Avant 2-3-5

第2章「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」


3)トリスタン・ツァラの『ダダ宣言 1918』とアンドレ・ブルトンの「反芸術」


Part  5 


 それはさて措き、ここではさらに、ブルトンが関連してあげている、「芸術と生活(人生)の問題」の外で演じられる、芸術家デュシャンの二種の芸術行為についてすこし検証しておこう。

 まず、「デュシャンが、もうすぐかれの人生十年間を捧げることになるガラスの作品(タブロー)」とは、翌年の1923年に未完のまま制作を中止し、公開した、大作「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」のことである。

 ひそかに制作中のこれについて、ブルトンは、実見体験はなかったはずだが、この『文学』誌のデュシャン特集号には、マン・レイの写真「埃の培養」が掲載されていることからも推測できるように、すでに具体的に、さまざまな実検分者たちから、さまざまに聞かされていたことであろう。にもかかわらず、造形作品としての「大ガラス」自体には、ほとんど無関心の記述である。その特異な制作過程について、あるいは、とちゅうで試作され、描かれ、すでに発表されていたその片鱗について、一言もされていないのは、いかにも奇妙である。「大ガラス」の下辺部を構成する「チョコレート粉砕器」や水車の原型である「水平のある滑溝」などの油彩画、「停止原基の網目」などは、すでに公開され、その「絵画にあらざる絵画」について話題を提供していたからである。  

 「デュシャンにとって、芸術と生活(人生)の問題が問題とならない」例証のいっぽうであるこの「大ガラス」については、ただ、「これは知られざる傑作ではなく、完成するまえからすでに、最大級の伝説と化して大騒ぎになっている」という記述だけである。「知られざる傑作」とは、バルザックの短編小説に由来し、インスピレーションのみちびくままに加筆に加筆され、絵具にうずめつくされた画面は、ついに画家本人にしか、理解できぬ代物と化した名画のことであろう。「知られざる傑作でない」ということは、「知られた傑作」ということであって、「大ガラス」は、本人はかくれて、じぶんだけのために制作しても、大評判になっているということであろう。最大級の数々の伝説(les plus belles légendes)が流布しているとは、過剰な感情がこもっている表現である。そのような(芸術)社会評価に偏重した関心があることをしめす表現である。

 さらに、ここでは、ブルトンが注目するもうひとつのデュシャンの(芸術)行為についても、注目しておこう。

 かれは、デュシャンがこれからおこなう芸術行動を予測するには、「特殊な検討を要する、ローズ・セラヴィーと署名されたあの奇妙な『ことば遊び』のなにがしかを思いだせば十分であろう」といい、『ことば遊び』の一例として「衛生学上の内密の助言 ─  剣の髄(la moelle de l’épée)を、愛する女(ひと)の毛(le poil de l’aimée)のなかにつぎこまねばならない。(Il faut mettre la moelle de l’épée dans le poil de l’aimée.)」を掲げる。 (注. 解釈のうえから原文を併記した.) 

 「特殊な検討を要する」のは、ローズ・セラヴィーという署名なのか、『ことば遊び』そのものなのかは、厳密にはわからない。しかし、順当に判断すれば後者であろう

(注.のちの『黒いユーモア選集(Anthologie de l’Humour Noir)』(1940年)に、この句のバリアントが掲載されている. また、後年(1953年)、『吃水部におけるシュルレアリスム』のなかで、「鳥の言葉」のひとつとして、オートマティスムと関係させて、デュシャンをあげている.) 


 引用された『ことば遊び』については、「ムワール(moelle)」と「ポワール(poil)」、「エペ(épée)」と「エメ(aimée)」の同音と、〈m〉と〈p〉の相互交換の組合せがある。「剣の髄を、愛する女(ひと)の毛のなかにつぎこまねばならない」という表現内容については、通俗的エロチシズムの罪のない諧謔をみるか、それとも、もしかして、トップ・シークレットであったはずの、「大ガラス」のタイトル「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」を暗示するのだろうか。おそらくは、ブルトンがこだわるのは、言語芸術としての この「ことば遊び」の形式にあるのだろ。そして、「これからありそうなこと」とは、シュルレアリスムのオートマティスムや夢遊状態の錯乱の記述に、結果的に類似した、こうしたデュシャンの言語表現のことをいい、かれが仲間になることの期待であるのかはわからない。

 だが、他方では、ブルトンの指摘にもあるように、こうしたデュシャンの「ことば遊び」はすべて、ローズ・セラヴィー(Rrose Sélavy) の署名入りで書かれていることに、われわれは留意しなければならない。

 この名前は、「『(水を)撒く、ふりかける』〔arroser〕 という動詞の二重の〈 r 〉にからめた、『薔薇』(rose)であり、『薔薇こそ人生』〔Rose, c’est la vie〕となるから、この偽名にしたとみずから説明した」とよく指摘されるものである。 (注. アンリー・べアール『アンドレ・ブルトン伝』など)

 しかし、韜晦を常態とするデュシャン、というよりむしろ、みきわめるのがそれほど至難なかれの思想を、この命名ではよく見きわめておかねばならない。

 デュシャンが、はじめてこれを名乗ったのは、二年前の1920年、ニューヨークにおいてであった。その名をRroseとしたのは、1921年のパリにおいて、ピカビアのミックスト・メディアの作品 「目薬(カコジル酸塩)を点した目」(L’OEil cacodylate)」に参加したときからである。これは、眼病にかかったピカビアの作品であって、キャンパス中央に「L’OEil cacodylate」と記し、それに写真、絵葉書をコラージュし、そのほかの大部分の余白を、訪問者のサインや寄せ書きでうずめたものである。これにデュシャンは、「目薬を点す、それが人生さ(Sélavy)」と、サインと二重に解せる、〈l’arrose, Sélavy〉 と寄せ書き参加したのだった。(注. 数種のピカビア画集から判読をこころみたが、これいじょうは解読できなかった. l’arroseの前に、なんらかの主語があるのかどうかわからない.) そして、これ以降、〈Rrose Sélavy〉が定着したといわれる。

 ということは、ピカビアの「サイン」作品以前からこの改名はあったのであって、それがなにを意味するかということである。それに、まず、「薔薇こそ、人生」にしても、それだけではわかりにくいものがある。

 この命名は、男性から女性へのアイデンティティの変更であって、当時のニューヨークで議論の的となっていた、フェミニズム、それに対抗反応したアンチ・フェミニズムや、反ユダヤ主義にからめて、女性名とユダヤ人にまぎらわしい名をえらんだ、という説がある(注. Bernard Marcadé: Marcel Duchamp ─ La vie à crédit)

 ローズはあきらかに女性名であるし、セラヴィー(Sélavy)は、ユダヤ系家族名に多いレヴィー(Lévy, Levy)を連想させる名称である。これらが、たんなる匿名やペンネームでなく、変身であるのは、当時(1921年)、ローズ・セラヴィーとして女装したポートレートが、マン・レイによって撮影されていることからもあきらかである。また、同時期、星型に剃りあげた後頭部をおなじくマン・レイが撮影し作品化している。これは、ユダヤ民族の象徴であるダビテの星の六芒星ではなく、五芒星であるが、この頭をさらしてニューヨークの街を闊歩するのは、反ユダヤ主義にたいする、明確なデュシャン・スタイルの挑発である。これに激昂する相手に、「ホラ、コレハ五芒星ダヨ 」といって、やり場のない拍子抜けをさせるデュシャンの手口である。女装し、科(しな)をつくって微笑みかけるのもどうようである。

 これが、きまぐれな冗談でないのは、フェミニズムにかかわる挑発は、かれの作品の主要テーマである。レディーメイドの作品「フレッシュ・ウィドー」は、ローズ・セラヴィーの署名であった。また、妻として母として理想の女性を体現する「モナ・リザ」に、男性の口髭をつけ、「L.H.O.O.Q」を制作したのもおなじ思想からであろう。  

 ここにあるのは、フェミニズムか反フェミニズムの問題提起にたいして、性同一の視点を対抗させることである。その視点から試みられた、アイデンティティの芸術(表現)的変更であろう。性同一の視点から男性的なものと女性的なものをあつかう作品は、そのほかにも数多くある。愛とか恋についても、その延長から、おなじような見方をしていたのではないかとおもわれるものがある。

 しかしながら、こうした思想が、「L.H.O.O.Q」のような、あるいは、広義では「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」のような芸術的表現をとるのは、つぎのような基本的姿勢があるからであろう。

 つまり、フエミニズムにせよ反フェミニズムにせよ、女性崇拝、蔑視にせよ、それらを、そのようにあつかう社会風俗への反抗がその根底にあることである。文化的後進国であるアメリカが憧れる、ヴィクトリア朝スタイルのお上品な社会風俗への反抗が、あの男性用便器「泉」であった。そればかりか、そのレディメイドそのものも、また、「大ガラス」も、芸術とはかくなるものという社会風俗への反抗であった。デュシャンの芸術は、社会風俗への反抗であったということができるであろう。批判ではなく反抗である。マルセル・デュシャンは、風俗のなかで風俗の反抗をする、風俗的反抗者である。

