中世ピーサ年代記2


中世ピーサ年代記2

メ ロ ー リ ア の 敗 戦 (1284)か ら                自 治 都 市 国 家 の 終 焉 (1406)ま で                                                                高田 秀樹



図II-1: 中世ピーサ史の中心舞台「ピアッツァ・デリ・アンツィァーニ」(現ピアッツァ・ディ・カヴァリェーリ)。


 正面右側が、ウゴリーノ伯の「飢餓の塔」の下部。当時はさらに高い塔であったが、後に上部が削られ、さらに左側のかつての「パラッツォ・デル・カピターノ・デル・ポーポロ」と繋がれて今に残っている (現「パラッツォ・デル・ブォヌォーモ」)。右側の建物がかつて「パラッツォ・デリ・アンツィァーニ」のあったところ。1565~69年メディチのコシモ1世(中央銅像)の命により、ヴァザーリ設計になる「パラッツォ・ディ・カヴァリェーリ」に建て直され、現在はスクォーラ・ノルマーレ・スーペリォーレ(ピーサ高等師範学校 ) の校舎となっている。(Ammiriamo Pisa p.65)





4 衰退期:1284-1383


 1284年8月6日メローリァでジェノヴァに壊滅的な敗戦を喫したピーサは、通商ととりわけ軍事面での海上力を失って、地中海を舞台とする国際的勢力からは姿を消し、15世紀始め(1406年)ついにフィレンツェによって征服されるまで、トスカーナの一地方都市としてもっぱら内陸で自らの生存を賭けて闘うことになる。また、かくして海外への進出を阻まれ、一方内陸では発展するフィレンツェの拡大に圧迫されて、内部で党派争いと権力闘争の度を深め、コムーネ (自治都市)の理念たる市民による共和・民主の体制は終わりを告げ、僭主的シニォーレの登場を見、シニォリーア専制体制へと移行してゆくことになる。

 さて、その戦後対策としてピーサのアンツィァーニ評議会は、生き残った最大の実力者として、またトスカーナのグェルフィや教皇との個人的関係からして、フィレンツェとジェノヴァの敵対政策をかわす最適の人物としてウゴリーノ伯をポデスタに選んだ。10月18日任期一年で受諾した伯は、フィレンツェに譲歩してなおジェノヴ ァと戦うことを基本政策とした。と同時に、これをシニォリーアへの道を開く機会ととらえ、独裁を指向することになる。 

 一方フィレンツェとルッカは、今こそピーサの息の根を止めんものとさっそくジェノヴァに三者同盟を提案し(2)、プラート・ピストィア・シェーナらアレッツォ以外のトスカーナ中小都市もこれに加わった。11月には早くも陸からはフィレンツェとルッカが、海からは 50隻のガレー船でジェノヴァが攻撃してきたが、ピーサもよく応戦してこれを凌いだ。

(2) この条約を起草したのが、ブルネット・ラティーニ。結ばれたのは10月13日。


 翌1285年2月任期10年で再任されたときにはカピターノ・デル・ポーポロにもなり、政治と軍事の全権を握って実質的なシニォーレとなったウゴリーノ伯は、フィレツェが本当はジェノヴァとルッカの勢力拡大を望んでいないのを見て取り、個人 的ルートを通じてフィレンツェと交渉し、同年 4~5月サンタ・マリーア・イン・モンテ、フチェッキォ、カ ステルフランコの城塞ら領土の一部の割譲と市政治のグェルフィへの全面的転換を約束して和平を結び、当面の危機を脱した(3)。ルッカもヴィアレッジォら一部の領地を譲られたため離反、ジェノヴァはこれを怒って三者同盟は瓦解した。ジェノヴァとは交渉しなかった。

(3) フィレンツェ側史料は、伯が金で買収したことを伝えている:Villani VII・98 pp.294-5.


 しかしピーサは伝統的にギベッリーニであり、数の上でも心情的にもまだまだ同派が圧倒的に優勢であり、外交的にはこうして危機を脱したウゴリーノ伯も、内政ではグェルフィ路線を推進することには困難がともなった。そこで翌1286年7月には、グェルフィ勢力の協力を得て市政を安定させる必要上、そのリーダーたるヴィスコンティ家の、しかも娘を嫁がせたジォヴァンニ・ディ・ウバルドの子つまり外孫にあたるガッルーラ国主ニーノ(本名ウゴリーノ)をサルデーニァから呼び寄せ、共同統治者としてポデスタ兼カピターノとした。

 かくして権力を確立した伯は、グェルフィであれギベッリーニであれ自分に敵対する勢力を激しく弾圧した。一方、野心的な若者であったニーノも自らの勢力拡大につとめた。かくて市は、グェルフィ対ギベッリーニの対立に加えて、グェルフィ内の二人のシニォーレの間で分裂し、両派の不法行為と私闘でカオス的となり、アンツィァーニ他の公権力は無力化して法治できなくなった。

 一方、こうした専制体制と強引な反対勢力の抑圧に反感を募らせるギベッリーニと、伯の貴族政治に不満を抱く商工階層・職人たちは、大司教ルッジィェーリの周囲に結集した。ルッジィェーリはウバルディーニ家出身だったため、二大貴族ゲラルデスカとヴィスコンティの中間にあった。

 メローリァ敗戦以来のピーサの懸案は、ジェノヴァの監獄になお捕らわれている捕虜たちの解放問題だった。対外的にはフィレンツェとの協調を基本としてジェノヴァとはなお戦う姿勢を崩さず、対内的にも自らの権力の強化を狙うウゴリーノ伯は、必ずしもそれに積極的ではなかった。しかし、釈放要求は市民の暴動の動きとなり、また獄にあったファーツィォ・デッラ・ゲラルデスカらを中心とする有力貴族たちの訴えと圧力で、1288年4月15日ようやくジェノヴァとの和平が結ばれた。ところがその条件が、カリァリのカストロ城を含むサルデーニァ、それにコルシカとアークレの領土の譲渡、賠償金としてジェノヴァ金貨3万4千リレの支払いというものだったため、サルデーニァに領土を有する貴族、とりわけ最も利害の絡むウゴリーノ伯の無視にあって、結局履行されず、捕虜の解放はならなかった(4)。かくて、この和平を積極的に支援していた大司教との関係は当然悪化していった。

(4) メローリァの勝利により、ジェノヴァの西地中海での覇権が確立し、東地中海への本格的な進出が始まる。マルコが捕虜になったとさ れるクルツォラ海戦 (1298年) でのジェノヴァの勝利もその一環にある。歴史は幾多の偶然を用意するものであるが、もしこの時和平が成っ ておれば、マルコとルスティケッロの出会いはなく、したがってかの旅行記の成立もなかったこ とになる。


 そこで6月30日、ウゴリーノ伯が市郊外カシーナ(市の東10km)近くのセッティモの城にあった折を見計らって大司教は、グァランディ、ランフランキ、シズモンディらギベッリーニ貴族を引き連れて反乱を起こし、市を暴君の手から解放しようと煽り、ニーノを含むヴィスコンティ一門とグェルフィを追放した。そしてアンツィァーニたちとギベッリーニは、ルッジィェーリを ポデスタ兼 カピターノに選んだ 。

 計られたと知り、翌朝手勢を率いて市に乗り込んできたウゴリーノ伯は大司教側と衝突し、市内全域でグェルフィ対ギベッリーニの戦いが起こった。数に劣るウゴリーノ伯側は追いつめられ、市庁舎に閉じ込もって抵抗したが火で攻められて降伏した。ガエターニとウペッズィンギら彼に味方した貴族は市を去るとの条件で解放されたが、伯自身と息子ガッドとウグッチォーネ、孫ニーノ(イル・ブリガータ)とアンセルムッチォの5人がカピターノの館に捕らわれた。 彼らは、後に「飢餓の塔」として知られることになるトッレ・ディ・グァランディに移され(5)、最初は人道的に扱われていたが、ギベッリーニはその解放に莫大な身代金を要求し、交渉の間に少しずつ食糧が減らされた。翌1289年2月頃相次いで最初に息子二人、次いで孫二人が餓死し、80歳代の老伯は最後まで生きていたといわれる(6) 。 

(5) この塔は最初 Sette Vie(七つの路), 次いで Gualandi, そして Fame(飢餓)の塔と呼ばれ、さらに後にそこに Gherardesca の館が建てられて今に残っている(Fig. 1)。


(6)ウゴリーノ伯事件については、「6. ウゴリーノ伯と神曲」「6.1 ウゴリーノ伯の裏切り」を参照。


 カルチに逃げたニーノは8月、ウペッズィンギらピーサの亡命者を率いて城壁近くまで攻めてきたが、市はこれをよく撃退した。さらに、フィレンツェ、ピストィアらトスカーナのグェルフィ市は、この機会を逃さず来攻し、アシャーノの城を奪い取った(7)。が、ピーサはこれも翌年には取り返す。ジェノヴァは港と沿岸、それにエルバ島を荒らした。

(7) ヴィッラーニは、ルッカ人がこの山の上に大鏡を設置して、ピーサ人に「自分の面を映せ」と言ったとのエピソードを伝えている(Villani VII・122 p.324)。ロンチォーニでは、「ピーサ女性に」 。また、 ピーサがこれを奪い返したとき、同じようにして仕返しをした(Ronci oni pp.687~91)。アシァーノは、ピーサとルッカの間にあるモンテ・ピサーノの峠。


 分裂し混乱した市の秩序回復は、著名なロマーニァの傭兵隊長だったグィード・ダ・モンテフェルトロに託された(8)。翌1289年5月13日カピターノ・ジェネラーレとして着任したこの優れた戦術家は、ギベッリーニに戻ったポーポロ市政を立て直し、軍備を整えてよくその任を果たし、まずルッカやフィレンツェに奪われた領地や城を回復した。フィレンツェの攻撃も執拗に繰り返され、カンパルディーノでアレッツォのギベッリーニに勝利したフィレンツェは、同年8月には1万の軍でカプローナの城塞を陥落させた(9)。翌1290年はコルソ・ドナーティの軍、1291年にはトスカーナ同盟の攻撃、1292年にはフランスとカタルーニャの傭兵とフィレンツェの軍が城壁の下まで押し寄せてきたが、グィードはいずれも巧みな戦術でよく凌いだし、それに何よりも市の城壁とその守りが堅固だった。

(8) アドリア海岸ロマーニァ地方都市の隊長として、シェーナ・ボローニャ・フランス等を相手に武勲をたてる。ピーサの傭兵隊長を解任されたのち、フランチェスコ会士となった ( 1220生~1298・9没 )。『 神 曲』に登場することでも知られ、教皇ボニファティウス8世にその狡知(それゆえ狐とあだ名 された)と奸計の才を見込まれて、敵対するコロンナ家を陥れる策を授けたとされる(その罪で地獄に落とされている :Inf.XXVII.4-132)。が、そうした史実は確認されないと のこと。


(9) このカプローナの戦い(1289・8)に25歳の若きダンテが参戦していたことが、『神曲』に うかがえる:Inf. XXI 95. ダンテはこの頃ニーノと識り合ったのであろうと考えられてい る。


 1293年1月「正義の規定」を制定して豪族を追放し、商工業市民によるポーポロ体制をさらに強めたフィレンツェは3月、ジァーノ・テバルディ・デッラ・ベッラのもとでピーサと和平交渉を開始し、1293年7月12日フチェッキォにトスカーナ各市の使節が集まって条約が結ばれた。ピーサは領土の譲渡のほか、フィレンツェ商品のピーサ領内自由通過権の承認、ウゴリーノ伯の生き残った息子たちグェルフォとロットとその一族を支援しないこと、ポデスタには2年間トスカーナのグェルフィ同盟都市以外から招かないこと、そして何よりも傭兵隊長グィード・ダ・モンテフェルトロの解任という形で成立した。

 一方、サルデーニァのカストロ城にあって難を逃れたウゴリーノ伯の長子グェルフォは、ヴィッラ・ディ・キェーザ(現イグレシアス)に移った後、まず父の復讐にルッジィェーリの代官をしていたヴァンニ・グッベッタを殺した。また、先の海戦でジェノヴァに捕らえ られていた弟のロットも、大金を払って獄から解かれ、兄と合流してサルデーニァを支配下に置いた。これに対してピーサは、1295年兵を送ってアルボレーア国主マリァーノの支援の下に彼らを攻め、グェルフォを捕らえて島の支配権を取り戻した。 

