此岸の光景3


 此岸の光景 その3

石州日の出橋

           岩田  強 




 旅行に出かけるまえ、グラインダーで左人差し指の皮を剥いだ。軍手が一文字に切れ、皮膚とその下の組織がめくれたが、血が滲んだだけですんだ。グラインダーの円盤と指の皮膚の角度がほとんど接線だったので助かった。グラインダーの角度がもうすこし深かったら、肉を切り、わるくすると骨に達していたかもしれない。ハンドルが握れなくなって、旅行を延期せざるをえなかっただろう。

 9年前、次男の結婚式に向かう途中、高速道路のガードレールで車のドアを擦ったの思い出した。助手席側の二枚のドアが、前輪の泥除けから後輪の泥除けまで、一文字に割けたが、ドアの内部は無傷だった。軽い衝撃はあったものの、車は横転することなくそのまま走りつづけた。もっともタイヤにも傷ができていたらしく、徐々に空気が抜けてきたので、次のインターチェンジで高速を降り、近くの修理工場に車をあずけて、レンタカーで結婚式にかけつけた。あのときもほとんど接線だった。あと10センチ車体が左に寄っていたら、ドアの内側まで割けて、助手席に座っていた妻の胴体を撫で斬りにしたかもしれない。間一髪という形容の「一髪」が実感されて、総毛だった。髪の毛一筋の違いで、なにかが起きたり、起きなかったりする。すべてはきわどいバランスのうえに立っている。

 この旅行は、島根県津和野町の山間にある旭橋という橋を見にいくのが目的だ。

 一年ほど前、じぶんが死んだ後、どんな痕跡がこの世に残こるか知りたくて、インターネットにじぶんの名前を入れて検索してみたことがあった。結果は侘しいものだった。1冊の単著、数冊の共著、1冊の共訳書のみ・・・。

 思いついて、40年まえに72歳で死んだ父親の名前―陸郎―を入れて検索をかけてみた。「大都市における国保実施上の諸問題-東京都の実例」(1960年)という文章がヒットした(雑誌『都市問題』所載)。東京都庁の職員だった父は、民生局の課長時代に健康保険の都民皆保険化に携わったことを誇りにしていた。調べてみると、都民皆保険化は1960年に東村山町(当時)の事業開始をもって実現したとあるから、父の文章は―まだ読む機会がないが―皆保険化が実現した直後に、そのゴールにいたる紆余曲折を総括したものであろう。そのような文章が残っているとは、思いがけなかった。

 つぎに祖父の名前で検索をかけたのはなりゆきだった。祖父の位牌には「昭和八年一月五日没 行年六十九」と書いてある。昭和8年は1933年、今から90年近くも前のことだから、祖父の記録がインターネット上に残っているはずはない、とおもっていた。

 ところが、それがあったのだ。


橋名:日の出橋(後・旭橋)

開通年月日:1911―

形式:吊橋 木鉄混用 下路トラス補剛 木柱塔 岩田 栄之助(美濃郡豊田村)による.

特記事項:これまでは出合橋 板橋

場所:島根県津和野町(日原町)

河川名:高津川 

出典:土木学会付属土木図書館「戦前土木絵葉書ライブラリー」

           http://library.jsce.or.jp/jscelib/h_bridge/11750.htm


 祖父は名前を栄之助といい石見横田に住んでいた、と父親から聞かされていた。ネットで調べると、美濃郡は現在の益田市の旧称で、明治22年に町村制が施行されたとき1町20村をもって構成された。豊田村はそのうちの1村で、豊田村の南西境に横田という地名がある。名前といい、住処といい、父から聞いていたことと符合するから、引用中の岩田栄之助は祖父にほかなるまい。祖父は日清、日露の戦争に砲兵(工兵だったという話もある)として応召したが、退役後地元で建築請負業を営んでいたそうだから、日の出橋も祖父が請け負った仕事の一つだったのだろう。

