語り手は(5)


語り手は信用できるか 5 


第6章 森のなかのリンチ

フォレスト・カーターの場合(1)

                 

 岩田 強



 


 

 フォレスト・カーター(1925~1979)が作家として活動したのは晩年の10年足らずで、生前に出版されたのは以下の4冊の小説だけである。

The Rebel Outlaw: Josey Wales (1972)  未邦訳

The Vengeance Trail of Josey Wales (1976)未邦訳

The Education of Little Tree (1976)  邦訳『リトル・トリー』和田穹男訳、めるくまーる

Watch for Me on the Mountain (1978)  邦訳『ジェロニモ』和田穹男訳、めるくまーる


 文字通りマイナーな作家だったといえるが、チェロキー族の祖父母に育てられた少年時代の自伝として出版された第3作は作家の死後60万部を売り上げるベストセラーとなり、1991年に第1回「全米書店賞」を受賞した。

 ボクがフォレスト・カーターを知ったのは吉本隆明の『アフリカ的段階について』を通じてだった。この本の副題は「史観の拡張」となっていて、吉本はそこで、アフリカ、南北アメリカ、その他の未明の社会を旧世界として世界史の埒外に追いやってきたヘーゲルをはじめとする西欧近代の史観を批判し、「人類史の母型(母胎)概念」として「アフリカ的段階」という概念を設定し、そこから未来につながる「現代的な世界史の概念」を構築しなおそうとしている。


 あたかも十九世紀の西欧資本主義社会の興隆期に、ルソーやヘーゲルやマルクスによってかんがえられた、西欧近代社会を第一社会とし、これに接するアジア地域の社会を第二社会とし、アフリカ大陸や南北アメリカやその他の未明の社会を旧世界として世界史の外におく史観がアフリカ大陸の社会の興隆とともにさまざまな矛盾や対立を惹き起こし、それがヘーゲルやマルクスなどの十九世紀的な史観の矛盾に起因するとみなされるとすれば、「アフリカ的段階」という概念を、人類史の母型(母胎)概念として基礎におき、史観を拡張して現代的な世界史の概念を組みかえざるをえないかもしれない。

 『アフリカ的段階について』春秋社、1998年、pp.4-5


 吉本は「だんだん憂鬱になってくる」といいながら、ヘーゲルの『歴史哲学講義』を10ケ条、4ページにわたって辛抱づよく要約してくれていて、ヘーゲルについてなにも知らないボクはナルホド、ナルホドとおもいながら読んだ。吉本はこの要約にもとづいて、彼のかんがえる「アフリカ的」なるものの内容を、アジア的との対照表の形で以下のように示している。


アフリカ的(プレ・アジア的)   総体的専制

(1)土地、財産、奴隷(臣下)、生産物などの全所有がひとりの専制的な王に属する。

(2)これは裏からは王の全所有の崩壊がすべて他動的に起りうることを意昧する。いいかえれば王自身の意志なしに王は、奴隷(臣下)に殺されたり、収奪され権力を解体されたりすることがありうる。

(3)住民は全自然(動物、植物、無機物)の意識がじぶんの意識とよく区別されないため、倫理の意識をもたずに自然にまみれて生存している。いいかえると自然物はみな擬人としての神であるし、自己意識はどんな自然物にもあるし、また移入できるとみなされる。自然にたいしてヒトは魔術をかけることができる。


アジア的   アジア的専制

(1)専制君主共同体にたいして人民は物神を貢納したり、生産物の貢納や賦役、軍役の強制に従うことで土地を使用する代償とする。

(2)専制共同体は、食糧生産のための灌漑、河川の整備、軍事的保護都市の構築を請け負う。

(3)全自然(動物、植物、無機物)は習俗として宗教的な尊崇の対象となる。

『アフリカ的段階について』  p.24 


 この対照表は吉本のヘーゲル批判の基軸をよく示している。吉本は、ヘーゲルがアフリカ的世界について「原住民が人間としての豊かな感情や情念をもたず、宗教心も倫理もまったくしめさない動物状態の野蛮とみなし」、「野蛮や未開を残虐や残酷とむすびつけ、生命の重さや人間性を軽んじている状態にあると解釈している」と見ている。これにたいして、吉本はつぎのようにじぶんの立場をあきらかにする。

 

 ヘーゲルは野蛮や未開を残虐や残酷とむすびつけ、生命の重さや人間性を軽んじている状態だと解釈している。だが現在のわたしたちは西欧近代と深く異質な仕方で自然物や人間を滲みとおるように理解し、自然もまた言葉を発する生き生きとした存在として扱っている豊かな世界だおもっている。文明の世界が残虐で野蛮だとみなしているものは、独特な視点から万有を尊重している仕方だと解することもできる。

 『アフリカ的段階について』p.27


 フォレスト・カーターのえがくアメリカ先住民たちが「アフリカ的段階」にあったかどうかについては問題があるだろう。「アフリカ的段階」では「住民は・・・倫理の意識をもたずに自然にまみれて生活している」という吉本の言葉の真意はわからないが、J・コスターは「彼ら(アメリカ先住民)が小さいときからきびしく教えられたのは、他人のまえで感情をあらわにするな、決して貪欲であったり自分勝手であったりするな、ということだった。だからひとまえで感情をむきだしにする白人に、インディアンはなんどもびっくりさせられたのだった」(『この大地、わが大地』清水和久訳、三一書房)と述べている。これは倫理意識以外のなにものでもないだろう。だから、吉本のフォレスト・カーターにたいする関心は、「西欧近代と深く異質な仕方で自然物や人間を滲みとおるように理解し、自然もまた言葉を発する生き生きとした存在として扱っている」感性の痕跡をカーターの文章から探しだすことに力点があったと考えていいだろう。かれはカーターの二つの作品『リトル・トリー』と『ジェロニモ』から6か所、12ページにおよぶ引用をしているが、そのいずれもが「草木や自然の光とまみれて生活している」アメリカ先住民たちの心性を浮彫りにする箇所ばかりだからだ。二、三の例を孫引きしてみよう。

