語り手は(3)

語り手は信用できるか 3

―ホーソンの射程―

岩田 強

目 次


第1章 韜晦としての技法

     ―ホーソン「ロジャー・マルヴィンの埋葬」の場合―

第2章 一の真実、九のたわ言

     ―ホーソン『ブライズデイル・ロマンス』の場合―       

 ---------- 以上第2号 ----------


第3章 谷間から湿地へ

    ―ジョン・アプダイク『日曜日だけの一ヶ月』の場合―

---------- 以上第3号 ----------


第4章 飢えの始まるところ

 ―ジョイス・C・オーツ『大陸の果て』の場合―


---------- 以下次号 ----------


第5章 森のなかのリンチ

     ―フォレスト・カーターの場合―




第4章 飢えの始まるところ

 ―ジョイス・キャロル・オーツ『大陸の果て』の場合―


(1)


 幼年時代に両親が離婚したあと母親にメーン州で育てられた26歳の娘が、母親の病死を機会に、父親に会うためカリフォルニア州までドライブする。20年ぶりに会った父親は車椅子に乗り、介護人の青年に世話されて一人住まいをしている。同居後しばらくして父親は娘と青年に理不尽な提案をする。もし二人が親しくなったり結婚したりせず別々に暮らしていくなら自分の巨額の財産を半分ずつ二人に分与するが、親しくなったり結婚したりすれば何もやらないというのである。青年に好意をいだくようになっていた娘は父親の家を出る決心をし、青年も娘について家を出る。二人は太平洋を見にゆき、海岸沿いのモーテルに投宿し、夕陽のただよう室内で交わるが、娘は父親に見られているように感じる。交接ののち娘は青年に愛していないと告げ、青年は娘を嘘つきとなじって飛び出してゆく。娘は猛烈な食欲に襲われ、モーテルの向かいのレストランにでかける。

 ジョイス・キャロル・オーツの中篇『大陸の果て』の荒筋をこんなふうに要約してみると、この作品の核がいまさらのようにはっきりしてくる。その核とは、一言でいえば、親の不和は子供の内部を外傷【トローマ】のように蝕むという考えである。両親の離婚は第1章で簡潔に触れられているだけだが、物語全体のヒロインの行動を根深いところで律しているように思われるので、それがヒロインにどんな傷を与えたか確かめておこう。

① テクストには山本哲・土井仁・岩田強「オーツ『大陸の果て』を読む」(大阪教育図書、1996)を使用した。同書からの引用はページ数に(     )を付して本文中に挿入する。


 両親が離婚したとき、ヒロインのパールが何歳だったかは正確にはわからない。両親は「パールの誕生後しばらくして」(4)離婚したとあるが、パールには父親の記憶がかなりはっきりある。「彼女は父親が、そう、あれぐらいの背丈だったのを覚えていた、それに両肩のあたりがとてもたくましかったことも・・・」(18)、これは肩車をしてもらった記憶のような感じである。また、最後に父親と別れたときのつぎのような記憶もある。「彼女が覚えているのは、ひとりの背の高い男、一度の握手、どこかの入り口―たぶんレストランの入り口―にさっと流れこむ冷たい空気だけだった。あの最後のサヨナラは公の場所でのことだったのだわ」(5)。26歳のパールは20年間父親に会っていないというのだから、この記憶は彼女が5、6才のときのものである。ということは、記憶がいくらかはっきりしてくる3、4才から5、6才のあいだのどこかで両親の離婚にあったということになるだろう。

 パールの傷の受け方にはこの年齢が強く影響しているようにおもわれる。もし彼女が父親の記憶のまったくない零歳児であったならば事情はちがっていただろう。また15歳と17歳年上の二人の兄のように、20才をこえた大人として両親の離婚を体験したのであれば別な意味で事情がちがっていたはずだ。だが5歳前後の彼女には、父親のぬくぬくとした記憶は残っており、にもかかわらずその父親が突然姿を消した理由が理解できないのである。


彼女の家庭にはゴタゴタが多すぎた――恥さらしな父親とその離婚だけでなく、母親の家庭でも、悶着が絶えなかった。絶えまのないあてこすりとすすり泣き、バタンと閉められるドア、休日や外出が毒々しい気分で終わったあとの途方にくれるような余燼、経済的失敗からおこる面罵。パールは幼すぎてこれらの災厄が理解できなかった。だが、そこにある恨み、憎しみは感じとっていた。

There had been too much disorder in her family--not just the shame of her father and that divorce, but the arguments in her mother's family as well--too much sarcasm and weeping, the slamming of doors, the bewildered aftermath of poisoned holidays and outings, denunciations that stemmed from financial blunders. Pearl had been too young to understand these disasters.  But she had felt the bitterness, the hatred.                                                                  (8)


〈どういう不幸なのか理解できないが、そこに蟠っている恨み、憎しみは感じられる〉、この言葉ほど当時のパールの精神状態を端的にあらわしている言葉はない。神経症の患者は自分を苦しめている原因を理解したとき、しばしば症状の軽快をみるというが、5歳前後のパールの知能ではそのような方法で自分の苦しみを解消することは不可能であり、彼女の意識と無意識はたえず了解不能な重圧に苛まれつづけざるをえない。両親の離婚がパールに外傷[トローマ]と呼べるような深傷をのこすことになった根本の理由はこれであろう。

 さらにパールは、父親が離別していったとき、彼が去るのをただ受け身で悲しんでいればよかったわけではなかったようだ。彼女はさらに踏みこんで、母親に加担して父親を否定することを求められたようにおもわれる。それがパールの精神にどのような惨劇を強いることだったかを、つぎの一節は如実に物語っている。