 さまざまな現れかたをした反抗の芸術であろう。最後の大作「落ちる水と照明用ガス灯があるにせよ」にしても、鍵穴をのぞくように、盗み見するあの作品は、文明社会の現代風俗に染めあげられた鑑賞者が、風俗的にながめる光景、とする解釈も成立するであろう。が、これについては本論をやや逸脱するからここまでにしておこう。

 そうしたローズ・セラヴィーについて、ブルトンがそれらをどこまで承知していたのかわからない。初出の『文学』誌では、「セラヴィーとローズ(Sélavy et Rrose)」のふたりであり、単行本『失われた足跡』に収録されたときには、Rrose Sélavyと修正されている。ユダヤ人名と女性名と受けとっていたようにもおもえる。そして、ことさら無視しているとも邪推できる。なぜなら、デュシャンの性同一の男性・女性観を、のちに『狂気の愛』を書き、また、そのときシモーヌとの愛をはぐくんでいたようなブルトンは、けっして容認することはできなかったであろう。また、反ユダヤ主義についても、この後のツァラと反目した時期、ツァラにむかってレイシズム的発言あったとかいわれるほどであるから、はたしてどのように考えていたのかわからないからである。

 しかし、看過せず、留意しておかねばならぬのは、うえにのべたような風俗反抗者としてのデュシャンに、ブルトンが、気づいていたのかどうかである。前年、現存するモーリス・バレスを被告とする「バレス裁判」を実演し、2年後にはアナトール・フランスをあれほど過激に批判し、さらにその1年後のモロッコ戦争では、シュルレアリスムの社会批判の立場から反対運動をくりひろげた、あのブルトンが、こうしたデュシャンの、風俗のなかの風俗的反抗には、まったく反応していないのは、不思議としかいいようがない。

 レディメイドについても、そののち 『花嫁の灯台』(『シュルレアリスムと絵画』)や、『黒いユーモア選集(Anthologie de l’Humour Noir)』のマルセル・デュシャンの項目で、さまざまに言及しているが、この男性用便器「泉」については、ひとこともふれられていない。

 そして、ブルトンとしての、「マルセル・デュシャン」の最後の結論は、「デュシャンにとって、芸術と生活(人生)の問題は、問題となっていない」であった。ということは、シュルレアリスム発足直前のこの時期(1922年)のブルトンと「芸術」の関係は、1918年のあの『ダダ宣言 1918』におけるツァラと、おなじような関係にあったのではないかということである。芸術を生活からみる関係である。

 すでにみてきたように、デュシャンにとっては、芸術と生活(人生)の問題ではなく、芸術と自己の問題、つまり、芸術と個人のアイデンティティーの問題は、問題となりえないとするべきであっただろう。

 にもかかわらず、ブルトンは、それを「芸術と人生(生活)の問題はない」としている。いままでのかれのいうところからすると、ブルトンの〈VIE〉は、日常生活的ニュアンスをもつ〈VIE〉ではなく、生涯目標にちかい「人生」であって、「芸術と人生の問題がない」とは、世間的に評判高い芸術を追求しないというていどのことである。

 要するに、ブルトンがこの「マルセル・デュシャン」でこだわっているのは、デュシャンではなく、デュシャンと芸術である。しかもそれは、デュシャンをだしにして、芸術をかたってみせることである。そのことが、「デュシャンの個人とデュシャンの芸術」でなく、「デュシャンの生活(人生)ぶりとデュシャンの芸術」をそこに見させたのだとおもわれる。つまり、デュシャンはこんな作品をつくっていても、こんなに評判になっているではないかということである。

 ブルトンの、芸術と人生(生活)の問題には、『シュルレアリスム宣言』でもちらりと見えたヒロイズムの名誉のように、芸術家の世間的評価の観点が混在しているようにおもえる。というのも、デュシャンが「軽蔑」したとブルトンがいう「命題」で、芸術的「命題」は、印象派やフィヴィスム、フュチュリスム、キュビスムのように、流派をつくり、流派は、世間的評価に直結するからである。おそらくそのことは、ブルトンの意識にもふくまれている。なぜならば、「芸術と生活(人生)の問題」が、「現在私たちを分裂させそうな問題」のひとつだというのは、そうしたことを暗黙裡にしめしているからである。

 しかしながら、そこには、たんに一般的人生だけでなく、今の生活の問題が背後に隠れているようにもおもえる。つまり、印象派やセザンヌの評判は、それによってかれらの作品が世に知られ、うけいれられ、美術館やコレクターや個人愛好家に購入されていった。 芸術家が芸術によって「飯が食える」のは、まず社会的評価にはじまることである。ツァラもまた、そのことに、あの『ダダ宣言 1918』で執拗なこだわりをみせていた。ブルトンの『シュルレアリスム宣言』の結論に書かれたあの独立戦争でも、名将チュレーヌのエピソードがひそんでいたことからも、やがてこの独立戦争に勝てば、ひとりでに社会評価をうけ、安楽な生活ができるという期待がみえないこともない。芸術の生活化の問いは、ここでも遠くから聞こえてくる。

 デュシャンにとっては、芸術と自己のあいだに問題はなかった。しかし、芸術の生活化はかならずしも明瞭ではない。芸術でメシを喰うのか、喰わないのかの問いにたいして、喰えればいいし、喰えなくともそれでもいいという、あいまいさがある。それは、おおかたの芸術家皆んながそうなのだから、ことさら指摘するまでもないという、意見もあろう。しかし、デュシャンについては、それはあたらない。つまり、芸術で喰えない場合、なによって喰い、そのとき芸術はどうなるのかということである。かれの芸術自己の関係は最優先事項であるから、自己と芸術の関係が切れるような生活はけっして容認しない。たとえば、昼は商社員であって、夜、小説を書くという生活はしないのである。じじつ、デュシャンは、生涯いちども職につくことはなかった。生活を芸術化して作品を制作したり売ることを、いっさいすることなくである。

 かれは、1913年にニューヨークで開催されたアーモリー・ショーに「階段を降りる裸体(ヌード)」をはじめ4点の、フランスではさほど評価されなかった作品が推薦出品され、衝撃的な好評をえた。これは、現代芸術をアメリカに紹介するための国際現代芸術展である。これを契機にアメリカでは、コレクターや若い芸術家の熱心な愛好家がふえ、かれらは友人やパトロンとなった。そうしたことから、ヨーロッパではじまった第一次大戦の影響、徴兵や直接的戦火からのがれる目的もあって、ニューヨークへ居を移した。

 居を移したといっても、おおくは、そうした人たちのところでの居候暮らしや、パリの友人の現代芸術家たち、たとえばブランクーシーなど、まだアメリカではほとんど知られていない作家たちを紹介したりの、自分が所持する彼らの小品を売買したりして生活をたてた。ときどきは、フランス語の家庭教師をすることもあった。その間、レディーメイドを制作し、ひそかに「大ガラス」制作に従事していたのではあったが、それらが売れるわけもなかった。

 したがって、「妻、子供たち、別荘、車」をもつことなく、そのほとんどの生涯をおくった。かれは、晩年の回顧的対談で、「生活のために働くこと」をしなかったから、幸福な人生であり、大きな不幸や悲しみにとらわれたことがない、と断言している。ここでいう、、生活のために働くことをしないとは、じぶんの生活に重荷をおわせ、負担をかけすぎないということであった。負担をかけすぎるものは、「妻、子供たち、別荘、車」であって、早い時期にさいわいこれに気づいたから、幸運であったといっている

(注. マルセル・デュシャン/ピエール・カヴァンヌ『デュシャンは語る』)


 これを、ちがう見方からいえば、かれは二度、結婚しているし、認知していない娘がひとりいる。また、数回の遺産相続もしている。一回目の結婚は、あったかなかったかの短期間であったが、あとの結婚は、81歳で死ぬまでの十七年間の生活であった。妻のティニーは、画商ピエール・マチスの妻であった女性である。ピエール・マチスは、アンリー・マチスの長子であったが、はやくからニューヨークで現代芸術家、ことに、ミロやジャン・デュビュッフェ、ジャコメッティをあつかい成功した画商である

(注. 拙著『戦後政治体制と現代芸術━ 第二次大戦後の芸術界の動向 ━』[『百万遍』2号掲載])


 おそらくは、そうしたことが、デュシャン晩年の、画商 アルトロー・シュワルツが主導した大量のレディーメイド複製制作をさせ、物質生活になんらかの影響をあたえたとおもわれる。日本でもそうした例は多々見られたものである。

 ただし、こうした結婚や物質生活が、デュシャンの生活自体に 「重荷をおわせ、負担をかけるもの」ではなかったのはもちろんである。

 デュシャンにとっては、まず個人と社会とのかかわりの問題がある。そのかかわり方の整理と表明のひとつが芸術行為である。したがって、芸術は個人の問題であるから、芸術と個人のあいだになんの問題もない。そして、それとの関係において、芸術と生活の問題があることになる。 

