コロンブレ

コロンブレ

ディーノ・ブッツァーティ作

亀井邦彦訳



 ステファノ・ロイが十二才になった時、彼は父親に、〈お祝い〉をせがんだ。父は船長で、素敵な快速帆船の持主だった。その父といっしょに、船に乗りたいというのが彼の願いだった。

 《大きくなったら、ぼく、パパみたいに、船乗りになるんだ。それで、パパのよりずうっとカッコよくって、ずっと大きい船の船長(キャプテン)になるよ。》

 《神様がいつもお前のそばに、いますように。なあ坊主、》 父親は応えた。あたかもこの日、彼の貨物船は出帆することになっていたので、彼は息子を一緒に乗せた。

 太陽が照りつけ、海はおだやかだった。ステファノはまだ船に乗ったことがなかったから、デッキをはしゃぎまわり、帆の複雑な操作に目を丸くした。彼は、あちこちと、水夫達に聞いて歩くと、彼らは、笑いながら、ひとつひとつ説明してやった。

 船尾にゆきつくと、息子は足を止め、何気なく、或る〈物〉を見た。それは、海上、二、三百米の辺(あたり)に、見えかくれしては、航跡をたどっていた。

 船は申し分ない追風を受け、既に、全速で疾走していた。にもかかわらず、あの〈物〉は、依然として、つかず、離れずついてきていた。彼は、その正体がつかめぬままに、不可解な〈何か〉を感じ、それが、彼を強く惹きつけた。

 父親は、早くも、ステファノの姿を近くに見かけぬ上、大声で呼んでも、返事がなかったから、ブリッジを降りると、息子を探し歩いた。

 《ステファノ、お前、何をそんなところに、つったってるんだ?》 艫(とも)に息子の姿をようやく見つけて、彼は尋ねた。息子は立ちつくして、波間に目を据えていた。

  《パパ、こっちへ来て、見てよ、》

 父親は行き、自分でも見た。息子の示す方向には、だが、何も認められなかった。

 《黒いものがいて、時々、船の通った跡のところに、ちらっと見えるよ、あとをつけてるんだ。》

 《パパは、40才だけど、まだ目はいいつもりだがな……さっぱり、何も見えんな。》

 息子が、なおも見えると云い張るので、父は双眼鏡を取ってきて、海上、航跡に見当をつけて、熱心に探していた。ステファノが父を見ると、父の顔は真青になっていた。

 《何か、あった? どうしてそんな顔するの?》

 《嗚呼(ああ)、お前の頼みになど、耳を貸すんじゃなかった。》 船長は叫んだ。

 《こうなると、お前のことが心配だ。あれは、お前、海からちらりと見えたね、跡をつけてくる、あいつは、ふつうの〈もの〉じゃない。あれはコロンブレだ。船乗りなら、何よりも、恐(こわ)がっている魚だよ。世界中、何処の海にもいる。一種の〈ふか〉だ。恐ろしい、得体の知れない、人間よりずっと抜目のない〈ふか〉さ。多分誰にもわかりっこないわけがあって、奴は、それで、自分の生贄(いけにえ)を決める。一度、奴に目をつけられたら、もう駄目だ。何年も何十年も、一生、追いかけられて、最後には必ず、むざぼり食われてしまう。それに、これが、不思議なんだが、生贄本人と、その血縁の人でなければ誰も、そいつを見ることができないのさ。》

  《ただの、おはなしじゃないの?》

 《ああ、パパは一度も見てないよ。だが、何度も、そいつの話を聞いてたから、すぐわかったさ。野牛のようなあの鼻、いつもパクパク開閉してるあの口、恐ろしいあの歯。ステファノ、間違いないよ。えらいことになったけれども、コロンブレは、お前に決めたんだ。船乗りになって海に出ている限り、奴はお前を放ってはおかないよ。よくお聞き。今からすぐに陸(おか)に引返すから、お前は船を降りるんだ。もう決して岸を離れるんじゃないよ。どんな事があっても絶対に駄目だ。約束しなさい。海の仕事はお前の為にならない。また、陸(おか)でだって、偉くなれるさ。》

 こう云うと、直ちに航路を逆にとり、再び入港すると、急病という口実で、息子を下船させた。船は息子を残して再出帆した。

 すっかり動転して息子は岸に残り、マストの頂きが、水平線の下に沈みきるまで、そこにとどまった。港を仕切る防波堤の彼方に、海は完璧に寂漠としてあった。しかし、じっと目を凝らして見ると、ステファノは、はるかに、黒い点を認めることが出来た。それは、水面すれすれに、見えかくれしていた。〈彼の〉コロンブレだ、水面と交差する、上下に、ゆっくりと、執念(しつこ)く彼を待っている。