 ルッジィェーリ大司教は、ポデスタの地位にあったのが1288年の7、8月の二カ月だけだったためかの殺戮の責任を問われず、後任のブオナッコルソ・グッベッタが問われていた。しかし、ニーノが教皇ニコラウス4世に訴え、事件を調査した枢機卿コロンナによってルッジィェーリに永久投獄の判決が下っていた。そのため地位を追われることはなかったが、釈明にローマに向かう途中1295年にヴィテルボで没した。

 ニーノはその後ジェノヴァに行ってその市民となった。これを歓迎したジェノヴァ市は、ヴィスコンティ、ウペッズィンギ、ドゥォーディ、ガエターニらのグェルフィ家門の捕虜を解放するとともに、彼がサルデーニァに渡って自領を回復するのを助けた。しかしニーノも、1296年にはそこで没した。こうして、フランク時代以来のピーサの主役だったヴィスコンティが退場した。

 フチェッキォの和平の後若干グェルフィ寄りとなったピーサ政府は、1296年2月ポデスタに時の教皇ボニファキウス8世(在位1296・12・24~1303・10・11)を選んだ。これによって教皇代理としてエリァ・ダ・コッレ・ヴァル・デルサが派遣されてき、1289年にニコラウス4世によって出されていた聖務停止令が解かれた。   

 1299年7月25日にはようやくジェノヴァとの和平が成立し、25年の平和条約が結ばれた。その条件は結局海戦直後に出されてピーサが拒否したのと同じもので、ピーサの海岸を南はカスティリォーネ・デッラ・ペスカィアから北はセルキォ川ま でとすることと、コルシカ島、サルデーニァのトッレス市・サッサリ市、ピァノーサ島の支配権の放棄であり、見返りはジェノヴァの獄に繋がれている捕虜の釈放だった。しかし、1282~84年に捕らえられた1万人ちかくのうち、これにより15年ぶりに祖国に戻ったのは千人程度にすぎなかったという(10)。

(10) ジェノヴァは、未亡人となった女性が結婚してピーサの人口が増えることのないよう、捕虜を処刑しなかったと言われる(Tronci I p.519)。ヴィッラーニは、15年間ガレー船で航海することがピーサに禁止されたと述べているが、否定される。また一般には、ルスティケッロもこの時解放されたと考えられている。マルコが解放されることになるヴェネーツィアとの和平は、少し前の同年5月25日。


 この間国際情勢は、パレルモでの晩鐘の乱(1282・3)後分立する形となっていたナーポリ・アンジューのシャルル1世とシチーリァ・アラゴンのペドロ3世はともに1285年に没し、ナーポリはカルロ(シャルル)2世(在位1285-1309)に、シチーリァはジァコモ1世(1285~95 シチーリァ王)に代わっていた。そのジァコモは、本来アンジュー支持だったはずの教皇ボニファキウス8世と取り引きし、密かにサルデーニァの譲渡を求めていた。ピーサのポデスタであったはずの教皇もそれに応じ、1297年4月5日それを封土として彼に与えていた。ジャコモはしかし、マンフレーディの娘コスタンツァの子でギベッリーニだったため、サルデーニァにすぐ手をつけることは控えていた。

 一方フィレンツェではグェルフィ内部でネーリ(黒派)とビアンキ(白派)の争いが熾烈化し、ギベッリーニだったピーサとアレッツォ以外の全トスカーナに及んだ。最初白派が優勢だったが、教皇の政策とフランスのフィリップ美王が送り込んだシャルル・ド・ヴァロァ伯の介入で1301年10月黒派が勝利した(11)。これによって、1305年フィレンツェ・ルッカ連合軍がピストィアを包囲し、ピーサは同市に援軍を派遣したが、翌1306年4月には降伏した。シチーリァを失ったアンジューの威信はすっかり低下し、もはやトスカーナを治めることはできなくなっていた。ナーポリでは 1309年にカルロ2世からロベルト(1309~43)に、シチーリァではジャコモのアラゴン王就位(ハイメ2世1291~1327)にともない弟のフェデリーコ2世(1296~1337)に王位が移っていた。

(11) これによって、1302年1月から600人以上の白派に対する追放や処刑が行われ、ローマのボニファティウス8世のもとに使節として赴き、その帰途にあったダンテも追放される。


 そのアラゴンが、いよいよサルデーニァに対する権利を主張し始める。島の有力貴族ラニェーリ・ディ・ドノラティコがマンフレーディの娘ベアトリーチェと結婚したため、アラゴン王はドノラティコ家と親戚関係に入った。1303年幽閉されて憤死したボニファキウ ス8世の後、ベネディクトゥス11世の短い治世をはさんで継いだクレメンス5世(1305~14)は、ボニファキウスがジャコモに与えていたサルデーニァの宗主権を認めた。そこでアラゴンはグェルフィ同盟をピーサにし掛け、同盟もアラゴンの征服を支援した。サルデーニァにおける既得権を守るべく、ピーサは1307~8年アラゴン王のもとに使節団を派遣して交渉したが無駄だった。教皇は1309年にフィリップ4世の手でアヴィニョンに移り、イタリアでの政治的影響力を低下させていた。

 この頃帝国に登場してきたのがハインリヒ7世であった。ピーサもダンテと同じく、彼に最後の望みを託すこととなる。ルクセンブルグ公ハインリヒは1308年12月27日神聖ローマ皇帝に選ばれ、すぐイタリアにおける帝国の権威を主張した。ピーサも、1310年3月にはかのグィード・ダ・モンテフェルトロの子フェデリーコをポデスタ兼カピターノに選んで親帝国路線を敷き、他のギベッリーニ都市とともに多額の資金と使者を送ってその南下を催促した。 

 そこでハインリヒは1310年10月イタリア遠征に出発、1311年1月6日ミラーノでイタリア王となり、サヴォィア伯アメデーオらに伴われて同年末ジェノヴァに入ったが、そこで妻マルゲリータ(・ディ・ブラバンド)を失った。同地ではシチーリァ王フェデリーコの使者と会い、グェルフィの後ろ楯となっているナーポリのロベルトに対する同盟を話し合った。そこから先の陸路はフランスのシャルルに支援されたグェルフィ同盟の手にあり、ジェノヴァも皇帝軍の輸送を拒否したため、ピーサの船団が迎えに行き、1312年3月6日市に着いた。1カ月のピーサ滞在中トスカーナとロマーニァのギベッリーニたちが馳せ散じ、亡命中のグェルフィ白派も加わった(12)。市は皇帝に金貨18万フィォリーニ を提供したが、当時のピーサの年収は25万だったといわれる。

(12) 1302年10月フィレンツェを追放されたペトラルカの父 Petracco di Parenzo(公証人)は1311年から12年にかけてピーサに住んでおり、この折ピーサにやって来たダンテは、やはり白派だった父に連れられた 8歳の少年ペトラルカ(1304・7・20アレッツォ生 )と出会ったとみられる :Petrarca, Canzoniere, Mondadori 1985; Benvenuti p.171; Guerra p.42.


 ハインリヒは、4月23日マレンマ沿いにローマに向かって出発、ピーサから千人の騎士が同行し、ローマはアンジューのナーポリ兵が固めていたが皇帝軍がこれを排除した。ピーサも7隻の船を派遣して海から支援し、6月29日ラテラーノで戴冠した。シチーリァのフェデリーコと友好を結び、ナポリのアンジューに挟み撃ちの圧力をかけた。しかしナーポリには進軍せず、フィレンツェが忠誠の誓いを拒否したためトスカーナに向かい、2カ月にわたってフィレンツェを攻囲したが陥とせず、翌1313年3月9日にはピーサに戻ってきた。  

 2回目のピーサ滞在は6カ月に及び、その間に市政府からグェルフィを一掃した。1313年5月フィレンツェがナーポリのロベルトに5年の任期でシニォリーアを提供したため、再度南イタリア遠征の準備にあたった。教皇はそれを中止するよう脅かしたが、同盟したフェデリーコがすでにメッシーナを発ち、カラーブリァを平定してガエータに向かっていたので、ピーサ(15隻)もジェノヴァやシチーリァとともに計70隻の船団を南に派遣した。皇帝は8月8日陸路騎兵4千歩兵1万でシェーナに向かって発ったが、8月24日ブオンコンヴェントで病没した(13)。長く肝臓を患っていたといわれる。帝国軍は解散し、各市の船団も戻り、皇帝の遺骸はピーサに持ち帰られて、当時ドゥォーモ造営団の棟領だったティーノ・ディ・カマィーノ彫刻になる棺に埋 葬された(14)。かくて、『帝政論』を用意したダンテと同じく、ピーサも最後の 望みを失った。

(13) この時も毒殺の噂があり、古ピーサ年代記では、フィレンツェがドメニコ会士 fra Bernardi no da Montepulciano に毒を盛らせたという(Sardo p.57; Roncioni p.674).


(14) この彫刻は今も大聖堂とカンポ・サント博物館に見られる。カマィーノはグェルフィだったためその後市を去り、翌年のモンテカティーニの戦いではフィレンツェ側で戦った。


 3年近くにわたる皇帝のイタリア滞在中巨額の資金と多数の兵を提供したピーサは、結果的には何も得るところなく終わった。そこでその代償として皇帝軍の残留を求めた。かくて10人の隊長と800人の騎兵がそのまま市に留まって傭兵となった。これはピーサがもった最初の本格的な外国人傭 兵であり、その後大きな力となる。

 最後の望みを断たれたピーサは、もはや民主制では持ちこたえず、ポデスタに外国人を求め、60歳と高齢だがジェノヴァの皇帝代理で勇敢なギベッリーニ傭兵隊長だったウグッチォーネ・デッラ・ファッジォーラを選んだ (1313・9・20)。カピターノとしての任も託された彼は、さっそくルッカのコンタードに兵を送って攻勢をかけた。彼がポデスタに選ばれたのと同じ頃、シチーリァ王フェデリーコが自らピーサに乗り込んできて市のシニォリーアを求めるということがあったが、市は協議の上 これを断った。

 グェルフィ同盟によるルッカ支援体制は必ずしも万全ではなく、フィレンツェの力もそれほど強くなかった。トスカーナのグェルフィはナーポリのロベルトに支援を要請したが、シチーリァ回復を狙うロベルトはむしろ、サルデーニァをめぐるアラゴンとの対立を利用してピーサに接近を計ってきた。そして1314年2月27日、ピーサがシチーリァのアラゴンを物質的・軍事的に支援しないこと、フィレンツェ商品の通過料免除、亡命者の相互帰国等を条件に、ナーポリで和平条約が結ばれた。ところがウグッチォーネは、フィレンツェとの関係改善を急ぐ商人勢力が中心となって結ばれたこの和平に必ずしも好意的でない実業者層の民意を背景に、グェルフィ勢力の 排除を叫び、対立する富裕商人を代表するバンドゥッチォ・ディ・ボゥンコンテを処刑してシニォーレとなった(1314・3・24)。 

 当時オビーツィ家のシニォリーアとなっていたルッカとは、1314年4月25日に和平を結び、領土の返還と亡命者の相互帰国を取り決めた。ところがウグッチォーネ は、返還の不履行を口実に、ルッカに戻ったギベッリーニにオピーツィ家の独裁政権に対する反乱を起こさせ、ピーサの傭兵となっていた皇帝軍の騎兵800人を率いて1315年6月14日なんなくルッカを征服してしまった(15)。外国人傭兵の効果がさっそく表れたことになる。

(15) ロンチォーニでは、ウグッチォーネがカストルッチォと内通して決起させた (Roncioni p.695).