母親はパールや兄たちに父のことを決して口にしなかった。いちどパールは母親が伯母に向かって父のことを――「彼」と呼びながら――話しているのを耳にしたことがあったが、パールはなにか禁じられたことを聞かされるのではないかと恐れるかのように後ずさりした。彼女は彼のことを考えないように努めた。そんなことをしたってなんの役にたつの、時間の無駄よ。彼からの贈り物を受けとることは許されなかったし、彼の招待――クリスマス、夏の一週間、イースター休暇を彼と過ごすこと――など不可能で断らなければならなかった。もし彼のところに行ったりしたら、母さんは悲嘆にくれるだろう。だからパールは父親のことを考えないようにして――まるでどことなく恐ろしい、触らないでおくほうが安全な神様みたいに、意識して考えないようにして――成長した。

Her mother had never spoken of him, to Pearl or her brothers.  Once Pearl had overheard her talking of him-- "him" --to an aunt, but Pearl had drawn back as if fearing she might learn something forbidden.  She tried not to think of him; it did no good, it was a waste of time.  She was not allowed to accept presents from him and the invitations he sent her--to spend a Christmas, a week in summer, Easter vacation with him--were impossible and had to be turned down. Her mother would have been heart-broken if Pearl had gone to him. So Pearl grew up not thinking of  her father, consciously not thinking of him, as if he were a deity of a vaguely threatening nature, better left alone.                                                          (4)


 引用冒頭の「母はパールや兄たちに彼【父親】のことを決して口にしなかった」を、単に母親の状態の説明と受けとるのは皮相にすぎるだろう。この一文からは、パールがそのような母親の姿を目のあたりにしているうちに、じぶんもまた母親の前では父親のことを禁句にしなければならないことを学んだ、学ばされたということも読みとらなければならない。もしそうでなければ、母親が父親のことを「彼」と呼んでいるのを立ち聞きしただけで、「パールはなにか禁じられたことを聞かされるのではないかと恐れるかのように、後ずさり」したりするはずはないではないか。パールのなかにはすでに、母親の前ばかりでなく、じぶん一人のときですら、母親を選択し父親を忌避してみせる心理機制ができあがっていることがうかがえる。

 だが年端のいかないパールのなかにどうしてそのような心理機制が定着したのだろうか。描出話法ふうなテクストが与えているその理由づけは、父親からの贈物や招待を受けいれたら「母親は悲嘆にくれるだろう」とパールが考えたということ、つまりパールが母親の感情を思いやった、ということである。

 だが私の考えでは、この〈思いやり〉の奥には、もっと深刻な、母親には告げられない真の理由がひそんでいるように感じられる。それは、〈万一母親のいやがることをやってしまったら、じぶんは母親から捨てられるのではないだろうか、なにしろ父親だってじぶんを捨てていったのだから〉という不安である。この不安は、物心はつきかけているが、まだ親の庇護がなければ生きていけない年齢で、両親の離婚を経験した子供たちが例外なく抱かされる不安だといってよい。たとえ幼すぎて本人がその不安をはっきり自覚していない場合でも、その子供の無意識は、関係の絶対性によって、この不安におかされざるをえない。「絶えまのないあてこすりとすすり泣き、バタンと閉められるドア、休日や外出が毒々しい気分で終わったあとの途方にくれるような余燼、経済的失敗からおこる面罵」、このような母親のヒステリーを前にして5歳の子供は慄かざるをえないし、ヒステリーが昂じて母親が父親と同じように飛出していってしまうのを本能的に怖れることも避けられない。その結果、子供は母親の「恨み、憎しみ」をしずめるためには、できることは何でもするようになるだろう。なつかしい父親からのプレゼントや招待もあきらめる。〈父親のことは考えない、意識して考えない〉ようにも努力する。そしてあとに残る満たされない思いは、「そんなことしたってなんの役にたつの、時間の無駄よ」とうそぶいて、押し殺そうとするのである。彼女の心のなかで父親が「どことなく恐ろしい、触らないでおくほうが安全な神様みたいな」存在になっていったというのは喚起的だ。それはパールが、彼女自身の感情とはかかわりなく、強制的に父親を黙殺させられたことを私たちに推知させる。いわば父親は、母親の監視のとどかないパールの意識下に、聖像のように安置されたのである。パールの心のなかに納まわれていた父親像が無傷のままでなかったならば、母親が死んだとたんに父親に会いたいと思うはずはないのである。

 いっぽう母親については逆のことが言えるだろう。上の引用でも分かるとおり、パールは母親の言いつけを守り、母親の感情を思いやる母親想いの子供に育つ。彼女は「これも母親から受けついだ淑女らしい従順さ」(2)を身につけており、「母親を愛し、母親に仕えてきた」(10)のである。

  けれどもこのことは、パールの下意識が母親を専横と感じることをすこしも妨げない。すでに指摘したように、両親が離婚したあと、幼いパールは、身近に残った庇護者としての母親に、愛情をいだくことを強いられて育った。その愛情の無理強いは一種の刷り込みに近いもので、思春期に達したパールがその愛情の強制に気づいたとしたら、遣り場のない憤りをおぼえずにいられなかっただろう。その憤りは、本来、離婚して彼女を苦しめた父親と母親の両方に向けられるべきもののはずだが、目の前にいる〈暴君〉として母親がより直接的な憤りの標的になるのは避けられない。パールは母親から相続した家屋敷について「小さめの市庁舎の大きさがあり、きちんとしていて猛々しかった」(1)と感じているが、この形容はそのまま彼女がいだいている母親のイメージの隠喩として読むことができる。「猛々しく」恭順を迫ってくるけれども、「きちんとしていて」文句のつけにくい母親にたいし、パールは「淑女らしい従順さ」を粧わざるをえないのだが、「彼女はそんなもの【従順さ】を信用していなかった」(2)のであって、彼女の内面は「我慢しすぎたため皮肉っぽくなりかけていた」(2)というほど、不満と怨念にただれているのである。

