、「革命」や「皇居」はどのようなものかをみてみよう。すなわち、深沢の描く「革命」と、「ぜひ連れてってください」とが頼んだ「皇居」の光景である。

 「皇居」にいたる道には、虚虚実々のナンセンス情景が周到に敷設されていた。週刊誌の女性記者が取材車から、「『これから皇居へ行って、ミッチーが殺られるのをグラビアにとるのよ』と嬉しがって騒ぎ立てながら」、私にむかって呼びかける。彼女はミッチーを、一年前の結婚まで追いまわし、結婚披露宴を神妙な顔して取材した女性記者だろう。そしてつぎには、革命軍に帰順した自衛隊の軍楽隊が、拍手する群衆に迎えられて登場する。

 軍楽隊が演奏するのは、いさましい革命歌ではなくダンス曲〝キサス・キサス〟である。深沢の頭のなかにあるこの光景は、踊るような足取りで、だが真剣に、演奏に集中した隊員たちの行進であろう。かれは、マンボかルンバか、クンバイ・チェロかにこだわっているが、自身がミュージック・ホールのプロのギタリストだったから、生活をかけた演奏しか想像できなかったはずだ。

 かれらはいずれも、ばかばかしいような、じょうだんのように見えながら、じつは本気で「皇居」へむかっているのだ。

 そして、読者たるわれわれは、バスに乗った「私」とともに、物語のひとつのさわりに直面することになる。くだんの箇所を再引用する。


・・・・私のバスはその中をすーっと進んで行って、誰も轢きもしないで人の波のまん中へ行ったのだった。そこには、おでん屋や、綿(ワタ)菓子屋や、お面(メン)屋の店が出ていて、風車屋が、バァーバァーと竹のくだを吹いて風船をならしている。その横で皇太子殿下と美智子妃殿下が仰向けに寝かされていて、いま、殺られるとこなのである。私が驚いたのは今、首を切ろうとしているその人の振り上げているマサキリは、以前私が薪割りに使っていた見覚えのあるマサキリなのである。私はマサカリは使ったことはなく、マサカリよりハバのせまいマサキリを使っていたので、あれは見覚えのあるマサキリなのだ。(困るなァ、俺のマサキリで首など切ってはキタナクなって)と、私は思っているが、とめようともしないのだ。そうしてマサキリはさーっと振り下ろされて、皇太子殿下の首はスッテンコロコロと音がして、ずーっと向こうまで転がっていった。(あのマサキリは、もう、俺は使わないことにしょう、首など切ってしまって、キタナくて、捨てるのも勿体ないから、誰かにやってしまおう)と思いながら私は眺めていた。私が変だと思うのは、首というものは骨と皮と肉と毛で出来ているのに、スッテンコロコロと金属製の音がして転がるのを私は変だとも思わないで眺めているのはどうしたことだろう。それに、(困る~、俺のマサキリを使っては)と思っているのに、マサキリはまた振り上げられて、こんどは美智子妃殿下の首がスッテンコロコロカラカラカラと金属製の音がして転がっていった。首は人ごみの中へ転がって行って見えなくなってしまって、あとには首のない金襴の守殿模様の着物を着た胴体が行儀よく寝ころんでいるのだ。私は御守殿模様の着物を眺めながら、横に立っている背広姿の老紳士に、

 「あの着物の模様は、金閣寺の絵ですか? 銀閣寺の絵ですか?」

 と聞いた。私の直感で、この紳士は皇居に関係のある人だと睨んだからだった。


 ここに描かれている「現場」は、「私」のバスが通ったのは「赤坂見附から三宅坂を通って桜田門」だったから、書かれているように、「皇居広場」である。あの皇居前広場である。1952年5月1日の「メーデー事件」のあった広場であり、今泉の『エクイプメント・プラン』でギロチン設置の計画があった広場である。

 サンフランシスコ平和条約の発効で独立国になって3日目の日本の、はじめてのメーデーの日、人民広場への開放を要求するメーデー参加者と警察隊が衝突し、戦後はじめてデモ隊の学生が殺され、双方から死傷者がでたあの広場だ。