 芸術のなかのかれは、風俗のなかで風俗の反抗をする、風俗的反抗者である。社会風俗は、戦時体制の風俗にせよ、フェニミズム/アンチフェミニズムの風俗にせよ、出自や国籍の風俗にせよ 個人に直接おおいかぶさってくる外的社会の生活環境である。かれはそれに、批判ではなく反抗する。たとえば、かれは第一次大戦でも第二次大戦でも、批判する反戦ではなく徴兵拒否の逃亡をしたことであらわされる「反抗」である。第二次大戦中には、国籍があるアメリカの戦争動員をきらって、ひとときは南米に逃れている。

 しかし、こうした多種多様にあらわされる反抗には、自己満足的なところがある。

 たしかに、かれの生活とかれの芸術のあいだには、たがいを破損させるような齟齬はなかったかもしれない。だが、それで芸術と生活の問題が一般的に解消されたことにはならない。一般化できない、たまたまそうなっただけの、あるいは客観的偶然のようにみえる問題の不在である。この偶然には、かれの生活のあいまいさが必然的に露呈しているということである。

 かれの生活は、おもにアメリカの芸術共同体のなかで、全うしたようにみえる。だが、それは、ツァラが『ダダ宣言 1918』で、パリへの出立をまえにして夢みたような、かれの想像界の芸術共和国で暮らしただけのことかもしれない。そのことは、たとえば、かれの生活の抜け殻である「レディーメイド」や「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」の複製が、高額取引の対象となり、美術館に陳列され、芸術共和国とは縁もゆかりもない美術品となっていることからもあきらかである。現実の芸術共和国はまだどこにもないのである。  

 つまり、かれの生活によって生活化されたかれの芸術の問題は、現実界にはやはり存在していたのである。

 それは、かれ自身が1962年のハンス・リヒター宛の書簡で指摘した、「安物の気晴らし」となってすがたをあらわすような問題である。

 デュシャンは、「ネオ・ダダとういうのは、ダダのやったことを喰いものにしている安モノの気晴らしです。レディーメイドを見つけたとき、私は、美術主義(esthétisme)のお祭りさわぎに水をあびせかけたいとおもっていたのです」といっていた。原文は〈une distraction à bon marché qui vit de ce que Dada a fait〉であって、「ダダのやったことで、生計をたてているマーケットの流用商品」とも解せるものである。また、〈distraction 〉には、〈demande en distraction〉の用例もあり、これは「[法律用語](誤ってなされた)差し押さえ解除請求」の意である。これらは、画商のウィンドーに陳列される「ポップ・アート」や「ヌヴォー・レアリスム」の作品をおもわせぬこともない。さらには、デュシャン、あるいは、シュルレアリスムにより直接かかわるものでは、’60年代に「ヌヴォー・レアリスム」につづいてあらわれた芸術エコール「フィギュラシィョン・ナラティヴ(Figuration Narrative)[物語する映像]」がある。

 これに属するエロ(Erró)やモノリー(Jacques Monory)、アロヨ(Eduardo Arroyo)、それに、アダミ(Valerio Adami) らの作品は、表現されたテーマは車社会を風刺し、チョッキを着たレーニンや柔和な毛沢東の立ちすがた、ニューヨークを占拠する紅衛兵を描いて、デモ・ゲバを礼賛し、あげくのはては、「デュシャン絞殺」やシュルレアリスムを揶揄して、’60年代体制への反抗をあらわすものであった。

(注. ここで作家の名前をフルネームであげたのは、関心のある読者の検索の便のためである. 本論ではかれらに言及する予定はない.)


 だが、これらは、すでに、かれらの暮らすヨーロッパでは、新聞記事にしか登場しない紅衛兵や学校教科書にも記載されているレーニンからみても、そうした作品制作には、ファッション化した反抗風俗の表現があるだけで、個人的反抗の残滓さえみあたらない。ダダの自主性などはどこにもないものであった。ほとんどの場合、反抗の風俗的空洞化をこころみているとしか、いいようのないものである。

 そして、これらの作品は、さきのレディーメイドの複製を主導したシュワルツの画廊をはじめ、おおくの画廊の人気商品となった。それは、20世紀初頭の、当初のレディーメイドの男性用便器瓶乾燥機とは、似ても似つかぬキレイな仕上がりの作品で、パリやミラノ、ニューヨークのトップモードの街のショーウィンドに陳列されるにふさわしかった。「美術主義のお祭りさわぎに水をあびせかける」どころか、それを時代にあわせて補強し強化するものであった。じじつ、この傾向は、その後の欧米の大ブルジョワのサロンに、ネオ・ダダの作品がエジプトの古代彫刻とならんで陳列されるという事態にまでなることになる。

 まさにこれらは、差し押さえが解除されたデュシャンで生計をたてる、マーケット商品になっていることである。   

 そして、これらについて、「私は挑発のために審美主義者の面(つら)に、ビン乾燥機やションベン壺を投げつけてやったのです」と、当初の意図を弁明したからといって、デュシャンが免罪されるわけでもない。世界のめぼしい現代美術館に、新品同然のレディーメイドがならび、美術雑誌やモード雑誌で喧伝される評価が解毒剤となって、審美主義的これらの作品をうみだしたといえぬことはないであろう。(図版14. モード雑誌の表紙になった「大ガラス」) かれの生活によって生活化されたかれの芸術の問題、そこにあるあいまいさがそこに露呈し、かれの芸術を元の黙阿弥にかえしかけたのだと、いまとなってはいうことがでる。現在におけるデュシャンの芸術上の位置は、従来からのクロニクルな芸術史のなかに十分納まっているからである。

 


図版14: (モード雑誌の表紙になった「大ガラス」)




 つまり、デュシャンの芸術の生活化は、かれの想像界だけにあったことで、現実の「ヌヴォー・レアリスム」や「フィギュラション・ナラティヴ」などのネオ・ダダのアーティストたちには一般化できないものであった。

 ’60年代アヴァンギャルドで、「反芸術」と芸術の生活化は、現実的にはさいだいの課題であった。「反芸術」を生活化できるかできないかが、「反芸術」そのものをさだめることになる。

 そうした見地から、’60年代アヴァンギャルドの「反芸術」の源泉である、20世紀初頭のアヴァンギャルドのかかえた類縁した課題を、ここにみているわけだが、さいごに、デュシャンとは異なる、ブルトンのたどった道を一瞥しておこう。

 ブルトンでは、かれの思想であらわした芸術論では、芸術と人生(VIE)の問題はないとしている。いや、むしろ、芸術と人生の問題はないとすべきだといっている。それは、世間的評価を気にしないというていどの問題の不在であった。しかも、その人生(VIE)には、生活(VIE)の問題は、意識的か無意識か、隠されているようにおもえる。

 しかしながら、かれの行為であらわした「芸術論」では、ある種の「芸術の生活化」がこころみられているようにおもえる。ブルトンのいままで読んできた、シュルレアリスム発足時である、その頃(1921~1924年)書かれたものでは、あるべき芸術とメチエとしての芸術の矛盾を、いかにして解消するかが、深層における最大のコンプレックスとなって(「抑圧されながら無意識のうちに存在し、現実の行動に影響力をもつ」というぐらいの意味)、表現から滲みでているようにおもわれる。

 ブルトンがこのころから熱心におこなったのは、じぶんの選択した芸術作品の推薦であり、個展開催による制作・芸術活動の援助であった。マン・レイのパリ最初の個展は、ブルトンの尽力により、スーポーの妻が経営する画廊においてなされた。

 そのほかにも、コレクターのジャック・ドウーセの芸術顧問に正式に就任し、積極的にじぶんの推薦する作品の購入をすすめた。正式に就任したというのは、直接面談や書簡推薦のばあい、面談料が支払われ、書簡は買いあげられたということである。

 ジャック・ドウーセ(1853−1929)は、当時のフランスで人気のあるデザイナーでありオート・クチュール経営者であった。そして、すでにふれたように、前世紀から芸術・文学コレクターとして、また、メセーヌ(庇護者)として積極的な活動をしていた。かれの蒐めたぼうだいな文献・資料は、現在でも貴重な資料館となって公開されている。ブルトンは、晩年のこの大芸術パトロンに熱心にじぶんの基準からの芸術推薦をおこなっている。いっぱんに芸術顧問というのは、あたらしい知識を提供しながら雇い主の好みをみたし、その利益をはかるものであるが、ブルトンは相手の説得をはかり、同調させようとしているようにみえる。 

 たとえば、デュシャンについても、つぎのようにかれを推薦する手紙がのこっている。


・・・・ もしこの男が、これほど遠くにいるのでなく、結局のところ絶望からきているのではなければ、私が、もっともなにかを期待する気になれる男です。大衆から距離をとり孤独で、(キュビスムやダダイスムのような)あれほど輝かしかったどのような冒険のヒーローにも、なることを望まなかった男です。あらゆる近代(芸術)運動の起源にいながら、これらのさまざまな運動のどれれからも逸脱した精神のもち主であり、彼の思想は、私の救いです。(1923年8月12日の書簡)

