閑中忙あり


  

  閑中忙あり                                          木内 義勝




意志の力 ~現実を変える可能性~



 何かの罰として、10kgのものを背負わされ、10km向こうまで行ってまた戻ってこいと命令されたら、だれでも気が滅入るにちがいない。ところが同じように荷物を背負い、しかも急坂を苦労して登った挙げ句に、アア気分がせいせいした、ストレス解消になったと喜ぶ人が一方でいる。登山を楽しむ人たちである。物理的には両者とも全く同じことをしながら、自分の意志に基づいて何かをするかしないかで、大きな違いが結果として生じてしまう。

 

 個人消費はいっこうに浮揚せず、現在の景気低迷には、まだ薄日もささない。世の中全体が沈滞し、暗いニュースがあふれて、気はふさぐばかりだ。しかし、私は最近、ノーマン・カズンズの『ヘッド・ファースト』という本を読んで、人の「心の力」つまり「意志の力」が、体という現実を大きく変える力があることを知り、大きな示唆を得た。すなわち、意志の力とか期待感が、身体を生化学的に変化させ、体を治す免疫力を高めるというのだ。

 「病は気から」というが、カズンズは次のように書いている。

「長い間、深い悲しみやウツ状態にあると、免疫系に悪影響が及び、悪い微生物と闘い異常な細胞の成長を抑える体の力が低下することが、医学的に証明されている。パニックもまた病気を悪化させる要素である。」

 一方で、生活全般に対して、あるいはよしんば体調を崩して病気になっても、積極的に立ち向かってゆこうとする人には、おのずと高い免疫力が備わり、病気を克服する力が高められる。実際、NHKでも、先ごろ『人はなぜ治るのか』という3週連続の番組の中で、ガンにかかった人ですら、気持ちとイメージの持ち方によって、病魔を克服した例を取り上げている。

 私たちはともすれば、体調の不具合とか目の前の不安に満ちた現実に対して、どうしようもないものと思い込んであきらめる傾向を時として持ちやすい。しかし実際は、自分の意志とか行動によって、思いのほか、不動と思われている現実を変える余地があるように思われる。その典型が、「情報」に対する接し方であろう。

 「情報洪水」という言葉が現在はよく用いられる。受け身で受動的に情報に接している人には、なるほど洪水のように情報が押し寄せるだけであろう。しかし、自分から踏み込んでいく「問題意識」を持つ人にとっては、情報の多さは少しも苦にならないどころか、追い風として利用していける。奇妙で不公平にも思えるが、何かハッキリと自分の課題を抱えて積極的に動き「発信」している人ほど、さらに情報が集まりやすくなっている。

 近江商人の中ですぐれた家のひとつであった中井家の家訓に「不景気などと云うて不勘定になるは、無精の家なり」というのがある。不景気だから結果が悪くても仕方がないなどと逃げ口上を張って、自分を慰めてみても無益である。とすればヘッド・ファースト、すなわち自分の気持ちと行動パターンを変えることによって、現実をわずかでもかえてゆく可能性に賭けた方が望ましい。

 ゲーテも「生きている限り、いきいきと生きよ」と我々を励ましてくれている。              

(1993.12月)


 



「途中」の楽しみ

 

            

京都から松本まで

 私は学生時代に、京都から松本まで友人とふたりで歩いて帰ったことがある。真夏であった。目的らしきものはない。たまには歩いて帰ってみようと思っただけである。知人や先生の家に泊めていただき、知り合いのない土地ではお寺に宿泊をたのんだ。14日かかって約360kmを歩いた。名古屋球場でプロ野球を見たりして楽しんだ4日間を除くと、1日平均にしておよそ36km(9里)のペースで歩いたことになる。

 京都の山科を発ち、草津、彦根、関ヶ原、岐阜、名古屋、瑞浪へ出て、中津川の北にある落合から木曽路に入った。読書村からは、大平峠を越えて飯田に下りた。さらに、伊那から杖突峠を経て諏訪に至り、松本まで帰ってきた。大平峠越えの山道48kmがきつかったことと、歩き始めの3日間ほど悩まされた足のマメの痛さを除けば、概ね快適な旅であった。車や列車で付近を通りかかると、30年近くも前のことなのに、当時の休んだ場所などを今でも懐かしく思いだす。歩く旅は、歩いた道筋の思い出を深く心に刻み付ける。


昔の街道のおもむき

 道中でいちばん印象に残っているのは、中山道の旧道である。落合から馬籠へ木曽路に足を踏み入れると、往時の街道が今も姿を残しているところがある。道の両側には杉並木が植えられ、少し勾配がきつい場所には、石畳まで敷かれている。一服するのにふさわしい所には、湧き出す泉がおあつらえ向きに用意されていた。行き交う人は、向かう先の宿のことや食事とかうまい酒について、お互いに知っていることを交換しあったにちがいない。まるで街道での会話が、古い時間の底から今にも沸き上がってくるような気がした。

 徒歩旅行の全体を通じてもう一つ思い出深いことは、飲み水にとても敏感になることと、夕方の食事が実に待ち遠しかったことである。水と食物が体を支えてくれることを改めて知っただけではない。それ以上に、まるで自分の体が今までとは別の生き物になって、貪欲なまでに食べることを希求するという風であった。これは、鮮烈な体験であった。


道中を楽しむ

 自分のささやかな経験から考えて、昔の歩く旅は、いまの感覚で想像する以上に快適であったと思う。たしかに、今なら数時間で行けるところを何日間もかかって旅するのは、不便この上ない。緊急を要する商取引の話とか身近な人の急病に対応するには、いかにも心細い交通・通信体系であった。また、お年寄りや体の弱い人でも旅にでられる現在の便利さは、本当にありがたいものだ。しかし、このように思うのは、現在の感覚で歴史を遡った結果であって、当時は世の中のみんなが旅とか通信はそういうものだと思っていたはずであるから、不便さや欠如感は、現代人の思い込みを投影しているだけかもしれない。

 なによりも昔の旅は、歩く道中そのものを楽しむことができた。この点、目的地に着くことを第一とし、途中はいわば無駄な過程として軽視しがちな車とか列車の旅とは、対照的に異なる。さらに、これは実際に歩いてみるとよくわかるが、旅を始めて数日たつと、歩くことに足がなじんできて、体全体の調子がだんだんに整えられてくることを実感できる。自分の足で歩き、しかも日に日に体調が上向くのを感じられるのは、この上ない快感である。


多様な旅を可能に

 長野県では昨年10月から新幹線が長野市まで開通した。長野市と東京が70分余で結ばれたことを機に、松本までも在来線の時間短縮を求める運動が盛り上がりつつある。

 現在は、松本~新宿間が特急で2時間半から3時間近くかかるから、一般的にいえば、たしかにもう少しの短縮を望む人も多かろう。しかし、短縮のための運動をすることと同時に、旅の車中を楽しめる路線であることをもっとPRできないかとも思う。つまり、新幹線より時間がかかることをマイナスとして捉えるだけでなく、現在の中央線には、それなりの「良さ」があることを強調できないかということである。スピード゙だけがすべてではない。また、すべてが時間を競うビジネスの旅ばかりではない。ある程度の時間をかけ、ゆったりと車窓の景色を眺めながら信州に入るのも、日常性から離れて旅心を満喫させる面で、ひとつの楽しい旅のありかたであることを前面に押し出すこともできよう。

