Avant 2-4-3-3


’60年代日本の芸術アヴァンギャルド   (第2章ー4ー③ー1) 

「読売アンデパンダン」展 

            田淵 晉也


Part 3



 1963年4月号の『芸術新潮』は、「読売アンデパンダン展の末期」という無署名の第15回展批評を掲載した。発売日を勘案するとほとんど同時性をもつ記事である。

 つぎのようなものであった。


 ここのところ低調で悪評サクサクの読売アンデパンダン展は今年で十五回展を迎えて、なにか起死回生の妙薬でもひねり出したのではないかと期待を抱かしたようだったが、どうもいよいよイケナイ段階に突入したらしい。反美術、反芸術の牙城も十五年たつとさすがに老いさらばえて、往年の活気はまるで雲散霧消し、無残な老醜をさらけだした

 この現象に拍車をかけたのは、今年から主催者と都美術館とで取りきめた陳列作品規格基準要綱である・・・・

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 これら六項目は直接、読売アンデパンダンを目標にして作られた規準ではないように美術館では装っているが、読売アンデパンダンのために特に作られたものであることは一目瞭然、誰が見てもすぐ分る。そしてこの六項目こそ読売アンデパンダン展を最も特徴づけていた要素である。つまり、ここにおいて読売アンデパンダンは最後のキメ手であるキバも抜かれてしまったと見る向きもある。

 この規準で気勢をそがれた一部の血気にはやる若者たちが初日の三月二日に、ささやかな抵抗ショーを演じたらしいが、すでに手遅れ。手遅れと言えば、この展覧会そのもがダメになっているのだから、どうしょうもないのだ。・・・・・ これはとりもなおさず日本の前衛美術の全体の問題であろう


 一読すると、既成芸術の立場から、日頃から「読売アンデパンダン」展に反感をもつ、事実誤認のある発言のようにもきこえる。しかし、それだけに、時代をこえた今からみると、核心をついた客観的指摘ともおもえる。

 「読売アンデパンダン」展は、だれでもが出品できること、つまり、無署名氏では、芸術家と非芸術家を区別しない「反美術、反芸術」の立ち位置から、「活気ある」芸術を展開してきた。ところが、第15回展では、「往年の活気がまるで雲散霧消し、無残な老醜をさらけだした」ということである。そして、その契機が、「主催者と都美術館とで取りきめた陳列作品規格基準要綱」の6項目にあり、それによって、せっかくのキバも抜かれてしまった。ということは、逆に言えば、この6項目が、「読売アンデパンダン展」を活気づける魅力の源泉であったということである。

 「不快音を発する作品」「悪臭を発する作品」「刃物を使用した作品」「公衆衛生法規にふれる作品」「床面を毀損汚染する作品」「天井から吊り下がった作品」などが、第1回展から出品されていたわけではない。しかし、これらが「読売アンデパンダン展を最も特徴づけていた要素」というのは、正鵠を射たものであろう。これらはすべては、不快な驚きをあたえるものである。その不快感は、社会的「良識」に反するから感じるのである。

 このような芸術効果は、まさにダダにはじまりシュルレアリスムに継承され、整備された20世紀アヴァンギャルドの主張した芸術主張であった。そうした、アヴァンギャルド芸術の「活気」が、「読売アンデパンダン展」にあったと、無署名氏は(心ならずも)いっているのであろう。そして、かれは、さらにこのアヴァンギャルドの「キバ」が、「読売新聞(主催者)と都美術館とで取り決めた陳列作品規格基準要綱」で抜牙された顛末が、この第15回展の「無残な老醜」であると指摘するのである。しかも、それは、「日本の前衛芸術の全体」の問題だというのだ。

 指摘されているのは、われわれもすでにみた、館内、館外のかれらの行動形態と、おおきな違和感があるものではない。

 さらに、このほかにも、この読売アンデパンダン展自体に批判的な論評ではなく、比較的中立の立場からされた批評もある。まだ会期中に発売された『朝日ジャーナル』(1963年3月17日号)に掲載された、おなじく無署名の「オブジェの集積《読売アンデパンダン展》」である。本論にかかわる要点だけを引用すればつぎのところである。


 読売新聞社主催のアンデパンダン展(三月二日から一六日)も今年ですでに十五回を迎え、すっかり恒例の年中行事となった感がある。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・もともと無審査をたてまえとする展覧会の性質上、そこには、右から左まで、あらゆる傾向の作品が並べられて少しも不思議はないわけだが、それでいていつも、この会場には、かなりはっきりと現在の前衛活動の方向が反映される。その辺にこの展覧会の、主要な興味があると言ってよいだろう。

 今年の会場を見て気付いた大きな特色は、ダダの後を受けるスキャンダリズムの全面的後退と、それにかわって登場して来たオブジェの集積による造形探求の方法の意識的利用だ。・・・・・・・・・・ 今年の展覧会に見られるダダ的傾向の後退は、都美術館側の禁止事項という、まったく外面的な事情によって由来したものには違いないが、結果としては、これまでに表面にあらわれなかったもうひとつの流れを、強く観客の前に提示することとなった。

 いわゆるダダ的傾向の前衛運動が、第一次世界大戦中に起こった「ダダ」の流れをうけて、既成の価値体系の否定という、もっぱら破壊的側面を強調するのに対し、オブジェの集積による造形的探求は、あくまでも新しい精神の表現を目ざすものである点に、本質的な差異がある。・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・オブジェの集積に、新しい意味を認めようとする動きは、逆にこれまで実用的世界にのみおし込められていたさまざまの事物に、ひとつの造形表現としての意味を与えようとする積極的、肯定的意図をもっている。


 つまり、ダダ的な「既成の価値体系を否定する、破壊的な」ものが、「都美術館側の禁止事項」によって後退し、現実肯定の表現が前面にでてきたということである。価値評価は別にして、状況把握は、さきの論考とまったくおなじものである。

 まえの論考になかった価値論では、4年まえの第11回展批評で、瀧口修造が危惧したオブジェ芸術を肯定的評価にかえ、3年まえからヨーロッパで主張されているヌーヴォー・レアリスムを世界的動向として、その流れにあるとしていることで、とりたてていうべきこともない。

 ただ、ダダ的なものの後にあらわれたこの「あたらしい表現」は、現実社会の「否定」を否定する、現実肯定の意図をもつという視点は、この「第15回展」についてのべられたものであるだけに、看過するわけにはいかない。この現実肯定とは、「逆にこれまで実用的世界にのみおし込められていたさまざまの事物に、ひとつの造形表現としての意味を与えようとする積極的、肯定的意図」という指摘に注目して、わたしは言っているのである。つまり、この現実「否定」を否定する現実肯定は、実用世界肯定であり、実用世界に容れてもらいたい、ということになる。そうした秘められた願望が、赤瀬川やヨシダがあのように描いた会場風景の原形にあることを、この『朝日ジャーナル』誌の無署名者は嗅ぎとったのだろうか。

 かれは、この会場には、「かなりはっきりと現在の前衛活動の方向が反映される。その辺にこの展覧会の、主要な興味がある」といい、その期待がこの15回展でもうらぎれることなく、ヌーヴォー・レアリスムの再確認ができたと満足しているようにみえる。そして、また、7年後の「万博芸術」をいち早く察知していたのかもしれない。

 しかし、いずれにせよ、第15回展では、第14回展の「撤去」や、「陳列作品規格基準要綱」への抗議や反抗、あるいは、鬱屈した不満よりむしろ、「パレード」的雰囲気が他を圧倒していたのであろう。「パレード」とは、宗教的祭事や軍隊の威容誇示といった集団行動である。また、これには、見せびらかしや、ひけらかしの要素もある。さらには、「動物が求愛威嚇のために自己の特徴を際立たせて見せる行為」の意味もある。(注.『ロワイヤル仏和中辞典』)

 第15回読売アンデパンダン展に、赤瀬川やヨシダや今泉らのいうように、もし破滅的「反芸術」があったとしても、そこには、「反芸術パレード」的な要素が色濃くあらわれていたのかと、とおもわれる。

 それについて、出品者たちの好意的理解者であった中原佑介は順序が逆の方向から、おなじようなものをこの15回展にみている。かれは、会期中の読売新聞夕刊紙上に「第15回読売アンデパンダン展の展望」を掲載した。サブタイトルは「視覚芸術に新風 批評精神溢れる出品」であるが、この論考は、サブタイトルの背後にあるものに、憶測をまじえた解釈をしなければならない。

 全文は、「反芸術的ムード」「作者以外の参加」「既製品の再使用」「岡本作品に注目」「新しい出品規定」の小見出5項目で構成されているが、そのうち、冒頭の「反芸術的ムード」と最後の「新しい出品規定」を引用してみよう。


(小見出 『反芸術的ムード』): 四年前の第十一回展あたりから、このアンデパンダン展には、絵画とか彫刻の既成のワクを破った仕事、あるいは「ネオ・ダダ」などの反芸術的な動向が集中的にあらわれている、ある意味では、それがアンデパンダン展を特徴づけているといってもいいほどである。こういう傾向は回を重ねると共にひろがり、工藤哲巳、荒川修作など幾人かの作家がうまれた。

 こんどの十五回展も、傾向としては変わりない。他の展覧会にはみられない野放図なエネルギーに事欠いているわけではないし、素材とか技法という点では、さらに大胆とも向こう見ずともつかない作品も少なくない。しかし、一方で、反芸術的ムードといった奇妙なものが発酵しつつあるのも事実である。安易な類型化という作品そのものに関する問題もあるだろう。しかし、それ以上に、出品者のなかに既成のワクを破ってしまったのだという事実へのいすわり、あるいはこの会場は反芸術的動向の「公認」された唯一の場所だということでのなれ合いがうまれつつあるのではないか。そういう事実をつくりだしたのは、ほかならぬこの展覧会の実績なのだが、それを年金にした無責任な先鋭主義というのでは始まらない。そうなれば開かれたシステムとしてのアンデパンダン展が、閉鎖的サロンのからさわぎと化してしまうだけである。ことしあたりこういう問題があらわれているのではないか

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(小見出 『新しい出品規定』) なお、最後になったが、この機会に新しく制定された都美術館の出品規定に一言触れておきたい。むろん、これはアンデパンダン展だけを対象にしたものでなく、都美術館を使用するあらゆる美術家に適用されるものだというタテマエである。ただ、昨年のこの美術館での出品撤回という事実がきっかけになっていることは十分想像されるところであろう。要約すれば不快感を与えたり、不快音を発する作品は遠慮されたいということだが、アンデパンダン展出品者ばかりでなく、全使用者がこういう規定そのものの存在について一考すべきではあるまいかひっかかるような作品を出品しなければよいということではあるまい。それに触れた作品のあることをまだ聞かないが、作品の内容におよぶ規定は除去さるべきだと思う。 

 アンデパンダン展の一部にある無責任な先鋭主義は、このことと別個のこととして考えるべき問題である

 

 さきの外からみたふたつの批評と比較すると、まず、第15回展における「ダダ的精神」の後退と変質は基本的におなじである。ただ、さきの2論文は、それがあらわれた契機が「陳列作品規格基準要綱」にあるとしているが、中原は直接それと関連させていない。(注. ダダ的精神についての論者の見方は、「第2章 『デモ・ゲバ』風俗のなかの『反芸術』3) トリスタン・ツァラの『ダダ宣言1918』と アンドレ・ブルトンの『反芸術』」[『百万遍』4号掲載]でのべている.)

 規格基準」についても、論考の最終に「この機会に新しく制定された都美術館の出品規定に一言触れておきたい」といい、問題発生からほぼ一年を経過した問題にしては、むしろそっけないあつかいである。前年の瀧口の「『作品』の危機と責任」にあった、「読売アンデパンダン展の展望」への緊迫感はまったく感じられない。「ひっかかるような作品を出品しなければよいということではあるまい」にしても、15回展の出展作についてなのか、一般論なのかわからない。

 また、「アンデパンダン展出品者ばかりでなく、全使用者がこういう規定そのものの存在について一考すべきではあるまいか。・・・・・・ それに触れた作品のあることをまだ聞かないが、作品の内容におよぶ規定は除去さるべきだと思う」というからには、全使用者除去つとめよということだが、そのつとめ方は、ヨシダが浜口の抗議行動にみたような、言いっ放しの、一方的な撤回要求ではなさそうだ。じじつ、この項の結論は、「アンデパンダン展の一部にある無責任な先鋭主義は、このことと別個のこととして考えるべき問題である」と、峻別しているのである。

 このようにみると、第1小見出し「反芸術ムード」と最終小見出「あたらしい出品規定」の関係は、さきの『芸術新潮』批評や『朝日ジャーナル』批評のいう関連性とは正反対の、「出品規定」は不当だが、その不当性とは切り離すべきというのが、かれの主張であろう。むしろ、言外には、切り離さなければ、アンデパンダン展が培ってきた「反芸術」自体が無に帰すという危機感であろう。そのことは、さきの二誌の無署名氏たちとはちがい、アヴァンギャルド芸術家らと親しくまじわり、その動向を知悉していた中原の実感であり、かれらのなかにある読売アンデパンダン展が、からさわぎの、なれ合いの「反芸術」の場、閉鎖的サロンとなっているのを察知していたからにちがいない。

 「ことしあたりこういう問題があらわれているのではないか」とさりげなく言うのだが、それはむしろ確信であろう。

 そして、現代芸術プロパーの評論家である中原のうちでは、この危機感がなにより緊迫していて、「陳列作品規格基準要綱」などは、「第15回読売アンデパンダン展の展望」の問題としては、「新しい出品規定」ていどにしか位置づけられていないのであろう。言及だけしておくという態度である。

 というのも、いかにこの禁止事項が念頭になかったかをおもわせるのに、冒頭部から、「四年前の第十一回展あたりから、このアンデパンダン展には、絵画とか彫刻の既成のワクを破った仕事、あるいは『ネオ・ダダ』などの反芸術的な動向が集中的にあらわれている、ある意味では、それがアンデパンダン展を特徴づけているといってもいいほどである」といい、「こういう傾向は回を重ねると共にひろがり、工藤哲巳、荒川修作など幾人かの作家がうまれた」とのべていることがある。あげられた代表作家のひとり、工藤の第14回展出品の『インポ分布図とその飽和部分に於ける保護ドームの発生』は、規格要綱の「天井より直接つり下げる作品」に違反する 作品であった。荒川にしても、「砂利、砂などを直接床面に置いたり、また床面を毀損汚染するような素材を使用した作品」で成果をあげた作家である。また、15回展の「視覚芸術に新風」をふかせた「作家以外の参加」作品のひとつの先例として、14回展で撤去された「『時間派』の仕事」を躊躇なく掲げている。そうしたことは、現代芸術評論家、あるべき現代芸術を考える評論家としては、「規格基準要綱」などより、「アンデパンダン展」にあらわれている現代アヴァンギャルドの動向のほうが緊急事態であり、「読売アンデパンダン展」自体の存続には、14回展で瀧口がもったような、切実な関心がないことをしめすのかもしれない。ただ、それを明言することができなかったひとつの理由は、掲載が主催社の「読売新聞」紙上であり、また、アンデパンダン展紹介、解説の依頼原稿であったからでもあろう。

 そして、そうしたことが、この’60年代アヴァンギャルドの実態にふれる論考が、結果的に、論旨のみだれ、あるいは、あいまいな印象をあたえる原因かとおもわれる。というのは、タイトル「第15回読売アンデパンダン展の展望 ─ 視覚芸術に新風 批評精神溢れる出品」のあらわすものが、直接書かれたものには、なんら説得性をもってのべられていないからである。ここでは引用しなかった、三つの小見出のふたつ、「作者以外の参加」「既製品の再使用」の内容は、インターラクティブ・アート、あるいは、インターメディア・アートであって、瀧口修造の、第11回読売アンデパンダン展評、「破られる既成技法」をおおきくこえるものではなく、また、3番目の項目「岡本(信次郎)作品に注目」にしても、あらためて「既成のワクを破って、視覚芸術に新風」をもたらすほどの作品とはおもえない書き方である。 (注.ここでいうインターメディアとは、文学と造形芸術の境界を取り払った、造形芸術でもあり詩でもあるという意味で使っている.)

