大阪案内人2


大阪案内人2


福島 勝彦






 2006年10月22日は、近鉄上六駅に集合だった。まだ「新歌舞伎座」は出来ていない時で、駅ビル(近鉄百貨店上本町店)の南側はだだっ広い広場となっていた。そこにみんな集まってから、東の方に歩き出した。



 私事になるが、この近くに、かつて私たち夫婦が結婚式を挙げた小さなホテルがある。久しぶりにその前を通ったが、あれから30年近く経つので、全面的に改装されたのか、あるいは建て替えられたのか、すっかりその外観は変わっていて、驚いたことに、その名前も変わっていた。たしか「なにわ会館」というもっさりした名前だったが、「ホテル・アウィーナ」という、奇妙な名前になっている。

 「〈なにわ〉をローマ字で書くと、NANIWA となるでしょう。それをひっくり返すと、 AWINAN〈アウィーナ〉となるんですよ」

 これは、同行のある女性の弁。全く「無意味」なのだが、カタカナになると何となく洒落た感じがする。とにもかくにも、かつて縁のあったホテルが「垢抜け」して発展していくのならば、めでたいことだ。

 しばらく歩くと、西俣さんの解説が始まった。

 「このあたりは、奈良時代、〈百済野(くだらの)〉と呼ばれていました。朝鮮半島に百済という国があって、我が国に仏教を伝えるなど親密な関係にあったのですが、西暦660年に、唐と新羅によって滅ぼされました。その結果、王族をはじめ、大勢の百済の人たちが、友好国の日本に亡命、大和朝廷がこのあたり一帯の土地を提供して、彼らがこの地を開拓したのです。現在でも、JR貨物の〈百済〉駅、〈南百済小学校〉〈百済大橋〉という地名が残っています」

 やがて、「細工谷(さいくだに)」という地名表示があり、「聖バルナバ病院」という大きな病院の前に「細工谷遺跡へようこそ」という説明板があった。



 

 「1996年というから、けっこう最近ですね。幹線道路を建設する工事中に遺跡が発見されました。発掘していくと、古代の地層の中から珍しいものが出てきました。ひとつは、日本最古の貨幣〈和同開珎(わどうかいちん)〉の枝銭(えだぜに)です。枝銭というのは、貨幣を型に嵌めて鋳造するときにできる〈切れ端〉みたいなもので、全国で初めて発見されたとても貴重なものです」

 このあたりは「上町台地」の東の端に当たるので、急な下り坂になり、その段丘がいかにも細工師(職人)が掘ったように見えるので「細工谷」と呼ばれているとか、貨幣などをつくった帰化人の職人がたくさん住んでいたからとか、その名前の由来には諸説あるとのこと。

 また、この遺跡からは、「百尼」「百済尼」「尼寺」と墨書された土器も発見されているので、ここに「百済尼寺」が存在したと云われている。

 坂を下って、くねくねとした道を歩くと、やがて環状線のガードに突き当たった。それに沿って北上してゆくと、より高い近鉄線のガードと交差している「鶴橋駅」に着いた。その薄暗いガード下に入っていくと、「鶴橋商店街」という看板があった。戦後まもなくの闇市が発展してできた、有名な「国際マーケット」である。



 「鶴橋」という地名は、私には馴染み深いものだった。しかし、それは、JR環状線から近鉄線への乗り換え駅として利用していただけで、駅から出て、下の街を歩いたことはほとんどなかった。だから、「国際マーケット」というのも、名前は聞いたことがあったが、歩くのは初めてだった。

 入ってみて驚いた。ひと二人がぎりぎりすれ違いできるほどの細い通路の両側に、これでもか、これでもか、とばかり、コリアン(韓国・朝鮮)の食材や衣服などが売られている。

 「これだけたくさんのコリアンの商品が売られていて、よく商売が成り立つな、と思うかもしれませんけど、生野区には在日コリアンが4万人もいるんです。4人に1人がコリアンだから、みんな買いにくるんです」






 いうまでもなく、1910(明治43)年の「日韓併合」によって、朝鮮が日本の植民地となった。1922(大正11)年に「済州島~大阪」の航路ができたことによって、多くの朝鮮人が大阪にやってきた、と云われているが、それには次のような背景があった。

 日本の統治が始まると、日本政府は土地所有を明らかにする調査を実施した。しかし、当時の朝鮮では、所有をきちんと登録していない農民が多く、彼らは土地を奪われて困窮し、やむなく日本に生活の場を求めて移住した。おりしも、「新平野川開削工事」の労働力が求められており、それ以前から、「猪飼野(いかいの)」と呼ばれていたこの地区には、紡績工場や造船所などに勤めるコリアンがたくさん住んでいたことから、どんどんとその「コミュニティー」が大きくなっていった。ちょうど、最初に行った、大正区の沖縄コミュニティーとよく似た成立事情である。

 「戦後、独立を回復した祖国に戻っていった人もたくさんいましたが、1948年、南北の対立に端を発した済州(チェジュ)島島民の武力蜂起に対して、南朝鮮軍が大弾圧して、多数の住民を虐殺した〈済州島四・三事件〉というのが起って、たくさんの済州島民が大阪に逃れてきました」