 昔の歩く旅で道中をゆっくり味わうことができたように、現在の列車の旅でも、その途中を楽しむことができる。私自身についていえば、好きな本を読んだり、会社の同僚と普段とはちがう雰囲気で思うままに話ができる現在の「あずさ号」に、何の不満も感じないばかりか、出張が楽しみですらある。車中の時間は、目的地までの無駄な時ではなく、私にとっては、とても貴重な楽しみの時間となっている。

 短時間で着きたい人や乗物の嗜好にこだわる人は、東京から新幹線で長野へ、あるいは大阪からジェット機で松本へ入ればよい。ゆっくりと情緒を味わいながら信州の旅を満喫したい人は、新宿から中央線を選べばよい。すべてをスピードと時間という尺度によってひとくくりにするのでなく、信州への旅には、さまざまな好みに応じたいくつもの道があることを、外の人に対して余裕をもって示してあげたらよいと思う。

        『信州の旅』1998年春号より                





ホノルルの“星空コンサート”



 1976年から1981年までの足掛け5年間を過ごしたホノルルを思い出すとき、いちばんなつかしいのはワイキキ・シェルの「スターライト・コンサート」(星空コンサート)である。

 このコンサートは、ワイキキからダイアモンドヘッド寄りの野外音楽堂で、7月から8月の土曜日を中心に夕刻から開かれる。中心角およそ60度ほどの扇形会場のかなめの部分には、高さ10ⅿほどの貝状(シェル)の音響反射板が据えられ、ステージに近い部分が椅子席、ステージからおよそ3分の2くらい離れた所からは芝生席になっている。全体で400人くらいは入れたと思う。

 芝生席はたしか5ドル前後であったろうか。椅子席の半額ほどの入場料であったと思う。われわれ貧乏留学生が陣取るのは、もちろん芝生席であった。演奏のはじまる1時間以上もまえから会場にはいり、芝生のうえにシートを敷き、アイス・ボックスにひそかに忍ばせて持ちこんだワインやビールを飲みながら、ププ(おつまみの総称)をつまみだすと、もう気分は立派なピクニックである。ついでながら、勤勉なプロテスタント色が建てまえとして濃厚であるアメリカでは、このような場合、アルコール類は公然とではなく、ひっそりと持ち込みたい。持ち込み自体は、けっして法に反しない。

 陽が傾きはじめ、ダイヤモンドヘッドが紅に染め上げられる頃になると、オーケストラはそろそろ音合わせをはじめる。われわれ先行ピクニックグループがワインの酔いで快適度100%に至るとき、演奏が始まる仕掛けであった。はじめは身を起こして聴いているが、なにしろ適度の酔いと寝転がるのにおあつらえの芝生が用意されているとあっては、自然の成り行きに従うほかはない。

 1曲終わる頃には、暗さを増した空に星が輝き始め、まさにStar Light Concertの趣きを呈するようになる。私は、仰向けに星を眺めながら、レナード・バーンスタインが指揮するニューヨークフィルを聴いたときなど、こんなぜいたくで「罰当たり」のことが許されてよいのかと思ったものだ。

 たぶん日本が今や巨大な音楽市場になっているためであろうか。日米の中間にあるハワイは、ソロ演奏家あるいは演奏団員にとって、移動の合間に得られる格好の息抜きの場であったにちがいない。そのためか、ワインで酔った当方はともかく、どの演奏家ものびのびと肩の力を抜いて、心から楽しみながら音を奏でているように思われた。服装も、男はバロンシャツ、女性はムームーなどハワイ風の軽装であった。演奏の合間でも、ほとんど咳払いは聞かれない。聴衆も、心身ともにリラックスして、音楽を楽しんでいる風情である。ただ困るのは、時として、飲んで寝込んでしまった近くの人から、イビキが聞こえてくることである。そのような場合は、アメリカ人も我々と同様、「あなたはいつもこうなんだから・・」と奥さんがブツブツいいながら旦那を揺り起して一件落着となる。

 ハワイの気温は年中ほとんど変わらないが、それでも日本と同じ頃が夏であり、夏は雨が少ない。ちなみに、冬は雨が比較的多くなり、ダイヤモンドヘッドは緑の衣装をまとう。スターライトコンサートは、季節の特性を活かして夏に開かれるが、いま思い返してみると、野外であるため、アンドレ・ワッツのピアノなどソロ演奏は、場所柄すこしもったいない気がした。時々、軽飛行機の音が混じったりしたからである。とはいえ、演奏者も聴衆も音楽をこころゆくまで楽しむのに、ワイキキシェルを舞台に続けられるこのようなコンサートの雰囲気は、つくづくうらやましいと思った。

 信州でも、どこかで夏の夕刻、定期的にこのような気楽で楽しい音楽会が開けないものだろうか。私が知らないだけで、すでにあるのかもしれないが、その場合はぜひご教示願いたい。        

           『信州の旅』No.108 1999春号





「慣れ」のこわさ



 私はテニスを40年以上も続けている。しかし最近、ストロークについて、今まであたりまえだと思っていたことに大変革を迫られた。その経過をきいていただきたい。

 小中学校時代は、軟式野球に明け暮れた。中学2年時に学校チームの一員に選ばれ、1番を打った。野球のボールは、腰の回転で打つ。腰のひねりに乗せてボールを飛ばす。

 高校に入って、軟式テニスを始めた。テニスの場合は、打球方向に腰を地面と平行に移動させながらラケットを振る。私は先輩の言う通りに、素振りを何千回となく練習した。

 そのお陰で、野球で癖のついた腰の回転運動が、平行移動に改められ、ボールのコントロールは格段に向上した。3年の時には、インターハイ(新潟)に出場することができた。

 私の誤りは、ここから始まる。そこそこの良い成績を収めたために、テニスのストロークは腰の平行移動を伴うものと思い込んでしまったのだ。

 大学へ入ってから硬式テニスをボツボツとやるようになった。部へは入らず、上手な人のフォームを自分なりに消化して取り入れた。ホノルルの東西文化センターにいたときには、シングルスの大会で優勝したこともあったが、テニスについては、古い考えのままであった。20年ぶりに松本へ帰った時には、すでに30代の終わりにさしかかっていた。長野県全体レベルのダブルス大会で2位(1回)3位(2回)になった。残念ながら、ここでも、自分のテニスを冷徹に見つめなおす機会を逸した。

