語り手は(4)

語り手は信用できるか

~ホーソンの射程~

岩田 強

 

                                                                                         

                         第5章 嘘つきあるいは物語作家の誕生 

                         ―ホーソンの若年期について―



 ナサニエル・ホーソン(1804-64)の若年期(幼少年時代から30歳代のはじめまで)を考えるさいもっともわたしの興味をそそるのは、かれとその養家マニング家との関係である。商船の船長だったホーソンの父親はホーソンが4歳のとき蘭領ギアナで客死しており、その後母親は3人の子供(長男ホーソンをはさむ姉と妹)を連れて実家のマニング家に身を寄せた。ホーソンが成長したのは、祖父母の他に未婚のおじおばが4人ずついるという大家族のマニング家だった。駅馬車業を家業とするマニング家はかなりの不動産も所有していて、経済的に裕福な家庭だったようだ。

 ホーソンはマニング家との関係(意識)を直接作品の中で扱うことはほとんどなかった。だが深く潜行しすぎて、かえってうかつには口に出せず、文章でも表現しにくい問題というものもあり、ホーソンのマニング家との関係(意識)もその類ではなかったかとおもわれる。少なくともかれの性格を形成し、表現者としてなりたたしめる経緯にはマニング家との関係が大きく関与していた可能性がたかい。

  ホーソンの若年期に関連するさまざまな事実のなかには、嘘という観点から眺めると鮮明な像のえられるものがいくつかある。嘘という言葉のかわりにduplicity(二枚舌、二重性)という言葉でおきかえてもいいが、ようするに外面と内面の食い違いのことであり、その隙間からホーソンの素顔の一部が垣間見られるふうだ。

 それはたとえばつぎのような現われ方をする。「わたしが8歳か9歳のとき、母は3人の子供を連れてメイン州のシベイゴ湖畔に居を構えました。そこには家族の所有する広大な土地がありました」。これは1853年に友人宛てに書いた手紙のなかでじぶんの生い立ちを回想している文章の一節である。何気なく読めばどこにもおかしなところはない。受信者もこの文面どおりに受けとったことだろう。だがホーソンの伝記的事実に照らすと、二箇所に疑問が生ずる。

 第一の疑問は、ホーソン家がシベイゴ湖畔に転居したのはホーソンの12歳のときだったということである。12歳といえばかなり記憶のはっきりしてくる年齢で、8、9歳と混同するのは解しにくい。しかも9歳という年はホーソンにとって重大な事件のあった年である。この年かれは球技をしていて脚を骨折し、その後数年間不自由を忍ばなければならなかった。外遊び好きな少年だったホーソンにとってこの不本意な蟄居生活が苦痛な思い出として記憶されなかったはずはなく、傷が癒えてからメイン州へ移ったという前後関係が曖昧になるということも考えにくい。ホーソンはメイン州での3年半の生活を「空の鳥のように暮した」至福の時期として家族や友人に語るのが常だったから、その頃の記憶はことさら鮮明だったはずだ。さらに言えば、当時の日記や手紙にはかれが猟銃をもって狩をしたという記載がたびたび出てくるが、200年前のアメリカ辺境にあっても、8、9歳の少年に銃をあてがう親はいなかっただろう。このような点を考えあわせると、「8歳か9歳」にメイン州へ移住したと書いたとき、ホーソンが疑問を感じなかったのが不思議である。だがもしホーソンがここで意識的に嘘をついていたとすれば、事情はまったく違ってくる。だがその場合、12歳を8、9歳に偽らなければならない理由とはいったいなんだろうか。その問題を考えるための手懸りが、もう1つの疑問点にふくまれているようにおもえる。

 それは「そこには家族の所有する広大な土地がありました」という箇所である。前後関係からみてこの「家族」はホーソン家を指すとしか読めないが、じつはこの土地と家屋を所有していたのはホーソン家ではなく、母親の実家マニング家であった。母親の弟たちロバートとリチャードはメイン州に隣りあった土地を所有していて、母親が借りうけて子どもたちと水入らずで3年半を過したのはこのロバートの家作だったのである。こういう事情をホーソンは知悉しており、したがって、かれのこの記述にはある種の嘘(ないし事実の糊塗)が含まれている。そしてこの場合はまえの年齢の詐称(?)よりその動機が推測しやすい。ホーソンはじぶんの家族がマニング家の庇護をうけていた事実を隠そうとしていたのではないだろうか。もしこの推測があたっているとすれば、ホーソンの心のなかに、一家がメイン州で〈独立〉していた期間を実際より長目に印象づけたいという欲求があったとしても不思議ではないし、上述の年齢上の詐称(?)も同じ線上で理解できるであろう。

  1853年の自伝的文章を書いたときホーソンはすでに49歳になっており、代表作『緋文字』(1850)をはじめ『七破風の家』(1851)や『ブライズデイル・ロマンス』(1852)を矢継ぎ早に発表して、いわば功なり名遂げた状態にあったことを考えると、少青年時代に母の実家からうけた庇護にそれほどこだわるのはいささか腑におちない。なぜ30年以上もたった時期にこうしたこだわりを見せるのだろうか。この不可解なこだわりを理解するためには、ホーソンの精神形成に大きく影響したはずのマニング家での生活について納得のいくイメージをもっておく必要がある。そこで思考実験として、ホーソンの生い立ちと同様の家庭環境のなかにひとりの少年を投げこみ、どのようなことが起きる蓋然性がたかいか、一般論として考えてみよう。

  その少年は幼児期に父親に死別し、とりたてて遺産がなかったため、家族ぐるみ母方の実家に引き取られて成長したと仮定しよう。実家の構成は、祖父母、おじ4人、おば4人、そして母親と少年ら3人の子どもたち、である。実家は実業家の家庭で、実利的だがユーモアのセンスのある家風であり、少年たち母子をあたたかく迎えてくれたとする。少年は病弱だったためとくに全員から労られ、ペットのように可愛がられたとしよう。こういう環境のなかで成長する少年が敏感な感受性をもっていたとしたら、どういうことが起る可能性がたかいだろうか。

  まず考えられるのは、多角的な人間関係をたくみに処理する能力が通常より早く身につくという可能性だろう。このような大家族のなかで破綻をきたさずに暮してゆくには、各人の性向や利害を敏感に察知し、それに合わせてじぶんの態度を調整する必要がある。少年が皆のペットでありえたとすれば、そうした游泳術に長けていたと考えていいだろう(もちろんあまりに無器用で頼りないためペットにされるということもありうるが、現在の場合その可能性は捨象してよい。ホーソンはそれとは正反対の、利発な少年だった)。