 こうしてルッカのシニォーレともなったウグッチォーネは、息子のフランチェスコをそのポデスタとし、ナーポリの代理を追放した。ピーサによるこのルッカ征服は周囲の市を驚かし、多くの城塞がピーサのもとに下った。余勢をかってピーサはフィレンツェ領にも侵攻した。 

 この頃持ち上がった後継皇帝の争い、バイエルンのルードヴィヒかオーストリア・ハプスブルグのフリードリヒ(美王)かの争いがこの時もギベッリーニとグェルフィの争いとなり、ウグッチォーネは前者を、ナーポリのロベルトは後者を支援したため、アンジューとの短い友好関係は破れ、各地で戦闘が起こった。アンジューは、ルッカの亡命者やトスカーナのグェルフィから報復戦を求められ、ターラント君主の息子カルロをフィレンツェに派遣した。ルッカの喪失を憂える同市も戦争準備を怠らなかった。かくてピーサとフィレンツェはともに大軍を動かし、1315年8月29日モンテカティーニのニェヴォラ川をはさんで合戦し、ギベッリーニ連合軍つまりピーサの勝利に終わった。激戦で、死者1万以上に上ったと言われる(16)。

(16) この戦争でフィレンツェ軍の総指令官ターラント君主Pietro della Tempesta とその子Carlo が死亡し、タリァコッツォの戦い(1268年)でナーポリのシャルル1世に殺されたゲラルドの子Rinieri del la Gherardesca は、その死体に紫のマントをかけて父の仇を討ったという(Sardo p.72;Roncioni p.704). ウグッチォーネもこの戦闘で息子を失った。 


 ウグッチォーネの支持層は貴族と、職人を中心とするポーポロ・ミヌートであり、一方富裕商人・造船業者・企業家らポーポロ・グラッソは、彼の軍国主義と権力集中に不満をもっていた。ルッカでも、野心的な若者カストルッチォ・カストラカーニが頭角を現していた。彼も先のモンテカティーニの戦いにルッカのギベッリーニを率いて参戦し、戦功をたてていた。市民の信頼を得た彼は、ルッカの解放とシニォーレの座を狙い始め、かくて両者は衝突する。

 1316年1月マッサを征服したカストルッチォは、反対派30人を処刑した。これをとがめてウグッチォーネは4月1日息子ネーリにカストルッチォを捕らえさせ、ルッカに向かった。ところがその留守にピーサの反対勢力、特にドノラティコ伯ゲラルドと富裕商人のリーダー、コシェット・デル・コッレが中心となって4月10日民衆を蜂起させ、市の門を閉ざした。反乱の報にウグッチォーネはピーサに取って返すが入城できず、ルッカに戻った。しかしルッカでもピーサの支配を快く思わぬ市民が反乱し、カストルッチォを解放していた。それと知らずに帰ってきたウグッチォーネは逆に捕らえられた(17)。カストラカーニはしかし彼を処刑することなく亡命するにまかせ、ウグッチォーネは各地を転々とし、ヴェローナのカン・グランデ・デッラ・スカーラのもとで傭兵隊長となった後(18)、1319年(11・1)ヴィチェンツァのポデスタとして生涯を終えた。

(17) サルドでは、ウグッチォーネはルッカに戻ってカストルッチォを解放し、彼に市のシニォーレの地位を譲って去った(Sardo p.74)。


(18) この時、同じくヴェローナに亡命してスカーラ家に奇遇していたダンテと出会ったであろうと推測されている(Benvenuti p.183)。カン・グランデの宮廷は、当時全イタリアの亡命者たち の避難所であった。


 ピーサでは彼の後ドノラティコ伯ゲラルドがシニォーレとなり、富裕商人や企業家が市政に戻り、ギベッリーニ政治が行われた。彼の治世の間、市はフィレンツェ・ルッカ・シェーナ・ナーポリら諸都市とも良好な関係にあり、束の間の平和と安定を味わう。経済も回復し、陸上力が増した。エルバ島・トスカーナ諸島・サルデーニァ島の商業支配も実質的にはまだピーサ人の手にあった。 

 ところがゲラルドは1320年(5・1)若くして死亡し(19)、代わってシニォーレとなった叔父のラニェーリは内政・外交とも能力を欠いた。市に戻ってきた貴族や市民がその専制に敵対したが、彼はディフェンソーレ・デル・ポーポロを名乗って、これを弾圧した。

(19) 叔父により毒殺されたとの噂もある(ヨネヤマ p.199).


 一方ルッカを解放し、シニォーレとなって勢いに乗るカストルッチォ・カストラカーニは、ミラーノのヴィスコンティとギベッリーニ都市の支援を得て激しくフィレンツェに戦いを挑み、またたく間にエンポリまで征服し、さらにサンタ・マリーア・イン・モンテ、ルニジァーナ、ガルファニァーナと陥落させ、かくて「イタリア一恐れられる男」となっていた。ピーサのラニェーリとは、カストルッチォがフィレンツェを攻撃したときには支援して友好関係にあったが、彼が市のシニォーレの座を狙うに及んで破れた。カストルッチォは城門近くまで攻め 込んできた。

 市にはそれよりはるかに重大な危機が迫りつつあたった。ピーサがルッカに脅かされているのを見て、アラゴンは好機到来とみなし、サルデーニァの権利を主張してきた。市はまず教皇ジォヴァンニ22世に訴えたが、取り合ってもらえず、アンジューもギベッリーニ都市ピーサを支持しなかった。市はもはや、海外領土を守るだけの強力な艦隊を有しなかったし、ジェノヴァに頼ることもできなかった。ジェノヴァでは、両派の争いの末、グェルフィが勝利してナーポリのロ ベルト王にシニォリーアを提供していた。

 サルデーニァは、前世紀以来ほぼ全島がピーサの支配下に入っており、カリァリはドノラティコ、ガッルーラはヴィスコンティ、アルボレーアはダ・カプラィアと、いずれも市の有力門閥の支配下にあり、トッレスだけがジェノヴァのドーリァ家の下にあった。しか しアルボレーアは、1297年国主マリァーノ・ダ・カプラィアの死後相続争いがあり、結局その二番目の妻の子ウゴーネ・ディ・バウの手に移っていたが、ピーサはウゴーネが庶子であることからその継承に異議をはさみ、1万フィォリーニの支払いを要求していた。そこでウゴーネは、サルデーニァにおけるピーサの支配に対する島民の 不満と反感を背景に1323年4月11日反乱を起こし、千人に上るピーサ人を虐殺し、同時にアラゴン王に支援を求めた。

 そこでアラゴンは、教皇とジェノヴァ・フィレンツェほかグェルフィ都市の支持を取り付けた後、5月15日直ちに3隻のガレー船に800人の兵を派遣し、翌月には24才の王子アルフォンソ率いる300隻1万人からなるスペイン艦隊も大挙して押し寄せ た。

 サルデーニァを失うことは、ピーサにとって富と商業の終わりを意味した。市は乏しい財政の中総力を挙げて準備し、翌1324年1月末40隻のガレー船で出動、3月1日サンタ・ジッラで合戦したが、今やアラゴンの敵ではなく、簡単に蹴散らされて終わった。中央集権国家の前に、小都市国家の時代はもはや過ぎていた。6月20日降伏。

 和平条約では、サルデーニァとコルシカに有していたすべての領土と権利をアラゴンに譲らねばならなかった。カリァリだけが封土として市に残されたが、翌年にはこれも失った。かくてピーサは、2世紀にわたって保有してきた富と力の源を失った。その喪失は40年前のメローリァの敗戦に劣らず大きなものだった。こうして孤立したピーサは、ルッカのカストルッチォ・カストラカーニの脅威と、この危機を利用して市のシニォリーアを狙うアンジューのロベルトの攻勢を受けることとなった。

 加えて1326年末には実質的にシニォーレだったラニェーリが死亡し、市は無秩序状態となる。グェルフィ都市はピーサを同盟に引き込もうとし、ナーポリのロベルトはピーサをジェノヴァの下に組み入れるべく船団を派遣してきた。ロベルトの息子のカラーブリァ公カルロがシニォーレとなっていた(1326・7・30)フィレンツェは、ピーサをルッカに敵対させてカストルッチォの攻勢をかわそうとした。市内でも一部貴族、特にランフランキ家を中心にカストルッチォと結ぼうとする動きが絶えずあった。今回はその首謀者ベネデット・マレプラが捕らえられて、処刑された。

 1327年に入ると、オーストリアのフリードリヒに勝利したバイエルンのルートヴィヒがイタリア遠征を決定した。5月31日ミラーノで、ギベッリーニの武人として名高いアレッツォ司教グィード・タルラーティ・ダ・ピェトラマーラの手からイタリア王に戴冠。ポントレーモリでフィレンツェ軍を破り、ピーサに陣を構えると通知してきた。市はルッカのカストルッチォを刺激することを恐れ、金子を送ってこれを断った。「帝国都市」ピーサが初めて皇帝に反旗を翻したことになる。市政府は今や商工階層の手にあり、サルデーニァを失った今となっては、帝国の権威と庇護よりもフィレンツェやアンジュー との関係のほうが大切だった。

 それにはお構いなく皇帝は領内に軍を進め、市の使者を捕らえた上、1カ月以上にわたって城壁の外に軍を展開して包囲した。そして10月11日入城した。皇帝は旧来の特権は全て追認したが、市は7万フィォリーニという大金を払わなければならなかった。

 ルッカのカストラカーニは皇帝のイタリア入りを大歓迎し、自ら軍を率いてピーサ包囲に加わった。今や皇帝は全てをカストルッチォ・カストラカーニに依存していた。皮肉なことに、「イタリア随一の帝国都市」はルッカに取って代わられていた。皇帝はカストラカーニをルッカ、ピストイア、ルーニ、ヴォルテッラの公のみならずローマのセナトーレ、ラテラーノ公、皇帝の鷲の紋章のゴンファロニェーレ(旗手)に叙任し、しかも総代理として皇帝と同じ権限をもたせた。しかし、ピーサは与えなかった。翌1328年(1・7)カストルッチォに伴われてアウレリァ街道をローマに入った皇帝は、アヴィニョンにいるヨハンネス21世に対して自らの手で立てた対立教皇ニコラウス5世(フランチェスコ会士ピェトロ・ダ・コルバーラ、1328-30)の手で戴冠した。

 ローマから戻ってきたカストルッチォの支配下に置かれることを恐れたピーサは、皇帝にシニォリーアを提供した。皇帝もこれを嘉して、代理フェデリーゴ・ディ・オクティンゲンを派遣してきた。ところがそれを知ったカストルッチォは手勢を率いてピーサに侵攻してき、同年4月29日には2年間ピーサのシニォーレたることを宣言した。皇帝には事後承認させ、皇帝も彼をピーサにおける自分の代理に任命した。 ドゥォーモでその式典があり、ついにピーサはこのルッカ人の支配下に置かれた。13年前のウグッチォーネのときとちょうど立場が逆転したことになる。 

 皇帝は8月ローマを発ってフィレンツェに向けて進軍したが、シチーリァ艦隊がジェノヴァ人とともにオルベテッロとタラモーネを占領したとの報に、グロッセートに向きを代えた。この機会にフィレンツェに決戦を挑もうとしていたカストラカーニは当てが外れた。 そして思いがけなくも9月3日急死した、47歳だった(20)。皇帝は9月21日ローマからピーサに戻り、10月ルッカに向かい、父の権利を主張するカストルッチォの遺児たちに反対する暴動を鎮め、長男アッリーゴにルッカの支配権を認めた。ピーサとピストイアは自分が継いだ。

(20) 8月半ば対ピストイア戦の戦勝祝いがピーサで行われて大量の魚が振る舞われ、それを 沢山食べたカストルッチォは、ルッカに帰って病に陥り、9月3日に死亡したという(Sardo pp.82- 3; Roncioni p.750).