(注. François Chapon: C’était Jacques Doucet) 


 ここにしるされているのは、かれの芸術論である「マルセル・デュシャン」の記述をわかりやすくのべたものである。そして、やがてドウーセに、数点ではあったが、デシャンの小品を購入させている。それが、どの作品かはわからないが、1923年当時のデュシャンの、コレクター・レベルの観点からいえば、作品とはいえぬ「作品」になんらかの関心をもたせたというのはおどろきである。また、ドウーセの関心はこれにとどまらず、そのころデュシャンが制作をもくろんいた着色回転盤制作では、資金提供をおこない、これを完成させている。(図版14(着色回転円盤)参照)

 もちろん作品解説もしている。ブルトンが熱意をこめて推薦した作品にはピカソの『アヴィニヨンの娘たち』があり、アンドレ・ドランの作品がある。また、あの反ー画家のピカビアを、ドウーセに直接会わせたりしている。

 そのほか、マチスの「金魚鉢」や「目のない女」について、つぎのように推薦し、これを購入させた。


・・・・ おそらく大戦後(注.第一次世界大戦)の展覧会で、これほどまで重要な絵画作品を私は見たことがありません。私は20回もこの絵を確認しました。これは、まさに、前代未聞の自由、知性、センス、大胆さから同時にうまれたものです。デフォルマション、ひとつひとつのモノに浸透する作者の生活からくる強烈な洞察力、色彩の魔術、そこにはすべてがあります。(1923年11月6日)


 この推薦文にはいささかの疑問があろう。二年前の「アンケート」判定では、20点から -25点の評価基準で、10点評価の芸術家であり、一年前の『はっきりと』では、「ヴァレリーとか、ドラン、マリネッティといったやから」の先頭にあって、「自業自得、溝の際までいって落っこちている」画家であった。

 かれの芸術思想をうらぎる、二枚舌がかたる推薦のようにきこえる。いや、かならずしもそうとはいえぬものが、ここにはある。20回は誇張であるにしても、数回いじょうは観たことのある作品であるのは事実であろう。そして、戦後数年いじょうにわたって、マチスは、ブルトンの愛好する画家であったのであろう。

 だからこそ、『はっきりと』にしるされていたように、わざわざかれに会う機会をつくってもらったのであろう。ブルトンにははやい時期から、自分が関心をもつ芸術家には、すすんで会いたがる傾向がある。ヴァレリーやアポリネールがそうである。サドをはじめて教えてもらったのはアポリネールからであったのは、ひろく知られていることである。そしてマチスについては、そこでえた落胆の落差が、あの過剰の評価を書かせたともおもわれる。   

 「君たちの泣き言を嬉しそうにきいて、10年後にまた会おうと、もったいぶった約束をして、君たちをほおっておくのだ」における、君たちとは、おそらくブルトン自身のことだろう。「泣き言」とは、ブルトンのいだきはじめた、シュルレアリスム的芸術論をマチスにむかってかたったのかもしれない。そして、あの芸術家から見る芸術論にマチスはなんら関心をしめさず、作品論に終始したのにちがいない。そして、いわばその「作家芸術論」が、あの『はっきりと』の主題であったのだから、とうぜんあのような評価がしるされることになる。つまり、あそこにあるのはマチスの全否定ではない。

 なぜならば、この推薦書簡の一年後にだされた『シュルレアリスム宣言』そのもののなかでは、マチス評価はつぎのようにされているからである。

 『宣言』の末尾において、シュルレアリスムの文学・芸術史的位置づけとなる、過去、現在の詩人、思想家二十人の列挙がある。「スウィフトは、意地悪さにおいてシュルレアリストである。・・・・ランボーは生活の実践においてシュルレアリストである・・・・マラルメは打明け話においてシュルレアリストである・・・・ヴァシェはわたしのなかでシュルレアリストである。・・・・ルヴェルディは自宅においてシュルレアリストである・・・・ ルーセルは挿話においてシュルレアリストである」というものである。かれらは、「気位の高すぎる楽器であり、そのために常に調和のとれた音色をだすわけにはいかなかったのだ」とブルトンは記している。つまり、つねにシュルレアリストであったのではないが、どこかでシュルレアリストであった先人ということであり、ようするに認めている詩人、思想家たちである。そして、その注記に「おなじことが、若干の画家についても言えるだろう」として、つぎの画家たちを掲げている。「古い時代のウッチェロ、そして、近代では、スーラ、ギュスターヴ・モロー、(たとえば『音楽』における)マチスドラン、(ずばぬけてもっとも純粋な)ピカソ、ブラック、デュシャン、ピカビア、(長いあいだ賞賛すべきであった)キリコ、クレー、マン・レイ、マックス・エルンスト、そして、われわれの近くでは、アンドレ・マッソン」である。

 ここに列挙されている画家たちは、そのころ無名も同然のマン・レイ、エルンストとマッソンをふくめて、すべて、ドウーセにむかっても、その作品を称揚し、購入させた画家、そして写真家である。『はっきりと』で、マチスと同列に非難の対象となった、ドランも推薦リストにふくまれていた。

 「宣言」では、マチスについて、作品『音楽』という指定がある。これは、1910年代に描かれた『ダンス』シリーズとならぶリズム感あふれた、どこか「アール・ブリュット」をおもわせる作品である(注.関心のある方はグーグルで検索できる.)

 推薦文に書かれた作品論となんら矛盾するものではない。そこでは、かれの芸術論と芸術顧問の役割は、たがいを阻害することなく、おおきく離反するものではなかった。あるいは、むしろ、芸術論にもとづく芸術グループの外郭を拡張しようという意図がブルトンにはあったかとおもわせるほどである。そのことは、このころからひそかに計画していたとおもわれる、みずから画商になることに発展していく。なんらかの視点からシュルレアリスムにかかわる芸術家の作品のみをあつかうギャリー経営をする画商である。

 ブルトンが就任した芸術顧問や画商は、ツァラの評価とは異なり、その役の演じかたによっては、「芸術」の側にたちうるものである。あるいみでは、芸術共和国の構成者になりうるものである。その役割によって、つまり、さきの「芸術と大衆の和解」と、さらにそのさきにある芸術の生活化をはかる、デュシャンとはことなる一般的な、メチエとなりうる可能性があることである。

 じじつ、同様の試みは、’60年代日本ではもっと意識的におこなわれた。アヴァンギャルドの芸術評論家たちが、戦後芸術をあつかう画廊の芸術顧問になることがいっせいにおこった。たとえば東京画廊には、針生一郎、中原佑介、瀬木慎一が、そして、南画廊には、さきの「反芸術」を提唱した東野芳明と、当時、詩人でありシュルレアリスム系の美術評論家であった大岡信が顧問になった。

 中原佑介(1932−2011)は、京都大学の湯川秀樹の研究室で理論物理学を専攻する学生であったのだが、戦後芸術に関心をもち芸術評論家となった、アバンギャルド系プロパーの芸術評論家である。かれの経歴を書いたのは、じゅうらいの範疇からいえば、まったくの素人が、とつぜん芸術評論家になった、芸術評論家になりえたということを、示したかったからである。

 こうしたかれは、その批評活動のなかで、「芸術の生活化」に根幹の課題を見いだし、戦後アヴァンギャルドが誕生したかなり早い時期である’50年代末から、この視点から現代芸術をみた評論家である。かれがはじめて意識的につかったターム「芸術の生活化」については、本論では次節でくわしくのべるつもりである。かれはさらにまた、その晩年には、兵庫県立美術館の館長に就任している。その理論実践の可否、成否はべつとして、かれは芸術と芸術の生活化の問題を、芸術史上はじめて正面から取り組もうとしたとした評論家であった。

 そして、針生一郎は「六全協」後の日本共産党の方針を批判し離党した、現代芸術評論家である。晩年は、「原爆の図丸木美術館」の館長をつとめた。当時からかれら針生、中原、東野の三人をさして、現代芸術美術批評の御三家と呼ばれたような評論家たちである。

 かれらが画廊の顧問になったのは、かれらの芸術評論という芸術活動のひとつであった。

 それを知るために、ひとつの例として、針生の言分をきいておこう

(注. 針生一郎「画商の時代」[『美術手帖』1961年11月号])


 針生は、「美術を動かす実質的な推進力」を画商に期待する。それは、具体的には「作家たちの創造のいとなみのなかから、たえず大胆な価値転換の起点を発見する批評眼とともに、その新しい価値によって観衆を衝撃しつつ、作品を具体的に社会に位置づけていく行動力をそなえた、ひとつの運動体」となることであって、その運動体の機能は、新しい価値を発見する「批評眼」と、「作品を具体的に社会に位置づける」、つまり、「販売」するということである。さらに言いかえれば、「売れないような絵」を売ること、そのことのなかには従来の通人的な批評に先行して未知の作家を発掘し、その仕事によって社会の批評をよびおこそうとする、それじたいアクチュアルな批評行為がふくまれている、というものであった。新しい芸術を「芸術の生活化」によって、真の実体化をはかるという視点である。