 小見出というのは、筆者より編集記者が原稿受領後につけるものとはいえ、「作者以外の参加」「既製品の再使用」「岡本作品に注目」「新しい出品規定」は、それらしく内容をしめしはするが、一貫性を欠き、食いちがいのある見出しである。

 しかし、表面上のこうした印象とはべつに、これらを書いた中原の真意を憶測すると、やや異なる主張がここには隠(か)くれているようにおもえる。

 しいて推測すれば、それはこのようになろう。アンデパンダン展が、からさわぎの閉鎖サロンと化すことによって、みずからの存在意義を喪失しかかっているが、その一方、こうした芸術家たちのうちに、「既成芸術のワク」への真の挑戦、つまり意図ある芸術行為をなしている芸術家がいるのかもしれない。ただそれに明確な希望をたくせるかはわからない。なぜなら、この奇妙な「反芸術ムード」を発酵させたのも、「この展覧会の実績」なのであって、同じそこからうまれている、つまり、「読売アンデパンダン」展だから展示できるような作品の判定は、むずかしい。というのは、それが、責任をとった「反芸術」行為か、無責任なおもいつきの行為かは、その場で即断できないからである。その判断の躊躇は、中間の三つの小見出本文にかかれた作品推奨のことばの端々から察知できるものであった。

 その躊躇するふたしかさが、つねに洞察力にとみ、説得性のある論理を展開する中原にしては、月並みな、一貫性のない、インターラクティブやインターメディア的評価にとどめさせたのかもしれない。真の挑戦のようにみえる「芸術」もまた、「同じ穴の狢(むじな)」を危惧するためらいが見えかくれするのである。

 とはいえ、「そうなれば開かれたシステムとしてのアンデパンダン展が、閉鎖的サロンのからさわぎと化してしまうだけである」というのは、中原のゆるぎない確信であろう。

 第15回展や14回展でみられたもの、おそらくは本稿でも是々非々で紹介したような作品をふくむものであろうが、それらにたいして、なぜ中原がそれほどまでの危機感をもち、「破局」の確信をもつかについては、かれの芸術観からみなければならない。

 理論物理学の研究者であった中原の芸術論は、さきにものべたように、芸術と科学の相同性の視点に立つからである。 (注.本論、第2章 4) ‘60年代日本の「反芸術」(その2)「① 東野芳明の「反芸術」とそれをめぐって ─ 評論家の『反芸術』」[『百万遍』5号]参照)

 芸術や科学は、現実を課題とするものである。科学的思考は、そして現代芸術的思考も、現実を課題にしなければならない。自分を課題にして現実から遊離してはいけない。現実のなかの自分を課題にする芸術もあるが、「反芸術」はそのようなものではない。「反芸術」は、現実への不満を基盤としている。

 ところが、「反芸術」的傾向を特徴としている「読売アンデパンダン」が、いまや、「反芸術的ムード」という本質的に変質した「場」にすりかわったというのである。

 ややずれがあるのは承知のうえで、読売アンデパンダン展を学会、ついでにいえば、グループ展を研究室内の研究発表会に、そして、芸術家を研究者におきかえてみよう。

 中原の指摘は、「反芸術的ムード」の感知にはじまる。「反芸術ムード」とは、なんら現実的実効性をもたぬ、エセ「反芸術」が演じられているということである。つまり、反芸術ムードが発酵しているというのは、気分だけの反芸術が支配しつつあることであり、「反芸術ごっこ」のようなものが蔓延していることであろう。

 そのようになったのは、出品者と「読売アンデパンダン展」自体の関係の問題である。

 現今のアンデパンダン展は、中世キリスト教社会で、天動説が絶対権力に支持されているとき、異端の説を、きまぐれから認めてくれた金満家貴族の家に、地動説研究者たちがあつまって、思いつきていどの、なれ合い研究をならべて気炎をあげているようなものである。思考停止のからさわぎの場、自己満足の場にすぎない。「読売アンデパンダン」展は、そうしたなれ合い学会みたいなものになってしまった。

 ちょっとした成果をあげたといって、それにいすわり、おなじような発表をくりかえす、したり顔した研究者のような芸術家が、ここにはびこっている。

 科学者の学会が、そんな「閉鎖サロンのからさわぎ」と化したなら、自然解散いがいないだろう。そして、そんな科学者は、現役科学者とはいえぬものである。

 せいぜいのところ、年金暮らしの元科学者であって、孫たちのまえだけの科学者であろう。たしかに、中原が非難するのは、ママゴトや戦争ごっこのような、「反芸術ごっこ」のことである。

 ましてや、学会「会場」をとりまく社会が支持するのは、権力に擁護された「天動説」が配する天文学である。そのようなとき、「地動説ごっこ」などでは、一歩外にでれば、たちまち抹殺されるか、たとえば「画商」に、ひとこと脅されるだけで、たちどころに自己批判し転向して、熱心な天動説信奉学者になるのはわかりきっている。

 ようするに、芸術を科学との相同性においてみる中原のいいたかったのは、現実に対峙すべき「芸術」において、こんな「反芸術」は、かえって既成芸術復活に資するだけであり、読売アンデパンダン展は、「芸術放棄」の場となりつつあるということである。こんなアンデパンダン展は、中原としてはいかにしても容認できないということである。

 だから、問題は「新しい出品規定」にあるのではなく、「読売アンデパンダン」展の「閉鎖的サロンのからさわぎ」であり、「新しい出品規定」は、そこから派生した問題にすぎないのであろう。

 読売アンデパンダン展そのものについては、中原の指摘するところは、まさに的確な現状分析であり、また、それは、’60年代革新運動のひとつの実態であった。

 たとえば、’60年代後半期「デモ・ゲバ」の政治の領域でおこった、「革命ごっこ」といえなくもない「山岳ベース事件」(1972年)が、芸術でおこったような、’60年代の革新政治運動自体の終焉を画する出来事であったのは、’60年代をかたるうえでは関連して銘記すべきことである。このことについては、のちの赤瀬川原平の項であらためてのべるつもりである。

 そのように、中原のいうこの「反芸術ムード」の指摘は、’60年代アヴァンギャルドへの本質的問題に関連するものであった。

 しかし、中原のその指摘にもかかわらず、この「新しい出品規定」が、もっとおおきな時代の動向を予兆させるものであったことについては、さきにもすこしのべたとろである。それは半世紀後の今になってわかることであって、とうじの中原が気づくことなく、かれの懸念が優先する議論では、むしろとうぜんであろう。

 それにまた、中原の芸術論には、芸術の遊戯性を認めない傾向があることをのべておかねばならない。「デモ・ゲバ」風俗のなかにある遊戯性である。遊戯性の芸術は、アール・ブリュットやデュシャンのある種の芸術のように、現実のなかの自分をおもな課題とする芸術である。

 そうした視点の欠落が、ある分野では、第15回展の作品や現象を中原が正当にとらえるのを妨げたのかもしれない。目にはとめるが、それいじょうのものを見逃しているようにおもわれる。本論でもこれから詳述する、中西夏之の「クリップは攪拌作用を誘発する」(ママ)や高松次郎の作品にはそれなりの関心をしめしたが、それだけのものであった。また、’60年代日本で、世界でも先端にあったポップ・アートの先駆的作品、赤瀬川原平の千圓札模写作品へはひと言もない。また、かれらがそこで演じたパフォーマンスについても言及がない。高松作品のタイトルは「カーテンに関する反実在性について」であり、赤瀬川原平のは「復讐の形態学 ━ 殺す前に相手をよく見る」とあって、かれらの芸術行為の根幹にかかわる作品であった。だが、かれは、それらについて、「無責任な先鋭主義」ではないまでも、「風俗現象の無批判な再現、あるいは一方的な同化」をみるだけで、この時点では、それいじょうのものにはおよばなかったようである。(注.新聞批評に書かれた、高松作品への懸念.)

 中原の視野からこぼれ落ちていた、これらの作品は、その前後のかれらの活動を考えあわせると、そこにあるのは、これ以前と以後の、一貫した芸術思考の実効性を内在した作品であり、芸術活動であった。芸術において、芸術家はなにをすべきか? 芸術は自分にとって何であるか? を、現代思想の観点から、意識的に問題とする作品であった。かれらは「規格基準要綱」制定の以前からすでに、瀧口が希望をすてきれなかった「美術館」から意識的に離脱した芸術行為、芸術実験を実践していた。

 つまり、かれらは、すでに第14回展直後から、東京都美術館ではできない、美術館では無意味な芸術行為を意図的におこなっていた。それは、14回展の「作品撤去」に直接かかわっていたのか、あるいは、関係する行為であったかはわからないが、別角度からみれば、「撤去」事件へのかれらのひとつの回答である。「読売アンデパンダン展」は、かれらの芸術実験場、見方によっては、芸術遊戯場のひとつにすぎない。学校、遊園地、街角にはそれぞれの遊び方がある。そうした遊び場、実験場、演習室といったものである。

 それらの意図的芸術行為のひとつは、第14回展開催の後、1962年の8月15日におこなわれた、「敗戦記念晩餐会」と称せられたイベントである。参加者は、吉村益信をはじめ、赤瀬川原平や風倉匠、木下新、吉野辰海、それに、グループ音楽の刀根泰尚や小杉武久、暗黒舞踏の土方巽、それに、広川晴史やヨシダ・ヨシエらである。

 会場は、東京23区のそとにある国立(当時)の公民館であり、開催時間は夕刻からであった。この企画は、まえもって200円の「晩餐整理券」を発売し、これを持参した観客の前で、出演者が食事をしてみせるものである。そして、食事中から食後に、ある者たちが、個別に同時多発的にパフォーマンスを演じるのである。全裸ダンスをする土方、ひたすら歯磨きをしてみせる吉村、転倒したピアノや紐による演奏をおこなう刀根や小杉、椅子から転落したり、みずからの裸体に焼ゴテをおしあてる風倉のパフォーマンスなどが、無秩序に演じられ、立ちつくした観客はそれをながめるというものであった。販売した「晩餐整理券」には「芸術マイナス芸術」と記載されていた。「芸術-芸術=ゼロ」であり、「敗戦記念晩餐会」もまた、時期外れの第二次世界大戦敗北の祝賀会よりむしろ、既成芸術「敗戦」記念の晩餐会であろう。

 しかも、開催場所と時刻からして、東京都美術館のように一般観客を対象としないものである。結果的にあつまったのは、アヴァンギャルドの芸術仲間や評論家たちだけであった。中原佑介は見物人のひとりといわれている。中西や高松は来ていなかったけれど、伝えきき、注目していたとのちに語っている。

 そして中西や高松らもまた、これとは無関係に、ハプニングを企画し、同年10月に国鉄(現. J.R.)山手線の走行電車のなかで実施した。

 こちらの参加メンバーは、中西夏之、高松次郎を中心に、村田K.や川仁宏、それに、見物人というか同伴者としての今泉省彦などもふくむ、その後のハイレッド・センターに深く関わるものたちである。

 かれらのおこなったのは、あとから「山手線事件」とか「山手線フェスティバル」といわれたもので、山手線プラットホームや車輌内に中西と高松がこのイベントのために制作したコンパクト・オブジェや紐オブジェをもちこんだ。コンパクト・オブジェとは、新生児の頭部ていどのポリエステル製のたまご形の型に、日用品のねじ釘やブラシ、分解した時計などを密封した作品であり、紐状オブジェは、黒い紐に、黒く塗った機械部品や玩具のスクラップとか、布きれのかたまりやボールなど、こまごまとした日常品を数珠のようにくくりつけた作品であった。それらをかれらは、衆人環視のなかをまるめて運んだり、引きずって歩いたり、また、座席で見つめ、舐めたりしたのだった。他方、仔細は不明であるが、同時間帯の山手線車中で、刀根康尚や小杉武久が音を発するパフォーマンスを実践したといわれている。

 そして、それらはいずれも、行為そのものからいえば、読売アンデパンダン展の第14回展や15回展でおこなわれた「示威パレード」であり、中原が論難した無責任なからさわぎの「反芸術」とみえなくもない。

 だが、かれらがそれをおこなったのは、東京都美術館ではなく、夏の夜の東京郊外の公民館であり、また、走行中の電車やプラットホームであって、まったく異なる「場」であった。また、それにいたるまでには、作品制作や協議、案内状作成配布、その他の準備にそれなりの時間をかけた計画行為であった。

 そして、また、参加したかれらのひとり、ひとりも、それぞれの芸術的おもいをいだいて仲間入りしたイベントであり、パフォーマンスであったとおもわれる。

 これらふたつのイベントは、たがいに無関係に施行されたものであったのだが、参加者のある者たちは、たがいに知ることとなり、好奇心をしげきされた。

 ことに、「敗戦記念晩餐会」側の赤瀬川原平と、「山手線フェスティバル」側の中西夏之と高松次郎が、つよい関心をたがいにもったとおもわれる。

 そして、それらがどのような意味をもつものであったかについて、芸術・思想評論小誌『形象』(のちに改め『機關』)の編集者であった今泉省彦と川仁宏が企画して、話し合う「座談会」をすることになった。これがおこなわれたのは、1962年11月であって、「規格基準要綱」制定の直前である。この座談会のテープ記録は大部なものとなり、『形象』7号(1963年2月刊)の「直接行動論の兆 ─ ひとつの実験例」と『形象』8号(1963年12月発売)の特集「直接行動論の報告」のひとつ座談会「直接行動論の兆Ⅱ」に分割して掲載されている。(注.「直接行動論の兆Ⅱ」の意味は、第7号誌の座談会を「Ⅰ」とするものでない.それについては、のちに説明する.)

 いずれにしても、深夜までかたりあった、雑誌掲載で4万語におよぶ内容は、かれらがおこなったふたつのイベントについて、当事者ひとり、ひとりが、それが自分にとってなんであり、なぜそのようなことをしたかを、自己確認的に語るものであった。そして、また、かれらいがいにも集まった、出席者それぞれが、それにたいしてどう思うかを、勝手気ままにのべるのだった。たがいの芸術観をぶちまけ、まぜあわせる行為だった。これもまた、たがいのイベントの延長上にある芸術行為ということができただろう。

 この「座談会」については、本稿ではのちに項をあらためて見ていくことになるが、そうしたことから、中西の読売アンデパンダン展への初出品が第15回展で実現し、また、かれらの周辺芸術家らをまきこんだ、番外パフォーマンスのミニチュア・レストランがその会場で開催されることになった。  

 そして、そこに出品した三人の作品が、のちの中西の表現によれば、「語呂が合ったように」 組み合わされて、既成芸術から離脱したハイレッド・センターが成立することになる。(注.「《千圓札裁判》における中西夏之証言録(1)」[美術手帖1971年10月号]])

 15回展に出品され、中原が気づいたり見逃したりしたかれら三人の作品は、つぎのようなものであった。

 中西夏之がはじめて出展した作品は、前年の「山手線フェスティバル」で、車中持ち込みをしたコンパクト・オブジェではなく、パフォーマンスとインターラクティブが共存する壁面掛けの平面作品であった。タイトルは「洗濯バサミは攪拌行動を主張する」である。電車と美術館という公開場所を識別したとおもわれるが、かれにとっては、どちらも芸術公開の実験場だったのだろう。

 高松次郎の出品作は、さきの中原の新聞批評で、既製品オブジェの例としてあげられた、垂らしたカーテンの内側から、黒く染めたガラクタつきの紐が伸び出ている、「カーテンに関する反実在性について」というタイトルの作品と、「トランクに関する反実在性について」「テーブルの引出しに関する反実在性について」という同種の三作品だった。

 赤瀬川原平が出展したのは、タタミ一畳大の梱包作品二点のあいだに、約200倍拡大の千圓札模写作品を配置した複合作品であった。「拡大千円札」のタイトルは、さきにもふれたように「復讐の形態学 ━ 殺す前に相手をよく見る」である。

 中西の「洗濯バサミは攪拌行動を主張する」は、キャンバス一面に洗濯バサミを装着した作品であるが、展示作品の足元に洗濯バサミのやまが築かれ、観客はすきなようにそれをとって、キャンバスにでもどこにでも、付着させることができた。それらは、いたずらから見物人のコートや持ち物にひそかにつけられ、場外にもちだされることもあった。それも出品作家の想定内にあったといわれている。

 高松作品のカーテンの下から伸びている紐は、「山手線フェスティバル」で使用した紐オブジェの一種であるが、まっ黒の凸凹状の紐は、巻き取り器に巻かれていて、どこまでも伸びだすものであった。会場をローラを曳いて歩く高松の撮影映像がのこっている。また、会期中、中西たち芸術仲間がその紐の先端に、さらに延長する紐をとりつけた。そして、それをひきずって会場のそとにでて、会場の最寄駅、上野駅までひきずっていった。かれらの意図するところは、 JR(当時は国鉄)の線路にそれをつなぐことによって、カーテンの下から出た紐が、日本全土に巻きつくということだった。だがこれは、美術館外に延長した紐に、人がつまずき転倒して、出動した警官から警告されて、紐の撤収騒ぎがあったという。これらは、たんなる「いたずら」や冗談ですむはなしかもしれないが、’60年代後半のアヴァンギャルド芸術として世界的に出現したコンセプチュアル・アートの先駆的実践ともいうことができる。(注.これらについては、今泉省彦も書いているが、赤瀬川原平の『反芸術アンパン』や雑誌『写真時代』掲載の「超芸術」にくわしい.上野駅までひっぱられていく紐の写真が『写真時代』に掲載されている.)