 まず採りあげるのは、リトル・トリーというインディアン名をもつ作者が、父親の戦死、母親の病没の後、チェロキー族の祖父母にテネシー州の山奥で育てられた少年時代の回想記『リトル・トリー』のなかで、祖母がじぶんの父(少年の曾祖父)について語る場面だ。


 「父さんはね、『茶色の鷹(ブラウン・ホーク)』って呼ばれていた。とっても理解の深い人だったよ。木の考えていることだってわかっちゃったの。わたしがまだちっちゃかったときの話だがね、父さんがなにか困ったようすだった。家の近くの山には白カシの木がたくさんあったんだけど、そのカシの木が興奮しておびえてるって、父さんは言う。しょっちゅう山に登ってカシの木の間を歩きまわってたわ。みんな背の高いまっすぐな、とてもきれいな木だったの。わがままな木は一本もなかった。ウルシや柿、ヒッコリーや栗が下に生えても、全然文句を言わない。それらの実を食べにいろんな生き物が集まってきたよ。わがままでなかったから、カシの木には大きな霊がやどってたんだ。とても強い精霊だった。でも、あるときから父さんは、カシの木のことが心配でたまらず、夜も見まわりに行くくらいだったわ。なにかまずいことがあるにちがいないって思ったのね。

 ある朝早く、山の上からお日様が顔をのぞかせたころ、父さん―茶色の鷹は、白カシの林にきこりが何人もはいっているのを見つけた。幹に印をつけたり、全部伐(き)り倒すにゃどうすりゃいいか調べたりしてるじゃないか。きこりがいなくなると、白カシは泣きだしたんだってさ。だから茶色の鷹は、もう夜も眠れやしない。それからは、きこりのようすをじっと見張ってたわ。きこりたちは、馬車の通れる道を山のてっぺんまでつくろうとしてたの。

 父さんがチェロキーのなかまたちに相談すると、みんなで白カシを守ろうってことになった。きこりたちが引きあげるのを見はからって、夜の間に総出でその道をあちこち掘り起こして、深いみぞだらけにしたんだ。女も子どもも手伝ったよ。

 (中略)

 とてもきつい闘いだったから、みんなへとへとだった。ある日、きこりたちが道をなおしていると、突然一本の大きな大きなカシの木が馬車の上に倒れてきたの。ラバ二頭が死んで、馬車はめちゃくちゃ。とてもりっぱで元気なカシの木だったから、倒れるはずはないのにね。

 きこりたちはとうとうあきらめた。春の雨の季節も始まってたしね。そうして二度ともどってこなかったんだよ。

 満月の夜、チェロキーたちは白カシの林でお祝いの祭をしたの。黄色いお月様の光の中で輪になって踊ったのさ。白カシも歌ったよ。歌いながら枝と枝を触れ合わせ、チェロキーの頭や肩にやさしくさわったんだ。なかまを助けようとして命を投げ捨てたあの白カシの木に、みんなでおとむらいの歌を歌ってあげたわ。わたしはあんまりわくわくしちゃってね、山の上の空へ舞い上がりそうな気がしたほどだったよ。」

『アフリカ的段階について』p.40-42

 

 未来を予知する意識をもち、なかまのために自己犠牲を辞さないカシの木や、そのカシの木の情念をヒト(茶色の鷹)が感じとることができ、なかまのチェロキー族たちもそれを共有できる。この箇所を読んで、ボクは宮澤賢治の童話や詩を連想した。ヒトと自然のすべてが交流し調和している世界は、賢治の理想郷(もしも正しいねがひに燃えて/じぶんとひとと万象といっしょに/至上福しにいたらうとする/それをある宗教情操とするならば -----「小岩井農場」)に通じるものがある。このカシの木の話を吉本はつぎのように解釈している。


 作品の中でリトル・トリーの祖母が語る父親の実像は、けっして論理的ではない。ヘーゲルの絶対的な近代主義の視方からは迷妄として封印されてしまう。だがほんとうは迷妄になりそうなすれすれのところで、内面の理路を与えている。樹木や生きものと言葉を交わし、情念を交換できているチェロキー族の生活感の深さを、深さとして評価できれば、アフリカ的段階の感性にはおおきな根拠が与えられ、近代主義の皮層な人間理解をくつがえすことができる。  

『アフリカ的段階について』p.45 

                                                

  つづいて、アメリカ先住民アパッチ族のシャーマン、ジェロニモをえがいた『ジェロニモ』から引照する。


 夜が退こうとして、しかもまだ夜明けとは言えない時刻こそ、闇が最も濃く深い。コヨーテも狼も吠えず、木々は凝ったように動かず、鳥も羽根をふくらませない。重い病人が死の扉の向こう側へ吸いこまれていくのもこの時刻だ。生と死、光りと闇は別なものではなく、めぐりめぐる輪をなしている。ふたたび生を蘇らせる曙光が死の夜を押しやるのにはまだ間があるこの時刻、人も動物も植物も闇の底に沈んでいる。四方から敵に追われているアパッチは、この時刻を選んで集まる。この時刻の霊的な意味を知っているからだ。霊的な意志など持ち合わせていない敵は、無明のうちに眠りこけている。

 (中略)

 ジェロニモはもう五十に手が届く年齢だった。いつも眠りはじめにつきまとう不安な夢は、ますます現実味を帯びてきつつある。その夢は「もう一つの時」へはいっていく感覚に似ている。                        

 今まで彼はそれを千回も夢見てきた。彼はけばけばしい装飾品に取り巻かれて馬車の上に立っている。護送馬車は大きな都会を走り抜けていく。道路沿いに立つ白人たちが金管楽器を大きく高く吹き鳴らす。

