Avant 2-4-4

第2章 「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」

4) ’60年代日本の「反芸術」(その2)


②  芸術作家の「反芸術」

Part 4


 中原の関心は、職業という個人的問題をいみする「廃業」ではなく、アヴァンギャルド芸術と「廃業」の関係であろう。

 そうでなければ、若い冒険派の芸術家が、じぶんたちの将来の見とおしとして、ひとりが「廃業」をいい、もうひとりが偉大な芸術家になるといったことを、この「座談会」の結論とする意図がまったくわからない。

 ここで、かれのもとめた、「意識の面では、反芸術家というより非芸術的出席者諸氏が、みずからの仕事を客観化した発言」に、中原の現代アヴァンギャルドにたいする、期待と疑問がこめられているようにみえる。

 「仕事」とは生活をささえるものである。生活とは、個人をつつみこむ個人的なものである。中原は、かれらの生活における、アヴァンギャルディストとしての「芸術家の仕事」、そのような意味での、かれらの「芸術」を、どう位置づけているかという問題である。

 中原のこのような問いは、ここではじめて発せられたものではない。かれの現代芸術評論家デビュー以来、たえず問題にした、芸術再生の課題である。これはまず、’60年代以前の時期、1957年にかれが書いた「タブローの自己批判─生活と芸術の断絶(「美術運動」54号)(下線筆者)や、’60年代「デモ・ゲバ」風俗のなかで、1962年度の日本で実践されたアヴァンギャルド芸術を総覧するため書いた「1962年の美術界─前衛のゆくえ」(『美術手帖』1962年12月号)の文脈のなかで理解しなければならない。(両論文は『中原佑介美術批評選集』第3巻に収録されている.)

 かれは「前衛のゆくえ」のなかで、「前衛」はすでに1920年代のアヴァンギャルドではなく、新しい「前衛」として、抜本的に見直さねばならないと主張している。また、「タブローの自己批判━生活と芸術の断絶」では、「むろん、絵画はこういうかたちで蘇生するという具体的なイメージのありようがないわけだが」としながらも、つぎのように記している。


 わたしは、こうした問題を解くうえにも、生活と芸術の断絶を出発点とするほかないようにも思う。すくなくとも、美術は、自由になるだろう。自由になって、利益があるのは、タブロー美術が、唯一のものだという考えを除去することにある。美術の現在のあり方に固執する必要はない。かんがえてみると、そういう保守主義は、芸術と生活をミックスする場所で、あえて芸術の純粋性を強調しようとする立場からでているものかもしれない。(下線は筆者)


 かたられているのは、そのころ話題となった「タブローは自己批判しない」という中村宏の主張への反論であるが、中村の主張の背後にひそんでいる旧来の「芸術至上主義」への批判である。そして、この批判が、さきの冒険派の芸術家らへの「大きくみると、芸術を生活に優先させるという観念のないことが特徴であります」という好意的評価にむすびつくことになる。

 そこでいわれているのは、芸術家の生活のなかで、かれの芸術作品はどのようなものであるべきかについてである。4年後におこなわれたさきの「座談会」で問われた「芸術(家)の仕事」の前段階にある、大前提にあたるものである。

 それを知るためには、引用文にある、芸術を蘇生させる、「解くべきこうした問題」をすこしあきらかにしておかねばならない。

 「六全協」(第6回全国協議会)における日本共産党の、武力革命から平和革命への180°の路線変更によって、1955~56年にかけて、共産党内部だけでなく、とうじの日本の知識人たちのあいだでも、「自己批判」による政治・認識論的過去の精算がしばしばいわれた。(注.「六全協」を契機とする混乱については本論第1章 1)’60年代の三枚の風俗画[『百万遍』2号]を参照) 「自己批判」は、マルクス・レーニン主義的用語で、個人や政党がみずからの行為や方針、思想をじぶんから誤謬としてみとめ反省することである。

 芸術界でも、過去の作品である、戦前の戦争絵画や、戦後の、赤旗や労働者を好んで描いた社会主義リアリズム作品を契機とする「自己批判」が耳目をあつめ、さまざまな話題を提供した。この風潮に反発して書かれたのが、革新的芸術作家、中村宏が「不審の『自己批判』」(『美術運動』誌掲載)でしめした「タブローは『自己批判』しない」の主張である。

 中原は、基本的にこの反発に賛同しながら、むしろ、おなじ立場にたつだけに、中村の理論を糾そうとしたのであった。

 中原による、中村の主張は、つぎのようにまとめられている。

 美術家の内部でおこなわれている、政治主義のあやまりを認め、真の美術運動にしていくための「自己批判」は、過去に発表したタブローのことや、芸術作家の制作上の特殊性を考慮しない、無責任なものである。「つまり、中村は『自己批判』が作家の特殊性あるいは具体性と切り離されたかたちでなされたことにプロテストしているらしいのだが、しかし、最も提出したかったのは、どうも次のことらしい。─ 批評家は右から左まで発言権をもち得るが、作家はもち得ない。作家は自己批判できないのだ。政治家は自己批判する、でき得るからだ。芸術の自己批判─それは芸術の終止、死滅を云うタブローは、『物質』は絶対に自己批判しないのだ。─(下線は筆者) 

 中原はこれにたいして、タブローが「自己批判」しないのはとうぜんであるが、それだからといって、作家が自己批判できないということにはならないという。そのような論理の飛躍があるのは、ひとの「生活」とひとの「創造のプロセス」を単純に同化させているからだ。なぜなら、「自己批判」は、ひとが行為や方針やある思想を反省することであって、そのひとの人生や生活の変更ではないのだから、芸術上の問題として「自己批判」があるのは、創作の方法論のうえでしかありえない。つまり、タブローが「自己批判」しないというのなら、芸術生活同一理論のアンチ・テーゼとしていわれるのでなければ、無意味である。

 芸術と生活同化論のアンチ・テーゼとは、芸術は自律しているもので生活と同一化していないということである。だから、タブローは、自己の生活信条の告白にはなりえない。そして、そのあたりの混同は、中村だけでなく、いたるところでおこっている。たとえば、社会主義リアリズム理論の再検討の問題においても、そのひとのリアリズム論とそのひとの「生活」の関係を議論の対象にするのではなく、それを芸術創造の方法論として、現実の分析と芸術構成のその方法論を問題にしなければならない。

 かれは、とうじの左翼系芸術界でいわれた「赤旗や基地を描いたのは誤りだった」という自己批判について、赤旗を描くことで、作家が単純に大衆のなかにはいってゆくことができるとかんがえたことを誤りだとする。それは芸術と生活を混同させており、芸術と生活を区別しない見方だからだという。そして、またさらに、中村論への批判でもある、つぎのようにもいう。

  

 赤旗を描いたタブローは「自己批判」しない。しかし、赤旗を描いたことを「自己批判」することが、自己の全生活の否定だとかんがえるところから、「芸術の終止、死滅」という結論がでてくるようにかんがえられる。これは、一見、真実そうでありながら、その実、コッケイなストイシズムでしかないだろう。もし生活の重要さをかんがえるなら、創造におけるイメージを、おなじ重量をもった要素として、重要視する方が、建設的である。生活の重要視と想像力を不当にひくく評価することは、同じ立場にたったかんがえであるわけだ。(下線は筆者)


 ここでのべているのは、芸術と生活の同一化からさらに一歩段階をすすめて、同一化の内容についてである。芸術を上位に生活を下位におき、生活が芸術に吸収されることによって達成される同一化である。そして、そのようなものであってはならぬことを、たんなる根拠としてややあいまいなかたちでのべている。

 そうした芸術と生活の同一化の関係については、これから三年後には、すでに前節であつかった、東野の「ガラクタの反芸術」にたいする不同意であった、あの「第12回読売アンデパンダン展」批評では、もっと明確にかたられていた。再引用すれば、つぎの言説である。芸術の課題として、わたしがそれ(絵画精神)からの断絶を主張するのは、現実が「絵画精神」にしたがわせられたりすることなどあり得ないことであり、事実はその逆であると思うからであると、ある。