 90年ちかく前に死んだ祖父が墓の下から目の前に出てきたようで、旭橋をどうしても見たくなった。

 ボクは父親の生まれ故郷に連れていかれたことがない。父が酔余ときおり口にしたのは、「浜田中学に入学できて喜んで寄宿舎に入ったのに、最初の夏休みには帰省する家がなくなっていたんだぞ」という愚痴だった。その数か月の間に祖父が破産し、それまで住んでいた家を明け渡さなければならなかったらしい。請け負った小学校の校舎が台風のため工事途中で倒壊し、ふたたび組み上げた骨組みをまたもや嵐に吹き倒されて、祖父は多額の借金を抱えこんだ。その後数年間のことはよく分からないが、うろ覚えの伝聞をつなぎ合わせると、祖父は家や田畑を処分して事業の回復をはかったが果たせず、家族をつれてまず松江に移り、さらに東京へ再転居したように推測される。有態にいえば、事業に失敗して夜逃げしたということになるだろう。中学時代、祖父から「授業料がかからない師範学校か士官学校しか進学させられない」といわれるのがイヤだった、と父はよくいっていたが、けっきょくそれは実現せず、父は東京電機学校を出て、製氷技手として東京都立築地卸売市場に就職した。「息子の学力も考えずに無理なことを強制して・・・どこか入りやすい高校に進学させてくれていたら、しなくてもいい苦労もあっただろうに」と父はぼやいていた。製氷技手が都庁の大組織のなかで這いあがっていくには、キャリア職員には縁のない、さまざまな苦労があったのだろう。

 祖父の破産の余波はそれだけに止まらなかった。祖父が多額の負債を残して昭和8年に死んだとき、父は相続放棄せず、その借金の全額を肩代わりした。そのとき父は23歳、稚くて相続放棄で逃げる手を知らなかったのか、それともそれができない義理のある借金だったのか。いずれにしても、父は祖父の死の直後に結婚した新妻(ボクの母)にも小学校の教員として働いてもらって、夫婦共働きで10年ほどかけて借金を完済した。息子であるボクとしては、よくやった、と誇りに感ずるところがあるが、妻には妻の言い分もあったようだ。10歳年上のボクの姉は母から、「お父さんはじぶんの身内にいい顔をしたくて、わたしを10年間も働かせたのよ」という憤懣を聞かされ、「若い男性の同僚にかこまれて教壇で楽しい10年を送れたのだから、よかったじゃないの」と返事をしたことがあったそうだ。父が母をはじめて石見横田に連れて行ったのは60歳を越えてからのことで、父にとって ―そしておそらく母にとっても―石見横田はいやな思い出が噴き出してくる土地だったのであろう。

 そんな事情もあってか、父は祖父について多くを語らなかったし、親類内の生き字引だった伯母(父の姉)もとうの昔に鬼籍に入っている。いくらかでも石見の情報を引きだせそうなのは10歳年上の姉だけだが、その姉は足腰が弱って、こんどの旅行には同行できないといってきた。インターネットか電話による問合せに頼るほかなさそうだ。

 グーグルマップで調べると、たしかに津和野町日原[ニチハラ]に旭橋という橋が高津川に架かっている。その橋の東詰めに日原図書館という町立図書館が見つかったので、地域の歴史をあつかった書物を所蔵しいていないか、電話で問合わせてみた。女性の司書さんが電話口にでて、「『日原町史』という町史がありますが、どんなことをお調べですか」と聞いてくれた。ボクは酔狂と嗤われるのを気にしながら、じぶんは関西の在住者だが、100年以上まえに祖父が架けた日の出橋のことが調べたくて日原に行くことを計画していると話した。すると司書さんは祖父の名前とボクの旅程を問いただしたうえ、「お出でになるまでに、すこし調べておきましょう」と親切にいってくださった。

 それがどれほどの親切だったか、『日原町史』を実見してわかった。大庭良美氏という郷土史家が編纂したそれは、それぞれ1000ページもある2巻本だったのである。その数か所に付箋がはさまれ、祖父に関するページのコピーが添えられ、そのなかに日の出橋の写真(拙文の口絵参照)も含まれていた。ボクは一挙に石見が好きになった。