 この抑圧されていた不満と怨念が母親の死をきっかけにして噴出する。パールは母親の死んだ直後、古着を着て屋敷中を掃除し、さらに父親に会うため大陸横断のドライブを敢行するが、古着を着ること、掃除をじぶんですること、パールを父親に会わせること、旅行をすることはどれも母親の忌みきらっていたことである。彼女は母親のいやがることばかりしているように見えるし、彼女自身そのことを半ば自覚している。


従順さが苛立ちに流れこみ、それがまた従順さへ逆流するのが彼女の表情からうかがえた。口論を思いだし、だまって反芻していくにつれて、彼女の表情がやわらぎ、眉がしかめられ、またやわらいだ。その表情の移ろいは、屋敷の三つの階に残らず電気掃除機をかけて磨きあげていくあいだ、ずっと続いていた。彼女の母はいつも掃除婦にこの手の仕事をさせていたが、パールはいま、それがじぶんにできることを証明するために、じぶんの手でやってみたかった。

 わたし、お母さんをイライラさせるためにやっているのじゃないかしら、と彼女はおもった。

Docility flowed into irritation and back into docility again, all in her face, arguments recalled and rerun in silence, her expression softening, frowning, softening again as she vacuumed and scrubbed her way through the house, all three floors.  Her mother had always had this kind of work done by a cleaning lady and Pearl wanted to do it herself, now, to show that she could do it. 

  She wondered if she was doing it to irritate her mother.                  

 (3)


 これは母親の死の直後に屋敷中を掃除する場面である。パールは一日がかりの掃除の間じゅう、貴族趣味で古着や掃除仕事を軽蔑していた母親と空想の口論をたたかわせる。まるで生きている母親を相手にしているように血相を変えているパールの様子は、母親への反感や怨念が母親の死によっても消えていないことを示している。「わたし、お母さんをイライラさせるためにやっているのじゃないかしら、と彼女はおもった」が端的に示すとおり、彼女はその大掃除が死んだ母親への遅まきの復讐であることを半ば意識しているのである。

 このことはパールの大陸横断ドライブの裏面にひそむものを私たちに感知させる。パールは意識上では、父親に会うためそのドライブをしていると考え、未来に希望をいだいている。暗く煩わしい過去は母親の死とともに終わったと彼女は感じようとしている。つぎの引用は彼女のそうした勇躍をよく示している。


こうしてアメリカを横断してドライブしていると、まったく独りで、だれからも自由だった。だれも彼女の住所を知らなかった。だれも彼女を呼びもどせなかった。ダメッもない、マアッもない、癇癪もない――なんにもない。はげしい感情はすべて後にしてきたのだ。ちょうど、母親を愛し母親に仕えた後、母親をあの世に送り、いま母親から永久に遠ざかりつつあるのと同じように。

Here, driving across America, she was entirely alone and free of everyone.  No one knew her address,  No one could call her back.  No disapproval, no surprise, no anger--nothing.  She had escaped all emotions just as she had outlived her mother, having loved her, having served her, and now moving away from her forever.                                               (9-10)


 だがパールの期待に反し、母親の呪縛はそれほど簡単に彼女を開放してくれないのであって、そのことはつぎの挿話によく窺える。大陸横断中パールはたえず車のラジオをつけているが、それはアナウンサーの話を聞くためではなく、母親のことを頭から追いだしておくためである。もし母親のことを考えはじめたら、「ささやき声が、年中聞いていた母親のあのささやき声がパールの頭のなかに湧いてきて、ただそれから逃れるためだけに車を道路から飛出させてしまうかもしれない」(13)というのである。母親が強迫観念めいたものとなってパールを追いかけてきているのが分かるだろう。たとえパールが自認しなくても、彼女の大陸横断ドライブは、父親に会いにいくためばかりでなく、死後なお続く母親の呪縛から逃れたいという潜在意識的欲求によっても動機づけられているとみなさざるをえないのだ。

  もっとも、パールの場合、どれほど遠くまで走っても、母親から逃走しきることはできそうにない。というのは、いままで見てきたような成長環境のせいで、パールの性格自体のなかに母親の影が強く刻印されてしまい、パールはどこへ行っても自己のなかに母親を見いださざるをえないからだ。つぎの一節はパールの性格への母親の影響を腑分けのように開示している。


彼女は厳格で自己批判的な若い女性で、いつもじぶんを肉体的な存在、鍛えあげるべきなにかとして意識していた。歩くときも、しっかりした足取りで歩いた。ダラダラすることはなかった。母親は彼女に、けっしてダラダラするな、ダラダラするのは精神的怠慢、精神的遊惰を自認することだ、と教えた。彼女は母親から、冷たい、抑制された、かなり強い肉体蔑視を吹きこまれていた。そのため、ひとりでいるときでさえ、目的もなくぼんやりしていると―なにか心か手をふさぐもの、肉体をひき締め、緊張させるものがなく、ただ立っていると―不安をおぼえた。朝、半時間、彼女は体操をしたが、そのうちのいくつかはきわめて激しいものだった。彼女の身体はあまり強健ではなかったから、そうしたトレーニングの昂揚は彼女の身体のなかでたちまち憔悴にかわり、ぐったりと床に横たわって、頭を床につけ、天井を見あげ、立ちあがる体力が失せたのではないかと不安になることがあった。だが疲労すること、さらには疲労困憊することさえ、彼女は好きだった。