 それが、実現していれば、そこではある種の芸術の生活化の糸口がつかめるはずであった。そしてまた、おそらくはブルトンが、半世紀たらずまえに、ドウーセの芸術顧問となり、また画商になったとき、その潜在意識のなかにひそんでいたおもいにも、このような思想が未分化で混在していたにちがいない。

 しかし、’60年代日本のアヴァンギャルド芸術界では、すでにこうしたおもいをべつなかたちで試みた、詩人、現代芸術批評家があった。瀧口修造(1903 −1979)である。かれは、’60年代日本アヴァンギャルディストのなかでは、異例の、戦前から一貫したアヴァンギャルディストであり、また、その年齢とその経歴・実績にもかかわらず、’60年代アヴァンギャルドでも、時代にそくしたアヴァンギャルドの活動をつづけた芸術家であった。半世紀をへたいまから、’60年代のかれの芸術活動をみなおしてみると、日本では稀有なアヴァンギャルディストであったことがよく見えてくる芸術家であった。

 かれは1920年代のすえ、発足直後といえるシュルレアリスムに関心をもち、1928年に初版のでたブルトンの『シュルレアアリスムと絵画』の翻訳を出版している。フランスでは、『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌が創刊され(1929年)、『シュルレアリスム第二宣言』がだされた時期である。いごシュルレアリスムへの関心は生涯もちつづけられ、そのアヴァンギャルド的姿勢は、第二次世界大戦時の日本でも、それなりに継続してつづけられ、ひとときは、「治安維持法違反」の不健全思想の持ち主として逮捕、拘留されている。戦後では、日本における、デュシャンの「大ガラス」複製 に尽力したのは瀧口であった。(注.東京大学所蔵) 日本における、シュルレアリスム的アヴァンギャルドの先駆的実践者であった。

 おそらくこうした瀧口のつぎにのべる試みと反省と展望も、ブルトンの行為となんらかの関係をもつものであろう。そのようなことから、’60年代アヴァンギャルドは第一次アヴァンギャルドとどのような関係になるかをみるために、1920年代ヨーロッパのブルトンの「画商」と、1950年末の瀧口の実践を併録する意味がある(注.20世紀初頭の欧米の画商については、『百万遍』2号掲載の「戦後政治体制と現代芸術」ですこしふれている.)  なお、瀧口については、本論第5節「赤瀬川原平の『千円札』事件」では、裁判の特別弁護人の役を熱心につとめているので、そこでまたくわしくのべることにする。

 瀧口は、1952年から5年間、無料の貸画廊「タケミヤ画廊」の展示する新人選別の役をひきうけた。戦後の蘇生した美術界とあたらしい芸術の台頭によって、’50年代から誕生した画廊が、貸画廊である。これは、画商の営業用ギャラリーがまだじゅうぶん整備されていないあいだにできた、新形式の画廊であった。

 そして、そのタケミヤ画廊が1957年に閉店するにあたり、瀧口の企画展も終了したのだが、かれはそれについて、閉廊後の時期に、そのときかれがこれにたいしてもっていた意図とその限界について、つぎように書いている。

(注.「『新人』と共に三十年」(「芸術新潮」1959年7月号). なお、これは『コレクション 瀧口修造ー7』に収録されている.)


 若い作家にとってはまず作品を発表する機会をつかむことが必要なのだから、こうした「無償」の画廊経営も大いに意味があったとは思うが、五年もつづけているうちに、何かしらもう一歩手をうつべきではないかとしきりに考えられた。ただ作品を公衆に見て貰うこと、ひろく批判をもとめること、これは作家にとって大切な収穫にちがいないが、会期がすんで再び作品を運び去っゆくかれらの姿を眺めてひそかに感慨を催したこともしばしばだった。もちろん私は画商になる気はないし、なれるものでもないまた収集者としての財力があるわけでもない。が、すくなくとも有力な新人の仕事のセンターのようなものを通じて、鑑賞家や収集家とのあいだにもっと有効適切な結びつきをつくることができるのではなかろうか。これとても画商のビジネスから見れば過渡的なものにすぎないだろうが「無償」の画廊にとっては大きな質的転換を意味する・・・・(ママ)というところで私たちの仕事は一応終止符をうたねばならなかったのである。・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・  画商の功罪が近代美術史の上でいろいろいわれているが、芸術が市民のものになって以来、画商が介在することは原則となっている日本の場合、「洋画」はまだけっして生活様式のなかに浸透しているとはいえない面があって、絵や彫刻は展覧会で見るだけのものという固定観念を植えつけられてきた。・・・(略)・・・  私自身、新人のための、というよりも画商の扱わない作品の新しい需要者を探す新しい現代的な販売方法が可能ではないかとまじめに考えたことすらある


 ここにかかれているのは、もちろん「反ー芸術」についてでも、「反ー芸術」の芸術家たちについてでもないけれど、とうじの無名の「若い作家」とは、この時代とその作品からいっても、「反ー芸術」の芸術家とかれらの制作内容は重複することができるものである。

 瀧口は、意欲ある無名の新人の作品発表の機会と場所を、このように無料で提供することは、あたらしい芸術にとって意義ある行為とおもったから実行したのである。しかし、それは、ほとんど虚しかったというのである。

 「会期がすんで再び作品を運び去っゆくかれらの姿を眺めてひそかに感慨を催したこともしばしばだった」という感慨は、たんなる感慨ではなく、かれらの芸術が達成されないこと、かれらの芸術家としての存在自体があやぶまれ、また、あやぶまれるだけでなく、その原因におもいをはせる感慨である。それがつぎにつづく芸術センター構想であり、画商へのおもいである。「もちろん私は画商になる気はないし、なれるものでもないまた収集者としての財力があるわけでもない」のあらわすものであろう。それは、「私が画商やコレクターなら、かれらの作品を買ってやろう、売ってやろう」ということである。そうすることで、「芸術の生活化」のあるしゅの充足をはたすことに役立てるということである。しかし、画商やメセーヌになる財力がないからなれないということである。ということは、瀧口の個人的感慨を除去して、一般化すれば、画商やメセーヌは、財力(資本)という制約によって、かなずしも芸術の側に立てるとはいえない場合もあるということにもなる。

 瀧口はうえのことばをのべたとき、どこまでこのようにそれを整理して、現実問題としていたのかはわからない。だが、このことは、このミヤタケ画廊が閉店した年、1957年は、洋画商連盟展が、朝鮮戦争を契機とする高度経済成長下社会の洋画ブームをみこして発足した年であったことからも、現実的状況から感得した確信的なおもいであったことは、たしかであろう。

 戦前の美術界の状況を、他のアヴァンギャルディストたち、たとえば針生らとも異なり、実感として承知していた瀧口は、これを、衣装をかえた再生の予兆のように感得したのかもしれない。

 そして、かれはこうした再生するビジネス画廊の群れのなかで、かれがタケミヤ画廊でこころみたあたらしい芸術あたらしい芸術家のための組織が生きていけるようなシステムに、おもいを馳せている。それが、「すくなくとも有力な新人の仕事のセンターのようなものを通じて、鑑賞家や収集家とのあいだにもっと有効適切な結びつきをつくることができるのではなかろうか」という、おもいつきのようにのべられた方策である。これは、アプリオリに(資本)体制に対抗する労働組合の発想であって、はからずも、かれの「あたらしい芸術」に、「反ー芸術」のひとつの視点(既成芸術の否定)が視野の遠い端っこにあることを、この’60年代をひかえた時代ではしめすものである。この提案を、かれ自身はいかなる行動にもうつそうとはしなかったが、あるしゅの現実的提案であったことはたしかである。

 そして、この提案は、これはまた、瀧口が、戦後’50年代はじめから、積極的に関係してきた戦後日本の先駆的アヴァンギャルド芸術運動であった『実験工房』(1952−1957)とあいまって、18年後の「万博」後の’70年代日本で、’60年代芸術であの「ネオダダ・オルガナイザーズ」をたちあげた吉村益信が中心になって設立した「アーティスト・ユニオン」となって継承され、しばしのあいだ現実の組織となって実現した。

(注.本論第1章[『百万遍』第2号掲載、および、本章 第1節を参照)


 「アーティスト・ユニオン」は、芸術の職能団体であって、美術、音楽、舞踏、演劇、映像、評論などさまざまな芸術家によって組織されものである。かれらは、シンポジュウム形式の展覧会を毎年東京都美術館をはじめ各地で開催した。シンポジュウム展覧会の参加者は国内8ブロック、海外4ブロックの200名以上におよび、海外展も実現させた (注.『吉村益信の実験展 ─ 応答と変容 ─』展図録参照)。 これは、パトロンや補助金に依存するのではなく、さまざまな収益活動を併存させる企画であった。だが、この試みは5年間つづいたが、1979年に精算され、完全に消滅した。