 国際マーケットから広い通りに出て、しばらく行くと、古びた建物の玄関先で西俣さんの足が止まった。

 「ここはアパートで、コリアンたちは〈キンチョル・アパート〉と呼んでいます。キンチョルとは、ハングルで〈警察署〉のこと。戦前は〈鶴橋警察署〉だったんですね。戦後払い下げられて、アパートとなりましたが、煉瓦造りで、昔の警察の面影が残った建物です」



 その道路を南下していく途中、西俣さんが一枚の写真を取り出した。1919(大正8)年の年号が入っている。

 「三階建ての建物が大正時代の旅館で、今も残っています。お祭りのような行列の横を川が流れていますが、これが〈猫間(ねこま)川〉です。昔は〈高麗(こま)川〉と呼ばれていたのが、訛ったんですね。今は埋め立てられてしまいました」




 川はないが、「猫間川筋」と名前は残っている道から横道を東に入っていくと、白壁の土蔵がある古い家並みが現れた。

 「ここは、昔は〈木野村〉と呼ばれたいたところで、近くを曲がりくねった〈百済川〉のちの平野川が流れていました。大正10年の地図がありますが、真ん中をクネクネと曲がりくねっているのがそれです。大雨が降るとすぐに氾濫して、人々の悩みの種だったのですが、1923(大正12)年に、「新平野川」の開削が始まります。そこに、朝鮮半島の人々が動員されたのです」




 「弥栄(やえい)神社」というのがあり、少し行くと「御幸森(みゆきもり)天神宮」があった。仁徳天皇が鷹狩りのおり、我が国に渡来し、先進文化を伝えた百済の人々の状態を見聞する道すがら、たびたびこの地の森で休憩されたので、その由縁により「御幸の森」と称するようになったそうである。そして、だんだんと賑やかになり、「御幸森中央・KOREA TOWN」という門が現れた。




 


 「戦前、半島からの人々が増え、故郷の味を懐かしむ需要も増えてくるとともに、この地区に〈朝鮮市場〉が出来はじめましたが、それは、この御幸森商店街のずっと南側の裏通りでした。ところが太平洋戦争が勃発して、空襲が激しくなってくると、御幸森商店街の日本人の店主たちが次々と疎開していって、空き家となった店に、表通りの店舗を望んでいた朝鮮市場の人たちが入ってきました。戦後、祖国に帰った人も多かったのですが、疎開した日本人の店主たちも帰ってこなくて、また出来た空き店舗には、済州島から逃れてきた人々が入って、現在のコリアタウンの基礎ができました」

 鶴橋の国際マーケットとはちがって、広々とした通りに、さまざまな食材、キムチやチヂミなどを売る店が並んで、それらを「食べ歩き」できるようなゆとりもあった。また、「ようこそ、コリアタウン、異文化、交流の家」を謳った大きな店もあって、中には、いろんなお土産品の他、絵画や磁器なども展示され、テーブルもたくさんあって、休憩もできるようになっていた。





 コリアタウンを出て、右に曲がったところに四階建ての大きな小学校があった。御幸森小学校である。そのすぐ近くに、小さな小学校があった。「大阪朝鮮第四初級学校」という看板が出ている。

 「ここにも小学校がありますが、初級学校と呼ばれています。いわゆる北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)系なので、日本の学校教育法で認められなくて、各種学校の扱いになっているんです。あそこに聳え立っている御幸森小学校は日本の学校ですが、在日コリアンの子弟が2/3を占めています」

 しかし、その後、2010年代になって、地域の児童数が減り、2021年、御幸森小学校は近くの中川小学校と統合されて、大阪市立大池小学校となり、この立派な校舎は廃校となって、別の施設になっているという。


  

 さて、コリアタウンの通りをさらに東に行くと、「新平野川」にぶつかった。小さい川だが、見事に真っ直ぐである。在日コリアンの人々の汗と涙で完成したこの川のおかげで、地域の人々は長年悩まされていた洪水の心配から解放されたのである。



 再び、コリアタウンに戻って、今日の打ち上げの会場、「三松(サムスン)」というコリア料理店に入った。そして、会もたけなわとなった時、西俣さんが、大きな太鼓を持って現れた。キラキラ輝くサテンの衣装に着替えている。そして打ち出したその「チャンゴ」と呼ばれる朝鮮太鼓の腕前はなかなかのものだった。



 次いで、乙姫さまのような衣装の、この店の美人女将が現れ、もうひとりの若い女性と、台に吊り下げた「二面太鼓」を競演。最後に女将が、西俣さんが叩いていたのと同じチャンゴを叩きながら「アリラン」を熱唱して、お開きとなった。



 西俣さんは以前、御幸森コリアタウンで偶然聴いた朝鮮打楽器「チャンゴ」に魅せられ、その後、そこにあった「教室」に通って、その奏法を習得、コリアンの人たちとともに「演奏会」の舞台にも立つ腕前になっているとのことだった。







 2006年12月24日は、環状線・西九条駅の集合だった。この駅は、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)に行った時に降りたことがあったが、すぐに桜島線に乗り換えたので、駅から出たのは初めてだった。外に出ると、「阪神電車西九条駅」という高い建物が聳え立っている。

 「阪神電車の大物(だいもつ)駅から、新淀川を渡って、伝法、千鳥橋まで続く〈伝法線〉ができたのが1924(大正13)年です。その2年後には尼崎~大物間が開通して神戸まで繋がり、その後、出入橋(でいりばし)まで延伸する予定だったんですが、昭和不況に引っかかって中断。戦後の1961(昭和36)年に大阪環状線が全通したのに伴って、計画を変更して、西九条まで延伸、〈阪神西大阪線〉と改称されました。