 のべられていたのは、「現実」と「絵画精神」の関係であって、「生活」と「芸術」の関係とは、厳密には意味上のズレがある。

 アンリ・マティスのいった「自然を絵画精神にしたがわせなければならない」を批判することからでてきたもので、コンテキストのうえからは、「現実」は表現対象であり、「絵画精神」は伝道者の信仰のような絶対的なもので、芸術家が「現実」を無視した伝道者のような態度で芸術制作をあつかうことを論難している。その伝統者の態度とは、かつてルターが、「神の国を実現するためには、大衆などひとりもいなくてよい」と、いったような態度である。

 一見ことなるこのふたつの意見は、同一基盤のうえにある。

 中原は、「タブローの自己批判 ─ 生活と芸術の断絶」では、かれは社会主義リアリズムの重要テーマであった大衆について、大衆とともにあれという理論は、それにしたがい大衆のなかにはいって、かれらとともに大衆を描いたからといって、大衆がクローズ・アップされるものではない、という。そして、かれはつぎのように記している。

 

 芸術と生活の同一理論というのは、美術と大衆の直接的な接触を志向しているようにみえるが、作家が、大衆を自己の創造のプロセスの上では、対立すべき視点としてとらえていないことで、むしろ離反する理論である。大衆とともに創造するのではなく、大衆に対して創造するという立場でない限り、美術と大衆の問題、あるいは大衆化の問題は、提起しうる場所がないだろう。したがって、リアリズムを芸術と生活の同一理論としてとらえる限り、逆にハイ・ブロウになるベクトルを内部にもっているともいえる。


 たとえば、あるプロレタリア画家が、炭鉱労働者のひとりとなり、たまたまできた仲間と共に油彩画を描くとしよう。(もっとも、そんなことは理論ではありえても、現実にはおこりえないことだが・・・・・)

 そのときカンバスや紙に絵具の定着をしてみせたのはかれであり、労働者はそれに倣って描くのである。そしてまた、労働者が描く絵について、おそらくプロレタリア画家は、かれのおもうプロレタリアの立場から、交流という名目の、意図せずしてする批評や指導をおこなうだろう。それは、逆の場合、プロレタリア画家の描く絵を労働者たちが批評することでもありうる。

 しかしこれらはいずれも、絵画としては、画家が知悉した方法と構成によってつくられた絵画である。

  そうした、芸術と生活を同一化した立場から、芸術を強調しようとするハイ・ブロウ精神が、芸術家を呪縛し、芸術を枯渇させてきたことについては、さきの絵画精神の旧弊についてのべられていたところである。すなわち、「マチエール信仰」といった精神主義には、「ある対象をえらび、それを支配し、それから自由になるというのでなく、逆に、『かいこ』のように素材によって身をくるみ、みずからをいたわるというゆきかた」 が、そこにあるということである。

 そこで、最初の引用わたしは、こうした問題を解くうえにも、生活と芸術の断絶を出発点とするほかないようにも思う。すくなくとも、美術は、自由になるだろう。自由になって、利益があるのは、タブロー美術が、唯一のものだという考えを除去することにある。美術の現在のあり方に固執する必要はないにかえるのである。

 そして、生活と芸術の断絶を出発点として、芸術を生活からみる視点について、さらに踏みこんでのべられているのが、これらの1957年と1960年の論考やあの「座談会」(1961年)のときはまだ書かれていなかった、「前衛のゆくえ」(1962年12月)にある、つぎのような思想の道筋であろう(注.この論文は、『美術手帖』年末の恒例の企画であって、その年の美術界の総覧的批評を、新進の評論家に依頼して、書いてもらうものである. タイトルである「前衛のゆくえ」も、編集部の指定であって、中原が選択した課題ではない.)

 中原は、そのなかでこのようなことを書いている。


・・・・・ この一年のもっともおおきな出来事は、ジョン・ケージが来日して、かれの作品を発表したことであった。楽音と騒音の差異の撤廃、沈黙も音楽である、音楽の演奏と日常的な行為を同一化してしまうハプニング─それぞれに革新的な意義をもったことがらではある。しかし、それにも増して、それらの底を流れるケージの考えには聞くべきものがあると思う。一言にしていえば、それは芸術の生活化ということであろう。かつて、芸術のボヘミアンたちは、生活の芸術化ということを志向した。それがブルジョワ達俗物とおのれを区別する唯一の価値であったのである。しかし、生活の芸術化を信条とした連中が俗物とみなしたブルジョワジーはかれらよりもうわてであり、その芸術を愛玩物とするのに手間はかからなかった。芸術は高尚な趣味となり、典雅なアクセサリーと化したのである。今日、生活を芸術化しようとするのは、芸術家よりもブルジョワジーかもしれない。ケージが生活の芸術化でなく、芸術の生活化を信条とするのはこの故におおきな意義をもつ軽蔑さるべき日常生活と芸術の結合、それはまた無関心な壁にとりかこまれた現代芸術の必然的な要請かもしれない。しかし、今それを速急に一般化するつもりはない。ただ、ぼくはケージが音楽という一ジャンルのことでなく、芸術とわれわれの生きている状況について考察をめぐらし、ひとつのテーゼを実践していることに注目したいのである。(下線は筆者)


 中原がここでいうことを拡大させれば、「芸術の生活化」は、芸術は生活に奉仕しなければならない、ということになる。芸術は、われわれの生きている状況において、軽蔑すべき日常生活奉仕しなければならないのである。

 しかし、それならば、われわれの生きている、軽蔑すべき日常生活に奉仕する芸術がどのような芸術なのかについては、ケージの騒音音楽や「4分33秒の沈黙の音楽」では、いささか説得性が心もとない。とうじ「読売アンデパンダン展」でみられ、若い冒険派の「座談会」でもかたられたような廃棄物や生活日常品・芸術の説明であるとしたなら、すでにデュシャンの「レディーメイド」がひろく語られている時代では、今更(いまさら)の感がある。

 じじつ、かれはここで、その年のアヴァンギャルド造形芸術総評のひとつとして、おなじく同年来日したレスタニーのヌーヴォー・レアリスムでなく、ケージの作品を語っている。(注.レスタニーの来日については、本論「第2章 「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」2) ’60年代西欧の「新(反)芸術」(『ヌーヴォー・レアリスム』の場合)」[『百万遍』4号]を参照)

 しかし、なんらかの「奉仕する芸術」についての身近な具体的イメージがまったくなく、年間美術界批評のなかでこのようなことを書いたともおもえない。かれが、それまでに記したところから類推すると、そうした芸術は、芸術家の想像力の沸騰があらわれ、「タブロー美術が唯一のものだという」思想を粉砕するような芸術とのダブル・イメージをもつはずである。

 それが、なんであったかは、わからない。ただ、推測できるのは、それは、1962年8月15日にネオ・ダダ・ジャパン周辺のアーティストたちが中心になっておこなった「敗戦記念晩餐会」のようなハプニング・イベントであったかもしれないということである。なぜなら、中原は、東京郊外の国立(くにたち)でおこなわれたこのイベントに、二百円で発売された「敗戦を記念して─芸術マイナス芸術─晩餐」整理券をわざわざ購入して見物人として参加したほとんど唯一の、評論家であった。そしてまた、かれは、翌年1963年5月からはじまった、中西夏之、赤瀬川原平、高松次郎らのハイレッド・センターの活動には、全面的に協力し、また、その後のかれ自身の企画展にこのメンバーを招待し、かれらのさまざまなハプニング実験を援助・奨励するからである(注. 「敗戦記念晩餐会」、および、ハイレッド・センターの詳細については、次号『百万遍』に掲載する予定である.)