 1329年初めには、前年皇帝によってたてられた対立教皇ニコラウス5世がピーサに亡命してき、これを受け入れたため市はアヴィニョンにいる教皇から破門 された。7カ月滞在してその年の4月皇帝はドイツに向かって去った。ピーサにとって皇帝のお越しは、もはや迷惑を越えた災厄となっていた。皇帝は帰路にパヴィーアは征服したが、ミラーノを陥とすことはできなかった。

 2年間に渡って滞在した皇帝が去るとたちまち混乱が始まり、その代理タルラーティが追放され、ドノラティコ伯ファーツィォ(ボニファーツィォ)がカピターノとなった。一方まだ市に留まっていたマルコ・ヴィスコンティ指揮下の800人のドイツ騎士傭兵団は、ルッカを占領した。しかしその処置に困って、彼らはこれをピーサかフィレンツェに売ろうとした。両市が牽制し合っている間に、結局8月12日ジェノヴァの亡命者ゲラルド・スピーノラが買い取った。わずか 3万フィォリーニだったと言われる。 

 新たにシニォーレとなったファーツィオはよく統治し、市にはグェルフィが戻り、元の政府に戻った。そのことと、対立教皇をアヴィニョンに送ったことで市は破門を解かれた。トスカーナのグェルフィ都市との戦争を避け、唯一マッサをめぐってシェーナと争った(1332・12~33・9)だけだった。商業も振興し、市の都市機構も整備した。彼の功績の一つにピーサ大学の設置がある。12世紀頃生まれた小さなスクォーラ(学院)を1338年にボローニァから教授を招いて大学にしたもので、1343年(9・3)クレメンス6世によって認可された(21)。しかしファーツィオはその前1340年12月22日に43歳と若くして死亡した。

(21) 後に、1564年(2・15)ピーサに生まれたガリレオがここで学び(1581入学)、教鞭を取る(1589~91)ことになる(1642・1・8フィレンツェ郊外アルチェートリ没)。


 一方、カストルッチォのとき繁栄の頂点を極めフィレンツェと争うまでとなっていたのが、自由を失い売買の対象となったルッカの運命は悲惨だった。まず、シニォーレとなったスピーノラはこれを、皇帝ハインリヒ7世の子のボヘミア王にしてルクセンブルグ公ヨハンとその子カールに6万フィォリーニで売った。ヨハンらは代理を残してすぐ去ったが、カストルッチォの子エンリーコ・インテルミネッリがルッカに戻ってきたとの知らせに急いでルッカに来たり、1333年(10・3) 3万5千フィォリーニでパルマのピェトロとマルシーリォとロランド・ロッシにたたき売った。2年後(1335・11・15) 彼らはさらにそれをヴェローナ のマスティーノ・デッラ・スカーラに売り払い、1341年(9・24) にはマスティーノは今度はフィレンツェに転売していた。

 この頃ピーサでは伝統的なギベッリーニとグェルフィの党派は、帝国からフィレンツェへという対外関係の主軸の移動にともなって、ラスパンティ Raspanti とベルゴ リーニ Bergolini という新たな党派に代わっていた(22)。前者が企業家を中心とする旧ギベッリーニであり、後者は商人を中心とする旧グェルフィであって、その分裂の基はフィレンツェとの結びつきにあった。グェルフィのボニファーツィオ政府に対して、ランフランキ、ガエターニ、ジズモンディ、グァランキ等 の ギベッリーニ貴族が対立していた。この頃の後者のリーダーはマッカィォーナ・ディ・ランフランキだった。

(22) Raspantiは、‘国庫・公金をraspare(横領する・くすねる)者'の意。Bergoliniは、トロンチによれば、そのリーダーRanieri伯を敵がbergo(馬鹿)と呼んだことから(Tronci II p. 68)。ロンチォーニの編者ボナィーニによれば、Ranieri Bergo di Donoratico伯の名から自分たち をBergo派と称したため(Roncioni p.803)。ベンヴェヌーティによれば、同派には当時bergoli と呼ばれる小舟の所有者が多かったため(Benvenuti p.203)。


 基本的にはフィレンツェが内陸産業都市であったのに対して、衰えたりとはいえピーサはなお海洋商業都市であった。そしてピーサの収入源は仲介貿易と関税と商品流通の通行税にあり、フィレンツェがルッカを手に入れることは海への出口を得ることを意味し、ピーサはその収入を大きく失うことは明らか だった。

 そんな1341年、フィレンツェがルッカを18(または25)万フィォリーニで買ったことが分かった。羊毛業者を中心とする産業家からなるラスパンティは、フィレンツェ産品がルッカに出回ることを恐れ、商人やフィレンツェ商品の輸出業者を中心とするベルゴリーニは、フィレンツェがルッカのモトローネ港を使うことを恐れた。こうして両派は利害が一致した。カストルッチォの子エンリーコ他もルッカの権利を主張して、ピーサ軍に合流した。

 そこでピーサはフィレンツェに先んじてルッカ領に侵攻し、ルキーノ・ヴィスコンティ(1339~49)のミラーノとルィージ・ゴンツァーガ(1328~60)のマントヴァからの援軍を得て、10月2日モンテ・サン・クィリコでフィレンツェ軍と戦って勝利し、ルッカ市を包囲した。翌1342年3月 にもフィレンツェはナーポリのロベルトから派遣されていたアテネ公フランス人のゴーチェ(グァル ティェーリ)と傭兵隊長マラテスタ・ダ・リーミニとのもとに 5万の兵を集め、ルッカを解放すべく押し寄せ、セルキォ川をはさんで戦ったが、大雨のためこれを渡ることはできなかった。結局1342年10月2日ルッカは降伏し、市内にいたマスティーノとフィレンツェ兵は去り、ルッカはとうとうピーサの手に帰した。フィレンツェとの条約 (1343・ 11・15)は、フィレンツェがマスティーノに払っていた代金10万フィォリーニを、ピーサがフィレンツ ェに14年間で返すことだった。ピーサはそれをルッカから取り立てることにした。

 ピーサのこの勝利は、ミラーノのルキーノ・ヴィスコンティから派遣されその甥ジォヴァンニ の指揮の下に戦った1千騎によるところが大きかった。しかもそれは、ミラーノによるトスカーナへの最初の本格的な介入を意味した。以後トスカーナは、このフィレンツェとミラーノという二大強国の争いの舞台となり、その中でピーサも翻弄さ れ最後には消えてゆくことになる。

 ところがこのルッカ戦争で、その指揮官ジォヴァンニ・ヴィスコンティが捕われてフィレンツェに連れ去られていた。和平がなるとともに彼は解放され、ピーサに戻って歓迎されたが、同時にシニォーレの座を狙い始め、カストルッチォの遺児らとともに陰謀を巡らせたが、それが露見して追放された。彼はミラーノに亡命し、叔父のルキーノ・ヴィスコンティに訴えた。そのためルキーノはピーサに向けて兵を動かした。ミラーノはトスカーナへの介入を深め、1344年4月ルニジァーナに侵攻し、近郊コンタードを荒らしたが(23)、マラリアのためもあって退却した。翌1345年(5・17)マントヴァのゴンツァーガの調停で和平がなり、結局ヴィスコンティは金貨8万フィォリーニの支払と交換にマッサ、カッラーラ、ピエトラサンタら占領していた全ての領地をピーサに返した。

(23) この時ニースからナーポリに赴く途中のペトラルカが、ローマのGiovanni Colonna に戦闘の様子を書き送ったとのこと(Roncioni p.794).

 

 1348年、ペストはもちろんピーサにもやってきた。1月レヴァンテから商品を積んできた2隻のガレー船がアルノ河口に泊まり、それと接触した者は直ちに死に、その死者に触れた者もすぐに死んだ。5月まで続き、日に500人、人口の70パーセント3万人が死亡したと言われる(24)。この疫病で、セナートに後見されてシニォーレの座にあったドノラティコ伯リニェーリ・ゲラルデスカが若くして亡くなった。かくてピーサ史の主役だったゲラルデスキ一門は姿を消し、新興貴族ガンバ コルタが上昇してくる。

(24) このペストで死亡した兄 Giovanniのあとを受け継いだ Matteo は、ペストを「神の怒り」とみなす(ロンチォーニも同じ)。また、ペストは「オリエントに始まり、カタイと上インド[大陸部インド]に広まった」という(Matteo Villani I・2 p.5).


 その死により、ティヌッチォとディーノ・ロッカをリーダーとするラスパンティと、アンドレーア・ガンバコルティに率いられたベルゴリーニの党派争いははさらに激しさを増し、あらゆるところで衝突、特に夜陰にまぎれて襲撃し合った。1347年12月24日にキンシカ区で大きな衝突が起こり、武装したベルゴリーニ側が対岸のロッカ家を襲って放火し、ラスパンティ寄りだったカピターノも追放して市政を乗っ取った。以後のピーサ史は、ガンバコルティ一門を中心として動いてゆくことになる。

 ナーポリでは1343年ロベルト王の死後、ハンガリー系アンジュー王家が介入して激しい相続争いが展開され、結局孫のジォヴァンナ(1343~81)が女王となっていたが、その勢力の弱まりは隠せなかった。1351年には、侍従長だったフィレンツェ商人ニッコロ・アッチァィゥオーリの勧めで、プラートをわずか1万5千フィォリーニでフィレンツェに売った。プラートは、1312年にハインリヒ7世が南下してきた折り、アンジューの保護下に入っていたものだった。

 これに対して、一大強国に成長してきたのがヴィスコンティのミラーノである。以後イタリアは、フィレンツェ対ミラーノを対立軸として動くことになる。このロンバルディーアの中心都市は、14世紀始めアッツォーネ(ガレアッツォと結婚したニーノの未亡人ベア トリーチェの息子、1329~39)のときベルガモ・ブレーシァ・クレモーナ・ローディ・ピアチェンツァら北伊諸市を支配下に置き、次のルキーノ(1339-49)がさらにその勢力を拡大していた。1349年ルキーノが死亡し、大司教だった兄弟のジォヴァンニ(1349~54)が後継した。彼はまず教会領のボローニァを落とし、中部イタリアへの進出を狙い、トスカーナに侵攻して来てピストィアとプラートを占領した。そして、対フィレンツェ戦のためピーサを抱き込もうと使節を送ってきた。ピーサは、フィレンツェとの関係が壊れることを恐れていんぎんに断った(1351年)。この時はフィレンツェとミラーノは決戦にはいたらず、皇帝の介入を望まぬ教皇クレメンス6世の調停で両市は和平を結び、ピーサも中立を認められた(1353年)。 

 一方帝国ではルートヴィヒの死(1347・10・11)後、帝位は再びハインリヒ7世の孫でボヘミア王ヨハンの子ルクセンブルグ公カール4世(1347~78)に移っていた。介入の機会をうかがっていた皇帝は、新教皇インノケンティウス6世と取り引きし、ローマで戴冠したらすぐドイツに戻るとの約束で1354年末南下してきた(25)。

(25) サルド自身の手になる日誌は、この時点(1354・12・2)から始まる。


 1355年1月6日カール4世はミラーノでイタリア王となり、1月18日にはピーサにやって来た。3月にはローマに向かい、途中立ち寄ったシェーナでは、1287年以来続ていたグェルフィの「ノーヴェ」(9人)体制を転覆させた(3・24)(26)。4月2日ローマでオスティ ァ枢機卿の手で戴冠した後、すぐ5月5日ピーサに戻ってきた。その間にラスパンティは、ピーサのシニォーレを皇帝に提供していた。彼は旧来の特権は全て追認したが、一方では市到着以前に、新たにシニォーレとなったアンドレーアの甥フランチェスコのベルゴリーニ政府と交わしていた約束を反故にして市政に介入し、アンツィァーニを選び直したり、亡命したラスパンティを呼び戻したり、ルッカからの贈り物を受け取ったり、自兵でもって要塞を占領したりした。

(26) Cf.石鍋真澄『聖母の都市シエナ』吉川弘文館 1988 pp.28-81.
 

 戻ってきたラスパンティは5月20日暴動を起こし、川をはさんで北岸に彼ら(指導者はモンテスクダィオ伯ヤコポ・イル・パッフェッタ)、南岸にベルゴリーニが陣取って戦いとなった。当然ながら、皇帝を後ろ楯とする前者が勝利し、政府はラスパンティの手に移った。ガンバコルティ側は、「我らから自由とルッカを奪う皇帝を殺せ」と煽ったが勝ち目はなかった。ピェートロは追放され、首謀者7人が皇帝によって処刑された。 

 この動きに力を得たルッカでは解放要求の暴動となったが、ピーサは兵を送って阻止した。皇帝は、ピーサとルッカの事態が一応治まったのをみて、グァルティェーリ・ホッホシュリッツを皇帝代理に任命し、各地から金13万フィォリーニを徴収して6 月14日ドイツに帰って行った(27)。

(27) この折り、ポンテ区に住む Simone Rustichelli なる富裕な商人も50フィオリーニ供出している(Guerra p.35)。


 1340年代以来比較的良好だった対フィレンツェ関係はラスパンティ政府となって悪化し、各地で衝突した。また、通関税を上げたためフィレンツェはピーサ港を捨て、シェーナと交渉してタラモーネを使うことにした。これでピーサ港はさらに衰退の度を早めた。フィレンツェに亡命していたベルゴリーニの中心人物ピェートロ・ガンバコルタは、その支援のもとに1361~62年亡命者たちと800人のハンガリー兵に2千の歩兵を率いてピーサ領に侵攻したが、失敗に帰した。その時戦線は海にも及び、フィレンツェはピーサ港に攻撃をかけ、その鎖を奪って持って帰った(28) 。

(28) この鎖は近代になってピーサに返還され、今は市の博物館に見られる。


 1363年始め、2回目のペストが下火になるとピーサも反撃を開始し、各地で領土と城を取り戻した。しかし、港の破壊と通関税のストップによる商業危機はピーサに打撃を与えた。それが最大の劣勢の原因である傭兵の数の違いとなって表れた。