 JR環状線の高さが10メートルなのに対して、阪神線は15メートルもあって、その上を越しています。これをこのまま難波まで延伸する予定だったんですね。その工事がやっと始まりました」





 なるほど、コンクリートの高い鉄橋が延々と建設されている。工事はこのあと順調に進み、途中から地下に入って、難波で近鉄電車と相互乗り入れする路線が3年後の2009(平成21)年に開通、「阪神なんば線」と改称された。その結果、現在、神戸と奈良が1本の電車で結ばれて、関西の観光地図に大きな変革をもたらしている。



 休日のせいか、走ってる車も少ない道を南の方向に歩いていくと、突き当たりに四階建ての建物があった。近づいてみると、「安治川(あじがわ)トンネル」という看板があって、エレベーターの扉がある。それに乗って、下に降りると、狭いけれども、両側タイル張りで、ちりひとつない、明るい地下道が長々と続いていた。そして、突き当たりにまたエレベーターがあり、それに乗ると、対岸に出ることができた。



 それまでずっと無言だった西俣さんがここで口を開いた。

 「川を渡るのは〈橋〉がいちばん便利ですが、大きな船が通ったりして橋がかけられない場合があります。そんな時、この前、大正区で乗りましたが〈渡し船〉があります。しかし、渡し船では、運べる人や荷物の量が限られています。そこで、ここでは思い切ってトンネルを掘ったんです。

 なんでそこまでやったかというと、実は理由があって、このエレベーターの横に大きな扉がありますね。今は使われていませんが、これもエレベーターなんです。車用のね。

 この道をずうっと東に行くと、どこに行くと思います? 環状線の玉造駅に行くんです。玉造から北へ特別な線路が引かれていて、それが大阪城横の〈砲兵工廠〉につながっていたんです。要は、砲兵工廠でつくった武器弾薬を列車で玉造まで運び、そこからトラックに積み替えて、どんどん西に向かい、安治川トンネルを通って、櫻島埠頭まで運んで、そこから船積みするつもりだったんです。難工事だったようで、1935(昭和10)年に着工して、完成したのは1944(昭和19)年。まもなく戦争が終わってしまったので、その役には立ちませんでしたがね」



 戦時中の物資不足のおり、これだけの施設を完成させたのは驚きだが、やはり「戦争目的」ということで優先されたのであろう。

 平和になった戦後、このトンネルは車や人の通行に大いに貢献した。1963(昭和38)年に下流に「安治川大橋」が誕生して、車の通行は減り、1977(昭和52)年に車用のトンネルは閉鎖されたが、人用のトンネルは現在も地元の足として重宝されている。また、鉄筋コンクリート製の箱を沈める「沈埋(ちんまい)工法」によって造られた日本初のトンネルという、貴重な「土木遺産」としても注目されている。

 このあと、左に曲がって、やがて、安治川沿いの道路に出た。そこで西俣さんがやおら、大きな紙をひろげた。そこには難しい漢字が書いてある。

 「衢壌島(くじょうじま)と読みます。旧淀川の河口に土砂が溜まって出来た島で、〈南浦〉と呼ばれていたのを、江戸時代に入って、儒学者の林羅山が、土地が栄えるという意味でこういう名前を付けたんですが、あまりにも難しい漢字で誰も書けない。いつのまにか〈九条島〉に変わってしまいました。

 さて、大雨が降ると、増水した淀川の水がこの〈九条島〉にぶち当たって氾濫します。そこで幕府は土木に実績のあった河村瑞賢に命じて、この島の真ん中に水路を掘らせます。1684(貞享元)年に完成。当初は〈新川〉と呼ばれていましたが、1698(元禄11)年、この地が安らかに治まりますように、という願いを込めて〈安治川〉と名づけられました」


 

 安治川沿いを歩いていると、対岸におおきなビルが見えた。新しくなった「大阪中央市場」だとのこと。そして、こちら側には赤煉瓦の倉庫が並んでいて、安治川が水運の要地だったことを示しているが、錆び付いたクレーン車が放置されているなど、今はその面影も薄いようだ。

 「富島」という地名がついているが、西俣さんから配られた1845年の古地図には「大仏シマ」という記載がある。



 「1567(永禄10)年に東大寺大仏殿が二度目の焼失をしたあと、なかなか再建されませんでしたが、1684(貞享元)年、東大寺の公慶上人が幕府の許可を得て、全国で勧進を開始、再建に向けて動きはじめました。大坂では、この地で募金集めを始めた結果、安治川を上ってくる全国の廻船から予想以上の献金が集まり、1691(元禄4)年に大仏修復、1709(宝永6)年、大仏殿再建に漕ぎ着けました。現在ある大仏さんです。その富の豊かさにあやかろうと、大仏シマから〈富島〉に改称されました」

 古地図では、大仏シマを挟んで安治川の反対側に小さな川がある。安治川が開削される前にあった川で、安治川の「新川」に対して「古川」と呼ばれていたが、戦後まで存在していた。空き地のような小さな公園に「古川跡」という石碑があり、それによれば、1952(昭和27)年に埋め立てられらとのこと。また、そのうしろにはもうひとつ大きな石碑があった。安治川を開削した河村瑞賢の功績を記した碑である。