 しかも、こうしたかれら三人の作品は、たんなる思いつきの作品で偶然にそうした出来事がおこったのではなく、それぞれの確信に裏づけられた制作であった。

 たとえば、中西作品については、さきの中原の新聞批評でも 「・・・・ しかし、これは単に『みられる』世界にとどまらず、そのクリップの使用はお気にめすままという指示がある。このありふれた器具はたちまちキャンバスからあふれだし、無数の手によってばらまかれていく。いわば会場全体がかれの作品と化しイオネスコふうともみえる反応の世界がそこに展開されるのである。こんどの出品作のうち、もっとも無邪気を装った邪気のある仕事(?)(ママ)といえるかもしれない」 と、ここでは一定の評価がされている。

 しかし、この作品は、それにとどまるものではなく、中原の言をこえるものである。中原は、タイトルの、「洗濯バサミは攪拌行動を主張する」を、「クリップは攪拌行動を誘発する」と、誤引用しているが、その「主張」と「誘発」の相違には、核心にふれるちがいがある。また、中原は、キーワードとなる「攪拌行動」に注目していない。

 攪拌行動は、中西の芸術思想に関係するものである。思想化しているとは、すでにかれは、この作品以前から、ことばによって説明しているからである。かれは、それを、さきに紹介した『直接行動論の兆』のなかで、かれらがおこなった「山手線フェスティバル」を説明するとき、つぎのようにかたっている。攪拌行動の意味である。


・・・・・・俺はこう考えるんだ、つまり俺達が棲息している器の構造の無理して作られた部分から湧いてくる吹出物といったものがあるだろう、俺がさっきから云っているのはこの事件のことなんだが、一般に事件に対する反応と云うと、この器の欠陥に戻ってきてその時代を解釈し、ひとつの立場をとろうとするよな。俺達のやろうとしたことは器の構造性に関連のない行為をしつこく繰返して、毎日湧出する事件にそれを重ねて、モノクロームにする速度を早めると、まあそんな意図があるんだ。それも攪拌作用のひとつなんだが、エキプメント・プランと関連のありそうな発想をとりながら状況が全く違う。いや状況の解釈が違う、一方は事件に対応するが、こちらは対応する事件がない、というより事件に対応させないで事件、つまり行為をしたわけだ(注.下線は筆者. 赤文字は強調)(『直接行動論の兆 ひとつの実験例』)


 かれらのやった芸術行為は、人間としての反応であり、人間としての発言であったという前提がある。それが、社会にたいする反応であり、どのような方法による発言であったかが、ここで語られているのである。

  最小限必要なことだけ説明しておこう。

 「エキプメント・プラン」とは、今泉省彦が『形象』5号(1962年3月刊)に発表した小説エッセーのタイトルである。エキプメント(equipment)・プランとは、皇居前広場とおもわれる場所にギロチンとおぼしき複数の装置を並べて設置する、インスタレーション(芸術)計画である。小説『風流夢譚』のなかで評判となり、右翼を刺激した、「皇太子殿下や美智子妃殿下の首がスッテンコロコロカラカラカラと金属製の音がして転がっていった」あの情景に対応して設定されたのはいうまでもない。

 つまり、1960年暮れから1961年2月にかけておこった、小説『風流夢譚』の雑誌掲載とそれによる右翼少年の出版社社長宅における殺人事件、いわゆる嶋中事件によって露呈した社会状況に「反応」して書かれた小説エッセーである。中西の用語をもちいれば、俺達が棲息している器(社会)の構造の無理して作られた(理不尽な)部分から湧いてくる(生じる)吹出物(事件)に対応して、書かれた文学である。

 それにたいして、中西たちの(芸術)行為は、特定の事件に対応するのではなく、社会構造のこまごまとした矛盾をさらに増殖するような行為をおこなうということである。それは、エキプメント・プランとおなじ社会認識に立つが、方法が異なるのである。

 これに説明をくわえておかねばならないのは、「毎日湧出する事件にそれをかさねて、モノクロームにする速度を早める」というところであろう。

 この直前でいわれているのは、モノクロームは、「色名表をターンテーブルで廻転させて、個別性の色差がなくなった」モノクロームである。それは、ささいな事件を増殖させ、「事件が蔓延すると個々の事情や内容があるにもかかわらず、意識に混沌として映じてくるんだ・・・」の、「意識に混沌」にあたるだろう。意識の空白、白紙還元にあたる。たとえば、太平洋戦争敗戦直後数年間の日本の社会的「混沌」があてはまるかもしれない。

 これについてさらに理解をすすめるには、中西の説明対象である「山手線フェスティバル」のさい、事前に配布された「案内状」を参照しなければならない。ただしこれは、芸術ハプニングの案内文書であるから、社会的観点より芸術的視点からいわれたものである。やや冗長になるが、理解のために全文を引用する。


 解釈と定義のつまった整理戸棚、群衆の表情、無差別に作られた実用物、笑いのタイプ、実用人間、皇太子、毀れた玩具、歯車、ゼンマイ、卵殻、骨、毛髪、うんざりするような女の様々なび態、食器、書物、全く人為的な内部と外部、文字・・・・(書き続けたら世界中のペーパーを必要とする)が融解し、流動物となってただよいはじめている。そこから元の型をすくい出して「・・・・・の為に」供することも、都合のいい鋳型に流し込んで再生することも(どんな鋳型があるというのか!)無意味になってしまった現在、おれ達はこの流動物の中を泳ぎまわってカクハンし空白にしてしまおうと云う欲求にかられる。

 この空白から純粋な対話を生み出す作業が執拗に試みられねばならない

 構築物の中に胡座をかくことを拒否し、流動物で充満した空白内の一点となろうとするものの集合体がある。

 この集合体は収縮、分散の運動を繰り展げながら右記のサークル(注.案内状に記された山手線路線図)上を移動する。あなたが右の時間にサークル上又はサークル上の定められた点で、この集合体に出くわすなら、空白内のカクハンされた一分子と化し個性を消され、あなたとおれ、おれ達と物質の識別不能のルツボの中に落ち入るだろう。又もしあなたが帽子を愛用する人ならば、この集合体の収縮、拡散運動を促進するための媒体となることが出来るだろう。        

              ウロボンK・J 高松・N 中西・K 村田 (『東京ミキサー計画』 pp.13-14)


 「おれ達はこの流動物の中を泳ぎまわってカクハンし空白にしてしまおうと云う欲求にかられる」は、「意識に混沌として映じてくる」を願うことである。そしてこの空白混沌である白紙還元から、「純粋な対話を生み出す作業が執拗に試みられなければならない」という。

 そして、アヴァンギャルディストの芸術家仲間にむけられたものになるのだが、カクハン(攪拌)され空白にされるとは「個性を消され、あなたとおれ、おれ達と物質の識別不能のルツボ」におちいり、そこから「純粋な対話」、すなわち、純粋な芸術をはじめようではないかということになる。芸術的視点としては、これとかならずしも同一の主張ではないが、かつてランボーが詩についていったという、「感覚を錯乱させねばならない」とおなじ方向をみている芸術作家の芸術論ようにおもえる。

 ただ、さきのエキプメント・プランの社会状況にそくしてこの「攪拌作用の主張」をみても、それなりに現実的にも聞くべきものがある主張ともおもえる。

 というのは、あの嶋中事件において、たんに一小説の一場面であった「風流夢譚」を、ひとつの社会的事件としたのは、新聞報道、ことに朝日新聞「天声人語」(1960年12月1日)であり、この事件化を知って大事件にしたのが「右翼」であった。それについては、本論の第三章でのべるつもりであるが、この小説を『中央公論』でなく、一介の文芸誌が掲載しただけだったなら、これほどの事件にはならなかったであろう。大事件にも小事件にもなる、事件の種子は現代社会には無数にある。中西の言によれば「事件はうじゃうじゃあるんだ」。山手線フェスティバル案内状の冒頭部が告げるとおりである。

 したがって、こうした事件の芽をさらに増やして増殖し、かき混ぜて、ばかげた大事件に凝結するまえに流動化し攪拌して、モノクロームの空白化するのである。そして、その「空白」還元から「純粋な対話を生み出す作業を執拗に試みる」べきということになる。「山手線フェスティバル」における中西たちのいう「純粋な対話」とは、芸術による対話のことである。

 しかし、中西が、のちのこの座談会で問題としているのは、「攪拌作用」の理論ではなく、攪拌(直接)行動であり、それがかれを、「山手線フェスティバル」ではコンパクト・オブジェの車内持込みを、「読売アンデパンダン展」ではあのような作品の出展にむかわせたのであろう。

 他方、このような中西と学生時代(東京芸大 油絵専攻)からの友人であった高松次郎は、第10回展から出展していたが、今回は『カーテンに関する反実在性について』と題するインスタレーション・オブジェを出品した。中原は、インスタレーション・オブジェに言及していない。カーテンやトランク、テーブルの引出しだけに着目して、カーテンなどからはいでるこぶ状の黒い紐には言及していない。かれはこの時点では、「反実在性」に注目していない。そして、カーテンが視線をさえぎり、トランクや引出しがモノを納めてみえなくするという、それらの日常機能のみにこだわり、「既製品のもたらす情緒的反応にとらわれ、作品をせまく限定しすぎている」と、評価をひかめにおさえている。

 しかし、この作品もまた、中西のように、かれの躍動する思想にうらづけられているものであった。

 ここでは、カーテンの下からもれでる紐に注意しなければならない。日常品が数珠つなぎのこぶ状になって、真っ黒に染めあげられた紐の形態に注目しなければならない。これは「山手線フェスティバル」で電車にもちこまれた携帯オブジェと同形のものである。それらのアイデアの出処を、前年の第14回展で工藤哲巳が天井からつりさげた、ソーセージやコッペパン状のペニス型物品をくくりつけた黒い紐状オブジェにみることができるかもしれない。しかし、たとえそうであるにしても、高松が車中携帯したオブジェにはじまり、これらで表現しようとしているのは、工藤作品以前からかれ自身が追求していた形態の延長線上にあるものである。既成芸術の人物、風景、静物を捨て、1960年ごろからかれが開始した独自の作品は、まるめられた糸くずのような形態を表現するものである。そしてそれらの当初のタイトルは『点』であった。やがて、糸くづ状の円形または珠の形態は、ゆるくほどけた帯状の楕円から不定形へと変形され、あるものでは、帯状にちかい、タイトルを『紐』とするものもある。それが、1963年頃までの高松が追いもとめていた形態である。そうしたなかで制作されたのが、車中携帯の紐オブジェであり、15回展出品の、カーテンの下からでてくる紐オブジェであった。だから、これらのオブジェでは、こぶ状の数珠形態が注目すべきところとなる。

 また、そのころ書かれたメモ用紙を作品としたものに、鉛筆がきのそうしたさまざまなデッサン(?)画があるが、その図の余白に、「質点体(内面量子力学)」との書き込みがある。「内面量子力学」は、囲み書きで数箇所にある。これを読むと、かれの関心の在りどころが想像できる。常識的に、量子力学とは、たとえば、光を粒子説と波動説の併合理論で説明するような、物質界を粒子性と波動性の両性合一理論で説明するものであろう。(筆者のケントウハズレなら、こうしわけないが!) 

 ここでは、それが「内面量子力学」とされているのだから、人間の社会理解と社会への対応問題とすることができよう。その場合「粒子」に相当するのは、高松も作成にくわわっている、『山手線フェスティバル』の案内状にある、(個人にとっての)「解釈と定義のつまった整理戸棚、群衆の表情、無差別に作られた実用物、笑いのタイプ、実用人間、皇太子、毀れた玩具、歯車、ゼンマイ、卵殻、骨、毛髪、うんざりするような女の様々なび態、食器、書物、全く人為的な内部と外部、文字・・・・」のもろもろの事物のようなものであり、座談会『直接行動論の兆』で中西の説明にあった、(個人にとっての)うじゃうじゃある事件、さまざまな出来事がふくまれるのであろう。そして、「波動」とはそれらの関係変化であり、それが個々人へおよぼす影響であり関係であろう。

 すると、コブ状連鎖の伸縮さだめなき紐オブジェは、この「内面量子力学」の形態化の試みともおもえる。そして、そうであるなら、「カーテンに関する反実在性について」の意図するところは、すこしあきらかになる。「反実在性」が問題なのである。カーテンやトランクや引出しで、実体の実在性をおおったらどうなるかである。おおっても、かくしても、実体があるような、ないようなものがにじみでる。それを引き回し、身体に巻きつけ、もてあそぶのである補遺

 この「反実在性」を問題とすることは、ちょうど1963年のこの頃から高松は、60年からはじめた点シリーズと紐シリーズから、影シリーズへ制作テーマを発展させる時期とかさなる。これは、「不在性」を問題とするシリーズであった。かれにとって、「不在性」の追及は、不条理解明の「世界拡大計画」に通じるものであった。 (注.「世界拡大計画 ─ 不在性についての試論」[『機關』No.9、1964年9月]参照)


補遺. 理論物理学の元研究者であった中原が、高松のこの「内面量子力学」をどうみていたのかわからない。「反実在性について」においても、ノーコメントである。ただ、第15回展から4ヶ月後に開催された中原特別企画のg画廊展は『不在の部屋』(1963年7月)であった。高松の主張する「不在性」と中原の「不在の部屋」の関連性はわからない。高松の「内面量子力学」記載のメモ用紙執筆が1961年、「カーテンに関する反実在性」が1963年3月、論文「〝不在体〟のために」が『形象』8号に掲載されたのが1963年5月である。中原は3月には「反実在性」になんら注目していないのだから、高松の論文から得た発想が「不在の部屋」命名にあるのかもしれない。これについては、次項目「ハイレッド・センター」でふれるつもりである。また、その後(1972年)刊行の中原佑介の評論集『ナンセンス芸術論』の装丁を担当したのは高松であった。その表紙デザインは、ずたずたに切断された文章が一面に散らばっているものである。文字であるが文章でなく絵でもない、文字であり文章であり絵でもある表現である。「世界拡大計画」で、革命を「社会拡大に関する不在性」とし、科学を「自然拡大に関する不在性」とし、計画とは「事物拡大に関する不在性」であるとし、芸術を「定着された不在性」と定義している高松であるから、このデザインは「内面量子力学」の延長上にでてきたとして、納得できるものがある。また、中原もある程度まで了解していた図柄かとおもわれる。そうしたことからいえるのは、この「反実在性について」でみられるもれでるオブジェについての解釈も、そのように、高松の「点」にはじまるシリーズの関連でみるのが可能ではないかということである。


 この「影シリーズ」自体は、むしろリアリズムの手法で66年ごろまで執拗に描きつづけた「影」作品のシリーズであって、かずかずのかれの代表作が制作されたものである。

 そのころ、かれは「〝不在体〟のために」とか「不在性のために」とかの解説的エッセーを書いているが、そのなかに次の一文がある。


 影を(影だけを)(傍点)人工的に作ることによって、ぼくはまず、この実体の世界の消却から始めました。(それはあくまでも消却=不在化であって〈超越〉ではありません。)この世界の中で〈完璧性〉を追求するために、それは最も素朴でストレートな方法だろうと思います。しかし、そこで問題になるのは、いうまでもなく、この世界そのものが枠になるということです。実在とは無関係な不在はなくとも、より純粋な不在(傍点)というものはあると思います。ぼくがこれからしなければならないことは、実在性からどこまで遠くへ行けるかという実験でなければなりません。その仕事には、完成への収斂ははあっても、決して到達がないことは承知のうえです。(下線は筆者.)(「不在性のために」[『眼』第8号、おぎくぼ画廊 1966年1月] [『影の宇宙  世界拡大計画』から]:〈影〉制作は1964年から)


 冒頭の「影を(影だけを)人工的に作ることによって、ぼくはまず、この実体の世界の消却から始めました」は、まさに「カーテンに関する反実在性について」の説明にもなるものだろう。「実体の世界の消却」を問題とするということである。カーテンは、現実社会の「消却」の具象化である。

 そして、それは、この世界(社会)の中で、〈世界拡大計画〉に言い換えられる〈完璧性〉を追求するためである。しかし、(不在は実在にたいするものだから)、〈不在性〉は実在性とは無関係ではないのだから、〈完璧性〉の追求は、実在からどこまで遠くへ行けるかという実験になるという。「山手線フェスティバル」や、ことに第15回展で、紐オブジェをひいて歩きまわった行為を思いださせる。

 で、高松がここで、そこから始めたという「実体の世界の消却」は、中西が説明した色名表をターンテーブルにのせた「モノトーン」化に対応し、かれのいう「攪拌行動」に合致するのであろう。

 中西が、芸術運動ハイレッド・センターの成立の契機とした、「一緒になりたかったんですけれども・・・ アンデパンダンのときに、はからずも、語呂が合っちゃった」、ふたりのあいだにあったのは、そうした、実体世界の「消却」と現実社会の「攪拌行動」の語呂合わせにあったとおもわれる。

 それでは、将来のハイレッド・センターの最後のメンバー、赤瀬川原平の梱包オブジェ2点とそのあいだに「模写千圓札」をおいた複合作品は、どのような芸術思想のうえに立脚していたのだろうか。

 梱包作品は、かれのその後数年間、ハイレッド・センターの活動中さまざまに試行する形式であるが、おそらくこれが赤瀬川にとって最初の梱包作品であろう。クリストが、パリで梱包芸術をはじめたのは1958年であったから、1963年のこの時期は、日本最初ではないが、やはり早期のものである。しかし、200号キャンバスをクラフト紙と紐で梱包した、「ナゾの隠蔽」ということでは、「カーテンに関する反実在性」や、色名表をターンテーブル載せたモノトーン化と不在性に通底する思考のながれが感じられる。

