アルロットの名言と冗談


 『教区司祭アルロットの名言と冗談』の輪郭

米 山 喜 晟

 



はじめに


  私は「一休とアルロット­­­­-比較文学史上希有の偶然-」1)において、共に頓知と悪戯という二つの特色で後世に親しまれた聖職者でありながら、お互いに全く知ることなく85年もの長きにわたって同じ年代を生きた、一休とフィレンツェの聖職者アルロットの人物像を比較した。しかし我が国における一休の知名度の高さに比して、アルロット・マイナルディのそれは、イタリアにおいてもあまり高くないことを認めざるを得ない。

1)  拙稿、一休とアルロット・比較文学史上希有の偶然、『桃山学院大学人間科学』  第24号、大阪 2003年1月.(本「百万遍・創刊号」にも掲載。


 そこで私は前論文を補足するために、後世にアルロット像を伝えている作品について、その輪郭を紹介しておきたいと考えた。後に見るとおりその作品は厳密な意味ではノヴェッラ集とは言い難いけれども、明らかにノヴェッラというジャンルの影響の下で生まれた作品なので、これまで私が長年にわたって続けてきたイタリア・ノヴェッラ史研究にとっても、このジャンルの影響力を知るために無意味ではないと思われるからである。


 その作品のタイトルはイタリア語の原題が ‘MOTTI E FACEZIE del Piovano Arlotto’ 2) というもので、直訳すると『教区司祭アルロットの名言と冗談』となる。この作品を紹介する際に真っ先に触れられるはずの作者については、恐らくその名前が書かれていたと思われるその草稿の第1枚目が、故意か偶然か紛失してしまったために、作者の名前は今日まて伝えられていない。とにかく名のある文学者や知識人の類いではないことは確実で、たとえ名前が残っていたとしても、おそらくその人物像は不明のままだったと想像される。イタリアのノヴェッラ集の作者には、『ロミオとジュリエット』の源流と見なされている作品の作者、シエナのセルミーニ3)を初めとして、そうした例が珍しくないのである。私がこの作品の紹介のために利用しているテキストは、ジャンフランコ・フォレーナ(Gianfranco Folena) という、15世紀の詩人ポリツィアーノの散文作品の優れた研究者4) が、イタリアにおける文学研究書や全集の出版社として定評があるリッチャルディ社から1953年に刊行した、この作品の唯一の校訂版とされている版本である。

2) A cura di Gianfranco Folena; MOTTI E FACEZIE DEL 

PIOVANO ARLOTTO, RICCIARDO-RICCIARDI,  Milano-Napoli 

1953.

3)   A cura di G.Vettori,  G.Sermini,  Novelle,  Perugia 1968. その中の第一話に眠り薬で死んだふりをする喜劇的な話があって、「ロミオとジュリエット」の遠い源流とされている。

4)   Detti Piacevoli という散文作品が、ポリツィアーノのごく若いころの作品であることを証明した、とされている。


 実は原作者の草稿に最も近いと見なされているこの版のテキストは、その後頻繁に刊行された普及版のいずれとも異なっていたのだが、これをもって普及版の最大公約数程度に見なすことをお許しいただきたい。その末尾にはくわしいテキストへのノートがついていて、従来刊行されてきた版との異同や他の文学作品との関連が示されているので、この作品と他のノヴェッラ集との関係を知るためにも、便利なテキストだと考えられる。


 本論では第一章で、作品の構成や各章の長さ、およびその刊行時期と場所、またそれに関する問題点を検討する。続く第二章でこれまでに私がノヴェッラ集を紹介する際に用いてきた方法に基づいて、作品の時代、舞台、登場人物の階層などを概観して、この作品の全体像を把握する。第三章では各章の内容をパターン化して紹介するとともに、他のノヴェッラ集との関連を調べて、どんな作品の影響の下でこの作品が生まれたかを明らかにする。最後の章では、この作品の執筆者と作者の人物像を推測しながら、アルロットと一休像との差異を再度検討しておきたい。





   

第一章 作品の構成、各章の長さおよび刊行された時期について


 この作品はルネサンス期に盛んに書かれた多くの伝記類のように、アルロットの生涯をその年代順に追跡したものではなくて、作者が書きたいと思ったエピソードを任意に羅列したものである。ただし他のノヴェッラや説教が延々と引用されたり、教訓や名言が羅列されていることがあり、そうした場合にはアルロットの生涯とは全然無関係な事柄が記されることも少なくない。


 この作品自体の構成は至って単純で、冒頭に、おそらく本文執筆後に作製されたものと推定される、4ページ、本文に末尾の墓碑銘も含めて141行におよぶ略伝と賛辞を混ぜ合わせた「生涯」と題された小文を置いた後、全部で218の章をその後に続けて並べたものである。各章の長さは後に見るようにまちまちで、最長の作品は283行だが、後に見るとおりそうした作品はあくまで例外的である。しかも書いているうちにエピソードの材料が枯渇したらしく、全218章の内の175章以後は、わずかな例外を除くと、ほとんどが警句や教訓の類の紹介となってしまっている。

 特に末尾に近づくにつれて、一つのエピソードの体裁を整えることさえ省いて、ことわざや警句の類いを時には一個、普通は複数個、一行ずつ空けて羅列しただけの章の数が増え、エピソード集という形式からも逸脱してしまっている。おまけにそうした箇所に収録された名せりふや警句の多くは、実はアルロット自身のことばではなくて、人文主義者アンブロージオ・トラヴェルサーリ1) が以前にラテン語訳しておいたディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者伝』2) の1480年にヴェネツィアで刊行されたイタリア語訳からの引用であることが明らかにされている3)。したがってこの作品は、アルロットの言行録と呼ぶにはあまりにも不純な夾雑物をふくんだ、不完全なものである。

1) Ambrogio Traversan ( 1386~1439 )、人文主義者で神学者。修道士だがギリシャ語に通じ、ギリシャの古典をラテン語に翻訳し得た。

2) 三世紀ギリシャの哲学史家できわめて興味深い具体的な記述で哲学者たちの生涯を記した。岩波文庫などにその翻訳が収録されている。

3) MOTTI op.cit.のpp.339、340他多数の箇所で同書からの借用か指摘されている。


 ところで各章の長さであるが、この書物はかなり大きな紙型が用いられているため、フルに用いられた場合1ページが37~38行、1行字数もアルファべットで55~58字に及び、我々が日常的に知っている書物よりもかなり多くの文字を詰め込んでいる大版の書物である。だから同じ1ページと言えども我々の持つ普通の洋書の1.5~2倍程度と考えるべきだが、たとえそのことを考慮しても、各章の長さはそれほど長いとはいえない。それぞれの章を、タイトルを除いた本文の行数に基づいてクラス分けした結果を、以下に示しておく。


  1 ~ 15行  : 計72章、33.03 %

 16 ~ 30行 : 計57章、26.15 %

 31 ~ 45行 : 計23章、10.55 %

 46 ~ 60行 : 計33章、15.14 %


61 ~ 75行  : 計12章、 5.50 %

75 ~ 90行  : 計7章、  3.21 %

90行 以上   :  計14章、 6.42 %


 以上の表によっても、いかに短い章が多いかがわかるであろう。各章の番号は後で付けられたものであるとされていて、それぞれが独立した小品と見なし得るものなので、本文15行以内、タイトルを付けても半ページ足らずの短篇が、ほば全体の三分の一におよんでいる。ごく短い本文10行以内の小品がその内の44章、すなわち全体の20.18 %を占めている。さらに少し梓を広げて、本文30行以内、この版の1ページ(今日の洋書の単行本だと、多めに見積もっても見開きの両面2ページ)以内に収まる作品が全体の59.17%、すなわち約6割を占めている。総行数8193行、各章の平均は37.58行で、必ずしも短いとは言えないけれども、これは少数の長い作品が全体の平均を押し上げた結果生じた一種の数字のトリックであり、実際は上に見たとおり、この版で1ページ足らずというごく短い作品が6割を占めているのである。