 日の出橋に関する記載は上巻「第四章 土木」に出てきた。日原村(当時)では道路の「修繕及掃除方法」の分担と責任について明治23年の村会でこまかく定めていた。その基本は、国道も主要村道も、通常の掃除と修繕は関連する大字が負担し、道路が大破して修繕費が30円をこえる場合にはその1/3を村税で負担する、ということだった。明治20年代初めにこのようなこまかい決議が村会でなされ、その記録がきちんと残されていることがボクには新鮮な驚きだった。当時の村会の討論がどれほど生き生きとしていたか、つぎの引用がよく伝えている。


 明治三十三年九月、今の国道一八七号線の犬戻橋が大破して改架しなければならなくなった。このような日原から左鐙吉賀方面への重要路線でも改架はその大字の負担で、これに対し村費補助を申請したとき、村会では次のような質疑がおこなわれ、原案の「工事費の七割」を「拾円」に修正して補助した。

八番問フ 字犬戻シ橋ハ大字枕瀬ノ負担ニ属スルモノヲ村費ヨリ補助ヲナストスレハ他ノ大字ニ之ニ類スルモノアルトキハ又補助ヲ要シ従来ノ慣行ヲ破ル嫌ヒアリ如何哉

議長答ウ 其説尤モナレトモ犬戻シ橋ハ従来林岩三郎一己ノ(2字不明)ニテ架設来タリシモ同家モ近来之ヲ襲用セサルヲ以枕瀬区民ノ負担ニ帰ス、然レトモ該道路ハ本村ノ要路ニシテ巳ニ二種道ニモ編入セラレシ種ノモノナレハ其費用ノ幾分ハ補助ナスヲ至当ト考フ、之ニ依リ他ノ大字ニ之ニ類スル工事ノ起リタルトキハ其実地ノ模様ニヨリ処置スベケレハ強テ慣行ヲ破ルト云ニ非ラス


 祖父が請け負った日の出橋の改架もこれと同じような村会と村民のきびしい注視を浴びていたにちがいない。

 日の出橋の改架は日原道、左鐙[サブミ]道という主要村道の改修の一環として計画された。その改修工事全体は総工費が63,772円59銭4厘という大工事で、県費や郡費の補助を求める必要があり、そのため日原村は29名の村道改修委員を選出して準備にあたった。『日原町史』にはこの改修に関連する工費や施行者がこまかく表記されている。



 明治末年の1円が現在の何円にあたるか正確にはわからないが、明治時代の1円=今の2万円、大正時代の1円=今の4000円、昭和時代の1円=今の10円というネット上の換算式(三菱UFJ信託銀行のサイト参照)にもとづけば、日の出橋の工費8,048.320円は現在の160,966,400円に相当することになる。日の出橋の後身である現在の旭橋(全長93メートル、鉄筋コンクリート製)が昭和31年に架け替えられたときの工費は2700万円だったと津和野町のホームページに出ていて、時価に換算すると2億7千万円になる。橋の形態も使用した材料も異なるから単純な比較はできないだろうが、1億6千万円はさほど法外な金額ではなかったのかもしれない。けれども、祖父が係わった日の出橋と晩越隧道の工費が他の工区の請負金額から突出していることは、工区ごとの平均工費を算出してみると明らかだ。それが村内に不満や批判をひき起こしたらしいことが『日原町史』に書かれている。


 日の出橋は日原旭橋の前身で、ここには出合橋という板橋があったが、この度の橋は木鉄混用吊橋で、当時としては評判になるほど立派なものであった。それで、

 谷川に日の出橋とはけたすぎる

 村は村債あごを吊橋

と悪口をいったものもあったという。

 晩越隧道は小さなものであったが相当難工事で、明治四十五年岩田栄之助が着手したが途中で投げ出し、あとを佐々木三十郎が施行した。たびたび設計変更もあり、完成したのは大正三年六月で、足掛三年を要した。

 左鐙道の改修はこの地区住民の多年の念願であった。特に下森善四郎は早くから私材を投じてこの促進に奔走し、明治四十四年には建設費に金壱千円を寄附している。

 日原左鐙道は大正四年郡道に編入された。


 この狂歌は当時の地方紙にでも掲載されたのであろうか。「板橋でも間に合っていたのに、こんな仰々しい吊橋を架けやがって。おかげで村民は借金であごが干上がる破目になったではないか。請負業者は一儲け企んだのではないか」といった村民の怨嗟の声が聞こえてくるようだ。晩越隧道についても「岩田栄之助が着手したが途中で投げ出し」という表現を読むと、町史のこの部分の執筆者も―孫としては残念だが―狂歌作者とおなじ反感を祖父にたいして抱いていたのではないかとおもえてくる。私費を投じて建設に協力した下森善四郎氏の事績が直後に置かれているのでなおさらその印象がつよい。