 だが、いつの間にか彼は光のない場所にいる。そして、形のないうごめく筋肉に取り囲まれてぬくぬくと居心地よく、静穏な気持ちにひたっている。その居心地のよさこそ生命そのものだ。だから、彼はそこから離れたくない。そこを去ることは死ぬことだ。それなのに彼は押し出されるようにとうとうこちら側に生まれてしまった。彼はじぶんを見ている目に気がつく。その目の中に宿っている魂は、ついさっきまで彼が安らいでいたもう一つの場所でもなじみのものだった。その女の人が彼のために子守唄をうたい、奇妙な言葉で話しかけてくるので、彼はこちら側の世界ではその魂は母親というものなのだと知る。そばに男の人がいるが、同じことを彼は知る。もう一つの世界ではただ魂として出会っていたものが、こちらの世界では父親として現れるのだ、と。

 『アフリカ的段階について』pp.48-50               


 ジェロニモが入眠時にみるこの夢について吉本は次のように解釈する。


 これは一人の作家がえがいた主人公の眠りや夢の世界と、この主人公の心のひだとのかかわりを描写したものだが、インディアンの主人公の生の体験や伝統的な生と死の観念や種族の近親たちの守勢の思考法を、すべて積み重ねた生と死の感じ方をあらわしている。いわばアフリカ的段階にあるインディアンの心情を、わたしたちの推量し難い深層まで掘り下げている。これは未開的な心性としてやりすごすことはできても、この心情に含まれている生と死の深さは無視することができない。人(ヒト)の精神の母型をなしているからだ。これは一個の作家にゆだねられた母型の意味の掘り下げにあたっている。ヘーゲルが歴史観のうちに無として通り過ぎたものの、内側の描写になっている。

 わたしたちは現在、こういう眠りやこういう夢を失ってしまった。眠りははっきりと眠りであり夢ははっきりと夢として分離されている。しかしここでは、生、眠り、夢、死は、まだ連続した感覚体験としてとらえられている。妄想に類した感覚といえばいえそうにおもえるが、かつて人(ヒト)はこの感覚の連続性のうちにあったことを想起させる想像力の強さを語っている。

『アフリカ的段階について』 p.51


 ここで吉本がいわんとしていることは、アフリカ的段階の心性では夢と現実、生と死、個人と類(部族)が未分化で、それらが連続したものとして受感されているということだろう。白カシの自己犠牲を部族全体が受け容れることの土台には、このような未分化で連続した感覚体験の共有があるということだ。そして吉本は、フォレスト・カーターがそうした連続した感覚体験をじぶんの精神の母型(母胎)として受けいれ、それを掘り下げることでじぶんの内的世界、ひいては部族全体の内的世界の理路をありありと実感的に示現できるようになった、と考えているようだ。 

 ところで、フォレスト・カーターからの吉本の引用には、もう一つ別の動機につながるものがある。それは吉本の少年時代の体験に由来する「秘密の場所」にまつわるものだ。


 チェロキーの人たちは、みんな自分だけの秘密の場所を持っている、と祖母は言う。祖母自身やはり持っているし、けっして聞いたことはないけれど、祖父もどうやら山のてっぺんあたりに持っているらしい、とも言った。だれにとってもそういう場所は必要なのよ。その話を聞いて、ぼくは自分も秘密の場所を持っていることを誇らしく思った。

  祖母は話しつづけた。

 「だれでも二つの心を持ってるんだよ。ひとつの心はね、からだの心(ボディー・マインド)、つまりからだがちゃんと生きつづけるようにって、働く心なの。からだを守るためには、家とか食べものとか、いろいろ手に入れなくちゃならないだろう? おとなになったら、お婿さん、お嫁さんを見つけて、子どもをつくらなくちゃならないよね。そういうときに、からだを生かすための心を使わなくちゃならないの。でもね、人間はもうひとつ心を持ってるんだ。からだを守ろうとする心とは全然別のものなの。それは、霊の心(スピリット・マインド)なの。いいかい、リトル・トリー、もしもからだを守る心を悪いほうに使って、欲深になったり、ずるいことを考えたり、人を傷つけたり、相手を利用してもうけようとしたりしたら、霊の心(スピリット・マインド)はどんどん縮んでいって、ヒッコリーの実よりも小さくなってしまうんだよ。

 からだが死ぬときにはね、からだの心(ボディー・マインド)もいっしょに死んでしまう。でもね、霊の心(スピリット・マインド)だけは生きつづけるの。そして人間は一度死んでも、またかならず生まれ変わるんだ。ところが生きている間、ヒッコリーの実みたいにちっぽけな霊の心(スピリット・マインド)しか持ってなかったらどうなると思う? 生まれ変わっても、やっぱりヒッコリーの実の大きさの霊の心(スピリット・マインド)しか持てない。」

『アフリカ的段階について』 pp.35-37


 吉本はこのチェロキーたちの「秘密の場所」をじぶんの少年時代の体験にひきつけて印象的な解釈を施している。


 いまの少年はともかくも、わたしたちも少年時代のある時期まで(小学校四、五年まで)、「秘密の場所」をもっていた。ベエゴマを匿しておいたり、茶筒に小物を入れて埋めておいたり、そこが河の小魚のくる場所で、網をもってゆくとかならず魚が(俗名朝鮮フナのような)しゃくれたりする場所だった。いわば、じぶんがじぶんの心と対話できる自然な遊びの場所とでもいおうか 。

『アフリカ的段階について』 p.35


 子どものときに覚えがあるが、ここで「秘密の場所」というのは、じぶんにとっていちばん交流しやすい物の配置や形や環境をもった特定の場所で、じぶんの生まれつきがいちばん安堵して内密になれる場所ということだ。この場所が「秘密」でなくては面白くないとおもえるのは、リトル・トリーの祖母がいう「霊の心」とかかわっている。それは無意識がふくらむ場所なのだ。この祖母がいう「からだの心」と「霊の心」というのは、わたしたちのいう意識できる心の動きと、無意識であるために身体とかかわりのない「霊」のようにおもえる心の動きとに似ている。実感的にいえば子どものころわたしたちなりに、仲間どうしの雰囲気でつくりあげた「秘密の場所」は、文学が子どものなかで、発生する場所だった。これはさまざまな偶然で喪われることもあれば、それなりに細々と維持されて、心の内部に移されていくこともあった。わたしたちが文学をもつことは、この「秘密の場所」を心の内部で何遍も移動させながら、持続することに似ている。もちろん文学に表現されなくても、誰もが生活のなかで秘し持っている場所に相違ない。