 だから、夏祭りの境内でひらかれるような、おでん屋や綿菓子屋がならぶ風景と、そこでの見世物興業、お化け屋敷ならぬテーマ・パークの出し物と見えなくもない、皇太子と皇太子妃の件(くだん)の光景も、じつは「人民広場」のナンセンス光景と、ダブル・イメージだったかともおもえる。

 だが、それだけでは、この一節があらわそうとするものを言い尽くしたとは云えまい。ここでは、「私」の使用した道具が用いられており、なにやらそこにこだわりがあるようにみえる。いかなるおもいがこめられているのか、上記の読み方では、いかにもあいまいだ。いま少し納得するには、この引用文だけでは不十分なのだ。

 芸術作品は一部分だけとり出しても、けっしてわからない有機体である。われわれの身体でも、循環器内科、消化器内科、血液内科、脳神経内科、眼科、泌尿器科、皮膚科の診断をいくらうけても、死んでいくときには、ほとんど関係ないようなものだ。

 じじつ、「夢譚」のこの一節も、次節へ読みすすめると、すこしちがったように見えてくる。

 これにつづくのはつぎの光景である。


 「あなたは? 皇室に?」

 と聞くと、

 「そうです、わしは、30年も50年もおそば近くにおつかえした者だ」

 と言うのだ。私が変だと思うのは、この老紳士は敵の中で危害も加えられないし、味方の殺られるのを平然と眺めていることではなく、老紳士の首に岩乗(ママ)な鎖で重いネックレスが首を縛っているように巻きついていて、(重いじゃァないかしらん)と私は眺めているのに、少しも重そうでないのはどうしたことだろう。その上、この老紳士は向こうの方へ指をさして、

 「あっちの方へ行けば天皇、皇后両陛下が殺られている

 と教えてくれたのだ。そうして私はのそのそと老紳士の指差した方へ人ゴミをわけて歩いて行ったのだった。そこでは交通整理のお巡りさんが立っていて、天皇、皇后の首なし胴体のまわりを順に眺めながら、人ゴミは秩序よく一方交通で動いているのだった。皇太子はタキシードを着ていたが、天皇の首なし胴体は背広で、皇后はブラウスとスカートで、スカートのハジには英国製と商標マークがついているが、私は変だとも思わないで眺めていた。仕上がったスカートにそんな商標マークがついている筈はないのに、変だとも思わないで私は、(天皇の背広も英国製だ)と思って眺めているのだ。ひよっと気がつくと天皇の首なし胴体のそばに色紙が落ちていて、私はそれを拾いあげて読もうとしたのだった。が、毛筆で、みみずの這った様なくずし字なので、さっぱり判らないのだ。


 さきの一節にかかわるものだけを問題にすれば、つぎのことに気づく。

 天皇と皇后も首なし胴体で横たわっているが、それは結果だけであって、もたらした行為は記されていない。「交通整理のお巡りさんが立っていて」、見物人を整理するような展示品にすぎない。記述の対象も行為でなく結果なのだ。もちろんそこに、「私」のマサキリが関与しているはずはない。それに、皇太子と皇太子妃の衣装と天皇、皇后の服装はまったくちがっている。天皇と皇后は、英国製とはいえ、ともかく庶民スタイルにもなる背広とブラウス・スカートだが、皇太子夫妻は、天皇一家のユニフォームらしきものであり、記述ぶりにも相違がある。前の一節では、妃殿下の衣装は小項目になるほどの説明がある。御守殿模様という着物柄が、実在するのか知らないが、御守殿とは、江戸時代に上級諸侯に嫁いだ将軍の娘の尊称だから、御守殿模様の着物とは、絶対支配階級のユニフォームのことだろう。しかも記述では、「私は御守殿模様の着物を眺めながら」と、ことさらに「私」の関心が強調されている。

 そればかりではない。次節を読むことでいっそうはっきりするのは、次節では天皇裕仁とも良子皇后とも記されることなく、たんに「天皇皇后の首なし胴体」なのに、ここでは、皇太子殿下であり美智子妃殿下と明記されている。