 「芸術の生活化」信条を拡大したこうした「生活に奉仕する芸術」のイメージには、おそらく、このような非芸術的イベントがなんらかの影を落としていたとおもえるが、ここでは、推測の域をでるものではない。

 ただ、書かれた事実としては、評論家である中原には、具体的芸術、または、行為としての「生活化した芸術」は、記述のなかで、重要な位置をしめるものではなかったとおもわれる。しかし、そうだからといっても、かれが「芸術の生活化」を、芸術命題として提出していることにはかわりない。

 「生活の芸術化」の否定と、「芸術の生活化」の主張は、思想(pensée)化されていない思想(penser)にすぎないものだが、これまでのかれの芸術批評のなかでさまざまな言い方であらわれ、かつ、一貫しておなじ方向を指している。それは、かれの評論家デビュー以来、作品的視点からの「芸術の生活化」だけでなく、芸術家の生活の視点からの「芸術の生活化」をふくむ、さまざまな思考模索としてあらわれているものである。

 現に、「前衛のゆくえ」のこの引用においても、かれは、この「芸術の生活化」の「生活」について、生活を芸術化しようとしたたとえ話として、ボヘミアンとブルジョワをあげているところからも、その生活は、たんなる人間生活ではなく、芸術家の個人生活に焦点があわされ、芸術家自身の生活がふくまれている。絶対芸術精神という芸術権力屈服することによって悲惨な生活をおくるボヘミアン的ロマン主義の生活美学の否定である。『タブローの自己批判 ─ 生活と芸術の断絶』や「マティス批判」でも、芸術家の精神的生活におよぶ芸術の権力が強調され指摘されていたが、それとことなる物質的生活の側面からみた生活である。

 かれは、そうした芸術家の生活が、現代の芸術論では、不可欠のテーマであると考え、そのひとつとして、芸術家の生活白書ともいうべき、芸術家の暮らしに直結するテーマに関心をよせていた。

 高度経済成長期の1959年の『芸術新潮』(7月号)に掲載した「ルポルタージュ・絵では食えない新人たち」であり、その後のバブル期でも、かれらの作品を購入し公開する「公立美術館は大コレクター」を書き、展示し販売する「画廊データー・ファイル・80軒アンケート」をおこなっている(『芸術新潮』1988年2月号)(下線は筆者)。それらは、芸術家、とくに若い芸術家の作品が、かれらの経済生活でどのような位置をしめているかのエビデンスであり、これもまた、「芸術の生活化」視点のひとつである。

 「ルポルタージュ・絵では食えない新人たち」は、特集「追いつめられた新人」の冒頭にかかげられた、「戦後あらわれた新人作家の、1959年における生活と意見」をテーマとする、ルポルタージュ分析論文である。ここで列挙された24名の新人作家は、1961年のあの「座談会」の「若い冒険派」たちの一足さきを歩き、戦後いちはやく台頭した芸術家たちである。

 かれらは、新人とはいえ、30歳から40歳のいずれも戦後誕生の美術団体で評価されたり、あるいは独自の活躍によって、成功した芸術家として注目されている作家たちであった。戦後の新しい芸術を体現する、そうした芸術家たちが、かれらの芸術の仕事をどう客観化しているかを知ろうとするルポルタージュであった。

 本文をおぎなう資料として、アンケート調査によるつぎのような別表がかかげられているのも、特徴的である。

 それは24名の匿名(A.B.C.・・・・)表記の芸術家の、「年齢」「扶養家族」「月収(万)」「収入の内訳」「定期的作品発表回数」「個展回数(年)」「制作時間」「制作費(%)」「作品の見られる所」「備考」「作品の特徴」の12項目の新人の生活一覧表である。

 新人といわれる若い芸術家の「生活と芸術の関係」の実態である。

 しかも、その生活は、かれらの社会的経済生活に照準があわされているのは、表の上段が年齢、扶養家族、所属についで、月収とつづけられていることからもあきらかである。高度経済成長初期の「新人」芸術家の経済生活の概略はつぎのように読解できる。

 平均月収は、おおまかにいって、4.4万円である。これは、1959年4月の国家公務員の初任給が10200円、小学校教員の初任給が8000円であったことと比較すると、かれらの平均年齢が37.5歳で、ほとんどが複数の扶養家族をもち、また、制作費が家計の10~20%であったことを勘案すると、けっしてめぐまれた生活環境にあったとはいえない。(注. 週刊朝日編『値段の風俗史』)。 そのうえ、収入の内訳は、「作品を売るのみ」は、3名だけであって、教科書、絵本、雑誌の挿絵や、テキスタイル・デザインやビン、箱のデザイン業、広告社のサラリーなどであることがしるされている。これらを一瞥したかぎりでは、成功したかれらでさえ、「作品」による安定した経済生活をしていないことが、推測できるものである。

 他方、この一覧表には、定期的作品発表の回数や個展回数、あるいは、「(かれらの)作品の見られる場所」の項目があるが、これらは、かれらの作品と社会とのつながり、すなわち、経済的つながりの基盤を調査するものである。発表機会や「個展」については、不定期もあるが、ほとんどのものが年1~2回である。また、「作品の見られる場所」は、アメリカやスイス、イタリアの美術館をあげたもの(5名)や画商経営の画廊(5名)もあるが、その大半は、アトリエを指定している。きわめてめぐまれた例外はあるが、有力「新人」とはいえ、ほとんどのものが、作品による社会との絆をもっていないことをあらわしている。

 こうした一覧表の資料を前提として、中原のインタビュー記事はまとめられている。

 主題は、「戦後あらわれた新人作家の、1959年における生活と意見について」であるが、中原によると、副題として「足で書いた美術論」、とくに「壁を調査すること」が、「あらかじめあたえられたテーマ」であり、それにもとずいてインタビューをおこなったとある。個別に面会して、本音を聞いてきたということであろう。しかし、じつは、かれ自身がかれらに気づいたことを、1961年のあの「座談会」記録のように、かれらのことばに仮託して表現したふしがある。

 1959年の当時は、まだ、小型テープ・レコーダーも普及しておらず、ひとりひとりとしたインタビューに、速記者がついて正確な記録をとったとはおもえない内容と分量である。かんたんな記録にもとづき、中原が自主的に発言を選択したのではないかという記述である。引用符(「  」)がふされている作家の意見も、中原が賛同する中原の見解が特記されているように読める。ことに本論では、インタビュー記録と称するこの記述を中原自身のものとしてあつかうことにしたい。

 これは「なぜ絵(芸術)では食っていけないか」の分析であるが、それは、現代社会の芸術家の課題であり、現代芸術の大きな要因であるというのが、中原の暗黙の主張であったようにみえる。

 そして、とうぜんここには「なぜ絵では食っていけないか」への解答はないが、されている分析には、絵画分散純化から零細企業化、あるいは、芸術多角経営から大胆否定論までのさまざまな意見集約がみられる。本論の道筋からはずれるから、詳細は述べない。しかし、「生活と芸術」の関係において、追いつめられた若い芸術家の1959年の実態をあらわし、絵画とか彫刻が代弁する既成芸術と「生活」の合致が困難であることの表明であろう。1959年のこのときに、ここで強調されている新人作家たちの個々の発言とその後のかれらの芸術的軌跡を照合すると、中原がかれらを選んだ意図がわかり、興味深いものがあるから、それら芸術家の名前だけでも記しておこう。小山田二郎、油野誠一、朝倉摂、泉茂、杉全直、田中岺、真鍋博、中井幸一、山口勝弘らである(注. こうしたテーマに関心のある方は、コンピュータ資料などで検索されることをおすすめする.)

 ただ、ここでは、中原の最大の主張はつぎのものであったとおもわれるから、それだけ指摘しておこう。

  中原の課題の副題には、「壁を調査する」がある。壁とは、外にいるものを拒み、内にいるものを保護してくれるが、どうじに外へ出られなくするものである。そしてそうした壁は、社会的条件である外部の壁と、それが芸術家の内面に反映した内部の壁のふたつがある。相乗作用をおよぼすそうしたふたつの「壁」が、絵画、彫刻を正面にかかげる現代芸術家を身動きさせなくしているというのが、まず最初の分析結果である。

 外部の壁は、さまざまあるが主に「画商の壁」である。かれらの作品を社会につなぐ安定したルートは画廊であり画商である。しかし、「作品の見られる所」のアンケート結果がしめすように、そこにはたかい壁が立ちはだかっている。そのうえ、その壁は、入れてもらえるかもらえないか、といった単純なものではないと中原はいう。

 かれは、それについてふたりの発言をあげている。

 まず、最初の発言では、


 「・・・・もし生活の必要上、どうしても、なにかをしなければならないとしたら、わたしは絵と関係のない仕事を選びたいとおもいます」と、・・・東京と大阪のふたつの画廊に作品提供している野田好子と会ったとき、彼女も、生活のための仕事なら、絵と全然関係のないものをやったほうがいいという答えをした。・・・・・・ これらの例から、一般的なことをみちびきだすつもりは、わたしにはない。しかし、いずれの作家も、絵が、他のなにかによって損なわれることを、非常に警戒していることだけはいえそうである