She was a stern, self-critical young woman, always conscious of herself as a physical presence, something to be disciplined.  When she walked, she walked firmly.  She did not dawdle.  Her mother had taught her never to dawdle, that was an admission of moral laziness, of moral vagrancy.  Her mother had inspired her to a cool, measured, rather bitter disdain of the flesh, so that Pearl did not feel easy if she stood, alone, without purpose, without something to occupy her mind or her hands, to keep her body straining, on edge.  In the morning she did half an hour of exercises, some of them quite strenuous.  Her body was not really very strong, and in it the exhilaration of such a work-out easily passed over into exhaustion, so that she lay f1at on the floor, her head against the floor, staring up at the ceiling and wondering if she would have the strength to get to her feet.  But she liked 

being tired, even exhausted.

                                                                                (5) 


 母親の「冷たい、抑制された、かなり強い肉体蔑視」が母親の家系のピューリタニズムの伝統によるものなのか、それとも離婚経験のなかで育まれたものなのかは分明でないが、いずれであるにせよ、母親から植えこまれたその肉体蔑視の種子をパールが純粋培養してしまったことは明らかである。すでに見てきたように、パールはその生い立ちのなかで、自分の本心を押しころすことを強いられて育った。自己抑制や自己否定は彼女の第二の天性だとみてよい。そのうえに〈肉体的怠惰はすなわち精神的怠惰である〉という母親の心身反映論を注ぎこまれたのだから、パールは逃げ場を失った。パールはいわば彼女の超自我のなかに入りこんだ母親につねに監視されているのであって、そのため一瞬の弛緩も許されないのである。彼女が自分の肉体をつねに不完全なもの、「鍛えあげるべきなにか」と感じるようになるのは必然だろう。彼女は自宅の室内で、虚弱な身体にむち打って、毎朝激しいトレーニングに励む。見張っているのが自分の超自我であるため、彼女には人目のないところでもズル休みをすることができないのである。彼女が安心して味わえるのは、肉体を酷使したあとの嗜虐的な快感だけである。

 わたしたちはパールのなかでひとつの逆転が起こっていることに気づく。母親から受けついでいるピューリタン的人生観では、肉体は本来精神の下位に位置すべきものだ。ところがパールの心のなかでは、肉体への過度の警戒心のため、かえって肉体が大きく肥大してしまい、彼女は「いつもじぶんを肉体的な存在として意識する」ようになっているのである。初めて会った父親の鼻孔からのぞいている半白の鼻毛(22)とか、エドワード(父親の介護人)の手首の三本の太い静脈(54)のように、パールの人間観察がことさら肉体の細部に向けられがちなのも彼女のなかの肉体肥大のひとつの証左といえる。いっぽう、母親から植えつけられた「肉体蔑視」は強まることはあっても衰えることはない。肥大化した肉体とその肉体に対する厭悪、これは精神を錯乱させるのに充分な矛盾だろう。

 パールの肉体嫌悪が神経症的な程度に達している徴候はいくつかある。公衆便所の清潔さへのこだわり(10-11)、ガソリンスタンドで金を支払うとき店員の手が自分の手に触れたことへの神経的反発(12)、果物と木の実だけの父親の食事を清潔だと感じて真似ること(28)、これらはみな何らかの意味で肉体にかかわっており、肉体を維持したり、肉体を接触させることへの強い嫌悪感がこれらの病的なこだわりをうみだした根源ではないかと推測させるのだ。

 もっとも、パールの病的な肉体厭悪がもっとも著しく現れるのは恋人のエドワード・カーとの性関係のなかであって、またそのことがこの作品で作者オーツの書きたかった主眼であるように思われるので、その点を確かめるために二人の性交渉にいたる道筋をたどってみよう。

 父親の家での共同生活のなかでパールはしだいにエドワードに好意をもつようになるが、彼女のこの変化は父親、エドワードと三人でサン・ジャシント山に登ったとき明らかになる。高所恐怖症のパールはケーブルカーが怖くてたまらず、所要時間を知ろうとして無意識的にエドワードの手首をねじって、彼の腕時計を見ようとする(54)。エドワードは雇い主に気づかれずに時刻を知るためいつも腕時計を手首の内側にはめており、パールはかねてそのことに勘づいていたのである。硬貨の受け渡しのためガソリンスタンドの店員の手が接触するのさえ嫌がったパールとは別人のようであろう。同じことがエドワードの貸してくれたセーターを黙って着ることについても言えるのであって、エドワードヘの好意がパールの肉体嫌悪を緩解させたようにみえる。

 こうしたエドワードヘの愛情のたかまりが父親の家を出る決心をパールにさせた根源の理由であることは疑えない。父親は、東にアリゾナ、西に太平洋を見はるかすサン・ジャシント山の頂上で、イエスを試すサタンを冗談半分に気取りながら、もしパールとエドワードが別れ別れに暮らすならば、じぶんの巨万の財産を二人に等額ずつ分与するが、二人が結婚すれば財産はあたえない、と告げ、二人から忠誠の言葉を強要する。パールはしぶしぶ父親から離れないと答えるが、サン・ジャシント山から帰ってきたあと、パールのなかで父親にたいする反感が強まってゆくことは、回想録執筆のために父親が録音したテープを文字になおす仕事に集中できなくなること(60)や、父親の真似をして食べていた果物が欲しくなくなること(60-61)から暗にうかがい知ることができる。いっぽうエドワードに対する愛情は睡眠をさまたげるほど昂まっていく(61)。そしてエドワードが父親に食物を食べさせている態度が卑屈だと感じた直後、父親の家を出ると言いだすのである(63)。パール自身は意識していないように書かれているが、父親から離れなければエドワードとの未来はないと感じたことが彼女の出立の決意の底流にあることはあきらかである。したがって、巨額の遺産相続の見込みをすてて彼女についてきたエドワードはパールの願望どおりに行動したわけで、二人の結合を妨げるものは本来なに一つなくなったはずなのである。

