此岸の光景7


此岸の光景 その7


輿石先生の思い出

            

 岩田  強 



旧東京都港区立沼津養護学園



 わたしは小学校4年の2学期から5年の1学期まで沼津養護学園に通っていた。そこは沼津市の海沿いの松林のなかにあり、虚弱だったり病後静養のために普通の授業がうけられない子どもたちのために、東京都港区の小学校が共同で運営していた施設だった。

 わたしは小学校入学直前に肺門リンパ腺炎にかかり、結核で兄弟姉妹4人を亡くしている母は震えあがり、入学を延期させ静養させると言い始めたが、ちょうどその頃一般にも出回り始めたストレプトマイシンが奏功して、かろうじて入学延期をまぬがれた。そういうイキサツがあったので、養護学園の入園可能学齢の3年になると、母はわたしに養護学園に行くようにしつこく勧めはじめた。母は、そういう場合の常で、抗弁しにくい理由を見つけてくるのがうまく、この時は「お姉ちゃんは1人っ子で甘えん坊だったから、3年生で千葉の岩井健康学園に行かせたのよ。ツトムもお姉ちゃんは10歳も年上で1人っ子みたいなもんだ。養護学園に行けば自立心がついていいわよ」といった。母がなにかをしつこく主張しはじめたら、父はなにも言わず、母の願望が通るというのが我が家の方程式だったから、はじめは気が乗らなかったわたしも、けっきょく、4年の2学期から沼津に行くことを承諾させられた。

 沼津養護学園では、子どもたちは長期休暇中は親元に返されるが、学期中は園内の宿舎に寝泊まりし、親と会えるのは学期中一度の面会日だけだった。授業は園内の教室でうけ、食事も渡り廊下の先にある園内の食堂で食べた。

 生徒数は3年生から6年生まで併せて35名ほどで、2クラスに分かれていた。先生は3名、寮母さんが2名、保健の先生1名、その他用務員さんが1名と賄いのおばさんが数名いた。

 授業は、生徒たちの健康状態を顧慮してであろう、午前中だけだったのではなかっただろうか。曜日によって午後に食いこんでも1時間だけだったとおもう。放課後は自由時間で、午後3時になると掃除の時間になり、生徒全員で2つの教室と2つの居室を掃除し、廊下や階段に雑巾がけをし、運動場の松葉を熊手で搔き集めた。学園はクロマツ林のなかにあったので、いつも熊手にびっしりと松葉が絡みついた。夕食は午後6時からで、食後にすこし自習時間があり、午後8時になると、長い座り机をたたんで居室の隅に片づけ、各自押し入れから布団をだして就寝する。これが週日の日課だった。

 土曜日の午後と日曜日は外出が許可された。わたしはたいてい近くの磯に魚釣りにいった。潮の回りがよくてサンコチなどが釣れると、賄いのおばさんが唐揚げにして夕食に一品追加してくれた。

 わたしはもともと勉強が嫌いで、通信簿を渡される日はいつも気が重かった。あるとき通信簿を母に渡したところ、針箱に立てた角柱(張り木)で布を張って縫物をしていた母がメガネの上目越しに通信簿を見て、「これはヒトには見せられません」といった。そのコトバは、80歳になってもそのときの情景がまざまざと蘇るほど、心につき刺さった。

 そういう勉強嫌いだったから、沼津での1年間は、両親に会えない寂しさはあったけれど、勉強のタガから解放された至福の1年だったが、5年生の1学期末に沼津から帰ってくると、ショックが待ち構えていた。九九を忘れていたのである。

 わたしは、外面をとりつくろうのが上手な性格と、小学校の元教師だった母親の影響で、級友から「じいさん」と仇名されるほど、ひねこびれた子どもだったから、九九ができないことの露見は耐えがたいほどの苦痛で、夏休み前の父兄懇談会が恐ろしかった。

 学級担任は、沼津に行っているあいだに、Hという女の先生から輿石(こしいし)定雄(さだお)という男の先生に代わっていた。輿石先生は小柄で、引締った体つきの、肌の浅黒い、西洋人のように彫りのふかい顔つきの人だった。歳は父より若くみえた。沼津から帰ってから終業式までの授業中に何度か声をかけてもらい、怖い人ではないという感じを抱いていたが、なにしろこちらは九九という爆弾をかかえている。母親に引き摺られる気分で先生の前の椅子に腰かけると、先生は開口一番母にむかって、