 むろん、絵が損なわれないように留意することは、一向に非難するに値しないことである。しかし、そうした態度が、画商の壁と作家との結合のうみだした、あたらしい、しかもむずかしい壁にならないとは、断言できないことである。画商の壁が、作家と関係あるもの、作家と敵対しないどころか、それをつつんでくれるものとなったとき、作家の内部には、それに対応した、新しい壁─なんとしても絵を純粋にしようという欲求が芽生えないとは限らないというわけである。

 もっとも、これらの作家も、こうした、新しい内部の壁にまったく無頓着というわけではない。野田好子は、大阪フォルム画廊のばあい、買取だが、現金でなく、材料でそれを払ってもらい、経済的な保証によって、内部の壁が次第にふくらんで、自分の仕事をやがて自分でつぶしてしまうような結果にならないようにしているという。

  「わたしはね、絵が売れるようになったということはいいんですが、それが、こんどは売れるような絵になったというようなことになるのが、一番気になるのです。だから、できるだけ、自分に負担をかけないように注意しているつもりです」 (下線は筆者)


 野田好子は、「新人の生活一覧表」によると、国画会所属で、34歳の扶養家族ナシであり、「画商派の絵の売れる新人」に分類される7名の、恵まれている新人のひとりである。

 かの女の「月収」は不定であり、「収入の内訳」は、「作品・子供の画塾」によるものである。「作品の特徴」は、「油絵・幻想的傾向」とあり、「備考」欄には、「生活は親がかり。画商からは画材料を受取る方が多い」と特記されている。

 ここに引用され、それにくわえた中原の解釈は、きわめて錯綜した芸術家のおもいと状況をしめしている。

 まず、かれらにはなんとしてもじぶんのおもう「絵」を描きたいという前提がある。この前提が、さきにのべておいた、かれらの生活とかれらの芸術の関係を、『タブローの自己批判 ─ 生活と芸術の断絶』で中原が批判した関係におき、それをことなる角度から問題にするものである。

 じぶんの描きたい「絵」を描くことをなによりもたいせつにし、そのためにできるだけ生活環境をととのえ、しかもそれがさいわいあるていどまで可能となって、仕上げた自分の作品画商があつかうようになる。それは、理想が実現したようなものである。なぜなら、現代の社会では、じぶんのおもうように描いた「絵」を、不特定多数の社会に流通させる一般的ルートは、画商しかないからである。

 ところが、この理想的環境を獲得したはずの野田が、このルートにのることに不安を感じている。外から画商の困難な壁をこえてなかにはいると、こんどはその壁が逆に不自由を強いることに気づいていると、中原はいうのである。

 野田ののべたのは、「わたしはね、絵が売れるようになったということはいいんですが、それが、こんどは売れるような絵になったというようなことになるのが、一番気になるのです」であるが、中原はそれを、「新しい壁─なんとしても絵を純粋にしようという欲求が芽生えないとは限らないというわけである」と、解釈している。

 それは、「マティス批判」でのべられたあの純粋絵画精神というよりもむしろ、画商的「純粋絵画」であろう。

 画商は、馬の売買をするバクロウとはちがい、作家と契約するものである。ほとんどの場合、見こんだ作家の作品を社会に仲介するものである(注.その契約は、作家の描く全作品から、年度別何点とか、現物を見たうえでとか、条件はさまざまあるが、いずれも作家基準であって、作品現物主義のブローカーではないのが原則である。20世紀に成立した画商については、拙著『戦後政治体制と現代芸術』[『百万遍』2号掲載]で若干のべている.)  だから、画商が芸術家の独自に描く行為の直接的障害になることはありえない。中原がそれを「内部の壁」というのは、そうしたことからであろう。

 ここで筆者がある画家から聞いた、作家と画商の関係をあらわすひとつのエピソードを紹介しておこう。

 ある新進の若い画家がヒマなときある画廊によくあそびにいっていた。芸術界のニュースやほかの画家たちの仕事ぶりやウワサ話しがきけるし、それなりの目利きであった画商の、自分の作品への真摯な批評も、楽しかったからである。かれは、そのたびに画廊主に歓待され、ときには夕食に招待されたり、バーにも連れていってもらった。

 そうしたことが、しばらくつづいたある晩、別れぎわに 「先生、そろそろ一枚ぐらい小さな『バラ』を描いてくだいよ」と、頼まれた。花や山の小品は、画廊の客寄せベストセラーの商品である。若い画家は、常日頃、ゴチソウになっていることもあるし、かるい気持ちでひきうけた。

 ところが描いてみると、芸大出身の秀才のかれは、とうぜん他の画家との比較において描かざるをえない。既成絵画や「画商」基準の「うまい絵」が、念頭にうかばざるをえないのである。こんなバラかと画廊主におもわれるのも癪(しゃく)である。

 以下、このエピソードはつづくのだが、しょうしょう差しさわりがでてくるから、このあたりでやめておこう。

 ただし、こうしたことが、野田の引用のさいごにある、気になることに関係してくるのであろう。

 それが、中原では、「画商の壁と作家との結合のうみだす、あたらしい、しかもむずかしい壁」という、芸術家自身の「内部の壁」で説明されているのだが、もうひとり中原のあげる後者の例、田中岺の場合では、画商ルート自体の問題として提起されている。

 野田好子とどうよう、「絵の売れる新人(画廊派)」に分類される、38歳の田中岺は、扶養家族3名で、月収3万円である。そして、その「収入の内訳」は、24人中たった3名しかいない「作品を売るのみ」であり、しかも、「備考」によると「絵を売るのは画商を通じてのみ」とある、「半具象.自然の抽象」の油彩画家である。かれは春陽会に所属しているが、2年前の1957年に、第一回安井賞を受賞している。

 通称「安井賞展」で授与される安井賞は、小説の芥川賞のように、西洋画新人の登竜門である。芥川賞受賞の新人小説家が、しばらくは十数万部発行の文芸誌掲載や数万部の単行本刊行が保証されるように、安井賞受賞の西洋画の新人は、画商に大歓迎される作家となることが、’80年代、’90年代はじめまでつづいた(注.高度経済成長期には隆盛をきわめた安井賞展は、バブル経済崩壊後の1997年に第40回をもって廃止された.)   

 まさに当時の新人としては、だれしもがうらやむ環境にある新人画家である。

 ところが、こうした状況にたいする、田中岺の対応には、やや問題があると中原はつぎのように分析する。


・・・・ 田中岺は、内部の壁という問題では、その壁をできれば自己の防御壁にしようとするようにみうけられた。

 「新人の魅力というのは、常に未完成の魅力ですよ。どこか、未完成なところがあって、それが新鮮な印象をあたえるということだね」

 未完成にたいする配慮、これまた、絵を可愛がるというゆきかたの、ひとつのあらわれである。画商を通って絵を売るというルートがある限り、そのとき絵もまた商品の一種ということになるだろう。しかも、その商品の購買者であるコレクターを全然無視するということは、じっさい問題としてありえない。そのとき、作家は絵という商品の生産者という面も浮かび上がってくるはずであり、そこに一種の疎外がみられるはずである。内部の壁というのは、そうした疎外のことなのである。画商の壁が作家をくるみこんでくれることは、むろん、望ましいことである。しかし、それですべてが解決しないという矛盾がそこにはある。壁が壁をうんでゆくというわけである。(下線は筆者)


 引用文冒頭の4行は、中原の前後の記述から判断しなければならない。

 これはさきの、野田好子の「わたしはね、絵が売れるようになったということはいいんですが、それが、こんどは売れるような絵になったというようなことになるのが、一番気になるのですだから、できるだけ、自分に負担をかけないように注意しているつもりです」から継続する記述である。そして、そのあいだに、「田中岺も、田畔司郎も、野田好子も、月十点以下だが、かなり、コンスタントなペースで作品を制作している」という一行が挿入されている。画商の壁と作家の結合がうみだす内部の壁のひとつは、こころにもない絵の大量制作におちいる危険な心境ということになるだろう。

 田中が、「その壁を、自己の防御壁にしようとしている」というのは、田中は画商の寵児であってどんな絵でも受けとってもらえるのだから、好きなように、つまり、「未完成」であっても作品化できるということである。