 ところが二人きりになると、パールのなかにエドワードにたいする異和がわきだしてくる。それは肉体への嫌悪という形をとって現れる。彼に初めて接吻されても興奮せず、「それをその瞬間に感じることはなかった―彼のことが恐くて、彼女の心は彼から後ずさりした」(67)。またエドワードに手を握られても、彼の「強い角張った手」(68)が気になって、二人が愛しあうことは「奇蹟」(68)のように感じられる。彼女が安心してできるのは、運転しているエドワードの顔を横から見つめることで、「彼女は彼の横顔がすきだった―相手の真剣な凝視をうけずに男の横顔を見つめる気安さ。エドワードが彼女のほうを向くと、彼の凝視には熱っぽいなにかがあった。彼女はそれを欲していたが、それを怖れてもいた。彼女はじぶんの両手で彼の片手をしっかりと握り、彼の話に聞きいった」(69)。彼女がエドワードの片手を握りしめているのは恋人の手に触れていたいからなのか、それともその手が自分の身体に触れるのを防ぐためなのか、パール自身にも確答できないだろう。

  そんなパールだから、エドワードが彼女を抱きしめてディープキスをしようとすると、「パールは恐怖を感じた。悲鳴をあげなければ、彼を突き飛ばさなければ、放っといてと叫ばなければ、と感じた。だが彼女は彼の両腕に抱かれたまま、虚脱し、怯え、背中を丸め、顔面の筋肉をこわばらせて立ちすくんでいた」(75)というテイタラクになる。

 とうぜんエドワードは彼女に拒絶されたと感じ、腹をたて、彼女に背を向ける。

 すると愛憎の力学が働いてパールがエドワードを追いかける。もっともパールの追いかけ方はいかにも彼女らしく逃腰のいざりよりだ。「彼女は彼のすぐ後に立って、彼の背中に自分の顔を押しあてたかった。そうすれば彼の眼から身を隠せるし、彼の顔をみなくてもすむ」(76)。

 パールがエドワードに背後から近づこうとしていることは注目に価する。横顔がすきだという前例と同じく、背後はエドワードの手が使いにくい方向である(68)。エドワードの手にたいするパールの嫌悪には、生理的反発に加え、男性に支配されることへの嫌悪が混ざっているのではないか。彼女はことあるごとに父親の「専制的な命令」(21)を感じとり、「じぶんが彼のなかに吸いこまれてしまうのを怖れて」(68)いるが、エドワードにも同じ怖れをいだいている(68)。じぶんを支配し小突きまわす者という次元では、エドワードは父親と変わるところがないようにパールには感じられるのだろう。エドワードが父親に命じられてじぶんを抱いているのではないかとパールが妄想する事実はその意味で興味ぶかい(74)。私見によれば、それは、パールがエドワードと父親を一体のもの(男性総体)としてとらえていることを暗示している。エドワードとの性行為を父親にのぞき見られているという妄想や父親の声がきこえるような幻覚をパールがいだくのも、エドワードが独立した異性として、パールのエレクトラ・コンプレックスを粉砕できるほど強く彼女の心を占有できていないためである。母親から植えつけられた肉体嫌悪と家父長的な父親ゆえの男性嫌悪のコングロマリットがパールの心の大半を占拠していて、それ以外の存在を容れる余地がないといった感じである。パールとエドワードの性交渉が不満足な結果に終わるのはあらかじめ定命されていたといってよい。

 パールの本質は、両親の離婚とその余波によって心をむしばまれ精神的外傷をうけた娘である。オーツは『贅沢なひとびと』(The Expensive People, 1968)のなかで、母親を射殺する(あるいは射殺したと幻想する)11歳の少年を描いている。少年は作家である母親を熱愛しているが、母親は少年と夫をおいてほかの男と出奔をくりかえす。少年は物心がついて以来いつも母親と父親の喧嘩にハラハラさせられ、たえず盗み聞きをしたり、見張ったりしている。ある日少年は母親が書いた「痴漢たち」という短篇を読む。幼女が黒人の男に河辺で身体を触られる話で、その体験を幼女の言葉で語らせている作品である。少年はこの作品を読んだあと、じぶんは母親によって痴漢されてきた、すべての大人は子供の痴漢者である、母親はその作品を書くことによってじぶんの有罪を認めたと感じる。少年は通信販売で銃を購入し、念入りの偽装をこらして母親を射殺する(あるいは射殺したと幻想する)、といった内容の小説である。『大陸の果て』のパールは、この『贅沢なひとびと』の主人公と同じく、凌辱とよんでよいほどの痛手を両親から負わされた子供だとみることができる。

 したがってパールの行動には両親にたいする復讐と見ることのできる側面が潜在している。すでに指摘したように、古着を着て掃除をしたり、大陸横断ドライブをして父親に会いにゆくことは母親にたいする復讐であるという側面をもっていた。また、パールが家を出ていこうとしたとき、父親が「わたしの娘がわたしを捨てようとする」といったのにたいして、パールは「彼のほうがさきにわたしを捨てたのよ、何年も前にね」(67)、「わたしが小さな子供だったころ、彼はわたしを捨てたのよ」(71)と逆襲する。そのようなパールの意識下に、父親にたいする積年の怨みと復讐心がたまっていなかったはずはない。さらには、愛の素振りでエドワードを絶好の職場から誘い出しておきながら、一度の交渉ののちあっさりと捨ててしまう顛末には、意識的か否かは別として、男性総体にたいする女性の復讐心が混入しているかもしれない。