 それに、さきにもふれたが、「夢譚」全文で固有名称が表記されているのは、美智子妃殿下と昭憲皇太后と、物語の末尾で、悪夢にうなされた「私」を起こす甥のミツヒトだけだ。昭憲皇太后については、美子皇太后とされず諱であり、戦前からの慣例呼称だから厳密には一般名称である。また、ミツヒトも実在の人物、深沢の甥、三人(みつひと)であるが、カタカナ表記をすることで、ヒロヒト、アキヒト、ナルヒトなどとの連想を刺激し、物語の登場人物かと錯覚させるような名称記述となっている。

 それに、この一節は、全文中、「私」とのかかわりが特別な一節である。すでに、皇居へ来ることは「私」の意志からと記されていたが、ここでの「私」は、舞台上の出来事にたいする観客の位置にあるのではなく、間接的とはいえ、舞台上の出来事に「私」はかかわっている。それが、さきにも問題視したマサキリである。

 マサキリ描写へのこだわりは根深い。「首を切ろうとしているその人の振り上げているマサキリは、以前私が薪割りに使っていた見覚えのあるマサキリなのである」。しかも、マサカリでなく、マサキリ使用の理由まで語られる。もっともこれには、古来、ことに西欧では、首切り人が使用したのはマサカリだから、それへの配慮かもしれない。しかし、それとて「私」にからめた説明となっている。

 そればかりではなく、「(困る~、俺のマサキリを使っては)」とか、「(あのマサキリは、もう、俺は使わないことにしょう、首など切ってしまって、キタナくて、捨てるのも勿体ないから、誰かにやってしまおう)」の(   )つき挿入文の内面描写にいたっては、物語上、出来事への「私」の参加をあきらかにするものだ。

 こうしたことは、この一節には、右翼や「天声人語」が問題にしたのとは異なる意味において、小説家深沢の創作エネルギーを爆発させた、ほかとは密度のちがう課題があることを、示しているようにみえる。

 その問題にしているものを解くてがかりは、やはりこの、いわくありげなマサキリだろう。

 このマサキリは、「私」にとって見覚えあるものだ。しかも、このマサキリを、「首など切ってキタナクなったから、もう、俺は使わないこと」にするという。それも、「捨てるのも勿体ないから」、誰かにやってしまおうというのだ。この見覚えのあるマサカリには、彼の意識のどこかで、一年前のあのエッセー『これがおいらの祖国だナ 日記』が、はめこまれていたのではなかろうか。

 あのエッセーは、「皇太子・正田美智子結婚」パレードから直截に発想されたものだった。そして、あのエッセーは、それを戦後天皇の問題、「象徴天皇」の位置のふたしかを指摘する角度から見たのだった。

 しかし、あの「皇太子・正田美智子結婚」は、一年経った1960年6月では、皇孫、浩宮徳仁(なるひと)を誕生させ、また、日米修好100周年記念に日本国代表としての渡米が告知されるなど、つつがなく皇太子妃に、「象徴天皇」の糊付の役割をはたさせている。

 あのエッセーは、「皇太妃が民間から選ばれることには僕は反対だった」からはじまっており、とりあえずは、「(それが、すっかりダメになっちゃったんだよ)」とはいっていたが、それでも 「僕の瞼の裏側は未来の予想の写真を眺めていた。天皇陛下や国民が幸福になるにはもっと血族結婚が続けばいい」と明記していたのだ。

 そうしたおもいを、1960年8月の日本になると、たとえ逆説的諧謔としても、「もう俺は使わないことにしょう」というのが、「夢譚」小説の筋道をはみ出したところにあるのではなかろうか。

 とはいえ、民間人が皇太子妃になったことへのこだわりは、こだわりかたが変わったとはいえ、なおかれにあったとおもわれる。そのこだわりが、この特異な一節にあらわれているようにみえる。

 次節にくらべて、臨場感あるものである。

 後節のそこでは、「交通整理のお巡りさんが立っていて、天皇、皇后の首なし胴体のまわりを順に眺めながら、人ゴミは秩序よく一方交通で動いている」だけだった。首なし胴体が背広を着ているか、どんなブラウスやスカートを着用しているかだけを問題にして、話題は、そばに落ちていた「辞世の句」に移っていった。ところがこの節では、「皇太子殿下と美智子妃殿下が仰向けに寝かされていて、いま、殺られるところ」 からはじまっている。そして、「(あの)マサキリがさーっと振り下ろされて、皇太子殿下の首はずーっと向こうまで転がっていき」、マサキリはふたたび振りあげられて、「こんどは美智子妃殿下の首がスッテンコロコロカラカラカラと金属製の音がして転がっていった。首は人ごみの中へ転がって行って見えなくなってしまって、あとには首のない金襴の守殿模様の着物を着た胴体が行儀よく寝ころんでいる」のだ。