 このような状態できた私の前に立ちふさがったのがKさんである。Kさんの正確なストロークと球の重さには、シングルスをやるたびに感心し圧倒された。さすが長野県選手権シングルスの2年連続優勝者である。1時間くらい打ち合うと、私の右腕が鉛のように重くなり、時には痛みすら生じた。私は、Kさんと1時間打っても腕が平気でいられるような打ち方の工夫を始めた。

 そんなある晩、テレビのプロ野球で、ホームランを打つ場面に眼が釘付けになった。腰を中心にバットが円運動を描き、回転ベクトルの極点で球が捉えられたときホームランが出ることが見て取れた。体の全体が回転力として球を打つのに使われている。これほど効率的な方法はない。テニスもこの点で同じではないか。テニスは腰の平行移動で、野球の打法は回転運動だと別物に考えてきたが、共通性があるのではないかとふと思った。

 ホームランにヒントを得てからフォームの改造に1年余を要した。最近は回転力を活かして、とても楽にボールが打てるようになった。Kさんとはまだ勝負にならないが、2時間近く打ち合っても全く腕が痛まないことがうれしい。そして、奇妙だがテニスがさらに楽しくなった。サーブやスマッシュにも、この調子で再検討を加えたい。

 長年にわたって続けていることも、時には根本から疑う必要がある。そのことを、テニスにまつわる経験から感じた。以前に読んだ論文や本も、いま読めば、まったくちがった姿と内容を現すかもしれない。慣れていると思っていることこそ注意が必要だ。将棋の米長九段によれば、「一流とは、いつも自分が二流であると思っている人」だという。向上を望むなら、手慣れた考えを崩して再構築する作業が常に必要だと思う。





「生きる意味」に苦悩する若者

                         

 「私は家でも音楽を聴いたりしてボーとしているし、大学でも授業中は居眠りをしてなんとなく先生の話を聞いています。私は本当に生きているのでしょうか。」

 これは、本学の女子学生が、授業に対する感想に付け加えて書いたものである。せっかく勉強ができる機会を与えられているのに、もったいない、ぜいたくだと思われる方が多いかもしれない。しかし、現代の若者たちは、生きる方向を見つけるのに苦労しているのだ。

 60代後半の私にとっても、人生の目的はと問われたら、明確な答えは出せない。この問は、いわば「永遠の問」であり、生きる中で自分なりの答えを手探りで見出すしかない。とはいっても、現代の若者は、「この時代特有の苦悩」にさらされているように思える。

 歴史を振り返ってみれば、江戸時代は士農工商の身分制がはっきりした時代であった。その時代の主要な関心は、厳しい社会的差別への闘いと諦めに近い妥協であった。明治になると、西欧列強へ追いつくために、富国強兵と殖産興業が時代の主調音になった。形式的にではあれ身分制がなくなり、メリットクラシー(能力主義)に基づく立身出世の道が開かれた。やがてこの風潮は、昭和になって軍国主義と結合して、太平洋大戦の終結まで続く帝国日本の翼賛体制を現出させた。

 戦後になると、アメリカの占領政策により、民主主義が日本に「移植」された。重要なことは、そのとき同時に、圧倒的に豊かな物質文明を有するアメリカ的な生活様式が、求めるべき理想として日本にもたらされたことである。一生懸命に勉強してよい会社へ就職すれば、さまざまな家電製品に囲まれた豊かな生活が現実のものとなる。この思いは、昭和30年代半ばからの高度成長経済を消費者の側から支える力強い牽引力となった。英語に、Keep up with the Joneses. という言い方がある。近所の人に負けまいと見えをはるという意味である。高度成長期からバブルが崩れるまで、冷蔵庫、テレビから、自動車、クーラーに至るまで、私たちはせっせと「モノ」の環境を人に負けまいと整えてきたともいえる。

 現在20歳の学生が生まれたのは、1982(昭和57)年である。生まれて物心つく頃までには、各家庭に電化製品は行き渡り、新幹線や高速道路が日本の主要都市を結ぶ時代となっていた。家庭でも社会でも、モノや社会的インフラ(基盤)に関する限りほぼ整備が終わった時代に生まれ育ってきた。しかも、精神面では、以前の世代が同調あるいは反発する対象としての「時代風潮」はもはや不在であった。身分制~富国強兵~立身出世~軍国主義~アメリカ的生活様式などの支配的な風潮が社会に満ちていれば、生きる意味を考える苦労がかなり減殺されることもあろう。だが、制約のないことほど重荷のものはない。現代の若者は、「自由の重荷」に直にさらされているともいえるのだ。

 近頃の若い者は、やる気がない、目標を立てられない、根気がない、礼儀を知らないなどとよく批判される。しかし、物質的に恵まれ、支配的な時代風潮や価値観が不在で、しかも頼るべき信仰も持たない多くの若者は、意識するとしないに拘らず、生まれたときから自分の生きる意味を「実存的に」問う立場に置かれている。これはこれで、以前の世代が抱えたものとは別種の苦しみであると思う。自由の海に漂う若者のうめきに耳を傾けてほしい。

(2002年執筆)





Prepared speech for the club contest (draft) 

         February 25, 2012                                   

                         

Title: How to cope with our bodies?


  Good afternoon, ladies and gentlemen! And thank you, Contest Chair for giving me this opportunity.

Today I will talk about our bodies and a healthy way of living.  

  Do you like to taking medication ?  Do you enjoy the pain of an injection?  As for me, I don’t like those things at all. It may surprise some of you but  there are masochistic people who love injections or medicine. It’s shocking.  Of course I am not one of those people. And I have had nothing to do with medicine, injections or doctors for more than forty years.

  Until I was about twenty years old, I often consulted doctors when I caught a cold. Because I had tonsillitis, my body temperature would quickly rise to 39 or 40 degrees when I had a cold. After repeated visits to physicians, I gradually began to believe that I should somehow manage and control my body by myself.  As you know, we are in control of our own bodies. Why should we surrender to the orders of experts called “doctors” when we feel sick or in poor shape?  Isn’t it possible to find another way which allows us to control our bodies without consulting doctors?

  When I was about 25 years old, I happened to read an article in a newspaper and began to rub myself with a cold wet towel to evade from the cold. It really worked. I had been able to live without cold for some years in those days.  At the same time, I was searching for alternative medical treatments. I discovered the “Seitai” method by Mr. Noguchi Haruchika. The Seitai method is basically rooted on the conception that our bodies have a strong, magical power of natural healing. Seitai resembles chiropractic in some respects. However, it is quite different in philosophy.  

  According to the Seitai treatment, a cold has prominent healing powers that  correct and adjust imbalanced energy in our bodies. Understanding that idea, I quit rubbing my body with a cold wet towel. I also quit taking medicine and getting injections when I caught a cold. Furthermore I came to think that a fever caused by a cold is necessary to attack viruses or other bacteria. After I read a variety of medical books, I found that counter immune materials in our bodies are quite different corresponding to the temperature of the body. For example, when the body temperature of 37 is insufficient to kill the viruses or bacteria, our wise bodies raise our body temperature to 38 or 39 degrees to attack them. From these examples, we can recognize that our bodies are incredibly well organized and orchestrated.  