 川沿いをさらに行くと、「大阪税関富島出張所」という建物があった。1858(安政5)年の日米修好通商条約によって、大坂も外国人の商業活動を認める場所に指定され、その後、1868(慶応4)年に大坂開港となった。その時、その玄関となったのが、江戸時代から海運の拠点だったこの地で、大阪税関の前身の「川口運上所」が設けられた。その後、陸上げ作業が他所の地に移っていったので、この町歩きの2年後の2008(平成20)年6月末で閉鎖され、現在、この建物は存在しない。


 

 大阪開港によって、大勢の外国人が渡来し、この地に外国人向けの「川口居留地」が設けられた。大阪市立本田(ほんでん)小学校の横に石碑がある。キリスト教の「富島天主堂」の碑や、「川口聖マリア幼稚園」というのもある。そして今も居留地の面影を残しているのは、赤煉瓦の「川口基督教会」である。



 1869(明治2)年、長崎からやってきた、アメリカ聖公会のウィリアムズ宣教師が、1881(明治14)年にこの地に「聖テモテ教会」を建てた。この人は、1873(明治6)年に、アメリカ人医師ヘンリー・ラニングを呼び寄せて、無料診療所も開かせている。この診療所は10年後、木造二階建ての「聖バルナバ病院」となり、1923(大正12)年に、天王寺区細工谷に移転した。この前、細工谷遺跡で通ったところである。

 聖テモテ教会は、1891(明治24)年に「川口基督教会」と名を改め、現在の建物は1920(大正9)年に建設された。しかし、1995(平成7)年の阪神淡路大震災で大きな被害を受けた。写真にあるように、建物が傾き、煉瓦が崩れたが、信者さんから5億円の寄付が集まり、2年かけて修復されたという。



 おりしも、12月24日のクリスマス・イヴで「ミサ」の最中だったが、そっと中に入れてもらった。大きなパイプオルガンにステンドグラス。その神々しい雰囲気を少しだけ味あわせていただいて、そそくさと、外に出た。扉に架けられていたリースが美しかった。



 安治川はなんといっても川なので、底が浅く、大きな船が入って来れなくなって、貿易の中心は神戸に移っていく。貿易商たちが去っていったあと、川口居留地に居を定めたのは宣教師たちだった。教会を建てたり、病院をつくったりしたが、学校もたくさんつくった。いまは各地に散らばっているが、大阪信愛女学院、プール女学院、梅花学園、大阪女学院、それに京都の平安女学院など、錚々たるミッション系女子校のルーツはこの川口地区にあった。

 さて、川口教会横を流れる木津川に沿って、南下していくと、大きな公園にやってきた。野球場もある「松島公園」で、その向かいに、鐘撞堂を掲げた朱塗りの「鐘楼門」という珍しい山門をもつ「竹林寺」というお寺があった。



 西俣さんから何枚か古地図が配られた。

 「この1842(天保13)年の古地図の真ん中に〈竹林寺〉がありますね。この前には、昔は、尻無川のバイパスのような小さな川が流れていて、それと木津川に挟まれた寺島という小島に、「松島」という一大遊郭がつくられたのです。

 もともとは、川口にできた居留地の外国人向けということだったのですが、その後、大阪府は、それまで市内に点在していた遊里をできるだけ一箇所に集めようとして、巨大な遊郭が誕生しました。この明治15年の地図では、すっかり整備されていますね。最盛期の1916(大正5)年には、娼家267軒、娼妓4103名を数え、関西第一の遊郭となったそうです。



 しかし、1945(昭和20)の大阪大空襲で全焼、閉鎖された環境にいた遊女たちの多くが逃げることができずに、死亡しました。名前も出身地もわからない遺体がこの竹林寺に運び込まれて、荼毘(だび)にふされました。約270体の遺骨を収めた〈無縁塔〉が境内に建てられています。遊郭は2年後に、九条の方に移転して再開されました」

 1949(昭和24)の地図では、旧町並みが残っているが、1979(昭和54)年の地図では、バイパスの川が埋め立てられ、大きな「松島公園」で出来て、現在の様子となっている。



 国道を渡って、しばらく行くと、「シネ・ヌーヴォ」という看板があった。古今東西の珍しい作品を次々と上映している、有名な「名画座」である。その存在はよく知っていたが、行ったことはなかった。マンションのような建物の階段を降りていくと映画館に入っていくようになっている。表には、聞いたことのないタイトルの、しかしとても魅力的なポスターが並んでいた。



 その前を通って、しばらく行ったところで、西俣さんが立ち止まった。

 「寺島にあった松島遊郭が空襲で全焼したあと、このあたりに移転してきました。しかし、ご存知のように、1958(昭和33)年に〈売春防止法〉が施行されて、遊郭は廃止となりましたが、その後、〈松島料理組合〉というのが出来まして、料理屋の仲居さんがお客さんと〈自由恋愛〉するのならいいだろう、ということで、事実上、遊郭のようなものが現在も残っています。

 女性の方もたくさんおられて恐縮ですが、これから、その地区を歩きます。この時間には、すでに〈営業〉が始まっていると思いますので、そっと、静かに歩いてください。トラブルになったらいけませんので、写真撮影はご遠慮ください」