 もっともこうした復讐は彼女自身が男性嫌悪や不感症におちいるという犠牲をはらうことでなし遂げられるのであって、その結果パールに残るものは、猛烈な食欲に象徴される癒しがたい欲求不満だけである。両親の離婚のせいでパールは幼いころから「ぜったいじぶんは結婚しない、ぜったいじぶんは母親にならない」(8)と思い決めて育った。たとえパールが意識していなくても、エドワード拒絶はその思い決めの延長線上にある。不幸な生い立ちによって刷り込まれた目に見えない糸が26歳のパールをいまなお操っているといってよい。ある人間が無意識の中に押しこめていた怨念によって、それと意識しないうちに(あるいは意識しないがゆえに)、自らの言動を支配されてしまうという悲劇、おそらくそれがパールという人物造形をとおして作者オーツの描きたかったものであろう。




(2)


 さて、以上で見てきたように、『大陸の果て』の核をなしているのは、幼年時代にうけた精神的外傷のせいで自他を不幸におとしいれる若い女性の物語だといってよいが、この作品にはそれだけでは尽くせない要素が含まれている。それは寓喩的意匠とでもよぶべき要素で、核となる若い女性の心理劇をこの意匠が外皮のようにおおっている。もっともこの寓喩的意匠は、だれの目にもその存在が明かというわけではなく、それに気づくためには一種の色眼鏡をかける必要がある。この寓喩的意匠が比較的明瞭に感じとれるのは登場人物の名前や地名の選び方なので、以下、人名と地名に関連する事実とそれらが喚起する連想を列記し、どのような色眼鏡をかけると、どのような意匠が見えてくるか確かめてみよう。


1)パール(Pearl)。

 すでに見てきたとおり、ヒロインのパールは父親を探し求め、父親に失望させられるピューリタンの娘であって、その共通性からナサニエル・ホーソンの『緋文字』の同名の登場人物が連想される。『緋文字』のパールは旧大陸生まれの両親とちがい、アメリカで生まれた第一世代に属しており、いわば生粋の〈アメリカの娘〉である。


2)ティモシー・フィッツヂェラルド・ウォール(Timothy Fitzgerald Wall)。

 パールの父親。弁護士。ウォールはウォール街を連想させる。証券業と弁護士業は資本主義的アメリカを象徴する職種だといってよい。父親のウォールはカリフォルニアで大身代を築き、高い壁(wall)をめぐらした大邸宅に、「侵入禁止。この所有地は私設警察の警備下にある」(17)という警告板を掲げて住んでいる。この邸宅の食堂の大扉は「もとはメキシコの教会のもの」(25)で、その食卓は「フランスの僧院から買ってきたもので、14世紀にさかのぼるもの」(25)だった。言及されているのがことさら食堂の扉と食卓であるため、父親のウォール(合衆国の象徴)が大資本と私物化した法(私設警察)をほしいままにし、新大陸や旧大陸の文化を食い物にしているという連想が浮んでくる。


3)パールの母親

 姓名不詳。18世紀にさかのぼるニューイングランドの旧家の出身。ピューリタン。母親の名前がふせてあるのは、物語の現在において母親がすでに死亡しているからだろうか。あるいはまた、母親の体現していたピューリタン的心性がパールによってすでに共有されているということ、いいかえれば、母親は死んだがパールのなかに再生産されており、母親の無名性は個人の死をこえたピューリタン伝統の永続を暗示しているのかもしれない。


4)エドワード・カー(Edward Carr)。

 ウォールの介護人で、ウォールの富を相続する可能性がある。マルタ(Malta)出身。アイダホ州とモンタナ州に同名の町があるが、文脈から考えると地中海のマルタ島を連想すべきであろう。マルタ島は他民族に征服されていた時代のほうが長いのではないかと思われる歴史をもち、ナポレオン戦役以後は1947年まで英国植民地として英帝国地中海艦隊の基地だった。マルタ島は植民地の代名詞のようなもので、したがってマルタ島出身のエドワードがウォールに仕えているという設定は、アメリカ資本主義による他国の植民地化を連想させる。

 他方、エドワード・カーという名前はイギリスの外交官でソビエト・ロシアの研究家でもあったエドワード・ハレット・カー(Edward Hallet Carr)をも想起させる。歴史家としてのE.H.カーは社会主義の同情的批判者といってよく、この点を加味して考えると、ウォールがエドワードの介添えで辛うじて食事をとっている場面は、資本主義が社会主義の限定的摂取(たとえばTVAなど)によって命脈をたもっているという連想を使喉する。


5)メーン州オーガスタ(Augusta, Maine)。

 メーン州は合衆国の東北端の州。オーガスタはその州都だが、パールの母親の家系が18世紀つまりAugustan Ageまでさかのぼることとも符合する。オーガスタはプリマス植民地の交易所のあったCushnocという先住民部落跡に建設された。