 ところで、日原図書館に行ったことにはもう一つべつの収穫があった。その日応対してくれた司書さんは電話口にでてコピーをとっておいてくれた司書さんとは別人だったが、祖父の足跡を探りたいというボクの願いを引き継いで、旭橋に関する新たな情報を教えてくれた。

 日の出橋は大正12年に架け替えられ、「当時県下で一、二の鉄トラス橋」に変身した、と『日原町史』にある。橋名が旭橋にかわったのはおそらくこのときのことであろう。その初代旭橋が昭和31年に現在の鉄筋コンクリート製の旭橋に架け替えられたとき、初代旭橋の鉄トラスが須郷橋というべつの橋に転用され、現在も現役として生きている、というのである。

 初代旭橋の施行者については『日原町史』に記載がないが、おそらく祖父ではあるまい。大正12年は、校舎の倒壊で大きな負債をおった大正10年の2年後、その年の祖父には橋の架け替えを請け負うだけの力はなかっただろう。そうだとしても、祖父が架けた橋の二代目に使われていたトラスが車で20分ほどのところに現存しているというのだ。これを見逃す手はないだろう。司書さんは親切にも、最近まで工事のため閉鎖中だった県道312号線が通れるかどうか、知人に電話して確認してくださった。

 須郷橋は312号伝いに峠をひとつ越えきらない山の中にあり、高津川ではなく匹見川に架かっていた。一級河川の匹見川もそのあたりでは山あいの谷川で、黒い漿果をたわわにつけた木がそこここにあり、通りがかった農夫らしい老人が「ヤマグワ」と教えてくれた。

 須郷橋の丹色のトラスは濃淡の緑に埋もれていた。ボクはトラスを背にした妻の写真をとりながら、〈もし祖父がいまボク達のそばに立ってこのトラスを見たら、どんなことを考えるだろうか〉と空想した。じぶんの架けた橋の後身が100年後にも生きて働いているのをみて喜ぶだろうか。それともじぶんが請け負うことができず、他の人間が架けた橋なぞ見たくもないとおもうだろうか。




 閑話休題、こんどの旅には日の出橋の探索以外にもう一つべつの目的があった。それは石見横田の、祖父や父が住んでいた家に行ってみることだ。祖父たちが横田を離れてからすでに一世紀、その間には戦争があり列島改造があって、祖父や父が住んでいた家は建て替えられるか、跡形もなくなっているかもしれない。だが、センチメンタルジャーニーの旅人としては、その家が建っていた場所にともかくも立ってみたいのである。

 家の住所を知る手がかりが一つある。なにかのおりに取りよせた父の戸籍抄本だ。その冒頭に「島根県美濃郡豊田村大字横田百七拾五番地ニ於テ出生父岩田栄之助届出明治四拾参年弐月拾八日豊田村戸籍吏助役澄川益太郎受附」とある。おそらくこの住所が祖父の家のあった場所であろう。

 戸籍上の住所が現在の表記でどうなっているかを調べるのにすこし手間どった。益田市の戸籍係や住民票係では―親切に応対してくれたけれども―埒があかず、けっきょく法務局に電話して「益田市横田町175-1」にあたることがわかった。町名と175という番地がかわらず、下位区分の1がつけ加わっているだけなのを聞いて、ちょっと希望がわいた。町名と番地が変わっていないのは、その界隈がさほど大きく変化していないからではないのか。

 じっさいに行ってみると、その予感は的中していた。通りには古い民家や横田郵便局がならんでいて、昔ながらの街道の雰囲気がのこり、戦災も列島改造も素通りしたかの如くだった。

 175-1番地は一般住宅で、あたりまえだが、岩田とはちがう表札がかかっていた。ボクと妻がそのお宅の前を行ったり来たりして、無断撮影をはばかりながら写真を撮らせてもらっていると、斜め前のお宅から中年の男性が出てきた。町内会長さんとのことで、見知らぬ人間がウロウロしているのを不審におもわれたのであろう。こちらの問いに気持ちよく答えてくださった。