 美智子妃殿下の首は、金属製の音をだして転がっていっただけでなく、首が人ごみのなかに見えなくなってしまうまで、しっかりと見届けられている。そして「私」は、あとにのこされて行儀良く寝ころんでいる胴体の着物の柄を、きちんと見きわめようと努めている。

 こうした描写を、臨場感があるといったが、それは生々しいとかリアルというのではなく、感情の切実さが感じられるということである。

 かれは、1959年4月の皇太子と民間人正田美智子の結婚に、なにか見きわめなければならないものがあるのを察知したのだろう。それは、あの戦前日本では想像もできなかった、特異なもの、新しいもののようにみえたのかもしれない。これは、期待というような単純なおもいではなく、生活的好奇心とでもいったほうがよいかもしれない。ここでいう生活的好奇心とは、生活上のショック体験というようなおもいである。このおもいは、あの日、テレビ各社が総力で中継した結婚パレードをテレビで見た推定1500万人の視聴者や、皇居前広場でパレード馬車に飛び乗って新婚夫妻に手紙を手渡そうとした、ひとりの少年の行為にもあったおもいに、どこかで重複しているものだろう。

 そうした好奇心を、深沢は1960年6月の「国会デモ」でも、もったかもしれない。この「国会デモ」は、結果的には新安保条約はあっさりと承認され、なんの効果もなかったのだが、それにいたるまでには、全国的な安保阻止運動がおこり、何百万人の反対デモや交通ストが日本全土でおこなわれている。そして、国会審議にあたっては、何十万人の労働者、学生、知識人のデモ隊が国会をとりかこみ、警官隊とのあいだで死傷者がでる抗議活動となっている。その間、合衆国大統領アイゼンハウワー訪日の打合せのため来日した米大統領新聞係秘書ハガチーが、羽田空港で労働者や全学連学生のデモ隊に乗用車を包囲され、米軍のヘリコプターで脱出する出来事さえおこり、大統領訪日は取り消された。さらには、政府側当事者の岸信介首相は、条約批准書交換の日、閣議で退陣を発表した

(注.第1章  ‘60年代日本の風俗画 2)「デモ・ゲバ」風俗のなかの’60年代日本」[『百万遍』2号]を参照)

 

 これもまた、戦前の日本では一度もなかった事態であり、戦後はじめておこったことである。

 しかし、深沢は、今回の「国会デモ」を生活的好奇心をもって眺めながら、皇太子結婚のときとは、いささかちがう眼でこれを見ていたのではあるまいか。それが、ただ一回の使用とはいえ、「左欲革命」にあらわれ、また、「戦いに行くというのに買い物でも待っているように編物を編んでいる」などのさまざまに読める行間から透かし見えるようだ。「左欲革命」については、それさえ、「そうでなくて、政府を倒して、もっとよい日本を作るのだ」と批判されている。後者については、動員されたデモ隊のなかに、竹中労が指摘していたようものを感得したのかもしれない。阿鼻叫喚の現場のかたわらを、整然と行進するだけのデモ隊があったことである。「デモ・ゲバ」風俗のなかの一デモ光景である。

 しかし、そのデモ風景はかつての「皇太子・正田美智子結婚パレード」を思いださせ、かつてのおもいがはいりこんできたのだろう。政治要求をかかげる過激デモと「結婚パレード」は、水と油のようにまるで異質なものである。その異質なものがむすびつき融合したとき、「国会デモ」たいするものでも、「結婚パレード」にたいするものでもないものが、芸術的感動となり、文学的エネルーを放出したのだ。