「岩田クンは1年間もいなかったのに、みんなからすごく信頼されているんですよ」

といってくれた。わたしはいっぺんに気持が軽くなった。

 先生と母が懇談するなかで、戦時中母が小学校の教師をしていたとき同僚だったI先生が輿石先生と師範学校の同期だったことが分かった。輿石先生は懐かしそうにIと呼び捨てにした。先生が九九のことを母親に告げ口する心配は薄らいで、わたしはますます気が楽になったが、じぶんが張り子の虎で、じつは勉強ができないことを先生に知られたというシコリは心の底から消えなかった。

 じつを言うと、沼津から帰ってショックだったことがもう一つあった。級友から「岩田クンは沼津に行ってたのだから、泳げるんでしょ」と聞かれて、つい「ウン」とウソをついてしまった。沼津では海水浴はしたけれど、じつは泳げなかったのだ。けれど、級友といっしょにプールに行きさえしなければ、ウソがバレる気遣いはない。

 わたしの通っていた小学校は明治9年創立の古い学校で、校舎はすでに戦前から鉄筋コンクリート3階建てで、その地階に25メートルの屋内プールがあったが、戦時中は空襲にそなえた資材置き場になり、わたしが通うころには図工室に転用されて、水を抜いたプールの底に万力のついた工作台が何台も並んでいた。

 創立80周年に向けての記念行事として校庭に屋外プールを新設することになったのは、このプールなしの状態を解消するためだったのだろう。プールは校庭の一部を掘り下げて作り、夏以外の季節には、プールの上にH鋼を等間隔に渡し、その上に分厚い木材を敷きつめて、運動場として利用できるようになっていた。こんなプールは他で見たことがないから、都会の小学校の狭い校庭を最大限に活用するための苦肉の策だったにちがいない。

 そのプール建設がわたしたちの学年の4年次から5年次にかけて行われ、5年の夏休み前にプール開きの式典が予定されていたのだが、わたしはその前の1年間沼津に行っていて、校庭でプール建設の工事が進んでいく現場を見ておらず、プールが完成したことも、夏休み前にプール開きがあることも、プール開きがあればその後水泳の授業があることも、ピンときていなかった。

 沼津から帰って1週間ほど先にプール開きの式典があり、その直後に生徒たちの泳ぎ初めがあることが呑み込めると、わたしは「しまった!」とじぶんのついたウソを後悔したが、もう遅かった。

 プール開きは滑稽だった。図工のK先生がチャップリンの着ているような上下続きの黒い水着でプール際に出てきたが、その着古した水着は方々に虫食い穴が開いていた。みんなが笑い転げる中、K先生は真面目くさった顔でプールに飛び込んで20メートルを泳ぎ切り、水から上がり、ニコリともせず人垣の奥に消えていった。生徒たちはまた大笑いした。

 わたしは笑うどころではなかった。水が怖いからプールの縁から離れたくない。けれども縁にしがみついていたら、泳げないことがバレてしまう。AかBか選択しなければならないが、どちらも選択したくない。同じようなピンチにその後も何度も追いこまれたが、今ふり返ると、この時がその最初だった。けっきょく、縁からちょっと離れ、水を飲むと、慌てて縁にもどる、をくりかえして胡麻化したが、何人かの級友には泳げないことを見透かされただろう。

 その年の夏休みの1か月余りの間、わたしは一日も休まずプールに通った。雨の日にも泳ぎに行って、当直の先生に訝しがられた。プールができたばかりで大勢の生徒が泳ぎに来たが、皆勤したのはわたしだけだったとおもう。おかげで夏休みの終りには20メートルのプールを行って帰るくらいは泳げるようになり、9月に笄小学校でおこなわれた港区立小学校水泳大会の出場者の一人に選ばれた。級友の前で輿石先生からそのことを伝えられ、笑顔で「がんばれよ!」といわれて、晴れがましかった。