  つぎに考えられるのは、少年が寄食者意識をふつうより早く抱くようになるという可能性である。ふつうに親のもとで成長していく子どもはじぶんの生活が親の労働によって支えられているということにさほど敏感ではなく、たとえ経済的貧困にさらされながら育ったとしても、じぶんを寄食者として意識することは少ない。欲しいものが買ってもらえなくて口惜しかったり、小遣いがなくて恨めしかったり、じぶんも働かなくてはと思ったりすることはあっても、それと寄食者という感じ方とは本質的に異なる。子どもはじぶんと親を一体のものとして感じており、じぶんをその運命共同体から疎外されたもの(寄食者)として意識することは考えにくいからだ。

 だが母親ぐるみであるにせよ、そして母親の実家であるにせよ、他家で暮らしていると、たとえその家が裕福で金銭的な問題が少年の眼に触れにくいとしても、じぶんはよそ者(寄食者)ではないかという疑念が幼いころに芽生えることはありうるだろう。利発な少年であればあるほど、独力でわが子たちを養っていけない母親の生活力の無さに早くに気づくだろうし、じぶん自身の無力さも意識するかもしれない。

 その意識は養家先にたいする少年の関係(意識)を屈折させずにはいないはずだ。なぜならじぶんたちの無力さの自覚は、じぶんたちを扶養してくれる母の実家にたいする感謝の気持ちをはぐくむだろうが、それと同時に、その感謝の気持ちには負い目の気持ちや屈辱感も綯い交ぜられる可能性があるからだ。じぶんを寄食者と感じた少年は、生き物としての自衛本能によって、じぶんたちを養ってくれる人びとの感情を傷つけないように配慮したり振舞ったりするようになるだろう。かれが賢く気丈であればあるほど、ことさら養家の人々とたのしげに付き合い、人びとの期待する役割を忠実にはたそうと努力するだろう。だがそのような努力はたとえ無意識的なものであっても、時間の経過とともに屈辱として意識されるようになり、かれの心性を裏表のある、二重的なものにしていく。言いかえれば、かれの養家への感情は両面感情[アンビバレンス]にならざるをえない。

  だが、表と裏という表現はもしかしたら不適切であるかもしれない。この表現には表は仮面で裏が正体という意味合いが暗黙のうちに含まれている。だがおそらく上述のような環境に物心つくまえから放りこまれて育った人間にとって、じぶんの正体[アイデンティティ]というものはそれほど明確ではないかもしれない。つねに多数の視線を浴びるなかで、かれの自我は根深いところまでいわば〈社会化〉され、宝物をだいて秘密の隠れ家にもぐるようにじぶんの正体[アイデンティティ]を保持することはできない。比喩的にいえば、かれの自己の守り方は静力学的ではなく動力学的にならざるをえない。つまり、複雑な人間関係のなかで多面的に立ち回りながら、〈ペット〉の仮面をかぶっているときには〈ペット〉から脱けおちるもの、〈寄食者〉としてふるまっているときには〈寄食者〉から食みだすもの、ようするにすべての仮面にたいして不在証明を提出しつづける形で自己の正体[アイデンティティ]を防備するほかない。仮面こそじぶんという人間であるような振りをしながら、しかもどの仮面にも全的には同一化しない態度、自己のなかの多面性をむりに止揚せず、その多面性に身を横たえる態度をとるほかないのではないだろうか。一言でいえば、かれの正体[アイデンティティ]は、表と裏という比喩では言い尽くせないほど多面化されているのではないか。

  いま一般論として素描した少年像は、はたしてホーソンの実像と重なりあうだろうか。

 少年時代のホーソンが仮面のかけかえに長けていたということは、かれの少青年時代の手紙や日記から自然に浮かんでくる印象である。かれの手紙は相手に応じて調子や話題が変えられている。興味ぶかいのは、そうした煩雑な対応を苦もなくやりこなしているといった自然さの印象である。その裏には、おそらく、いま指摘した自我の〈多面化〉が潜んでいる。喩えてみれば、かれの精神の回路には精妙な変圧器[トランス]が組み込まれていて、相手に応じて自動的に端子が切り換えられるふうだ。その様相を示すには多数の手紙を並置するのがいちばんだが、ここではホーソンの息子ジュリアンが書いた父の印象記を引証することにする。それは壮年期のホーソンを描いたものだが、そこに描かれているホーソンの姿がそのまま若年期にも通用するのは驚くほどだ。


 さてホーソンには、天性と訓練が相俟って、たまたまその時かれの相手になった誰にたいしても、想像力を駆使することによって、(よく言うところの)相手の身になって考えるという性質があった。ひと時かれは相手の観点にたち、相手の言葉遣いで喋るように見えた。それは精妙な共感力の所産でもあったが、冷たい知的洞察の結果でもあり、それあるが故にかれは、じぶんがくっきり感じとったものを半意識的に反映する気になったのだ。かくして、ブロジェット夫人の下宿屋の喫煙室で荒くれ者の船長たちと話すとか、ボストンの酒場で酒飲み連中の仲間入りをするとか、バークシャーの山地でハーマン・メルヴィルと形而上学を語るとかする場合、かれはどの場合にも相手と同じような人間の振りをするのが常だった。相手の興味をひくものに興味をもち、相手の基準で人生を見ているような様子をするのだった。勿論これは上辺だけのことで、本物のかれはすっくと自立して注意ぶかく観察しており、かれの特権が犯されたり、なにかのことでかれの思考や行動の自由が破られそうになると、あるがままのかれが姿を現わすのだった。だがその結果、ときにはかれの絶対的な態度について人々を誤解させるところがあったかもしれない。人びとは、じぶんたちのちょっとした習慣や信条にかれが共鳴するのを見て、かれもじぶんたちの仲間のひとりにすぎないと思いこむが、じつはかれらはかれの包摂する大きな全円のちっぽけな円弧にすぎないのである。どうもこれはまったく公明正大とは言えないように思える。そこには冷たい感触があり、他人を犠牲にして面白がるとか、他人の愚行から利益をうるといったところがある。

 ジュリアン・ホーソン『ナサニエル・ホーソンとその妻』


 この態度に冷たく信頼しがたいものが含まれているのはたしかだが、それは、思考実験としての少年像のなかで考察したように、ホーソンが成長期の環境のなかでじぶんの正体[アイデンティティ]を保持するため必要に迫られて身につけた態度であったろう。ジュリアンはホーソンの没後その作品を通読して、父として身近かに接していた人間が書いたとはどうしても信じられなかったと語っている。ホーソンの多面性がいかに徹底していたかを窺わせる挿話だろう。