 ノヴェッラ集の類いには、『ノヴェッリーノ』、ポッジョ・ブラッチョリーニの『冗談集』、あるいはサッケッティの『三百話』など、『デカメロン』などに比べると一回り短い作品が多数を占める作品4) がいくつか見られるのだが、 この作品中の多くの章は、まず長さの点で、明らかにその系列の作品に類似していると言える。

4) 米山、鳥居共著、イタリア・ノヴェッラの森、大阪1993が、『ノヴェッリーノ』、『冗談集』の内容や長さを紹介しており、またサッケッティ『三百話』の約三分の一は、『ルネサンス巷談集』というタイトルで、杉浦明平氏の翻訳が岩波文庫に入っている。


 そうかといって、作者が最初からそういう作品を企画していたかどうかは、 大いに疑わしく思われる。なぜなら、作者はむしろかなり単純に、思い出せる事柄を次々と記して行ったという印象を受けるからである。34行に及ぶ冒頭の作品1(以下章の番号を数字のみで表す)では、大司教アントニーノ5)によってアルロットという自分の奇妙な名前をからかわれた主人公が、自分の父は息子に奇妙な名前を付けるという過ちよりもはるかに大きな、高利貸の金を借りるという過ちを犯したために、スティンケと呼ばれる牢獄に人れられて獄死した、と語ったことが記されていて、印象的な導入部となっている。

5) Antonino Pierozzi ( 1389~1459) はフィレンツェの大司教で後に聖人と認められたドメニコ派修道士で、この時代に人気が高かった。


 実はアルロットの父が獄死したという事実は、この司祭が隠すどころか、 むしろ機会があり次第誇示したエピソードだったらしい。たとえば65にも、アルロットが二人組の呑ん兵衞から、酒を奢るようせがまれる話が出てくる。そこでは彼らの一人が、ある日の明け方アルロットの父が彼の夢枕に立って、煉獄から出るために、ミサの時に自分のために12ソルディ寄進してほしいと頼んだので、彼はそのとおりにしてやったと語り、その代償として酒を奢ってくれとせがむのである。それに対してアルロットは、「あんたは、私の父を知っていたのかね」とたずね、相手が「良いお方で、立派な商人でした」と答えると、「私の父は(幸い病死したが)あと十日も生きていたら縛り首になるところだった」と語り、びっくりした相手に、明け方の変な雲に悩まされないためのまじないというものを教えて、逆に相手二人に奢らせてしまう、というエピソードである。

 おそらくこの書物の作者は、アルロットの父親が獄死しているという事実を抜きにしては、この人物のことが語れない、と信じており、そのためにその事実に触れるとともに、アルロットという奇妙な名前にも関連しており、しかも大司教まで登場するこのエピソードを、作品の冒頭に持ってきたのであろう。事実今日分かっているだけでも彼の父は三度も借金のために投獄されており、若いころ羊毛取引の分野に人りながら、結局アルロットが聖職者となった理由の一つも、そのあたりにある、と考えられなくもないようである。

 一休との比較の際には書き落としたが、父が天皇だと伝えられ、一応貴族の母親から生まれたことが確実な一休と、父親が三度目の投獄中に病死したアルロットとの間には、その出自に極端な違いがあること、ただしいずれも極端にユニークである点が逆に類似している、と言えなくもない点が、二人を比較する上で興味深い示唆を与えているのである。それに続く第2話は聖職者の死活にかかわる十分の一税をめぐる本文48行の話、第3話はフランドルのブリュージュにおいて、船長に命じられて、ヴェネツィアのガレー船の司祭と説教較べをやってこれを打ち負かすという、長さが全章の内の第4位にあたる182行にもおよぶ力作である。

 以後第4話は、もつばら飲み食い話中心にできているこの作品では少数派の好色話で37行、以下もそれぞれ62、77、50、46、29、48行といずれも内容豊富な力作ぞろいであり、少なくとも最初の10章では、10行以下などという小品は気配すら感じさせない。ところがその後材料が乏しくなるにつれてを短い作品が増え、10行たらずの小品が実に全体の2割に達し、さらにいよいよ本当にネタが尽きると、ヴェネツィアで出たばかりのイタリア語訳された古典から、名文句をいくつも引用して紙数を増やしている、という情けない始末である。こうした展開から考えて、作者は大した計画性もなしに、興味を感したエピソードを、次々と書き連ねていったと推察しても、差し支えないだろう。

 アルロットは1396年から1484年までの88年という、当時としては異例の長寿に恵まれたが、1485~88年つまり彼の死後数年以内にこの作品が書か れたとされている6)。奇妙なことに作者自身は不明だが、この作品をフォレーナが刊行した形に筆写した通称ストラディーノ(本名Giovanni Mazzuoli da Strada) という人物の名前は分かっていて7)、フォレーナは原作に最も近いその手稿を元にして、これまでに刊行されたどの版よりも原作に実な校訂本を作ったとしている。

6) MOTTI、op.cit., p,XVI.

7) このテキストの手稿は、この書物が献呈された相手であるピエトロ・サルヴィアーティの母でロレンツオ・イル・マニフィコの次女にあたるルクレツィア・デ・メディチのために、ジョヴァンニ・マツツォーリ・ダ・ストラーダ(通称ストラディーノ)が筆写したものとされている。しかも由緒あるラウレンツィアーナ図書館が所蔵していた手稿だから、現存している内で最も権威あるものだと、フォレーナは主張している。


 なおベルナルド・パチーニ8) という出版業者によって初版が出版された年代も、通説では「1500年の直後」とされていたのに対して、ベルナルドが父の死後出版社を引き継いだのはずっと遅い1514年以降であり、またその初版の献辞の相手がロレンツオ・イル・マニフィコの孫(その娘ルクレツィアとその夫イアコボの長男)にあたるピエトロ・サルヴィアーティ( 1496~1523 )であること等、諸般の事情を考慮して、おそらく 1514~16年のことであろう、と推定されている9)。この出版が当時としては大成功で、予想を越えたベストセラーとなり、早くも1516年には、イタリアの出版業の中心であるヴェネツィアで次の版が出版されている。

8)「ベルナルド・ディ・ピエロ・ダ・ペッシャ(通称ベルナルド・パチーニ)の要求でベルナルド・ツッケッタがフィレンツェで、初めて印刷した」と記されている。MOTTI, op., cit., p.289.

9) フォレーナの調査で、パチーニの息子が父のピエロから事業を引き継いだのは、1514年のことだと分かった。なお本を献じられた相手は、二十代で夭折している。サルヴィアーティ一族は、パッツィ家陰謀事件の首謀者の一人で、ピサ大司教としてフィレンツェの市庁舎で縛り首にされたフランチェスコの実家だが、メディチ家の重要な姻戚で、後のトスカーナ大公コジモー世の母親マリーアの実家でもあった。


  さらにその後も久しく人気を保ち続け、この作品が18世紀初頭に人気を失う以前に59~60回も様々な版で刊行された、一大ロングセラーであったことが確認されている。19世紀のイタリアの民間伝承、特にシチリア研究者として膨大な業績を残したシュゼッペ・ピトレの『イタリアの民間伝承文献目録』10)という書物には、そうした諸版が年代順に収録されているので、以下で各時代別の出版回数と刊行された場所とを示しておく。

10) Giuseppe Pitré、 BIBLIOGRAFIA DELLA TRADIZIONI POPOLARI D'ITALIA' Tonno-PaIermo 1894. ピトレはシチリアの民間伝承研究者として膨大な資料を収集した。


16世紀前半、16回(フィレンツェ2、ヴェネツィア13、ミラノ1)


16世紀後半、21回(フィレンツェ9、ヴェネツィア4、ミラノ2、ヴェローナ3、シエナ1【ただしヴェローナ版の一つと同じ】、 ファーノ1、ピアチェンツァ1。 1560年以降に刊行されたこれらの版の大半は、後で記す通りアルロットを筆頭にしているものの、ゴンネッラ1l) 等他の人気者の冗談や悪戯も紹介していて、16世紀前半のアルロットの伝記的な性格が希薄になっているらしい。)

11) ゴンネッラは13世紀フィレンツェ出身の道化師。サッケッティのノヴェッラにたびたび登場。アルロットはこうした仲間の筆頭とされた。


17世紀前半11回(ヴェネツィア8、 ヴェローナ1、ブレッシャ1、 パリ1 )