 もっとも、水泳大会自体は散々だった。25メートルで折り返してゴールに向かっていると、水音をしのぐ声援が聞こえてきたので、じぶんが一番なのだとおもい、力をふりしぼってゴールに辿りつくと、ほかの泳者はとうのむかしに泳ぎ切っていて、あまりに遅いわたしを励ますための声援だったことが分かった。水泳を覚えてまだ1か月余り、じぶんの実力を知らなかったのだ。  

 また、その夏休みの間、あれほど勉強嫌いだったわたしが毎日机に向かうようになった。たぶん日曜日の夕方だったのだろう、庭いじりの好きだった父がストケシアの紫の花のそばに箒をつき、夕日を浴びながら私の質問に答えてくれた姿を覚えている。電機学校の卒業生だった父は算数につよく、鶴亀算でも植木算でも旅人算でも、たいていの私の質問に答えることができた。

 勉強と水泳がながく持続したことから見て、九九ができなかったことや泳げるとウソをついたことが私の心にあたえた影響の深さが逆算される。子どもが勉強を始めるキッカケは不思議なものだ。1年間沼津で遊び暮らしたこと、5年生になっても九九ができない恥ずかしさが骨身にしみたこと、泳げるというウソを帳消しにするため毎日プールに通って生活にリズムができたこと、それらが絡まりあって勉強を持続させたのだろう。2学期末の父兄懇談会で、輿石先生から「岩田クンはよく勉強していますね。私立の中学を受験してみてはどうですか」といわれ、母は喜んでいた。中高一貫のその中学は家から歩いて20分ほどの距離にあり、授業料が安く、我が家のような資産のない地方公務員の子どもでも通うことができた。

 その頃のことだとおもうが、理科室の掃除当番でたまたま輿石先生と二人きりになる時間があった。理科室にはガラス戸のはまった陳列棚に実験器具や標本が収めてあったり、床の台座の上に巨大なシャコガイが置かれていて、南洋に行った兵士がその二枚殻に脚を挟まれて溺れ死ぬという話に真実味をあたえていた。

 輿石先生は「岩田クンは理科が好きかい」といって、ポケットのタバコの箱から銀紙をはがし、それになにか灰色のものを包むと、「見ててごらん」といって、水を張った水槽に放りこんだ。たちまち銀紙から炎が噴き出し、ニンニクのような臭いが鼻を衝いた。先生は、

「花火みたいだろ? 化学反応っていうんだ、こういうのを。○○カルシウムが水に触れると、こういう化学反応をおこすんだ」

と説明してくれた。そのときはカルシウムというコトバだけが聞きとれて、○○は理解できなかったが、高校生になって、前後の状況を考えあわせて、それが炭化カルシウムだっただろうと推測した。また、輿石先生がその特別実験をしてくださったのは、わたしに実験の面白さを味わわせ、勉強に弾みをつけてやろうと考えられてのことだったろう、ということも推察されたのだ。

 輿石先生は、こんな風に、生徒一人ひとりに目を配り、それぞれのやる気を引き出して、勉強に導くことのできる先生だった。わたしたちのクラスは男子35名、女子28名だったが、男子のうちの6名が難関といわれたその男子中学に合格した。これは同学年の全6クラスのなかで図抜けて高い合格率だった。

 もっとも、輿石先生の思い出でもっとも強烈に残っているのは、こうした日常の学校生活での記憶ではなく、先生が折にふれて教室で話してくれた第二次大戦中の従軍体験だった。先生はいろいろな機会に戦場での体験を話されたとおもうのだが、70年という歳月の経過で、いま記憶に残っているのは2つの場面だけだ。その2つの場面については以前、2つの場面を1つにまとめて『百万遍』に書いたことがあるので、それを再録することにする。生徒たちに語りかける先生の姿を再現したくて、先生の一人称による語りの体裁をとっている。


 戦争中センセイは応召して、北支や中支で戦っていたんだよ。センセイの任務は機関銃だった。機関銃は重い。何人かいないと運べない。もっともセンセイは背が低いから、ほかの人が担ぐ機関銃にぶら下がっているときもあったけどね。

 深夜、暗闇の中で機関銃を運ぶのはキツかった。ある晩、大きな川にかけられた鉄橋を渡っていた。枕木の下にはなにもなく、はるか下の川面は暗くて見えなかった。ところどころ枕木がなくなっていて、戦友のひとりが踏みそこねて「ワー」と叫びながら落ちていった。軍隊では助けに行くことはできない。そのまま見殺しだ。