 ホーソン自身のこうしたじぶんの正体[アイデンティティ]の保持のしかたは、かれの作品にしばしば登場するあるタイプの人間像を理解する手懸りを与えてくれる。それはルーベン・ボーン(「ロジャー・マルヴィンの埋葬」)、ウェイクフィールド(「ウェイクフィールド」)、フーパー神父(「牧師の黒いヴェール」)、グッドマン・ブラウン(「ヤング・グッドマン・ブラウン」)、イーサム・ブランド(「イーサム・ブランド」)、ディムズデイル、チリングワース、ヘスター・プリン(『緋文字』)といった系列の人間像、ある観念や感情がいったん心のなかに棲みついてしまうと、その後はどんな環境の変化があってもその固定観念や感情を守りつづけるというタイプの人間像である。これらの人間群には環境の影響を受けなさすぎるという印象があり、外界との接点を喪失した神経症者、強迫観念者のように見えるが、ホーソンはかれらを〈異常〉者としてではなく、極端ではあっても人間の常態の枠内にとどまる者として描いているようにおもえる。なぜホーソンは固定観念にとりつかれた人間に同情的だったのだろうか。この疑問にたいする答えは、私見によれば、ジュリアンの伝えるホーソンの多面性のなかに見出せる。どこまでも相手に調子を合わせながら、「自己の特権が犯されそうになると」いつでも本来の正体[アイデンティティ]を露出できるという精神構造にとっては、環境に侵食されるのは精神の表層だけと受感されるだろう。もちろんそれは幻想であって、人間の意識は、自覚するとしないとにかかわらず、環境の影響を受けざるをえない。ただ俗流の反映論が主張するようには〈環境〉と〈意識〉との関係は単純ではなく、そのねじれた関係のなかに、観念や感情を無媒介的に保存できるという幻想が生き延びる根拠がある。ホーソンはその二重的な精神構造のために、〈意識〉が〈環境〉の影響を受ける局面には大きな関心を示さず、〈環境〉の侵食をうけない〈意識〉という幻想にのめりこんだのではないだろうか。そしてその結果、かれ自身の心性を分与された前記の人間群が〈正常〉者の枠内で扱われることになったのではないだろうか。現在のわたしたちの関心に則していえば、マニング家の人びとと表面上和やかに付き合いながら、幼少期にかれらからうけた心理的なしこりをいつまでも保持しえた理由もこのようなかれの心性とかかわりがあったのではないだろうか。

 では、二重的な対応によって自己を守るというホーソンの心性は、幼少年期にはどういう形をとって現われるだろうか。おそらくそれは自他の言動の表面と裏面との齟齬にたいする鋭敏な感受性となって現われるはずで、ホーソンが12歳から14歳にかけてつけていた日記にはすでにその片鱗が見られる。

 

 岸に着いてから、ホワイトさんが長い銃で的を射ってもいいと許してくれた。僕は的に当てられなかった。それに銃を発射したとき的を見ていたかどうかもはっきりしない。むしろ、これから響く音を待ち構えていたんじゃないかとおもう。リングさんは、練習すればボクが猟師になれる、今だってたっぷり火薬をつめれば8歩はなれた馬を倒せると言ってくれた! その晩ホワイトさんはリチャードおじさんの家に行き、ボクは家に帰って、その日がどんなに愉快だったか話して母さんを楽しませた。ボクにも馬が倒せるとリングさんに言われたことを母さんに話したら、リングさんはお前をからかったんだよと言われたが、そのことにはボクは気づいていた。

サミュエル・ピカード編『ホーソンの最初の日記』


 銃を射つ前後の鋭い自己凝視、幼ないときから大人の世界に引摺りこまれた少年の早熟さ、「リングさん」や「ホワイトさん」にたいする態度から想像される折目正しさと無邪気さの微妙な混淆、たのしかった一日の報告をして母親を「楽しませた」という一句のこましゃくれた口調-----これらの特徴はホーソン少年が当時母親、姉妹、おじおばたちに宛てて書いた手紙の特徴と共通するものだ。さらに興味ぶかいのは、「リングさん」のからかいを母親から指摘される箇所である。ホーソン少年は母の指摘を聞くまでもなく「リングさん」の真意を見抜いていたが、そんな賢しげぶりはおくびにも見せず、淡々と母の指摘を書きとめるにとどめている。その書きぶりには子どもばなれのした抑制、落ち着き、バランスがうかがえ、後年のホーソンの文章の特色が早くも萌しているのが感じられる。『ホーソンの最初の日記』は編者ピカード自身がその信憑性に疑念をいだいているが、日記と手紙の同質さからみて、わたしはホーソンの真筆だと考えている。底本的なホーソン伝の著者アーリン・ターナーも「日記で触れられている状況や出来事は日記以外の資料からえられる情報と完全に一致するし、ものの見方や関心においても、この日記の筆者は後年の作家ホーソンを彷彿させ、ホーソンこそがこの日記の著者にちがいないと言わせるだけの似寄りを示している」としている。さらに2つの記載を日記から引証してみよう。


 昨日ボクはロビンソン・クックとポケットナィフを交換した。ジェイコブ・ディングレイはボクが一杯くわされたと言う。でも僕はそうは思わない。だって今朝釣竿を切ってみたらよく切れたもの。それにかれはクウェイカー教徒で、あの人たちは絶対に人を騙さない。


 もしかしたらあったかもしれない「ロビンソン」にたいする疑念や、友人を中傷する「ジェイコブ」への非難などにはすこしも触れられていない。嘘とか、誤魔化しに道義的な反応を示さず、事実だけがさりげなく描出されている。その抑制のきいた口調はいかにもホーソンらしい。


 オウティスフィールドのブリトン船長が今日リチャードおじさんの所に来た。すこしまえおじさんは「ロングレッド」という新種の馬鈴薯をセイラムからここへ持ってきた。ブリトン船長は種芋用にそのいくらかを分けてもらっていたので、おじさんは船長に気に入ったかと尋ねた。船長は「よくなるよ。すごく長くなる。片方の端は貧弱だが、もう片方の端はまるでダメだね」と言った。船長がいなくなってからボクはそのことで笑った。でもおじさんは苦い顔をして、あの男の返事には機智なんてない、古臭い言い草だと言った。ボクは初めて聞いたし、船長の言い方がすごくおかしかった。たぶんおじさんはじぶんのお気に入りの馬鈴薯のことをそんな風に言われたのがいやだったので、もし船長が誉めていたら、あの人は機智のある人だと言っただろう。


 少年ホーソンはおじの心理をよく見抜いていて、言葉とその背後にあるものの理解に通じていることを示している。かれはまた、人びとの対人評価がちょっとしたきっかけで大きく変化することも洞察している。そうしたことに習熟していなければ、うがった観察をしたとか、新しい発見をしたといった少年らしい気負いをすこしも見せずにおじの心理分析を自明のもののように展開することはできないだろう。おじの言葉にたいして「僕は初めて聞いたし、船長の言い方がすごくおかしかった」とじぶん独自の判断を留保しているあたりにも、ホーソンの成熟ぶりが表れている。おそらくホーソンはおじの心理の洞察やじぶんの判断は日記に記すにとどめ、おじとの会話の現場ではさりげなく話題をかえるなどのことをしたにちがいない。おじの心理分析じたい年に不相応な明敏さを示しているが、緩急自在な自己抑制ぶりは大人の世間知さえ感じさせる。それはジュリアンが伝える壮年期のホーソンの変幻自在な対人関係と同質なもので、すでにこの時期にかれの多面的な精神構造ができあがりつつあったという印象をうける。