 ロンバルディーアの戦場で活躍していたイギリス兵を主体とするコンパニーア・グランデが、この頃トスカーナに侵入してきて各地を荒らしていた。ピーサも最初は金を払ってお引き取り願っていたが(29) 、今度はモンフェッラート侯麾下のイギリス兵コンパニーア・ビアンカの騎士1500、歩兵2千を金貨4万フロリンで4カ月雇い、1363年(7・2 2)総計5千の兵でフィレンツェ領内に侵攻し、ピストイア、プラートを通って、フィレンツェ城壁の下(オィンニ・サント門)でパリォを催し、貨幣を鋳造し、矢を射かけて相手を侮辱した。この時は、やはりペストで衰えたフィレンツェからの反撃はなかった。その後も毎日のごとくイギリス兵が出撃したが、フィレンツェの城壁を破るまでには至らなかった。翌1364年にはさらに6カ月契約を延長し、ドイツの ボンガルド(ボンガルテン)傭兵団を雇い、計9千となった。その指揮を取ったのが、アクートこと有名なジョン・ホークゥッドだった。

 

 フィレンツェの指揮官だったエンリーコ・ディ・モンフォルテは、形勢不利と見てワインの代わりに金貨14万フィォリーニを瓶に入れて贈り、傭兵たちを寝返らせた。裏切らなかったのはホークゥッド配下の千人だけだったといわれる。これで形勢は一気に逆転し、フィレンツェ軍はピーサ領に攻め入って各地を荒らし、リヴォルノまで侵攻し、アルノ河口のサン・ピェーロ・ア・グラードでパリォを催して仕返した。この時もホークゥッドらの活躍で何とか防衛し、夏8月8日にはアヴィニョンにいる教皇ウルバヌス5世の調停で休戦を結んだ。

 この敗戦と商業危機の責任を問われたラスパンティは内政改革を行い、リーダーのジォヴァンニ・デッラ・アニェッロは、共和国からヴェネーツィアにならったドガート(総督制)への移行を提案した。が、アンツィァーニ評議会に受け入れられなかったため、1364年8月12日彼は武力をもって実行、政庁を占拠して自らドージェの位に就いた。フィレンツェとは占領地と捕虜の交換を実現し、そのうえ 通行税も半額に減じたが、同市はもはやピーサ港を使うことはなく、そのうえピーサは10年で10万フロリンの賠償を支払わなければならなかった。

(29) 1359.7.6. その団長ランド伯に金2千フィォリーニ払う使者に、当時財務官だったサルドが当たっている(Sardo p.146)。


 1367年春、急速に勢力を拡大するベルナボ(1354~85)とガレアッツォ(1354~78)・ヴィスコンティのミラーノに対抗するため、教皇と皇帝がイタリアで会合するとの話があったが、カール4世は来なかった。一方ウルバヌス5世は、シェーナの聖女カテリーナの願いにも応えて、いよいよフランスを引き払ってローマに帰還することになった(30)。4月アヴィニョンを発ち、ジェノヴァそして5月28日ピーサ港に着いた。この時は市もガレー船とガレオン船各1隻を派遣して迎えた。が、教皇は市には来ず、リヴォルノから2千騎に伴われてコルネート、ヴィテルボへと通過していった。7月に結 ばれた両者にナーポリも加えた反ミラーノ同盟には、フィレンツェとピーサは加わらなか った。

(30) その前、教皇のローマ帰還の方策が講じられていた折、警護を皇帝カール4世の軍に頼もうとするウルバヌス5世に対して、それを避けたいフィレンツェの軍提供の意向を伝える使節としてボッカッチォが起用されている。 1365年8月20日頃出立し、11月初旬に帰って来た。アヴィニョンでは教皇にお目通りしたが、目的は達せられなかった。また、教皇がローマに帰還してのちの1367年11月から68年2月末まで、今度はその帰還に祝意を伝える使者としてローマに派遣されている (カール4世問題についても協議したことが推測される ):アンリ・オヴェット(大久保昭男訳)『評伝ボッカッチョ』新評論 1994 pp.406-10.


 翌1368年春になって、カール4世は教皇の招きで南下してきた。旅費は、ピーサから自由になりたいルッカが14万フロリンを提供した。ピーサのドージェ・アニェッロは、ミラーノのヴィスコンティとは金で和平を買い、皇帝には予め使者を遣ってルッカのシニォリーアを提供した。これに満足した皇帝はアニェッロをピーサのシニォーレとし、ピーとルッカの皇帝代理に任命した(8・25)。

 ところが、9月5日まずルッカ入りした皇帝はルッカ人の訴えを聞き入れてピーサ軍を要塞から撤退させ、同行していたアニェッロを免職した。しかもたまたまその日アニェッロの宿舎になっていた館に民衆が押し掛けてきたため建物が壊れ、彼はバルコニーから落ちて足を折った。そのニュースに、日頃の彼の傲慢と専横を憎んでいたピーサ市民は暴動を起こし、9月8日大評議会はドージェの廃位と追放を決定、コムーネ政府の回復を宣言した。新たにアンツィァーニが選ばれ、かくてピーサは再び共和国となった。アニェッロは結局4年間ドージェの位にあったことになり、最初は減税やワインの値下げなどで人気取りをし、外ではフィレンツェとミラーノと友好関係を保ったが、任期1年だったのを終身にし、独裁を敷いて人気を失った。さしずめ、ピーサのコーラ・ディ・リェンツォ(ローマ:1347年5~12月)というところであろうか。

 カール4世は10月3日ピーサに入り、アンツィァーニ評議会と内政立て直しを協議し、この間に両派の調停団が結成されて、ベルゴリーニの帰国に同意した。最初ガンバコルティ一族は排除されたが、その勢力を無視することはできず、皇帝に直訴して追放の撤回を求めた。

 一門の頭だったピェートロは1万2千フロリン払って許しを得、弟のゲラルドと二人の息子とともに1369年2月24日、15年の亡命から帰国した。と、さっそくラスパンティとベルゴリーニの闘いが再燃し、ピェートロを得た後者が前者を圧倒して、彼に全権を与えた。ラスパンティは、代わってルッカに亡命していった。自分の目論見と反対の方に動く政情に、ルッカにあった皇帝は同年4月4日ルッカを独立させた(31)。そして6日には皇帝軍とルッカ軍にピーサを急襲させたが、失敗に帰した(32)。もっともその傭兵隊長は、戦うことなくガンバコルティと話をつけ、賄賂をもらって退却したとも言われる。今回もピーサは城壁と金の力で助かったことになる。

(31) ルッカはその後、1799年1月ナポレオンによって併合されるまで共和国として独立を守る。


(32) 今回も女性が急を告げたという(Sardo p.184)。


 物資の流通業に携わり、フィレンツェとの関係を重くみるベルゴリーニは、フィレンツェがピーサ港に戻るよう努力し、フィレンツェも、皇帝のドイツ帰還を早めんと積極的にピーサに接近した。1369年7月20日皇帝がルッカを出立すると同時にトスカーナでは戦争が始まり、教皇とフィレンツェは、反乱して皇帝側についたサン・ミニアートを取り戻すべく、皇帝代理だったミラーノのベルナボと対立した。ミラーノはすぐホークゥッド率いる軍を、次いでベルナボ自身がきて、サルツァーナに陣を敷いて荒らした。ピーサは中立の立場を取ったが、結局サン・ミニァートは1370年1月9日フィレンツ ェに降伏した。

 コンタードを荒らされたピェートロ・ガンバコルタは、中立は得にならないことを悟り、ミラーノを恐れてフィレンツェ・ルッカとともにウルバヌス5世のトスカーナ同盟に加わった(1370・4・3)。これを懲らしめるためミラーノ公はトスカナ遠征軍を組織し、その指揮をかつてのピーサのドージェ、すっかり傷の癒えたシォヴァンニ・アニェッロに託した。彼は5月16日ピーサの亡命者を引き連れて攻めてきたが、城壁の守り固く、なすすべなく引き揚げた。6月には大傭兵団もようやくロンバルディーアに去っ た。

 この後一息ついたピーサは、9月23日の大評議会でピェートロ・ガンバコルティをシニォーレに選んだが彼は辞退し、カピターノ兼ディフェンソーレ・デル・ポーポロになっただけだった。この時にアンツィァーニの書記官になったのが、後に宿敵となるイァコポ・ ダ・アッピァーノである。ミラーノとトスカーナ同盟との和平も1370年11月10日に結ばれた。

 実質的にはシニォーレだったピェートロのもとで、ピーサは久しぶりに平穏な数年を迎える。というより、トスカーナ地方のリーダーたるフィレンツェとの協調を基本とし、自らの自由を守ることを考えるだけでせい一杯だった。オット・サンティ(八聖人・軍事委員会)のフィレンツェがローマの教会国家と対立し破門されたとき(1375~78)も (33)、その妥協に不満なポーポロ・ミヌートが反乱して市政に座ったときも、その後再び旧支配者層が戻ってきた後チョンピの一揆とアルティ・ミノーリの政府となったとき(1378~82)も、その基本政策を変えなかった。1378年7月28日にはフィレンツェととウルバヌス6世との間を取り持ち、和平に貢献した。

(33) 1376年3月31日教皇グレゴリウス11世(在位1370・12~78・3・27)は、フィレンツェ全市に聖務停 止令を布告。これを解いた次のウルバヌス6世(1378・4・18. バーリ大司教 Bartolomeo Prignan o)はピーサ生まれともいわれる(Sardo p.225. 編者バンティはこれを否定している)。


 アラゴンやアンジューとも友好関係を保ち、ナーポリ・ヴェネーツィァ・ジェノヴァの政変とももはや関係を持たなかった(34)。戦争は金を払って避けた。もはや陸では傭兵隊から身を守る力はなく、海でも艦隊を持たず、ムスリム海賊に対してはジェノヴァやシチーリァの力を頼んで身を守った(35)。が、1383年6月には3度目のペスト襲来があり、今回も多くの使者を数え、市の衰えをさらに早めた(36) 。

(34) 1378・6・2アンツィォ沖でヴェネツィァ艦隊と衝突して敗れたジェノヴァ船10隻のうち4隻がピーサ港に避難してきた(Sardo p.232)。


(35) 1375年6月アクートに率いられたイギリス傭兵団がエミーリァ・ロマーニァ地方に侵攻してきた折り、サルドは市の使節としてボローニァに派遣され、アクートと交渉した。しかし結局彼らはピーサ領内に入ってきて荒らしたため、多額の金を数回に分けて払った。サルドは、財務官としてその支払にも当たっている(Sardo pp.209-11)。


(36) ロンチォーニの年代記は次のようなエピソードを伝えている。この疫病から逃れるためお伺いをたてたところ、神の思し召しとて、その遺体が Castiglione della Pescaiaに 埋葬されているかつてのアキテーヌ公にして福者ギョームに取りなしを求めるべきことが告げられた。そこで、お偉方を始めとして市民全員が出向いてその遺体を大聖堂に迎え、祭壇の上に祀ったところ、9月に入ってペストは退散した(Roncioni p.935-6). ルヌァールは 、 14世紀のピーサ衰退の環境的要因として、ピーサ港 が マレンマという荒廃した湿地に囲まれていたこと、コンタードが狭く市民の食糧を十分に供給できなかったことを挙げる(Renouard pp.261-2)。一方ハーリーは、マラリアと衛生状態の悪化によって人口増加が頭打ちになったことを強調する(Herlihy pp.80-83,192)。




5 没落期:1383-1406


 1383年5月始め、ミラーノではベルナボ・ヴィスコンティの甥ジァン・ガレアッツォがクーデタで権力を奪い、翌年にはヴェローナ、1388年にはパードヴァを征服して北伊の大部分を掌中に収め、中部イタリアに進出して来、フィレンツェと衝突するところとなる。その中にあってピーサは、ミラーノとの敵対を避けて平和路線を守ろうとするが、フィレンツェとの結び付きはそれ以上に大切であり、1392年に はフィレンツェ・ボローニァ・カッラーラ家 (パドヴァ)・ゴンズァーガ家らと反ヴィスコンティ同盟を結んだ。しかしミラーノは、ピーサをフィレンツェから離反さすべく様々な形で触手を伸ばし、市内では親フィレンツェ政策に反対する羊毛業者や皮革業者と、同様に不満を募らせていたラスパンティの間に、次第に反フィレンツェ・反ガンバコルティ勢力が形成された。そしてその中心となったのが、亡命中ヴィスコンティに仕えたこともある、アンツィァーニ評議会の書記官イァコポ・ダ・アッピァーノだった。