『アフリカ的段階について』 pp.39-40


  これらの引用箇所を校合すると、吉本のフォレスト・カーター理解の基軸が理解されるようにおもえる。〈この作家は全自然(動物、植物、無機物)の意識がじぶんの意識とよく区別されないアフリカ的段階の心性を強固にもっている。この心性にとっては、どんな自然物も意識をもっているし、ヒトは自然物に移入し影響することができる。この心性は作家個人のものであると同時に、かれのなかに積み重ねられた部族全体の伝統的な心性でもある。おそらく作家はこの心性を部族の習俗である「秘密の場所」をもつことを通して身につけた。「秘密の場所」は無意識がふくらむ場所で、意識がとどかない深いところに潜んでいるもの(部族の共同幻想)を吸収する場所だからだ 。実体験的には「秘密の場所」は文学をはぐくむ場所だった。おそらくフォレスト・カーターもなにかの契機があって、かれ自身の「秘密の場所」をどこかの川辺や森蔭からじぶんの心の内部に移し、それを細々と維持することで作家になっていったのではないか〉 これがおそらく吉本のフォレスト・カーター理解の核であろう。吉本の理解にはじゅうぶんな説得力があるようにボクには感じられる。

 だが吉本の理解はフォレスト・カーターの作品の全体を覆っているわけではない。それは、すでに述べたように、吉本の関心がアフリカ的段階の心性の証左をカーターの文章のなかに探ることに眼目をおいているためで、そのためほかの側面が素通りされることになったのであろう。それらの側面のなかでもっとも重要なのは歴史の側面である。ボクの考えでは、カーターは『リトル・トリー』ではチェロキー族の、『ジェロニモ』ではアパッチ族の、それぞれの苦難の歴史をできるかぎり正確に描出することを意図しているようにおもえる。

 よく知られているように、アンドルー・ジャクソン大統領の「インディアン移住法」(1830)はいわゆる「文明五部族」(チェロキー族、チョクトー族、チカソー族、クリーク族、セミノール族)を直撃した。かれらが居住していたアパラチア山脈南部の豊かな森林と肥沃な谷間さらに最近発見された金鉱が白人入植者たちの垂涎の的だったからだ。「移住法」はこれらの部族に先祖伝来の土地をはなれ、ミシシッピー川以西の土地(現在のオクラホマ州)に移住することを強制した。もちろんこの法律の違法性は当時すでに多くの人々に認識されていて、連邦最高裁判所も違憲判決を出したが、ジャクソンは大統領権限を盾に法律の施行を強行した。「民衆派」大統領ジャクソンの背後には白人大衆のインディアン憎悪があったということだろう。


 インディアン問題に関する私の確信はもはや揺るがない。インディアン部族が我々の定住地に囲まれ、我々の市民と接触し共存するのは不可能だ。彼らは知性も勤勉さも道義的習慣もない。彼らには我々が望む方向へ変わろうという向上心がない。我々優秀な市民に囲まれながら、なぜ自分たちが劣っているかを知ろうとも弁えようともしない彼らが環境の力によってやがて消滅するのは自然の摂理である。これまでのインディアンの運命と同じく、インディアンの消滅という事態が避けられない場合、彼らは我々白人の領土の外に出て行くことが必要である。その場合、我々の求める新しい関係にそった政治体制を彼らが受け入れる場合のみ、これは可能となる。 

アンドルー・ジャクソン大統領1833年一般教書演説 


 いうまでもなく五部族はこぞって強制移住に反対したが、それぞれの部族国(nation)の指導部の性格や合衆国政府との力関係によって、つぎつぎに移住に追いこまれていった。1830年まずチョクトー族が移住に合意し、つづいて1832年にチカソー族、クリーク族、セミノール族も合意、最後にのこったチェロキー族も、1835年、移住に反対するチェロキー国大統領の不在中に、移住に賛成する反大統領派が合意文書に調印してしまう。その結果、1838年の9月から11月にかけて、13,000人のチェロキーが1,000人ずつ13のグループに分かれて、はるか西のオクラホマまで1900キロを徒歩で移動させられることになった。移動の業務は白人業者に一括委託された。経費を切り詰めれば、業者はそれだけ儲かるし、死者が増えれば増えただけ儲けが増す仕組みだ。業者は移動に要する日数を80日、1名あたりの移動費用を66ドルと切り詰め、チェロキー1人に毛布1枚しか支給しなかった。食料は途中で調達する予定だった。結果は惨憺たるもので、全員の3分の1、約4,000人が死亡した。

 カーターは、「涙の道」として部族のうちで 語り継がれてきたこの死の行進を、祖父母が孫に話して聞かせる1章「過去を知ること」を『リトル・トリー』にもうけている。


 兵隊が広い谷間を銃でぐるりと囲んだ。チェロキーはその輪の中に放りこまれた。山や谷から狩り出されたチェロキーは、牛や豚同然にひとまとめに囲いの中に閉じこめられた。

 何日も何日もかかってチェロキーを狩り集めると、連邦政府は、ラバに幌馬車を引かせてきた。日の沈む土地まで乗っていってよいと言う。チェロキーの人たちはもはやすべてを奪いつくされていた。だが、なにかを保ちつづけていた。それは見ることも、着ることも、食べることもできないなにかだ。そして、だれひとり幌馬車に乗ろうとはしなかった。歩くことを選んだのだ。

 白人の村にはいると、行列の通るのを見ようと、人々は道路沿いにむらがった。空っぽの幌馬車を従えて徒歩で行進するチェロキーを見て、彼らは笑った。笑い声を聞いても、チェロキーはふり向かなかった。すぐに笑い声はやんだ。