 中原は、それを、「未完成にたいする配慮、これまた、絵を可愛がるというゆきかたの、ひとつのあらわれである」という。これはダブルイメージがこめられたことばである。「未完成」は、あたらしい「絵」の表現を、こころみることであって、結果を問題にしない芸術家の態度である。この引用が、ことばどおりであったのかはわからないが、田中発言の、田中の意図した方向からのイメージであろう。絵画実験をおごることなく真摯にやっていることである。

 しかし、引用した中原は、これに異なるイメージをかさねて聞いたとおもわれる。野田にあらわれた 「新しい壁─なんとしても絵を純粋にしようという欲求」がしめされたというものである。それは、また、絶対主義絵画思想のあらわれである。「タブローの自己批判」が、2年前の1957年、「マティス批判」が翌年1960年の論述であったのだから、とうぜんおなじ思索基盤からでて、試行錯誤する思考と読むべきであり、「絵を可愛がるというゆきかた」は、中原の同意表現ではなく、批判がこめられたことばである。

 そう解釈しなければ、いかつづく 「画商を通って絵を売るというルート・・・・」への継続が理解できない。

 そうおもうと、「新人の魅力というのは、常に未完成の魅力ですよ。どこか、未完成なところがあって、それが新鮮な印象をあたえるということだね」の田中発言の引用が、みごとな伏線であるのがわかる。

 じぶんの描きたい絵を描きたいように描いていているつもりであっても、「画商を通って絵を売るというルートある限り、そのとき絵もまた商品の一種ということになるだろう」との筋道である。「ルート」であるが、「ルート」とことばを滑らせば、「絵では食えない新人たち」を展開する、いっそうなめらかな論理となる。もっとも、中原の潜在意識では、「が」でなければならなかったのであろうが、これは別の問題である。

 ところで、これにつづく、「絵」が商品となると 「作家は絵という商品の生産者という面も浮かび上がってくるはずであり、そこに一種の疎外がみられるはずである」における、疎外がみられる作家は、一文節という文章構成からみても「田中岺」いがいありえない。

 疎外とは、人間がよかれとおもってやったり、つくったりしたことが、逆に人間をそれまでよりいっそうの窮地におとしめる作用という、マルクス思想のやや通俗化した用語である。

 田中は、「新人の魅力というのは、常に未完成の魅力ですよ。どこか、未完成なところがあって、それが新鮮な印象をあたえるということだね」 と、のべたとされている。魅力とは、だれにとっての「魅力」なのだろうか。新人は、だれにとっての「新人」なのだろうか。じぶんにとって「魅力的」で、じぶんは新人だからこうすべきといっているとはおもえない。ましてや、新鮮な印象をあたえられる自画自賛をかたったとはおもえない。とうぜん、他者の目である。芸術界の視線、コンテキストからいえば画商、そして、コレクターの評価である。

 とすると、中原の指摘は、画家がかわいがっている描くべき絵画と、魅力ある絵画には、矛盾があるということである。「一種の疎外がみられる」ということである。つまり、野田のセーブされた禁欲的やりかた、田中の防御壁とするやりかたでは、現行の画商を通って絵を売るというルートのうえに「芸術と生活の関係」をきずくには、画商に歓迎される「絵の売れる新人」においてでさえ、いわば必然的な壁がたちはだかっている実情がある、というのが中原が分析した見方であろう。しかし、かれは、そこにとどまることなく、さらにこの奥にすすんでみようとする。

 それは、つづく泉茂の発言に託して総括するようなつぎの記述である。


 わたしの会った作家のすべてが、やはり、画家は、作品が売れて生活できる状態がもっとも理想的だといった。

 「ともかく、画家が社会の構成員の一人となって参加するか、或いは、芸術家として参加を拒絶するかによって、かれの経済生活が繁栄するかしないかの問題ではないようである。巨大な社会機構は社会に背をむけ、人間の稀少価値をただちに発見し、食いつぶしてしまうのだから。結論的にいって、画家の経済生活はレイサイ企業なみにかんがえていいとおもう」

 これは、泉茂の意見である。かれは、画商の壁と内部の壁の矛盾を、このようにして説明している。レイサイ企業! (下線は筆者)


 解釈を必要とする記述である。インタビュー記事として、泉茂にふれているのは、全文中この一箇所だけである。一覧表は匿名表記であり、掲載誌『芸術新潮』の読者には、泉茂についてほとんど意味をなさない記述である(注.当時刊行の『芸術新潮』の泉茂関係記事掲載の有無について、筆者は確認していない.)

 いちおう補足すればつぎのようになる。かれは、「絵の売れる新人(画商派)」に掲載された7名の新人のひとりであるが、唯一の版画家という異色の作家である。他は西洋画家4名と日本画家2名である。

 1930年大阪市立工芸学校を卒業したかれは、2年前の1957年、第一回国際版画ビエンナーレ展新人奨励賞を受賞し、日本版画家協会の会員となっているが、西洋画、日本画、彫刻が脚光をあびる一般美術界では、1959年のとうじでは、エッチング、プロパーの知名度のとぼしい作家であった。「新人の生活一覧表」によると、月収4万円で、内訳は「作品(30%)・雑誌出版に執筆(30%)遺産(30%)」とある。備考欄には「夫人も新進版画家・油絵より版画の将来を確信(下線は筆者.)と記載されている。

 中原はこのようなこと、たとえば、版画重用の視点などについて、いっさい関心をしめしていない。しかも、泉が語ったとされる引用符「    」のことばにしても、どうのような会話の文脈で発言されたのかわからない。むしろ、泉の発言から、中原がまとめた要約と解すべきであろう。

 むしろ、泉のこの発言の要約は、中原思考の文脈のなかで理解すべきである。

 冒頭二行についても、作品で生活できる状態がもっとも理想的だとおもうような作家、それがほとんどの芸術家の願いであろうが、それを実現したかれらの実情はつぎのようなものだと、読み替えることができる。

 「画家」の経済活動は、現代社会では、成功してもレイサイ企業いじょうにはなりえないということである。

 おそらく、泉茂が実際に発言したのは、「問題は、しょせんは零細企業ということですよ」ぐらいだったのだろうが、中原はそこから、ひとつの主張を抽出したのであろう。

 零細企業とは、小規模で採算のあわない企業である。ただし、ここでは、「巨大な社会機構は社会に背をむけ、人間の稀少価値をただちに発見し、食いつぶしてしまう」の文脈からつながるのだから、さきの疎外がそうであったように、マルクス主義用語を借用すれば、大企業に搾取される小企業のイメージをたくした用語使用であろう。画商に搾取される宿命をもつレイサイ企業である。

 しかし、このようにかれの文脈をたどると、中原の視点のおきかたには注目すべきものがある。「搾取」は、「階級社会において、生産手段の所有者が直接生産者からその労働の成果を取得する」ことである。このばあい一般的にいうのなら、「画家の経済生活は労働者なみ ・・・・」としてもいいのだが、それを企業にこだわり、「レイサイ企業!」と強調していることに留意しておかねばならない。企業とは、「営利の目的で、生産要素を総合し、継続的に事業をおこなうこと」である。 これは、おそらくは泉が、そして中原が、個としての人間把握ではなく、集合体としての人間把握を前提として、芸術を個人でなく集合体の所産とみていることである。このような見方は、戦後の’50年代から’60年代にでてきた芸術観である。さきの座談会でも、赤瀬川の 「伊藤君の作品というのは、伊藤君だけのものではないと思うのだ」という発言にも、それはあらわれていた。こうした芸術観は、芸術作品を個人にむすびつける天才・希少価値論を排除し、他方では、芸術をデザインや建築、映画、舞台に拡大する方向をうみだすことになる。

 そして、ここではそれは、ひろい視野から芸術をみる立場にたって、絵画、彫刻という既成芸術を、芸術の一部門とみなすことを意味する。

 おそらくは、中原は明確に意識したものではなかったにせよ、その見方が、このインタビュー分析でもしめされているようにおもわれる。

 泉の発言として引用された「ともかく、画家が社会の構成員の一人となって参加するか、或いは、芸術家として参加を拒絶するかによって、かれの経済生活が繁栄するかしないかの問題ではないようである」においても、「画家」と「芸術家」は、おそらくはかれの無意識のなかで、使いわけがされている。

 この「レイサイ企業」でいわれているのは、既成芸術を問題とするかぎりは経済性からみた「芸術と生活」の関係は、現代社会の機構では、下積み生活にならざるをえないということである。