  These experiences resulted to me avoiding all medicine and injections, thus   I have not consulted any physicians for the last forty years. Ironically enough, I am personally acquainted with more than ten medical doctors who often   offer to visit if I ever need them. But I have not required their services   during the same 40 years period.

  I remember a certain saying about our health. The saying is as follows; “Before consulting any medical doctors, we should first consult Dr. Food, Dr. Exercise and Dr. Sleep. “  This is quite a good yet simple way to keep our bodies healthy.  This is one reason why I have played tennis for the last forty years.  Tennis has been the most effective medicine for me.

  In the contemporary Japan which is full of a variety of advertisements, we are saturated with commercials related to some kind of medications. In reality, it is not easy to live our lives without taking any medicine or supplements. 

  However, we should not depend upon medicine or medical doctors. It is important to understand that our bodies have excellent healing power. In the United States, a book titled “Natural Cures” by Kevin Trudeau sold more than ten million copies. The book has been translated into Japanese and   titled “How to avoid consulting doctors?” It has also sold well in Japan. I know of course that the Seitai or other alternative medical treatments do not cure every disease. However I feel now the time has come when we have to consider our bodies and health based on our own principles and philosophies instead of easily resorting to medicine or doctors. A new concept on health is gradually prevailing.  Thank you for listening to my speech.  

                            (5 to 7’30 minutes speech)                                           






修善寺楽派諸兄(高校の同級生)

              平成26年4月30日

                                 

「検察庁での通訳について」



 平穏無事な毎日を過ごされている諸兄にとって、刑務所とか検察庁・裁判所などは無縁のところと思います。でも、そうであるからこそ、中をのぞいて見たくなるのが人情かもしれません。私は時に応じて、警察・検察庁・裁判所から英語の通訳を依頼されて出掛けることがありますので、簡単な現場報告をさせていただきます。


配置:自室の窓を背に座った検察官の左手前方に書記、右手に通訳が座ります。検察官の向かいに机があり、警察官二人に警護され布で隠された手錠と腰縄を付けた被疑者が着座すると、手錠が外され腰縄はそのまま椅子の足に結ばれます。警察官二人は、そのまま背後に控えます。

審理:最初に通訳の宣誓がなされます。宣誓は、審理が複数回に及ぶ時には、省かれることもあります。

 I swear that I will do my best to interpret as sincerely and correctly as possible.


次に、黙秘権と弁護人選任権について、説明します。

 You have the right to remain silent. In other words, when I ask you questions, you may keep silent all the time or refuse to answer any particular questions.

 You have also the right to select your defense councils. If you have any contact with a particular defense council, please inform us of it.


 この手続きを終えると、さっそく「被疑事実の要旨」の説明に入ります。

 Now I will inform you of the charge against you.


 検察官から渡される要旨を英訳して被疑者に伝えるのですが、この要旨は悪文の典型ともいえるものです。例えば「被疑者は、・・・・・傷害を負わせたものである。」という少なくて数行、多い場合は10数行に及ぶ文章は、間に(。)もなく、一気に最後まで突っ走ります。私は、勝手に内容ごとに短文化して英語に直しています。何年か前、最初にやった時は、本当に冷や汗がでました。

 写真や図面を用いて、事件あるいは事故の詳細が確認され、供述調書がつくられていきます。検察官と書記は、それぞれのパソコンを使いながら画面を共有していますので、適宜、文章の修正が検察官から行われます。余談ながら、この作成過程で通訳にとっていちばん楽ができるのは、被疑者の日本滞在がそこそこに長く、日本語が話せる時です。検察官と被疑者がお互いに日本語で話をし、ややこしい言葉があって相手に通じないと思う時だけこちらを見ますから、そのような視線を受けた時だけおもむろに通訳すればよいわけです。こういう“通訳”なら大歓迎と言えるでしょう。

 やり取りの終わりとともに供述調書がまとめられると、最後に数頁に及ぶ調書を英語で被疑者に向かって読み上げ、記述内容に同意を得ます。この説明は、被疑者の日本語能力の有無に関わりなく必ず英語でなされなければなりません。私は、sentence by sentence で、一文章ずつ相手の同意(うなずき)を得ながらこの作業を進めます。ざーっと一気にやるより、ゆっくりでも、結局はこの方法が確実で早いことに気付いたからです。

 被疑者が供述内容の全体に同意すると、サインが求められます。印鑑を所持している例は今までにありませんでした。代わりに左手の人差指(index finger)に黒い印肉を付けて調書の各頁右下に指紋を押します。被疑者が最後に自筆サインと指紋の印を押して終了です。


感想等:

今までに、オーストラリア、ガーナ、スリランカ出身者の通訳を務めました。最近は、中国、ブラジル関係の事件・事故が多いと付き添いの警察官から聞きました。数年前まで長野県では、中信と東信に通訳を要する案件が多かったようです。警護の警察官は、付き添いに二人、事務処理に一人、計3人が半日近くも拘束されて、ただでも忙しいのにとてもやっていられないよとぼやいていました。

 事件・事故は、交通違反、酒気帯び運転、私有物破損、強姦容疑、脅迫(外国人女性の日本人男性に対する脅し、愛人関係のもつれ?)、公務執行妨害などです。守秘義務がありますので、詳細はお伝えできません。殺人事件は頼まれても断るつもりです。

 困ることは、被疑者が自分に都合悪いことになると、意図的に?早口でわかりにくい英語を喋りだすことです。これは、我々にもよくわかる心理です。その時は、ふだん「ほとけの木内」と言われている私も、こわもてを装って、Repeat ! Speak slowly and clearly! と大きな声で命令しますが、うちのカミさんからは、そんな細い目をして叫んでも相手はビクともしないと皮肉を言われました。(笑)

 酒酔い運転で勝手に他人の自動車を運転して逮捕されたオーストラリア人は、警官に伴われて拘置所に戻るとき、もう決して酒は飲まないと私にささやきました。私は、You had better not say that.  You can enjoy moderate drinking. と返事を返しました。困難な場面でも、無理したことを言明してはならないと私なりに思ったからです。彼が、にっこりとほほ笑みかえしてくれたのが救いでした。

                                   (以上)






得難い修練道場CDI



 残された自分の命に関わらせると、50年は哀しいほどの長さを有している。しかし、2500年ほど前のソクラテス・仏陀の教えや900年も昔の鴨長明の著書に今も親しんでいることを想えば、社会に表面的な変化が生起するのではあろうが、50年はそれほど長い時間幅には思われない。編集長からの厳命に基づく五〇年後への提言は後段に譲り、まずは初期メンバーの一人として創成当時のCDIについて述べることをお許し願いたい。


