語り手は(6)


語り手は信用できるか 6 


第6章 森のなかのリンチ

フォレスト・カーターの場合(2)

                 

 岩田 強






 アメリカ先住民への親愛とアフリカ系アメリカ人への憎悪はエイサ・カーターのなかで矛盾しあうとは感じられなかったのか。両者はどのような機序で結びついていたのか。

 そうした心理の深層を理解するためには詳しい評伝を読んでみたいところだが、ボクの知るかぎり一冊にまとめられたエイサ・カーターの伝記はまだない。今年三月の刊行予告がアマゾンに出ているダン・T・カーターの本がおそらくエイサ・カーターに関する最初の研究書になるはずで、その刊行が待望される所以だが、その原題が『あるKKK団員の素顔』Unmasking the Klansman

となっていたり、『南軍のゴーストダンサー』 Confederate Ghost Dancer となっていたりするのはどういうことだろう。書名がどう決まるにせよ、同書が予告どおりに上梓され、より深い考察が可能になることを期待しつつ、ここではいくつかの資料やウィキペディアを参考に年表をつくりながら、エイサ・カーターの生涯の輪郭を辿っておこう。下線部はボクが重要だとかんがえる項目、赤字の記載はエイサ・カーターと直接、間接に関係のある当時の重大事件。

1925年9月4日:エイサ・アール・カーター、父ラルフ・カーターと母ハーマイオニー・ウェザリー・カーター夫妻の5人の子どもの上から2番目として、アラバマ州アニストンに生まれる。

 両親はエイサが成人に達するまで健在だった。つまり、孤児だったという後年のエイサの主張は虚偽だったことになる

 ちなみに、アニストンはフリーダム・ライダーズを乗せたグレイハウンド・バスをKKK団が襲撃し火炎びんで炎上させた町である。フリーダム・ライドは黒人公民権運動の中心組織だったNAACP(全米有色人種地位向上協会)が1961年に展開した、長距離バスで南部各地を巡回しようという運動で、長距離バスの客席における人種分離を違憲とした連邦最高裁判決(1946年)の実施状況を検証することがその目的だった。バスの運行は各地で白人暴徒の妨害にあい、ロバート・ケネディー司法長官(当時)がアラバマ州知事に州兵を出動させるよう圧力をかけたが、けっきょくミシシッピー州の最終目的地には到達できなかった。エイサ・カーターの生地は人種隔離(黒人差別)がもっとも熾烈でしばしば暴力化する地域だった。


 *エイサ・カーターは以下のような若年期をすごした。

 「エイサ・カーターはじぶんの家系にとりつかれて育った。かれの出自は南部連合国にふかく根ざしていた。母方の曾祖父ジェームズ・ウェザリーは南軍大尉で、ジョン・H・モーガン准将の突撃隊員の一人だった。父方の大伯父はジョン・モズビー率いるゲリラ隊に参加して、北軍のフィリップ・シェリダン大将に絞首刑に処された。

 1943年に高校を卒業するころには、カーターの思想はすでに凝り固まっていた。かれはよく友人たちに言っていた。〈オレはドイツ人と戦わなくてすむように海軍に志願するんだ。ドイツ人はオレのほんとうの祖先たち―スコットランド系アイルランド人―の近親だからな。それに、ドイツはアメリカを攻めていないぜ。どうしてアメリカがユダヤ人のための戦争を戦わなくちゃならんのだ?〉」(Dana Rubin, “The Real Education of Little Tree”  Texas Monthly 1992年2月号) 

 両親の死後、100%チェロキー族の祖母と50%チェロキー族の祖父にテネシー州の山中で育てられた少年期の回想記として出版された『リトル・トリー』とは異なり、10代のエイサ・カーターはじぶんの出自を「スコットランド系アイルランド人」と吹聴していたことがわかる。

 ではチェロキーの血についてはどうか。ローレンス・クレイトンはエイサ・カーターの小伝のなかで「インディアンの血を部分的にひいていて」、「そのチェロキーの遺産はあきらかだ」(Lawrence Clayton, The Handbook of Texas, 1995)と書いているが、その根拠は示していない。エイサ・カーター自身は 、1970年のアラバマ州知事選に立候補したときに書いた自己紹介の中で、「じぶんの両親は酪農家だったが、その血筋にはチェロキーの血がまじっていた」と主張しているが、家族のだれに尋ねるかによって、それは事実になったり、〈真っ赤なウソ〉になったりする。カーターの兄のダグはじぶんたちの一族にはチェロキーの祖先はいないという。ところが、(エイサの幼友達の)バーネットは〈エイサの母方の人びとはチェロキーで、エイサはその事実を誇りにしていた〉と主張するのである。(Allen Barra, “The Education of Little Fraud,” 2001) バーネットの証言は遊び友達エイサの受け売りという可能性もあり、結局のところチェロキーの出自の真偽は未確定とすべきだろう

 ところで、どこで読んだか思い出せないのだが、白人アメリカ人のなかには先住民の末裔であることを嘉する人びとがいるそうで、ボク自身、〈わたしは4分の1インディアンの血をひいている〉と誇らしげに語るアングロサクソン系アメリカ人にアイオワ州で会ったことがある。つぎの文章はそのような人びとの心理にふれていて興味ぶかい。

 「くり返すが、(南北戦争によって)故郷をおわれた南部白人たちの多くは、一世紀半が経つうちに、じぶんたちの祖先はチェロキーだったと考えるようになっていた。かれらはチェロキー族のイメージを作りかえ、政府の圧政に雄々しく抵抗した勇敢な反連邦主義の闘士たちと見なすようになったのだ。」 (Meagan Day, “No, you are not part Cherokee” Timeline.com,  2016) 