 ふるさとの山がはるか後ろに遠のくにつれて、ひとりまたひとりと死者が出始めた。魂は死にも弱りもしないが、飢えと寒さに幼い子ども、老人、病人がつぎつぎに倒れていった。

 初めのうち、死者が出るたびに兵士が号令をかけて行進を止め、死体を道端に埋めさせた。だが日を追って死者はふえ、何百人、何千人という数にのぼった。行進中、命を失った人の数は全体の三分の一を超えた。死者の埋葬は三日おきと決められた。兵士たちは、先を急ぎ、できるだけ早くチェロキーと手を切りたかったのである。死体は幌馬車に乗せよ、という命令が伝えられたが、チェロキーは拒んだ。

 小さな男の子は死んだ妹を背負って運んだ。夜になると地面に妹を横たえ、そのわきで眠った。朝が来ると、冷たい妹を持ち上げてまた背に負った。

 夫は死んだ妻を、息子は死んだ母を、あるいは父を運んだ。母親は死んだ赤ん坊を運んだ。みんな、いとしい者の死体を両腕に抱き、歩きつづけた。兵士たちのほうを見る者、沿道にむらがる白人たちに目をやる者はひとりもいなかった。行列をみて、中には泣きだす人もあった。だが、チェロキーは泣かなかった。魂をのぞかれたくないから、人前では泣かない。幌馬車に乗ることを拒否したように、チェロキーは、泣く姿を人目にさらすことも拒否したのである。

 この行進は「涙の旅路」を呼ばれている。チェロキーが涙を流して泣いたわけではない。この言葉にはロマンチックな響きがあり、行進を道端でながめた人たちの悲しみを語るにはふさわしいかもしれない。だが、死の行進のどこにロマンチックなものがあるだろうか?

 よろめき歩く母親の腕の中で、二度と閉じることのない瞼(まぶた)をグラグラ揺れる空に向かった見開いているこわばった赤ん坊。それを詩にうたうことができるだろうか? 妻の死体を抱き寄せて地べたに眠り、朝になればふたたびやせ腕にかかえて歩かなければならない男。その男は長男に末の子の死体を運ばせてもいるのだ。住み慣れた山を二度と見ることもかなわず、語ることも泣くことも、思い出すことさえ自分に禁じた人たち ----- それを美しい歌として歌うことができるだろうか? 

 『リトル・トリー 』和田穹男訳 pp.55-56 一部改変


 この無惨な描写が誇張ではなく事実の直叙であることは、つぎの証言を読めば納得されるだろう。その証言は『アメリカの民主政治』の作者アレクシ・ド・トクヴィルのものだ。アメリカを見聞旅行中だった20歳代のトクヴィルは、チョクトー族が真冬にミシシッピー川をわたる光景を目撃した。部族が異なり季節もすこし違うけれども、そこに描かれていることの本質-----死者、負傷者、瀕死の病人、幼児を抱えながら馬車に乗ることを拒否し、泣き言も苦情もいわず黙々と歩きつづける ----- は、そのままチェロキー族のものでもあった。先住民と白人入植者の関係に関する、トクヴィルの透徹した洞察は、26歳という年齢をかんがえると、瞠目に値しよう。


 一八三一年末にわたくしはミシシッピ河の左岸でヨーロッパ人によってメンフィスとよばれている場所にいた。わたくしが此処にいた間に、チョクトウ族(ルイジアナ州のフランス人は 彼等をシャクタ族とよんでいる)の多数の人々の群れがそこにやってきた。これらの未開人たちはその郷国を去って、アメリカ政府が彼等に約束した避難所をみつけるつもりでミシシッピ河の右岸を過ぎてゆこうとしていた。時は冬のさなかであった。そしてこの年の寒さは前古未曾有にきびしいものであった。雪は地上でかたく凍結していたし、河には幾つもの大きな氷塊が漂流していた。

 インディアンたちは家族をつれていた。また彼等は自分たちのあとには負傷者、病人、生れたばかりの幼児や死にかかっている老人たちをひきつれていた。彼等はテントも四輪馬車ももってはいなかったが、ただ幾らかの食料と武器とを携えていた。彼等が大河を渡ろうとして船にのるのをわたくしはみたが、その悲壮な光景はわたくしにはとても忘れられないであろう。この集団ではすすり泣きも苦情も全くきかれなかった。彼等は沈黙したままであった。彼等の不幸は古くからのものであったし、そして彼等はこれを矯正することのできないものと感じていた。インディアンたちは、彼等を運ぶべき船にすでに全部のりこんでいた。彼等の犬は、川辺にまだ残っていた。これらの動物が遂に永久に離れ去ろうとしていたその主人たちをみたとき、一斉に腹の底からおしだすような恐しい吠声をあげて同時にミシシッピ河の氷のような水の中にとびこみ、泳ぎながら、主人たちのあとを追ったのである。

 インディアンたちの所有権剥奪は今日ではしばしば規則正しく、そしていわば合法的に行われている。ヨーロッパの民衆が未開国民によって占有されている荒野に近より始めたとき、連邦政府は一般にこの未開国民に公式の大使を派遣した。白人たちは大平野にインディアンたちを集めて、彼等と飲食をともにしたあとで、次のようにいった。「諸君は諸君の祖先たちの国で一体何をしているのか。まもなく諸君はそこで生活するためには、祖先たちの骨までも掘出さねばならなくなろう。諸君が今住んでいる国が他の国よりもどうして値うちが高いのだろう。諸君のいる所に森や沼沢や草原があるかね? 諸君の今いる太陽の下だけで諸君は生活できるかね? 諸君が地平線のところにみているあの山々の彼方に、西の方で諸君の領土を縁どっているあの湖水の向う側に、野生の動物がまだ豊富にいる広大な国々がひろがっている。これらの土地で幸福にくらすためにゆき給え」。白人たちはこの話をしたあとでインディアンたちに銃や毛織の服や火酒の樽やガラス玉の首飾や錫の腕環や耳飾や鏡などをみせびらかすのである。これらのすべての宝物をみて、まだ彼等がとまどっているとすると、彼等に要求されている承諾を彼等が拒絶できないようなこと、そしてまもなく現政府が彼等の権利の享有を保証できなくなるようなことを白人たちは彼等にほのめかすのである。どうしたらよいか? インディアンたちは半信半疑で自分の国を立去ってゆく。彼等は白人たちが十年間も平和にはしておかない新しい荒野に住みにゆく。このようなやり方でアメリ力人たちは、ヨーロッパのどんなに富裕な主権者たちでさえ、とても買うことができそうもない広大な諸地域を全部僅かな価格で獲得したのである。