17世紀後半11回(ヴェネツィア7、 ヴィチェンツア2、ローマ1、ポローニャ1 )


18世紀前半1回(ヴェネツィア1。 1708年のこの版でアルロットに関する書物の刊行は一時的に中断される。だがそれまでに、60 【または59】回刊行され続けた。)


18世紀末2回(トリーノ1、 ルッカ1 )


19世紀前半2回(ルッカ2)


19世紀後半4回(フィレンツェ3、パリ1)


19世紀末までの総計68回(ただしヴェローナとシエナの刊行を同一と見なすと1回減る。内訳はフィレンツェ14、ヴェネツィア33、ミラノ3、ヴェローナ4、パリ2、ヴィチェンツア2、ルッカ3、ローマ1、シエナ1、ピアチェンツア1、ファーノ1、ボローニャ1、 トリーノ1、ブレッシャ1)


 いかに超人的な研究者だったとはいえ、こうした文献目録がピトレ一人の手で作られた訳ではなく、1884年にこの作品の文献目録を発表した C. Lozzi に代表される熱心な探索者が作成した資料12) に基づいてまとめられたことは言うまでもないが、そうした探索者の目に触れなかった版が皆無だったなどとは誰にも断言できないはずである。

12) C.Lozzi, Bibliografia delle Facezie del Piovano Arlotto, 《Ⅱ bibliofilo》, V, 1884, pp.145-148.


 そして勿論20世紀にも今テキストとして用いているフォレーナの校訂版以外にも何度か刊行されている。残念ながら前任校で学生が卒論に使ったか何かで、今手元には見当たらないが、私がこの作品を最初に読んだのも、別の普及版によってであった。フォレーナによると、初版のパチーニ版自体、ストラディーノの写本に較べると若干の異同が見られるのだが、さらに16世紀の宗教改革に対するカトリックの反宗教改革の中で、ノヴェッラというジャンルそのものが大きな変容を強いられて、特に聖職者の表現に強い制約が加えられた時、まさに聖職者を主人公としているこの作品は、大きな訂正や削除を受けなければならなかった13)

13) MOTTI, op. cit., p.293.


 たとえば好色な作品や聖職者批判の濃厚な作品は、そのまま収録することが許されなかった。しかしそれでは興味が半減するので、この作品は、ゴンネッラその他の道化師達のエピソードとともに一巻の書としてまとめられることとなった。

 こうしてアルロット像は、頓知と悪戯の好きな道化師の筆頭のような存在として、現代日本の子供や庶民の間の一休像にますます近い存在となって17世紀一杯を生き延びることができたようである。だが当時のイタリアでかなり早くから熱烈な信奉者を得ていた啓蒙主義の時代がやって来ると、生き延びることはできなかったもののようである。


 さて一休説話は、寛文八年(1668)に『一休はなし』の主人公として起用されると、それまでの狂歌の名人という地味な存在から、一転して頓知の天才として生まれ変わり、類書が次々と現れ、勿論多少の盛衰はあっても、今日にいたるまでの根強い人気を得続けたのだが14)、アルロットの方はどうだったかを具体的に眺めると、16世紀ほどではなくとも、17世紀を通してまだアルロット本はコンスタントに刊行され続け、少し前の1664年にはヴィチェンツァで、また1666年には何と同じヴェネツィアで二つの別の出版社から、別の版が刊行されていて、根強い人気がうかがわれる。

14) 主に岡雅彦、一休ばなしとんち小僧の来歴、「セミナー原典を読む」7、東京平凡社1995、に依拠している。


 そして1668年以後にも、ピトレの番号の76. 1672年、ヴェネツィア、 77. 1675年、ヴェネツィア, 78. 1681年、ヴェネツィア、  79. 1693年、ヴェネツィア、  80. 年代記入なし、 ボローニャ、 81. 1700年、ヴェネツィア とほぼコンスタントに版が重ねられていたが、82. 1708年、ヴェネツィアの版を境にその流れは途切れる。

 次に刊行されたのは、いずれも年代は記入されていないが、 18世紀末のものと推定されている、83.のトリーノ版、 84.のルッカ版の二つであったとされている。だから1668年から1708年までの間、二人の人気者のイメージが共存していた、と言えるであろう。





第二章 作品の時代、場所、登場人物の階層


 本章では従来ノヴェッラ集を紹介する時に用いていた手法に基づいて、個々の作品がいかなる時代のいかなる場所を舞台として、どのような階層の登場人物によって成立しているか、そしてどのような内容の作品が多いかを概観しておく。


 この作品は一応アルロットの言行録という体裁を取っているために、やはり普通のノヴェッラ集とはかなりさまざまな面で異なっていることは当然である。その例の一つが時代に関するもので、作品中の事件は、作品中他からの引用によって語られた少数の例外を除くと、基本的にはアルロットが生きていた1396年から1484年までの88年間に限られている、といえる。だからここで扱われている事件は、イタリアのノヴェッラでしばしば扱われる古代や中世初期および中期の出来事とは全く無関係なのである。しかしアルロットが生きた88年といえども、決して短い期間ではない。では、その内のどの時期が重要なのだろうか。


 実はフォレーナは、そこで扱われている事件の年代が推定できる作品として、以下のものを上げている1)

1) MOTTI, op.cit., p.XVI


 (数字は章の番号) 1 (1459年以前)、 2 ( 1470年以後)、 13 ( 1463年以前)、 19 ( 1459年以前)、 23~4 ( 1469年以前)、26( 1474年以前)、 50 ( 1450年)、 81 ( 1482年)、 84 ( 1450年)、 89 ( 1476年)、 92~93 ( 1480年)、 99 ( 1450年)、 111 ( 1475年)、 115 (1480年以後)、 144~145 ( 1484年)、 147 ( 1459年以前)、  148 ( 1478年)等々。


 まずここで挙げられた年代そのものが、最も早いもので1450年と、アルロットの50代以後にかたよっていることが注目される。勿論「以前」となっている場合は、たいていその話の登場人物の存命中という意味なので、それよりも何十年も以前ということも純理論的にはあり得ないわけではないが、たとえば比較的早い時期のものと感じられる1と19の場合、アントニーノがフィレンツェ大司教になったのは1446年だとされているので、それ以前のことではてはあり得ない。確定し得る数字が一番早いもので1450年、アルロットが50歳代の半ばの事柄であることからも、作者が伝えている事件の内で、年代が確定てきるのはアルロットの50歳代以後の出来事と見なして差し支えなさそうである。

 このように年代が確かである具体的な事件がアルロットの生涯の後半に偏っている理由は、どうやらアルロットと作者の年令差によるものと思われる。おそらくアルロットよりもずっと年少の作者には、アルロットのもっと若い時期の事柄を、同時期に大人の感覚で見聞することは不可能だったものと考えられる。勿論ガレー船上の出来事その他、それ以前の出来事も記されていない訳ではない。それらはことごとくアルロット自身の口から回想として語られたものと考えてよさそうである。最も古い作品と見なし得るものは、聖職者となる以前と記されている修道女との交わりの様子を記した75や、聖職者になりたてのころ血気にはやってシエナでアルフォンソ王の道化師をぶちのめしたという80あたりの章だと思われる。

 そしてどうやら文献の捜索に熱心だった19世紀の実証主義者たちや、フォレー ナに代表される20世紀の文献学者たちによっても、アルロットがガレー船に乗っていた時期やその正確な回数は確定できなかったものと推察される。ただし、1438年のサン・クレーシ教会の資産台帳と1478年のそれとが比較されていて2)、後者が著しく豊かになっていることが明らかにされているので、教区司祭アルロットがガレー船などで奮闘して大いに財政的な成果を挙げたのは、 1438年すなわちアルロットの 42歳以後のことだったらしいと推察できる。

2) MOTTI, op.cit., p.XIV


 なお1450年の事柄とされている99において、アルロットは病気になったイギリス人の貴族を助け、自分がイギリスで受けた親切のお礼だと、謝礼を受けとらなかったとされているので、遅くとも54歳になる以前に、ガレー船でイギリスへ行たことは確かである。ということは、おそらく40代を中心に何度かガレー船に乗たものと思われる。

