田川さんのこと



追懐:田川恒夫さんのこと


木内 義勝





 私は大学院時代の3年間にわたって、田川恒夫さんという方の日常生活を援助するお役を務めたことがあります。田川さんは全盲でした。京大大学院の経済学科で学び、普段のレポートあるいは論文はすべてドイツ語によってお書きになりました。また、流暢なドイツ語をよどみなく話されました。英語、フランス語も当たり前のように、読み・書くことができました。田川さんのおそばでお仕えすることで、私は驚きとともに多くのことを学ばせていただくことになりましたので、その経験の内容をお伝えしたいと存じます。

 

出会い

 私が京大教育学部から大学院教育学科へ進んだ昭和42年4月のことでした。2年前に同じ教育学部から経済の大学院へ進んだ保住さんという先輩から頼みごとがあるからと会うことになりました。いきなり「君、今はヒマやろ!」と切り出されて当惑していると「少し面倒を見てほしい人がいるんや」と経済学部の研究室で田川さんに紹介されました。その時はじめてサングラスをかけた田川さんが、全盲であることを知りました。因みに私は、根拠もなくヒマな人間に見られることがあり、予想外の事柄に取り組まざるを得なくなることが時々あります。ともあれ、さっそく百万遍から市電に乗って、岡崎道の電停で降り、ご自宅までご一緒しました。

 初めてなのに全く自然な形で書斎に案内されました。机上には、私が初めて目にするオリベッティのタイプライターが鎮座していました。田川さんは、ローラーに沿って紙を入れ、紙の両端を畳むように上部でまとめてからローラーをまわし、最初の文字をタイプで打てる位置に慣れた手つきでセットされました。私が初めて目にする手順でした。

 私に与えられた仕事は、田川さんが打ち出すドイツ語の文章に目を通し、スペルに誤りがないかをチェックすることです。教養の2年間に第二外国語にドイツ語を選んだだけの私には荷が重い仕事でした。田川さんが打ち出すドイツ語の量がとても多く、目で追うのがたいへんでした。教養1回生の基礎ドイツ語と、教養2回生の時、倫理学Ⅱ乙という保田先生のドイツ語演習をとり、苦労して Georg Simmell の “Haupt Probleme der Philosophie“(哲学の根本問題)に取り組んだだけの私には荷が重い内容でした。やがて田川さんは、同志社大学で英文学を専攻した照子さんという方と結婚し、彼女にドイツ語も学ばせることにより、打ち出されたドイツ語をチェックする人間を新たに得ることになりました。


語学の達人

 田川さんは大学院のレポートその他の提出物を、すべて自宅書斎のタイプで打ち出すドイツ語でお書きになっていました。当時、1967年(昭和42年)頃は、まだワープロもましてやパソコンも登場しておらず、田川さんが学術研究上の伝達を他へ行う手段は、点字か外国語しかなかったのです。京大経済学部の教授陣のほとんどは、英独仏の3か国語に通じていましたから、田川さんはその中から得意なドイツ語を選んで文書を通じたコミュニケーションを図っていました。

 経済史分野の泰斗である出口勇藏教授の大学院生向けのゼミに田川さんの随伴者として同席したことがあります。フランクフルト学派に属する Max Horkheimer の著作をドイツ語で学ぶゼミでした。そこである時、順番にあたっていた院生がたどたどしく翻訳文を発表すると、出口教授が「田川君!」と名指しして、改めて翻訳をするよう求めるのです。すると、いちど聞いたらスッと頭に入るわかりやすい言葉が、田川さんの口からほとばしり出るのです。出口先生は語学特にドイツ語に通暁している方として名が知られていました。その先生でも、翻訳の厄介な部分は、「田川君!」で済ませていました。田川さんは先生から絶大の信頼を得ていることが分かりました。