 わたくしは幾つかの重大な災厄のことを話したのであるが、それらの災厄は矯正できないようにわたくしには思われる。北米のインディアン種族は滅亡の運命にあるとわたくしは信じている。そしてヨーロッパ人たちが太平洋岸に住みつく頃には、この種族は存在しなくなっていることだろうとわたくしは考えないではいられない。 

 アレクシ・ド・トクヴィル『アメリカの民主政治』井伊玄太郎訳、講談社文庫、下巻 pp.307-309 


 このトクヴィルの文章と「過去を知ること」を読みくらべれば、たとえ子ども向けの本であっても、正確な歴史事実にもとづいて「涙の道」の実態を描出することがカーターの意図であったことが見えてくるだろう。

 同じことが『ジェロニモ』の大量虐殺(ジェノサイド)の場面の扱い方にもいえる。ジェロニモは最後まで合衆国軍と戦った勇猛残虐なアパッチ戦士というのが一般的な見方だろうが、そのインディアン名「あくびをする者」ゴアスレイ(またはゴクレア)が暗示しているように、元来はのんびりとした妻子想いの人間だったといわれている。そういうおだやかな人間を一変させたのは、メキシコ軍による部族の婦女子の大量虐殺(ジェノサイド)で、かれの妻アロペと二人の子どもターラとレタもそのとき殺された。この虐殺はメキシコ領内のカスキーエという町の近くでおきたが、その町とアパッチとの間には和平協定ができたばかりで、襲撃がおきたとき、アパッチの男たちはまったく警戒することなく物々交換のために町に出かけて留守だった。


 アロペは得体のしれぬ不安にとまどいながら、ターラとレタが水遊びをしている小川の方へ歩いていこうとした。立ち止まって、ふたたびあたりを見回した。突然、かれらの姿が目にはいった。谷の土手の上に横一列に長く並んでいる。兵隊だ。手に抜身のサーベルを握っている。鋭い鉄の穂先をつけた長い槍を持っている者もいる。みんなひげ面で、これから遊びでも始めるかのようににやにやしている。兵士の列は、アロペの下手にいる女たちのさらに向こうまで伸びている。谷間のざわめきがゆっくりと静まっていき、話し声もとだえた。たが、幼い子どもたちのいくたりかは、まだ無心に笑ったり叫んだりしている。

 あまりの静けさにノポソ老人は目が醒め、はっと飛び起きた。一人の兵士が跳躍し、のしかかるようにして老人の腹部に槍を突き通した。老人はからだを二つに折り、地面に崩れた。谷間の女たちは口々に悲鳴を上げた。兵士の列から吠えるような大声が聞こえ、それを合図に男たちはいっせいに土手を駆け下り、泣き叫ぶ女や子どもたちのあいだに突っこんでくる。

 アロペは川目がけて走った。兵士が追ってきて、彼女を一撃で殴り倒した。男は彼女にまたがり、服を引き裂こうとする。アロペは身をよじり、足を蹴り上げ、手を振り回して殴りつけた。彼女の抵抗の激しさに男はひるんだ。腰を跳ね上げ、男を払いのけると、彼女は四つん這いになって這い進み、もうもうたるほこりの向こうに子どもたちの姿を探した。兵士は唸り声を発して彼女に追いすがり、くるぶしをつかんで引きずり寄せる、服をむしリ取りアロペを裸にすると、組みついたまま横転して彼女を自分の上に乗せ、下から顔を思いきり殴りつけた。その一撃が狂乱状態にあった彼女の力を奪った。土ぼこりを透かして子どもたちを探す。もうわが身を守ろうとはせず、頭を地面に擦りつけながらきょろきょろ目だけを動かした。

 彼女のすぐ向こうで、兵士がどなりながら女を地面に押し倒し、背中に馬乗りになっている。その横では若い娘が裸にされて突き倒された。娘が目を大きく見開き、けいれんしたように頭を激しく振ると、長い髪が地面を掃いた。子どもみたいな足をめちゃくちゃに蹴り上げるが、大男がその足のあいだに割ってはいり、彼女の上にのしかかった。大混乱の中を女も子どもも右へ左へ逃げまどう。兵士がわめきながらそれを追う。

 アロペは義母(ジェロニモの母親―論者注)が赤ん坊を抱いてかたわらを逃げていくのを見た。と、一本の腕が伸びて老婆の長い髪をつかみざま、もう一本の腕が彼女の背なかをサーベルで横に払った。老婆のからだはうしろ向きにぐにゃりと折れ曲がった。胴がほとんど真っ二つに切断されていた。赤ん坊は地面に放り出され、火がついたように泣きだす。アロペは、二、三フィート先に転がった赤ん坊に手を伸ばそうとしたが、兵士に押さえつけられた腕をほどくことができない。

 ホコリの向こうからターラが走ってくるのが見えた。ぽってりした足がせわしなく上下して土を蹴る。そのうしろから、レタがつまずいては起き上がりつつ必死についてくる。レタは小さなこぶしで目をこすり、泣きながら走っていた。ターラはすぐそこまで来ている。泣いてはいない。その小さな丸い顔には強い意志がみなぎっている。ゴヤスレイそっくりだとアロペは狂おしく思った。兵士がターラに近づくのが見えた。

