此岸の光景


此岸の光景

                岩田 強

 



「放課後のながくたのしい夕べ」


 民泊をしていると、ときおり思いがけない出会いがある。今年の三月はじめ、コロナ騒動で海外との行き来が途絶する直前に、イギリスから初老の男性DとTが来泊した。

 イギリスはまだイタリアからの帰国者に感染者がぼつぼつ出始めたばかりで、ジョンソン首相は事態を楽観視、集団免疫につながる市中感染の拡大をむしろ歓迎して、感染者の発見と隔離に不可欠なPCR検査に積極的でなかった。イギリスが感染防止に躍起になるのは、ジョンソン首相自身が感染し、重症化し、ICUに収容された三月末以降のことだ。もっとも回復後のジョンソンの変貌は目覚ましかった。四月七日には0.22だったPCR検査の一日の実施数(人口1,000人当たり)を七月十二日には1.59にひきあげた(Our World in Data https://ourworldindata.org/coronavirus-testing#united-kingdom)。イギリスの人口にあてはめて計算すると、一日当たり17,000件から107,000件への急拡大ということになる。人口はイギリスの二倍近くあるのに、検査の実施件数はいまだにその十分の一ほどの日本とは雲泥の差がある。肝心かなめのPCR検査や抗原検査の拡充をそっちのけにして、布マスクを郵送したり、自宅でくつろぐ自分のすがたを放映することが蔓延防止に役立つと思っている日本の首相はいったいなにを考えているんだろう。

 ともあれ、そんな次第で、二月下旬から三月にかけてのイギリスでは、まだコロナへの警戒心がうすく、そのためDとTは日本のコロナの状況も確かめたうえ、予定どおり日本旅行に出発した。かれらが我が家に滞在したのは数日にすぎなかったが、話がはずんで、じぶんたちのことをいろいろ話してくれた。

 DとTは小学校に入る前からの幼馴染同士で、DはよくTの家に遊びに行っていたらしい。有名な劇評家だったTの父親はいつも煙草をくわえ、グラスを片手に、子どもたちの遊ぶようすをニコニコしながら眺めていた、とDはいった。

 チェックアウトの前日、Tは自分の父親が生涯でただ一つ書いた詩について話してくれた。かれの父親はロンドンに出て劇評家になる前、歩兵として第二次大戦に従軍し、終戦直前にドイツで九死に一生をえる重傷をおい、その体験を詩に書いた。その詩がインターネット上で読めるという。

 ふたりがチェックアウトし、清掃、ベッドメーキング、コロナ対策のアルコールによる除菌がおわった後、Tに教えられたBBC’s WW2 People’ Warというウェブサイトを開いてみた。

http://www.bbc.co.uk/history/ww2peopleswar/)この「BBC版人民の第二次大戦」は、BBC放送が2003年から2006年にかけて市民に戦争体験談の寄稿をもとめ、それらを編纂した4万7千話の逸話と1万5千枚の写真からなる膨大な集成であることがわかった。

 「2003年から2006年にかけて」に感銘があった。終戦後60年が経とうとする時期に、市民レベルで戦争体験談の掘り起こしがおこなわれたことになる。日本で『はるかなる山河に』が出版されたのは終戦2年後の1947年、『きけわだつみのこえ』は1949年、『第二集きけわだつみのこえ』は1963年、しかもこれらはいずれも出征学徒の手記で、全国民の体験談が編纂されたことをボクは寡聞にして知らない。BBCとおなじ公共放送のNHKが平成15年(2003年)をすぎてから全国民の戦争体験談を集めてオンライン上に公開することがなかったのは明らかだ。

 「BBC版人民の第二次大戦」は検索しやすく構成されていて、すこしの試行錯誤で簡単にTの父親 Fergus Cashin の詩を見つけることができた。BBCが英国民に戦争体験談の寄稿を求めたとき、Tの兄マイケルが父親の承諾のもとに紹介文をそえて父親の詩を投稿したらしい。筆者の了承をえて、その紹介文と詩を以下に私訳してみる。



「キルトのおかげで」  マイケル・カシン

         BBC南部州ラジオ局発


わたしの父ファーガス・カシン少佐は、第二次大戦中「女王陛下のキャメロン高地歩兵連隊」に所属していた。第5大隊の大尉だった。戦争終結の一か月前、かれは小隊指揮官としてアルデンヌ地方を転戦し、ライン川沿いでドイツ兵と戦っていた。


運命のその日、小隊は奪取したばかりの小村の荘館に陣取り、残骸のあいだで休止していた。連隊の伝統で、将校たちはキルトを着けていた。窓ごしに一軒の農家を眺めているうち、父は人影が動くのに気づき、ホワイト軍曹とともに偵察にでた。まず手榴弾を投げこみ、つづいて機関銃で掃射したあと、ふたりが建物に入ろうとすると、ひとりのドイツ兵が開いていた窓から外にとびだした。ホワイトは手榴弾をもう一発なげつけようとしたが、一瞬早くドイツ兵が振りむいて銃を発射した。ホワイトは手榴弾をにぎったまま倒れた。父は即座にくすぶる手榴弾を蹴りとばそうとしたが、遅かった。手榴弾が爆発し、ホワイトの片腕と片脚を吹きとばした。蹴りとばそうとして父が体を回転させたため、父の着ていたキルトが広がり、炸裂片の多くを受け流してくれた。それが父の命(そして私の命も?)を救ってくれたのは間違いない! ホワイトは翌日死んだ。父は救急機でイギリスに空輸され、その機内で以下の感動的な詩を書いた。