 「松島料理組合」という銘の街灯が並ぶ通りに入ると、それらしいシンプルな看板の小さな店が少しずつ増えてきた。そして、その前を通ると、開け放された玄関の奥に、煌々としたライトを浴びて、この寒さにもかかわらず、胸元もあらわな厚化粧の女性が艶然とした微笑みを浮かべて、横座りに座っていた。そしてその門口には、「やり手」というのだろうか、興味を示した「客」をめざとく見つけてすかさず声をかけようと身構えた老女が火鉢を抱えて腰かけていた。



 みんな、さすがに言葉少なく、黙々と歩き続け、大阪府立市岡高校の前まで来て、そこで解散した。弁天町駅の近くである。恒例の懇親会は、もう少し住宅街を歩いたところにある「市岡ビール工房・地底旅行」というところだった。


 

 なんでも、もとは鉄工所だったそうだが、経営が傾いて倒産し、それを従業員の組合が、未払い賃金の代償に引き取って、「地ビール」の工場に転換したという。

 ビールの生産には、最低の製造数量が定められていて、それを賄いうる大手の企業しか手が出せなかったのだが、1994(平成6)年に「酒税法」が改正されて、その基準が大幅に緩和されたので、各地の小企業による「地ビール」の生産が可能になった。この「地底旅行」もそんな草分けのひとつだった。

 一階に大きなタンクが林立するビール工場があり、2階が食堂となっていた。地ビールは、何種類かあったが、どれも何やらフルーティーな味のする、爽やかで飲みやすい味わいで、料理も、その辺のビアホールに負けないほどの美味と種類を備えて、一同、たんまり飲んで大満足だったが、その代金が一人3,400円と破格だったのは驚きだった。



 帰りは弁天町から地下鉄・中央線に乗って、7駅目の緑橋で、ちょうどこの日に開通したばかりの「今里筋線」に乗りかえた。真っ新(さら)のプラットフォームに、真っ新の車両。15分足らずで、自宅最寄りの駅に着いたが、長かった今日の行程のフィナーレを飾るにふさわしいものとなった。







 年明けて、2007年1月28日の集合場所は、地下鉄谷町線・関目高殿駅だった。私の最寄駅からわずか2駅、地元とまでは云えないが、比較的馴染みのあるところだった。

 地上に上がって、まず向かったのは、国道沿いにある「関目神社」だった。地名の由来は、西俣さんの十八番(おはこ)だったが、その言を待つまでもなく、神社の中の石碑にていねいに刻まれていた。曰く、この地に、平安時代の榎並荘(えなみのしょう)の時代から、見張り所、すなわち、目で見る関所があったから、とのこと。

 また、「関目の七曲り」のことも記されていたが、それは、国道を渡った向かい側にあった。確かに、道がジグザグになっている。

 「この道も〈京街道〉の一部ですが、このようにジグザクにしていると、敵の軍勢が攻めてきた時、スピードを上げて走ってこれない。また、敵の隊列が曲がりくねっていると、その数が数えやすい。昔はあまり建物がなかったので、大坂城からもこの辺がよく見えたんでしょうね」

 本当にそうだったんだろうか、とも思ったが、ここは西俣さんの顔を立てて、うんうんとみんな頷いた。



 「七曲り」を出て、国道沿いの歩道を歩いていくと、小さな店が増えてきた。飲食店が多かったが、そのほかの店もある。頭上に「旭国道筋商店街」という看板がかかっていた。やがて、城東貨物線(現在は、おおさか東線)のガードがあり、その先は都島区になるが、商店街の看板も「野江国道筋商店街」に変わっていた。





 ところで旭区側からこの国道筋商店街に入っていくところに、小さな石の橋が残っている。よく見ると、親柱に「中橋」「大正三年六月」とある。

 「ここにぽつねんと残されている小さな橋、大正3年というと、旭区はまだ大阪市に属していなくて、東成郡だった時代です。現在、旭区には18の橋がありますが、ダントツに古い橋です。もちろんこの下に井路(いじ)川といって、人や物を運ぶための水路が流れていたのですが、いつの間にか埋め立てられて、その上にできた戦後の〈闇市〉がこの商店街のルーツになっているんです」





 このように、とても由緒深い歴史遺産なのだが、何の説明板もなく、まさに、ただ、ぽつねんと残っていた。

 この中橋の遺跡は、少なくとも2011年11月には存在していた。その日付の写真がある。しかし、2013年12月にはなくなっていた。大きなスーパーマーケットができていたのだ。たしか、その少し前、そのスーパーの建設中、すでに中橋の姿はなく、そのあたりに、コンクリートの瓦礫の山ができていた。どうも、中橋の残骸らしかった。しかし、こうしてまとめて積み上げてあるからには、それを適当な場所に運んで、そこでもういちど組み立てて復元し、それを永久保存するのではないか、と推測した。しかし、そんな思惑は甘かった。瓦礫の山はどこかに姿を消していた。




 再度、国道を渡り、歩道を歩いていくと、「野江水(すい)神社」という案内板があった。それに導かれて、細い路地を入っていくと、裏口があって、意外に大きな神社だった。



 「1533(天文2)年、細川晴元の家臣の三好政長がこの地に、榎並城を築城しました。その際、このあたりは再々水害が発生していたので、水の神様である、水波女大神(みずはのめのおおかみ)を祀ったのがこの神社の起こりです」