 その時以来、息子は、全ゆる手段で、海への野心を思いとどまる様にされた。父親は彼を百キロ程離れた、内陸の都市にある学校に遣った。とかく、時が経つ間に、新しい環境に気を惹かれて、ステファノは、もはや、あの海の怪物のことを思わなかった。けれども、夏期休暇で、家に戻ると、先ず、何よりも、一寸した暇をみつけては、急いで波止場の突端にやってきた。それは一種の偵察だった。心の底では、そんな偵察が余計な事と思えたものの。長い時が経ったから、コロンプレは、仮に、父が彼に伝えた話が全部真実(ほんとう)だったにしろ、もうきっと、しつこい〈包囲攻撃〉をあきらめたに違いないんだ。

 だが、ステファノは、そこに茫然と立ちつくした。心臓は早鐘を打っている。波止場の、二、三百米向う、外海(そとうみ)に、あの忌わしい魚が、浮き沈みしている。ゆったりと、時折、鼻を水からのぞかせ、陸をうかがうそのさまは、あたかも、舌なめずりしては、 “ステファノ・ロイは、いずれ、やってくるのかどうか” と見張っているものと見えた。

 かくして、あの仇敵が、昼夜自分を待っているんだ、という考えは、ステファノにとって、秘密の強迫観念に変った。あの都市、遠く離れた場所にいてさえ、真夜中、不安に駆られて、目を覚ますことがあった。自分は大丈夫安全なんだ、そうさ、百キロの距離が、彼をコロンブレから、へだてているではないか。しかし、彼にはわかっていた、山を越え、森を抜け、野をよぎったあの向うに、フカの奴がいて、彼を待っている。たとえ彼が、ここよりもっと遠くに移ったにしても、やはり、コロンブレは、最寄りの波止場の沖、なめらかな海面に、彼を待ち伏せたであろう。仮借ない執念をもって、人の運命を腕づくで支配するのだ。

 ステファノは、真面目で、熱心な少年だったから、勉強を続け、着々と成果をあげた。そして、大人になるとその都市の商業中心地で、一流の、報酬のよい職に就いた。その間に、父は死んだ。彼の素敵な快速帆船は、さる未亡人の手に移った。息子は、かなりな財産の相続人となっていた。仕事、友人達、気晴し、最初の恋。ステファノは、今では自分の生活に慣れていた。にもかかわらず、コロンブレヘの思いは、決定的であり、同時に、幻惑的妄想として、彼を悩ませた。日を追って、それは、弱まるどころか、ますます、執拗なものになると思われた。働く生活、気楽で、静かな生活への満足感は大きかっだ。が、やはりもっと大きいのは、深淵(ふかみ)からの誘いだった。とにかく、二十二年が過ぎた。時に、ステファノは、都市の友人達に別れを告げ、仕事を辞すると、故郷へ帰り、母親に、父の仕事を継ぐという強い意を告げた。母親は、ステファノがあの謎のフカの話を決して話さなかったので、喜んで、息子の決意に同意した。息子が海を捨て、都市に出るのを許した事は、彼女にとっては、常に、心中、家の伝統に対する裏切り行為だと思われた。

 ステファノは航海を始めた。彼は、船乗りとしての資質、疲れを知らぬ体力、恐れを知らぬ船乗り魂を、示した。航海に次ぐ航海、彼の貨物船の跡には、昼も夜も、凪ぎにも嵐にも、コロンブレが、とにかくついてきた。彼にはわかっていた。こいつは、彼に対する呪いだ、罰(ばち)なのだ。だが、まさしく、それ故にそいつから逃れる術もないのだ。乗組員の誰一人、その怪物の姿を認めなかった。彼以外には誰も。

 《あの辺りに、何も見えないか?》 彼は時折、仲間達にこう云って、航跡を指した。

  《ああ、全く何にも見えないが、何だい?》

  《何かわからん。気のせいかな……》

 《あんた、まさか、コロンブレを見たってんでもないだろうが》 彼らはズバリ云った。にやにや笑い、錨に手をやっていた。

 《何を笑う? どうして、そいつをいじるんだ?》

  《どうしてったって、コロンブレってのは容赦しねえ奴だぜ。もしか、奴がこの船を追っかけだしたってことになると、俺達の誰かが、消えてるってことになるぜ。》

 だが、ステファノは、それですますわけにはいかなかった。身に迫る絶え間ない脅威は、かえって、彼の海にかける望み、海に対する彼の熱情、闘争(たたかい)の時の、危機に際しての彼の勇気を、増すかに見えた。

 彼は、船長としての自信はあったから、父が彼に残した何がしかの財産によって、仲間と共同で、一隻の小さな貨物用汽船を手に入れた。次いで、その単独所有者となった。更に、幸運にも、てっとり早い仕事が、ひきもきらずにあったおかげで、ひきつづき、彼は本格的な商船を手に入れることができた。かくて更なる野心的目標にとりかかるのだった。

 しかし、成功も、金も、彼の心の、あの絶え間ない渇望をいやすには、役立たなかった。それにまた、彼は決して、船を売り、陸(おか)にあがって別の事業に着手しようなどとは、思わなかった。