 とはいえ、この複合作品でもっとも視線をひきつけるのは、タタミ一畳大の梱包オブジェ2点の中央に設置された「千圓札模写」である。これは、同規模の用紙に200倍に拡大した千円札が描かれたものであった。(図版4 「復讐の形態学」[再撮影])



図版4「復讐の形態学.63」(94再撮影)



 この拡大千圓札の図というのは、実物千圓札紙幣に、5ミリの碁盤目を書き込み、この正方形図を、拡大図版の碁盤目一辺5センチの正方形に拡大して写しとる、左手に虫眼鏡、右手にペンの丹念な作業による、何ヶ月もの労力をひつようとする作品であった(注.小説『レンズの下の聖徳太子』[雑誌『海』1978年4月号]には、制作の作業ぶりと、そのときの芸術的発見が詳しく記されている) この模写作業は、作品搬入日に完成にいたらず、図柄の聖徳太子の上半身頭部が空白でのこされたままであった。しかし、拡大鏡で観察し写しとられた千圓札は、巨大さによって、200倍(注.赤瀬川はつねに200倍拡大図であると説明する)に拡大された人間の肌の拡大写真がそうであるように、それだけでも、社会的習慣に馴致された人間の視線をひきつけるものがあった。

 そして、タイトルは「復讐の形態学 ━ 殺す前に相手をよく見る」である。これは、会場では独善的なパロディーと解されたかもしれないが、思想的曰(いわ)くがあるものであった。

 赤瀬川は、15回展開催の直前、1963年2月に新宿の第一画廊で個展「あいまいな海」をひらいた。数十点からなる展示作品は、人体分解や、機械や花をとりまぜたコラージュであった。そして、事前配布した案内状に使用した「千円札」が、将来にわたる事件の発端となるものであった。

 案内状は、製版業者に発注してつくった一面モノクロ印刷の千圓札であった。かれは、この裏面千円札の案内状を現金封筒にいれて関係者に送付した。図案化して配置された案内状文面を読解すればつぎのようになる。(図版5「案内状千円札」.図版6「案内状表面本文)




図版5「案内状千圓札」



図版6「案内状表面本文」



1.人体(細胞)総数約8000000000000(兆)個=海水(ドラムカン約6000杯) あいまいな海 について

  肉体と、肉体に附随した意識を含む私有財産制度の破壊

 (貨幣制度破壊に関する当 CO.,  の方法と技術の精巧さは衆知のとおりです。偽人間の方は非常に難しく、技術的にもまだ不可能であり、現在発行中の人間を偽人間に似せて偽造することが当面の方法であります。)

2.私有財産制度の破壊

3.ダ円製造 


1963年2月5日から10日  新宿・第一画廊  個展4ダース

赤瀬川原平 CO., LTD

                   (下線は筆者)

 

 配置された文面の読みようによっては、項目1.2.3.の説明の見出しが〈  〉部分で、つづく(       )内記述が本文である。(注. 原文に〈  〉はあるが、(   )はない.)「あいまいな海」は、この後、赤瀬川の前期思想のキーワードになるものであって、この個展直後に発表された詩篇「あいまいな海」の冒頭が、「何故、神様は海を圧縮して体系を作り/体系に餌を与えて人間を創ったのか。/何故?/それがわからないから・・・・・」(『形象』8号 1963年6月)ではじめられていることからもわかるように、人間をさすものである。そのほか、のちにされた他の説明では、「あいまいな海」を人間社会とし、人間を社会に定着させる螺子釘の海であるとしたものとか、「ゲリラは魚、人民は、機動隊はストロー、隣組は浅瀬・・・」とするイラスト・マンガもあるから、生物的人間よりむしろ社会的人間であろう。「私有財産制度の破壊」と「ダ円構造」は、人間構造と社会構造についてである。「ダ円構造」は肉体意識の2中心点をもつ人間構造であろう。そして、破壊さるべき「私有財産制度」は、物資的私有財産制度とともに、意識と肉体の私有制にもとずく個人性、ことに「個性」といわれるものであろう。とくに、芸術的「個性」に焦点をさだめているようにおもわれる。この個展の当事者名も、「赤瀬川原平 CO., LTD」とされていることに注目しなければならない。「赤瀬川原平 有限会社」、すなわち、〈赤瀬川原平 limited company〉(赤瀬川原平とその限定された仲間たち)である。

 とすると、この芸術展で展開されている芸術論の中心課題は、「肉体と、肉体に附随した意識を含む私有財産制度の破壊」にあることになる。いわば、「万人のための芸術」である。20世紀アヴァンギャルドでは、シュルレアリストが発掘したロートレアモンいらいの古くて新しい課題であって、芸術は万人が創造者であり受容者であらねばならないことである(注.これについては、本論ではすでに「第2章「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」1)’60年代日本の「反芸術」(その1)」[『百万遍』4号]でのべた.)

 しかし、赤瀬川の主張はこれだけではなく、主眼は、「偽人間の方は非常に難しく、技術的にもまだ不可能であり、現在発行中の人間を偽人間に似せて偽造することが当面の方法であります」にあるのだろう。主張というよりむしろ呼びかけである。「偽人間」とは「万人が(の)芸術家」であろう。したがって、やむをえずする「当面の方法」とは、既成の芸術家(現在発行中の人間)のなかから限定された仲間を結集する呼びかけであろう。

 これは、おそらく、そのときすでに解散していたネオダダ・ジャパンや「敗戦記念晩餐会」の仲間たち、あるいは、個展直前におこなわれた座談会「直接行動論の兆」で語りあったアヴァンギャルディストたちという「現在発行中の人間」を念頭にしながら仮想したものであろう。

 というわけで、案内状用紙にもちいた複製千円札は、案内状の論点からいえば付帯事項であったとおもわれる。「肉体と意識の私有財産制度」に焦点をあわせるための私有財産制度の象徴、貨幣制度の破壊行動をしてみせたのであろう。それが、「貨幣制度破壊に関する当CO.、の方法と技術の精巧さは衆知のとおりです」があらわすものである。付言しておけば、かれの論理にある貨幣制度の破壊は、この世に本物と区別のつかぬ偽札を氾濫させたら、貨幣制度を混乱させ、崩壊させるという理屈のうえになりたっている。じじつ、この現実世界でも、第二次大戦中、ナチス・ドイツが、精巧なポンド紙幣を贋造しイギリス経済の撹乱をはかったことがあった。

 そして、また、この理論が、偽人間理論の伏線である。すべての人間を偽人間(芸術家)にするということである。

 したがって、そうした複製千円札であったわけであるが、その当の千円札そのものをよく見てみたら、どうなるかを表現したのが15回展出展の複合オブジェ作品のなかの「千圓札拡大模写」ということになる。だから、タイトルが「復讐の形態学 ─ 殺す前に相手をよく見る」となるのである。

 おそらくこのことは、赤瀬川の個展案内状をうけとったものには、たちどころに伝達された作品内容であろう。しかも、梱包オブジェとセットになった作品である。まるで、高松の「カーテンに関する反実在性について」と打ちあわせて制作されたような作品である。

 それとも、この両作品はともに作者名を、AKASEGAWA・TAKAMATU CO., LTD としてもよいような関係にある。

 さらにまた、なんとなく不穏な気配をただよわす「拡大千円札模写」は、「洗濯バサミは攪拌行動を主張する」に通じるものがある。おそらく、「洗濯バサミ」の作者、中西にとっては、赤瀬川の個展の案内状にあった、私有財産制度破壊(行動)にみえたことだろう。それは作品として、現実の展覧会会場においても、異彩をはなつものであった。

 第15回展の開催を報道する読売新聞紙上でも、


(見出し)「読売アンデパンダン展開く」 :開館と同時に中学生や高校生の団体が一番乗りしたが、古い自転車をポツンとおいた「無疎外」(ママ) 千円札を畳大に描いた「復しゅうの形態学(殺す前に相手をよく見ろ)」など、奇妙(?)(ママ)な作品に目を見はっていた。(1963年3月2日 夕刊5面)


と、ある。評論家たちは、だれひとりとして、この作品に言及したものはいなかったが、観客の目を見はらせる奇妙な作品だったのだ。つまり、じゅうぶん攪拌行動を主張する作品であったわけである。

 またそればかりでなく、赤瀬川の私有財産制度破壊の複製・方法論は、すでにみてきた中西たちの「事件をさらにうじゃうじゃ蔓延させ」て、モノクローム空白化させる、あるいは、不在化させる理論と行動に合致するものであった。そのほかにも、赤瀬川の「肉体と意識の破壊」の主張は、中西、高松らが「山手線フェスティバル」案内状で予告した「個性を消され、あなたとおれ、おれ達と物質の識別不能のルツボの中に落ち入るだろう」とおなじものを芸術にもとめている。

 赤瀬川のこの主張は、かれがかれらと意見を交わす以前からもっていた芸術思想だったとおもわれる。かれが中西とはじめて出会った「座談会『若い冒険派』は語る」(『美術手帖』1961年5月号)で、芸術家の独創性を強調する議論のなかで、「伊藤君の作品は、伊藤君だけのものではないのだ」と、突然なんの説明もない発言をしている。中西はそこで、それについてなにものべていない。しかし、この指摘はすでに、中西らの、芸術作品を「個性を消され、あなたとおれ、おれ達と物質の識別不能のルツボ」と見ることの源泉であり、さらに、赤瀬川自身の、「意識と肉体の私有財産制度の破壊」へ発展する流れの源泉をしめすものであろう。そして、この「座談会」におけるたがいの発言をきくことから、赤瀬川と中西のあいだに親近感がうまれ、中西、高松グループと赤瀬川グループがたがいの芸術活動へ関心をたかめたかとおもわれる。(注.本論「第2章『デモ・ゲバ』風俗のなかの『反芸術』4)’60年代日本の『反芸術』(その2) ②芸術作家の『反芸術』[『百万遍』5号]参照)

 そうしたことにはじまり、中西がいう、ハイレッド・センターへのさいごの一押しであり、最初の一歩であった第15回読売アンデパンダン展の「語呂合わせ」があり、ミニチュア・レストランの開催があったのだろう。中西証言の関係する全文はつぎのようなものである。


 一緒になりたかったんですけれども、なるようなきっかけは全くない。しかし、そのときに、うまい具合に、三つの作品の語呂が合ったようにできあがったということがきっかけです。ですから、その思考とか考え方、何か引力みたいなものがあったということ、それは、どういう思想を持っているかということは、やはり、そういうことはすぐわかるものでもなかったし、やはり、その作品の活動とか、あるいは、何回も顔を合わしているというときに、肌みたいなもので、何か、一緒になりたかったという要素が要素というか、そういう引力みたいなものがあって、アンデパンダンのときに、はからずも、語呂が合っちゃったということが、何かあったと思います。・・・・ その三人が出会ったという記念に、ミニチュア食堂というのを開店しました。(《千圓札裁判》における中西夏之証言録(2)[『美術手帖』1971年11月号]


 「敗戦記念晩餐会」や「山手線フェスティバル」の活動、座談会「直接行動論の兆 ━ ひとつの実験例」の長時間の議論、そうしたものがすべて、この15回展に出品した三人の作品に流れこんいるというのである。

 ミニチュア食堂(一般の回想記ではミニチュア・レストラン)というのは、かれら三人だけではなく、風倉匠や谷川晃一、それにグループ音楽の刀根泰尚や小杉武久ら、かれら両グループの周辺にいたアヴァンギャルディストたちがくわわって開催した、アトラクション的イベントであった。ここに参加した芸術家らはすべて、のちのハイレッド・センターの活動になんらかのかたちで協力している。

 赤瀬川の説明によると、ミニチュア・レストランというのは、「食器はママゴトセットで、カレーライスは親指分ぐらい、味噌汁はおちょこに一杯、おかしらつきはチリメンジャコの一匹、そんなものをライターほどの火で煮たり焼いたりした」ものである。そしてその料理調理音をミュージック・コンクレートとして、マイク増幅して演奏した。そのいっぽう、「会場を歩く誰かがミニチュアの食券を売ってお客を連れて来る」というのである。いわば、相互参加型のインターラクティブ・パフォーマンスであった。(注.これらについては、今泉省彦や篠原有司男も書いているが、赤瀬川原平の『いまやアクションあるのみ!』[のちに『反芸術アンパン』に改題]や雑誌『写真時代』掲載の「超芸術」にくわしい.)

 こうしたかれらの日常生活を再現する、芸術を日常生活にかえすという行為は、美術館は作品を鑑賞する特別なところという「場」を乱す、それでもやはり芸術的行為であり、直後に命名され発足した「ハイレッド・センター」の芸術活動を予告するものであった。 

 ここからはじまったハイレッド・センターの現実的デビュー展にあたり、連続して開催された展覧会(1963年5月)のタイトルは「ミキサー計画」であった。そして、また、赤瀬川原平が20年後にまとめたハイレッド・センターの記録の表題は『東京ミキサー計画  ハイレッド・センター 直接行動の記録』であった。

 しかし、「ミキサー(攪拌、不在性、破壊)行動」の芸術は、いうまでもなく’60年代日本の「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」のひとつのあらわれである。’60年代日本の反芸術を問題とするうえでは、このハイレッド・センターの活動についてさらにのべておかねばならないのだが、そのまえにすこしだけ「読売アンデパンダン」展の結末をのべておこう。

 「読売アンデパンダン」展は、1964年1月、第16回展をまえにして、とつぜん廃止された。

 この廃止は、主催者であった読売新聞の対応の視点、戦後4年目に創設され15年間継続した「アンデパンダン展」の日本芸術史上の視点、それに、廃止にたいする芸術家たちの反応、の三視点からみることができる。本論の「’60年代日本の『反芸術』」からいえば、第3視点の「作家たちがみせた対応」が主要観点であるが、これにも関連するから第一点と第二点についてふれておこう。

 第一の読売新聞の動向については、前年15回展あたりからあらわれていた対応からみても当然の帰結である。むしろ、第16回展直前まで決定が遅延されていたのが、いささか疑問におもわれるほどである。時代の風向きと潮流を察知し、先頭にあることで存続してきた現代の賭博稼業たるマスコミ企業に、決定をひかえさせるほどの情勢が、’60年代中期の読売新聞社内に、あったのかともおもうが、それについてはここではのべない。

 年表による1964年の日本は、日本初の第18回オリンピックが東京で開催された年である。この年の10月には、そのほかにも、60年安保を成立させた岸信介が汚点をつけた政治体制を、「所得倍増」によって口拭いした池田勇人が病で辞任し、21世紀までつづく沖縄問題の張本人、佐藤栄作に政権たらい回をしている。また、高度経済成長と物価上昇にかんしては、この年の春闘で、総評が「第25回臨時大会で、公労協を主力に半日ストを決定する」が、総評議長太田薫と首相池田との会談で中止されている。しかし、5月の統一行動日には、「鉄鋼・造船・電機などの民間労組を主体に24時間スト」が実施され、賃上げがされている。

 また、社会の趨勢としては、「第1回戦没者叙勲の発布」(4.25)があり、「暴力行為等処罰法が公布」(6.24)され、戦前体制復活の明確なうごきがある。

 そうしたとき読売新聞が、社の方針として「真の民主化をこそ望む大衆の共感と協力を得ることを確信」(注.第一回読売アンデパンダン展の開催にあたりだされた新聞紙上の社告)して戦後、設立した「読売アンデパンダン展」を、社の方針として解消し、「読売オープン・ゴルフ」を開幕(1962年3月)していたのは当然の動向であった。潤沢な交際費をもち、「交流」を至上とする企業・産業人の「共感と協力を得ることを確信」した行為である。

 そのようなアヴァンギャルド展ではあったが、その創設以来、瀧口の期待と奨励にこたえるような、戦後の日本の現代芸術界の方向にあたえた影響は大きい。20世紀その後の日本の代表的な新しいアーティストたちの大半は「読売アンデパンダン展」から芸術家のスタートをはじめたのであった。第2回展からの山口勝弘、第4回展からの河原温、第5回展からの中村宏らはこれによってあたらしい立場を鮮明にする芸術デビューをはたし、20世紀後半の一新されたイラストレーションやアニメーションをきずいた真鍋博や久里洋二らも、ここから活躍の糸口をえた。

 かれらの芸術行為は、読売アンデパンダン展がなくても、つづけられたであろうが、「読売アンデパンダン展」という、日本で有数の大美術館で二週間にわたり開催される、全国紙発行の新聞社主催の大展覧会に無条件で出品でき、しかも作品は、人目をひけばセンセーショナルに全国に報道してもらえる効果は、かれらのキャリア形成に決定的な影響をおよぼしたとおもわれる。

 また、この展覧会場は、造形美術の枠をこえて、文学、音楽、写真映像、演劇、・・・を総合するアヴァンギャルド芸術をのちにさまざまな形で実現した、赤瀬川原平や刀根康尚、小杉武久、写真・映画の吉岡康弘らが、ここを作品・活動公開の場としただけでなく、人と人との出会いの場、芸術と芸術が溶けあう場とし、20世紀後半日本のアヴァンギャルドを鋳造するルツボとして活用した。バラエティーある人的交流の場としての効果あるアンデパンダン展だったとおもわれる。(注.赤瀬川原平は、20年後に「読売アンデパンダン展」を回顧する作品、『いまやアクションあるのみ!』で、同展解体の章である第5章を「坩堝が割れる」としている.)