 「デモ・ゲバ」風俗であるのなら、「いつでもスクラムをくんだり、バリケードなんかばかりではツマラナイ」から、それなりにもっとタノシク書いてやろうというわけである。革命サワギを書いてやろうというわけだ。革命といえばフランス革命であり、フランス革命といえば、ルイ16世とマリ・アントワネットのギロチンなのだから、こちらでも同じことをやらねばならない。1960年日本のルイ16世国王とマリ・アントワネットは、少々頼りないとはいえ天皇と皇后だろうから、やはり舞台は皇居になる。

 だが、ここでの深沢の芸術イメージの流れには、どうしても、あのエッセーを書かせた美智子妃と皇太子のことが邪魔するものとなってはいってくる。

 その邪魔を解消し、芸術的に昇華したのがあのマサキリであり、あの一節になったのではなかろうか。その解消の宣言が、「首というものは骨と皮と肉と毛で出来ているのに、スッテンコロコロと金属製の音がして」転がっていく首になってまずあらわれる。

 この「夢のなかの革命」では、美男美女とか賢明な頭脳の持ち主は不要である。ひとの美醜や賢明な頭脳はほとんど首(こうべ)が荷っている。そんな首はいらない。胴体だけでよい。いや、ひよっとすると、「ムカデの様な、皮をむいた蝦や蝦蛄(シャコ)の様」かもしれない胴体もいらない。この「夢のなかの革命」の天皇や皇后は、あるいは、皇太子、皇太子妃も、ユニフォームだけのものだ。金襴緞子の衣装のうえにあって、斬られるのを待っている首は、お人形さんの首、斬られて転がれば、カラカラコロコロ音がする首でなければ絵にはならない。物語にならない。

 そうした、斬られて転がるだけの首ではあったのだが、美智子妃の首の行方は、人ごみのなかに見えなくなってしまうまできちんと見とどけた。民間人が「天皇」になった顛末は見とどけた。

 それなら、「天皇」が民間人になるというのはどうゆうことだろう。身をもってそれをたしめようというのが、すでにその一部を紹介した、このあとにつづく一節に登場する昭憲皇太后とのエピソードである。それをどのように読むかは「夢譚」作品全体にかかわるから、今回はひかえるが、ここまでであきらかにいえるのはつぎのところである。

 小説『風流夢譚』は、’60年代風俗である「デモ・ゲバ」風俗と「皇太子・正田美智子結婚」パレードにはじまる「パレード」風俗を合体してとらえ、そこから、ボスの絵画「悦楽の園」や「乾草運搬車」がそうであったような、’60年代風俗画のアレゴリー、「革命パラダイス」とも名づけてもよいアレゴリー小説といえるものになるだろう。

 とはいえ、それだけでは、深沢の作家行動を説明したことにならない。「天声人語」は、「作品」批判をしただけでなく、「楢山節考先生脱線の巻」だと、かれの作家行動を否認した。「右翼」にいたっては、深沢の「国外追放」を要求したのだった。

 だから、さいごに一言だけ、芸術家の行動といえる、芸術(アート)の由来であるその制作技法(アート)とその結果についてふれておかねばなるまい。

 この作品は、最初から最後まで「夢の話」に設定されている。「天声人語」も、「小説だからよい、夢物語だから許されるというものではなかろう」とそれを問題にしている。深沢自身も作品のなかでいくたびも、「私」が思ってもいないのに、「変だとも思わないで ~ しているのはどうしたことだろう」と、ストーリーの要(かなめ)部分にくると記している。

 これが「夢物語」に立脚しているというのは、とうじの批評家も指摘し、この形式が効果的弁明になっているという者もいた。たしかに「夢」は、作品形成に重要な役割をはたしている。

 1914(大正3)年生まれの深沢にとって、この作品を創造することは勇気のいる行為だったろう。かれは、二・二六事件(1936年)にはじまる軍国主義天皇制の成立過程と、その過酷な実体を、現実原体験として経験した。だから、このような小説を書くことの障害を知悉し、承知していたにちがいない。ただし、その承知していた障害への対抗手段は、「天声人語」や評論家がほのめかしているような、対外的おこりうる面倒な事態への対抗のためだけというのではない。対外的困難への防衛だけではない。むしろ、制作を妨げるもの、かれ自身のうちで書きつづけるのを妨げるものへの、対抗の手段である。