 あらためて、表の鳥居から出ると、榎並小学校というのがあって、その正門の横に、「榎並城跡伝承地」という石碑が立っていた。

 「〈えなみ〉というのは、もとは「江南」と書いたんです。〈江〉すなわち、川、淀川のことです。その南という意味ですが、それがいつか〈榎並〉という優雅な文字に変わったんです」

 そういえば、私の住んでいた旭区千林にむかし「江南(こうなん)キネマ」という映画館があったが、あれも、川の南にある劇場という意味だったのか。

 「旭区の淀川べりに〈城北公園〉という大きな公園があります。あれ、お城の北、すなわち、大阪城の北、という意味だと思っていたんですが、違うんです。この〈榎並城〉の北、なんですね。たしかに、大阪城は、なんぼなんでも遠すぎますよね」

 これも初耳だったが、たしかにそうである。



 いったん国道に出て、少し西に向かい、大きな道路を左折して、南に向かった。地図では「大阪市道上新庄生野線」とあるが、城東区と都島区の境界線になっており、また、ここは「旧京街道」だった。




 ゆるやかにカーブしているのが、いかにも昔の街道らしい。しばらく歩いて、右に曲がると、大きなパーキングスペースがあって、奇妙な建物が立っていた。

 「いまは、ある染色工場の倉庫になっていますが、元は、旧都島第三小学校でした。空襲に遭って、この玄関のところだけが残ったんです。裏に廻ってみると分かりますが、廊下の跡が残っていますね。この前に行った北野高校でもそうでしたが、ここでも避難せずに〈学校防衛〉で残っていた児童が亡くなっています」

 何の説明板もなく、60年以上も現存していた「戦争遺産」だったが、この何年か後に訪れたときには、跡形もなく消え去っていた。



 旧京街道に戻って、5分ほど歩くと、西俣さんが立ち止まった。こじんまりした医院や、派手な店構えの武道具店がある、何の変哲もない街角である。

 「ここにも何の説明板もないし、目印になるものもありませんが、江戸時代には、このあたりに〈野江刑場(仕置き場)〉がありました。〈千日刑場〉〈飛田刑場〉〈三軒屋刑場〉と並んで、大坂の代表的な刑場で、〈磔(はりつけ)〉〈火あぶり〉〈鋸挽(のこぎりびき)〉などが執行されていました。そんな忌むべき場所だったので、明治になって、刑場がなくなってからは、その歴史が意図的に消されていったんでしょうね。

 京阪電車に〈野江〉という駅がありますが、その次の〈京橋〉までの駅間距離が異常に長い。その中間にもう一駅あってもよかったのですが、それがちょうど、この刑場に近いところだったので避けられたのではないか、という説もあります。また、この野江刑場には〈南無妙法蓮華経〉と彫られた〈題目碑〉がありましたが、それがいまはなぜか、この前行った守口・文禄堤の〈本門仏立宗・義天寺〉の門前に立てられています」






 ところで、この旧京街道に沿って、「榎並川」という川が流れていたが、今は埋め立てられている。「野江刑場」跡に来る少し前に、道が二筋に分かれていて、その右側(旧京街道)を通って、「野江刑場」跡に来たのだが、そのあとは、脇道を通って、左側の旧榎並川、すなわち「大阪市道上新庄生野線」に戻って、そこを南下した。そして、桜宮中学校の前を通って、広い国道1号と交差したところに「桜小橋」という標識があった。もう川はないので、その橋は存在しない。



 もう少し行って、京阪電車のガードをくぐって、小さな交差点に来たところで、西俣さんが立ち止まった。

 「ここに小さな石柱がありますね。〈かまう〉と書いてありますが、蒲生(がもう)のことです。ここで、東西に流れる鯰江(なまずえ)川と榎並川が交差して、船着き場がありました。この石柱は、船を岸につなぐ〈もやい綱〉を結びつける柱です」



 そこを右折して、埋め立てられて今はない「鯰江川」跡の道を歩くと、ざわざわとした飲み屋街に囲まれて、ひっそりと静まりかえった墓地があった。

 「ここは〈蒲生墓地〉といいます。梅田(埋め田)、葭原よしはら=現天六)、小橋(おばせ)、高津、千日、飛田と並んで、江戸時代、〈大坂七墓〉といわれたうちのひとつです」



 江戸時代からある墓地ということで、ずいぶん古びた墓石も多い。そんな中、西俣さんは、あるお墓に注目した。

 「これは、大笠吉五郎という人のお墓です。何でも北浜の株屋で大儲けしたけれど、最後はすっからかんになって、今は無縁仏になっていると云われていますが、この文字、なんと読むか、解りますか?」

 その墓の裏には「人ニハー一」という、謎の文字が掘り込んである。




 「〈ひとには〉、この縦の棒は〈心棒、すなわち、辛抱〉、一は〈いちばん〉ですね。〈人には、辛抱がいちばん〉。何のこっちゃ? この文字を、縦にぐうっと詰めていくと、〈金〉という文字になります。すなわち、辛抱しないと、お金は貯まりませんよ、という、ご自身の失敗を反省した教訓を、自分のお墓に掘り込んだんですね。この話に感心して、Tシャツをつくった人がいます。私も買いました」