 そして、そのほかにも、その効能は、そのご世界で活躍した国際的作家、工藤哲巳、荒川修作、高松次郎らの芸術原型のすべてが、どのように旧来のジャンルを逸脱した常識外れな作品でも自由に出品することができた、「読売アンデパンダン展」後期のなかで試みられている。

 そこでの実験成果は、他人の実験作品の見聞体験もふくめて、かれらの海外渡航直後からはじまる活躍ぶりに端的にあらわれているとおもわれる。たとえば工藤が渡仏数ヶ月後に、ジャン=ジャック・ルベールのハプニング展に参加し、はじめて出品した作品は第14回展出品作そのままであり、また、そのごの芸術行為やパフォーマンスにも、荒川修作の芸術行為や、他の過激なパフォーマーのアイディア模倣としてもよいものがある。かれが、パリで演じ、パリのアヴァンギャルディストたちの好評をえたハプニング行為は、かれ自身は日本ではけっして演じなかったものである。

 そして、工藤が日本で影響されたオリジナルの行為や作品というのも、じつはヨーロッパやアメリカのアヴァンギャルドの動向を聞きかじって臆面もなく、検討もされずに演じられたり制作されたものだった。

 ただそうした、稚拙な真似ごと、子供の遊びにひとしいものでも、あえて大美術館で実現することができ、しかも新聞紙上でもてはやされたのも、読売アンデパンダンならではのことである。だが、このことを本論では揶揄しているのではない。そうした臆面もない直接行動の結果、なんらかのかたちで実現したものが、とうじ世界的にも誕生前後にあったインスタレーションやハプニング、パフォーマンス、コンセプチュアル・アート・・・となるものへの若い芸術家らの関心の土壌をつくり、かれらの活動を促進したとおもわれるからである。

 そうした、’60年代のアヴァンギャルドの動向は、とうじ復活しつつある旧社会制度の芸術を象徴する、芸術の専門化と新しい分野別ヒエラルシーの成立に挑戦するものであった。彫刻であり絵画であり、絵画でもさらに日本画、洋画、もっと細分して、水彩、パステル、あるいは、デッサン画の区分と格付けを無視し、無効にする実験である。

 読売アンデパンダン展後期にあらわれたインスタレーション、パフォーマンス、コンセプチュアル・アート的なものは、すでに見てきたように、けっしてあたらしいこうしたジャンル形成を目指したものではなかった。これらを担う芸術家は、「絵」も塗れば「彫刻」もつくる、イラスト、デザインも描けば、写真も撮る、マンガ、詩、小説も書けば、楽器を奏し、舞台も踏むという、万能の芸術家、万能の「素人」芸術家、「超芸術」家である。

 60年代の日本の現代芸術には、あきらかにこの方向に向かうベクトルがあった。この新しい現代芸術の「流通機構」が、読売アンデパンダン展、ことに第14回(1962年)と最終回となった第15回(1963年)でピークにたっする60年代の「アンデパンダン展」であった。そこでは、東京都近代美術館は、絵画、立体の展示場であるとともにディスコテーク、劇場、音楽堂、レストランと化した。これは半世紀後の今としてもなお尖端にある芸術流通機構としての美術館展の萌芽があったとみえなくもなかった。21世紀初頭の美術館は、偽善的な姿ではあるけれども、ニューヨーク近代美術館(MoMa)、あるいは、ポンピドゥ・センターの場合でも、図書館、映画館、幼稚園遊技場、集会場、音楽堂、演劇・ファションショウ会場をかねる方向にすすんでいる。そうでなければ、美術館は採算のとれないムダな建物となる可能性がある。旧来の美術館、照明・空調と盗難装置を完備したたとえばルーブル美術館に入場する一般フランス人の数と、ポンピドゥ・センター入場者を比較するとよい。旧来の美術館機構は、日本人や中国人の国際観光旅行の対象になってはいるが、税金の負担者である大衆とはそれだけ無縁となっている。

 そうしたことが、主催者、読売新聞の意図や参加した芸術家たちの目的意識とはなんの関係もない芸術史上において、結果的にいえる「読売アンデパンダン展」の、若干仮想的な位置だったのではないだろうか。そして、このような時代の流れから見直してみると、第16回読売アンデパンダン展の中止と、直接の中止理由となった「東京都美術館陳列作品規格基準要綱」の設立は、この流れを押しとどめたという意味から、おおきな反動的規制であったといえよう。というのは、14回展出品作品や芸術行為を許容し活用するような「美術館組織」や建造物を検討する道も、そこにあったからである。

 そうした見地もふくめて、当のアヴァンギャルド芸術家たち、ことに出品者、芸術家らの「廃止」への対応をみておかねばならない。

 「陳列作品規格基準要綱」の設定があり、にもかかわらず第15回展のあの顛末があったことが「廃止」となる表向きの経緯であろう。ところが、この「基準要綱」自体にたいする芸術界、ことに現代芸術関係者らの直接対応は、とうじの資料渉猟ではほとんどみあたらなかった。その反応の実態をあらわすとおもわれる代表的な資料につぎのものがある。

 『美術手帖』、1963年12月臨時増刊号に掲載された、美術評論家、三木多門による「1963年の美術界展望」のなかの一文である。「基準要綱」が設定されたのは1962年12月であるから、前年の「美術展望」にはまにあわず、この展望批評は、15回展以後であり、「廃止」発表直前の微妙な時期に書かれたものである。すでに紹介した「規定」内容の重複もあるが、該当箇所全文を引用する。


 次に、あまり表面的にはとり上げられなかったが、暗い話題として東京都美術館陳列作品規格基準(ママ)について触れておこう。62年の「(14回)読売アンデパンダン展」でいくつかの出品作が撤回されるという事件が起こったが、いわばそれを既成事実としての法制化である。 「出品を拒否する」ものとして「○不快音または高音を発する仕掛けある作品 ○悪臭を発しまたは腐敗のおそれある素材を使用した作品 ○刃物等を素材に使用し、危害をおよぼすおそれのある作品 ○観覧者にいちじるしく不快感を与える作品などで公衆衛生法規にふれるおそれがある作品 ○砂利、砂などを直接床面に置いたり、また床面を毀損汚染するような素材を使用した作品 ○天井より直接つり下げる作品」の6項目を挙げている。これは借館団体の全部に本年度から適用されたが、主たる目標を「読売アンデパンダン展」あたりに置いているのもじじつであろう。「・・・・おそれある作品」の「出品を拒否する」という表現もかなり強硬であるが、誰が「・・・・・・ おそれある作品」と判定するかが問題である。「読売アンデパンダン展」の現状がどうであろうと、いわば「表現の自由」に関する重大問題である。「サド裁判」と比較するのはちょっと面はゆいが、一致して事にあたった文学界に比べて、苦々しく思っていたなどと易々として外堀埋めに応じ、また事を荒立てない美術界の寛容さ、あきらめの良さ、いや無神経さ(案外功利的なのかもしれない)は不思議というほかない。この条項に基づいて、科学的根拠はきわめてあいまいだが彫刻の重量制限なども問題になりはじめているので、あえて注意を喚起しておきたい。

 このことも一つの契機となって移動展を計画するものも現れた。もっと一般的にいえば従来の展覧会形式による交流に疑問をもって、さまざまな場と手段による実験的な試みが行われた。「攪拌作用」などと称するこれらの実験によって、これまでより無関係でなくなったかどうかは疑問であるが、固定観念を打破する企てはもっと広く積極的に行われていい。(下線は筆者)


 とうじの美術評論家としては、瀧口修造や針生一郎、中原佑介らに比して、保守的ともいえる三木をして、「『読売アンデパンダン展』の現状がどうであろうと、いわば『表現の自由』に関する重大問題である」とし、文学界にくらべて、「苦々しく思っていたなどと易々として外堀埋めに応じ、また事を荒立てない美術界の寛容さ、あきらめの良さ、いや無神経さ(案外功利的なのかもしれない)不思議というほかない」と言わしめている。

 ここで引き合いにだされている「サド裁判」とは、澁澤龍彦翻訳で現代思潮社から刊行されたサドの著作『悪徳の栄え』にたいする、1959年におこなわれた裁判とその裁判闘争をさすものである。起訴理由「わいせつ物頒布等の罪」にむけて、革新を標榜するほとんどの文壇人や文学者が有形、無形の抗議をおこなった。そして結果は、渋澤と出版社社長石井恭二は、一審無罪、二審有罪、最高裁棄却で、有罪罰金刑が確定した裁判である。

 この抗議活動の成果が、その後の文学作品規制にどこまで影響したかはわからないが、この時代を実体験した筆者の印象では、この種の文学作品について、作家、翻訳者、出版社をふくめて、その後、自己規制が強化されたとはおもえない。むしろ、以後のこの種の摘発は、その作品の文学価値保証となる傾向があったようにもおもう。

 あらためてこのようなことを記すのは、第三章で問題とする『風流夢譚』事件では、その際の文学界の奇妙な沈黙が、それ以降の日本で、天皇制を揶揄する「作品」の執筆者や出版社の自己規制を、異常なまでに嵩じさせた原因とおもうからである。いづれ説明するが、すでに問題にした今泉省彦の『エキプメント・プラン』なども、そうした滑稽なまでの自己規制が、あきらかに作品の力を減退させており、それが中西のあの発言にむすびつくのであった。

 ところで、1963年の芸術界では、作品拒否の「規格基準」が公表され、適用されて一年後になっても、「あまり表面的にはとり上げられなかったが・・・・」と前置きされるところをみると、明確な抗議活動や行動は、いっさいなかったということであろう。

 ただし、これは、具体的に、だれのどのような態度が問題かということなく、三木のように軽々に一括して言い切れるものではないともおもう。

 たとえば、第14回展の作品撤去のときの広川晴史や吉岡康弘の抗議、第15回展の今泉省彦や風倉匠の抗議交渉のような、個人レベルの抗議活動は、その後もあったかもしれない。だがそれはおそらくは受付で門前払いされたであろう。個人の組織にたいする抗議では、現在でもいたるところでおこっていることである。

 とすると、「苦々しく思っていたなどと易々として外堀埋めに応じ、また事を荒立てない美術界の寛容さ、あきらめの良さ、いや無神経さ(案外功利的なのかもしれない)は不思議というほかない」の責任をとわねばならない直接的対象は、作家たちもむろんだが、三木もそのメンバーである芸術評論家、芸術新聞や雑誌の編集者たちが該当するであろう。

 ことに、1963年末の三木はこのように批判するのだが、当の評論家たちが「規格基準要綱」にたいする全体行動をおこしたのは、「読売アンデパンダン展」が廃止された3ヶ月のちの翌年、1964年6月のことであった。この年開催の美術評論家連盟総会は、「基準要綱」撤廃要請を決議し、瀧口修造、針生一郎、中原佑介、東野芳明、小倉忠夫の四名を東京都美術館に代表として派遣し、抗議した。結果的には、美術館側から約束された回答はその後もなく、連盟はそのまま放置している。

 この美術評論家連盟総会の対応についてさらにいえば、「美術評論家連盟」のあるべき立場からみると、第14回展の作品撤去の「読売アンデパンダン展」の作品募集規約違反と関連させて、撤去に賛同して黙認した主催者たる読売新聞にも抗議すべきかとおもうが、それを検討した形跡はどこにもない。

 このような評論家側の姿勢は、批評家連盟総会のみならず、抗議文持参者であった瀧口や中原のさきに引用した新聞批評にも、「事を荒立てない」暗黙の意図がみられたかとおもう。そのほかにも、とうじ書かれた少数の批判評論のひとつとされる針生の一文もまた「苦々しく思っている」ていどをこえるものではなかった。それにまた、かれらの「苦々しい思いも」、読売新聞にたいする「苦々しさ」は微塵も感じさせぬものであった。

 それは、三木のこの「指摘」にしても、「事実指摘」の歴史的資料の価値はあるが、とうじの現実にたいする具体的抗議、あるいは、危機感主張としては意味のない、通り一遍の論評である。この『1963年の美術展望』では、該当年度内にあった、あの問題をかかえていた第15回展については、「『読売アンデパンダン展』の現状がどうであろうと・・・」とか、「『攪拌作用』などと称するこれらの実験によって、これまでより無関係でなくなったかどうかは疑問であるが、固定観念を打破する企てはもっと広く積極的に行われていい」とかの、あるような、ないような意見表明がされているだけである。また、一ヶ月後の読売アンデパンダン展「廃止」の危機感は、まったく感じられない。

 筆者がここでこのように評論家らの態度にこだわるのは、つぎのような理由からである。

 組織にたいする「異議申し立て」は、組織でなければできない。「デモ・ゲバ」風俗の「異議申し立て」は、デモ隊を組織して申し入れることである。しかし、「組織」成立は、芸術家たちのような非政治集団では、とつぜん形成されるものではない。問題視するさまざまな意見が雑誌、新聞に掲載され、さまざまに関係するところで語られ、それによってはじめて具体的行動をするグループがうまれ、自然発生的に形成されるものである。

 ところが、三木が指摘し、本論でもさきにのべたように、とうじの芸術誌や新聞等にはそのような論説はどこにもなかった。だがこの事実も、評論家だけに帰することで説明はできないであろう。東京都美術館のこの「規定」について、まとめていうべきこと、書きたいことをもつ評論家が、とうじなら多数いたことだろう。ただ、その意見表明の「場」と機会が提供されなかったということかもしれない。『美術手帖』、『芸術新潮』、『みずえ』などの編集者が「特集」を企画することなく、このテーマの原稿依頼をする必要を認めなかったのである。

 そうしたことの背後には、かれらの編集方針に欠くべからざる情報源である画壇や芸術界の変化がある。

 それは、画商の台頭による芸術界の変質である。高度経済成長によって、画商は復活というよりむしろ成長し、画壇において発言権をもつものになりつつあった。 (注.戦前の画商は骨董商にちかく、専門があっても、もっぱら日本画をあつかう職業であった。それが、西洋画のみをあつかい、美術館まがいの画廊を経営する画商が多数出現するのは、戦後、1950年代以降のことである。近代の画商については拙著「戦後政治体制と現代芸術」[『百万遍』2号]を参照)

 それについては、『美術手帖』(1957年11月号)に興味深い記事が掲載されている。美術記者であり美術評論家であった船戸洪による『画商・微苦笑する画商』である。


・・・・ 経済学的にいって、事業体の過渡期はおうおうにして業態は過度にふくらむそうである。業態の異端者である画商界がそんなにふくらんでいるとは私は考えないが、やや行きづまっているとは感じている。今年、一九五七展を開いた洋画商連盟は、来年早々、五八年展を開く予定である。会長の石原氏(求龍堂画廊)はマーケットをアメリカに求めて本年末、渡米するそうだし、長谷川氏(日動画廊)はパリ支店の開設をもくろんで、すでに二世を渡仏させている。

 画商は商人である。彼らはあちらの絵を買うが、こちらの絵を売らねば商売にならない。そのとき彼らが微笑するか苦笑するか画商たちはようやく現代日本美術と課題をともにしなければならなくなってきたようだ。(下線は筆者)


 ここでいわれる、洋画商連盟は、画商間の商品交換会や展覧会開催を目的に、この年、1957年に設立された日本洋画商協同組合であり、初代理事長には求龍堂画廊の足立龍一が就任し、1959年からは、日動画廊の長谷川仁が交代している。船戸記述の意図をこえてここで注目するのは、とうじの西洋画専門画商の関心のありかと動向である。

 マーケットをアメリカ、おそらくはニューヨークと、パリに求めているというが、日本向け仕入れ商品では、ニューヨークでは、抽象表現主義やアクション・ペインティングといったとうじの最先端絵画であり、パリでは、シュルレアリスムやダダ、あるいは、アンフォルメルまでを対象にいれるものであろう。ヌーヴォー・レアリスムはまだ命名されていないが、すでに、アンフォルメルでは、「具体」芸術をタピエが類似性があると称揚したことで、日本では知名度のたかい分野であった。いずれにしても、買うにせよ売るにせよ、画商たちの関心は最新の現代芸術にむけられていた。

 このことは、そればかりでなく、西洋画新人発掘のための「安井賞」展が創設されたのが、おなじ1957年であった。さらにまた、「読売アンデパンダン」展でも、第9回展(1957年)あたりから、創設いらい出展していた、新進ではあるが公募団体の有名画家たちの出品がほとんどなくなったと、さきにも瀧口が指摘していたことをおもいださねばなるまい。

 これはさらに、求龍堂画廊や日動画廊という戦後台頭し主流となった洋画画廊の関心の拡大ばかりか、すでに紹介した銀座画廊、村松画廊、新宿画廊などは、貸し画廊的性格もあったが、荒川修作や篠原有司男らの過激な芸術家の作品を好んで展示していた。そして、こうした最新現代芸術を専門とするパトロン的画廊、東京画廊や南画廊が設立されたのが1956年と1959年である。