「この通りは昔の街道のようですね」

「そうですよ。ここはもと国道9号でした。いまは新道の方につけ替わりましたけどね」

「じつは、ずっと以前、ここのお宅にわたしの祖父が住んでいたんじゃないかとおもうんですよ。明治の終わりか大正ごろの話ですが・・・」

「それではウシオさんの身内の方ですか」

 ウシオという音の響きに聞き覚えがあるような気がしたが、記憶が定かでない。会長さんの口ぶりからすると、その住宅には以前ウシオという人が住んでいたようだが、いまかかっている表札はウシオではない。

「いいえ、祖父は岩田といいます」

 会長さんとの会話はそこで途切れ、その家が祖父の住まいだったかどうかはけっきょく分らず仕舞いにおわった。

 ところが、旅行から帰って姉に電話で旅の顛末を話し、ウシオという名前に聞き覚えがないか聞いたところ、おもいがけない返事が返ってきた。

「なに云ってるのよ、アンタ、知らなかったの。ウシオはお父さんのお母さん、お父さんが1歳のときに亡くなった実のお母さんのヨシさんの実家じゃないの。ヨシおばあちゃんのお兄さんは政治家になって、貴族院だったかの最後の副議長だったそうよ」

 ウシオという音の響きに聞き覚えがあったのだから、いつかだれかからそんな話も聞かされたことがあったのだろうが、ウシオと岩田の関係が呑み込めないまま、記憶から消えかけていた。ボクにとっての「おばあちゃん」は、ヨシの死後栄之助がむかえた後妻のチヨで、チヨはボクが小学6年の年に亡くなるまで一緒に暮らして、忘れがたいいくつかの思い出を残している。ボクの意識からウシオをかすれさせた理由の一つはチヨの存在だったろう。それはとにかく、ネットに「ウシオ、最後の貴族院副議長」といれて検索すると潮恵之輔[シゲノスケ]がヒットした。


潮恵之輔。1881(明治14)年、綿職人・潮房太郎、ヒサの二男として島根県美濃郡豊田村字横田に生まれる。郁文館中学、一高をへて、東京帝国大学法科大学を卒業、内務省に入省。1928(昭和3)年内務次官となり、1931(昭和6)年貴族院勅選議員となる。1936(昭和11)年広田広毅内閣に内務大臣兼文部大臣として入閣、1938(昭和13)年枢密院顧問に転じた。戦後1946(昭和21)年最後の枢密院副議長となり、その後公職追放をうけ引退。1955(昭和30)年死去。


 恵之輔には15歳年上の恒太郎という兄がいた。恒太郎は19歳で浜田地方裁判所に臨時雇いとして勤め、苦学して判事登用試験に合格、東京地方裁判所、東京控訴院に勤務、シーメンス事件や幸徳秋水事件の予審判事をつとめた。石見横田生まれの恵之輔が東京の郁文館中学、一高を卒業しているのは、恒太郎が弟を東京に呼びよせて勉学させたからであろう。

 恒太郎も恵之輔もさながら立志伝から抜けだしてきたような経歴の持ち主たちだが、恵之輔の下に妹がいて、それが父の実母ヨシだったらしい。ヨシの位牌には「明治四十四年十月六日卒 行年三十」とある。 行年三十から逆算すると明治14年生まれとなるが、そうすると恵之輔の生年と同じになる。おそらく行年三十は数え年で、ヨシは明治15年生まれだったのだろう。ヨシが栄之助といつ結婚したかわからないが、かりに二十歳で嫁いだとすると明治35年ころ、日清戦争と日露戦争の狭間ということになる。ヨシは栄之助との間に三女二男をもうけたが、末っ子の陸郎を生んだ翌年に他界した。死因は伝わっていない。

 いずれにしても、父からすると恒太郎と恵之輔は実の伯父たちだったことになるが、姉もボクも父から二人について聞かされた記憶がない。父にはこの伯父たちについて語りたくない理由があったのだろうか。戦後の大転換のなかでは、伯父たちが戦争責任のために公職追放されたことや大逆事件の判事を務めたことは口にしたくない事柄であったかもしれないが、それ以外の理由が考えられなくもない。