 さらに若い聖職者に対して、旅なれたアルロットが悪戯している話や、フランドルで頼まれた土産物をフィレンツェから運んでいる話などから確実に最低2回以上、またイギリス、フランドル、プロヴァンス、ナポリなどとアルロットが活躍した場所が多岐に分かれていることからも、おそらく実際には30代の末頃から、40代、50代にかけて最低3回、実際にはそれ以上船出しているものと推定される。

 また先に挙げたようないくつかの好色もしくは放埒な主題の作品を除くと、ガレー船の記録あたりがこの作品中で最も古い記録だと考えることができよう。アルロットが投獄された父も従事していたらしい羊毛取引から足を洗って聖職についたのは、30歳前後のこととされているので、それ以前のことはほとんどここには記されていないようである。唯一聖職者となる以前のことと明記されているのは75だが、それはアルロットとある修道女との関係を描いたものなので、その内容から考えて、アルロットの醜聞となることを恐れた作者がいくらかその時期を早めて記した可能性も考えられないことはないだろう。

 それら少数の例外を除くと、この作品に見られるのは、アルロットの壮年期以後死ぬまでの事柄である。すなわち彼の少年期の出来事は全然記されておらず、真偽が定かでないわずかの例外を除くと青年期のことでさえほとんど記されていないと言えよう。この点で、『年譜』において皇胤説に基づく出生が記され、また後年に発明された頓知話とはかなり違うが、それでも利発な少年時代の姿も伝えられている一休の場合3)と較べると、アルロットの言行録は大きく異なっているのである。アルロットの父親は、1412、1426、 1432年と三度も投獄4)されていることが分かっていて、それはアルロットが16歳、30歳、36歳の頃のことである。すでに記した通り、この事件は彼の生涯に大きな陰を残している。

3) 今泉淑夫校注、一休和尚年譜、 I  Ⅱ、東洋文庫、東京平凡社 1998参照

4) MOTTI, op.cit., p.XIV


 要するにこの作品中の出来事は、75や80のようなごく少数の例外を除くと、アルロットの父親の死後に起きたものだと見なすことができる。彼は父の死後にようやくそのユニークな個性を確立し得たし、ガレー船の司祭などとして活躍できたと考えて差し支えなさそうである。


 続いてそれらの出来事の舞台となった場所であるが、それは以下の表の通りである。ただし特に場所が記されていない場合でも、居酒屋などでの市民との対話はフィレンツェの出来事と見なし、農民との対話はサン・クレーシ教区の出来事と見なすなど、あるいは旅行の途中の事件の場合、ある程度途中の場所を省略するなど、多少恣意的に処理しているケースがあることをあらかじめ断っておかなければならない。


フィレンツェ市内: 1、 2、 4、 7、 12、 16、 20、 21、 22、23、 24、 26、 27、 32、 34、 36、 43、 45、 46、 47、 48、 61、 62、 63、 64、 65、 67、 69、 73、 74、 75、 81、 88、 89、 90、 92、 93、 95、 96、 97、 113、 114、 115、 116、 130、 141、 142、 143、 144、 147、 148、 149、 152、 153、 155、 156、 157、 158、 167、 170、 171、 180、 194、 199、 200、 201、 203、 207 

(計68話、全体の31.19 % )


(アルロットが主任司祭だった) フィレンツェ市の郊外サン・クレーシ教区:  10、 13、 15、 25、 28、 40、 54、 72、 84、 87、 91、 98、 117、 118、120、 122、 123、 124、 128、 129、 135、 136、 137、 139、 140、 154、 160、 163、166、 173、 174、 190、 193、 195、 218 

(計35話、 16.06 % ) 


ガレー船の旅先:船の上;  31、 66、 78、 79、 134、 146、 164、 197、    ブルッジャ(ブリュージュ);  3、  5、ブリュージュに近い港スキニーゼ; 138、     イギリス;  5、      プロヴァンス;  165、     ナポリ; 6、 150 

(計15話、 6.89 % )


アルロットのライバル、アントーニオ神父が主任司祭を務めるチニルチーナ教区:   14、 18、 19、 33、 49、 159、 161、 162 (計8話、 3.67%)


フィレンツェ近郊:バシャーノ(サン・ロレンツォ教区を含む) ; 8、 9、 52、 133、   ウッチェッラトイオ;  30、 37、  ポンテ・ア・シエーヴェ; 35、   キアンティ; 68、    カゼンティーノへの途中:   44、 131、   フィレンツニから2マイルのところ; 94

(計11話、 5.05 % )


トスカーナおよび中部イタリア: ピサ: 29、 57、 58、    シエナ;  11、 42、   シエナ郊外;  80、   ボローニャ郊外の山中;  85、 86、     ローマ;  17、 82、 105、

(計11話、 5. 05 % )


複数にまたがるもの(旅行による移動の他、話の中で入れ子になっている場合をも含む): フィレンツェとサン・クレーシ教区; 100、 112、 145、   フィレンツェとバシャーノ地区;  132、  フィレンツェとクチーナ・ダ・セスト;  77、     ムジェッロとフィレンツェ;  99、     ピサとフィレンツェ;  125、   フィレンツェとウルビーノとグラティッチョーロ;  76、     フィレンツェと船のなかとフランドルとフィレンツェ;  126      ブリュージュとフィレンツェとブリュージュ;  83、    ブリュージュとフィレンツェとジェノヴァとネコのいない島;  70、     フィエーゾレとプラート; 51、     ロレートとアンコーナ;  50、  ローマとブリュージュおよびその近郊; 111 

(計14話、 6.42 % )


不明あるいは記入なし: 38、 39、 41、 53、 55、 56、 60、 71、 101、 102、 103、 104、 106、 107、 108、 109、 110、 119、 121、 127、 151、 168、 169、172、 175、 176、 177、 178、 179、 181、 182、 183、 184、 185、 186、 187、 188、 189、 191、 192、 196、 198、 202、 204、 205、 206、 208、 209、 210、211、 212、 213、 214、 215、 216、 217 

(計56話、 25.69 % )


 話を簡単にするために単独の舞台に限って比較すると、フィレンツェ市内を舞台にした市民相手の話の方が、アルロットの教区を舞台にした主に農民相手の話よりも2倍近く多数見られるので、やはりこの作品は多くのノヴェッラ集同様、主にフィレンツェ市内を主な基盤として生まれたものであることは確実である。

 だがそのことは、この作品の主人公がフィレンツェ生まれでフィレンツェ育ちの司祭であり、書き手自身がフィレンツェ市民であることや、しかもやたらに記録を残したフィレンツェ市民の伝統の下でこの作品が生まれたという事実を考えると、当然すぎる事柄なのである。むしろサン(ト)・クレーシ教区の話が、かならずしもすべてが農民を副主人公とするものではないにしても、一応市内を舞台とする作品の半数を超しているという事実にこそ、この作品の特筆すべき特徴があると考えるべきであろう。

 今日の読み方ではサン・クレーシが普通だが、アルロットの時代にはどうやらサント・クレーシと呼ばれていたらしい、 251年にデキウス皇帝によって処刑されたムジェッロ出身の殉教者から名前を得たこの教区は、かっては別の司教区として独立していたが、後にフィレンツェ司教区に編入された5)旧フィエーゾレ司教区の一部で、フィレンツェの北7マイルのムジェッロ地方の一角を占め、当時のボローニヤに向かう街道筋にあったという。フィレンツェ市内から約11キロも離れた領域部の小さな教区をこれだけ頻繁に取り上げて、農民の生活ぶりにも触れていることは、この作品の大きな魅力の一つとなっている。

5) ダヴィトゾーンによると、早くも854年シャルルマーニュの孫のロタールの時代から認められていたという。Y. Renouard, Storia di Firenze, Tr. F.D.Beccato, Firenze 1967, p.21.