 しかし、中原はこれを泉茂の意見であるとわざわざことわり、それは、画商の壁と芸術家の内部の壁の矛盾のひとつの実態の説明だという。

 ならば、この「人間の希少価値をただちに発見し、食いつぶしてしまう」画商大企業にたいして、「レイサイ企業」たる芸術家は、なにをターゲットにして、人間らしく活きていける芸術を展開できるのだろう。中原は、その探索に関心をよせているようにおもえる。

 中原は、そうした道の可能性をふたりの作家にみようとしている。

 それは、一覧表の備考欄に「出来れば画家をやめたい」と記入した油野誠一と、「絵を売るつもりはない・何でもやってみたい」と書いた朝倉摂についての記述においてである。油野は「美術団体のホープ」に分類され、内訳は「出版美術のみ」であるが月収4万の、それなりにめぐまれた画家であり、朝倉は、順風満帆の日本画家でありながら、収入内訳は「夫君の収入・講義・文筆・テレビ・ラジオ」という、八面六臂の芸術家である。

 まず、油野誠一に関係するところを引用する。


 これと、ほとんど、対象的(ママ)な作家が油野誠一ということになるだろう。

 「なぜ、油絵をかくか、そういう問題をつきつめてゆけば、大きな問題になるかもしれないが、まあ、ぼくのばあいはなんだね、一方で出版的美術の仕事をしている。そこでは、たいてい具象的な要素がつよい。そうすると、どうしても非具象的な作品が描きたくなるというわけだよ。」

 「精神のバランスのためですか」とわたしはきいた。

 「いや、バランスといわれても困るけれど、つまり、具象的なものと非具象的なものを同時にやったほうがいいということかな」

 しかし、油野誠一はきわめてペシミスチックな表情をした。

 「しかし、ぼくなんか、惰性で絵を描いているということがあるな。むろん、出版美術は副業でもあるが、しかし、それはそれとして、その価値は認めるな。けれども、もっと、別の総合的なものがやりたいね

 油野のばあいには、画商の壁を一方では、理想的なものとみなしながら、現状では、ほとんど絶望的な壁であるとみなし、さらに油絵そのものにも、ある重苦しい壁をみいだしている。そうした 壁─つまり、油絵と受け手である社会との交流を遮断する壁にたいし、かれは、別のなにか総合的なものを意図しているふうである。かれの内部のさまざまな壁は今、大きく変動の兆しをみせているにちがいない

 それら、全体のゆれ動きのなかで、かれは焦点をどこかに合わせようとしている。それは、美術の機能化ということばだけではかたづかないもののようにおもわれるのだ

 いってみれば、ここには、漠然とした絵画不信論がある。前述の絵を損なうまいという(インタービューした他の)作家の態度とこれほど遠いものはない。しかし、それを、機能的美術によって解決することで、十分おぎなうというほどの、確固としたものもない。かれは、すべての分化したものに不信をいだいているらしくみえる。

 「惰性ですよ」

 ということばには、自嘲もあったが、その分化したものにたいする、ふかい否定の意図もあったように感じられた。 (下線は筆者)


 46歳の油野誠一は、早稲田第二高等学院を中退し、絵を描いていたが、画家としては、在野美術界の戦前からの重鎮、佐藤敬に師事した「アンフォルメルの油彩画・抽象」の画家である。1953年に新制作協会展新人作家賞を受賞している。しかし、「新人の生活一覧表」では、所属欄は空白であり、「定期的作品発表」は年1回、「個展(年)」「制作時間」欄の記入はどちらも不定である。にもかかわらず、かれが分類されているのは「美術団体のホープたち(団体派)」5名のひとりである。そのあたりの事情はよくわからない。しかし、かなり注目された作品を制作しつづけている画家であることは、引用文から推測できる。

 かれの月収は4万円であるが、内訳は「出版美術」とある。油野は、終戦直後から書籍、雑誌、教科書の挿絵を描き、ことに、’50年代以降では「世界少年少女文学全集」(創元社)などの児童文学全集の挿絵を担当しているから、経済生活はそれらによって維持されているのであろう。

 こうした背景のもとでこれらをよむと、発言の趣旨と中原の解釈はかなりわかりやすいものとなる。

 油野の発言によると、「絵画」と副業である「出版美術」は、かれの関心では、軽重の差のない均等の関係にある。かれの生活において、なんら区別されることなく、同格の位置にあって、かれはその状態をありのままに受けいれている。しかし、かれは、それにとどまることなく、それらをひっくるめた、さらに総合的な別のものをやりたいという。

 中原は、この関係と、油野がやりたがっているものを注視し、それが意味するところを見定めようとする。

 中原が、他の新人と比較して、油野にまず注目するのは 「・・・・画商の壁を一方では、理想的なものとみなしながら、現状では、ほとんど絶望的な壁であるとみなし、さらに油絵そのものにも、ある重苦しい壁をみいだしている」ことである。

 それは、いっぽうで描いている絵画が売れるにこしたことはないが、それが不可能である現状への油野の対応の仕方への注目である。油野は、画商を、「油絵と受け手である社会との交流を遮断する壁」とみていると、中原はいう。つまり、油野は、自分の芸術を、社会との交流手段として考えていることである。その視点から、油野はかならずしも「絵画」にこだわらないのである。「かれの内部のさまざまな壁は今、大きく変動の兆しをみせている」のである。

 それならば、油野は「絵画」いがいのどのような芸術に、社会交流の期待をかけているのだろうか。それは、かならずしも 「美術の機能化ということばだけではかたづかないもののようにおもわれる」と中原はいう。美術の機能化とは、デザインとか挿絵、さらには建築、ファッションといった機能的美術をさすのであろう。つまり、油野がいっぽうでは専念している「挿絵」で満足しているのではないということである。ここで中原の 「・・・・ようにおもわれるのだ」という根拠は、油野がどのようなコンテキストのもとで、それをのべたのかはわからないが、その後の油野の芸術人生から憶測すると、それなりに正確な分析と推量であったとすることができよう。というのは、2009年にその芸術生涯をおえた油野誠一の社会歴は、画家と絵本作家である。かれは、「出来れば画家をやめたい」と記入したにもかかわらず、そののち60年間にわたって絵画を描きつづけ、公・私設ギャラリーの展覧会で作品公開をする一方、児童文学の挿絵だけでなく、絵本作家としておびただしい数の絵本を刊行している。絵本では、物語作家としては「妹尾猶」や「せのおひさし」をもちいることもあった。脚本、せのおひさし、絵、油野誠一というわけである。絵本は、絵(画)と文(学)が合体融合する「芸術」である。いうまでもなく、(油野が焦点をあわせようとしているものが、)美術の機能化ということばではかたづかないものである。

 中原の油野へのこの指摘は、見通しをもった予告であったともいえるが、かれの解釈の主眼点はそこにあるのではない。

 かれが油野とのインタビューから集約した解釈があらわれているのは、つぎの三行であろう。


いってみれば、ここには、漠然とした絵画不信論がある。前述の絵を損なうまいという(インタービューした他の)作家の態度とこれほど遠いものはない。しかし、それを、機能的美術よって解決することで、十分おぎなうというほどの、確固としたものもない。かれは、すべての分化したものに不信をいだいているらしくみえる。


 ここでいう「絵画不信論」は、絵画、あるいは既成芸術を、全否定するものではない。レスタニーのヌーヴォー・レアリスムや東野の「ガラクタの反芸術」のように、対抗的なほかの芸術形態を主張するものではない。中原はそれを、ここでは「それを、機能的美術によって解決することで、十分おぎなうというほどの、確固としたものもない」という。つまり、油野の「絵画不信論」とは、「絵画」を絶対視しないことであって、「絵画」をひとつの芸術行為とすることには、なんらかわりないことである。だから、この「絵画不信論」は、すべての分化したものへの不信とつながるものとなる。芸術を既成芸術云々でとらえるのではなく、誇張していえば、既成であろうとなかろうと、絵画、彫刻であろうと、デザイン、挿絵の機能的美術であろうと、芸術をジャンルからとらえることをしないのである。たとえば、「非具象的な作品」と「具象的な作品」を、同時にやったほうがいいというのは、油絵(アンフォルメルの抽象画)と挿絵を同等の作品とみなした芸術の営為としている。