 戦闘があるたび戦友がひとりまたひとり死んでいった。明日は自分がそうなるかもしれない。ある日、大きな川の岸にでた。川岸に筏がつながれ、アヒルがまわりを泳いでいた。筏の上の小屋には大人や子どもが見える。あの人たちはどういう人たちなんだろう。土地の人に聞いてきた戦友の話でそれが分かった。

 その人たちは家族で、ずっと上流から筏に乗って流れ下ってきたのだそうだ。上流でかれらは、もっと上流から流れてきた流木を集め、それを筏に組み、その上に夜露をしのぐだけの小屋をつくる。それからアヒルの卵を買い求め、家族全員筏に乗りこんで、もやいを解く。やがて卵が孵って、ヒナが筏のまわりを泳ぎはじめる。数か月がたつ。ヒナはもう一人前の成鳥だ。そこで家族は大きくなったアヒルと、筏をばらした木材を売りはらう。そして、そうやって得たお金で陸伝いに上流にもどり、また同じことを繰りかえす。

 君たち、信じられるかい、そうやって生きている人たちがいるんだよ。

 

 ボクは十歳あまりの子どもにすぎなかったが、その家族を見たときのK先生の気持ちが分かると思った。毎日殺し合いをしなければならない先生には、悠久の川の流れのままに生きているその家族の平和な暮らしがどれほど羨ましく見えたことだろう。けれど、どんなに羨ましくとも、かれらは先生には縁なき衆生だ。いったん命令がでれば、先生はすぐにかれらを忘れて修羅の戦場にもどらなければならない。かれらと先生は生きている世界がちがう。かれらは生の側に、先生は片足死の側にふみこんで、あいだには越えられない川があるのだ。ああ、それにしても、かれらの筏とアヒルがなんと輝いてみえることだろう! 手に触れることができないものだからこそ、いっそう懐かしく感じられるのだろうか。

 K先生はその家族についてどう感じたか、具体的にはなにも語られなかったとおもう。戦場での体験は銃後の人々には伝えがたい。まして年端のいかない子どもたちには理解してもらえないだろう。先生はおそらくそう考えて、コトバを呑みこんだのであろう。

 けれど先生はその家族を見たときの曰く言いがたい感動を言わずに已むことはできなかった。殺し合いのむごたらしさ、いやでも戦争に引きずりだされる割なさ、残してきた家族への想い、脳裏をはなれない故郷の風景・・・「君たち、信じられるかい、そうやって生きている人たちがいるんだよ」という一句には、そうしたもろもろの想いが無言のまま託されていたような気がする。

    此岸の光景:「放課後のながくたのしい夕べ」 『百万遍』第5号


 引用後段の「K先生」は輿石先生、「ボク」は先生の話に聞き入っていた11~2歳の頃のわたしである。言うまでもなく、引用後段のような整然とまとまった感想が11歳や12歳の子どもに抱けたはずはない。先生からうかがった筏とアヒルの話は、その後のわたしの人生で幾度となく、思いかえし、反芻してきた。〈記憶は事実の再現ではなく、抑圧や願望によって歪められる〉とフロイトがいうように、先生の話も、成人後のわたしの願望----輿石先生は反戦の想いを生徒たちに語られた----によって歪められているかもしれない。

 輿石先生がわたしたちの担任だったのは1955(昭和30)年4月から1957(昭和32)年3月までの2年間だった。1955年はいわゆる「1955年体制」が成立した年、日本民主党と自由党が合同して自由民主党が結成され、半世紀をこえる保守勢力の覇権がはじまった年である。これにたいして社会党も同じ年に左右両派が統一して党勢拡大をはかったが、憲法改悪阻止に必要な3分の1の議席を確保するのが精一杯だった。また共産党がいわゆる「六全協」において従来の暴力革命路線を自己批判し方針転換したのも1955年だった。『事件・世相・記録 昭和史事典』(講談社、1984年)は1955年の総括の一部として、「この年までに、生産・流通の水準はほぼ第二次世界大戦前のそれに回復し、さらにこれをこえる勢いを示すほどになった。独占資本の体制はここに成立し、保守政党に対する影響力を強め、政界との密着の態勢がとられるに至った」と書いている。「逆コース」の動きが顕著になり、1950年に設置された警察予備隊が1954年に自衛隊に改組され、再軍備の動きが加速していった時代だった。