 フィレンツェに捕虜になっていたその子ヴァンニが、身代金1万2千5百フィォリーニで解放されて戻って来、その解放を邪魔していたベルゴリーニ派のランフランキ家との私怨のからんだ対立をきっかけとして両派は衝突し、イァコポは1392年10月21日一味を率いてクーデタを起こした。ポンテ・ヴェッキォ(古橋)をはさんで北岸にはイァコポ・ダ・アッピァーノ、南岸にはピェートロ・ガンバコルタが対立する形となったが、コンタードやルッカから援軍を呼び寄せて圧倒的に数に勝るアッピァーノ側が勝利した。息子たちの救援に駆けつけたピェートロ・ガンバコルタも殺された(37)。町は略奪され、ガンバコルティの主だった者は虐殺され、弟ゲラルドの子の 大司教ロットも逃亡した。

(37) ダッピァーノと交渉中にヴィスコンティに雇われた刺客によって殺された、との噂もある (Sardo p.355)。Lamenti Storici Pisaniに Giovanni di Ridolfo Guazzalotti,'Lamento per la Morte di Pietro Gambacorta'が収められている(pp.59-63)。

ダヌンツィォの フランス語 戯 曲『 ピサネッラ』にも次のような 場面がある:「 ピーサは 、キンツィカという界隈に棲んでおりました、橋のたもと、あの細槍で、ピェーロ・ガンバコルタ様がお亡くなりになった所。・・そこには、サンタ・カタリーナ修道院の院長様が、歯が4本欠けたからと言って菓子屋のグェルフィーノに転売なさった、タルタル人の女奴隷がおりました」(Gabriele D'Ann unzio, La Pisanelle, Milano Mondadori 1980, pp.819-20. 人名・地名はイタリア語読みに訳した)。


 翌々の23日直ちに大評議会が開かれ、イアコポはピェートロと同じくポーポロのカピターノ兼ディフェンソーレに任命された。彼は当然親ミラーノ・反フィレンツェ政策を取ったため、ルッカとも対立し、ルッカはフィレンツェに訴えた。またフィレンツェも密かにガンバコルティ派の亡命者を支援してピーサに敵対させた。かくてアッピァーノは、ミラーノ に助けを求めるほかなかった。

 ピーサがフィレンツェの手に渡ることを望まぬミラーノは、それに応えて1396年暮れから翌年始めにかけて大規模な援軍を派遣し、さらにその上1398年始めには市のシニォリーアを要求してきた。しかし、92年のクーデターの時の約束に反してヤコポがそれを譲らなかったため、ジァン・ガレアッツォは傭兵隊を派遣してピーサを攻撃した。さらに彼は使者を送って全ピーサ領の要塞を要求したので、アッピァーノはその使者を逮捕してフィレンツェと和平交渉を始めた。それを望まぬミラーノが前言を撤回したので、彼はフィレンツェとの交渉を中断した。これに怒ってフィレンツェは、繰り返しコンタードに侵入して荒らした。いつものごとくまた、ピェートロの遺児たちを始めとする亡命者たちがフィレンツェの支援をえて侵攻してきた。 

 1398年9月1日高齢のヤコポ・ダッピァーノが死亡し(38)、シニォリーアは子のゲラルドに移った(1399・1・21)。ところが全く無能だったゲラルドはすぐ有力者とアンツィァーニたちを追放し、疑わしい者多数を処刑した。同時に、エルバ島とピォンビーノを含むピーサ市のシニォリーアを20万フィォリーノで売る契約をジァン・ガレアッツォと交わしていた。ミラーノ公は2月12日直ちにアントーニォ・ポッロ伯、バルダッサーレ・スピーノラ、フェルトレ司教他と兵4千を派遣してき、要所を占領した。これに気づいたフィレン ツェは、さらに高額を提示してこれを阻止しようとしたが、もはや手遅れだった。

(38) イァコポと前年(1397・10・6)に死亡した長男ヴァンニの墓は今もカンポサントに見られる(Sa rdo p.295)。


 2月19日ゲラルドが正式に辞し、市はミラーノ兵の進駐を受け入れ、この新シニォーレに忠誠を誓った。ミラーノ公への市の譲渡が大評議会で承認され、パヴィーアにいたジァン・ガレアッツォのもとに、シニォリーアの笏を渡す使節団が発った。そして二つのゴンファローニ(市旗)が手渡された。ピーサ暦1400年(西暦1399年)3月31日のことである(39)。この時点で、ピーサは形式的には自由自治都市としての生命を終えていたことになる。しかしミラーノ公は乗り込んでこず、市政はアンツィァーニの手に任せ、ガンバコルティの復帰も認めた。ただ、アッピァーノに払った20万を取り戻すため重税を課した。

(39) ピーサ暦は3月25日に年が替わる。したがってそれ以後12月31日までは共通暦に比べて1年早まる。


 一方ゲラルド・ダッピァーノは、市を売って得た20万フィォリーニの金を手に、ジァン・ガレアッツォから自分に譲ってもらったピォンビーノとエルバ島に、皇帝ウェンチェズラオの許可の下に1401年家領を構えて独立した。それはその後2世紀半にわたって存続する(40)。

(40) ピォンビーノのアッピァーノ家領は、1594年プリンチパート(君主領)となるが、1650年オーストリァ に征服されて終わる。


 ところが1402年9月3日、ペルージァ(1399・6)とシェーナ(1399・8)のシニォーレともなり、ボローニァをも獲得して(1402・6)、フィレンツェ包囲網も完成間近と思われたジァン・ガレアッツォが突然没した。そして、ピーサのシニォリーアはその庶子ガブリェッロ・マリーアの手に移った。彼は翌1403年11月始め正式にシニォーレに就任すべく、母(アニェーゼ・モンテガッツァ)とともにやって来、容赦なく税金を取り立てた。

 ところが、この頃フィレンツェと対立していたジェノヴァはシャルル6世のフランス人の支配下にあり、その長ジャン・ブーシコーにこの若いヴィスコンティ公の後見が託され、そのお礼としてフランス王にリヴォルノの城が与えられていた。彼らフランス人とジェノヴァはピーサ領内で反フィレンツェの動きを開始していた。

 一方北伊では、海外領土への発展をオスマントルコの登場で阻まれたヴェネーツィァが、本土内陸部への進出を続けていたが、このジァン・ガレアッツォの死にともなうミラーノを中心とするヴィスコンティ国家の解体を利して、1404年にはヴィチェンツァ、翌年にはパードヴァを併合した。そこでフランスとジェノヴァは、ヴェネツィアに敵対するパドヴァのフランチェスコ・カッラーラを支援し、対ヴェネツィア資金をひねり出すべく、ピーサを売り払うことを決めた。新領主のヴィスコンティ公ガブリェッロ・マリーアに は、この危険でやっかいな財産は早く手放したほうがよいと説得した。

 フランスの意を受けてブーシコーは、正統のインノケンティウス8世に対するフランス人対立教皇ベネディクトゥス13世を支援することと引換に、フィレンツェに40万フィォリーニでピーサの譲渡を申し出た。ガブリェッロ・マリーアには20万を渡し、残りの20万はパドヴァのカッラーラに回す計算だった。ピーサを欲しいフィレンツェは直ちにジーノ・カッポーニを使者としてジェノヴァに送ったが、金額の点で話はまとまらなかった。 

 これを知ったガブリェッロ・マリーアは、それならと自ら乗り出し、ヴィーコピサーノでフィレンツェのトンマーゾ・デリ・アルビッツィと密かに出会った。これに気づいたピーサ市民は、翌1405年7月20日暴動を起こし、戻ってきたヴィスコンティ公とその兵をチッタデッラ要塞に閉じこめた。彼らはしかし夜陰にまぎれて逃げ出し、サルツァーナに向かった。その地でフランス・ジェノヴァ・フィレンツェの三者が加わり、26万フィォリーニで手が打たれた(41)。が 、もちろん市民は同意せず、チッタデッラ要塞だけを彼らに渡した。

(41) この時リヴォルノはフランスに与えられたが、1421年フィレンツェに征服される。


 数日後、ジーノ・カッポーニのフィレンツェ軍とチッタデッラの ヴィスコンティ軍が合流して市の主要な城塞の占拠に来たが、ピーサ市民はこれを阻止した。10月始めにはベルトルド・オルシーニ指揮のフィレンツェ軍がムーツィオ・アッテンドロ・スフォルツァ他の多数の傭兵隊を率いて迫った。海からもブーシコーに率いられたジェノヴァ・フランスの艦隊がリヴォルノに上陸し、港を占領した。一方ピーサはベルゴリーニ・ラスパンティ両派が団結、コンタードから応援を得、亡命者も全て呼び戻され、わずかながら傭兵も雇った。

 1406年が明けてもピーサは、このフィレンツェ・ミラーノ・ジェノヴァ・フランス連合に完全に包囲されたまま孤立し、食糧が欠乏し始めた。ナーポリのラディズラーオ、パルマのオットーネ、ブルゴーニュ公らにシニォリーアの提供が申し出られたが、彼らはいず れも金を掴まされて断った。市は、祖父ピェートロ以来のフィレンツェとのつながりに期待して、その孫ジォヴァンニ・ガンバコルタをカピターノとしたが、結果はかえって裏目に出る。

 春・夏と持久戦が続き、ピーサは食糧の欠乏、フィレンツェはマラリアに苦しめられた。が、城壁は不落でありピーサ人の死守の意志堅いのを見て、カッポーニは金で買収することを決め、亡命して金のないそのジォヴァンニを相手に選んだ。使者ビンド・デッレ・ブラーケを通じてプティニァーノで密かに交渉、10月6日成立、サン・バルトロメーオ教会で公証人によって市の売却証書が作成され、ピーサ側はジォヴァンニ・ジァンポーリ他が署名した。売値はわずか 5万フィォリーニだった。ガンバコルタには、いくつかの領地とカプラィアとジーリォの島が安堵された。 

 売買の確認のためまず密かに捕虜が交換され、10月9日にはジォヴァンニ・ガンバコルタによってサン・マルコ門が開かれてフィレンツェ軍が入城し、全て占領した。ピーサの執政者となったジーノ・カッポーニが、アンツィァーニの館に行って市の鍵を受け取り、その前の広場で、フィレンツェが市の主人となったことを高らかに宣言した。かくてピーサは自由を失い、誇り高き自治都市コムーネ、共和国とし ての歴史を閉じたのであった(42)。

(42)  Fig.3 参照。トロンチによれば、この時のフィレンツェ側の署名にコシモ・ディ・メディチの名が見える(Tronci II p.228)。Cfr. Lamenti Storici Pisani. その後ピーサは、88年後の1494年フランス・シャルル8世のイタリア遠征にともなうフィレンツェの混乱に乗じて、 9月9日 独立を宣言した。翌 99年 6月20日にはフランスへの帰路同王 もピーサに立ち寄ってこれを祝福した。が、王が去るや直ちに、メディチ家を追放して共和制に戻ったフィレンツェの反攻が始まり、1499年 と1500年の猛攻では城壁が何ヶ所か破られた。しかしそれでも落ちなかったため、1503年には当時市政府主席の座にあったピェル・ソデリーニとその書記局にあったマキァヴェッリによって、アルノ川を迂回させてピーサを干上がらせる計画が立てられ、7月23日にはレオナルド・ダ・ヴィンチが現地を視察・測量して可能と結論した(レオナルドの手になる図面がマドリード国立図書館に保存されている)。8月には開始されたが難工事となり、途中で放棄された。そのまま膠着状態となったが、結局 15年にわたる包囲と篭城の末、飢餓・災害・疫病に屈して1509年 6月8日降伏した。この戦で荒廃したピーサはその後さらに衰退の度を深め、1551年最初の人口調査時には1636家族計8571人、しかもその半分はフィレンツェ他の市外人だったという(Tolaini1 pp.83-89)。かくて16 世紀には「死の街」と化した(Herlihy p.83)。

ルヌァールは、19世紀始めイタリアを征服・支配したナポレオンによって、1810年スクォーラ・ノルマーレ・スーペリォーレが設立されたことが、かつてのフィレンツェとジェノヴァに対するその後のピーサの雪辱だと言う(Renouard p.263)(図II-1参照)




6 ウゴリーノ伯と『神曲』 

6.1 ウゴリーノ伯の裏切り


 『神曲』ではウゴリーノ伯は次のように登場する:

 地獄界は最下層の第九圏、裏切りの罪を犯した者たちが氷漬けになっているコチートの沼、祖国に対する裏切り者たちの落とされている第二円アンテノーラである(43)。最下層であることは、裏切りが暴力や金銭・肉欲その他諸々の罪のなかでも最も重いものであることを、氷漬けの罰は身動きを取なくすること、さらにはその行為が身をも心をも凍らせるものであるこ とを喩える。その穴の一つに二人の罪人が折り重なり、上にのしかかっている方が下の方の頭骸に歯を立ててむさぼり喰っている。つまり、同じ穴のムジナであり、骨肉相喰む関係であることを寓意する。上になっている方にダンテは、言い分があれば名前と理由を告げるよう促す(Inf.XX XII.127-32)(44)。

(43) コチート:ギリシャ神話で冥界を流れるアケローン河の支流の一つ。「嘆きの川」(コーキュートス)の意。アンテノーラ:『イーリアス』に登場するトロィア王プリアモスの顧問で平和主義者。トロィア陥落の折りギリシャ軍によって危害を加えられなかったため、後世ではトロィアをギリシャに売り渡した裏切り者とされた。


(44)  Dante Alighieri, La Divina Commedia, a cura di Tommaso Di Salvo, Bologna Zanichelli 1987.