 だが、いかにかれらが現代芸術に理解があり、好意的であろうと、「画商は商人である。彼らはあちらの絵を買うが、こちらの絵を売らなければ商売にならない」は、自明のことである。ましてや、銀座や新宿で画廊経営をするには、かなりの収益がなければ不可能である。そうしたときの顧客は、この時代の日本では現代芸術はまだ投機対象ではなかったから、船戸のようにアメリカのコレクターとはいわぬまでも、おもに国公私立の美術館であり、個人愛好家になる。

 そして、そのような想定顧客が、「悪臭を発しまたは腐敗のおそれある素材を使用した作品」や「観覧者にいちじるしく不快感を与える作品などで公衆衛生法規にふれるおそれがある作品、床面を毀損汚染するような素材を使用した作品」を購入することはありえない。

 現代芸術に多大の期待をかける画商でも、東京都美術館の「陳列作品規格基準要綱」には、心底ではよくぞいってくれたと賛同し、もっぱら接触を密にしていた新聞・雑誌の美術記者や芸術作家、評論家にそれを吹聴したのはありえたことである。それに、また、なんらかの既成芸術家たちでは、みずからの制作にてらして、「不快音または高音を発する仕掛けある作品、刃物等を素材に使用し、危害をおよぼすおそれのある作品、砂利、砂などを直接床面に置いたり、また床面を毀損汚染するような素材を使用した作品、天井より直接つり下げる作品」を排除するのは、あたりまえで、むしろ、望ましい処置とするものが多数あったことだろう。そうした、直接、間接の主張が芸術雑誌・新聞編集の沈黙、「あまり表面的に取りあげられなかった」底流にながれていたとおもわれる。ただ、それならそれで、あからさまに「規制」賛成をとなえることは、’60年代の「デモ・ゲバ」風俗が許さなかったのであろう。

 ただ、船戸の状況判断で興味深い指摘はそれだけではない。かれは、「画商は商人である ・・・・ こちらの絵を売らなければ商売にならない」と、画商について書いているが、これは、芸術家においても、該当するところがあったかとおもわれる。さきの三木が、「不思議というほかはない」という、「事を荒立てない美術界の寛容さ、あきらめの良さ、いや無神経さ案外功利的なのかもしれない」は、とうじの実践的アヴァンギャルディストたちについても、見方によってはいえるところである。

 篠原有司男は、’60年代のじぶんたちの活動を回顧し、総括する報告書を、1968年、最後の「デモ・ゲバ」風俗のなかで書いている。かれはそのなかでつぎのような「決心」をのべている。


「貴方は、家のゴミバケツに絵具をぶっかけた作品に、大切なお金を出せますか?」

「貴方は、ベン器にサインをしただけの作品を部屋に飾る気になれますか?」

「全裸で雑踏の中をつっ走る男女を観るためにサイ銭を投げられますか?」

 貴方が日本人ならば答えは無論、

「ノー」である。

 だが、ポップ・アートの超大作を背に、悠然とビフテキをパクつく家族。ゴリラの恐ろしい顔面を幾つも取りつけたピンクの円形ベッドでスヤスヤ寝るグラマー。巨大なハリボテのハンバーグを取囲み、シャンパン・グラスをカチカチさせるダークスーツのパーティー連中。乱チキ騒ぎの果てに高い金を払って買って来たこの芸術作品を蹴破ってしまう

 すべてアメリカの話だ! 俺の空カン・空ビン・古靴をくくりつけたオブジェを前に、スシをつまむ若旦那、こりゃ絵にならねぇ。そうだろう。

 買った作品をアメリカ人は、きまって、トイレにかけて眺める習慣がある。日本の場合なら、ピンナップ・ヌードが落ちだろう。

 俺たちは、しかしこのコタツを囲む2DKの中に怪獣の一物のような前衛芸術作品を投げ込み、お返しに銭をたっぷりいただく事に決心したのである(注.下線は筆者)(『前衛の道』[美術出版]1968年)


 ‘60年代のとうじでは、冗談のように、また、逆説的な言い方のようにきこえたかもしれない。だが、かれらの、ひめられた、だがいつわりのない当然の願いがかたられているようにもおもえる。そして、この願いの一面は、船戸のいう「画商」の願いの一面と合致する。画商たちは、現代芸術で「商売」を成立させることを期待し、三木のあやぶむ「確信」をしている。前衛芸術家たちも、篠原が『前衛の道』で報告しているような芸術で、かせぐことを期待している。画商の「商売」も、芸術家の「お金をたっぷりいただくこと」も、現代芸術や前衛芸術で、「生活」することを願っているのはかわりない。そして、その願いは「アメリカ」でかなえられていると期待している。19世紀の「新世界」願望の二番煎じであり、「ゴールド・ラッシュ」の夢である。イタリア、ルネッサンスのパトロン、フィレンツェのメディチ家が20世紀アヴァンギャルドで、アメリカの経済人にかわっただけの芸術史的見方かもしれない。

 画商たちはアメリカ、フランスへでかけた。そして、篠原の仲間である画家たちも、すでに、吉村(1962年)、荒川(1961年)、平岡弘子(1962年)、升沢金平(1963年)、豊島壮六、木下新(1964年)、田辺三太郎(1966年)らは、アメリカへいき、工藤哲巳はパリにいってしまった。吉村はもう帰国したが、それは不慮の事故によるものであって、なにやら、なにがしかの成功をおさめたようではないか。篠原自身も翌年6月、ロックフェーラ財団の奨学金をえて渡米することがきまっていた。

 かれらには共通して、当時の現代芸術によって「生活」できることを願い、また、いくばくかの確信があったのはたしかであろう。

 こうした画商と前衛芸術家の、現代(前衛)芸術への価値観の一致が、アンデパンダン芸術作家らの、「あきらめの良さ、いや無神経さ(案外功利的なのかもしれい)」と三木が不思議におもう行為に、しみ出ていたかもしれない。ただしこのことは、’60年代日本のアヴァンギャルドすべてがもっていた、時代が反映した性向であろう。

 しかしながら他方では、この篠原の言のなかに、前衛芸術家ならではの、画商とは相反する主張がされている。アメリカ人にたくして、篠原は、「作品」は、美術館でしずかに鑑賞するものではなく、トイレにかけて排尿便しながら眺めるもの、乱チキ騒ぎの果てに、蹴破ってしまうものだという。生活をそのように楽しませるものだという。生活にそのように直結しているものだと主張する。20世紀の芸術の「生活化」である。

 これは、また、かれらのあの「寛容さ」という無関心の、もうひつの由来を説明するものであり、1964年の「読売アンデパンダン展」廃止後のアヴァンギャルディストらの行動につうじるものがある。

 すでにそのことを、「廃止」一年前の第15回展後にみられたのを、三木はじじつとして、指摘していた。

 三木は、この「陳列作品規格基準」制定を契機として、「移動展を計画するものも現れた。もっと一般的にいえば従来の展覧会形式による交流に疑問をもって、さまざまな場と手段による実験的な試みが行われた」といい、効果を疑問視しながらも、ハイレッド・センター(?)を代表として、「固定観念を打破する企て」を好ましいものとして掲げていた。 (注.三木は、「『攪拌作用』などと称するこれらの実験によって」と書いているが、それが15回展に中西が出品した『洗濯バサミは攪拌作用を主張する』をさすのか、第15回アンデパンダン展の直後に設立されたハイレッド・センターの創設展、『ミキサー計画』をいうのかわからない.)

 「読売アンデパンダン」展の廃止は、なんらかの強権発動による「廃止」というより、どちらの側からみても起こるべくしておこった崩壊のような、「解体」であった。

 そして、その跡地から、「アンデパンダン」展のもっていた多様の遺伝子を、個々それぞれにうけつぐ植物が生えた。「植物」と言うのは、それを、うつくしい花とも、たくましい樹木とも、雑草とも言い切れないが、それでも生えそだつ生命力あふれた野生の「植物」だったようにおもうからである。

 そこに出展していたアヴァンギャルドの芸術家らは、その疑問がどのようなものであったかは別問題として、すでに「従来の展覧会形式による(芸術)交流に疑問」をもっていたのである。芸術作家たち自身は、「読売アンデパンダン」展そのものに全面的期待をかけていたわけではなかった。あればよし、なければなくともかまわない、といった「展覧会」だったのである。この点、瀧口とまったく異なる立場である。

 というのは、「読売アンデパンダン展」が中止になるや、多種にわたるアンデパンダン展が、すこしおおげさにいえば日本中で開催されたことがある。

  まず、同年(1964年)、6~7月に開催された、アンデパンダン64展委員会主催の「アンデパンダン’64」がある。これは、針生一郎らが提案し、参加芸術家の自主管理の展覧会であって、「読売アンデパンダン展」とおなじく東京都美術館を借館して開催された。通称針生アンパンと呼ばれたものであるだけに、企画検討は周到になされたアンデパンダン展であり、それなりに過激なものもあったようだが、いちぶのアヴァンギャルディストたちはボイコットした。また、7月には、「第1回全日本アンデパンダン展」が横浜市民ギャラリー(1964年7月)で開催されている。こちらの参加者は、松沢宥や高松次郎をのぞき、神奈川県在住のものにかぎられ、盛況とはいえず、第1回展かぎりでのちには開かれていない。そのほか継続の意思はありながら、一回だけであったのでは、「仙台アンデパンダン展」(9~10月)があり、「荒野におけるアンデパンダン’64展」(12月)(長野)があり、「フィルム・アンデパンダン」(12月)(東京)がある。

 そのほか、翌年、1965年8月に、岐阜で開かれた「アンデパンダン・アート・フェスティバル」がある。いまでも「岐阜アンデパンダン展」としてしばしばかたられるものである。これは、「フェスティバル」という名称がしめすように、美術展覧会の「固定観念を打破する」企画として、画期的なアンデパンダン展であった。

 会場が、岐阜市民センターと長良川の河川敷、それに金公園という、市中三ヶ所の広大な面積を占有した大がかりなアート・フェスティバルであった。企画立案、人選は、中原佑介がくわわるメンバーによっておこなわれ、参加者は、全国からあつまったアヴァンギャルドの造形芸術家、音楽家、それに、「ゼロ次元」などのグループ・パフォーマーたちであった。 (注.黒ダライ児の『肉体のアナーキズム』に、詳細な解説がある。また、同書には、廃止後に開催されたアンデパンダン展のリストが掲載されている.)

 出展されたのは、それぞれの場所を有効に使用した「作品」やハプニング、パフォーマンスであった。「グループ『位』」のメンバーは、長良川河川敷で巨大な「穴掘り」ハプニングをおこない、「ゼロ次元」は、テント張りのなかで、全裸、恥部露出の集団パフォーマンスを演じ、観客をあつめた。彩色、数字、文字入りの石ころを河原にまき散らすものもあった。会場のどこかには、「読売アンデパンダン」にあったような、アブナイ、キタナイ作品もまぎれこんでいた。

 これらは、いずれも人目をひき、観客をあつめたようだが、屋内、屋外をつかいわけていたためか、あるいは、岐阜という地方都市でははじめてのことであり、監視と取締りが間にあわなかったためか、表立った権力の介入はなかった。

 この岐阜「アンデパンダン・アート・フェスティバル」は、「読売アンデパンダン」展解体後におこなわれたアヴァンギャルド芸術家らの対抗芸術行為としては、フェスティバルというまったく異なる形式で、はるかに極端な芸術行為を公然と実現したということでは、’60年代日本のアヴァンギャルド史では、読売アンデパンダン展廃止の延長線上におこった、特記すべきアート・フェスティバルであったかとおもわれる。延長上というのは、日本中のアヴァンギャルディストらが注目していた「読売アンデパンダン」展が、あのように廃止されたということが、岐阜アンデパンダンのこの企画に全国からこれほどまでのアヴァンギャルディストたちが容易にあつまった第一の理由とおもうからである。

 しかしながら、「反芸術」の見地からは、この「岐阜アンデパンダン」はどのようにみえるだろうか。

 伝統的既成芸術や、あるいは、とうじの「画商」の価値基準からみても、けっして容認できないものがそこに出展されていた。そのような見方からでは、「反芸術」フェスティバルである。しかし、全体の企画としては、過激なパフォーマンスやハプニングは、たとえば巨大な「穴掘り」は、市民ホールはむろんのこと、公園内でも許される行為でなく、素材(マチエール)、場所をふくめて、河川敷でしかできないことである。「ゼロ次元」恒例のお尻露出のハプニングは、屋外テントで演じられたからこそ、完遂することができたのであろう。

 そうした視点からみると、「東京都美術館陳列作品規格基準要綱」にも抵触せぬよう配慮して企画されたようにもみえる。これは、すくなとも、反体制を標榜する「反芸術」ではなく、むしろ、東京都美術館規格基準を正当化する芸術行為である。

 また、他方では、それらは、アート・フェスティバルという看板をせおって演じられたからこそ、それなりの観客をあつめることができたとおもわれる。とつぜんどこかの河原で二三人があつまって穴掘りをやっても、注意して見るものなどいないはずである。また、せっかく裸でパフォーマンスを演じても、わざわざテント内をのぞく通行人もいないはずである。まず、芸術作品や芸術行為を期待、想定して入場した「鑑賞者」がいなければ、成立しない(芸術)行為であった。 (注.入場料についてはわからない) また、かれらとて、見物人がひとりもいないところで、そのような行為をするはずはない。

 したがってこれらは、不特定多数の人に見てもらうことを目的にした従来の芸術行為である。既成芸術とはちがう、「反芸術」という新しい芸術、として見てもらうことである。パレード風俗のなかの「反芸術」である。なお、これについては、類似したイベントに「ハイレッド・センター」が、すでに前年、1964年10月に銀座の街頭でおこなった「首都圏清掃整理促進運動」のハプニングがある。しかし、これもまたパレード風俗の「反芸術」でありながら、詳しくはのちにのべるつもりであるが、むしろデモ・ゲバ風俗の「反芸術」的傾向がつよいものであった。

 その他、この種の「読売アンデパンダン」展廃止を契機としておこなわれたものには、おなじ東京にありながら、針生アンパンに背をむけて、1964年6月に、「椿近代画廊」で開催された「オフ・ミュージアム(Off Museum)」がある。これは、ネオ・ダダ・ジャパンの篠原有司男や田中信太郎、その周辺にいた三木富雄らが中心になり、瀧口修造が相談にのって企画されたアヴァンギャルド総合芸術展である。

 「オフ・ミュージアム(off museum)」とは、 off([前置詞]離れた、嫌った)+美術館(ミュージアム)であるが、「ニューヨークのブロードウェイ街を離れた地区にある実験劇場で上演される前衛演劇」(研究社『新英和大辞典』)を意味する 〈off-Broadeway〉あたりを踏襲してつけられた展覧会名であろう。

 そうであるなら、東京都美術館を借館し、「陳列作品規格規定」遵守の「アンデパンダン’64」を忌避して開催した「オフ・ミュージアム」とはいうものの、批判的対抗の主張がこめられたものではなく、ファッショナブルな新芸術展ということになる。

 出品者は、旧ネオダダ・ジャパン系の篠原、田中、赤瀬川原平、豊島壮六、木下新、吉野辰海、それに、かれらと親しい三木、中西夏之、高松次郎、中村宏、立石紘一、刀根康尚、小杉武久らであった。そのほかにも、山口勝弘や白石かず子らとうじの造形芸術、音楽、文学のアヴァンギャルディストらが参加している。

 ここでの特異な出展例では深沢七郎の出品がある。出品作タイトルは「夢譚時計」であった。深沢の参加は、中央公論事件以前から、プレスリー愛好家であった篠原と親交があり、ネオ・ダダ展やナムジュン・パイクなどの、とうじの過激なアヴァンギャルド展を、かれはしばしばおとずれているから、その関係によるのかもしれない。だが、保守的正統芸術にたいして異議申し立てするこのアヴァンギャルド展への、むしろ場ちがいな参加は、深沢にとってこの展覧会が同調すべき好ましい行為であったからだろう。

 しかも、この作品の公然たる出品である。

 この出品の意味を理解するうえでは、1960年末から1961年におこった「『風流夢譚』事件」、あるいは、「中央公論事件」「嶋中事件」といわれるものの経緯と深沢の行動を、もう一度、説明しておかねばならない。

 事件の発端は総合雑誌『中央公論』(1960年12月号)に掲載された深沢の小説『風流夢譚』にある。この小説は、革命がおき革命軍が皇居を占拠するというパロディ小説である。しかし、その革命描写につぎのような天皇らの首切り光景がふくまれていた。


・・・・そうしてマサキリはさーっと振り下ろされて、皇太子殿下の首はスッテンコロコロと音がして、ずーっと向こうまで転がっていった。(あのマサキリは、もう、俺は使わないことにしょう、首など切ってしまって、キタナくて、捨てるのも勿体ないから、誰かにやってしまおう)と思いながら私は眺めていた。(『中央公論』[1960年12月号])