 「逃げて、ターラ、逃げて」 兵士が半円を描くようにサーベルを振り降ろした。ターラの頭がころりと転がり落ちた。首から血が噴き上がる。頭を失ったぽってりしたからだが母親の方へ一足歩み寄った。太った腕を振ってもう一足踏み出す。それから母親の目の前にばったり倒れた。

 アロペは、のしかかって自分を犯している兵士をまったく感じていなかった。乳房や顔を嚙まれても痛みを感じなかった。ほこりがレタを包み、見えなくなってしまった。だが、アロペには娘の泣き声を聞き分けることができる。押さえつけられた腕を必死にほどき、地面に転がって泣いている赤ん坊の方にまっすぐに手を伸ばした。一人の兵士が体をかがめ、赤ん坊をつまみ上げた。兵士は、やさしくあやすようなしぐさでそれを抱く。赤ん坊は泣き声を弱め、ボタンのような目をびっくりしたように見開いた。またひとしきりしゃくりあげると、小さな太ったからだが震えた。アロペはそのすべてを見守っていた。

 その兵士が何か叫ぶと歓声が湧き起こった。赤ん坊が空中高く放り上げられた。別の兵士が槍を上に向ける。アロペの目に、とがった長い穂先が日の光をはじくのが見えた。槍の穂先の下には赤い布切れが結びつけられ、風にはためいている。アロペの目が霞んでしまった。赤ん坊は肥えた腕を振りながら落ちてくる。目を見開き、口を大きく開けている。槍先が蛇の鎌首のように上を向き、落ちてくる赤ん坊を迎えた。腹部を串刺しにした槍の穂先は、血に濡れて背なかから突き出た。赤ん坊の顔は驚愕に凍りついている。

 アロペは意識を失った。槍の上でもがいている赤ん坊も目に映らず、サーベルで腹を横なぎにされたレタが、はみ出た腸を岩角に引っかけたまま地面でのたうっている姿ももう見えてはいない。二人目の兵士が上に乗ってきてナイフで乳房を切り取り、卑猥な言葉をわめきながら彼女の口の中に押しこむのにも無感覚だった。槍に貫かれた赤ん坊が動かなくなったとき、彼女も息絶えた。

『ジェロニモ』和田穹男訳、めるくまーる  pp.120-123


 強姦、串刺しにされる胴体、斬られて飛ぶ頭、噴きあがる血、首を斬られても歩みをとめない胴体など、正視にたえない凄惨な場面の連続で、テキストを書き写していくのが耐えがたいほどだが、ここから読みとるべきものは作者のサディスティックなまでに凝視する想像力ばかりではない。いわゆる「平原インディアン」の壊滅の記録、ディー・ブラウンの『わが魂を聖地に埋めよ』(鈴木主税訳、草思社 原題 Bury My Heart at Wounded Knee)を読めば、これが誇張ではなく、アメリカ先住民をくりかえし襲った史実であったことが分かるだろう。その一例を示そう。メキシコ兵と合衆国兵の違いはあるが、先住民のうけた被害の本質はかわらない。

 1864年、シャイアン族とアラパホ族の男たちは2ヶ月前に合衆国政府とかわした和平協定を信じてバッファロー狩りに出かけ、サンド・クリークの集落に残っていたのは少数の男たちと女子どもだけだったが、その無抵抗の集団にシヴィントン大佐の率いる675名の第3コロラド騎馬隊が襲いかかり500名以上の先住民を殺戮した。殺された者の大半は老人、女、子どもだった。この虐殺には軍内部からも批判の声があがり、議会の調査委員会でシヴィントン大佐直属の2名の部下(コナー中尉とクレイマー中尉)とが大佐を非難する証言をおこなった。以下の引照はこの事件をあつかった『わが魂を聖地に埋めよ』からの孫引きである。引用中に出てくるロバート・ベントは白人とシャイアン族の混血児を父親にもち、ふだんはシャイアン族の集落で暮らしていたが、このとき白人の砦に戻ってきていて、シャイアン族の集落への道案内を強いられた人物である。


 意に反してシヴィングトン大佐とともに馬を走らせてきたロバート・ベントは、野営地のありさまを目にした時のもようを語っている。「私はひるがえるアメリカの旗を見、ブラック・ケトル(シャイアン族の和平派の首長(チーフ)のひとり。星条旗を掲げる相手には発砲しないという和平協定での合意を信じていた―論者注)がインディアンたちに旗のまわりに集まれと叫んでいるのを聞いた。そして、そこには男や女や子どもがむらがっていた。その時、われわれはそのインディアンたちからものの50ヤードと離れていないところにいた。さらに白旗があがるのも見えた。それらの旗は非常に目につきやすい場所にかかげられていたので、誰の目にもかならず見えたにちがいなかった。軍隊が発砲した時、インディアンは逃げ、男たちの中には小屋にとびこむ者もいた。おそらく武器を取ってこようとしたのだろう・・・全部で六百人ほどのインディアンがいたが、そのうち戦士は三十五人で、ほかにおよそ六十人ばかりの老人がいたと思う・・・ほかの男はキャンプを離れ、狩りに出かけていたのだ・・・軍隊が発砲しはじめると、戦士は女と子どもを集め、その周囲に立って彼らを守ろうとした。五人の女が川岸の陰に避難しているのが見えた。軍隊がそこに近づくと、彼女らは出てきて自分たちの正体をはっきりと示し、兵隊に自分たちが女であることをわからせて、慈悲を求めたが、兵隊はその全員を撃ち殺した。女が一人砲弾で足に傷を負って岸に横たわっているのが見えた。すると一人の兵隊が抜身のサーベルを手にして近寄り、女が腕で身をかばおうとするところに切りつけ、その腕を切り落とした。女が倒れ、もう一方の腕を上げると、その兵隊はまたサーベルをふるってそれも切り落とすと、とどめを刺さずに立ち去った。男も女も子どもも、まったく見さかいなしに殺されているようだった。三、四十人の女が一つの穴に集まって難を避けようとしていた。彼女らは六歳ぐらいの女の子に、棒につけた白旗を持たせて送り出した。その少女は二、三歩進んだところで射殺された。その穴の中にいた全部の女はあとで殺され、穴の外にいた四、五人の男も同じ目にあった。女はまったく抵抗しなかった。私の見た死者のすべてが頭の皮をはがれていた。腹を切り裂かれ、取り出された胎児―だったと思う―と並んで死んでいる女を見た。スール大尉があとで私に語ったところでは、本当にそういうことが行われたそうである。ホワイト・アンテロープ(シャイアン族のいまひとりの和平派の首長(チーフ)―論者注)の死体も見たが、生殖器が切り取られていた。そして兵隊の一人が、それで煙草入れをつくるつもりだと話しているのを聞いた。女で生殖器を切り取られた者も見た・・・砂の中に隠れていた五歳くらいの女の子を見かけたが、二人の兵隊がその子を見つけ拳銃を抜いて射殺し、その腕をつかんで砂の中から引きずり出した。私は、大勢の幼児が母親の腕の中で、母親の手にかかって殺されるところも見た」(この虐殺が行われるずっと以前に、デンヴァーで行なった公開演説で、シヴィングトン大佐は、幼児を含むすべてのインディアンを殺し、その頭の皮をはぐことを奨励した。「シラミの卵からはシラミしか生まれない!」と彼は絶叫した)