ああ、看護婦さん、薬をくれ

たのむから顔をそむけないで

ぼうや、おやすみ、傷は痛まないわよ

と云ってくれ


ボクの身体はもうニンゲンの欲求を感じない

けれど、世界が慰安の毛布にくるまるころ

ボクはうす暗い夢のなかに身を横たえ、遠いモノ音に耳をすます


するとまた、荒れ地をおおう火の天蓋がみえ

イギリスの栄光のために脚と腕をもぎとられた

ホワイトの悲鳴がきこえる


ああ主よ、あなたに栄光あれ

「あの丘を奪れ!」ボクが叫んだその命令で

死への道をたどったあの死者たちと

顔をあわせずにすむように

臆病者となって身を伏せていられたなら――


ボクももうじゅうぶんやったのだから

放課後のながくたのしい夕暮れに

逃げてかえってはいけまいか

戦争をゲームと思っていたあのおろかな若者に

もどっていってはいけまいか

あれらの墓標を時の砂漠におき去りにして


私の父ファーガス・カシン少佐はキルトを着て戦傷をおったただ一人の将校だった。父はそのキルトを記念として、穴だらけのまま、21ヤードそっくり、仕舞っておいたが、あろうことか、父の妹が息子にズボンを作ってやるためそのキルトを裁ち分けてしまったのである。父は回復したあと、フリート街のジャーナリスト兼劇評家ファーガス・カシンとして名を挙げた。注1



 一読、その哀切さに心をうたれた。じぶんの命令で命をおとしたホワイトやその他の部下たちにたいする自責の念がストレートに伝わってくる。「臆病者」という一語には無量の想いがこもっているだろう。カシン大尉は、おそらく、戦闘神経症のため戦場で地面につっ伏したまま動けなくなる兵士を見たことがあっただろう。小隊指揮官の眼にそのような兵士がどのように映ったかも推測に難くない。にもかかわらず、そのような「臆病者」となって地に伏せてでも、死者たちの指弾の眼差しをさけたいというのである。かれの中の呵責の念がいかに深かったかを感じさせる。Wikipediaによると、カシン大尉はこのときまだ20歳か21歳、甘えん坊の「ぼうや」のように看護婦に薬をねだるのが似つかわしい年ごろだった。「戦争をゲームと思っていたおろかな若者」にとって、現実の戦争は意想外の連続であっただろう。幹部候補生試験でにわか仕立ての少尉になった日本の出陣学徒と同じように、カシン大尉もわずかな実戦経験しかないまま小隊の指揮をとらなければならなかったのかもしれない。

 最終聯はかれの心情をさらに印象ぶかく語っている。じぶんは負傷までおって指揮官の重責をはたしてきたではないか、だからじぶんには戦列をはなれて銃後の生活にもどる権利があるはずだと、かれは何者か(神?)に訴えたい。というより、じぶん自身を納得させたい。しかしそれが不可能なことは、かれには分かりきっている。「いくつもの墓標」が「時の砂漠」からいつまでも蘇り、迫ってくるからだ。そのような切ない希求と絶望のなかに置くと、「放課後のながくたのしい夕べ」の秘めている意味の深さに気づかされる。それはカシン大尉の記憶にきざまれた日常生活の一コマというにとどまらない。いつ殺されるかわからない前線の兵士の脳裏を去来する銃後の生活全体を象徴するもの、殺し合いに対置されるすべてのものが濃縮された「平和」の一滴なのだ。それが目の前におかれた景物のようにどれほど鮮明に懐かしく見えようとも、兵士には手のとどかない禁じられた夢なのだ。

 ボクは「放課後のながくたのしい夕べ」に感動した。そして久しぶりにある話を思い出した。小学校5年生か6年生のとき、担任のK先生が教室でその話をしてくれた。


 戦争中センセイは応召して、北支や中支で戦っていたんだよ。センセイの任務は機関銃だった。機関銃は重い。何人かいないと運べない。もっともセンセイは背が低いから、ほかの人が担ぐ機関銃にぶら下がっているときもあったけどね。

 深夜、暗闇の中で機関銃を運ぶのはキツかった。ある晩、大きな川にかけられた鉄橋を渡っていた。枕木の下にはなにもなく、はるか下の川面は暗くて見えなかった。ところどころ枕木がなくなっていて、戦友のひとりが踏みそこねて「ワー」と叫びながら落ちていった。軍隊では助けに行くことはできない。そのまま見殺しだ。