  さらにその隣の教区を始め、フィレンツェの郊外を舞台にした作品までを加えると、ほぼ30%に達して、市内と大差のない数字となる。普通のノヴェッラ集に較べると、その舞台に関して田園の比率の高い作品であるが、フィレンツェの領域部に教区を持つ司祭を主人公にした作品であることを考慮すると当然の結果である。


  場所という点でもう一つ注目されるのは、国外、特にガレー船付きの司祭としてアルロットが旅した船上やフランドルを初めとする旅先の都市である。複数の地名を含めても1割にも達せず、その数は必ずしも多くはないが、アルロットの生涯に強いアクセントを与えているものとして重要である。しかもどの土地でも、アルロットがそのユニークな個性を発揮して喝采を得たことになっている。少数とはいえ、もしもこうした要素がなかったら、この作品自体が書かれていたかどうかも疑わしいように思われるほど、重要な要素を占めているのである。


  最後にそれぞれの作品の構成メンバーの階層だが、この作品の場合原則として主人公はアルロット自身で、彼は聖職者なので、この点でも普通のノヴェッラ集とは大いに性格が違っている。

  問題は他の主要な登場人物の階層である。一応これまでと同様、聖職者をR、貴族をN、民衆をPとし、またこの作品の性格上民衆の中でも農民をPA、市民をPCとして区別しておくことにする。

  以下でアルロット以外の主な登場人物の階層を示しておく。入れ子式の話の場合は原則として、枠組の外側と内側の双方の人物を共に記しておく。支配者層の一員は都市の貴族と見なし、法王庁の高官は、貴族の出でも聖職者として数えている。市から11キロも離れたアルロットの教区民は、原則として農民と見なしている。いずれにせよこれまで同様、解釈の違いで多少の誤差が生じることはお許しいただきたい。


R(聖職者):   1、 2、 8、 14、 32、 33、 39、 40、 44、 68、 72、 75、 84、 101、 109、 110、 113、 115、 116、 132、 156、 161、 171、 172、 173、 180、 196、 199 

( 28 章、 12.84 % )


PA(農民):   15、 18、 19、 35、 98、 120、 123、 124、 142、 154、 163、 174、 193

( 13章、 5.96 % )


PC(市民):   10、 12、 21、 30、 31、 34、 38、 43、 48、 50、 54、 57、 60、 63、 65、66、 67、 71、 73、 74、 79、 87、 88、 91、 94、 97、 102、 103、 104、 105、106、 107、 108、 117、 118、 119、 122、 125、 126、 127、 128、 130、 133、134、 135、 137、 138、 139、 141、 143、 146、 157、 158、 164、 167、 170、 177、 178、 189、 190、 195、 197、 200、 203、 206、 215 

( 66章、 30.28 % )


(貴族):    6、 17、 81、 92、 99 

( 5章、 2.29 % )


R(聖職者) + PA(農民):    25、 26、 49、 52、 77、 85、 86、 159、 160 

( 9章、 4.13 % )


R(聖職者) + PC(市民):     3、 11、 16、 20、 22、 27、 36、 41、 51、 58、 59、 61、62、 64、 82、 90、 148、 149、 152、 153、 162、 194 

( 24章、 11.01 % )


R(聖職者) + N(貴族) :    7、 46、 89、 201 

( 4章、 1.83 % )


R(聖職者) + PC(市民) + N(貴族) :     23、 42、 45、 70、 93、 95、 111、 131 

( 8章、 3.67 % )


PA(農民) + PC(市民):     28、 100、 112、 129、 140、 155、 198、 218 

( 8章、3.67 % )


PA(農民) + N(貴族) :    5  ( 1章、 0.46 % )


PC(市民) + N(貴族):    13、 24、 29、 47、 69、 80、 83、 96、 114、 144、 150、165

(12章、5.50 % )

R(聖職者) + PA(農民) + PC(市民):     136、 147 

( 2章、 0.92 % )


R(聖職者) + PA(農民) + PC(市民) + N(貴族):    37、 76 

( 2章、 0.92 % )


アルロット一人の言行なので、階層が関係しないもの:   53、 55、 56、 78、 121、 145、 151、 166、 168、 169、 175、 176、 179、 181、 182、 183、 184、185、 186、 187、 188、 191、 192、 202、 204、 205、 207、 208、 209、 210、  211、  212、 213、  214、 216、 217 

( 36章、 16.51 % )



  事柄を単純化して考えるために、単独、複数の区別なしに、アルロット以外にある階層のメンバーが参加しているすべての章の総数を数え上げて、全218章に対して占めている比率を比較すると、以下の通りの数字となる。勿論その総和は100 %を越えている。


R(聖職者) = 28+9+24+4+8+2+2 = 77 (35.32 % )

PA(農民) = 13+9+8+1+2+2 = 35 ( 16.06 % )

PC(市民) = 66+24+8+8+12+2+2 = 122 (55.86 % )

(貴族) = 5+4+8+1+12+2 = 32 ( 14.68 % )


 言うまでもなくどの章にもアルロットが関係し、大半の章の主人公がアルロット自身であるために(主な例外は、入れ子になっている作品の中でアルロットによって語られた話の主人公)、 R(聖職者) がほとんど100%関係していることは事実だが、彼以外の登場人物の階層の比率を計算してみると、フィレンツェその他の市民層が登場する章が全体の半数以上を占めていて、この作品もいくつかのノヴェッラ集と同様、主に市民層を基盤とした作品であることが分かる。

 事実、アルロットが最も心を許したのも、逆に最も激しく争ったのも、フィレンツェ市民であった。アルロットには、市内から11キロも離れた教区を司る司祭の地位にありながら、「週に3~4回も飲みに行く」という習慣があり、その行き先の多くはフィレンツェ市内の居酒屋だった。そこでアルロットは多くの友を得た。まさに作者自身も飲み友達だった。おそらくイタリアのノヴェッラ集の多くがこうした交友から生まれたものと考えて差し支えないが、この作品はその中でも特にそうした性格が顕著である。


 しかしアルロットがいわゆる在俗司祭である以上、俗人の中で暮らしながらも、常に司教の監督の下にあって、他の在俗司祭たちと協力し合わねばなければならなかった。したがって、 R(聖職者) が登場する比率も全体の3分の1という高い比率を占めている。しかし市民と農民とを加えた民衆の計が R(聖職者) の2倍に及んでいるという事実は、内容によっても明らかな通り、この作品の中のアルロットが、聖職者よりもはるかに民衆に親しんで生きていたことを示している。

 だがもう一つ、数はそれほど多くはないが、全28章、全体の12.8%を占めている R(聖職者) のみ、すなわち聖職者だけを登場人物とする章の多くが極めて興味深い。お互いに持ち物を盗み合っていて、さすがのアルロットも圧倒されているという印象が否めない、したたかな隣の教区司祭との競争関係を始めとして、よく叱る監督者だがアルロットの理解者である大司教との関係、アルロットが食事にまぜてもらえないために汚物の包みを鍋に投げ込んだという他の司祭たち仲間との関係、怠惰で愚かな(しかし時にはうるさい母親がついている)助祭との関係、十分の一税をめぐるやりとりなど、どちらを向いてもきびしい人間関係が絶え間無く続いていたのである。

 その実アルロットの他の聖職者との関係が、真に激烈な争いにまで発展することは稀ではあったが、やはり結構摩擦が多く、しばしば緊張を伴っていたことが注目に価する。商売仇である以上当然と言えば当然だし、義侠心の強いアルロットが弱い同僚を援助するケースもいくらか見られはするものの、ルネサンス期の聖職者同士の煩わしい日常の関係を生々しく記した記録として、この作品は結構興味深い記録だと言えるであろう。


 なお農民そのものの占める割合は、数的にそれほど大きくはない。その点先に見た田園地域の比率の高さに比して、やや意外である。それはアルロットの教区へ多くの飲み友達の市民が訪ねて行った結果である。しかしたとえばセルミーニなどが描いた動物じみた農民6)や、アルベルティの『家族論』の中などで、信用してはならない存在として語られている農民7)と比較する時、この作品では、たしかにいくらか愚かで時には狡猾ではあるものの、はるかに親しみやすい存在として描かれているようである。