 そうしたことから、発売から数週間後に一部右翼新聞がこれを問題にし、朝日新聞も天声人語(1960年12月1日朝刊)に「 読んでみるとなるほどひどいものだ。皇太子殿下や美智子妃殿下とハッキリ名前をあげて、マサカリ(ママ)が振り下ろされたとか、首がスッテンコロコロと金属製の音をたててころがったとか、天皇陛下や皇后陛下の〝首なし胴体〟などと書いている」と手放しの非難をした。本文中のパロディーの核心は、絶対的権力者の斬首をした〈あのマサキリは、もう、俺は使わないことにしょう、首など切ってしまって、キタナくて、捨てるのも勿体ないから、誰かにやってしまおう〉落差にあり、半年まえの6月15日の騒擾の「国会デモ」風刺になるのだろうが、それを無視して、片言隻語にいいがかりをつけるヤクザのセリフである。しかし、良識の代弁者、「朝日新聞・天声人語」の発言である。天下の後楯を確信したのか、右翼団体の活動はいっきょに活発化する。

 日本愛国党の赤尾敏が、作者深沢七郎と、掲載した雑誌を発行する中央公論社を弾劾し、抗議運動をまずはじめた。この抗議活動は拡大し、翌年1961年1月には、「赤色革命から国民を守る国民大会」が日比谷公会堂で開かれるにいたった。

 この大会の掲げる目的は、開会の辞にある「逆賊不逞の〝中央公論社〟および深沢七郎の国民裁判・・・」としていた。決議は三項目に分かれているが、「赤色革命の温床に一役買っている月刊誌『中央公論』が・・・・・・・・・革命が起こって、皇居は占拠され、天皇、皇后、両陛下、皇太子、同妃殿下の首が転がっているというがごとき描写を敢えてした創作を『中央公論』に掲載したことは、極度に皇室を冒瀆し、同時に日本国民を侮辱するに甚だしいものである。よって我等は皇室及び日本国民の名誉のため『中央公論』の廃刊と其社の解散を断固要求する」というものであった。決議には、皇室が関係する訴訟の原告は総理大臣がするという刑法上の告訴にかかわる、とうじの池田総理大臣にたいする要請がふくまれ、「中央公論社長・嶋中鵬二、編集長・竹森清、および『風流夢譚』の作者・深沢七郎の三名を相手取り、名誉毀損の告訴をなすべきこと」がつけられ、内閣府に持参された。

 きわめて巧妙に政治問題とする扇情的なものであった。

 そして、この「国民大会」の三日後の夜、抗議のために中央公論社長嶋中宅を訪れた、日本愛国党(元)党員の少年が、社長不在を知ると、取りつぎにでた家政婦を刺殺し夫人に重傷をおわせる凶行におよんだ。

 いごこの事件は、中央公論をめぐって奇妙な展開をみせ、けっきょく中央公論社は、「『お詫び』の社告」を三大新聞に掲載し、また、雑誌『中央公論』の編集長を更迭し退職させた。

 その間、この直前におこった、おなじ日本愛国党(元)党員による日本社会党委員長刺殺の浅沼事件(1960年10月)とからめて、国会でもこれが問題とされている。ただ、問題のとりあげかたがつぎのようなものであったのは、特記しておかねばならない。いかの再引用は、第38回国会衆議院法務員会での問答である。


羽田委員 ─ 今回の「風流夢譚事件」も深沢君が一人で作ったものでなくて、どうも共産党あるいは編集委員と一緒に共同謀議をしたというようなうわさがあるのでございます。ことに中公の細胞は、印刷工場に回す前に、原稿を日共文化部に持っていって検分してもらったということでございますが、これについて関次長のお知りになった情報を承りたいと思います。

関(之)政府委員 ─ 情報上は、そういうこともあるとも私は聞いておりますけれども、今のお話についていずれも私の方として確認するとかいうようなところまでには至っておらないのであります。(下線は筆者)(京谷秀夫『1961年冬 『風流夢譚」事件』/引用は議事録からとある.)


 政権党である自由民主党委員の質問は、日本愛国党の主張へ同調する、誘導質問である。回答もそれに応えるものである。こうした、右翼勢力の直接的恫喝と政権体制の無形の圧力は、中央公論だけでなく一般思想界へも「自己規制」を、いごおこなわせることになった。中央公論社でも、その直後には、委託編集、販売をしていた雑誌『思想の科学』の「天皇制特集」号を「思想の科学」側に無断で、廃棄処分している。そのほか文学界でも、大江健三郎の「セブンティーン」でさえ、その続編「政治少年死す」は、雑誌『文学界』(1961年1月号)掲載以来、半世紀以上にわたって海賊版はのぞき、正規刊行本に収録されることはなかった。 (注.「大江健三郎全小説3」[2018年刊]にはじめて収録された.) その他、天皇にかかわるものの、執筆以前や以後の自己規制は、今さらいうまでもないことである。

 一方、とうじの深沢自身は、その間、「ひとに迷惑をかけるこんなことになるとは知らずに書いた」という涙の記者会見などをおこない、また、右翼集団の凶行を警戒する警察によって24時間の身辺警護が数ヶ月間つづけられた。そして、かれ自身は、全国放浪の旅にでたのだった。

 頑強なわかいボディーガード同伴で、京都から大阪、北海道、東北を長期、短期の滞在で原稿を書きながら、旅をつづけた。拠点を東京におきながら、不定期にしか帰らない生活である。その後はとりたてて、右翼集団のターゲットとされたわけではなく、表面上は警察の保護下にあったわけだが、あれほどまでの事件の張本人であったのだから、とうぜんなにがあっても不思議ではない状況だったのは、よういにそうぞうできる。さしずめ、現在の日本社会なら、インターネット攻撃で自殺においやられるか、出合いがしらのだれかに殴られるか、刺されるかの身分である。

 しかし、掲載雑誌の回収命令とか、右翼のいう名誉毀損の法的処置がとられたわけではなかったから、かれ自身の作品発表は、週刊誌や文芸誌でつづけることができたようである。この出版界の営業方針は、これまた、’60年代前半期の日本社会のもうひとつの実情をしめすものであろう。

 そうした生活を二年あまりもつづけ、東京に定住しはじめた時期の、「オフ・ミュージアム」への出展である。事件以後、さまざまに執筆したのは、「放浪の手記」とか、「風雲旅日記』、「流転の記」という、身辺記であり、小説では、のちに『庶民列伝』にまとめられたようなものであったから、「風流夢譚」にかかわるものを、造形芸術とはいえ、一般公開するのは、事件後でこれがはじめてであり、はじめての態度表明であったことだろう。  

 タイトル「夢譚時計」とは、『風流夢譚』と同義語である。「夢譚時計」は、小説「風流夢譚」をミクスト・オブジェに凝縮した造型芸術版である。

 「風流夢譚」は、冒頭から、いわくつきの金メッキ腕時計とウェストミンスターの置時計が夢時間へ導入する時計・夢物語である。この「夢譚時計」は、直径1メートルをこえる円盤ベニヤ板を石膏、新聞紙、日用品で、時計顔になるように加工したものである。目をヘッドライト、流れる涙を偽物ダイヤのネックレス、そして、長短針をあらわす二本の眉毛は、ホンモノの鉈(なた)である。この制作は、三木富雄が手つだったというが、おそらく深沢がつききりで制作したものであろう。

 まさにこれは、小説『風流夢譚』の問題をおこしたサワリのオブジェである。皇太子夫妻の首を切り落としたマサキりならぬ、このホンモノの鉈と、斬首のさい流れたかもしれない、涙である。みるからに、まことに「ひどい」挑発的な作品である。

 この造形作品をかれは、〈深沢七郎 ─ 「夢譚時計」〉として出品した。そして、そのことをかれは、もうとう隠すつもりはなかったとおもわれる。かれはこれについて、「物と事 オフ・ミュージアム展に出品して」と題して、作品の写真つきで文芸誌紙上(『文藝』1964年8月号)に執筆している。(本論の作品説明はこの写真によるものである。)そこに書かれているのは、ナムジュン・パイクらのアヴァンギャルド・パフォーマンスについてであったが、さりげなく「夢譚時計」について説明してみせること自体が、なによりも深沢の『風流夢譚』への反省がどのようなものであったかをしめすものであろう。作品自体に、いかなる反省もしないという公言である。『風流夢譚』の社会評価にたいする「異議申し立て」であり、暗黙の反抗であろう。そのことは、2019年日本の「愛知トリエンナーレ2019─表現の不自由展」における「平和の少女像(従軍慰安婦)」によっておこった、「自主規制の中止」事件とてらしあわせると、その展示行為の意味が鮮明になるとおもわれる。とうじの天皇問題は、現在の「従軍慰安婦」問題レベルであったというのが、実体験した筆者の実感による社会的実情ではあったが、はるかに危険な過去をはらんだ問題であった。

 この作品が、第15回読売アンデパンダン展に出品されていたら、読売新聞や東京都美術館はどのような対応をし、芸術評論家はどのような批評を新聞に掲載しただろうか。思想問題を回避して、「刃物等を素材に使用し、危害をおよぼすおそれのある作品」という理由で斥けていたのだろうか。思想的問題のある出品例が、読売アンデパンダン展にあったという記録はない。おそらく、そのような「作品」の出品は、なかったのであろう。

 しかし、「オフ・ミュージアム」には展示されたのであった。この種の作品が表現の意味を発揮できるのは、公開展示されることによる。「オフ・ミュージアム」は、これを椿近代画廊で展示した。事前協議が内部であったかどうか、それはわからない。戦前の芸術弾圧の体験をもつ瀧口は、承知していたとすべきであろう。すくなくとも、深沢七郎の出品自体は、かれのとうじの知名度からいって、企画関係者全員が知っていたとするのがしぜんな見方である。ならば、この作品の展示はオフ・ミュージアムの方針にそうものということになる。その方針が「希望者全員参加」という方針としてもである。だが、すなくとも瀧口は、これによっておこりうる万一の事態想定のうえで、こうした意味を表現する作品の展示を了解していたのであろう。

 こうした表現の意味とは、ひとつの「反芸術」の作品の意味である。このような政治的社会批判をする作品ということである。芸術作家としての深沢にとっては、あきらかにひとつの「反芸術」の芸術である。物語において生首を切りおとし、ほこらかに飾られた戦斧のように交叉した鉈(なた)のある複合オブジェは、シニフィアン(signifiant)(記号表現)からもシニフィェ(signifié)(記号内容)からも、ひとつの「反芸術」である。そして、「オフ・ミュージアム」にとっても、社会的にそのような刺激的作品であるのを承知していたのであるから、やはりそうである。しかも、この種の作品は、展覧会形式であってこそ効果を発揮できるものであった。芸術グループの自主企画の「オフ・都立美術館」は、そのような性格をもつ展覧会であった。


 「読売アンデパンダン」展解体後、読売展ならば、拒絶されたかもしれない、ふさわしくない、こうしたさまざまな「反芸術」作品や「反芸術」行動のアンデパンダン展がこころみられた。

 「反芸術」では、作品(行為)と「公開」と「解釈」が、三位一体の不可分関係にある。いかなる作品(行為)も公開され、解釈されなければ「反芸術」にはなりえない。すなわち、作品と「公開(展覧会・出版)」とその意味づけが一体化したものである(「意味づけ」には、[評論家の]解釈だけでなく、鑑賞者、読者のうけとりかたをふくむものである)。だから、現実的に「反芸術」を問題にするときには、作家と企画・実現者(主催者・発行者)と「評論家」それぞれが、状況により役割の軽重の差はあるにしても、その姿勢を問われねばならない。


 ‘60年代日本の「反芸術」において、「読売アンデパンダン」展がどのようにそれにかかわるものであったかを、本論の立場から、概観してきた。そこでは、「解釈者」である評論家、東野芳明、瀧口修造、中原佑介、針生一郎のそれぞれことなる役割と、「解釈」がおおきな影響をあたえていた。それは、たとえば、命名者、 東野芳明 ではなく、瀧口修造がいなかったら、現在、日本の現代芸術史上で、「読売アンデパンダン」がしめている位置はちがったものになっていただろう、という意味においてである。かれらのうち、後者の三人は、「読売アンデパンダン展」解体後の対応展でも、「アンデパンダン’64」では針生一郎、「アンデパンダン・アート・フェスティバル」では中原佑介、「オフ・ミュージアム」では瀧口修造がそれぞれ企画に参加していたことにも、それはあらわれている。

 だが、あたりまえのことであるが、この「読売アンデパンダン展」の主体者は芸術作家であった。

 「読売アンデパンダン」展は、読売新聞社のおもわくがどうであれ結果的に、第1回展から第15回展までの開催中に、芸術作家たちが新しいかずかずの芸術を実験的に具現化する機会を提供した。また、「作品(行為)」としてどのようなものであれ、「反芸術」というものを現実的に意識させるようになった。その’60年代アヴァンギャルドの芸術作家の「反芸術」を、さらに異なった方向からみとどけるために、「ハイレッド・センター」の活動をみておこう。

 「ハイレッド・センター」は芸術家として、このように読売アンデパンダン展によって顕在化した「反芸術」を、独自の方向から問題にし、「読売アンデパンダン」展をスタート・ラインにして発足した’60年代日本のアヴァンギャルド・グループであった。

 読売アンデパンダン展に参加したような芸術家たちであるのなら、解体の契機となったあの「陳列作品規格基準要綱」制定にさいしても、じぶんたちの「反対」を、第15回展にみられたようなたんなる過激な行動によって、自己満足的に表明するだけでなく、また、見ようによっては曖昧な態度ともなる、無関心という無視を表明する別個の展覧会をやってみせるだけでなく、すべきことがあったはずである。芸術表現とはいかなる表現かを明確にすることなく、「表現の自由」を主張しても、無意味である。

 「規格基準要綱」にたいして、「表現の自由」を対抗させる場合でも、これを機会に「芸術はなにか」ということ、「自分たちにとって芸術はなにか」について、最小限の共通認識をたしかめることに正面から取り組むべきであった。

 また、作家個人としても、芸術「グループ」としても、「反芸術」的芸術主張においても、それなくしては糸の切れた凧どうぜんになるであろう。糸の切れた凧の行方は、20世紀末から21世紀にかけて、「反芸術」の過去の栄光によって国家から勲章を授与された芸術家と化してここかしこにみられることはよく知られているが、これは瀧口が、第11回展(1959年)の批評「破られる既成技法」や14回展(1962年)の「『作品』の危機と責任」で、早くももった疑念にかかわる別の問題である。だが、これもまた、’60年代日本の「反芸術」のひとつの事実であったことだけは、一言しておかねばならない。

 舞あがったこの凧に、かれらなりの重しをつけようとした三人の若い芸術家たちがいて、かれらが核になって形成したのが、ハイレッド・センターであった。「読売アンデパンダン展」に出展するまでのかれらは、’50~’60年代初頭の日本アヴァンギャルドに密接するところにはいたのだが、かならずしも突出したアヴァンギャルディストではなかった。むしろ、’60年代日本アヴァンギャルドのなかで、過激なアヴァンギャルドをさめた目で見つめながら、アヴァンギャルド「芸術家」になった芸術家である。

 赤瀬川原平と高松次郎は、すでにのべたように第14回展(1962年3月)に出展していた。そして、「作品撤去」事件に遭遇したが、表面的にあきらかな反応はしていない。 (注.赤瀬川の『反芸術アンパン』においても、のちのかれの「千円札」事件で見せた態度からは、信じられない関心の示し方である.それが、1962年のかれの実感だったのだろう.)