 芸術家であるかれのうちでは、戦後15年目になる、1959年から1960年に、すでに述べたような、あらためて体験したものを、いかにしても芸術的に表現したいという欲望が出口をもとめ胎動しはじめたのだろう。そして、その噴出を妨げるものへの対抗的手段にも、この技法はなったかとおもわれる。もちろんここでいう技法とは、最初にのべたモザイク構成を包括するものである。ことば化したイメージをそのまま噴出させたのでは支離滅裂となるようなイメージ表現を、連結させる役割を「夢」技法ははたしている。無謀連結をさせるには、最適の技法である。

 ひとつのイメージをふくらませ、慎重に凝結させ、それらしきものに型つくるには、かれが原体験的にもっている感情がどうしても完遂を妨げる。しかも、そのときのかれの芸術的感動から放出されたエネルギーは、奔放にとどまるところなくイメージを暴走させている。

 そのイメージをとりあえずは繋ぎとめ、それによって思いもかけないつぎのイメージにむすびつけるには、「夢」は最適の技法である。

 初期のシュルレアリストは夢に関心をもち、好んで自己催眠におちいり、そこで見た夢を口述筆記する実験をくりかえした。かれらがおこなったのは、現実の夢をかれらの制作手段にすることであり、初期シュルレアリスムの代名詞であるエクリチュール・オートマティック(自動筆記)の技法に通じる実験である。

 だからシュルレアリストの夢実験と、深沢がここでもちいる「夢」はまるで異なるものだ。しかし、シュルレアリストが体系的に追求したエクリチュール・オートマティックとか、偶然の探究とかの技法効果は、この深沢がやむをえず採った夢物語では、執筆をつづける深沢自身に、期せずして同じような効果をおよぼしているのではなかろか。

 ブルトンによれば、シュルレアリストの「夢」というのは、「客観的偶然」がそうだったように、それまでまったく無関係だったものが、瞬時にして密接な関係をもつものとなる現象である。そして、それがおこるのは、無意識には必然として感じていながら、まったく自覚していなかったその必然性が、突如としてわかる「悟り」であり、その瞬間的悟りの感得を、シュルレアリストの美の定義である「痙攣させる美」を感じるというのであろう。シュルレアリスム的に言えば、偶然や夢は、「無意識のなかに道を開いた外的世界の必要性のあらわれ」である。

(注.「解剖台のうえで、ミシンとコウモリ傘が偶然出会ったように美しい」というロートレアモンの散文詩の一節が美の定義となる.)


 これを、「夢」を用いた深沢にあてはめれば、つぎのように云うことが可能になるだろう。

 かれのなかでは、無意識的に必然と感じていながら、原体験的に植えこまれたいわれのない恐怖か畏怖によって、妨げられていたイメージの関連が突如としてわかり、一気に奔流となって迸りでる契機になったということだろう。「夢」の技法は、やはり深沢にとって、「夢譚」制作に不可欠な技法だった。

 だが、「夢」の効用はそれだけではない。シュルレアリスムでは、偶然や夢は、「無意識のなかに道を開いた外的世界の必要性のあらわれ」という。シュルレアリスムの夢は行動に直結すると、ブルトンは語っている(注.『通底器』参照)

 深沢はこの「夢譚」を芸術として制作したのである。芸術作品は、書くだけでは成立しない。書き発表すること、外的世界に割り込んでいかなければ、芸術作品にはならない。かれはあえてこれを書き、公表したのである。かれは、作家として直接行動をおこなったといえる。作家の行動は、創造することである。創作し発表することである。かれは、内にある障害も、外にある障害も承知のうえで、直接行動におよび、その結果がこの「夢譚」だったといえるのではあるまいか。


 今回紹介した『風流夢譚』は、あらかじめ断っておいたように、この番外篇の前提となったこの作品がどのようなものであり、筆者がそれをどう解釈しているかを述べておかねばならないとおもったからであって、『風流夢譚』全体像について語ったものではない。『エクイプメント・プラン』や中央公論事件が問題としたような作品ではないことを、説明したつもりである。しかし、また、一方では、この理解は、『風流夢譚』にとうじ関心をもった「ハイレッド・センター」のメンバーたち、ことに赤瀬川原平の「夢譚」への心情的共感と、おおきく相違しないとおもっている。


目次へ



©  百万遍 2019