 そうした社会の趨勢にたいして、わずか10年余り前に血みどろの実戦を体験してきた輿石先生は、違和感と焦燥を抱いておられたのではないだろうか。教室で先生が「戦争はしてはいけない」とか「戦争は悪だ」といった反戦のコトバを口にされた記憶はないが、先生が自らの戦場体験をくりかえし子どもたちに語られた胸底には、戦争の是非の議論は別にして、戦場で目撃した事実だけは子どもたちに語り伝えておかなければならないという衝迫があったのではないだろうか。輿石先生は内なる反戦の想いをそういう間接的なかたちで表明されていたのだ、とわたしは考えたい。

 輿石先生が話されたことで記憶に残っていることがもう一つあって、それも先生の内奥の信条を推測させるとわたしは考えている。それは新憲法における天皇の地位にかかわる記憶だ。天皇条項の第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」を解説しながら、先生は、

「ほら、君たち、天皇の地位は主権の存する日本国民の総意に基く、と書いてあるだろ。つまり、国民の多くがそれを望めば、天皇をやめさせられるんだ」

といわれたのだ。

 ずいぶん思い切ったことを言われたもので、わたしの聞き間違いか勘違いではなかったか確かめたいのだが、先生には小学校卒業以来お会いする機会がなかったし、今ではすでに鬼籍に入っておられるので、ちょくせつ先生にお尋ねすることはできない。また同じ授業をうけていた級友たちに確かめたくとも、関西暮らしのわたしは東京で開かれる小学校のクラス会に出席したことがない。したがって、真偽不確かな憶測としていうのだが、先生は天皇制反対の考えを持っておられたのではないだろうか。300万の日本人、2000万のアジア人を死に至らしめた戦争責任を昭和天皇は果たしていない、と心の底で感じている者は多い。召集令状で中国戦線に引きだされ死線を越えてきた輿石先生が反天皇の心情を抱いていたとしても不思議ではないだろう。

 もう一つ、輿石先生にまつわる思い出があって、これを書くと老耄を疑われかねないのだが、事実は事実として記しておくことにしよう。

 2011年の民主党政権下で幹事長をつとめた輿石東という政治家がいたが、わたしはかれをテレビで見るたびに輿石先生を思い出し、血縁ではないかと夢想せざるをえなかった。比較的珍しい姓が同じであるうえ、眼窩の落ちくぼんだ顔貌が輿石先生に似ていると思ったからだ。山梨県の小学校教員だった輿石東は、山梨県教職員組合員として1958年から60年の勤務評定闘争にかかわり、その後山梨県教職員組合執行委員長から政界入りし、「参議院のドン」と呼ばれるほどの影響力をもつに至った。つまり輿石東は反体制的思想の持ち主だった。

 輿石先生の顔が輿石東に似ていたというこの考えは、時が経つにつれて、わたしのなかで思い込みにまで強まってきていたのだが、数年前、その思いこみを揺るがす出来事があった。上述のように、わたしは小学校のクラス会には出席したことがないのだが、東京にある中高一貫の母校の、京都地区での同窓会には出席していて、そこで数年前、同じ小学校から同じ中高に進学した3年後輩のKさんに出会ったのである。Kさんは、わたしの子ども時代に我が家の斜め向かいに住んでいた幼馴染の女の子と小学校で同級だったそうで、輿石先生のこともよく知っていた。わたしがとうぜん相槌が返ってくるものと思いながら「輿石先生は輿石東に似ていましたね」と問いかけたところ、Kさんは言下にそれを否定した。二人の似寄りなど考えたこともないという口振りに、わたしの思い込みはグラついた。おまけに、Kさんの記憶では、輿石先生は「中肉中背で、どちらかというと太りじし」だったという。わたしの記憶の「小柄で、引締った体つき」とはだいぶ喰いちがう。