 真冬のこの日に、そのTシャツを披露することはなかったが、後日、またこの地に来ることがあったとき、そのTシャツ姿を見せていただいた。

 打ち上げは、京橋にあまたある居酒屋のひとつ。名前は忘れたが、かなり飲み食いして、ひとり2200円と、いつもながらの、もはや驚かなくなってしまった格安料金だった。







 2007年3月25日は、大阪環状線・福島駅に集合。大阪駅のひとつ向こうの駅である。


 

 みんな集まったところで、西俣さんが開口一番。

 「淀川河口の三角州地帯には、昔、小さな島がいっぱいありました。福島もそのひとつで、荒廃した、殺伐としたところだったんでしょうね、〈餓鬼(がき)島〉と呼ばれていました。そこを、901(昌泰4)年、太宰府に左遷途中に通りかかった菅原道真が、〈餓鬼島とはあんまりだ、幸せ多い福島にしてはどうか〉とおおせになって、今の名前になったと云われています。もっとも、福島にひとが住み始めたのは鎌倉時代なので、のちのひとが、道真の名前を借りて権威づけしたのでしょうね」

 筆者と同じ名前の思いがけない由来を聴かされて、その吃驚がさめやらぬうちに、一枚の古地図が配られた。

 「今日のコースのメインテーマは〈まぼろしの蜆川(しじみがわ)の跡を歩く〉ということですが、この1899(明治32)年の地図を見てください。中之島をかたちづくっている〈土佐堀川〉と〈堂島川〉の上に、もう一本、小さな川が流れているでしょう。これが〈蜆川(正式には、曽根崎川〉です。この蜆川と堂島川にはさまれたところが〈堂島〉で、文字通り〈島〉だったんです」



 ところが、1909(明治42)年7月31日午前4時20分、この地図の、右側の途切れたところをもう少し行った、この前に行った造幣局のすこし西側に当たる〈空心(くうしん)町〉というところから出た火事が、折りかからの強い東風に煽られて、どんどんと西に燃え広がり、まる一昼夜燃え続けたという、いわゆる〈北の大火〉が起こりました。その火がやっと止まったのが、地図の左端に〈福島紡績会社〉、大日本紡績福島工場だったんですが、これからそこに向かいます」

 環状線のガードに沿って、西に歩き、「あみだ池筋」という広い通りを南下、福島小学校を越えたことから細い路地をクネクネと入った民家の間の小さな空き地の向こうに、赤煉瓦の塀が立っていた。



 「この煉瓦塀が、西から迫り来る猛火を食い止めたんです。この塀は、それから36年後の〈大阪大空襲〉の時には、西側の玉川地区からの延焼も食い止めました。そんな〈奇跡の煉瓦塀〉ですが、工場の跡地に、大阪厚生年金病院が建てられ、煉瓦塀がすこしずつ鉄塀に改められていって、かろうじて残っているのは、ここだけです。わたくし、必死に捜して、やっと見つけたんです」

 ただ、この貴重な「遺跡」も、老朽化で倒壊のおそれがあって、近隣住民は撤去を望んでいるそうなので、いまもまだ現存しているかどうかは不明である。

 再び「あみだ池筋」に出ると、大きな公園があった。「下福島公園」とある。ここも、紡績工場の跡地だった。



 さらに南下すると、堂島川に出て、大きな橋が架かっていた。「堂島大橋」である。アーチ型の橋脚に似つかわしくない、古めかしい石の橋台が立っている。その奥に、上部が半円形の大きな石の塔が立っていて、その前には、石臼のようなものが鎮座していた。

 「堂島大橋は、1927(昭和2)年に、それまでの木造の橋から、この鉄製の橋に掛け替えられました。この石の塔は何なのか、謎なんですが、かつて、橋のたもとのあった、馬車馬の水飲み場をデザインしたものではないかとも云われています。この頃つくられた橋は、立派な橋台を設けたり、途中にバルコニーを設けたり、デザインに凝るのが流行っていたそうで、これもその一環だったのかもしれません。ところで、この石塔も橋台もいやに黒ずんでいますが、これは、先の戦争の空襲で焼けた名残です。あえて、そのまま残してあるんですね」



 堂島大橋は渡らずに、左に曲がって川べりを歩いて、「玉江橋北詰」の信号を渡ると、なにやら碑があった。

 「江戸時代、ここに、九州豊前・中津藩の蔵屋敷があって、あの福沢諭吉はここで生まれました」

 


 その道を少しバックして、現在、大淀から移転してきた「朝日放送ビル」がある角を曲がって「なにわ筋」を北上、しばらく歩くと、車が走る「福島本通」と交差するところに「浄正(じょうしょう)橋」という石碑があった。しかし、橋はどこにもない。



 「これは、1911(明治44)年の地図ですが、蜆川の東半分がすっごく細くなっていますね。〈北の大火〉の結果なんです。焼け跡に大量に発生した瓦礫の捨て場となって埋め立てられてしまったんです。

 やがて東半分が完全に埋められて、水の流れがなくなると、川が淀んでドブ川のようになってしまったので、1924(大正13)年に残りの西半分も、すべて埋め立てられてしまいました。その跡がここです。ここに蜆川が流れていたんです。1923(大正12)年と1927(昭和2)年の地図を見比べると、その間の経緯がよくわかります」