6) 拙稿、G.セルミーニの心の中の障壁、『池田廉教授停年退官記念論文集』、大阪1993所收、などが、市民の領域民への差別意識を明らかにする。

7) レオン・バッティスタ・アルベルティの『家族論』では、自給自足できるほどの広大な農園を持っことが勧められるが、農民の扱いには常に騙されないよう警戒を怠らぬことが説かれている。拙稿、 L. B.アルベルティの『家族論」と「家」の理想像、大阪外国語大学学報 58 (1982)号, p.108, p.110。

 

 またアルロットの教区民への献身は本物である。この書物の書き手は、当時の一般的な市民と比べると、むしろ例外的なまでに農民に親しみを感じていた。そうした態度は、勿論長年付き合ったアルロットの感化によるところが大きいはずである。


  数字の上では大差はないが、貴族の存在は農民に較べるとやや影が薄い。一般的に、貴族はアルロットの親しい遊び仲間、飲み仲間であると同時にからかい、悪戯を仕掛ける相手でもあった。しかし少数だが、アルロットが英国王やナポリ王、ローマ法王など驚くほど高位の人々と結構親密に語っているエピソードが見られることも注目される。こうした多様性がこの作品の魅力の一つとなっている。





第三章 作品の主要な粗筋のパターンおよび他のノヴェッラ集との関連



 すでに記したとおり、この作品は主としてアルロット・マイナルディという一人の名物司祭の逸話集である。タイトルの言うように、冗談と名言のみを記したものではなくて、あわせて彼の善悪いずれもの行動をも記しており、貧民救済の慈善活動の記録としても重要である。そして大小いずれの章の場合でも、大半のものの粗筋は、いくつかの共通したパターンに分類することが可能である。以下で私はすべての章をいくつかのパターンに分類し、その分類作業を通してこの作品の主要な内容を紹介する。


 まずこの作品を読んでいて気付くことは、アルロットが何らかの状況に巻き込まれる話が多い、という事実である。それは必ずしも常に重大事とは限らないが、時には高利貸に追い回されたり、難破する寸前の船に乗り合わせたり、といった危険を伴うこともある。そうした状況に陥った際に、アルロットの対処の仕方は三つある。一つは言葉によるもの、もう一つは行動によるもの、三つ目はその両方によるものである。

  今述べたパターンとは対照的に、アルロットが自ら言葉や行動を仕掛けることもある。言葉が発せられた場合は、親切な助言であったり、コメントや名言であったりする。タイトルを考えると当然だが、こうしたコメントや名言を扱った章が、この作品中にはやたらと多い。特に175章以降は、ほとんどそうした言葉だけの章が多く、しかもそれらのいくつかは、実際にアルロットの口から発せられたものと言うよりも、ヴェネツィアで刊行されたディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者伝』の翻訳からの引用だったことが明らかにされている1)

1) たとえば175ではタレスとソロンの伝記、 176~178はソロンの伝記と言った具合に、くわしく出典が指摘されている。 

MOTTI、op. cit., pp.341 sgg.


   他方アルロットが自ら行動すると、それは多くの場合プラクティカル・ジョークであったり、奇行であったり、あるいは慈善活動であったりする。以上のような主要パターンに少数の例外を加えると、この作品のほとんどの章がきれいにおさまってしまう。それでは以下で各々の章を具体的に分類してみよう。


 まず、何らかの状況に巻き込まれたアルロットが、言葉によってそれに対処しているケースは次の通りである。ただし言葉が状況からの脱出に効を奏している場合もあるが、ただ言葉が発せられた時点で打ち切られている場合も少なくない。


1、  2、  9、  12、 13、 19、  35、  36、  45、  49、  57、 63、  65、  73、  74、  81、  82、  88、  89、  91、  103、 104、  105、  106、  107、  109、  116、  123、  130、 138、  139、  142、   144、   148、   149、   152、   157、 160、  162、  164、  165、  171、  174、  183、 189、 193、  197、  201、  203 

( IーA型、計49章、 22.48 % )


  続いて同じく何らかに状況に巻き込まれたアルロットが、言葉というよりも、さらに長いノヴェッラや説教の類を用いて対処しているケースは以下のとおりである。これは先のパターンの亜種と見なすことが可能である。


3、 24、 70、 77、 111、 198 

( I ― a型、計6章、 2.75 % )


 同様に何らかの状況に巻き込まれたアルロットが、言葉ではなくて行動によって対処している場合は、以下の通りである。


8、   14、  15、  40、  51、  83、  84、  87、  95、 101、 120、  122、  125、  126、  135、 146、  154、  156、 195、  196、  218  

( IーB型、計21章、 9.63 % )


 アルロットが行動だけでは対処できなくて、さらに何らかの言葉を加えて対処している場合もあるが、それは以下の通りである。


 21、 22、 26、 37、 48、 62、68、 100、 108、 147、 161 ( I-B-A型、計11章、 5.05 % )


  以上の計87章、全体の39.91%、すなわち全体の約4割は、いわばアルロットが他人に仕組まれた何らかの不利な状況を言葉または行動、あるいはその双方を用いて対処した例である。残りの大半は、逆にアルロットが自発的に何らかの言葉を吐いたか、活動したかを記したものであるが、すでに記したとおり、その内のいくつかの言葉は、アルロットが語ったという説明さえ抜きにして、無造作に羅列されている。特に作品の終わり近くにはそうした章が多くなり、アルロットの言行録という性格すら怪しくなってしまう。


 ところで、問題はアルロットが他人に助言を与えている場合である。こうした章のいくつか、特にアルロットが他人から助言を求められて、それに巧みに答えていたり、他人の苦境を見るに見かねて助言している場合などは、すでに見たアルロットがある状況に巻き込まれて言葉で対処しているケースにかなり近い、と言えるであろう。その点でむしろ巻き込まれ型の一変形、あるいは少なくとも次の自発的な行動との中間型ぐらいに位置付けることが可能である。

 だが扱われているのは、あくまで他人の問題であり、その結果がアルロット自身に直接影響することはない上に、時には悪戯の一種として相手を騙したりからかったりしている場合があるので、やはり別のパターンとして分類すべきである。


7、 16、 32、 42、 98、 113、 132、 133、 136、 137、 163、 178、 179、187、190 

( i-A型、計15章、 6.88 % )


  先の例とは違ってこの作品には、アルロットが別に求められてもいないし、他人の役にも立たないのに、何らかのコメントや冗談を述べている章がやたらと多く、この作品のタイトルともなっている。以下の章は、時には語られた状況の説明がほとんどないものも含めて、一応アルロットが語った言葉として明記されているものである。


17、 34、 38、 47、 54、 55、 60、 66、 71、 72、 78、 90、 92、 93、 96、 97、 110、 114、 115、 117、 118、 119、 127、 129、 143、 151、 153、 155、 158、168、 170、 172、 173、 175、 176、 177、 180、 181、 182、 184、 185、 186、188、 191、 192、 194、 204、 206、 207、 208、 209、 211、 215、 216、 217

( ⅡーA型、計55章、 25.23 % ) 


  以上のものの亜種として、彼が口にした言葉によってアルロットが新しい状況に巻き込まれてしまう章(5) (Ⅱ-A-I型、1章、 0.46 % )や、単なる意見というよりも、弱者の弁護(29、31)や巧みな質問(69)など、アルロットの言語能力が特異な仕方で発揮された実例を示している章もある。 (Ⅱ-a型、計3章、1.38 % )

 

 語り手や語られた状況について全く触れず、言葉だけが羅列されている章もある。


31、 51、 53、 56、 169、 202、 205、 210、 212、 213、 214 

( A型、計11章、5.05 % ) 


  他方アルロットが言葉ではなく、自ら行動を仕掛けている場合もかなり見られる。


11、 43、 50、 58、 59、 79、 80、 85、 102、 112、 121、 124、 131、 134、 140、 141、 145、 159、 166、 167 

( ⅡーB型、計20章、 9.17 % ) 


  さらにアルロットが行動を起こすと共に言葉を発している場合も結構見られる。


4、  6、 10、 20、 27、 33、 44、 46、 52、 61、 64、 86、 94、  99、  200 

( ⅡBーA型、計15章、 6.88 % )