 その語るところによれば、名は伯爵ウゴリーノ、相手は「裏切り者」ルッジィェーリ。しかしその次第、「信頼していたのが、いかにこ奴の悪巧みにより捕らえられ、死に至ったか」は、もはや語る必要はない。トスカーナ中否イタリア中で知らぬ者とてない事件であった。それよりも伯が訴えようとするのは、自分たちに対する処刑がいかに酷いものであったかである。この相手に裏切られて捕まり、後に「飢餓」と名付けられる塔に閉じこめられ、食糧を絶たれて、四人の子供たちが一人また一人と動かなくなり、最後に自分もまた飢えて死んだその次第を縷々物語る。

 聞き終わってダンテは、「ああ、ピーサ、・・麗しの国[イタリア]の民の恥さらしよ」、もし隣人たちがおまえを罰するのに手間取るなら、「カプラィアとゴルゴーナの島」がアルノ河口を堰止め、皆溺れさせてしまえ。なぜなら、「たとえウゴリーノ伯が城でおまえを裏切ったと言われたとしても」、その子供たちにこのような苦しみを負わすべきでなかった。子供たちは、「若年であるが故、新たなテーベ[ピーサ]よ、無罪だったのだから」と、その悲惨な処刑、とりわけ伯の子供たちに対する仕打ちを憤る。(XXXIII.4-90) 

 ここからも窺われるごとくダンテは、ウゴリーノ伯を無実だとは言っていないにせよ、悪人としては扱わず、一貫して同情を寄せている。祖国に対する裏切りの根拠とされた城の売り渡しについても、「そう言われた」a veva voce にしてもと、留保を加えている。これは、その前に登場する裏切りの罪人たち、とりわけモンタペルティの戦いでフィレンツェ軍の旗手ヤコポ・デ・パッツィの腕を切り落として、シェーナによるフィレンツェ大敗の原因をつくったと言われるボッカ・デリ・アバーティに対する態度と全く異なる。詩人は彼に一片の同情を寄せるどころか、怒りに任せて自らその頭髪を引き抜くことまでする (XXXII.76-123)。(45)

(45)  ボッカの場合も、旗手の腕を切り落としたというのは噂であり、事実かどうかは 確定しない。


 これに対して、相手の大司教ルッジィェーリの扱いは対照的である。はっきりと「裏切り者」で、獲物を狙う「猟師の頭にして首領」、「痩せた貪欲な犬ども」(市民)を扇動し、「グァランディにシズモンディにランフランキ」(ギベッリーニ貴族)を率いて、「狼とその子」(ウゴリーノ伯たち)を狩り立てたのであった。 ダンテにとって、羊たちを導く牧者たるべき聖職者の身でありながら世俗の権力を求め、人を裏切り、ましてや慈悲もなく無実の子供たちを刑に処すのは許されざることであり、その罪はなお重かった。ダンテが、言い分があれば現世に戻ったときそれを伝えようと語り掛けるのはウゴリーノ伯にだけであり、それに応えて伯がこうして数十行にわたって弁明の機会を与えられているのに対して、ルッジィェーリは沈黙のまま顔を上げることさえしない。

 次に、事件のもう一人の当事者、ガッルーラ国主ニーノの扱いはまた異なる。彼は地獄界ではなく煉獄界前域に見い出される。つまり、前二者のごとく地獄にあって永劫の罰を受ける永遠に救われることのない罪人ではなく、前域とはいえ、これから罪を浄めて至福の界に昇る可能性のある所に置かれているわけである。しかもそこに集うのは、生前は戦や政治などこの世の俗事に没頭し過ぎて信仰をおろそかにしていたにしても、死に臨んで悔悟し、その罪を告解して魂の救済を求めるに間に合った、王侯君主ら貴顕の士であった。

 したがって、その中にニーノを認めたときの気持ちを、ダンテは次のように 思い起こす:「気高き国主ニーノ、そなたを罪人たちの中にではなく見い出したとき、私はどれほど嬉しかったことか」。もっともこの言い方の中にかえって、たとえ個人的な罪ではなく党派争いという業によってであるにしても、彼がウゴリーノ伯らと同じく地獄に陥とされていないかと恐れていた、つまりそうであっても仕方ないと考えていた危惧がうかがえよう。 

 一方ニーノはこの出会いの中で、家族とりわけ娘と妻への想いを語るだけで、ピーサとかの事件については一言も口にしない。愛しい娘ジォヴァンナ(1291年頃生)には、自分のために祈って罪の浄めを速めてくれるよう願う一方、自分の死後ミラーノのガレアッツォ・ヴィスコンティと再婚した(1300・6)妻ベアトリーチェ・ デステ(1328年没)に対しては、女性の愛の移ろい易さをとがめ、「ミラーノ人が陣を張るときのマムシ[ミラーノのヴィスコンティの家紋]とて、ガッルーラの雄鶏[ピーサのヴィスコンティの家紋]ほどには、その墓を美しくはすまい」と自負する。後のピーサとミラーノの関係を予言するような言葉ではあるけれども、ここで は家族の問題であって、特に政治的・歴史的な意味は込められていないであろう(Purg.VIII.52-84)(46) 。

(46) ダンテは別のところで、息子ファリナータが殺された(1287年)にもかかわらず、復讐しないで許したピーサ人マルズッコ(・デリ・スコルニジァーニ)の寛大さを讃えている (Purg.VI.17-8)が、 それを殺したのはニーノもしくはウゴリーノ伯とも言われる。


 では一体ウゴリーノ伯はなぜ裏切り者なのか、あるいはどのように祖国つまりピーサを裏切ったというのであろうか。また、ルッジィェーリとニーノを加えて三人を主人公とするかの事件とはどのようなものであったのか、わずか だが手元にあるいくつかの史書でたどってみる。

 まず、ダンテのすぐ後にくるヴィッラーニでは、ウゴリーノ伯ははっきりと裏切り者である。

 メローリァの海戦後1284年9月、フィレンツェはジェノヴァ・ルッカ他と同盟を結び、ピーサに戦を仕掛けて多くの城を奪った。この危機を乗り切るためウゴリーノは、フ ィレンツェと協定を結び、市からギベッリーニを追放してグェルフィに転換することを約束した。その時彼は、「ブドウ酒の代わりに金貨を入れた瓶をフィレンツェ の隊長たちに贈った」と言われる。かくて伯は、翌年1月ギベッリーニを追放してグェルフィとともに市の支配者となった(VII.98.pp.294-5)(47)。

(47) Giovanni Villani, Cronica,「第7巻第98章pp.294-5」を示す(以下同)。同書の 執筆はc.1320-48とされる。


 しかし1288年7月にはシニォリーアをめぐって三つの派、ウゴリーノ伯のグェルフィ、ニーノのグェルフィ、ルッジィェーリにランフランキ・グァランディ・シズモンディらのギベッリーニ、が形成された。ウゴリーノ伯はシニォーレとなるためルッジィェーリに接近し、ニーノを「裏切り」、その一派を追放した。しかし伯は、その「裏切り」を隠すため、その前に市を出て郊外セッティモの館に赴いていた。そしてニーノがいなくなると市に戻ってきてシニォーレとなった。これを嗅ぎ付けたルッジィェーリは、こうしてグェルフィの勢力が弱まったのをみて、ウゴリーノ伯を「裏切る」よう指示し、「かつて彼がピーサを裏切って城をフィレンツェ人とルッカ人に譲り渡した」ことを教えて市民に襲撃させ、「二人の息子と三人の孫」とともに捕らえた。「こうして裏切り者が裏切り者に裏切られた」のであった(VII.121.pp.321 -23)。

 1289年3月カピターノとして着任したグィード・ダ・モンテフェルトロは、彼らをアンツィァーニの広場の塔に閉じこめ、その鍵をアルノ川に投げ捨てて食糧を断ったため、彼らは餓死した(48) 。この残酷な仕業のためピーサ人は全世界から非難されたが、それは伯のためではなく、その子と孫のためである。伯は「その過ちと裏切り故に」死に値したが、子と孫は若年ゆえ無実だったのだから(VII.128.pp.329-30)。

(48) モンテフェルトロの着任は1289年5月であり、事件には係わっていない。彼が来たとき、ウゴリーノ伯はまだ生きていたとする説もある。


 と、ヴィッラーニからすると、ウゴリーノ伯は同盟者ニーノに対してと祖国ピーサに対しての二重の裏切り者だったことになる。人物関係と時間的順序は少し混乱しているが、こうした受け止め方が当時最も一般的だったのであろう。また、ダンテの文を踏まえていることも明らかである。 

 次にサルドの年代記では、ルッジィェーリがウゴリーノ伯を「シニォリーアから追い出し」、捕らえて餓死させた梗概が記されるだけで何の判定も下されていない(49)。

(49) Sardo p.47. ただし、この箇所はまだ無名記者の手になる部分で、サルドのもので はない(Cf.註1 文献(1))。


 時代が下ると裏切り者説はさらに尾ひれが付く。15世紀のトロンチでは(50): 

(50) Tronci I pp.518-44. 執筆は15世紀前半。ただし、この版は19世紀に追加・改訂されたもので、この部分がすべてトロンチの手になるものかどうかは詳らかでない (Cf.同 (3))。


 すでに海戦の時ウゴリーノ伯は、ポデスタのモロシーニの艦が拿捕されたのを見て退却令を出したが、それは「祖国を弱体化させ、より容易に自らの隷属下に置くため」だった。そして戦後、表では悲しみを装いながら、裏では野心の実現のために着々と準備する。生まれはギベッリーニでありながら姻戚関係はグェルフィであり、フィレンツェや教皇庁とも太いつながりがあった伯は、フィレンツェと結ぶことの利を説き、金貨の入ったブドウ酒の瓶を贈って交渉した。フィレンツェに出向き、多くの城塞の譲渡とギベッリーニ全員の追放、市のグェルフィへの転換を約束して帰ってきた。また、ジェノヴァからの「捕虜 の帰還を願う振りをしながら、彼らが帰ってくれば自分の独裁が終わると考えて、密かに邪魔していた」。ルッカに対しても、その支援を得る必要から、アシァーノ、アヴァーネ、リパフラッタ、ヴィアレッジォの城塞を譲った。

 こうした彼の独裁に対して1286年、ニーノが追放された者を集め、謀反を企んだ。翌1287年ウゴリーノ伯はニーノ派を弾圧して勝利したが、ルッジィェーリを頭とする第三の派が形成された。こうしてピーサは三つの派に分裂した。そこでウゴリーノ伯はルッジィェーリを味方につけ、彼らは共謀してニーノを捕らえる罠を仕掛けた。それが自分の留守中に起こるよう、ウゴリーノ伯は郊外の城に 引き篭もった。ところがこの不穏な空気に気づいて、ニーノはカルチの自領に逃げた。それでルッジィェーリは、味方とともにコムーネを占領し、自分がシニォーレの座に就いた。市に戻ってきたウゴリーノ伯は驚いたが、ルッジィェーリは彼に政府を明け渡すよう迫った。こうして、「神の使徒たる者が世俗の争いに首を突っ込んだ」のである。

 1288年7月1日ルッジィェーリの主唱で、ジェノヴァと和平を結ぶため大評議会が開かれたが、またもやウゴリーノ伯の反対で流れた。この期に及んでルッジィェーリは市民に反乱を呼びかけ、伯一家を捕らえ、餓死さすよう命じた。かくて市は「暴君」から解放されたが、「大司教は神の使徒といわんよりは サタン」というべきであった。

 とすると、祖国に対するウゴリーノ伯の裏切りはメローリァの戦いの時からすでに始まっており、捕虜解放への邪魔立てまで続いていたことになる。

 16世紀末のロンチォーニも、細部は異なるが基本的にはこれと同じである(51):