 では思考実験としての少年像で考察した寄食者意識は、ホーソンのなかにどのように現われているだろうか。わたしの見たかぎり、ホーソンがじぶんを寄食者であると明言している例は見あたらない。だがすでに述べたように、それは屈折した現われ方をするはずだから、ここでもわたしたちは直感と想像に頼らなければならない。

 すでに触れたように、ホーソンの母親は夫の死(1808年)の翌年から子どもたちを連れて実家マニング家に身を寄せたが、その家族は父母のほかに未婚の兄弟が4人、おなじく未婚の姉妹が4人いる大家族だった。ホーソンは5歳のときから突如として10人の大人たちが犇めくこの大集団に投げ込まれて育ったわけだ。残された資料から判断して、マニング家の人びとは基本的に善意の持ち主で、夫と父を不意にうしなった母子をあたたかく迎えてくれたようだが、時間の経過とともに人毎に好き嫌いが生じたり、感情のもつれがしこったりするのは不可避だったのだろう。ロバート・ゲイル『ナサニエル・ホーソン事典』によると、頭がよく辛辣で生涯独身だった母の姉のメアリについて、「ホーソンは幼いころ、尊大でピューリタン的なメアリ伯母を嫌っていた」。もっともこの伯母は、ホーソンがボードン大学に在学中、かれの学費の一部を負担してくれたり、12年におよぶかれの修業時代中にも、じぶんの図書会員証を使わせてホーソンがセイラム図書館から図書を借り出す手助けをしてくれた。この例が端的に示すように、マニング家における人間関係は総じて複層的で、プラスの面とマイナスの面が交錯して一筋縄には決めがたい。同様のことが祖母についてもいえる。「少年時代、ホーソンは祖母のミリアム・マニングのことを 暴君で、吝嗇で、文句屋で、潔癖症とみなしていた。もっとも後年、愛情と理解をもって彼女に接するようになったが」(『ナサニエル・ホーソン事典』)。つぎの手紙はホーソンの15歳のときのものだが、祖母にたいする少年らしい感情があからさまに表出されている。


 この家[セイラムのマニング家]には極上のガヴァが一壷、砂糖づけのライムが一壷ありますが、あなた [ロバート]が来なければカビが生えるでしょう。というのはお祖母さんが、いまそのどちらを食べるのも冒涜だと思っているからで、その訳は誰かが病気になるまで取っておくつもりだからです。皆がずっと元気で、それらが駄目になったらお祖母さんは大層がっかりするでしょう。それからアイザック・バーナムがお祖母さんにくれた、すごく腐りやすいオレンジもあるのですが、僕たちがいいオレンジを食べられる見込みは全然ありません。なぜといって、まず悪くなったのを食べなければならず、いいヤツは駄目になるまで取っておかなければならないからです。


 この諧謔をねらった口調にはべたべたと絡みつくような嫌味があり、秘められている嫌悪の深さを露呈している。この祖母の悪口がおじロバート宛の手紙に書かれていることも興味ぶかい。それは、ホーソンが親族内のだれかに心理的なしこりを感じたときの解消の仕方を暗示しているからだ。祖父母や多数のおじおばの絡みあった関係のなかでは、反感や欝憤をストレートに爆発させることは危険だし、しこりを抱いてタコつぼに潜るようにして解消することもむずかしい。そうした発散のさせ方は、外向的、内向的の差はあるにせよ、いずれも直接的な自己表出といっていいが、ホーソンのような環境でそだった人間には、じぶんをとりまく人間関係がそのような直接的な自己表出(そこには甘えがふくまれる)を許容するほど堅牢なものに感じられないのではないだろうか。かれの世界像に亀裂がはいっていたとすれば、いいかえれば、その世界からじぶんがいつ放りだされるか分からないという不安を潜在的にでも感じていたとすれば、かれがこの手紙の諧謔に見られるような韜晦的表現を選びたくなるのは納得できる。本音をむきだしに表現したら人間関係がぎこちなくなるのではないかと感じたとき、かれはその本音を諧謔にくみ、安全だと感じられる相手にむかって吐き出したのだ。かれの諧謔の使用例のなかに他者への反感や異和感がバネになっていると思われるものが数多く見られることは、いま述べた事情に由来するように思われる。

 保身という動機はかれの諧謔的表現を温和な口当りのよいものにすると同時に、いくぶんその迫力を弱めてもいる。その動機がかれの揶揄や皮肉から相手を徹底的に追いつめる捨て鉢さを奪うからだ。だれかに異和感や反感を感じたとき、まず誇張によって対象を肥大化させ、その肥大化した部分に皮肉や揶揄を浴びせかけるというのがホーソンがしばしば用いた諧謔法だが、そこには微妙な対象のすりかえがあるから、皮肉や揶揄をうけた人間が致命傷を負わないという利点がある一方、肥大化させる以前の対象から受けたホーソンのしこりや鬱屈が解消され尽さずに残る可能性がある。わたしたちはここで、表現行為からも脱けおちるホーソンの正体[アイデンティティ]ということを考えてみたほうがいい。すべて文学者は現実生活で解消しきれなかったしこりを、間接的であれ直接的であれ、文学表現のなかで解消しようとするものだが、ホーソンの場合自己表出的な感情や思念は文学表現においてさえ非常に用心ぶかくしか表出されなかったように見える。ヘンリー・ジェイムズがホーソンの評伝のなかで「かれの日記は、郵便局で手紙を開封されるという疑いをもち、体面に係りのあることはなにも書かないことにしたある男が、じぶん自身に宛てて書いた、やや退屈で明らかに形式ばった、だがたいそう愉快な一連の書簡のように読める」という印象を書いたとき、ジェイムズは文学表現からも脱けおちるホーソンの正体[アイデンティティ]を察知していたように思える。