 これは、瀧口の『実験工房』と「タケミヤ画廊」からえた提案のヴァリアントであるとともに、これを実現した中心的オルガナイザーたちからみると、’60年代日本のアヴァンギャルドの「反芸術」のひとつの帰結であった。

 このような、あたらしい芸術を需要者にむすびつける展覧会や画商の役割を、先駆的に自覚して行動したとおもわれるアンドレ・ブルトンについて、一言だけふれておこう。これは、いまのべている「反芸術」には、直接関係するものではないが、’60年代の「反芸術」では、間接的におおきくかかわるからである。

 いま自覚的とはいったが、ブルトンでは、うえにのべたような個人的行為としての芸術論と、芸術グループとしての芸術論は乖離し、その差をちぢめることは生涯なかったが、そうであるだけにシュルレアリスムのグループ内で、しばしば問題となった行為であった。

 のちにもふたたびのべることになるが、1924年12月に、機関誌『シュルレアリスム革命』の刊行と『シュルレアリスム宣言』で発足したシュルレリスト・グループは、ブルトンのシュルレアリスムを芸術に限定せず社会的問題へひろげていこうとする考えかたに反対するメンバーとのあいだで対立がおこった。そして、5年後の1929年に解体の危機に直面した。反対者たちは、いまやブルトンは死んだということをあらわす『ある死骸』というパンフレットを配布し、ブルトンはこれに対抗して、『シュルレアリスム第二宣言』を書き、『シュルレアリスム革命』誌を廃刊して、あたらしい機関誌『革命に奉仕するシュルレアリスム』を刊行した。

 反対者たちはこのパンフレットにとどまらず、各人さまざまなブルトン批判をおこなった。そのなかのひとつに、ロベール・デスノスの『シュルレアリスム第三宣言序説』がある。

 シュルレアリスム前史の夢の実験の時代からブルトンともっとも親しい関係にあったデスノスは、そのなかで、ブルトンの画商行為をつぎのように非難している。


 アンドレ・ブルトンは、ホアン・ミロについて、ある絵画に関する記述のなかで、かれは途上で金銭に遭遇したといって非難している。しかしながら、作品の『耕地』を500フランで購入して、それを6,000で転売したのは、ほかならぬ彼アンドレ・ブルトンである。金に出会ったのはミロであるが、それをポケットに入れたのはブルトンである。(・・・・・)

 ようするにブルトンは、彼の生活の行動が、彼が擁護すると主張している思想と関係していないが故に、軽蔑さるべきものである。彼が偽善者で、卑怯で、カネ儲け主義者である(・・・・)がゆえに。そして彼の行動は常に、人生とか真実とは逆の方向に広がっていった故に。


 デスノスの指摘は、あきらかであって、ブルトンはたしかに、その芸術論において「芸術と人生の問題」には関心があるが、「芸術と生活の問題」には表面上無自覚である。しかも、かれ自身は、おおくのほかのシュルレアリストたちとはちがい、資産家の息子でもなく他の職種の自営業者でもなく、のちにのべる赤瀬川ほどではなかったが、芸術活動と生活をじぶんで賄わなければならなかった。

 芸術の金銭的価値については、こののち、急激に人気あるシュルレアリスムの画家となって巨額の収入をえることをはじめたサルバドール・ダリを、「ドル狂い(ドルに餓えたもの)[Avida Dollars]」と呼び非難した。当時のダリ作品の高騰する価格からすれば、人名辞典にのる人生目的を非としたとおなじレベルの芸術と名誉という「芸術と人生」問題の整理で、これは処理できるかもしれない。

 だが、かれの画商的行為については、べつの記録もある。ブルトンは、じぶんが見つけたスコッティ・ウィルソンのデッサン数点を、アール・ブリュット協会に収容するにさいして、ジャン・デュビュフェに買値の30%のマージンを要求したという(注.Lucienne Peiry: Art Brut p. 95, p.271)  アール・ブリュット協会とは、アール・ブリュットの作品を収集保存する目的で、デュビュフェが私費を投じて運営する組織であり、ブルトンはその設立メンバーであった。ブルトンがこのとき、ウィルソンからそれらを購入した価格はわからない。しかし、このようなブルトンの画商行為からみると、かれには、第二次アヴァンギャルドの瀧口や工藤のような、アール・ブリュットの作家たちの仕事センターの設立思想などはまったくなかったとおもわれる。その芸術論に、こうした芸術行為を組みいれていて、シューレアリスム・ユニオンを設立し、そのなかでの「画商」行為であったなら、さきのデスノスの非難は成立しなかったであろう。シュルレアリスムは、現実社会の行動と不可分であると主張し、創設されたばかりのフランス共産党の活動に参加し、シュルレアリストの他のメンバーにもこれを推奨したのが、ブルトン自身である。そして、そうしたシュルレアリスム必然の政治行為について、ブリュッセルでひらかれた「国際シュルレアリスム展」では『シュルレアリスムとは何か』の講演で、プラハの「国際シュルレアリスム」展では『シュルレアリスムの政治的位置』の講演で理論的に説明し、単行本で刊行したのだった。そうしたかれに、画商組織を付加した「アーティスト・ユニオン」のような実践的な行為を芸術論に組みこんで、正面から考えた形跡がどこにもないのは、ツァラも気にかけながら直視しなかったように、第一次アヴァンギャルドの時代には、その欠落理由はいろいろ考えられるが、そうした思想を回避していたからともおもわれる。

 が、かならずしも、そうでないところもある。その方向をさしながらさだまらぬ、狂った磁石の針のような指摘である。それは、さきのデュシャン論で、あいまいなままで放置されたあの「芸術と大衆の和解」から憶測できる「芸術と大衆の関係」への視線である。アポリネールにかこつけて視線をむけながら、なにも言い切れなかったような関心である。

 分離していく反対派への反論であった『シュルレアリスム第二宣言』にも、あらわれている。それは、「反芸術」にもかかわるから、さいごに一瞥しておく。


・・・・・・ 俗人らに読まれぬように、錬金術師らが書物の冒頭においた呪文「マラナタ」を、ここにもまた仕掛けておかねばならない。われわれの友人たちのうちでたとえば自分の絵を売ったり捌いたりすることにすこし心を奪われすぎているように見うけられる一部の者たちに、一刻も早く気づかせねばならぬのもこのことである。「どうか」と最近ヌージェは書いている。「われわれのうちで少しでも名前が目立ちだした者は、それを消してもらいたい」と。彼が誰のことを念頭においているのか分からないが、ともかく自己を嬉々としてひけらかしたり、高座にのぼったりするのは止めてもらいたいと、誰彼に頼むのはそれほど無理な注文ではないとおもわれる。なによりも大衆の賞賛から逃避すべきである。混乱をまねきたくないなら、大衆が口を挟んでくるのを断固阻むべきである。さらにつけ加えれば、侮蔑と挑発の方針をもって、大衆を戸口の外でかってに憤慨させておけばよい。(下線は筆者)

 わたしはシュルレアリスムの真の、深遠な掩蔽(星食)(occultation)を要求する(活字のポイントをあげた強調.)

 この点については、わたしは絶対的に厳格である権利を宣言する。現世(monde)への譲歩も特赦もない。きびしい即時の否か応である。

 小鳥たちに呪われたパンを配る者らよ、くたばれ。(この二行の下線部は、原文がイタリック体.)


 ここに引用したのは、『シュルレアリスム第二宣言』のなかで、唯一活字をかえて強調された一句をふくむ箇所である。これにいたるまでに書かれているのは、シュルレアリスムの 「この苦い果実を危険なしに味わえるのはほんのわずかな者たちだけだ」ということであり、分らぬ者たちは、わが身のためにも去っていけばよいという、分離派にむけられた、通り一遍の台詞である。

 そして、ブルトンが常々、芸術作品の社会的評価に偏重した関心があったのは、すでにのべたことであるが、ここでも、シュルレアリストとして不適格なものとは、名声と金銭的利得に影響をうけたものだという。そして、評判と金銭の源である「大衆」とのかかわりを断固たちきるべきだという。これは、10年前にツァラがあの『ダダ宣言 1918』で、断言したあのことば、


それというのも今この瞬間、僕は好んでこの怪物を油絵具とまぜあわせるのだから。紙の管は金属を模倣して、圧縮され、憎悪や卑劣や吝嗇を自動的に吐き出しているのだから。芸術家、詩人は、こうした工業の売り場主任のなかに凝縮された大衆の毒をたのしむ。彼は誹謗されるので幸福だ。そのことこそ彼の不易性を証するものだ。新聞の賞賛を博する作家、芸術家は自分の作品が理解されているのをたしかめる。彼の作品は、公益がまとうマントの惨めな裏地だ。凶暴性を蔽いかくす襤褸だ。卑しい本能を孵す獣の体温に協力する尿だ。脆弱で気の抜けた肉体は、活字の黴菌の助けをかりて増殖する。