 以下は憶測になるが、栄之助は1864(元治元)年生まれ、恒太郎は1866(慶応元)年生まれで、2歳違いの同世代である。せまい横田村のなかでお互い顔見知りでなかったはずはないが、栄之助は地主の次男の軍人、恒太郎は綿職人の家に生まれ苦学して判事を目指す青年、双方の心底には複雑なおもいが蟠っていたかもしれない。やがて栄之助は事業に失敗して東京に流れていき、恒太郎は成功して東京地方裁判所の判事になり、恵之輔も内務次官に昇りつめ貴族院議員に転じていく。上京した栄之助が恒太郎や恵之輔に鬱屈した感情をいだいたとしても分らなくないし、息子の陸郎が父親の鬱屈をいくぶんか受け継いでも不思議ではなかろう。

 憶測はどこまでいっても憶測だから、ここまでにしよう。調べてきてはっきりしたことが一つある。町内会長さんが言われたとおり、横田町175-1番地の家にはかつて潮房太郎ヒサ夫妻が住んでいたのだろう、ということだ。ボクの姉は親類のだれかから「栄之助は妻の老親のために隠居所を建てた」と聞いたことがあるという。その隠居所が175-1番地の家で、娘のヨシは両親の住むその家にもどって陸郎を生んだのではないか。そう考えれば、父の出生地が「豊田村大字横田百七拾五番地」となっているのも合点がいく。それは祖父母の住居ではなく、祖母ヨシの実家だったのだ。

 町内会長さんが挙動不審のボクと妻に気づき、家を出て、話しかけてくれなかったら、父の出生の場所という小さな一事実はだれに気づかれることもなく虚無の海に没していただろう。この場合は髪の毛一筋の違いがプラスにはたらいて、父の出生地はこの文章のなかに残ることができたが、マイナスにはたらく場合も無数にあって、人びとの無量の営みが人知れず時の流れの底に沈んでいくのだ。


 それはアッという間もなく起きた。島根旅行からの帰途、たそがれが濃くなるころ、ようやく京都まで辿りつき、京都東インターにむけて京都南インターを通過しようとしていた。ハンドルは妻が握り、合流してくる車を予想して追い越し車線にうつり、時速90キロほどで走っていた。ボクは助手席で携帯電話を覗きこんでいた。

 「あぶない!」という妻の絶叫と車体の微かな衝撃はほとんど同時だった。

 ハッとして顔をあげると、黒っぽい車体が車外のすぐ左に見えた。

 しばらくして妻は走行車線にうつり、すこし走って、高速バスの引き込み線に車を止めた。当たってきた黒い車の青年もボクたちの後ろに停車した。青年は京都南で高速道路にのると、走行車線をとび越して、一挙に追い越し車線に移ろうとした。青年はじぶんが不注意で、妻の車が追い越し車線を近づいてきていることを見落とした、と認めた。妻は停車した後しばらく脚の震えが止まらなかった。

 後日ドライブレコーダーを調べたら、青年の車が急角度で突っこんでくるのが写っていた。それに気づいた妻がハンドルを右に切った角度が絶妙だった。もうすこし大きく切っていたら、中央分離帯の壁に激突して大事故になっていただろう。うちの車の左サイドミラーと相手の車の右サイドミラーがかるく接触して両ミラーが折りたたまれただけで、両車とも車体はまったく無傷だった。うちの車のサイドミラーに相手の車のペンキが付着していたが、その後研磨剤をふきかけてウエスでこすると、ペンキは跡形もなく消え、傷も残らなかった。

 ペンキは付着するが傷はできないという微かな接触がおきる確率はいったいどのくらいのものだろうか。数学に昏いボクには計算の仕方もわからないが、それが奇跡的なほど小さいことは直観される。あと数センチ接近していたら、確実にミラーは傷ついていただろうし、生死にかかわる大事故につながったかもしれない。こんどの旅は接線で始まり接線で終わったが、旅の終わりの接線がおきる確率をおもうと、盲亀浮木というコトバを想いうかべずにいられない。


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