 おじロバートにたいするホーソンの感情には、祖母にたいする感情以上に測りがたいものが感じられる。『ナサニエル・ホーソン事典』はかれの事績をつぎのようにまとめている。「おじたちのなかでもっとも有能で影響力のあったロバート・マニングは、兄のウィリアムとともに駅馬車業を主管し(1813-1821)、メイン州レイモンドに住居を建て(これは後に兄のリチャードに受けつがれた)、レイモンドで有数の果樹園を成功させ(1821-1823)、セイラムにもどって1823年以降アメリカを代表する果樹園芸家になり(果実の品種のカタログである『果実読本』を1838年に出版した)、レベッカ・ドッジ・バーナムと結婚した(1824)」。祖父の死後(1813)、ホーソン母子の後見人の役割を親族から任され、ホーソンの教育費の大半を負担したのはこのおじである。ロバートはホーソンの伝記に登場する場合たいてい金の心配をしている。ホーソンがハーヴァード大学より安上りなボードン大学を選んだ背景には、母親の当時の住居(シベイゴ湖畔)に近かったということとともに、金銭上のロバートの意向があったようだ。またホーソンが大学受験準備中に妹とダンスパーティに出ようとしたとき、「ナサニエルとルイーザはつぎの木曜日の舞踏会の準備をしています。なんの益もない目的のために多くの時間と多くの金が失なわれるのではないかと心配です」と書いたのもロバートである。もっとも、かれが資本主義勃興期の実業家らしく天真燗漫に利益を追求 し、後めたさを覚えることなく金銭に執着するタイプの人間だったとしても、それだけでかれを吝嗇とは決めつけられまい。

 だがロバートの経済援助を受けているホーソンにとって、ロバートの些細な言葉が胸にこたえるといった経験はたびたびあったのではないだろうか。ホーソンは大学入学前、さらに4年間ロバートに養われるという考えには耐えられないと語っている。大学入学のほぼ2年前の1819年、ホーソンはロバートの指示で家族からひき離され、セイラムにもどって受験勉強のためある学校に通学しはじめた。その1ケ月ほど後、かれはロバート宛ての手紙のなかで「僕は学校に通いはじめていますが、4半期わずか5ドル分の値打ちもないということと、バプテスト教会の近くにあってあまり近くないことを除けば学校に不足はありません」と書いている。金主にたいする遠慮を考えれば、これは最大限の皮肉であろう。さらに1ケ月あまり後、かれはメイン州の妹に宛ててもっと直裁に不満をぶちまけている。「ここ [セイラム]ではじぶんをどうしてよいのか分かりません。間違いなくここでは、心が満たされることは決してありません。僕は今5ドルの学校に通っています。まえには10ドルの学校に通っていた僕がですよ。『おお堕天使よ、黎明の子よ、おまえはなんと失墜したことか!』」。これもまた、祖母にたいする皮肉の場合と同様に、心理的なしこりを諧謔にくるんで表出するというホーソンの表現法の好例である。

 上記のような個性の強いマニング家の人びとのなかで暮らしながら、ホーソンの胸底にはたしてどのような思念や感情が蓄えられていったのだろうか。冒頭で触れたように、母親は1816年6月に3人の子どもたちを連れてメイン州にあったマニング家の地所に移住した。子どもたちにとってそれは、祖母やおじおばに干渉されることなく親子水入らずで暮らせる初めての機会だったが、ホーソンはその待ち望んでいた生活をじゅうぶん味わうことを許されなかった。ロバートが意固地なほど一貫してホーソンを母親や姉妹からひき離そうとしたからだ。〈男の子が女の家族にかこまれて育つのはよくない〉というのがロバート自身の教育方針であったのかもしれないが、「マニング家のさまざまな人びともロバートに、ホーソンにもっと勉強させろ、じぶんを甘やかさせるな、と再三求めていた」(『ナサニエル・ホーソン事典』)からでもあった。その結果、1821年に書かれた母宛ての手紙「先夜、シベイゴ湖の畔を歩いている夢をみました。そして目がさめてすべてが幻だと気づくと、あんまり腹が立ったので、ロバート叔父さん(ぼくといっしょに寝てるんですよ)を思いきり蹴とばしてやりました」が物語っているように、利発で従順な甥っ子という仮面の下に、ロバートへの欝憤が蓄積されていったのは明らかだ。以下に引証する手紙もおなじ年の6月、ボードン大学に入学するすこし前に、セイラムから母親宛てに書かれたものだ。このとき姉と妹も一時的にセイラムに遊びに来ていて、メインには母親一人がのこっていた。



 親愛なる母さん、 


 お手紙、受け取りました。お元気とのこと、よろこんでいます。子供たちがみんな一度にいなくなるということは、きっとこれまでになかったことでしょう。ロバートおじさんのつもりでは、ルイーザはおじさんが一緒につれて帰り、エリザベスは9月にぼくがそちらに行くときまでここに残しておくようです[ボードン大学はセイラムからみてレイモンドより先のブランズウィックにある]。おじさんは来週出発すると言っていますが、そんなに早く出かけることはないでしょう。ウィリアムおじさんがエリザベスに15ドルという手頃な値段のレグホン麦わら帽をくれました。鍔がとても大きいので、どんなに鋭い眼でもその下に彼女がいるのを見破れないでしょう。彼女はここで大いに満足していますが、彼女が好きなのはセイラムよりレイモンドのほうです。ねえ母さん、セイラムに戻って住むようにとどれほど懇願されても、心を動かされないでくださいね。ここでは、母さんがいま味わっておられるほどの居心地のよさは到底もてません。いま母さんは文句なくじぶんの家の女主人です。ここに来たら、ミス・マニング[母の姉メアリ]の権威に従わざるをえなくなりますよ。もし母さんがセイラムに引越してしまえば、大学の休暇中にぼくが帰ろうとしても母さんは[レイモンドに]いないことになりますし、ぼくがセイラムまで帰るとしたら、費用がかかりすぎることになります。もしいまのところに留まっておられれば、子供たちみんなに囲まれ、世間から隔絶され、なにものにも煩わされずに、楽しいときが送れることを考えてください。そうなれば、第二のエデンの園ですよ。

    見よや、楽しき眺めかな、

    うから相和すそのさまは

 エリザベスもぼくと同じくらい、母さんにぜひそちらに残ってほしいと願っています。短い期間ならよろこんでここ[セイラム]にいるけれど、永住の場所としてはレイモンドのほうがずっといい、と彼女は言っています。ぼくがこのことについてくだくだ言うわけは、ダイク夫人[母の妹プリシラ]とミス・マニングが躍起になって母さんをセイラムに戻らせようとしていて、母さんを説得するようU.R.[ロバート・マニング]に頼んでいるのではないかとおもうからです。でも、ねえ母さん、もし平

和に暮らしたいとおもわれるなら、お願いですから、同意しないでください。お祖母さんは、母さんがむしろそちらに留まることに賛成するでしょう。

 この手紙を母さんが読むことができれば万々歳です(が、そううまくゆくか大いに疑問ですね)。

貴女を愛する息子、 ナス・ホーソン

この手紙は見せないでください。


 この手紙はマニング家におけるじぶんたちの存在をホーソンがどのように感じていたかを余すところなく物語っている。〈マニングのおばたちは私信を隠したり盗み読んだりしているのではないか。彼女たちは母親が望まないセイラム暮らしを承知させようと、陰でこそこそ密謀をめぐらしているみたいだ。それなのに、引っ込み思案な母親は祖母や姉のメアリに主導権を奪われて、じぶんたちをしっかり守ってくれない。じぶんたちホーソン家の子どもたちは、マニング家のなかで水に浮いた油のようによそ者だ〉。おそらくこれが、マニング家におけるじぶんたちについてホーソン少年がいだいていたイメージだったであろうし、それはまさに寄食者意識に他ならない。興味ぶかいのは姉エリザベスや妹マリア・ルイーザもおなじ意識を共有していたことで、それは彼女たちの手紙が証左している。ホーソン家の子どもたち全員にとって、レイモンド生活はまさに「第二のエデンの園」だったのだ。