 いいかえれば、「絵画」を芸術の一部門とみるのである。さきの泉茂のレイサイ企業を援用すれば、個人芸術からみるのではなく、集合体芸術、いわば、芸術企業からみるのである。ここでいう「企業」とは、「営利を目的として、経済活動を営む組織体」の語義を、「生活を目的として、芸術活動を営む営為」と置き換えたていどの意味であるが、作家に商品の生産者の面があり、その「内部の壁」を疎外から説明する、中原の論理の筋道からみればさしつかえないとおもう。

 それに、企業とは、社会との交流によって存在を保証されるものである。そして、油野は 「油絵と受け手である社会との交流を遮断する壁にたいし、かれは、別のなにか総合的なものを意図しているふうである」といわれたが、かれは社会との交流をスムースにできる分野の開発をしたいと言っているわけだから、生活芸術論として矛盾するものではない。

 さらにまたいえば、この芸術企業体は、「油絵」部門、「挿絵」部門・・・、さらに「挿絵」にしても、雑誌、教科書、童話、絵本、あるいは、鉛筆、筆、油彩、岩絵具、パステル、水彩 ・・・と多種分野にわかれるものである。かれはそのときどきで、どれをやってもよいのである。ようするに油野はこうした芸術企業(生活)体を営んでいるということになろう。だから、そうした分野のひとつが、生活の一部である経済領域に貢献してもしなくても、おおきな差し障りは生じないことになる。生活の他の領域を充たせば、それでいいのである。また、経済領域にかぎってみても、やや時代遅れの喩えで恐縮であるが、電気機器企業において、冷蔵庫部門が不振でもテレビ部門が好調なら、深刻にかんがえる必要がないといったようなものである。

 だがこれは、中原の記述からえたひとつの解釈である。中原が表面的に注目しているのは、油野のもっている「絵画不信論」である。そして、その不信論が、油野の芸術生活に、あいまいだが興味深い、しかも将来の期待がもてるかたちで、反映しているのではないかということである。中原はそれをさらに見極めようとする。

 中原は、つづけて、この方向を積極的にすすめている例として、朝倉摂の場合をあげる。積極的にというのは、かの女は、いっそう意識的にこれを実践しているということである。


 こうした、絵画不信論をもちながら、もっとオプチミスチックな立場に立つ作家もないではない。

 たとえば、朝倉摂のような作家もいる。新制作の会員であって、戦後、日本画の手法と、モダンな様式と、社会意識を一つに織りあわせたような作品を発表し、日本画の有力な新人といわれたこの作家は、現在では、大胆な絵画否定論者に変貌してしまっている。

 「絵を描くことに意義をみとめないというにもかかわらず、団体展などに発表しているのは解せないね」というと、彼女はその点については、非常にあいまいな返事をした。つまり、そういう問題に悩んだりしないのである。絵で生活できないという壁が、この作家にとっては、さしあたり、問題にする必要がないのである。要するに、彼女が絵をかくのは、かくことに目的があるのでなく、展覧会に発表することが目的になっているふうである。

 「わたしの今やりたいことは、映画をつくることです。何かを、できるだけ多くの人に訴えようとすると、今のところ映画しかかんがえることができません。絵はどんなに充実していても本質的にわたしにある不足と不満をかんじる」 それから、こうもいった。「画家が絵を売ってそれで充分生活できるということは理想的ではあるが、わたしはたとえそういう状態をあたえてやろうといってもやる気はない。それに今、出版美術関係の仕事をしているけれども、それが社会とむすびついた芸術のあり方であって、そういう意味では絵画よりも、はるかに社会とのつながりをもった仕事をしていることになるかもしれないが、わたしとしては、それでも満足しているわけではない

 朝倉摂の発言は二つの意味で特徴がある。一つは、これは他の幾人かの作家にもみられた意見である絵画不信論だが、今一つは、機能的美術(注.デザイン、挿絵など)をもそれほどみとめていないということである。そこには、社会に訴えかけるという彼女の生活観があるかもしれない。(下線は筆者)


 朝倉摂は、「一覧表」の分類では、「社会進出」の7名の新人のひとりにあげられている日本画家であるが、戦前からめざましい活躍がみとめられている芸術家であった。

 父は彫刻家の朝倉文夫であり、はやい時期から伊東深水に日本画を学び、1941年、19歳で第4回新文展に入選するが、翌年には在野の新美術人協会に参加している。その後、1950年には、東京芸術大学美術学部卒業制作で、教授会推薦の優秀作品にあたえられるサロン・ド・プランタン賞を獲得し、1953年には第三回上村松園賞を受賞している。これは、毎日新聞社が設定したその年度にもっとも活躍した女性日本画家にあたえられる賞であって、翌年、小倉遊亀が第四回賞を受賞しているような、芸術界できわめて注目度のたかい美術賞である。そして、当時は、「一覧表」によると、新制作に所属しているが、「定期的作品発表」は年3回で、「個展」は  0 で、「制作時間」は暇な時である。

 したがって、中原の冒頭の「日本画の有力な新人といわれたこの作家は、現在では、大胆な絵画否定論者に変貌してしまっている」は、きわめておおきな関心のこめられた強調であろう。

 そして、その関心のもちかたは、油野にもった関心を確認し、とおく延長する方向にむかっているようにみえる。

 朝倉の日本画への態度にたいする、つぎのような解釈にもあらわれている。


 「絵を描くことに意義をみとめないというにもかかわらず、団体展などに発表しているのは解せないね」というと、彼女はその点については、非常にあいまいな返事をした。つまり、そういう問題に悩んだりしないのである。絵で生活できないという壁が、この作家にとっては、さしあたり、問題にする必要がないのである。要するに、彼女が絵をかくのは、かくことに目的があるのでなく、展覧会に発表することが目的になっているふうである。


 これは、直前にあつかわれた油野の「惰性の絵」にたいしてのべられた、「『惰性ですよ』ということばには、自嘲もあったが、その分化したものにたいする、ふかい否定の意図もあったように感じられた」の ふかい否定とおなじ方向を見た確認であろう。

 油野では、芸術ジャンル懐疑による「絵画不信」であり、その根拠となるのは、「油絵と受け手である社会との交流を遮断する、ある重苦しい」壁をみいだし、それにたいしては「別のなにか総合的なもの」を意図するということであった。「惰性ですよ」とは、「絶対視していない」ということであり、中原の言によると、大きく変動する内部の壁の問題であった。

 朝倉においては、絵を描くことではなく「展覧会に発表することに目的」があると中原はいう。ここでいわれているのは、やはり、かの女の場合も、「絵」を、社会交流の手段とみていることである。しかし、その動機は、油野とはちがうレベルにある。

 「絵で生活できないという壁が、この作家にとっては、さしあたり、問題にする必要がない」というが、これはつぎのような意味でのべられたのであろう。

 朝倉が、「夫君の収入・講義・文筆・テレビ・ラジオ」の収入で暮らしているから、というよりもむしろ、かの女は「そういう問題に悩んだりしない」を説明するものである。

 この特集「追いつめられた新人」の中原ルポ掲載のページには、朝倉の活躍ぶりをしめす6枚のグラビア写真が1ページ全紙をうずめている。アトリエにおかれた生まれたばかりの赤ん坊のベッドのかたわらで、原稿を書き、制作する朝倉、社会テーマのラジオ討論会の壇上で発言する朝倉、桑沢デザイン研究所で授業をおこなう朝倉、国際美術展会場で自作品の前にたつ朝倉の姿である。

 それらはいずれも、ていどの差はあるものの、社会との交流をあらわすものである。しかもかの女は、それらを積極的にうけいれ、精力的にこなしている。つまり、油野にあった 「変動の兆しをみせる」 内心の壁を、まったく問題にする必要がない のである。

 しかし、中原のみる朝倉は、それにもさらに、「満足しているわけではない」。

 「絵はどんなに充実していても本質的にわたしにある不足と不満をかんじる」といい、「画家が絵を売ってそれで充分生活できるということは理想的ではあるが、わたしはたとえそういう状態をあたえてやろうといってもやる気はない」と断言し、さらにまた、「今、出版美術関係の仕事をしているけれども、それが社会とむすびついた芸術のあり方であって、そういう意味では絵画よりも、はるかに社会とのつながりをもった仕事をしていることになるかもしれないが、わたしとしては、それでも満足しているわけではない」とのべたと、中原はレジュメしている。