6)マッセイ通りとエイケン通りの角(the corner of Massey Avenue and Aiken Boulevard)。

 この場所にパールの母親の屋敷が建っていることになっているが、オーガスタにはこれらの名前をもつ通りは実在せず、そのため濃厚な暗示力をはらんでいる。マッセイ家は17世紀に渡米してきたイギリス人の後裔で、農機具製造で財を成した。いわばアメリカ資本主義の申し子である。エイケン家もまた17世紀にさかのぼるニューイングランドの旧家だが、家系中もっとも著名なコンラッド・エイケンはフロイトの影響を強くうけた作家として知られている。かれは少年時代、父親が母親を射殺し自殺する現場を目撃した。


7)カリフォルニア州トゥエンティーナイン・パームズ(Twentynine Palms, Califomia)。

 パールの父親が現在住んでいる町である。カリフォルニア州は合衆国の西南端の州。トゥエンティーナイン・パームズはサン・バーナディーノ山脈の東麓にある人口5,584人(1968年現在)の小さな町だが、付近に同名の先住民保留地があり、『アメリカーナ』(1968年版)によると保留地の人口はゼロ(1956年調査)である。


8)ニューメキシコ州アルバカーキ(Albuquerque, New Mexico)。

 パールの大陸横断ドライブ中唯一名前があげられている都市で、スペイン植民者旧道と西部開拓時代のカリフォルニア街道の分岐点。オーガスタからアルバカーキをへてトゥエンティーナイン・パームズにいたるパールのドライブは、合衆国を対角線状に横断することを意味しており、そのルートは米国陸上輸送の幹線のひとつである。

 また、西部開拓時代のカルフォルニア街道はその後国道66号線(現在は廃道)の一部となるが、国道66号線はジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』(1939)に描かれた貧窮農民たちが約束の土地カルフォルニアを目指して通った道であって、富をもとめて西へというアメリカの西漸運動を象徴する道だった。


9)作品名『大陸の果て』(Where the Continent Ends)。

 パールはアメリカ大陸を東から西に斜断して太平洋岸に達し、欲求不満の目をさらに西に向ける(パールがエドワードと不満足な性行為をもつモーテルも、そのあと猛烈な空腹におそわれて出かけていくレストランも太平洋に面している)。ここから以下の連想が生まれる。ポルトガルのロカ岬はヨーロッパ大陸の西端だが、そこには16世紀ポルトガルの大詩人ルイス・デ・カモンイスの「陸の果て、海の始まるところ」"Onde a Terra se acaba, e o Mar comeca"(Where the land ends and where begins the sea)という詩碑がたっている。この詩句は大航海時代ヨーロッパの西方への膨張欲を表徴しているが、この作品の題名はこのカモンイスの詩句とその含意をもじったものではないのか。

② 金七紀男氏(東京外国語大学)によると、この詩句は『ウズ・ルジアダス』(1572年)の第3歌、20連、「ヨーロッパのいただき」ともいうべき「ルシタニア王国」(ポルトガルの雅名)を歌った箇所にあり、Where the land ends and where begins the seaと英訳されているという(Leonard Bacon 訳)。その場合の「海」は香料と金をもとめて西方に船出するポルトガル船を浮かべる海、つまり、ポルトガルおよび西欧全体の膨張の媒体としての海、と解釈できるだろう。また、この作品名がロカ岬の詩句をふまえているのではないかという仮説は、同僚の飯沼万里子氏(光華女子大学)から示唆をうけた。金七氏、飯沼氏のご教示に感謝する。


 さて、うえに記したもろもろの連想は、ひとつひとつ取りだせば根拠薄弱なものがあることは認めなければならない。しかし、そうした不確かな連想もこれだけ数が集まると作者の意図を感じざるを得ないのではないだろうか。つまり作者オーツは、母親から逃れ父親を求めて合衆国を走りぬけるパールのエレクトラ・コンプレックス的ドライブに、アメリカの西漸運動の歴史を重ねあわせているのではないだろうか。筆者がさきに色眼鏡と呼んだのはこのような寓喩的読み方をさしている。

 ではこのような読み方をした場合、この作品の寓喩的要素からはどのような寓意がつむぎだせるだろうか。これらの寓喩的要素が作中の人名や地名の選び方から憶測されるだけなのはすでに指摘したとおりである。作者オーツが読者に与えているのはいわば点のみであって、それらの点をどのように結びつけ、どのような意味をこめようとしたかについてオーツはなにも語っていない。けれども、これだけの数の寓喩的要素がすべて偶然の所産だとは考えにくい。点の結びつけ方(寓意の解釈)の究極的責任は読者にあることを断ったうえで、オーツが腹中していたと筆者が考える観念の枠組みを示してみよう。このように考えなければ、点在する寓喩的要素を無理なく結びつけることはできないように筆者には思われるのだが・・・。


 ロカ岬から西方に野望の目を向けたカモンイスの同輩たるアメリカ人の祖先たちは、ピューリタニズムをたずさえて新大陸に渡来し、東海岸に橋頭保を築き、以降4世紀をついやして大陸を東西に席巻した。彼らの膨張は、メーン州オーガスタが先住民の集落跡を襲って建てられたことが示すように、必然的に先住民の排除をともない、トェンティナインパームズ先住民保留地の人口ゼロが象徴するように、その排除はしばしば徹底した集団殺戮【ジェノサイド】におよんだ。

 アメリカ膨張の原動力はピューリタニズムの世俗内禁欲であり、それが資本の蓄積をうながし、資本主義の発達をもたらした。やがてアメリカは莫大な資力を獲得し、それによって欲しいものは何であれ、旧大陸からでも先住民からでも手に入れることができるようになった。遅れてきた新移民者や、『怒りの葡萄』のジュード家のような経済競争の敗者たちも、西方の原野に富の神【マモン】が眠っていると信じていた。彼らは、パールの父親と同様、西へ西へと進み、やがてアルバカーキから国道66号線などを経て太平洋岸に到達し、そこで開拓線が消滅した。