 いま引証した手紙はホーソンの金銭意識をうかがわせるという点でも興味ぶかい。たとえば、おじのウィリアムがエリザベスに15ドルの大きな麦わら帽子を買ってくれたという箇所に注目してみよう。ホーソンは15ドルを「手ごろな価格」と書いているが、ドルの価値の経年変化がわかる Inflation Calculator(https://westegg.com/inflation/)というサイトを使って計算すると、1821年の15ドルは2020年の295ドル77セントにあたることがわかる。つまりウィリアムは姪のエリザベスに3万円をこす高価な麦わら帽子を買ってやったことになるわけだ。ウィリアムは気のいい好人物だったが、金銭感覚にとぼしく、晩年になってホーソンから100ドルの小切手を恵んでもらうような人物だった。したがって、この「15ドルという手ごろな価格」には含みがあり、ホーソンはここでウィリアム伯父の浪費癖を皮肉っていると受けとるべきだろう。

 

 さて、ここまでホーソンの成長史をたどってきてみると、おそらくこの受験準備期(15~17歳)に、ホーソンが根深い二重性をはらむおのれの精神構造を深く認識し、そのような精神にたまるしこりをほぐす手段としての文学表現をはっきり意識するようになったのではないかと考えてよかろう。かれがこの時期に最初の文学的行為といえる家内新聞を発行したり、作家になる願望を母親に洩らしていることはいま述べた推測を裏づける。大学時代のかれの習作はほとんど現存しておらず、かれの文学への初期の接近のしかたは正確には分からないが、つぎの大学時代の詩「大海には暗く寂莫たる/音もなき洞窟あり/よし海原の猛るとも/さはあらじ 波の下」には、かれの二重的な精神構造が荒れくるう波濤と静まりかえる海底の洞窟に象徴されて表出されている。おそらくかれも、多くの作家と同様、自己を語るところから文学に接近したのであろうが、すでに検討した裏表のある精神構造のため、自己露出度のたかい抒情詩や告白体小説はかれには向かなかったのであろう。かれがいちはやく文学的完成に到達したのは、歴史的素材のなかに隠微に自己を漏出させる歴史物語においてだった。

 ホーソンが現実に近い情況設定のなかで自己を語ってみせるのは「原稿の中の悪魔」(1835年)と「孤独な男の日記からの断章」(1837年)であるが、大学卒業(1825年)からそれらの作品までのあいだには、いわゆる「孤独の歳月」とよばれる修業時代が介在している。後者の作品で、ホーソンは何時になくあけすけに家族やマニング家との関係を語っているが、そのことを理解するには「孤独の歳月」におけるかれの生活史について大雑把なイメージをもっておく必要がある。

 かれは大学を卒業すると職業につくことなく、メイン州からセイラムに帰っていた母親のもとにもどる。それから第一短篇集『トワイス・トールド・テイルズ』が出版される1837年まで、かれがどうやって生活を支えていたかはよく分からない。この小論の冒頭で引用した1853年の手紙のなかでホーソンは「幸か不幸か―あなたがそのどちらにとってくださっても結構だが―、わたしにはじぶん自身を養うだけのささやかな財産があったので、1825年に大学を出ると、すぐ仕事の勉強をはじめる代りに、なんの仕事がじぶんに向いているか腰をすえて考えはじめました」と語っている。これはかれの死後姉のエリザベスが語った「父はほとんど財産を残してくれませんでしたので、祖父のマニングが私たちを家に引きとってくれました」という言葉と矛盾するように見える。もしエリザベスの言葉が本当ならホーソンのそれは嘘ということになり、マニング家に庇護されていたという事実を隠蔽しようという意図をホーソンがもっていたという、先に提出しておいた推測がここでも有効である。だが、もしかしたらホーソンの言うとおりわずかな財産があって日々の生活はその財産でまかなうことができたのかもしれない。前記ホーソン伝の著者アーリン・ターナーによると、祖父のリチャード・マニングが1813年に死んだとき、遺族たちはその遺産を分割せず、以降20年間共同所有とする処置をとった。その結果、ホーソンの母親も共同相続人の1人として、リチャードの遺産の恩恵に浴することができたのだが、その場合でもホーソン母子の生活がマニング家に支えられていたという事実に変わりはない。少なくともホーソンのひそかな胸の底では、かれ自身の労働によって一家が暮していける収入が得られないかぎり、自立の実感はもてなかっただろう。

 けれども「孤独の歳月」を通じてホーソンの原稿収入は家族はおろかじぶんの口を糊するにも不足するほどの額でしかなかった。原稿がかなり売れるようになった1836年でさえ、その収入は年間108ドルにすぎず、同年かれは、筆一本でかせぎうる金は多くて年間300ドルと語っている。レオ・ヒューバーマン『アメリカ人民の歴史』によると、1820年代と30年代の工場労働者の平均賃金は週給で成人男子が6ドル、成人女子が2ドルないし2ドル半、子どもが1ドル半ないし2ドルで、5、6人の子供のある家族を雇うのがニューイングランドの工場の通例だったというから、貧しい工場労働者の家庭でも1ヶ月の生活費が50ドルを下回わることはなかったろう。ホーソンが最大限に見積った執筆料は労働者の家庭の半年の生活を支えるのにも不足する額にすぎなかった。