 ドイツ語以外に、イタリア語にも取り組んでいました。オーストリアの政治経済状況を調べている際に「イタリア語の文献が出てくるんだよなぁ」とやや困惑した表情を浮かべていたことがあります。どうされるのかなと、私も悩みを共有しながらも傍観していると、半年も経たないうちに、いつの間にかイタリア語をマスターしておられるのです。これには驚きました。新しい外国語を学ぶときには、同志社大学にある「ライトハウス(light house)」を活用すると話してくださいました。電話で予約を取り随伴者とともに大学を訪れ、語学の指導を仰ぐ方に面会するだけでも、たいへんな手続きを要します。そのような貴重な時間を無駄にしないよう、田川さんは、その場で教えられたことは一度ですべてを覚えてしまうと話されました。ある時、私が愚かにも「そんなことができるのですか」と疑問を呈したところ、「俺にはそれしかない」とさらりと返されました。私にはこのことが「一大ショック」でした。たしかに田川さんにとっては、あらゆる機会が次には決して再会を期待できない一期一会の瞬間でした。忘れたら辞書とか参考書を見直そうなどという「甘え」がまったく許されない境地にいつも身を置いていたことが分かりました。


 語学のことで付記しますと、田川さんの遺作となった「モッラーのイラン」(世界書院1992年283頁)はフランス語からの翻訳ですが、対象がイランであるため、田川さんはペルシャ語の辞書を何冊も購入して、ペルシャ語についてもかなり熱心に取り組んでいたことが、残された蔵書リストからわかりました。田川さんは研究に必要な外国語には先ず立ち向かい、使うのに耐えるレベルまで上げてしまう断固とした態度と能力を備えていました。


活発な少年の受難

 昭和24~25年ころの日本ではまだ社会的インフラが整わず、冬期に石炭ストーブで暖を取る小学校が多い状態でした。しかし、子どもたちの好奇心は戦後の社会的動揺の中でも健在で、アルミニウムの鉛筆サックの中に小さく刻んだセルロイドを詰めてストーブの上で、小型のロケットとして飛ばす子どもがどこの学校にもいました。活発な田川さんもそのひとりでしたが、小さなロケットに満足できる少年ではありませんでした。そこで、傘の柄ほどの長い太めの鉄管を用いてより本格的なロケットつくりに挑んだのです。その制作途中で、恐ろしいことに火薬が逆噴射して、両眼の視力を完全に失うことになってしまいました。中学2年生時の出来事でした。

 田川少年の苦闘はここから始まります。すべては自分が招いてしまった凶事であることを真正面から受け止め、決意も新たに思いもかけなかった人生航路に踏み出すことになったのです。中学と高校は盲学校へ通い、大学は同志社大学へ進みました。さらに、京大大学院経済学研究科へ、(前述の保住さんの話によると)「素晴らしい成績で」進むことになりました。試験を点字で受けたのかあるいはドイツ語で受けたのか、詳細は不明です。田川さんは常に前を向いて進む人で、過去を振り返る話題にはあまり触れませんでした。


驚いたことの数々

 次に、いくつか私の心に残ることを、順序もなく述べてみたいと思います。


* 北白川の閑静な住宅地にお住いのスイス人宣教師夫妻の家を何度かお訪ねしたことがあります。ご主人はドイツ語を話し奥さんは日本人でしたが、会話に日本語は全く登場しませんでした。田川さんはこの訪問が本当に楽しみなご様子でした。話がドイツのパンとかチーズに及ぶと田川さんの独壇場で、これほど詳しい人はドイツ人、スイス人の中にもいないとご主人が感心していました。図らずも、田川さんの味覚の鋭さが証明されたのです。


* 私が松本出身であると知って、「そういえば俺も学生時代に信州に行って松原湖まで足を延ばしたことがあるんや。あそこはきれいやったなぁ!」と嘆息なさるのです。私が、その時には田川さん目が見えなかったんではと、素朴な疑問を思わず口にしてしまうと、ただ静かに黙して何も返されませんでした。あとから別の機会にそのことに触れると、風の動き、湿り具合、匂いなどで景色が見えてくるのだと、話してくれました。晴眼の普通人には窺い知れない何か特別のイメージと景色形成が、脳内で起こっているのだと思いました。


* 日中、いろいろなところを巡り、銀閣寺の電停から市電に乗り岡崎道で降りて自宅に帰ったときなど、やや広い玄関の作りつけのベンチに座って、たまには老酒などでノドを湿しながら、今日はこんなことがあったなぁと振り返りながら語り合うのが楽しいひと時でした。そういえば、と田川さんが切り出すのは、さっき銀閣寺の電停で君が立ち話していた女の子なぁ、顔は丸型で背は155㎝位、こういう状況の時にはこういうことを言うタイプの女だろうという推測でした。たしかに私は同級生の女性と数分の立ち話をしていました。その女性に対する田川さんの推定評価は、ぴったりと当たっており、どうしてそこまでわかるのだろうと、私は怪訝な思いに駆られました。田川さんは眼耳鼻舌身意の五官を最大限に活かして短時間の出会いから明確な判断を下されたのだと、後で思い返しました。