 以上自発的に発せられた言葉に関するものは、助言以下15+55 +4+11=85章、38.99 %におよび、それに自発的に行われた行動に関するもの20章、行動と言葉の双方に関するもの15章を加えると、自発的な言葉や行動に関する章は、120章、55.05%と半数以上に上る。


 その他に当時のノヴェッラ集に時たま見られる珍談、奇談の類のⅢ型が、 18、25、28、30、67、75、128、150、199の計9話、4.13%、アルロット以外の人が語ったノヴェッラⅢ-a型が23、 76の2章、 0.92 %見られる。


 以上の総計は87+120+11 = 218となり、一応すべての章が一応パターン別に分類された。ただしこうした分類の常として、境界線上のものはかなり恣意的に振り分けられていること、したがって分類者によて多少の誤差が生じることを断っておかなければならない。こうした分類はあくまで、この作品の内容を分析するための一つの手段なので、以下で各パターンの代表的な章を紙数の許す範囲で紹介しておくことにしたい。


 まず巻き込まれてしまった状況を、適当な言葉によって対処するというI-A型は、まさにアルロットの真骨頂ともいえるパターンで、すでに紹介した冒頭の1や2の章にも現れている。その言葉は必ずしも気の利いたせりふとは限らず、時には35のように雨に濡れてたどりついた宿屋で、暖炉のそばの席を占領している農民達を退散させるためにつぶやいた「来る途中で財布を落とした」という嘘の場合もある。またそうした言葉によって常に事態が解決されているわけではなく、107のように無理やりまずいスープを飲むように勧められて、「浣腸器を持って来て注入してくれ」という悲鳴で終わっているようなケースも少なくない。にもかかわらず、とにかくアルロットは、ひとまず苦境に対処しているのである。

 一応適確な悲鳴やせりふが発せられれば、それでもって良しとする、イタリア・ノヴェッラに共通の精神がここにも脈打っている。こうした I-A型の変形が、せりふを長い説教やノヴェッラに置き換えたI-a型で、たとえば3のヴェネツィアのガレー船の司祭との説教較べのごときは、本物の説教の要約が記されていて、これなら負けないだろうと納得させるだけのこっけいな内容になっている。この一事をもってしても、この作品の作者は無名のアマチュアとは言え、その知識は馬鹿にならないことが分かる。


 さらに行動によって巻き込まれた状況に対処している I-B型は、たとえば14の皿洗いを割り当てられたので、汚れた皿をいれた篭を井戸にぶちこむ話や、84のペストの鐘を鳴らして貴族たちを追い払い彼らが持って来た大量の御馳走を巻き上げてしまう話、85の市民たちが大勢食事時にやって来たので、彼らに食事を分けないために、また肉のついた頭蓋骨を鍋に投げ込む話、95の親戚の狂人に追われていると嘘をついて、修道院長から借りた8人の若い修道士の力でしつこい借金取りを叩きのめす話、156の司祭仲間の食事にまぜてもらえなかったことに腹を立てて、大便の袋を二つも鍋に投げ込んで御馳走を台なしにする話等、この作品中で最も猛烈なプラクティカル・ジョークの多くを含んでいるパターンである。


 それらに続く助言というパターンⅠ-A型には、聖像に棒で触らせて金を取っているフィレンツェの教会で、お金も触らせるだけで十分で払う必要はないとイギリス人の貴族に忠告している7や、三人の悪漢が預けた大金を一人が引き出して逃げた後、残りの二人から請求されて困っているシエナの銀行家に対して、「三人揃って来て下さればいつでも払います」と返答させる42のように、真の善意から発しているものもあれば、ラバを飼うとどんなに恐ろしいことが起こるかを説いて、相手のラバを巻き上げてしまう133のようなペテンや冗談もある。ただしアルロットの名誉のために記すと、後者は先に記した133の他には、彼の助言に従ったために相手が嘲笑される132ぐらいしかない。


 続いて彼の折りにふれての意見やコメントの類ⅡーA型およびその亜種A型となると、たとえばワインを食前に出すか、食後に出すか、と問われて、「聖母はキリストを生む前も、生んでるさいちゅうも、生んでからも処女だった」から、食前も食事中も食後もずっと出していてほしい、と頼む34のようなせりふが続出するが、まさにタイトルそのもので、あまりにも多数なので省略する。こうしたせりふの多くが決してアルロットの独創ではなかった2)ことは、当時の冗談のコレクションなどからも明らかである。

2) たとえば数世紀後のヨーロッパ全体を扱っている『冒漬の歴史』にもそっくりの表現が出てくるように、アルロットの罰当りな言葉は、かなり一般的なものだった。アラン・カバントゥ著、平野隆文訳、冒漬の歴史-----言葉のタブーに見る近代ヨーロッパ、東京平凡社2001、 p.198、 p.300その他。


 この作品がこれほどロング・セラーであり続けたのは、当時のフィレンツェ市民のみならず、イタリア各都市の市民がこうした冗談を大いに好んでいて、一つでも多く知りたがり、受け売りしようとしていたことの現れである。今日同様、それは重要な社交の手段でもあった。


 それに対して、アルロットの自発的な行動とされるものを記したⅡ-B型は、主にアルロットの悪戯と慈善行為という両極に分解する。悪戯は、その内の11章、慈善行為が7章、どちらにも属さぬ、アルロットの行為を記したものが2章となる。この場合の悪戯も1ーB同様半端なものではなくて、高慢で気に食わない相手と旅をして、相手の長靴に小便をしたり、着く宿毎で相手がユダヤ人だと嘘を触れ回って虐待させるというひどいいじめの50、フランドルで何も知らないガレー船司祭の相棒に死刑囚が最後に着る長衣を買うように勧め、得意になってその豪華な衣服を着ていたその司祭が町の子供たちの投石で半殺しの目に会う59など、残酷きわまりない内容である。

 その反面、すでに何度も記した慈善行為も半端なものではなく、飢饉に際しては教区の貧民のために少なからぬ私財をなげうち(112)、作者の前で今食べようとしている食事や今着ている衣類を手渡してしまうことも何度もあった (124、 218)。私はその行為とその結果のユニークさに驚いて、彼の自発的な奇行として、166をⅡーBに分類したが、その中では彼が13か月ガレー船のために留守にした教会に戻った時、無数のネズミが発生して、いたる所をかじっていた。彼が罠を仕掛けて片端からネズミを捕え、全部一つの樽に投げ込んでおくと、ネズミは共食いを始め、最後に一匹が残った。アルロットがそのネズミに鈴をつけて放すと、三年間で他のネズミを食い尽くしてから死んだので、彼はその死を悲しんだという話である。あるいはむしろ行為によって状況に対処する I―B型か、珍談・奇談としてⅢ型にでも分類すべきものかも知れない。実話かどうかはともかく、このエピソードの苛烈さこそ、 この作品の魅力の一つなのである。


 Ⅲ型の珍談・奇談の中には、人文主義者として名高いレオナルド・ブルーニの亡霊にワインをせがまれる30などがある。フォレーナはこれがこの作品中唯一の超自然現象だと指摘しているが3)、作中に引用された逸話などでは鳥が語っているし、またアルロットがある親方に教会の壁を塗り替えさせていた時、誰一人拝んでいるのを見たことがない聖サーノの像を塗り漬そうとした瞬間、一人の婦人が現れて、ペストの時に受けたご恩に報いたいと言って、蝋燭代に40ソルディ預けて行ったという128なども、私には超自然的な出来事のように思われてならない。

3) MOTTI、op. cit., p.312の指摘。


 ところで多少でもこの時代のイタリア・ノヴェッラに通じた人がこの作品を読むと、どこかで聞いた話だという感じを受けることが少なくないはずである。事実、一応アルロットという実在の人物の体験として記されているこの作品が、当時のノヴェッラ集の類話を結構頻繁に含んでいるのである。便宜上ここではフォレーナの注を基にして、以下にノヴェッラに限定せずこの作品の出典とされている主なもの、ただし話を簡単にするためまず複数回指摘されているものだけを列挙する。ただし内容の粗筋とは無関係な言葉だけの引用は、あまりにも繁雑なので省略しておく。