 こういう状態の10余年がホーソンにとってどれほど重苦しいものだったかは想像にかたくない。この時期の作品に故郷を離れる青年を登場させたものがいくつかあり、またけっきょく陽の目を見なかった短篇連作『物語作家』の主人公もピューリタンの家庭をすてて放浪にでる青年である。おそらくこれら青年群にはホーソン自身の出郷の願望が仮託されているのであって、ホーソン自身の次元でいえばその願望の根底には寄生的生活からの脱却があったはずである。1835年の日記にかれはじぶんの欝屈をこう書いている。「人は子ども時代から共に生い育った人びとのあいだにいると、中年にも達しないうちにカビ臭く影が薄くなるのかもしれない。だが新しい土地に移住すれば、若さの効果があらわれて新たに甦るように思えるし、そのことが他人の抱く印象からかれ自身の感情へと伝わるかもしれない。」 再々引用する1853年の手紙でホーソンが「私は少年時代と青年時代の大半を故郷を離れて暮していたため、セイラムにはほとんど知り合いはいませんでした」と語っているのを考え合わせると、この「子供時代から共に生い育った人々」が家族やマニング家の人びとを指すと受けとってよいだろう。ここではかれの欝屈は、固定化し新鮮な反応の期待できなくなった親族関係にたいする漠然とした嫌悪として表明されている。だがこの時期もっと具体的な感情の行き違いがホーソンと周囲の人びととのあいだに生じていたのかもしれない。そう憶測する根拠は友人ホレイショ・ブリッヂの1836年2月のホーソン宛ての手紙である。「そのうえ、セイラムから脱け出せることは少なからざる利点です。例の〈予言者〉云々にまつわる事実は別にしても、セイラムには独得の退屈さがあります。この雰囲気は文学者のよく呼吸しうるものではありません。」この年の3月から8月までホーソンはボストンにおいて『米国雑誌』の編集にたずさわった。これは記録に残っているかぎりではホーソンが最初にやった生活費目当ての労働であった。おそらくホーソンが就職の報告をし、それにたいする返事が前記のブリッジの手紙だったのだが、では文中の「例の予言者』云々にまつわる事実」とは何だろうか。詳細はまったく明らかになっていない。だが文脈から推して、それがセイラムの人間から出たホーソンにかかわる言葉であり、しかもかれに不快感をあたえる性質のものだったことは明らかである。それが親族以外の人間の言葉である可能性も否定できないが、やはり家族かマニング家の人びとの言葉である可能性のほうが大きいだろう。さらに、その言葉を一部とする近親間のある種の雰囲気が、編集という不本意な仕事にかれを駆りたてた原因のひとつだったと推測するのはあながち牽強付会とは云えないだろう。ホーソンは1835年の日記の最後の記載として、「四つの戒め。習慣を破ること。悪意ある精神をふりはらうこと。青春について瞑想すること。おのれの天分に反することは何ひとつしないこと」と書く。だれしもこの「悪意ある精神」を「例の『予言者』云々にまつわる事実」が惹きおこした悪感情に結びつけて解釈したい誘惑を抑えがたいだろうし、ホーソンのおかれていた状況をここまで辿ってきたわたしたちには、「習慣を破る」必要をかれが感じたとしても意外ではなく、またその結果、意に副わぬ仕事をしなければならない不安に怯えながら「おのれの天分に反することは何ひとつしないこと」と書くかれの心事を忖度できる。

 このように経済的にも心理的にも切迫した理由があったとおもわれる編集者就職は、しかしながら、さほど順調にはすすまなかった。この就職はホーソンの初期作品のかなりの部分を掲載した雑誌『トークン』の編集者グッドリッチの仲介によるもので、年俸500ドル、着任と同時に45ドルが支払われる約束だった。ところがボストンに着いてみるとグッドリッチは一日延ばしに支払いを遅らせ、ついにホーソンはグッドリッチの支払いの意思自体を疑うようになり、以後かれに接近するのはやめたと妹に書き送っている。だがかれが翌年にかけてグッドリッチが出版する通俗歴史書『ピーター・パーレーの万国史』を姉と共同で執筆しているところを見れば、かれの決心もすぐには実行に移せなかったようだ。この一連のいきさつは世間識らずの青年作家が商売人に翻弄されたということであろう。このような事実を背景に読むと、「孤独な男の日記からの断章」はまことに興味ぶかい作品となる。

 この作品は肺病のため早逝した「オベロン」という才能のある物語作家の日記を友人「わたし」が編集するという体裁になっている。「オベロン」は文学創作に関して風変りな見解をもっている。かれは文学を青年期にこそ相応しい行為と見なし、「髭をはやした大人が少女の涙に高遠な野心を燃やして恋物語をつづったり、筋骨たくましいその腕で薔薇のエッセンスを搾りだそうとしたりすれば、空想的な若者には寛大な世間の人びとも蔑むことだろう」と考え、じぶんの文学活動にも25歳という上限を設け、その年齢をすぎたら早く死にたいと願っている。若いころから「オベロン」は人生の快楽だけを味わい、その苦悩からは解放されていたいという願望をもっていて、正業につかず創作に打ちこんでいるじぶんの本質を「この世のせっかちな怠け者」と考えているが、その一方で創作活動のため平凡な人間の喜びから疎外されていることを残念におもい、またふつうの生活者のように社会的役割を果たしていないことに後めたさを感じている。かれの風変わりな文学観には、文学活動にたいするこうした両価感情[アンビバレンス]が影をおとしているように描かれているのである。つまり、老醜を晒さずに若い肉体のまま死にたいという願望や文学活動は25歳までという覚悟は、肺結核で若死を強いられた青年が絶望のあまり病死するまえに自らの生を自らの手で中絶してしまおうとする病者の倒錯心理を暗喩しているが、それと同時に、社会の無用者であるという後めたさを若死という犠牲によってつり合わせようとする代償欲動の暗喩とも解釈できるように描かれている。かれが見るつぎの印象的な夢はその両価性[アンビバレンス]をよく示している。あるうららかな午後、「オベロン」がにぎやかな大通りに出てゆくと、人びとは急に妙な表情を浮べてかれを見る。顔見知りの娘たちも古い友人も「まるでペスト患者から飛びのく」ようにかれから離れてゆく。先へ進めなくなって店の奥の鏡を見ると、屍衣をまとったじぶんの姿が映っており、「じぶん自身にたいする恐怖と嫌悪のいり混じった気持」を覚えながら眼がさめる、といった内容の夢だが、この夢のおぞましさは、死人が歩くというゴシック小説的な恐怖と、知人や友人からさえ異類のごとく白眼視され嫌悪されることへの心理的恐怖が綯交ぜられている点で、その淵源として「オベロン」の無用者意識を考えざるをえないのだ。「オベロン」にとって救いがないのは、世人の嫌悪や白眼視に自ら同意せざるをえないことで、夢から覚めたときのかれの自己嫌悪がそれを物語っている。

 ホーソンは25歳で創作の筆を折りはしなかったし、肺病で早逝したわけでもなかった。したがって「オベロン」をホーソンのありのままの自画像ととることはできないが、オベロンという名前は大学時代のかれの筆名であり、「オベロン」のなかにホーソン自身の思想と感情がなにほどか投影されていると考えることは可能である。そして「孤独な歳月」の生活状況からみて、生活者から疎外された文学者という観念と、そこから生まれる無用者意識がホーソン自身のものであった可能性はたかい。もちろん「オベロン」の夢が暗示しているような、対人意識の〈異常〉性がそのまま当時のホーソンの心理状態であったと即断することはできないが、おなじく「オベロン」という名前の青年作家を主人公とする「原稿の中の悪魔」の基調にも同質の〈異常〉性が流れていることを考えると、そうした〈異常〉性を与えることで初めて表現しうるような根深い鬱屈が当時のホーソンの心中に蟠っていたと推測することは許されるだろう。ヘンリー・ジェイムズは前記のホーソン伝のなかで、当時のアメリカ社会が実業につかない青年に限られた地位しか与えなかったと述べている。ホーソンの無用者意識には、そうした一般的な社会の雰囲気が影響していることはたしかだろう。だがホーソンの無用者意識の表現の激越さは、そのような一般的社会環境をこえたもっと具体的な要因、社会といった抽象的観念ではなく、家族や近親者といった濃密な人間関係にねざす重苦しい感情を私たちに想像させる。三十面をさげて自立できないホーソンが、母親やマニング家の人びとから有形無形の心理的圧迫をうけ、暮夜「じぶん自身にたいする恐怖と嫌悪のいり混った気持」で輾転反側することがなかったとはおもえない。つぎに掲げる一節では、ホーソンは自己と「少年時代から共に生い育った人々」との関係をシースルーほどの虚構の薄衣を着せただけで曝けだしているようにみえる。