 とはいえ、かれら、あるいは、かれらが個別にぞくしていたアヴァンギャルディストのグループは「撤去」事件の直後から、「東京都美術館陳列作品規格基準要綱」(1962年12月)が制定される以前に、独自のハプニングを演じていた。赤瀬川が企画から参加した、ネオダダ・ジャパンの吉村らの「敗戦記念晩餐会」(1962年8月)と、高松と中西夏之が先導し、複数の芸大卒のアヴァンギャルディスト、それに、今泉省彦や川仁宏らがくわわった「山手線フェスティバル」(1962年11月)である。

 これは、東京都美術館で撤去されたのは「作品」芸術であったのにたいして、「行為」芸術であるハプニングをおこなったものである。そして、「敗戦記念晩餐会」は、すでに説明したように、観客には「食べさせない」晩餐会である。見物人には見せない展覧会 である。会場設定は、東京郊外の国立町の公民館、しかも、開会時間は人影まばらな夕刻である。つまり、「見物人は必要としない!」展覧会である。

 「山手線フェステイバル」については、これもすでに紹介したように、山手線走行電車にかれらの持ちこんだ作品と、ハプニング行為によって、乗客を有無をいわせず「観客」にすることができるかどうか、芸術と観客の絶望的関係を問うものである。

 これらはいずれも、自分たちの芸術は自分たちのものという、主張であったようにおもえる。

 自分たちの芸術は、東京都美術館のような「美術館」のものではなく、まず、自分たちのものということである。「陳列作品規格基準」にしたがう作品は、美術館の作品である。自分たちの芸術とは、自分たちの「芸術(作品)規格基準」によるものである。そのような意味で、自分たちの芸術を切望し、手さぐりしながら求めるハプニングだったようにおもえる。

 こうしたことを、このふたつのハプニング・イベントに参加した全員がおもって、参加したわけでないのは、いうまでもない。しかし、第14回読売アンデパンダン展でおこった、あのような「撤去」を目のあたりにしたことが、このようなイベントを企画させ実行させたかとおもわせるものがある。

 なぜなら、これらふたつのハプニングは、いずれもそれら参加者たちが、けっしてそれまでにやったことがない芸術行為だったからである。

 高松次郎にしろ、中西夏之にしろ、かれらはそれまでハプニングをおこなったことはなかった。ましてや、電車乗り込みという、過激なパフォーマーたちでさえしたことのないようなイベントを、丹念な計画うぃたてておこなうなどというのは、まさにおどろくべき試みである。

 赤瀬川らネオダダのメンバーたちは、たしかにそれまでも数々のハプニングを演じてきた。だが、それはいずれも、真昼間の銀座での、人目をひく街頭行進であり、鎌倉海岸で観客をよびこむランチキ騒ぎであり、画廊で、拡声器を屋外にむけた喧騒と騒乱の宣伝性と不可分の行為だった。それにまた、この静かな郊外の町の公民館で、夕刻時におこなわれたこの「敗戦記念晩餐会」には、ネオダダ・ジャパンで吉村とならぶ一方の主役につねにあった、あの篠原有司男が、参加していないのを指摘しておかねばなるまい。ネオダダ・イベントとは異質のハプニングということである。

 そのようなことは、たんなる推測になるが、かれら両グループのものたちのなかでは、第14回展における「作品」撤去を、「美術館」のありかたの所業としては、やむをえないとするものが無意識にでもあったかと、一方ではおもわせるものがある。

 しかし、それだからといって、かれらが、かれらの芸術をそれにしたがわせるだけでよいとしたかは、別問題である。「美術館芸術」でない芸術をたしかめること、それが、14回展「作品」撤去後の同時期におこなわれた、この二つの、性格のことなるハプニング・イベントだったのではあるまいか。あるいは、べつの云いかたをすれば、そのように考える者たちがこのふたつのイベントにいたということである。

 かれらは、たがいがやったことに関心をもち、それについて語りあう場をもつことを願った。それが、すでに言及した座談会「直接行動論の兆」である。今泉や川仁の仲介によるとはいえ、その機会はいち早くもたれた。ふたつのハプニング・イベントの後者「山手線フェスティバル」がおこなわれたのが、1962年10月18日であり、「座談会」が川仁宏の自宅でほぼ徹夜であったのが、11月のことである。

 そこでかわされた議論から察するに、出席者たち、ことに中西夏之と高松次郎と、それに赤瀬川原平が、たがいのハプニングにたいして、いかにつよい関心をもっていたかである。かれらがそこで語ったのは、すでにさきにも述べておいたが、自分たちのやったことをふりかえること、やったことの意味を再検討することであった。なぜやったのか。どのようにやったのか。どのような結果をもたらしたかである。

 そこでは、たがいのやったことを知るだけではなく、しまいには、どちらもが、自分たちのやったことのようになって、自分たちにとって、自分たちの芸術はなんなのかについて、結論をえるためではなく、ただ、たがいにおもいをめぐらせるために語りあっていたようにおもえる。

 そして、語りあったかれらが、3ヶ月後にふたたびそれぞれの作品をもって、第15回読売アンデパンダン展にあつまったことになる。その間に、「東京都美術館陳列作品規格基準要綱」が制定されているが、かれらはそれを一瞥したにすぎないであろう。それほどかれらの念頭にあったのは、あの「座談会」で語りあっていた、自分たちの芸術のことだけだったようにみえる。かれらの出展作品についてはすでにのべておいたが、それらは、基準要綱6項目に、抵触しないようでいて、洗濯バサミを放置したり、紐オブジェを曳いて歩いたり、「基準」に束縛されることなく、ひたすら自分たちの芸術追求のための「作品」であった。

 そして、ここには中西のはじめての出品があった。その出展は、あの「座談会」の必然的結果なのだろうが、あそこでかれが語っていたハプニング説明を作品化したものである。それは、ほかのふたりの作品にしても、どうようである。あの座談会でたがいに話しあったことを、それぞれの思想によって展示「作品」と化したものであった。むしろ、「座談会」で語りあったことを、それぞれが芸術作家として再確認する場になっていたとおもわれる。各自の作品とそれらの関係については、すでにのべたところである。

 中西は「ハイレッド・センター」の成立について、「これは、1963年の3月の最後のアンデパンダンのときに、はからずも三人の作品が、その場合、三つの作品の出あいによって、三人が結びつけられたということなんです」(《千圓札裁判》における中西夏之証言録(1)[美術手帖1971年10月号])と、「第15回読売アンデパンダン展」の役割をかたっていたが、むしろ、思想的合意はさきの「座談会」でなされたのであろう。いずれにしても、「ハイレッド・センター」のあり方のエッセンスは、この『形象』7号と『形象』8号に分割編集して掲載された、ふたつの「座談会」記録にみることができるとおもわれる。                                                     

 そして、第15回展(1963.3.2~3.16)は、「ハイレッド・センター」の事実上のスタート・ラインになったのだろう。

 なぜなら、「ハイレッド・センター」の命名と創設展は、その2ヶ月後の「(第5次)ミキサー計画」(1963.5.7~5.12)と「第6次ミキサー計画」(5.28~5.29)といわれるものだが、そこに出品されたモノとしての「作品」は、高松の「紐」、中西の「洗濯バサミ」、赤瀬川の「梱包」と「千圓札」を素材とするものであって、第15回展の出品作と同一素材であるからだ。ただその相違は、15回展ではモノとしての作品につかわれているのにたいして、「ハイレッド・センター」展では、「行為」としての作品になっていることであるが、それは本論の次項目「③-2.ハイレッド・センター」でのべる課題である。

 こうして、活動を開始した「ハイレッド・センター」は、その後「シェルター計画(帝国ホテル・シェルター計画)」(1964.1.26~1.27)や「首都圏清掃整理促進運動」(1964.10.16)の「『場』としての芸術」を試み、その最後の活動を、赤瀬川原平の千圓札作品からおこった「千円札裁判」の法廷(1966.8.10、9.14、9.21)でおこない、いごメンバーは、「ハイレッド・センター」で確認したそれぞれの芸術規格基準のもとで、それぞれの芸術制作と芸術行為を個別につづけることになる。

 ということは、「ハイレッドセンター」の活動時期は、期間的に、「千円札裁判」をのぞき、「読売アンデパンダン」展の終末の年月とかさなることになる。

  それを、表にすればつぎのようになるだろう。


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第14回読売アンデパンダン展(1962.3)(作品撤去事件) 敗戦記念晩餐会(1962.8.15)              山手線フェスティバル(1962.10)            座談会「直接行動論の兆」実施(1962.11)

「東京都美術館陳列作品規格基準要綱」制定(1962.12)

第15回読売アンデパンダン展(1963.3)         新宿喫茶店で中西、高松、赤瀬川、『形象』8号相談会(1963.3~5頃)

(HC結成.グループ名とトレード・マークを決定)    「第5次ミキサー計画」(1963.5.7~5.12)       「第6次ミキサー計画」(1963.5.28~5.29)

読売アンデパンダン展廃止(1964.1)          「(帝国ホテル)シェルター計画」(1964.1.26~1.27)  「首都圏清掃整理促進運動」(1964.10.16)                                                            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「千円札懇談会」(1965.11)

「千円札裁判」(1966.8.10、9.14、9.21)

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 このように一覧表にまとめれば、’60年代前半の日本の芸術界でおこった、「読売アンデパンダン」展の解体と「ハイレッド・センター」出現の関係がみえてくる。この関係を理解するキーワードは「直接行動」である。

 ‘60年代日本のアヴァンギャルドの動向が、ここでは「読売アンデパンダン」展を解体させ、ハイレッド・センターを出現させたようにみえる。

 ‘60年代を間近にする1958年、警職法改正案反対闘争が激化し、「総評・全労・中立系労組・文化人・学生・婦人等が統一闘争」をおこなったとき、この国民反対運動に共鳴して、とうじの若い芸術家、石原慎太郎、永六輔、谷川俊太郎、寺山修司、大江健三郎、浅利慶太、羽仁進、黛敏郎、武満徹、江藤淳らは、「若い日本の会」を結成した。 (注.『近代日本総合年表』4版[岩波書店]) かれらは1960年には、「安保改正」反対を表明している。「デモ・ゲバ」風俗のなかの、社会運動的性格をもつ芸術・文学者の会であった。メンバーのその後の経歴を照会すると、まさに戦後20世紀の日本の、すべての芸術分野で活躍したアヴァンギャルディストたちである。

 この会に、工藤哲巳が若い造形芸術家の代表として招待され、発言をもとめられた。かれは「今やアクションあるのみです!」とただひとこと叫んで壇上をおり、満場のカッサイをあびたという。

 ‘60年代は、「デモ・ゲバルト」にあらわれているように、直接行動の時代であった。というよりむしろ、直接行動に憧れる(傍点)時代、としたほうがいいかもしれない。それは、敗戦によって凋落した旧体制が、経済成長によって蘇生していくのを察知した、不安と焦躁の表明にすぎないものであったのかもしれない。

 芸術アヴァンギャルドにおいて、直接行動の芸術が、’60年代前期の「若い日本の会」の工藤発言だけでなく、’60年代全期を通貫して、いたるところで唱えられた。寺山修司が『書を捨てよ、町へ出よう』を出版して、かくれたベストセラーになったのが、1967年である。そして、フィナーレとして、「大阪万博」の年、1970年に、三島由紀夫が決行した「楯の会」の行動もまた、’60年代の、「デモ・ゲバルト」風俗とパフォーマンス芸術の合体した「直接行動」のファッションであったという見方も、今となってはできる。

 「とにかく、やってみること!」が、デモ・ゲバルトの時代のアヴァンギャルディストたちが共感するスローガンであった。東野いう「ガラクタの反芸術」は、その成果である。

 篠原有司男が、廃棄物を積み重ねたような作品に「こうなったら、やけくそだ!」とタイトルをつけ出品したのが、1959年の第11回読売アンデパンダン展であった。彼はまた、「ごきげんな四次元」と題する三百個のゴム風船で構成する作品や、ボクシング・ペインティングのような行動的な作品をもっぱら発表して、これが芸術だと公言した。

 だが、それがどこまで「反芸術」であったのかはわからない。しかし、こうしたアクションが、結果的に「読売アンデパンダン」展を解体させたのである。

 のちに、赤瀬川原平が「読売アンデパンダン展」を回顧する評論を書いたとき、そのタイトルは『いまやアクションあるのみ! ─ 〈読売アンデパンダン〉という現象)』(筑摩書房 1985年)であった。 (注.その後「ちくま文庫」[1994年]に収録されるとき、『反芸術アンパン』と改題されている.)

 そして、かれが、同時期に書いた「ハイレッド・センター」の回顧録のタイトルは『東京ミキサー計画 ─ ハイレッド・センター直接行動の記録』(PARCO出版 1984年)であった。

 それらの執筆時とじっさいの出来事の時系列上の順序は一致しない。「読売アンデパンダン展」の初出は『TBS調査情報』誌(1982年3月~6月)であったのにたいして、「ハイレッド・センター」については、雑誌『写真時代』(1981年9月~1982年9月)であったのがかかわっているのだろうが、それよりもむしろ、赤瀬川のなかでは、これらふたつの芸術事象は一体化した関係にあったからかとおもわれる。

 そして、その一体化のなかで、どちらもアクション直接行動というおなじキーワードをもちながら、それにたくするものには、あきらかな違いがある。

 「読売アンデパンダン」については、「いまやアクションあるのみ!」という現象であり、「ハイレッド・センター」では、「直接行動」の記録である。しかも、この直接行動の目的は「東京ミキサー計画」である。この行動には目的があるが、現象には目的はない。

 赤瀬川はこの「いまやアクションあるのみ! ─ 〈読売アンデパンダン〉という現象」をのちに文庫化するにあたり、『反芸術アンパン』と改題した。50~60年代とうじ、かれら若い芸術家たちのあいだでこの読売展が、「読売アンパン」と呼ばれたことに由来する題名とされているが、これはかれの見方があらわれているタイトルかとおもわれる。アンパンはだれが食べても旨い、公衆のオヤツである。そんな「反芸術」であったということであろう。ただし、そうだからといって、このような「反芸術」をかれは揶揄しているのではない。かれは、1971年になって、「アンはパンを破り/アンパンは包装紙を破る(読売新聞社謹製)」と回顧している。そこに’60年代芸術のもつ「芸術の救済」があったと、かれはみているのである。

 他方、かれは、PARCO出版刊行の『東京ミキサー計画 ─ ハイレッド・センター直接行動の記録』を、おなじ「ちくま文庫」で改定再刊行(1994年12月)するときにはタイトルを変更していない。

 これからいえるのは、「ハイレッド・センター」は、「反芸術(行動)」という現象からうまれた、目的をもつ「反芸術(行動)」ということである。

 そのような’60年代日本の「反芸術」の位置をもつ「ハイレッド・センター」について、’60年代の日本の芸術作家たちの「反芸術」をみるためにも、そのおこなった芸術行為を確認しておかねばならない。一覧表で概略をしめした事項にしたがってつぎにのべていくことにする。




付録 (マルセル・デュシャンの「オブジェ」)

(拙著『現代芸術は難しくない』から)

(図版2 & 図版3を参照)


 デュシャンは、1950年頃、三点の不思議なオブジェを人に見せた。第一のオブジェは、1950年にマン・レイが新妻のジュリエットを伴い、合衆国を去ってパリに向かう時、見送りに出かけた船のなかで、餞別とした『雌葡萄の葉』(Feuille de Vigne femelle)、または、『雌イチジクの葉』(Female Fig-Leaf)とタイトルをつけられたオブジェである。オリジナルは2個あり、1個はマン・レイの手元、1個はデュシャンが所持していた。第二は、『オブジェ・ダール』(Objet-Dard)と名付けられ、1951年に制作され、1953年に展覧会に出品されたオブジェであり、第三は、1954年にデュシャンが再婚したとき、ティーニに贈ったオブジェ『貞操の楔』(Coin de Chasteté )である。

 これらはいづれも、なにを指すものであるか定かには分からない。しかし、タイトルは思わせぶりである。第一のオブジェでは、フランス語では「葡萄の葉」であるが、英語では「イチジクの葉」であって、異った単語が使われている。また、「雌の葉」(Feuille femelle)とはフランス語では用いない使われ方である。強いて誘導される意味は「雌用の葉」ぐらいであろう。ところが、フランスでは、まる裸で暮らしていたアダムとイブは、葡萄の葉で恥部を隠していたとされるが、アメリカやイギリスでは普通、イチジクの葉である。わざわざ仏語と英語で変更して付けられたこの「葡萄」と「イチジク」の葉は、見る者の判断を性のイメージへと導くものであろう。


図版2  「雌葡萄の葉」または「雌イチジクの葉」



 第二のオブジェは、さらに露骨である。オブジェ・ダールは、同音から、 dard は d'art となり、「芸術的オブジェ」ともなろうが、‘dard’という単語は「投げ槍、銛、毒針」を指すとともに、卑語では男性性器を意味することばである。しかもその各々の寸法は、『雌葡萄の葉』が9cm×14cm×12.5cmであって、『オブジェ・ダール』が、7.5cm×20.1cm×6cmである。


図版3 「オブジェ・ダール」



 多くの場合、これら3点のオブジェはセットで展示される。見る者の想像のなかでは、これらのイメージはどのようなものであろうか。型どりされた女性セックスなのか。それにしては、『オブジェ・ダール』の方は何なのだ。便器を展覧会に出品しょうとしたあのデュシャンなら、ひよっとしたら男性性器そのものか、あるいは、膣の内部の石膏モデルをつくったのかもしれない。否まさか。しかし、彼は、「膣が陰茎をつかむように、精神でモノをつかみたい」などとみずからの芸術的野望を語ったことがあるではないか。などなどによる「ひよっとしたら」の複合による想像力の混乱が、見る者の「知」の地盤をゆるがせる。

 ところがこれらは、彼が選びとってきた現実の世界では、けっしてそのようなものではなかった。これは、第2章第1節で紹介した、デュシャンの最後の作品『落ちる水、照明用ガス灯があるとせよ』(1946-66)で横たわる裸体制作の副産物の作品なのだ。しかも、いずれもセックスの形ではない。裸体の皮膚となる糊付する豚皮を固着するための石膏の型枠である。『葡萄の葉」は鼠径部、『オブジェ・ダール』は胸部の固定枠であった。

 しかも現実世界では、解剖学的形態として膣であることはありえない。ただ私たちの現実では、おそらくデュシャンもふくめて、誰も膣のなかのペニスの形を想像によるいがい知らないだけのことだ。知らないから、ひとつの解釈が確信、あるいは、妄想にまでたかまるのである。妄想であるからこそ、解釈は自由となり、容易に自由な思想となり、さらにはその思想の獲得は、実体験にひとしい出来事となる。こういうことである。もしこれが本物の膣の模型であるなら、想像力はそれいじょう広がるものではない。せいぜい解剖学的関心をつなぎとめるだけであろう。


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