 サッケッティ『三百話』、 49、 51、 64、 65、 66、 79、 95、 115、 136、 137、146、 154、 156、 174 (合計14章) (なおサッケッティの『書簡集』も27、97の2章に関連しているという。)


 ポッジョ・ブラッチョリーニ『冗談集』、 5、 9、 49、 73、 137、 152、 153、 174 (合計8章)


 ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者伝』、 42、 90、 171、 174 (合計4章)


 ポッカッチョ『デカメロン』、 18、 65、 136 (合計3章) 


 Summa Praedicantium、 93、 123 (合計2章)


  続いて同時代以前のイタリアのノヴェッラ集として、『ノヴェッリーノ』 (7、以下カッコ内は章数)、『ペコローネ』(136)、『ポッレターネ』(146)、その他の古典や重要な作品として、プルタルコス(171)、ウァレリウス・マクシムス(42)、『パンチャタントラ』(32 )、 Speculum Historiae、 エクセンプラ(85)、ダンテ(134)、チェッコ・ダスコリ(134)、べンヴェヌート・ダ・イモラ(55)、『デッティ・ピアチェーヴォリ』(2)、ヴェスパシアーノ『列伝』(105)等々の名前がそれぞれ一度だけ指摘されている。

 上記の出典中には、ノヴェッラまたはそれに類した作品が大半を占めていることは、だれが見ても直ちに分かることである。『ノヴェッリーノ』や『ペコローネ』、そして『デカメロン』との関連が案外薄いようだが、この作品の多くの章の短さからも想像できるように、サッケッティおよびポッジョ・ブラッチョリーニとの関連が強く、これら両者を合わせると、全章中の1割ぐらいになる。

  この作品の作者はそれら二つの作品をお手本にして、アルロットの言行を書き続けたと考えても、全く不都合はなさそうである。また全体の約1割の類似というのは、この作品全体を生み出す触媒としては、十分な数字ではないだろうか。



 

おわりに ~ 一休説話とアルロット説話との違いについて~


 奇妙な不運のために、この作品の一枚目が破損していて、この作品の作者の名前は記録されることなく終わった。この不運が偶然によるものか、何らかの作為によるものか、断定するための資料は全くない。

 しかしすでに私が指摘したアルロットとメディチ家との微妙な関係から考えると、全くの偶然ではなかったという可能性も考えられる。たとえばアルロットは、メディチの政敵パッツィ家の有力者との親交も隠そうとはしていない(201)。一時期フィレンツェで蔓延したパッツィ家粛清の風潮から考えると、危険な立場に陥った可能性もゼロとはいえない。勿論賢明なアルロットがむざむざと政争に巻き込まれるはずはないにしても、その内心にロレンツォ批判があったとしても、決して意外ではない。

 アルロットが聖職者には希なコムーネ主義者であったことは、市政府のために喜んで税金を払おうとした(148、149) ことなどからも分かるし、独裁者嫌いはボローニヤのべンティヴォーリオ家批判(114)の言葉によってもはっきりと伺えるからである。

 この作品の作者は、アルロットよりもかなり年少であることが推察できるが、相当欠点も多いアルロットに対して最後まで敬愛の念を失わなかったことは確かである。アルロットがかなり意地汚い酒飲みで、世代も異なっていておそらく関心もずれているのに、これほどの共感が維持し得た最大の原因は、勿論アルロットの人間性にもよるところが大きいが、一種の同志的連帯感が作用していたと考えられるのではないだろうか。

 当時のフィレンツェで、そうした世代を越えた連帯感の源として最も自然に考えられるのものは、日増しに圧力が高まりつつあったメディチ家の権力に対する抵抗感ではないかと思われる。そうした感情が、ロレンツォの英雄的なナポリ王訪問への極めてシニカルなコメント(92、 93)として、一瞬露呈したのではないだろうか。


 やがてロレンツォが死に、シャルル八世のイタリア侵人の後、メディチ家は追放される。しかしその後権力を握って神政政治を試みたサヴォナローラ派は、激しく偽善者を憎む、すでに亡きアルロットや作者自身にとって、メディチ家以上に忌まわしい連中であった。

 ようやくサヴォナローラが処刑されて、作者と気風が合う空気が強まる。仮に作者がまだ生きていたとして、たまたま出版業者と知り合い、作者は以前に書き溜めていた草稿をまとめて刊行しようと試みたとしよう。ところがまさに刊行の寸前にメディチ家が復帰して来る。作者は自分の名前を公表することが危険だと感じる。

 フォレーナが初版の刊行時期と見ている1514年前後は、1512年のメディチ家の復帰の直後で、こうした仮説に合致する年である。しかし業者に勧められて、内容をよく吟味し、さらに念のためロレンツォの孫に献呈するという形を選ぶ。

 しかしアルロットと話していたことを考えると、やはり名前を出すことは危険すぎると作者は感じ、結局名前を記した一枚目は破棄される。おそらくそれと同時に彼は以下のような形で、この作品の真の作者はだれであるかを自覚したのだ。

 「大体、ガレー船上で起こったことを自分はどうして知ったのか。たとえば3章で、アルロットがヴェネツィアの司祭との説教較べをして勝ったことを書いたが、その説教の内容をどうして知ったのか。すべてはアルロットの口から聞いたことだった。彼はどんなに愉快な体験談を話してくれたことだろう。彼がほら吹きだと言う人もいたけれど、自分はこんな面白い話があろうかと思い、そっくりメモを取っておいただけなのだ。」


 この作品の多くの章の骨子が、おそらく一度はアルロットの口から語られたという可能性は、誰にも否定できない。だから真の作者となると、大半はアルロット自身であった、と見なさねばならない。こうした本人との緊密なつながりこそ、アルロット説話の特徴なのである。

 それに反して一休説話の方は、本人とは無関係な人々によってでっち上げられ、追加されていったものなのである。アルロット説話は、本人とのつながりが余りにも強すぎて、後世の知恵でふくらむことができなかった。多くの人々が好き勝手にエピソードを追加できる一休説話は、時代に合わせて変化し続け、今もしぶとく生き続けている。


 

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  The profile of  Mottoes and 

Jokes of Piovano Arlotto



                                            Yoshiaki  YONEYAMA



0 :  To compensate for the lack of the knowledge of Piovano Arlotto, almost forgotten even in Italy, I will try to draw a profile of an old book composed of his episodes and his words.


1:  The book titled 'Mottoes and Jokes of Piovano Arlotto', written soon after the long life (1396-1484) of this priest,  is composed of a short biography and 218 chapters which are mainly short and about 60 percents of them can settle in a page.


2:  Almost all the episodes happened in his lifetime, especially after his forties during which he went on voyages to northern Europe as a priest of merchant galleys.  The main stages of episodes were the Florentine city (more than 30%), and the share of the parish of San Cresci which he maintained amounts to more than 16%.  This is a valuable document of the lives in the neighboring districts of Florence of the 15th century.  The supporting actors of the episodes of Arlotto were mainly Florentine citizens.  Second to them, the priests entered rather often in the stages.  Arlotto's relations with them were full of stress and competitions.  This is also a precious and humorous document of every day life of the priesthood of this era.  The share of farmers is relatively little, but we cannot help admiring Arlotto's efforts to help the lives of his poor parishioners.  Nobles entered the stages not so often, but even kings and a Pope conversed with Arlotto intimately.


3:   In this work, we find very often that Arlotto was trapped in some difficult situations.  Sometimes he got out of them with the help of his speeches (I-A), or with his actions (I-B), or with both actions and speeches (I-B-A). But naturally we find more often the cases in which Arlotto spoke spontaneously (Il-A), or acted spontaneously (Il-B).  As we see through the title, the types of I-A and Il-A occupy the main part of this book, but in the types of I-B and Il-B, we find the most interesting episodes of cruel practical jokes or of benevolent actions.


4:   We don't know who wrote this book.  But we can presume easily main parts of episodes were spoken once by Arlotto himself and in this meaning, the real author of this book was Arlotto himself.





* 桃山学院大学総合研究所『国際文化論集・第28号』(2003年6月発行)より転載いたしました。(編集部・記)



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