設立当初のCDI

 創立後1年が経った1971年に、私はCDIに入社した。初めは、スポンサーとしての京信(京都信用金庫)の顧客向けに月一で配布する広報紙の編集に携わった。やがて、京信の50周年に向けた記念事業が本格化するとともに、私は「コミュニティバンク論」をまとめることに力を注ぐことになった。「京都庶民生活史」発刊のために下坂守さんが加わり、さらに疋田正博さんには京信で50年史の執筆に当たってもらうことになった。

 研究の面では、川添登先生を中心に、図書館、美術館、博物館などを巡る「文化行政」についてのプロジェクトが進んでいった。さらに、京信の依頼を受けて市内各所の支店を新設・改築する「空間計画」が本格化し、CDIは、菊竹清訓建築事務所(建築)、栄久庵憲司所長のGKインダストリアルデザイン研究所(道具)、勝井三雄事務所(サイン計画)の三社をまとめ、施主の京信との間に立って、与件の調整を行ないながら具体的な実施計画をこなしていった。ここでの成果は、後にいくつか建築学会からの受賞に輝いた。打ち合わせに臨む京信の榊田喜四夫理事長が漂わす威厳と存在感は今も強く印象に残っている。


斬新な雰囲気

 70年代は、石油危機とか浅間山荘事件などがあったとはいえ、基本的に経済の高度成長が続いていた。加えて、加藤秀俊、川添登両先生を主軸に諸先生方がもつ豊かな人脈のおかげで、やがて大きな依頼案件が次々に持ち込まれ、研究員の陣容も整えられていった。波多野進さん、矢野のり子さんが加わったのもこの頃である。76年には、ホノルルの東西センターに転出した私と入れ替わるように高田公理さんが入社した。

 京大の米山俊直先生の研究室に属する何人かの大学院生や学部生も研究調査に参加した。舌鋒鋭い上野千鶴子さんもその院生の一人であった。CDIを構成する「株仲間」の先生方は、それぞれの分野で日本を代表する立派な方々である。時としてさらに、鶴見俊輔、西堀栄三郎、森政弘、星新一、今和次郎の諸先生方が気軽にお立ち寄りになり、刺激に満ちた空気を事務所に齎してくださった。桑原武夫、今西錦司、貝塚茂樹先生が研究会に参加された時など、担当責任の研究員が何に一番苦労したかと言えば、味にうるさい先生方に納得していただく夕食の席をどこにするかだったと聞いて、まさに京都だと思った。CDIに関係する先生方は、おしなべて、威張らず、若い研究員の考えもよく聴いてくださり、旺盛な好奇心を保ち、底知れない知識の蔵からユニークな考えを提示してくださった。

 Image Box(談論ルーム)での研究会は、真面目なふつうのものと異なり、実に風変わりであった。先生方は、部屋の棚にキープしてあるウィスキーから、それぞれの好みに応じて飲み物をつくり、ご自分のペースでのどを潤しながら議論を展開される。しらふなのは、部屋の隅で速記を取る一人の女性と、われわれ若手研究員だけであった。このような肩の凝らない空気の中から、斬新なアイデアが次々に繰り出されていった。時にきこしめして高らかないびきに憩う小松左京さんを尻目に、何事もない様子で議論は進行した。あまりお話しにならずに晩酌をゆったりと楽しんでおられる風情の梅棹忠夫先生は、ひとわたり議論が尽くされた時にやおら姿勢を正して「それは違うな! こうやないか!」と一声発して、話の流れをまったく別の方向へ向けてしまうのが、しばしばであった。私は二十代後半の一研究員として、奥深い世界をお持ちの諸先生方が柔軟な発想と着眼点の妙味を自在に発揮される場に同席出来た幸せを今に思う。身近な先生方から得た様々な教訓と姿勢が私には今も貴重な指針と財産になっていることを思うと、お声をかけていただきこの世界に導いてくださった加藤秀俊先生への感謝の念は尽きない。思えばCDIのような心華やぐ自由闊達な談論空間が五〇年後にも国内各地で「棲息」していれば、日本の社会は健全といえよう。


50年後への提言

 50年前の二十代の半ば頃から、私は自分の「身体と心」にどう処していくかを考え始めた。学生時代から常に思考の中心にあった「疎外論」を昇華させた末の到達点でもあった。仕事の面では、日本でもアメリカでも人文社会科学的なことに専念し、帰国後は三つの会社の取締役として20年ちかくビジネスの世界にも携わってきた。それでも底流には変わりなく「心の平穏をもたらす仏教の教えと身体論」が関心の中心にあった。

 身体論を考究した結果として、私はこの50年間、薬、注射、医者とは無縁で、健康保険証は、孫を含め家族全員が歯科以外には使ったこともない。高校時代のインターハイ以来、60年近くもテニスを続けているおかげもあろう。西洋近代医学に囲繞されている現代人は、身体が精妙な「自然治癒力」を有していることを忘れて、つい外部の治療装置に依存しがちである。私の場合は、様々な分野を渉猟した後に、主として野口晴哉先生の「整体」に依拠して、自分の体との付き合い方を深めてきた。他にも優れた身体論があるとは思う。

大雑把にいえば、現在は身体を全体から考える東洋医学が、分析的かつ解剖学的な西洋医学に裏打ちされて、両者統合の可能性が生じる時期に際会している。ホーリスティックメディスン協会とか、psychoneuroimmunology(精神神経免疫学)の動向は、その流れの一端を象徴しているように思われる。さらに、細胞およびDNAレベルで人体を捉える還元主義的な方法は、からだ全体の機能と関連づけられた全体像をやがて闡明化するに違いない。

 「安心立命」を求めて迷い歩いた私の心をつかんだのは、仏教である。仏教で説かれている諸行無常(すべては変わる)、諸法無我(つながりの中の人間)、縁起論をはじめ、四諦八正道、六波羅蜜等に通じると、心には深い安らぎが訪れる。自然の中で自然と共に生きる「ともいき」の思想は、自然と人間を対立的に捉え人間を中心に置く西欧的・一神教的な考えとは異なり、21世紀に人々のこころを導く豊かさを担っているように思われる。

 仏教はあまたの文献を通じて近づくのでなく、日常のさりげない実践が大切だと感じる。

 たとえば、「和顔愛語」を心掛けるのも良い。周りの人をこのようにあるべきだと決めつけ、その作像からの落差を嘆くのは避けるべき「貪欲」の一種である。感謝の気持ちと人に尽くす「菩薩行」によって、心は穏やかになり体調も整う。

 「心と体」は、「自己言及系」の問いに応える厄介さを招来する。基本的に個人の領域に属する課題であるとはいえ、五〇年先には「こころとからだ」の面で、誰もが手軽に選択肢と手段を獲得できる多面的・階層的な社会システムが構築されていることを嘱望している。     

(2020年執筆)


真実に実在を愛する人にとっては

自己の死は何でもない

大きな交響曲の一音が私の一生である

発すべき時に発すべき音を発した時

そして消えた時それで一切はいい

秋雨よ静かに降り続け 

       (没後の日記抄より)