 この開拓線の消滅とともに、貧富の差を是正する根本的手段がうしなわれた。その結果、資本主義の矛盾が顕在化し、貧富の軋轢を激化させた。ひとにぎりの富裕層は、パールの父親のウォールのように、高い塀と警察という暴力装置によって、搾取された貧窮大衆の怨嗟と逆襲をはねかえそうとする。ところが皮肉なことに、エドワードに介助されるウォールが暗示するように、そのようにも手厚く守られた塀の内側で、資本主義自体が計画経済というカンフル注射を必要とするほどの重篤状態におちいっているのである。

 以上で素描してきたアメリカの社会的経済的曲折は男性主導のもとで行われてきた。このアメリカ(ないし西欧全体)の男性優位主義とその進路全体にたいしてアメリカの娘であるパールは違和を感じている。彼女はピューリタニズムのリゴリズム(パールの母親)を内在化する一方、それに反発している。彼女は自分の基盤である資本主義(父親のウォール)に失望しているが、さりとて社会主義的修正(恋人のエドワード)にも同調しきれない。彼女には信奉すべき思想がみあたらない。先達のカモンイスが旧大陸の西端にたって西方を望んだのと同じく、パールも新大陸の西端にたって西方を望遠するが、カモンイスが自らアジアにおもむいて植民地支配に挺身できたのとは異なり、パールは行動を奪われ、むなしく欲求不満をたぎらせるばかりである。


 『大陸の果て』が孕んでいる寓喩的意匠はおおよそ上記のように理解できるのではないだろうか。離婚した両親に怨念をいだく若い女性の間然するところなき心理劇に見えていたものが、視点をかえるとそのまま、アメリカ近現代史にたいする発言に読み替えられるのはほとんど手妻のようであろう。

 オーツがこのような騙し絵めいた作品を書いた理由は判然としないが、その問題を考える場合、この作品が書かれた1973年当時、パールが見晴るかす太平洋のかなたでヴェトナム戦争が戦われていたという事実は忘れてはならないように思われる。ヴェトナム戦争の原因がなんだったかといった問題に踏みこむことは筆者の力をこえているが、30年ほどの年月をへだてて振りかえると、あの戦争が孕んでいた一つの側面がはっきり露呈してきたように感じられる。その側面とは、あの戦争が5世紀におよぶ西欧のアジア侵入の歴史に連なるものだったということだ。アメリカは共産主義阻止を旗印に南ヴェトナムを〈援助〉したわけだが、ヴェトナムを食いものにしたことではアメリカも旧宗主国フランスと変わりはなかった。共産主義阻止というその旗印は、大航海時代のキリスト教という旗印と同じく、生臭い実体をくるむ隠れ蓑にすぎず、アメリカとその軍産複合体がアジアの一角に自らの勢力を維持したがっていたという実体は蔽えない。アメリカ先住民の著述家ウィリアム・メイヤーはその著書『アメリカ先住民』(Native Americans, 1971)のなかで、上に述べたヴェトナム戦争の一面を的確に指摘している。メイヤーはヴェトコン兵士を〈インディアン〉にたとえたマクスウェル・テイラー統合参謀本部議長の上院外交問題委員会での発言をとりあげ、「ヴェトナム戦争は西部開拓線が時空をワープして延長された〈論理的〉帰結にすぎないのではないのか、〈明白なる運命〉【マニフェスト・デスティニー】の20世紀版なのではないかと疑われるのだ」と述べているのである。自分たちの大地を横奪され、同胞の大量殺戮【ジェノサイド】を経験してきたメイヤーには、ソンミ村の虐殺(1968年)やバランアンの虐殺(1969年)はただちにサンド・クリークのシャイアン族虐殺(1864年)やウーンデッド・ニーのスー族虐殺(1890年)を想起させずにはいないのであろう。いわゆる〈平原インディアン〉の壊滅の記録であるディー・ブラウンの『わが心を聖地に埋めよ』(Bury My Heart at Wounded Knee)が書かれたのは『大陸の果て』が書かれる3年前の1970年のことである。この作品が1971年から72年にかけて1年間あまりベストセラー(ノンフィクション部門)の第一位を独占しつづけたという事実は、この作品がアメリカ人に与えた衝撃の大きさを物語っている。そして、「アメリカ・インディアン運動」(AIM)がウーンデッド・ニーを占拠して合衆国に宣戦布告したのは、『大陸の果て』が書かれたのと同じ1973年のことである。

 『大陸の果て』は以上のような騒然たる政治的社会的状況のもとで書かれた作品であって、このことを念頭におけば、パールの見晴るかす太平洋のかなたにヴェトナム戦争が想定されているという推測もあながちコジツケとは言えなくなるのではないだろうか。そしてもしこの推測が正鵠を得ているとすれば、その場合のヴェトナム戦争はメイヤーと同じ見地からみられていると考えてよいだろう。すなわち、ロカ岬(旧大陸の西端)、大西洋、メーン州(新大陸の東端)、カリフォルニア州(新大陸の西端)と進んできた西欧の西方膨張の〈論理的帰結〉とみなされているのではないだろうか。サンド・クリークやウーンデッド・ニーの虐殺から1世紀が経つというのに、あいかわらず自己の利害のために邪魔者の異民族を抹殺しつづけている〈男たちのアメリカ〉。そのようなアメリカにたいして作者オーツは、〈アメリカの娘〉たるパールに寄添いつつ、ひそかな異議申し立てをおこなっていると解釈するのは筆者の恣意にすぎるだろうか                    了

                                (1996年執筆)


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