 これは、朝倉の言としては、今やりたいのが、「できるだけ多くの人に訴えることができる」 映画であることの説明としてのべられたものであった。この映画制作へのかの女の期待は、のちにちがったかたちで実現したのかもしれない。朝倉は、’70年代になると、アメリカへ留学して舞台芸術を学び、’70年代末から’80年代にかけて、蜷川幸雄演出、唐十郎作の「下町万年町」や市川猿之助演出、梅原猛作の「ヤマトタケル」などの舞台美術の仕事に専念するからである。

 ここで中原の解釈による、朝倉のいう映画が絵画や挿絵より 「多くの人に訴えることができる」というのは、つぎのようなことであろう。

 展覧会に作品を出展しても、それがどれだけの人に、どれだけのこと訴えられるかはうたがわしいものがある。入場者との交流があるのか、ないのかわからない。よく見てくれるかもしれない、一瞥だけかもしれない、通りすぎるだけかもしれない。多くの団体美術展でおこっていることは、あとの二例である。小説や童話の挿絵ではどうだろう。購入者との交流は、展覧会よりは数段ましである。だから、「今している出版関係の仕事」は、絵画よりはるかに好ましい仕事となる。しかし、その挿絵でさえ、読者、見るひととのたいした交流が期待できるものではない。ひとが小説、童話や雑誌を手にするのは、ほとんどのばあい、生活の余白時間においてである。それらにくらべて、映画はどうだろうか。

 映画鑑賞者がおこなうのは、映画館のスクリーンをみつめ、濃密な時間をすごすことである。しかも、映画は、動く映像と音響をともない、訴えていくものである。(注.1959年の当時は、まだ、ヴィデオはなく、映画は、映画館か民放数局をふくむNHKテレビでしか見ることができなかった. )

 朝倉が芸術に期待するのは、「できるだけ多くの人に訴えること」である。「画家が絵を売ってそれで充分生活できるということは理想的ではあるが、わたしはたとえそういう状態をあたえてやろうといってもやる気はない」と言い切るほど、「芸術と生活」における、確固たる目標である。これは、油野があのようなこだわりかたをした、社会との交流の視点から芸術をみることである。社会との交流は、芸術家の「芸術と生活の関係」を安定させる自明の前提であるのはいうまでもないことである。

 しかし、中原がこのレジュメであらわしたかったのは、そのこと自体ではなく、つぎのようなものであったとおもわれる。すなわち、これもまた現代の芸術家が遭遇する壁であるとみなし、それが何であるかということである。

 かの女が悩んでいるのは、芸術と社会のあいだに立ちはだかる画商という「外部の壁」でもなければ、芸術家の「内部の壁」でもない、別な壁である。それは、「できるだけ多くの人に訴えること」への渇望で逆算的にあらわされる「壁」である。芸術作品と受け手である社会との交流を無化する「無関心の壁」である。中原は、朝倉の発言に、この「無関心の壁」への挑戦をみたのであろう。

 かれは3年後の「前衛のゆくえ」では、朝倉の場合よりさらに高次元のレベルで、ジョン・ケージについて、「軽蔑さるべき日常生活と芸術の結合、それはまた無関心な壁にとりかこまれた現代芸術の必然的な要請かもしれない」と、「芸術の生活化」とからめてのべていた。

 中原は、「絵では食えない新人」のルポルタージュの結論として、この問題は芸術家やそれをとりまく画商の個別の問題ではなく、現代の芸術そのものとして、問題にしなければならないという視点をここで見出しているようにおもえる。それは、1959年という時代では、芸術を旧来とは異なる角度からみることであり、(既成)芸術の存在のしかたを根底から揺るがせるものであった。

 (既成)芸術の否定自体は、20世紀のすべてのアヴァンギャルドがすでに唱えていたものだが、かれの場合の特徴は、それを「芸術の生活化」という芸術家の生活からアプローチしてことである。それは、中原が芸術において一貫して問題にした視点であった。あの「『若い冒険派』は語る」の座談会のおわりに問われた、「みずからの仕事を客観化した発言」の要求も、若い芸術家たちが、それをどう思っているかであったのは、すでにのべたところである。つまり、二年前にかれが聞いていた朝倉や油野のようなジャンルへの挑戦や無効化もあることが、念頭にある問いであったということである。

 そして、そのような意味での中原の問いにそうたのは、中西の「廃業」であったのだろうが、それとて、具体的に正面から応えるものではなかった。実作者である中西の回答はことばではなく、かれの行為でしめされるものであろう。その行為の回答がのちの、中西、赤瀬川らの「ハイレッド・センター」の芸術行動であったのかもしれない。そして、そうであったからこそ、中原がこの回答をみととどけるために、赤瀬川の「千円札事件」裁判をふくめて、それらに好意的関心をしめしたのかもしれない。つまり、非芸術的口吻をもらす芸術家の「芸術と生活の関係」の位置づけである。

 本節をおわるにあたってこのようなことを記すのは、評論家の「芸術論」と芸術作家の「芸術論」のあらわれかたの相違であり、それらを検討するさいのむずかしさである。本論においても、「芸術作家の『反芸術』」 としたが、中原の評論家的解釈が介入したものであって、作家として油野や朝倉がかたったものではない。かれらは、こうした評論家の解釈ができるような、芸術行為についてのべたわけである。そして、中原の解釈によるかれらの発言は、その後のかれらの芸術行為でそれなりの具体化をはたしたものである。油野では、油絵をこえ、挿絵をこえて、絵と文が融合した絵本という芸術と社会が出会う道をしめしたといえる。朝倉においては、日本画による受賞をすて、挿絵やデザインをさらにこえて、舞台芸術という、サインのない作品、だが、観客とのあたらしい交流を期待できる芸術行為へすすんでいる。

 ただ、朝倉の発言については、かの女は、10年後の’70年代になると、あれほどまでに明言した「映画」制作を断念しているのだが、その理由を知っておきたいおもいがある。また、1959年のこの時点で、朝倉がどのような映画制作をイメージしていたのかについても、心残りがある。映画、演劇、ことに「映画」は、朝倉にかぎらず、フランスのシチュアシオ二スト・アンテルナショナルのギー・ドゥボールのように、’60年代アヴァンギャルディストが特徴的に強い関心をしめし、そして誇張していえば挫折した、表現メディアだからである。日本でも、’70年~’80年代になると、映画、演劇、写真を手段としたアヴァンギャルディストはおおい。(注. この評価は、アヴァンギャルドの問題として、軽々にはできないものがあろう.)

 しかし、いずれにしても、こうしたことは、後世のいまから’60年代アヴァンギャルドを位置づけるとき、中原の解釈とあいまって、’60年代初頭においては、やはり、芸術ヒエラルキーをぜったい認めない、ひとつの「反体制」芸術行為だったといってもさしつかえなかろう。

 そのような見方からすれば、本節で問題とした 「『若い冒険派』は語る」座談会でかたられた、’60年代初頭の日本の「反芸術」は、伊藤、工藤、中西、荒川、赤瀬川、そして中原の立場は、遠近の距離はあり、それぞれが異なる位置にありながら、おおきくいえば、「反芸術」の命名者東野芳明をふくめて、なんの「体制」を指すかは別として、「反体制」の立場であったことはまちがいのないところである。ここでいう「反体制」の立場とは、政治の権力、芸術の権力、あるいは金銭の権力構造に屈服しない生活をおくることである。ただ、半世紀後のいまとなって問題とすべきは、その「反体制」が、すでにわれわれが、’60年代終了時の「万博芸術」にみたような「反芸術」もふくめて、どのような現れをみせたか、また、いかなる意味をもつものであったかを、あらためて確認しておくことである。

 東野が「反芸術」と名づけ、またかれなりの整理をしたのは、芸術の反体制であった。それは、「読売アンデパンダン展」に出品された作品からはじまるものであった。

 次回は、いままでもそのつどふれてきた「読売アンデパンダン展」と「ハイレッド・センター」について、本論の見地から、すこしまとめておこう。なぜなら、それなくしては、’60年代日本アヴァンギャルドの「反芸術」をかたることにはならないからである。



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