木村素衛京大教授(1895~1946)






頭髪、英語、テニス


               

 最近、高校の同級生のあいだで、頭髪が薄くなったとか、床屋をどうしているかをめぐって、メールが交わされ盛り上がりをみせました。私にも興味があるテーマです。

 頭のことでまず思い浮かぶのは、次の一句です。

「髪型を変えたがるのが18歳 変えたくても変えようがないのが81歳」

 これは以前に友人から送ってもらったパロディーの一つです。このパロディーを介護と看護の授業で「世代差による認識の相違」というちょっと学問的な味付けを施して紹介したところ、学生たちは私をみて、忍び笑いをもらしていました。

 床屋で思い出すのは40年も前のホノルルでのことです。加藤秀俊先生から英語に習熟している基準を多少の冗談を込めて教えていただきました。

 英語が本当に出来るかどうかは、次の要素を満たすかにかかっているとのことです。

 ①   映画や歌が無理なく理解できる。
 ②   英語の野卑な言葉を多用して喧嘩ができる。
 ③   床屋へ行って頼みたい髪形を詳細に説明できる。


 ①と②は32歳で初めて英語が日常の世界に飛び込んだ私には無理ですので、私は③に挑戦してハワイ大学の地下にある床屋へ行きました。もちろん、前の晩には英語で十分に予行演習をして、場に臨みました。地下の床屋にはやや年配の女性が3人おり、そのうちの一人が私を日本人とみて初めに発した言葉が、なんと日本語で「あんた、どうするの?」でした。その瞬間、折角の予行演習が無駄になったことを知ると同時に、内心ホッとしたことも事実です。 話を交わすと、その方たちは広島から移民した日系の三世でした。

 移民のことに関連して想起するのは、ホノルルの電話帳には「歯科医」の欄に日本人姓の名前がやたらに多いことの発見です。これは何ごとかと考えました。

 日本からハワイに移民した人たちは、最初はサトウキビ畑で厳しい労働を強いられました。「ホレホレ節」にはその有様が歌われています。努力の末、やがてその中からある程度のお金をためて、洗濯屋、野菜栽培・販売、小物売りなどに 転出する人も出ました。大学へ子弟を通わせる余裕も生じました。そこで、医者になるのは課程内容も学費の面からもむずかしく、それに何といっても微妙な英語世界と背景文化に通じるのには障壁が高かったことが想像されます。その点、歯科医なら、相手とのやりとりは少なく、何かメンドクサイことをいう人には、治療具をぐっと差し込んで黙らせればことは足ります。さらに、日本人は大体が手の器用さを有しています。小ワザが有効で寡黙を好む(強いられる?)職業に日本人は向いていたというのが私の推論です。いかがでしょうか。コメントをお待ちします。


 ついでにハワイのことで思い浮かぶのは、ホノルルにいた時、西山千さんとよくテニスをしたことです。

 西山さんはご存知でしょうが、月へアポロが到達した1969年にテレビで初めて同時通訳をした方です。日本における同時通訳者の「元祖」とでも呼べましょう。ホノルルでは、East-West Center の外国人理事である井深大氏が会議に出席して英語で発言する際に、「お助け役」を担っておられました。西山さんは世界の何処へ行くときもラケットを2本携行され、ボールを打つチャンスを逃さない姿勢には私も敵わない迫力がありました。一緒に打ってくれる人の紹介を西山さんが加藤秀俊先生に頼んだ結果、私がお相手を務めることになりました。

 西山さんは、テニスを始める前に、きちんと停止礼で「先生お願いします」と挨拶されたのにはびっくりしました。hitting partner ではなく、私をコーチとして遇してくださったのです。西山さんのきれいな低音の英語には、本当にほれぼれしました。あるとき、テニスの後で、コート近くのカフェテリアでビールを飲みながら他のアメリカ人も加えて談笑していると、waitress がサービスを終えた後も立ち尽くしたまま去らないのです。「どうしたの?」と訊くと、「こんなにきれいな英語は、身近で初めて聞いた」と話してくれました。

 テニスと英語に関しては松本でも話があります。「サイトーキネン」で小澤征爾さんが常にお気に入りで連れてくる映像編集者の
Mr. Peter Gelb と浅間温泉コートで早起きテニスを20年ほど前にやっていました。ところが数年前に、国谷裕子さんの「Close-up 現代」で彼が単独インタビューに応じているのを見てびっくりしました。Peter は今、NY Metropolitan Opera トップの General Manager で、Time による「世界の百人」にも選ばれています。若者の足が遠のいているオペラの人気を回復するため、ネット配信を全米および世界の主要都市の劇場・映画館向けに実現したビジネスモデルが評価されたようです。

 さらに話が続いて、一昨年までやはり浅間のコートで早起きテニスをしていた日本銀行 松本支店長の中村康治さんが昨年8月からNY事務所長兼全米統括役で転勤となり、テニスの相手を頼んできました。そこで Peter に連絡を取ったところ、喜んで彼の所属クラブに引き入れてくれました。もちろん今のNYでは二人がテニスをする機会は取れませんが二人ともコロナ禍が早く明けることを待ち望んでいることでしょう。先日のメールで、中村さんは気楽にテニスができる別のコートを見つけて、閉門蟄居の生活中に、貴重な楽しみを見出すことができたと伝えてきました。

 松本のような田舎町にもいろいろな人が来て、テニスを通じ、さまざまなつながりが国境を越えて形成されることはおもしろいことだと思います。

 そういえば、3年前にはリトワニアから20人のテニス好きの団体客が市役所を通じて親睦試合を申し込んできました。我々の仲間は、長野県実業団テニスリーグの現役選手とOBを主としています。今日の試合は親善の思いを込めて楽しくやろう、失礼がないようにという事前の申し合わせもどこへやら、結果的にはそれぞれがみんなニコニコしながら相手を負かしてしまう仕儀となりました。せっかく遠くから来られたお客さんたちには悪いことをしたと反省しております。リトワニアの方々は、顔には出しませんでしたがさすがに口惜しかったらしく(当然ですよね!)リベンジに去年来ることになっていましたが、コロナ禍で中止になりました。言い訳がましくなりますがスポーツ愛好人間は、相手に手心を加えることを恥とし、思い切り力を尽くすのが当然との考えをもっていることを申し添えます。

 コロナ禍の下で上記のようなのんびりした話はさておき、最後に当方の昨年における外面的な変化について少し触れます。
 ・松本看護大学がこの4月に開学の運びとなりました。
 ・日本唱歌童謡教育学会の会長に就任しました。
 ・長野県短期大学協会の理事長に推され引き受けました。