(51)  Roncioni pp.607-43. 執筆は1592-1606年(Cf.同(2))。


 メローリァの開戦前ウゴリーノ伯は主戦論を唱え、カピターノとなったが本心を隠し、10年前自分を追放した者に対する復讐の機会を狙っていた。戦の当日も、軍師ヤコポ・ヴィッラーニが、ジェノヴァの船が予想以上に多い(144隻)のを見て、ピーサ艦隊に港を離れないように命じたにもかかわらず、出撃を命じた。しかも、ポデスタが捕らわれたのを見て、戦うことなく市に逃げ帰った。かくてその後市にとって、「ウゴリーノ伯の帰還が何よりも大きな悲哀と苦悩」 の原因となる。

 ポデスタとなった後は、「ピーサを破滅さすことしか考えなかった」。「僣主」となった伯は、多数のギベッリーニを追放し、フィレンツェを喜ばすために多くの城を譲り、こうして彼は自分の市を「裏切った」のだった。ジェノヴァとも交渉できたにもかかわらず、捕虜が解放されて自分の「独裁」が邪魔されることを恐れてそれをしなかった。

 ニーノが共治者に選ばれたのは、彼が大身であり、グェルフィの中心人物だったからである。二人の間は最初はうまくいっていたが、さらに独裁体制を強めるため、ウゴリーノ伯はルッジィェーリの協力を得て、ニーノを含むグェルフィを追放した。ところが伯はその上、自分の姉妹の子アンセルモ・カプラィァ伯を毒殺し、その友人だった大司教の孫アッツォがそれを非難したため、伯は彼を襲って殺した。その余りの横暴さに危機を感じたルッジィェーリは、ギベッリーニを集めて対抗した。

 その後伯とニーノの関係は修復されたが、一方カルチの教区をめぐってルッジィェーリとニーノの間で争いが起こった。そこでルッジィェーリはギベッリーニ貴族を率いてニーノとヴィスコンティの追放を宣言した。その日(6・30)ウゴリーノ伯は市から7マイル離れたセッティモの城に滞在していた。ルッジィェーリは、市を「暴君」の手から解放しようと煽って反乱を起こし、市に戻ってきたウゴリーノ伯と衝突した。激しい戦いの末、伯たちが捕らえられ、餓死さすことが決定された。「こうしてピーサ人は、厳しく過酷な独裁のくびきから解放された」のだった。 

 他と比べてロンチォーニには、大司教に対する非難のないことが注目される。これは、他でも一貫して教会側の肩をもっていることからも推察されるが(52)、それが書かれた16世紀末から17世紀始めというスペインの専制支配と反宗教改革という時代(53)、その支配下にあったトスカーナ大公コシモ1世に同書が献じられていること、作者が大司教座聖堂参事会員の地位にあったこと、などの成立の事情、さらにはロンチォーニ家が、大司教とともに行動したグァランディやランフランキらと並ぶ、リパフラッタの有力なギベッリーニ貴族であったことも関係していよう(54)。

(52)  例えば、1241年皇帝フェデリーコ2世がローマの公会議に向かう高僧一行をメローリァで捕縛させたのは、「キリスト教世界に対する重大な損害」(pp.500-2)。1284年の同じ舞台でのピーサの敗北は、それに対する神の報い。1250年12月13日には、「聖なる教会に多大の損害と、イターリァに甚大な災害をもたらし、さらにはトスカーナに呪うべきグェルフィとギベッリーニの党派を再び導き入れた皇帝フェデリーコ2世」が死去した(pp.522-3)。


(53)  編者ボナィーニは、同書がピーサの異端審問所の検閲を受けた記録を紹介している(R oncioni p.XIV).


(54) ボナィーニによれば、ロンチォーニ家は996年オットー3世により貴族に叙された(Roncioni p.X)。 ただしこれは、ルッツァーティの研究(Michele Luzzati, 'Le origini di una famiglia nobile pi sana. I Roncioni nei secoli XII e XIII',1966-68. 未見)によれば、後に結び関係付けたものとのこと(シミズ pp.321-22)。


 これら昔の物語的な色彩の強い「年代記」に対して、今の学問的な「歴史研究」では、こうした一方的な裏切り者説は当然退けられる。が、ウゴリーノ伯がシニォーレの座を狙い、独裁体制を敷こうとしたとする点では皆一致する。一方、事件の経過や三人の関係についてはなお曖昧な点が多く確定的ではない。 

 まずハーリーの書は(55)、1200年代のピーサを社会経済史的に分析したものであるため、ウゴリーノ伯事件そのものは特に取り上げていない。その一般的位置づけとしては、「1276年トスカーナのグェルフィ同盟の成立で貴族が亡命から帰り、コムーネの政治はより穏健なものとなった。しかし貴族の反動はメローリァ後ウゴリーノ伯の専制となって爆発し、彼は1288年に捕らえられるまでピーサのシ ニォーレだった」と記すだけである。

(55)  Herlihy (1958) p.91.


 次にルヌァールは(56) 、「彼の意図はジェノヴァとの戦いを再 開することにあり、反ピーサ同盟から離脱さすためフィレンツェとルッカにいくつかの城を譲った。これに対して、全般的な混乱の中で、ルッジィェーリは世論を得た。ウゴリーノ伯はピーサから追放され、1288年ジェノヴァとの和平が結ばれた。その後ルッジィェーリの仕掛けた罠にはまり、市に戻ったウゴリーノ伯は捕まって飢え死んだ」と、伝統的な見方に従う。そして最後に、「言い伝えによると彼らは共喰いした。ダンテはウゴリーノ伯をルッジィェーリと共に裏切り者の中に置いている」と、 伝説を紹介するにとどまる。

(56)  Renouard (1969) pp.257-8.


 最も詳しいのが クリスティァーニで(57) 、彼はジェノヴァに捕らわれている捕虜の解放問題を重視する:

(57)  Cristiani (1962) pp.233-48. 著者は、この時期のピーサ史が「今なおダンテの物語を下敷きにして眺められる」ことを嘆いている。また、まだダンテの影響を被っていない同時代の資料は「裏切りの噂」を伝えていない、ことを述べている (pp.235,247)。


 まず、敗戦後伯がポデスタに選ばれたのは「グェルフィ同盟との個人的関係のため」であったが、例の城の譲渡は、「当時の状況からしてどうしても必要なこと」だったと肯定する。ウゴリーノ伯が権力を握れたのは、メローリァで多くの有力者、特に「ドノラティコのファーツィォ伯とラニェーリ伯」がいなくなったのが大きい。が同時に、彼ら「捕虜からのジェノヴァとの和平の早期締結要求」がその後の市政を左右するものとなってくる。ところがピーサのグェルフィはごく少数であり、伯は「自らの権力の確立を狙って内政安定のため」、1286年7月グェルフィの有力貴族ニーノを呼び寄せる。そして権力強化のため、「ギベッリーニであれグェルフィであれ反対勢力」を弾圧した。この「反市民の貴族政策」にニーノも協力し、二人の間は最初はうまく行っていたが、ジェノ ヴァとの和平をめぐって1287年末危機に陥る。

 1288年4月ジェノヴァとの和平がいったん結ばれ、ウゴリーノ伯も市民を恐れて反対はしなかったが、本心では自分の利害が絡むため望んでいなかった。ニーノも賛成していたが、それは対抗上で伯を倒すためだった。ところが条件が合わず和平が実施されなかったため、ルッジィェーリ他がピーサに滞在していたジェノヴァの使者を訪ね、ファーツィォ伯と他のギベッリーニ貴族を解放してくれれば簡単に今のウゴリーノ体制を覆せる、と告げた。使者はジェノヴァに帰ってこれを報告したが、受け入れられなかった。そこでファーツィォは、早く謀反を起こすよう大司教に手紙を書いて使者に託した。ところが、使者がピーサに着いてみると、すでに暴動が起こってウゴリーノ伯らが捕らえられていた。 

 著者はまた、ジェノヴァの古い年代記からの次のような記事も紹介している(58): 1288年6月30日ルッジィェーリとその一派は、まず「ウゴリーノ伯の意を受けて」、ニーノに対しての暴動を起こした。翌日夕方ニーノが市を逃げ出したので、セッティモの城にあったウゴリーノ伯が戻ってみると、それは伯自身に対する反乱に変わっていた。ルッジィェーリに味方したのは、グァランディ、リパフラッタ、ランフランキ、ザッチォ、カプローナらの貴族であった。かくて 7月ピーサはギベッリーニ政府に戻 った。

(58) Fragmenta historiae pisanae, coll.651-2 (未見。Cristiani p.247). 


 これらを整理するような形でベンヴェヌーティは次のようにまとめている(59):

(59)  Benvenuti (1982) pp.153-60.


 戦後、城を譲渡したとはいえフィレンツェを同盟から離反させ、危機を乗り切ったのは、ウゴリーノ伯の「外交的勝利」である。しかし内政で失敗する。伯の政治は何よりも自らの権力の強化と敵対勢力の抑圧だったため、その政府に対するギベッリーニ貴族の反対は残る数少ない有力者、大司教のルッジィェーリと結びついていった。1288年4月15日に結ばれたジェノヴァとの和平に対しても、ウゴリーノ伯もニーノも表だっては反対しなかったが、その条件が自分たちにとって損失の大きいものだったので、サルデーニァの海賊にジェノヴァの船を襲わせたり、賠償金の支払を遅らせたりして邪魔した。大司教は最初中立的な立場にあったが、ジェノヴァとの和平が失敗するにおよんで、介入するにいたった。自分の派は少数だったので、二人の間の対立を煽って分裂さす方針を取った。

 ルッジィェーリはまずウゴリーノ伯に接近し、ピーサの唯一のシニォーレになれと勧めた。敵対する孫から離れてしばらく自派を連れてセッティモの城に引き篭もるよう説得し、彼が出発すると近郊からギベッリーニ勢を市内に引き入れた。1288年6月30日のことである。これに気づいたニーノはウゴリーノに知らせたが、伯が戻ってこなかったので彼は市外に逃げた。そこでルッジィェーリは、クーデターの形を避けるためシニォリーアをゲラルデスカ家の一員で伯の孫のニーノ(イル・ブリガータ)に提供したが、叔父のガッドがそれを断らせた。そこでギベッリーニたちは、大司教自身をポデスタ兼カピターノに任命した。この事態を知ったウゴリーノ伯は、翌朝手勢を率いて市に戻ってきて衝突したが、数において劣り、敗北した。


 以上からしても、ウゴリーノ伯がなぜ裏切り者なのかは明確ではない。あえて言えば、伝統的にギベッリーニだった帝国都市ピーサをグェルフィに変えたため、あるいは、協力者として呼び寄せたニーノを、利用したうえ後に排除しようとしたためであろうか。ルッジィェーリの場合は、ウゴリーノ伯に対する裏切りがあったと言えそうだが、はたして二人がそれほど信頼関係にあったのか、それとも最初から多少とも対立関係にあったのかは明らかではない。ニーノについては、分からないのはむしろダンテがなぜにそれほど好意的なのかであるが、これはピーサの歴史にではなく、二人の個人的な友情関係に求められるべき問題なのであろう。



  

図II-2 ピーサ15世紀(S. niccola教会)

15世紀のピーサ。中世都市に特徴的な塔(有力家門の私的要塞)の林立がみられる。塔はその後壊されたり建物に組み込まれたりして、今はほとんど残っていない。アルノ川をはさんで左側(北)に大聖堂と斜塔、右側(南)がキンシカ区。



図II-3 ピーサ城外のフィレンツェ軍(1362年) Lucca, Archivio di Stato, ms.107, G. Sercambi, Croniche.(Lamenti Storici Pisaniより)



図II-4 ピーサに向かう皇帝軍(1368年)(同)




図II-5 ポンテ・ディ・メッゾ上でのベルゴリーニ派(左)とラスパンティ派(右)の戦い(1392年)、ピエトロ・ガンバコルタの死(同)





図II-6 ピーサ市内を行くルッカのビアンキたち(1392年?)(同)





図II-7 ピーサに入るミラーノ・ヴィスコンティ軍(1399年)(同




図II-8 ピーサを攻囲するフィレンツェ軍(1406年) (Firenze, Palazzo Capponi, Bernardino Poccetti 壁画、1585年)




図II-9 ピーサ征服を宣言するフィレンツェ軍の隊長ジーノ・カッポーニ(同) (右側の建物はパラッツォ・デリ・アンツィァーニ、奥にウゴリーノ伯の「飢餓の塔」)


14.  ルスティケッロ・ダ・ピーサ へ


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