 わたしの眼のまえにあるほとんど判読不能な書き物から、これ以上狂気じみた他の章句を抜粋して公刊したりすれば、わたしは友人の思い出を不当に歪めることになろう。それらの書き物から推察するのだが---というのはわたしはかれからそういう事柄について話を聞かされた記憶がないからだが---かってかれはナイアガラへ主として徒歩で旅行したことがあったようである。生れ故郷の村の、かれが一緒に暮していた友人たちのある行為をかれは迫害だと受けとめたのである。その友人たちというのはオベロンが12歳のとき死んだかれの両親からかれのことを托されていた人びとだった。オベロンはその人々から変わることなく親切にもてなされていたし、かれ自身の長所のためというよりかれの境遇への同情から村人の人気者でもあったのだが、かれの気性はまことに片意地だったので、ちょっとしたことに腹を立て、こんな厭わしいところに帰るぐらいなら死んだほうがましだと公言して、かれを庇護してくれていた家庭を逃げだしたのだ。出奔してほぼ四ケ月後かれは重病にかかった。病気のあいだかれは見知らぬ人びとのこの上もなく親切な表情や声音に心が波立つのを感じていた。かれはまえより善良な人間になって病床をはなれ、故郷の町に帰ってすぐにじぶんの罪を償わねばならぬと決意した。故郷に帰ったかれはついに死ぬまで、淋しく悲しく、だが友人たちから許され愛されて暮した。


 だれもが「オベロン」の生い立ちとホーソンのそれとの酷似に気づくだろうし、「友人たちの迫害」と「例の〈予言者〉云々にまつわる事実」が谺しあうのを感得するだろう。「オベロン」が出奔していた5、6ケ月(推定)という期間もホーソンがボストンで編集に従事していた期間と一致するし、 「オベロン」の出掛けるナイアガラはホーソンの曽遊の地である。さらに「オベロン」が反抗を中止して帰郷したことと、編集業が不首尾におわってホーソンがセイラムに帰ったことも軌を一にしている。この作品の一部が別の作品の一部として1835年に雑誌に発表されたのは事実で、この作品の執筆時期を1834年とみる意見もあるが、いま述べたような数多い符合から判断して、ホーソンが1837年に現在の形で発表する直前に、過去一年余りの体験をもとに旧稿に手を加え、「わたし」という語り手の部分を書き加えた可能性は大きい。かりにこの作品の全体が1834年ごろ書かれていたとすれば、ホーソンは数年後の自己の姿を驚くほど正確に予見していたことになる。いずれにせよ、この作品のなかにホーソンが抱いていた自己と近親者との関係(意識)の本質的部分が露呈していると考えることができる。

 ではその関係(意識)の核となっていたはずの情動群はこの作品中にどのように表出されているだろうか。それが直接的表現を与えられず、「オベロン」の夢や若死願望といった 暗喩の形で 表出されていることはすでに述べたが、この引用部ではそれがさらに興味ぶかい形で表現されている。表面的に解釈すると「オベロン」は病床で「友人たちのある行為を迫害と受けとめた」ことを後悔し、その罪滅ぼしのために帰郷することになっている。だが「オベロン」がほんとうに「より善良な人間」に変っていたとすれば、どうして帰郷後「淋しく悲しく」暮さねばならないのだろうか。ここには論理的に説明のつかない飛躍があり、そこを架橋するためには表明されていない理由を内挿する必要がある。思いつく理由はひとつしかない。「オベロン」に帰郷をうながしたのは贖罪の決意というより、病気で生活できなくなり、やむをえず帰郷を選択する他なかったのではないかということである。もしそうであるとすれば、帰郷は屈伏以外の何物でもなく、「オベロン」が帰郷後「淋しく悲しく」暮すのは当然ということになる。

 ホーソンは「わたし」にそうした形而下的理由を語らせなかった。ホーソンがその理由に気づいていなかったとは考えがたく、むしろ意識的にその理由をおし隠したと解するほうが妥当であろう。その理由を正面から扱うことは、生活無能者としての自己の姿を直視することをホーソンに強いることであり、ホーソンにとってそれは耐えがたい苦痛であったであろう。だが抑圧された意識がホーソンの統括の眼を盗んで自己を表出する。それが「淋しく悲しく」とその前の部分との飛躍の意味なのではないだろうか。ここで浮んでくるのは、抑圧されてはいるが表出の出口を求めてのたうっている根源的意識と、それをとり囲み、おし隠そうとしている言葉の群(作品)のイメージである。そのとき作品は根源的意識にとってどのような位置と意味をもっているのだろうか。作品は根源的意識を隠蔽するようにしか機能せず、私たちは作品から根源的意識を推知することができない。そのとき作品はもはや根源的意識の暗喩とはいいえず、雄弁な沈黙といったものに変質する。だが言わないことによってしか伝えられない意識というものはたしかに存在する。そしてホーソンの近親者にたいする情動群はそのような指示機能を喪失した暗喩という逆説的方法によってようやく表出しうる根源的意識であったと思われる。

                                                      (1979年初稿、2021年加筆)


参考文献

Nathaniel Hawthorne, The Centenary Edition of the Works of Nathaniel Haw-thorne 23 vols. (Columbus, OH: Ohio State UP, 1962-97)

Julian Hawthorne, Nathaniel Hawthorne and His Wife (New Haven, CT: Ar- chon Books, 1968)

Samuel T. Pickard, ed. Hawthorne’ First Diary (New York: Haskell House,  1972)

Arlin Turner, Nathaniel Hawthorne (New York: Oxford UP, 1980)

Randal Stewart, Nathaniel Hawthorne (North Haven, CT: Archon Books, 1970)

Robert Gale, A Nathaniel Hawthorne Encyclopedia. (New York: Greenwood  Press, 1991)

Henry James, Hawthorne (New York: Cornell UP, 1966)

レオ・ヒューバーマン『アメリカ人民の歴史』小林良行、雪山慶正訳、岩波新書、1954年


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