 ・日本私立短期大学協会の理事に任命されました。

 いろいろなことに取り組んでいくことをもとめられています。しかし、何といっても現時点で授業が対面でどうにか実施できていることが一番うれしいことです。地方都市の小規模大学・短大の利点を改めて痛感しております。それでも、基本的な心構えとして、学内の感染者に備える対応力を常に保持しなければなりません。率直に言って、通常の授業や実習が安心して普通に出来る状態への希求は、いや増すばかりです。あたりまえの生活に戻って、心おきなく談笑をたのしみながら、一献傾けたいものです。みんなで「ゆっくり一杯」の楽しみを阻むコロナの壁がまだまだ厚いことを残念と言わねばなりません。

(2021.6.1)





どこか間の抜けた人たちの話

(学生時代)

             


1, 京都市北区の閑静な住宅街に下宿をして司法試験の準備にいそしんでいたTさんが、この頃となりの家でバイオリンの練習をする女の子がいて、調子のくるった音に悩まされている、なんとかできないかと相談してきました。任してくださいと私は引き受け、5歳から才能教育でバイオリンを弾いているTokuさんをある夕刻、Tさんの下宿に伴い、一曲弾いてもらいました。次の日から、隣人の練習はなくなりました。


2, 記憶力が驚異的にすばらしい工学部のSさんがいました。彼は厚い眼鏡をかけ、健康診断時の視力検査が苦手で憎悪すらしておりました。裸眼検査になると、一歩前に、さらに二歩前へと、貼り出された検査表に近づくことを強制されたからです。何とかこの苦境から抜け出そうと、彼は工夫して検査室へ忍び込み、その検査表の記号すべてを暗記しました。さて、当日になっていつもの検査が始まって彼が啞然としたのは、検査官の棒の先がどこを指しているのか分からなかったことです。結局、いつもの検査と同様、彼は一歩また一歩と、怨念を込めて検査表に近づいたのでした。


3, 教養部時代のドイツ語の試験に立ち向かう記憶力が秀抜な教育学部の同級生がいました。ドイツ語クラスに欠席を重ねた彼は試験の前の晩にそれでも奮起して、ドイツ語の文節の最初にこの語を見たらその節に充てる日本語訳はこれと、何とか手に入れた対訳に基づいて試験範囲の文章を覚えこみました。睡眠不足ながら試験当日になっても彼の記憶維持力は健在で、さらさらと日本語が湧きだしてきました。ところが不幸なことに、彼は日本語訳をどこで止めるかを頭に入れていなかったのです。ドイツ語にはない余分な文章まで和訳して不合格になったと聞きました。


4, 体育の時間をサボった人はたくさんいて私もその一人でした。涙が出るほどうれしいことに、京大はそのような怠惰な学生に対する救済措置として鞍馬寺へのハイキングにより単位を与える道を開いてくれました。皆のひそかな思惑は、出席票を得たらどこか途中でトンずらして適度なハイキング気分を味わおうというものでした。ところが事務方も抜かりなく手段を講じていました。その貴重な出席票は、起点の駅からいちばん遠いところで入手が可能で、そこから戻るのも大原へ抜ける道を歩くのも等距離という絶妙な地点に設定されていました。私は仕方ないと気持ちを切り替え大原まで歩き、そこから電車で帰りました。でも、こんなことがなければ決して行かない場所へのハイキングを楽しめたことは、大いなる収穫でした。先生方の「温情あふれる厳しさ」がもたらしてくれた果実です。ちなみに、鞍馬の火祭は「グラマーの火遊び」と呼ぶのだと、隣を歩く人から教わりました。        

(2024.3.20)

  




アメリカとイスラエル



 「アメリカとイスラエルは特別な関係(Special Relationship)を築いている。かつて、そして今も英国とそうであるように。」

 ⇒この言葉を最初に用いたのはジョン・F・ケネディ。1962年12月、イスラエルのゴルダ・メイア外相との会議。


*1948年イスラエル建国。その時からアメリカは、外交面でも経済面でも一貫してイスラエルを力強く支持してきた。

 ⇒イスラエルは第二次世界大戦後、アメリカの対外援助を最も多く受けた国である(およそ3,100億ドルの経済的・軍事的援助を受けている。)

 ➡現在ではその大部分が軍事援助となっている。アメリカは2019年会計年度から2028年度会計年度まで毎年38億ドルの軍事援助をイスラエルに提供することを約束した(2016年に署名された覚書に基づく)

*さらに2023年10月7日のハマースによる大規模攻撃を受け、アメリカはイスラエルに対して少なくとも125億ドルの追加軍事援助を提供している。


*アメリカとイスラエルの安全保障協力は「質的軍事優位性(Qualitative Military Edge: QME)」という原則に基づいて強化されている。

 ⇒これはアメリカが他の中東諸国に対する武器販売を行う際、イスラエルの軍事的優位性が損なわれないよう保証することを義務付けている。リンドン・ジョンソン(第31代、在任1963.11~1969.1)政権以降の歴代政権が維持してきた長年の伝統になっている。この原則は、2008年、改正された武器輸出管理法のなかで正式に文書化された。


*外交的にもアメリカは、国際的な場で一貫してイスラエルを擁護してきた。特に国連においては、イスラエルに対する不当な攻撃とみなした決議に拒否権を行使することで1972年以降、少なくとも53回(2023年時点)その成立を阻止している。

 ⇒こうしたアメリカの揺るぎない外交的支援により、イスラエルは占領地政策や入植地拡大などに関して国際的な非難を免れ制裁から保護されている。

 ⇒2023年10月以降も、イスラエルがガザにおいて非人道的行為や国際法違反を繰り返してきたにも拘わらずアメリカは一貫してイスラエルを擁護し続けており、人道的停戦を求める国連安全保障理事会の決議3件に対して拒否権を発動した。


 アメリカのイスラエル支援の背景には、歴史的、宗教的、文化的、政治的、戦略的といった多面的な理由がある。それらが相俟って両国間に深く永続的な関係が構築されてきた。


1、 宗教的基盤とキリスト教シオニズム

*「聖地へのユダヤ人の帰還は聖書における預言の成就である」

 ⇒アメリカ人がイスラエルを支持する最も強固で永続的な要因の一つが、この宗教的信念である。アメリカ人有権者のおよそ4分の1を占めるといわれるキリスト教福音派がこの信念を持つといわれている。

 ⇒福音派とは、「聖書の言葉を絶対的な真理と受け止め、その一字一句をそのまま信じる人々」である。Cf.新約聖書「ヨハネの黙示録」、旧約聖書の預言書(イザヤ書、エゼキエル書)を文字通り解釈。終末の時期においてイスラエル国家が重要な役割を果たすと信じている。

 ⇒イエスは終末に至る最後の千年間、世界を支配するために再臨する。その前にユダヤ人がイスラエルに国家を再建築することが不可欠で、それは聖書の中で示された預言の成就に他ならないという。


*福音派指導者ジョン・ヘイギー(1940~)Christians United for Israel (CUFI) の創設者

 ⇒アメリカの対イスラエル外交政策は神の計画の一部である。

 「わたしはあなたと後の子孫とに貴女の宿っているこの地、すなわちカナンの全地を永久の所有として与える。そしてわたしは彼らの神となるであろう。」(創世記17:8を引用)