 航海又航海、彼にはそれしかなかった。長い航海を終えて、何処かの港に降り立つや、直ぐと又、再び海への焦燥に駆られた。わかっていたのだ。海にはコロンブレがいて、彼を待っている。コロンブレとは、破滅のことなのだ。ほかの何ものでもない。抑えきれない衝動が彼に安らぎを許さず、彼を海から海へと駆った。


 遂に、突然ステファノは、或る日自分が老いてしまったことに気付いた。全くひどく老いていた。彼のまわりの者は誰一人理解できなかった。何故、このように裕福な彼が、最後まで、辛い海の生活を捨てないのか。老いて、悲しいまでに不幸なのに、何故に彼の一生は、費やされてしまったのか。あの、気狂いじみた海から海へのフーガ。追いかけられて、わざわざあの敵の手中に逃げ込むための。

 けれども、ゆったりと静かな生活よりも、はるかに大きいのは、彼にとっては常に、深淵(ふかみ)からの誘いだった。

 そして或る夜、彼の立派な船が、生れ故郷の港の沖に投錨中、彼は、死の間近に迫ったことに気付いた。そこで彼は二等航海士(セカンドオフィサー)を呼んだ。彼は、この男に大きな信頼を寄せていたので、彼が、これから為そうとしている事に反対しない様、この男に申し渡した。男はかしこまって、これを承諾した。

 こうした約束を得て、ステファノは、彼の云うことに狼狽しながら耳を貸している二等航海士(セカンドオフィサー)に、コロンブレの件を打ち明けた。奴がこの50年というもの、絶えず彼を追跡してきているものの、空しかったことを。

 《奴は私に、世界の端から端まで、つきまとってきた。忠実に、いくら良い友人でも、あれ程の、律儀さを見せることは無理だったろうな。もう私はすぐに死ぬ。奴も今では、ひどく老いて、疲れているだろう。私には、あいつを裏切ることはできない。》

 こう云って、彼は別れを告げると、海上に一隻のボートを降ろさせ、それに乗り込んだ。そして、一本の銛(もり)を持ってこさせた。

  《さあ、奴に会いにゆこう。》 彼は告げた。 《奴の期待を裏切らないことだ。反対に、私の方から立ち向かおう。私の最後の力で。》

 力なく櫂(オール)を操(あやつ)りながら、彼は船から遠ざかっていった。航海士や甲板員達は、彼が彼方に消えてゆくのを見つめていた。おだやかな海上を、彼は、夜の闇につつまれていった。空には、鎌のような月がかかっていた。

 たいして、疲れることもなかった。不意にコロンブレのおぞましい鼻づらが、ボートの舷側に現われた。

 《さあ、私はきたぞ。お前の所に。とうとう会えたな。》 ステファノは云った。

  《今は、お前と私きりだ。》

 彼は、あらん限りの力を振りしぼって、銛をかざし、一撃を加えんとした。

 《ウッウッ》 懇願に似た声でコロンブレはうなった。

 《何とも長い道でした、あなたに逢うまでは。私も疲れ果てました。何と永い間、あなたは私を泳がせたものではありませんか。あなたは、逃げてまた逃げました。そして、あたたには、何もわかってなかったわけです。》

 《何のことだ。》 ステファノは云った。息も絶えだえだった。

 《つまり、私は、あなたを、取って食うために、世界中を追いかけたのではないのに、あなたは、そう思い込んでいたのです。海の王様によって、私はただ、あなたに、これを届ける役目を仰せつかっていただけなのです。》

 ふかは、舌を出すと、老船長に、一個の燐光を放つ小さな球をさしだした。

 ステファノは、それを指の間にはさんで見た。それは、途方もない大きさの真珠だった。彼には、それが、あの名高い〈海の真珠〉と知れた。手にする者には、富、力、愛、そして魂の安らぎをもたらすあの〈海の真珠〉。

 しかし、もはや遅すぎた。

 《ああ、何と…》 彼は悲しくかぶりを振った。 《何ということか。全ては間違いだった。私は、一生をとうとう、棒に振ってしまった。それに私は、君の一生をも駄目にしてしまったのか。》

  《それでは、哀れな男。》 コロンブレは応えた。そして、黒い海に沈んだ。永遠に。

 二月経って、打ち寄せる波に揺られて、一隻のボートが、切立った暗礁に打上げられた。それは、たまたま、近くに来ている漁師達によって発見された。ボートには、未だ、腰かけた姿勢で、自骨が座っていた。指の槌骨の間に、〈彼〉は小さな丸い“石”をしっかりとはさんでいた。



 コロンブレは、大きな体軀の、見るからにぞっとする、その存在の極めて稀な魚です。海によっては、そこの浜辺に住む人達によって、コロンベルとも、カゥロゥブルア、カロンガ、カル=ベル、カルング=グラとも呼ばれています。博物学者達は、妙なことに、それを知りません。遂には、それは存在せぬと(メイ快にも)云い張る学者もいる始末です。


(完)

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