と、なんらかわるところがない。

 ただ、それらにつづく、だからどうすべきかという主張は、ツァラでは、「僕らは自分のうちに空涙を流す性向を抹殺した。いっさいのこうした性質の浸透は、砂糖漬けにした下痢なのだ。このような芸術を励ますということはそれを消化することを意味する。僕らに必要なのは、強靭で、一直線の、的確で永久に理解されない作品だ」 となる。

 これにたいしてブルトンでも、「シュルレアリスムの真の、深遠な星食(隠蔽)(occultation)を要求する」という。そして、これにつづいて、「この点については、わたしは絶対的に厳格である権利を宣言する。現世(monde)への譲歩も特赦もない。きびしい即時の否か応である」の、ブルトン特有の過剰表現の強調があり、つぎにくる最後の「小鳥たちに呪われたパンを配る者らよ、くたばれ」と、過激ではあるがややわかりにくいものでぜんぶの説明がおわる。

 まず、活字ポイントをあげて強調された「シュルレアリスムの真の、深遠な星食(隠蔽)(occultation)を要求する」を、吟味しておこう。

 「星食(occultation)」とは、地球と恒星または惑星のあいだに、月や他の惑星がはいり、その恒星や惑星を隠す現象である。ブルトンでは、日蝕のようなものをイメージしていたとおもわれる

(注. 厳密には日蝕は掩蔽(星食)ではないそうだが[グーグル検索]、 Le Grand Robert などのフランス語の辞書では、月による星や太陽の〈occultation〉のような説明・例文がおおく見られる.ブルトンの関心も、科学的自然現象としての「掩蔽」にはないであろう.)


 日蝕のようにシュルレアリスムを完全に隠蔽(深遠な掩蔽)しなければならないというのは、ツァラの 「僕らに必要なのは・・・・・・ 永久に理解されない作品」と、よく似た関係にある主張である。

 だが、ブルトンでは、ツァラより複雑である。たんなる「永久に理解されない作品」ではおわらない。星食によって隠蔽されても、その星は見えないところで輝き、影響をあたえつづけるのである。占星術などで、そこからさらにいわれるのは、見えないところにあるものが、いっそうつよくすべてに影響(influence)[占星術の感能力]をあたえるというのがあるが、ブルトンの念頭にはあったのはそうしたことであろう。ここにある〈occultation〉は、〈オカルティズム(occultisme)〉を連想させることばである。さきに引用した、これにいたるまでの節の冒頭でも、錬金術師の呪文(「マラナタ」)が記されていた。そして、つづくページでは、『魔法第三の書』の引用からはじまり、シュルレアリスムへの神秘主義思想の援用がかたられている。

 ようするに、シュルレアリスムはこの掩蔽によって、見えないところでその輝きをまし、すべてに影響をあたえる感能力をたかめるというのが、ブルトンのこの要求の真意であろう。

 だが、なにたいしてその感能力が発揮されるのかを、かれはなにを前提に想定しているのだろうか。日蝕において、太陽がみえないのは地球からである。地球にいるのは、離反派のシュルレアリストたちと、もうひと組のものたちががいる。

 その者たちを、憶測できるてがかりが、さいごの一句、強調されたことばをふくむ、「小鳥たちに呪われたパンを配る者らよ、くたばれ」にあるのであろう。しかも、この句は、結論のように、これの節のさいごにおかれていることに注目しなければならない。

 イタリック体で強調されたことば「呪われたパン」の意味するところは、わかりやすい。さきのツァラの引用のことばで言い換えれば、「彼の作品は、公益がまとうマントの惨めな裏地だ。凶暴性を蔽いかくす襤褸だ。卑しい本能を孵す獣の体温に協力する尿だ」であろう。そして、ブルトンでは、「自分の絵を売ったり捌いたりすることにすこし心を奪われすぎ」たり、「自己を嬉々としてひけらかしたり、高座にのぼって、名前が目立ちだした」者たち自身や、かれらの作品である。そうした「呪われたパン」を配る者、「くたばれ」と罵倒される者は、おもに分離派のシュルレアリストである。

 とすると、この「呪われたパン」が配られる対象、さりげなく記された、「小鳥たち(oiseaix)」が問題になる。たんなる表現のあやで、投げられたパン・クズにむらがって啄(ついば)むルクセンブール公園の鳩ていどのイメージであって、なんら重要な意味はないという見方もあろう。

 だが一概には看過できないものがやはりここにはある。

 作品を配られるのは大衆である。しかも、その大衆について、数行まえでは、「混乱をまねきたくないなら、大衆が口を挟んでくるのを断固阻むべきである」といい、「さらにつけ加えれば、侮蔑と挑発の方針をもって、大衆を戸口の外でかってに憤慨させておけばよい」とまで、期待も敬意も愛着もなく、むげに扱っているのである。また、大衆は、「口を挟んくるのを断固阻むべき」ものであり、その賞賛から逃避すべきものである。唾棄すべきにちかい、無視すべきものである。

 ところが、「呪われたパン」を配る輩(やから)の犠牲者となるや、とたんに「小鳥たち」とよばれる。むじゃきな芸術愛好家となる。「パン」が配られる者であるから、美術館や画廊、サロンや居間で作品を鑑賞する不特定多数の大衆いがいには考えられない。

 この『シュルレアリスム第二宣言』では、階級的大衆とか大衆にふれる他の記述があるが、ことに、このまとまった七、八行にあらわれる「大衆」像には、矛盾と飛躍がある。そうした矛盾をみずから意識することからのがれるために、ブルトンはこのことば「小鳥たち」、そして連想する「パン」を、選んだのかもしれない。ことばにたくして矛盾を変質させようとしたのかもしれない。文学にたくしてと言ってもよいかもしれない; 大衆にも悪い大衆も可愛い大衆もあるとか、大衆とはしょせん鳩ていどのバカなものだとか、善意の大衆は欺かれやすいとか・・・・いろいろに読んでくださいということである。

 だが、ここでは、この故意の論理の飛躍は重要である。ブルトンは、芸術とのかかわりにおける大衆を、整理しきれず、それでも無視できないのであろう。すでにのべたように、「大衆と芸術の和解」などを、さきの芸術論「マルセル・デュシャン」でも云いかけて完結しないでいる。

 ブルトンは大衆を、芸術のなかでどのように位置づけているのかわかりにくい。無きにひとしいものとしているのではなさそうである。なぜなら、ここでのべられたところでもそうであったが、その芸術論のいたるところで、さまざまに、うしろ姿の影だけがみえかくれする大衆である。芸術は観衆や聴衆、読者がいなければ成立しない。現代では、芸術は、芸術家と大衆の不可分の関係によってなりたっている。ブルトンでは、そのところがあいまいである。大衆は、かれのこころの暗闇に、しかし厳然といる。かれ自身が、その関係にどのように気づいていたのかは、かれの画商行為もふくめてわからない。

 しかし、そのあいまいさが、かれの芸術論にもあらわれているようにおもえる。

 ’60年代アヴァンギャルドが指摘するような「反芸術」は、ブルトンでは、この「芸術の星食」にあらわれているであろう。掩蔽によって、見えないところにあるものがいっそう強い影響力を発揮するということである。「かくれた芸術」である。

 だがこれも、反芸術論としては、ツァラの「秩序ある永遠の絶対性の放射」である「絶対的芸術」とおなじように、トートロジー(同語反復)をふくむ、あいまいさから逃れていない。ブルトン自身が異なるところでは、ツァラの主張について、「非有形化の信仰は有形化ではないのだ。私たちの友人のうちのある者たちをして、あの醜悪な同語反復(トートロジー)のなかでじたばたさせておこう」といっているのだ。ここではブルトンが、「反芸術」にかぎらずこの『シュルレアリスム第二宣言』で、「大衆」と「小鳥たち」のように、「掩蔽(星食)(occultation)」 と「神秘学(occultisme)」の類語反復のあいだで「じたばたしている」ようにみえる。

 このようにみえるのは、ブルトンとツァラのふたりが、詩人の立場にちかいところから「芸術」をかたっているからであろう。そしてまた、ブルトンのふたつのシュルレアリスム宣言は、『ダダ宣言 1918』にはじまる、ツァラとの延長された対話のようにもきこえる。

 ツァラが、「第二の球体内の ・・・・・ 絶対性の芸術の放射」をかたれば、4年後にブルトンは、「シュルレアリスム(sur-réalisme)」で応える。ブルトンが、「わたしはシュルレアリスムの真の、深遠な掩蔽(星食)要求する」といったのも、11年前のツァラが、「僕らに必要なのは、強靭で、一直線の、的確で永久に理解されない作品」といったことにたいする回答である。

 ブルトンが「反芸術」についてかたっても、それはツァラとの「反芸術」についての対話のなかのことである。

 しかしながら、『ダダ宣言 1918』と、ブルトンのシュルレアリスム創設時の発言と1929年の宣言という、ふたりの「対話」を、こうしてセットとして読んでみると、20世紀アヴァンギャルドが提案したあらゆる初源的な問題意識がどこにあるかがよくわかる。そのなかのおおきなものが、やはり、’60年代アヴァンギャルドで「反芸術」とよばれたものであらわされたような、芸術批判の問題であろう。