 戦闘があるたび戦友がひとりまたひとり死んでいった。明日は自分がそうなるかもしれない。ある日、大きな川の岸にでた。川岸に筏がつながれ、アヒルがまわりを泳いでいた。筏の上の小屋には大人や子どもが見える。あの人たちはどういう人たちなんだろう。土地の人に聞いてきた戦友の話でそれが分かった。

 その人たちは家族で、ずっと上流から筏に乗って流れ下ってきたのだそうだ。上流でかれらは、もっと上流から流れてきた流木を集め、それを筏に組み、その上に夜露をしのぐだけの小屋をつくる。それからアヒルの卵を買い求め、家族全員筏に乗りこんで、もやいを解く。やがて卵が孵って、ヒナが筏のまわりを泳ぎはじめる。数か月がたつ。ヒナはもう一人前の成鳥だ。そこで家族は大きくなったアヒルと、筏をばらした木材を売りはらう。そして、そうやって得たお金で陸伝いに上流にもどり、また同じことを繰りかえす。

 君たち、信じられるかい、そうやって生きている人たちがいるんだよ。


 ボクは十歳あまりの子どもにすぎなかったが、その家族を見たときのK先生の気持ちが分かると思った。毎日殺し合いをしなければならない先生には、悠久の川の流れのままに生きているその家族の平和な暮らしがどれほど羨ましく見えたことだろう。けれど、どんなに羨ましくとも、かれらは先生には縁なき衆生だ。いったん命令がでれば、先生はすぐにかれらを忘れて修羅の戦場にもどらなければならない。かれらと先生は生きている世界がちがう。かれらは生の側に、先生は片足死の側にふみこんで、あいだには越えられない川があるのだ。ああ、それにしても、かれらの筏とアヒルがなんと輝いてみえることだろう! 手に触れることができないものだからこそ、いっそう懐かしく感じられるのだろうか。

 K先生はその家族についてどう感じたか、具体的にはなにも語られなかったとおもう。戦場での体験は銃後の人々には伝えがたい。まして年端のいかない子どもたちには理解してもらえないだろう。先生はおそらくそう考えて、コトバを呑みこんだのであろう。

 けれど先生はその家族を見たときの曰く言いがたい感動を言わずに已むことはできなかった。殺し合いのむごたらしさ、いやでも戦争に引きずりだされる割なさ、残してきた家族への想い、脳裏をはなれない故郷の風景・・・「君たち、信じられるかい、そうやって生きている人たちがいるんだよ」という一句には、そうしたもろもろの想いが無言のまま託されていたような気がする。

 K先生の川の民の筏とアヒルは、カシン大尉の「放課後のながくたのしい夕べ」と同じだ。どちらも兵士には禁じられた不可能な願望-----平凡で、そうであるが故にいっそう懐かしく、涙ぐまずには思い出せない平和な日常生活-----の凝縮点なのだ。


(付記)

 この稿を書きおえた後でTからメールをもらい意外な事実を知らされた。Tは父親とホワイト軍曹の死傷について、兄が聞いたのとは異なる話を父親から聞いているというのである。それによると、逃げだしたドイツ兵は銃を撃ってきたのではなく、棒型手榴弾を擲げつけてきて、それをホワイト軍曹が蹴りとばそうとしたが間に合わなかった、という。ホワイト軍曹はすでに30歳をこした古参兵、英陸軍の習わしで若い士官につけられた歴戦の軍曹だったらしく、二十歳になったばかりのカシン大尉にとって「むしろ父親のような」とくべつな存在だったらしい。Tが父親から聞いた話では、負傷後ホワイト軍曹とカシン大尉は野戦病院に運ばれたが、そこは将校専用の病院だったため、病院付きの士官がホワイト軍曹を遠くの別の病院にまわそうとし、激怒したカシン大尉がその士官を殴りつけ、軍法会議にかけられそうになった。けっきょく軍法会議は沙汰已みになったが、同時にカシン大尉とホワイト軍曹の受勲もなくなったらしい。

 兄のマイケルも認めているそうだが、Tの聞かされた話の方がより現実味があって、事実に近かったのではなかったかという感じがする。いずれにしても、同じ体験が幾通りもに語り分けられているのが興味ぶかい。おそらくファーガス・カシンにとってホワイト軍曹の死は、さまざまな感慨をよびおこし、容易には直言しにくい体験だったのであろう。



注1 詩の原文を以下に掲げておく。


Oh Nurse, please for a drug

Please don’t turn away and say

Baby go to sleep

Your wounds don’t hurt


My body’s dead to mortal needs

But in the twilight of my dreams

When all the World is wrapped in blankets of content


I lie and listen to the distant sounds

And see again the canopy of fire

Stretch across the barren ground

And hear again the scream from White


As leg and arm disintegrate

For England’s glory

Glory to thee, oh Lord

That I should lie here now a coward

Afraid to rise and face those dead

Who stumbled up that path to death

Who listened to my screaming

‘Take that hill!’


Now that I have had my fill

Cannot I too escape

To long and pleasant evenings after school

When war was just a game

To us young fools

Cannot I leave behind

The crosses in the sands of time?



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