* ご自宅の書庫には森鴎外と夏目漱石の本が多くありました。田川さんは、鴎外の文体がお好きで、きみも文章を書くのに鴎外を参考にしたらよいと薦められました。

 ドイツ語関連は、大辞典ではなくそれよりもっと詳しいDudenの12冊本をお使いのようでした。Dudenは1冊が2㎝ほどの厚さで、「動詞」「形容詞」「前置詞」「外来語」などにそれぞれ1冊が充てられているドイツ語の本です。ドイツ語の専門家が使うような辞書を日常的に使っているのに驚くとともに、ドイツ語の正しく美しい表現にかける田川さんの情熱の深さが推し偲ばれました。


* 田川さんは一時、株式の投資・運用に没入していたことがあります。同志社大学時代の友人が岐阜で大きな繊維関係の事業を経営する会社のご子息で、会社から1億円相当のお金を田川さんに融通し、思うように活用する機会を与えてくださったのです。

 ラジオの株式市況を聴きながら、大和証券に自宅から電話をかけて、ほとんど「指し値」で注文を出していました。ときどき思い出したように点字機にメモを入れる程度です。主な株式銘柄の動きがすべて頭脳内に格納されていますから、瞬時に証券会社宛の注文出しが可能になるわけです。年間で15%~20%の利益を上げていたと話してくれたことがあります。東証一部上場企業の株式を中心に扱っていたのでしょうが、その中から値動きの激しい企業を中心に、株式の動向をすべて頭に収めて取引を行なうとは、本当に信じ難い話です。外国語と同じく、田川さんの頭をいったん通過したものは記憶され次の新たな知識のために活用されたのだと思います。

 あの名高い経済学者ケインズ(John Maynard Keynes 1883~1946)も、自分の金で株を買い運用し、しかもかなりの利益を得たことを通じてミクロ経済を肌で知り、それに加え経済の全体状況を考えるマクロ経済の分野で理論構築を行なったから、説得力の高い経済理論を展開できたのだ、というのが田川さんの考え方でした。現在の経済学者は、わが身を削って実地にミクロとマクロの経済を学ぶ姿勢に欠けていると、渋い評価を下していました。


田川さんから学んだこと

 田川さんはいつも静けさを湛えている方でした。しかし、少しも暗いところはなく会話を共に楽しもうという包容力に富んだ明るさをお持ちでした。ジョークもお好きで、時には落語の「考え落ち」のような、後でよく考えたらわかるような冗談も飛ばされました。いろいろな場所へよく出かけましたが、お伴する私が気兼ねするような状況は全くなかったように思います。私は思うままを気楽に話し、田川さんとの会話を常に楽しんでいました。私は自由な気分でしたが、今から振り返ると、田川さんは細心の注意をはらって私のために気遣いをしてくださっていたのかもしれません。そうだとすれば、私は軽薄でした。

 「静かな明るさ」に関わることとして、私は田川さんが過去の暗いことなどを全く話題に挙げないことに、つくづく感心しておりました。人生の初期の段階で急に視力を失い、他の人とは異なる人生の歩みを強いられたことは、大きなショック以外の何物でもありません。

 たしかに、自分とは異なるあたりまえの人生を思い浮かべても、現実の何かが少しも変わるわけではないでしょう。しかし、多くの人は過去における自分の失敗とか不甲斐なさを思い起こして自分を責めるものです。田川さんは、心の中ではどうあれ、人の前では決して否定的に過去を振り返らないという決然たる姿勢を、たしかな空気として身辺に漂わせていました。常に前をみつめ、眼前の今に求められる仕事に集中する姿勢を保っていました。

 あるとき「わしは目が見えんへんかったから、これだけ語学ができるようになったかもしれん」と田川さんがお話になるのを聞いて、私は本当に驚きました。自分の身に生じた最大の「変事」を肯定的以上の「一種の恵み」として捉える精神力の強靭さに圧倒されたのです。もちろん、そのような心境に至るまでに経た、長きにわたる「葛藤」の厳しさに、私が思いを寄せないわけではありません。とにかく私は、田川さんが決然とものごとを決め、あるいは妄想を捨て去り、静かに明るく前へと進むお姿に魅せられる思いを得ました。