 ダダとシュルレアリスムの提案は、じつに恣意的、あいまいなものであった。そしてまた一方では、ダダイスト、シュルレアリストを名のる芸術家はあらゆる芸術ジャンルに輩出した。しかし、そうであるだけに、ダダ・シュルレアリスムはどのようにでもみることができた。’60年代アヴァンギャルド芸術がそれらをどのようにみて、どのように超えていったいったかが、’60年代芸術の問題である。

  

 ’60年代アヴァンギャルドが提起した「反芸術」はどのようなものかをしるために、かれらがしばしば引き合いにだした、20世紀初頭のダダとシュルレアリスムの反芸術的主張はいじょうのようなものであった。「既成芸術批判」と芸術とはなにかが、基調にある芸術行為の主張 があったのはたしかであろう。次節では、ふたたび’60年代アヴァンギャルドの「反芸術」に本論をもどすことになる。



  第3節「ツァラの『ダダ宣言 1918』とブルトンの反芸術」をおえるにあたり、さいごにひと言だけつけくわえたい。


 当初は、ツァラのダダとブルトンのシュルレアルスムは区別すべきものとおもっていたが、こうして並べて読んでみると、「反芸術」については、やはり、ダダ・シュルレアリスムと一体化すべきだとおもった。思想的には、ダダの問題提起と提案をシュルレアリスムは受けついだにすぎない。だが、ダダの思想を、時代と状況に応じてそれなりに実践したのはブルトンのシュルレアリスムである。

 それは、その後のブルトンのシュルレアリスムがなしたこと、影響を与えたとおもわれることをみればあきらかである。かれは、この直後、ダリと出会い、ダリは、シュルレアリストのグループのなかで、ダリのシュルレアスムの作品を誕生させた。ブロネール、ドミンゲス、フリーダ・カーロ、タンギー、マッタ、ラム・・・と出会い、かれらはシュルレリスト・グループのメンバーとなり、既成芸術にはなかった作品を制作し、またあたらしい方向をしめした。ブルトンは、さらに、芸術雑誌『ミノトール』誌の編集をひきうけ、体制芸術を挑発する造形芸術を紹介し、当時としては画期的なこころみである、歴史的、地理的制約をこえた芸術の存在を明らかにした。デュシャンと共同でかずかずの国際シュルレアリスム展を開催した。天井から1,200個の石炭袋を吊るした 暗闇の会場設定をもつ国際シュルレアリスム展(1938年)(パリ)であり、会場を2Kmの紐で編んだ網で覆った「シュルレアリスム帰化申請第一書類」展(ニューヨーク)(1942年)であり、「E.R.O.S.」展(パリ)(1959−60年)、「魔術師領土へのシュルレアリスムの侵犯」展(ニューヨーク)(1960年)である。そのほか、かれが積極的に参加したシュルレアリスム展は、ロンドン、プラハ、ブリュッセル、アムステルダム、メキシコ・・・・ そして、日本と、世界各国におよぶ。良きにつけ悪しきにつけ、ダダ・シュルレアリスムが、1世紀後の現代でまだ「奇妙な」芸術としてかたられ、観られるのは、ブルトンの行動の成果である。ツァラのダダだけでは、それらはなかった。しかし、ブルトンだけでは、シュルレアリスムは、これらとは似ても似付かないもの、あるいは、存在しなかったであろう。

 とするなら、ダダの「反芸術」は、精神状態、あるいは、神話であったといい、「アンドレ・ブルトンは、それをシュルレアリスムにとりこみ、自分のものだと考えた。しかし、反芸術(anti-art)のプラスティック爆弾は爆発しなかった」と整理したレスタニーは、なるほど、洞察力をもつ評論家だったのだろうか。

 いや、かならずしも、かれの炯眼とはいえぬものがある。というのは、レスタニーは、その後の評論活動で、この指摘を発展させる思想的展開をどこにもみせていないからである。おそらくこの指摘は、かれの考察からでなく、周辺にいたヌーヴォー・レアリムの芸術家たち、たとえば、イヴ・クラーンやアルマン、ティンゲリーたちの見方を代弁、あるいは、対話の断片をのべたにすぎないのかもしれない。

 たしかに当時の、すべてではないが、ヌーヴォー・レアリストのおおくのものは、ブルトンとシュルレアリスムにたいして不信感や反感をもっていた。それは、とうじの彼らにとっては、彼らが生まれた1920年代からすでに活躍し、アヴァンギャルドのりっぱな名士であったブルトンが、すでにひとつの体制のように見えたことこともあったであろう。だが、それだけでなく、ブルトンの言説には、かれらにそのようにおもわせるものもあったのではないか、とおもわせるものがある。というのは、ブルトンの芸術、ことに造形芸術にたいする理解の種類とその程度である。ブルトンの記す芸術論には、作家たちとの共感のチャンネルが欠如しているようにおもわれる。造形作家たちは、コトバには感動しない(?)。かれらを、感動させ、やるぞという気持ちにならせるのは、見つめ、触り、嗅げるモノである。ブルトンの芸術論はそうしたことについていっさいふれられていない。作家については書かれていても、作家と作品、あるいは作品については、ひとことものべられていない。読むものは、あああの作品のことかとおもうだけである。あるいは、その作品をしらなくても、ブルトンの文章を読むことによってわかったような気になる者もいるかもしれない。

 そのことは、ブルトンの表現スタイルの問題ではなく、かれは、モノとしての造形作品に不感症なのではないかと、疑わせるものがある。『シュルレアリスム宣言』にも『シュルレアリスム第二宣言』にも、あるいは『シュルレアリスム第三宣言 発表か否かのための序論』、そして、『吃水部におけるシュルレアリスム』にも、詩人や詩については、具体的にふんだんに記されているが、絵画、彫刻、オブジェについてはどこにも記されていない。『シュルレアスム宣言』には、画家たちが掲げられているが、それは、本文に付された注記の部分だけである。造形芸術家は、その名前が 『シュルレアリスム第三宣言 発表か否かのための序論』では、わずかにふれられているが、それは稀有な例である。そして、かれがいっさいの抽象表現主義も、どのようなポップ・アートも認めようとしなかったのは、不感症が理由であったとすれば、いくぶん納得できる。

 そのことが、「反芸術」についておおくをかたらせない、あるいは、歯ぎれの悪い言いかたしかできなかった、理由かもしれない。というのは、芸術一般に拡大してとらえることができないのである。かれが「芸術」というとき、おおくのばあい、先入見的に、絵画をイメージしているのではないかと、おもうからである。たとえば、デュシャンのレディーメイドのばあいでも、かれの感覚では芸術の範疇で検討する余地はまったくないのである。

 ところが、いっぽうでは、ダダ・シュルレアリスムのメンバーで、ブルトンほどおおくの芸術論、作家論を書き刊行したものはないのである。『シュルレアリスム第二宣言』がだされる前年の1928年に初版がを刊行した『シュルレアリスムと絵画』は、版と体裁をあらため増補に増補をかさね、死の前年である1965年まで、3版、3刷を刊行している。そのほか、紆余曲折をへて刊行された画集とも芸術論集ともいえる『魔術的芸術』がある。さきにものべたブルトン責任編集の芸術雑誌『ミノトール』があり、その大部の全貌は復刻版として現在でも入手可能である。そして、かれの死後には、ポンピドゥー・センターの芸術舘で回顧展が開催された。世界屈指の芸術センターで展覧会ができるほど、かれのかかわる芸術関係資料があったということである。

 そして、それらの素材のほとんどすべてが、抽象的記述に終始した芸術エッセーと映像であったということである。かれの書く作家論、芸術論は、読者や観客がすでに知っている作家や出来事の名前と作品映像があることによってのみ、それが芸術論、作家論であることがわかるようなものである。まるで、活字芸術によるイメージの制圧である。ことばの征服である。白のモノも黒のモノも、ことばによって赤にもピンクにもなる。ちがった言いかたをすれば、すべての表現を詩にしているようにみえる。

 そして、そうしたことを、個々一瞥しただけではことさら特異ともおもえぬが、ぼうだいなものことごとくがそうであるのをみると、見当ちがいの芸術論としてかたずげることができなくなる。不感症のものがかたるセックス論が、通常者の通俗論より、はるかに発展性のある議論であるようなものである。

 ブルトンの芸術論にはそのような特質があるだけでなく、いっそう意図的であるとおもわれる特異な傾向がある。それは、これほどぼうだいな芸術論を生涯にわたって書きつづけながら、シュルレアリスムを正面からあつかい、社会にむかってたちむかわせる、たとえば「宣言」や公開討論や講演などでは、さきにも4つの宣言の例でのべたように、けっして「芸術」を語ることがない。画商行為について理論化したことがないのとどうようである。かれは、「すべきこと」と「生活」を分離しようとし、そのことになんらかの関係があるのだろうか。そのことがわからないかぎり、筆者には、ブルトンの「反芸術」はやはりいくばくかの闇にとどまるであろう。

(第3節のあとがきにかえて)  


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