明治44年


大正12年


昭和2年


 「蜆川沿いには、曽根崎新地のたくさんのお茶屋が並んでいて、近松門左衛門の名作〈心中天網島〉もここが舞台になっています。主人公の紙屋治兵衛と遊女小春の死の道行きで、菅原道真の飛び梅伝説にかけて読み込んだ、〈道行き名残の橋づくし〉の一節、〈君を慕ひて太宰府へ、たつた一飛び梅田橋、後追ひ松の緑橋、別れを嘆き悲しみて、後にこがるる桜橋〉の3つの橋はぜんぶこの蜆川に掛かった橋です」

 蜆川の跡だといわれる福島本通を東に歩いた。地図では「梅田橋」があるところまで来たが、特に碑のようなものは見つからない。

 「道行きの出発点となる重要な橋がここにあったんですが、何の説明板もない。でもただひとつ、証拠となるものがありました」

 そう言って、西俣さんが指さした建物に「梅田橋ビル」という表示があった。



 次は「緑橋」だが、その跡も見当たらない。代わりに、高速道路の下にコンクリートの橋がそのまま残されていて、「出入(でいり)橋」とあった。ただ、その向きは、蜆川に沿った南北ではなくて、東西である。



 「先ほどの古地図で、旧蜆川の中央部分から、北に向けて、大阪駅に向かう水路がありますね。そこに掛かっていたのがこの橋です。

 新橋・横浜間に続いて、大阪・神戸間に鉄道が開通したのは、1874(明治7)年です。当初、大阪駅は、中心街だった堂島辺りにつくる予定だったんですが、もくもく煙を吐いて煙たいし、火の粉が飛んで火事になったら困ると、商人たちが大反対して、当時、ひとのあまり住まない湿地帯を埋め立てた梅田(埋め田)になったそうです。その頃は、物資の輸送はまだ船が中心でしたから、大阪駅と堂島川を結ぶ運河を掘って、大阪駅と大阪港を結んだんです。それを運ぶ船が出入りしたから、〈出入橋〉。〈緑橋〉もすぐそばに南北に掛かっていたのですが、その跡は何も残されていません」

 この出入橋の運河も戦後まで残っていたそうだが、もはや不要となって埋め立てられ、川のない橋の遺構だけが残っている。そして、もうひとつ、1930(昭和5)年に創業した「出入橋きんつば屋」がいまも健在である。







 「梅が咲いて、緑の芽が吹き、つぎに咲くのは、桜ですね」

 そう云いながら、西俣さんが私たちを導いた先には、「元櫻橋南詰」という石碑があった。大阪駅前第一ビルのところにある「桜橋交差点」は有名だが、そこより少し南のところである。



 四ツ橋筋を渡ると、ジュンク堂書店などが入った「堂島アバンザ」という建物がある。以前、毎日新聞大阪本社や毎日ホールがあったところだ。その北側の区画が「北新地」となっているが、そこに蜆川が流れていた。

 昼間の歓楽街は静かだった。通りには、「北新地」の歴史を紹介するパネルや、「心中天網島」の舞台となった茶屋「河庄」跡の碑が建っていた。そして、御堂筋を抜ける角にある滋賀銀行の壁に「蜆川」「蜆橋」跡の碑が刻まれていた。







 旧蜆川は、古地図にあるように、国道を渡ったところから右に急旋回して堂島川と合流するのだが、その跡は何もない。

 堂島川沿いを歩いていくと、大阪地方裁判所、大阪弁護士会館、天満警察署などの司法の建物が続き、さらに行くと、すこし古い町並みに入っていった。「菅原町」という標識がある。

 「かつて、大川(旧淀川)のこのあたりに〈天満青物市場〉があったことから、菅原町は乾物問屋街として有名でした。当時の面影を残すお店や建物が残っています」






 「1978(昭和53)年に、大阪市は大規模な「町名変更」を行いました。その結果、市内から〈~町〉と、〈町〉のつく古い地名の多くがなくなってしまったんですが、菅原町は残りました。地元が強硬に反対したんですね。このあたりには、江戸時代からつづく歴史ある町名がたくさんあったんですが、全部消えてしまいました。大改悪ですよ。歴史の抹殺です。町名が複雑だと、郵便配達に困るからという理由付けでしたが、その後〈郵便番号〉ができたので、その必要もなかったんですよ」


昭和2年


 西俣さんの怒りは止まらない。

 そういえば、昔、私が中学生のころ、数学の先生の家がこのあたりにあった。私が所属していた、木工作品などをつくる「工業クラブ」の顧問をされていたので、ある年のお正月に招かれて、10人近くの部員と一緒に訪れたことがあった。下町の、長屋がたくさん並んだうちの1軒だったが、その町名が、菅原町のすこし北にある「旅篭(はたご)町」だった。おそらく天神さん詣での宿屋などがたくさんあったのだろう。

 また、私が勤めはじめた高校の先輩教師のお家(うち)もここにあった。町名は「地下(じげ)町」。西俣さんによれば、天神祭で神輿をかつぐ役割を担った町だったそうだ。現在は「天神西町」という、味も素っ気もない名前になっている。

 このあと、私たちは天神橋筋商店街に入って、天満宮裏の「天満天神繁昌亭」の前で解散した。前回、半年前の2006年8月には開業前でひっそりしていた繁昌亭も、今ではすっかり人気となって、長い行列ができていた。

 打ち上げは、南森町の「かっぽうぎ」という居酒屋。この日も、2200円と格安だった。



以下次号


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