 田川さんは平成4年(1992年)の1月28日に55歳でお亡くなりになりました。お葬式が行われた左京区の葬儀場には、出口勇蔵教授(経済思想史)、河野健二教授(フランス経済思想史)ほか、何人もの先生が田川さんの逝去を惜しんでお集まりになりました。

 「この頃コンピュータの躍進がよく話題になるんやけど、この田川君のような優秀な頭脳をコンピュータに移し替えることはできんのかね」というのが、先生方に共通する慨嘆の内容でした。私は、田川さんが大学に職を得るなどして、ご自分の業績と人生の歩みをより多くの人々に知ってもらうチャンスが失われたことを残念に思いました。田川さんの考え方と生き方そのものが、他の人への大いなる励みになると思うからです。  

(July6, 2026)



蛇足

 脳科学で有名な「米ソーク研究所」によると、人間の脳の記憶容量は1P(1ペタバイト=1,000兆バイト)あるようです。これは文字量で広辞苑3,800万冊にあたります。映像では2時間の映画を1日1本ずつ見ると、539年分になります。

 私たちは自分の身体の中に、装置としては素晴らしいものを抱えているわけですね。あとは、使い方だけが問題になります。

  


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田川恒夫(たがわ つねお)

 1937年8月13日生

 1962年 同志社大学経済学部卒業

 1973年 京都大学大学院経済学研究科博士課程修了

 1974~1992年 アジア現代史研究所主宰

 1992年1月28日 没


主要論文 

「オーストリア・マルクス主義の多民族共同体論」

     「現代の理論」1968年2・3月合併号


訳書 

・ハインツ・ヌスバウアー著「ホメイニー おいたちとイラン革命」   

 社会思想社 1981


・アミード・ハサンガ著「反独裁と反帝国主義をめざして」 

           月刊エコノミスト1980.1


・「イランからの手紙――イラン革命1周年」

           『毎日グラフ1980.3.9号』

     


あとがき

 初期仏教の釈尊入滅後100年ほど経って開かれた「第一次結集」では、釈尊から教えを受けた高位の弟子たちがインド各地から集まって、釈尊の教えの内容を統一化する試みがなされました。

 その際、それぞれの弟子が「如是我聞」(私はこのように聴いた)と前置きし、自分がお釈迦様から聴いた内容を述べ合ったようです。最後にそれらを阿難?が中心になってまとめ、統一された内容を皆がそれぞれの脳内に格納して、諸方へと散ったとあります。

 これらの作業がすべて空中戦で紙ももちろん録音機も使わずに行われたとすれば、現代人の我々にはまさに驚異としか呼べません。この方法しかなかったから実行したと言うのは簡単ですが、人間は何も手段がなければその時に入手できるやり方で、困難を乗り越えることが本当にできるのでしょうか。田川さんは、実際にその困難を乗り越えた実例を示してくれました。身近なことながら、やはり驚くべきことだと思うばかりです。

 イスラムの世界に詳しい井筒俊彦先生は、或る時、日本に亡命?しているイスラム学者に、不明な点をお尋ねしようと、浅草近辺の下宿屋の押し入れに住むその高名な学者に教えを請うたそうです。押し入れというのは、その学者が日本人の好意に甘んじてお世話を受けていることに気兼ねして遠慮深く押し入れに入っていたようです。

 しかし、そのような珍奇な場面で取りかわされた会話の中身は、珍奇さに反比例するほどの高等な内容でした。すなわち、井筒さんが発するイスラムの教えに関わる高度な厳しい質問に対して、イスラム学者は、まるで数千ページに及ぶイスラム経典が目の前にあるように、淀みなくすべての質問に明解な答えを提示してくれたのです。何冊もの厚いイスラム経典の細部が、頭の中で整理され保存されていなければ叶わない対応だったことを示しています。

 ホモ・サピエンスとしての脳の身体的な機能面では現代人と数万年前の人類とはほぼ同じレベルにあるといわれています。しかし釈尊の弟子による言語の空中戦あるいは押し入れに住むイスラム学者の振舞いをみるとこれらは同じ人間としての所業とは到底思えません。

 驚きは高まり,ナゾは深まるばかりです。

       (July 8, 2026)



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