 ロバート・ベントによる兵隊の残虐行為の記述を、ジェームズ・コナー中尉の言葉が裏付けている。「翌日戦場に行ってみると、男や女や子どもの死体は、どれもこれも頭皮をはがれていた。そして多くの場合、死体は、これ以上はとても考えられないほどむごたらしく切り刻まれ、男と女、大人と子どもの別なく、生殖器が切り取られていた。一人の兵隊が女の陰部を切り取り、それを棒に刺して見せてまわったと吹聴しているのを聞いた。また別の兵隊が、インディアンが手につけていた指輪をとるため、その指を切り落としたと話しているのも耳にした。私の知っているかぎりでは、こうした残虐行為はJ・M・シヴィングトンが何もかも了解したうえでなされたものであり、彼がそれをやめさせようとして何らかの措置を講じたとは思われない。生後数か月の赤ん坊が馬車のかいば桶にほうりこまれ、そのままかなり遠くまで引いていかれたあげく、地面に投げ出されて死ぬまで放っておかれたという話も聞いたし、兵隊が女の陰部を切り取り、それを鞍の前部にひろげたり、帽子の上にかぶせて行進したという話は枚挙にいとまがないほど多かった」

ディー・ブラウン『わが魂を聖地に埋めよ』鈴木主税訳、草思社、上巻pp.107-8


 カスキーヨの虐殺とサンドクリークの虐殺の似寄りは指摘するに及ぶまい。『わが魂を聖地に埋めよ』は1970年に出版されると、1年以上にわたってベストセラーでありつづけた。その事実は、この本がアメリカ社会とくに白人社会にあたえた衝撃の激しさを物語っている。いっぽうフォレスト・カーターの処女作『反逆の無法者ジョージー・ウェイルズ』が、コマンチ族の大首長(チーフ)テン・ベアーズへの献辞を添えて出版されたのは1973年だった。つまり、カーターが処女作の原稿を書いていたであろう時期は、『わが魂を聖地に埋めよ』がアメリカ読者の耳目を集めていた時期と重なるのである。またテン・ベアーズについては『わが魂を聖地に埋めよ』のなかでたびたび言及されてもいる。カーターは執筆中に『わが魂を聖地に埋めよ』を読み、カスキーエの虐殺の場面を描くにあたってロバート・ベントやコナー中尉の証言を参考にしたのではないかという推測は、確証はあげられないにしても蓋然性のたかい推測であろう。カーターは第2作『ジョージー・ウェイルズの復讐の旅』(1976)をアパッチの人々に献じ、その本のなかで、獄房の地面に穴をほり、呼吸用の筒をもってその穴のなかに身を埋めて脱獄するアパッチ戦士の印象的な姿を描いている。そして1978年には、アパッチのシャーマン、ゴアスレエイ(ゴクレイア)を主人公にした『ジェロニモ』を書いている。いっぽう『わが魂を聖地に埋めよ』の作者は『ジェロニモ』の本の背表紙に「フォレスト・カーターは古今未来のどの作家にもまして、ジェロニモの実像の創出に接近している」という賛辞をよせている。フォレスト・カーターとディー・ブラウンのあいだには浅からぬ縁が感じられるのだ。

 以上のように『リトル・トリー』、『ジェロニモ』を読み、関連する文献に目を通すうちに、ボクのなかにフォレスト・カーターについてのイメージが徐々にできあがってきた。そのイメージを簡単に言ってみれば、〈チェロキー族の出自をもつカーターは、自然物の意識とじぶんの意識がよく区別されていないアフリカ的段階の心性を強固にもっていて、おなじ心性をもつ部族民の伝統的思考、心情を深く、内側から描き出すことができる。かれはそのような文体を駆使して、チェロキー族やアパッチ族の苦難の体験と心情を内部から描くことのできる作家だ〉ということになるであろう。

 それだけに、フォレスト・カーターの実名がエイザ・アール・カーターといい、その家系はアメリカ先住民とは関係のないスコットランド・アイルランド系で、孤児であるどころか両親は健在であることを知ったときのショックは大きかった。そのうえかれが、小説を書きはじめる数年前まで、マーティン・ルーサー・キングたちの黒人公民権運動に敵対するために独自の「クー・クラックス・クラン団」や「白人市民会議」を組織し、黒人差別を標榜するアラバマ州知事のスピーチ・ライターとして「人種隔離を今も、明日も、いつまでも」という名高いスローガンを書いた筋金入りの人種隔離主義者だったことを知ったときの驚きは驚天動地に近いものだった。アメリカ先住民への親愛とアフリカ系アメリカ人への憎悪、いったいどうしてこの二つが一人の人間のなかで共存できるのだろうか?

(以下次号)


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