 ➡アメリカはイスラエルを無条件に支援すべきであり、そうすることが神の意志に沿う


2、 歴史的類似性とアイデンティティ

・旧約聖書に語られるユダヤ民族の物語は、「開拓」「国家建設」「明白なる運命」といったアメリカの物語と共鳴している。

(アメリカ史の初期から)プロテスタントの入植者のなかには、自分たちの新しい国を「新しいイスラエル」とみなし、カナンの古代イスラエル人のように、荒野に神の定めた国家を樹立するのだと考えた者もいた。

・一部のアメリカ人たちは、イスラエルの存続と繁栄を自分たちの宗教的アイデンティティと国家的使命の一部とみなしている

・アメリカの建国はエジプト脱出になぞらえられ、新大陸はある種の「約束の地」とみなされてきた。(アメリカの説教師および政治思想家たち)

・このような自他同一視は、現在のイスラエルが建国(1948年)されるはるか以前から、アメリカとユダヤ人の間に特別な文化的紐帯や連帯感を形成する一因となっていた。

・イスラエルの独立=英国のパレスティナ委任統治終了後独立。

 ⇒多くのアメリカ人は、イスラエルの建国を、イギリスによる植民地支配からの独立を目指したアメリカ自身の戦いになぞらえ、祖国を求めるユダヤ民族の長い闘いの集大成であると考えた。

 ⇒乾燥したパレスティナの大地を繁栄する国家へと変えていくユダヤ人=フロンティアの拡大と独立というアメリカの精神。深い共鳴。

*実際にも、ウッドロー・ウィルソン大統領(1856~1924,第28代)やハリー・トルーマン大統領(1884~1972、第33代)ほか著名なアメリカ人指導者たちは、「シオニスト運動」に対して個人的に深い共感を示しイスラエル国家を積極的に支持した。また、20世紀前半には数多くの議会議員も、シオニズム支持を表明していた。Cf. バルフォア(Arthur James Balfour 1848~1930)は、1902~05年の英国首相在任中に英仏協商を締結。第一次大戦中、外相としてユダヤ民族のパレスティナ復帰を支持するバルフォア宣言を発表。

 ⇒オハイオ州、デラウェア州、ネブラスカ州、ウェストバージニア州の上院・下院議員がバルフォア宣言を支持した。議員たちは、ユダヤ人は国家を持つのに値すると純粋に信じていた。シオニストの大義を支持する理由として、宗教、価値観、歴史を重視している。

ネイティブ・アメリカン追放との関わり

・さらに、「アメリカ人たちは、自分たちが神の新しいイスラエルであるという考えに魅力を感じた。それは、ネイティブ・アメリカンを追放することを正当化するのに役立ったからである」(Walter R. Mead, “Why Gentile Americans Back the Jewish State”, Foreign Affairs, July/August 2008)   cf. コルテス、バルボアなどによる南北アメリカ侵略

*多くのアメリカ人にとってユダヤ人の祖国帰還は、忍耐と自由の勝利を象徴するものであった。”敵対的な隣国に囲まれた小国イスラエル”が、その存続のために戦っているという物語は、自由、自治権、不屈の精神と言ったアメリカの理想を映し出していた。

 ➡文化的・歴史的同一性はアメリカとイスラエルの関係をさらに強固なものにした。


3、 ホロコーストと罪悪感

ホロコーストのおぞましい記憶が、アメリカのイスラエル支持に大きな役割を果たした。

・ホロコーストは世界に衝撃を与え、反ユダヤ主義の行き着く先を世界の眼前に示した。

ユダヤ人のための安全な祖国の必要性を世界的に認識させた。

・アメリカは、他の西側諸国と同様、600万人におよぶユダヤ人が大量虐殺されたにもかかわらず、それを防ぐために何もしなかったという深い罪の意識に捉われた。

・ハリー・トルーマン大統領やドワイト・アイゼンハワー大統領といったアメリカの政治家たちはホロコーストに対する恐怖を表明し、安全な祖国を求めるユダヤ人を支援する道義的な責任を感じていた。

・ホロコーストはユダヤ人の安全な避難所としてのイスラエル国家建設を正当化し、このような悲劇が二度と起こらないようにするための「アメリカの役割」を強く認識させた。

⇒ロナルド・レーガン大統領:「ホロコーストによってアメリカには、ユダヤ人が二度とこのような危険に直面しないようにする『道義的責任』が残された。」

⇒ジミー・カーター大統領も、ホロコーストの罪悪感が残っていることを、アメリカがイスラエルの安全保障に揺るぎなくコミットする理由であると述べている。


(参考文献)明治学院大学法学部準教授 溝淵正季「アメリカのイスラエル支持」等を参照



バルフォア宣言(1917年11月2日)


*イギリスがユダヤ人にパレスティナ国家建設を認めた宣言

「イギリスは、パレスティナにおけるユダヤ人の民族ホーム(A National Home)の樹立に賛同して、目的の達成のために最善の努力を払う」(手紙参照)

*矛盾した宣言(“三枚舌”外交?)

・1915年7月 フセイン・マクマホン協定を締結

「イギリスは、アラブ人の実力者フセインとの間で、秘密に上記の協定を結んだ。」

・1916年5月 サイクス・ピコ協定を締結

「イギリスは、フランス&ロシアとの間で、オスマン帝国領土を分割することの秘密協定を結んだ」



*バルフォア宣言の内容


 外務省                           11月2日、1917年


 ロスチャイルド卿


 私は国王陛下の政府を代表いたしまして、ユダヤ人シオニスト諸君の大望に共感を示す以下の宣言を、閣議の同意を得て貴下にお伝えすることができて非常に悦ばしく思っております。

 「国王陛下の政府は、パレスティナにおいてユダヤ人のための民族的郷土(ナショナル・ホーム)を設立することを好ましいと考えており、この目的の達成を円滑にするために最善の努力を行うつもりです。また、パレスティナに現存する非ユダヤ人諸コミュニティの市民および信仰者としての諸権利、ならびに他のあらゆる国でユダヤ人が享受している諸権利および政治的地位が侵害されることは決してなされてはならないと明確に理解されています。」

 貴下がこの宣言をシオニスト連盟にお知らせいただけましたならば光栄に存じます。


アーサー・ジェームス・バルフォア





 本文、下から5行目に注目。パレスティナに当時住んでいた人たちを、living とか dwelling の用言をせずに existing non-Jewish communities in Palestine と表現している点に、想定される将来の紛争を避ける意図が見え隠れして、 英国の歴史的な偽善性が浮き彫りになっている気がする。



*イスラエルの国是:

  『全世界に同情されながら死に絶えるよりも、

全世界を敵に回しても生き残る』


(2026.2.21)


 註: これは、とある「研究会」のレジュメとして書かれた文章である。



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