 わたしは同窓会から帰ると、未整理の古写真がいれてある泉屋のクッキーの缶から小学校時代の写真を探しだした。輿石先生の写真は、遠足時の生徒との集合写真、遠足時の6年担任の先生たちだけの写真、卒業式の日の生徒との集合写真と先生全員の集合写真、6年次の恒例行事だった箱根林間学校と沼津臨海学校での写真など、スナップ写真1枚を加えて全部で8枚見つかった。ひさしぶりに見たそれらの写真はどれもこみ上げるように懐かしい。箱根での写真では、先生は箱型の2眼レフのカメラを首から下げていて、それが先生愛用のカメラだったことを思い出した。沼津の写真では、日蓮上人が上陸したという我入道海岸の海食洞の前で、先生も生徒も裸で写っていて、先生は「太りじし」というより、「中肉」か「引締った体つき」のように見える。5人の担任の先生が写った写真では、輿石先生より背が低い先生もおられるので、Kさんのいう「中背」のほうが当たっているようだ。わたしの記憶の「小柄」は、戦友の担ぐ機関銃にぶら下がることもあったという先生の従軍談に引きずられて、記憶が歪められたのだろう。

 今回、古写真が入れてあった缶のなかから、輿石先生と師範学校で同期だったI先生の母宛ての手紙(昭和63年消印)が見つかり、読んでみると、じぶんは当年72歳になると書かれていた。それから計算すると、1955年、56年には輿石先生は39歳、40歳の男盛りだったことになる。その数年前に一世を風靡した「君の名は」に主演した佐田啓二にちょっと似た好男子である。

 いっぽう民主党の幹事長になったころの輿石東は75歳をこえていて、壮年の輿石先生とは比較するのがどだい無理だが、ネット上に出ている5、60歳ころの輿石東の写真と比較すると、奥眼や額の感じが似ていなくもない。とはいえ、輿石先生の出自や血脈についてはなに一つ分っていないのだから、輿石東との似寄りを云々するのは老耄以外の何物でもない、ということになるだろう。

 残念だったのは、Kさんが輿石先生の従軍体験や天皇条項の説明を聞いたことがなかったことだ。そうなると、輿石先生の情報を入手する手段は級友に聞くことしかないことになる。Kさんと話して以来、わたしはじぶんが抱いていた輿石先生のイメージに自信がもてなくなってきた。わたしが覚えている筏とアヒルの話はそれなりに筋が通っていて説得力があり、その全部がわたしの作り物であるはずはないが、細部にはわたしが付けくわえたり、作りかえた部分があるかもしれない。そういう夾雑物をとり去って、大河を上り下りして生活していた中国人家族の筏とアヒルの話を、先生が教室で話されたとおりの形に戻してみたい。級友たちも80歳を越え、記憶も薄れているだろうが、なかにはこの話を覚えている人がいるかもしれない。先生が教室で話されたときの生のコトバが耳に残っている人もいるかもしれない。そういう級友たちの記憶の断片を寄せ集めれば、よりオリジナルな形の筏とアヒルの話が見えてこないものでもないだろう。

 また天皇条項の説明についても、それに関連するような話を先生から伺ったことのある級友がいないともかぎらない。というのは、先生は卒業後のクラス会に何回か出席してくださったと聞いているからで、その席で先生がごじぶんの信条に触れられる機会がなかったとはかぎらない。級友の一人は、父親が日本共産党の所感派・国際派の分裂で辛い立場にあったとき、小学校1年2年の担任だったT先生から慰められたことがあると話していた。もちろんこれは別の先生の話だが、小学校の先生であっても、成人した卒業生に個人的信条を吐露されることがないとは言えないだろう。

 いずれにしても、つぎの小学校のクラス会にはたとえ関西にいてもぜひ出席して、輿石先生の戦場体験や天皇条項の説明について級友たちと話し合ってみたいという気持が強まってきた。考えてみると、小学校卒業以来70年間、輿石先生からなにかを新たに教えていただく機会は一度もなかったが、80歳を過ぎてなお、小学校で先生からうかがった話を思い出し、その話をされた時の先生のお気持ちをアレコレ忖度している。ということは、先生の教えが今なおわたしのなかで生きて働きつづけていることに他なるまい。これほど生涯の師というコトバに沿(そぐ)うことはないだろう。

                      (了) 

 

 目次へ


 

©  百万遍 2019