 エイサ・カーターが自らを擬する反連邦主義者の先達としてアメリカ先住民に親近感をもった可能性も考えられる。


1943年:アラバマ州カルホーン郡高校を卒業。

 「クラスの仲間たちは、ハンサムで、エネルギッシュで、野心家で、いつも演技しているエイサ・カーターは、小さくて眠ったようなアラバマの町を脱出するためなら、なんでもやることを知っていた。」  (Dan T. Carter, “The Transformation of a Klansman”  The New York Times, 1991


1943年5月―1946年3月:合衆国海軍に従軍(Gillis Morgan, Encyclopedia of Alabama

*軍隊内のボクシング・チャンピオンになる。

*除隊後、高校時代の恋人インディア・セルマ・ウォーカーと結婚、4子をもうける。

*GIビル(復員軍人援護法)によってコロラド大学でジャーナリズムを1年間受講。

*その後、家族とともにアラバマ州バーミンガムにもどる。

 バーミンガムは1963年にマーティン・ルーサー・キングが非暴力による直接抗議行動を展開した都市で、黒人公民権運動の盛んな土地だった。逆にいえば、黒人差別が熾烈な土地だった。


1947年:米下院非米活動委員会、ハリウッドにおけるアメリカ共産党の活動を調査、ハリウッド10など多数の映画人を非米活動を理由に告発。


1949年10月1日:中国共産党、中華人民共和国の建国を宣言。


1950年2月9日:マッカーシー上院議員、「国務省職員中に250名の共産主義者がいる」と根拠を示さずに発言。これをキッカケにアメリカ社会のさまざまな組織で共産主義者摘発(マッカーシズム=赤狩り)が横行。


1950年6月25日:朝鮮戦争、勃発。


1950年代:人種分離(黒人差別)主義者、反ユダヤ主義者、反共産主義者として活動


1953~1955年:バーミンガムのラジオ局WILDでパーソナリティを務めたが、過激な人種隔離・反ユダヤ的発言が聴取者の反感をよんで解雇される。

*白人至上主義的、反共産主義的な月刊誌『南部人』を刊行。


1954年3月: エドワード・マロー(ジャーナリスト)、じぶんのTV番組でマッカーシーの告発の虚偽を暴露。


1954年5月:連邦最高裁、ブラウン対教育委員会裁判において、義務教育における人種隔離を違憲と裁定(以降「ブラウン判決」と略称)。


1954年8月: 共産党統制法が成立、アメリカ共産党を非合法化。


1954年12月:米上院、「上院の品位を汚した」とするマッカーシー議員への譴責決議を65対22で可決。マッカーシーと親しかったジョン・ケネディーは議場を退席して投票を回避した。


 *「北アラバマ市民会議」に参加。

 これは黒人公民権運動に対抗するため南部各地で結成された「白人市民会議」のアラバマ版。暴行、放火、殺人、リンチをおこなうKKK団とは違い、「白人市民会議」は表立って暴力に訴えることは少なかったが、さまざまな階層、職種の白人が参加しており、それだけに人種差別を白人社会の末端にまで浸透させる力があった。「白人市民会議」の実態は、映画「ロング・ウォーク・ホーム」によく描かれている。

 エイサ・カーターは後にこの会議から脱退する。かれとその同調者が反ユダヤ、反共産主義をも運動目的に加えるよう主張したのにたいし、会議の主流派は反黒人へ注力することを主張して対立したためだった。


*1950年代中頃:ガソリンスタンドを経営。


 1955年8月:ミシシッピー州で、14歳の黒人少年エメット・ティルが白人女性に口笛をふいたことが原因で片目をえぐられ、頭を銃で撃たれ、屍体を河に沈められた。エメットの母親は息子のうけた暴行の残虐さを訴えるため、葬儀のあいだ、あえて棺桶の蓋を閉じさせなかった


1955年10月:エイサ・カーターとその同調者、「南部連合のオリジナルKKK団」を結成

 KKK団は、南北戦争終結直後の1865年末にネイサン・ベッドフォード・フォレスト(Nathan Bedford Forrest)将軍を中心に南軍退役者たちが組織したといわれているが、エイサ・カーターはベッドフォード・フォレストに心酔していて、ベッドフォード・フォレスト・カーターという筆名を使うこともあった。フォレスト・カーター(Forrest Carter)はその省略形で、その省略形からは森(forest)の住人である「アメリカ先住民」がまず連想されるけれども、その下には、ベッドフォード・フォレストが体現した「連邦政府への抵抗者」が伏在していた。エイサ・カーターがじぶんたちのKKK団に「オリジナル」という形容詞を冠したのは、じぶんたちこそ創始者ベッドフォード・フォレストの結団の精神を継ぐものだという自負の表れだったろう。「オリジナルKKK団」は短命で1958年初めには解散するが、その活動内容はすさまじい。


1955年12月:アラバマ州で、バスの白人席に座っていた黒人女性ローザ・パークスが黒人席への移動を拒んで逮捕され、キング牧師の指導のもと、1年余りにおよぶモンゴメリー・バスボイコットがはじまる。


*1956年4月10日:「 オリジナルKKK団 」の団員、ジャズピアニスト・歌手のナット・キング・コールの公演を襲撃し、暴行を加える。

 「オリジナルKKK団」は、ロックン・ロールのレコードをジュークボックスから排除せよと要求したり、「ビーバップは共産主義を助長する」という看板を事務所にかかげるなど、黒人音楽を蛇蝎視していたが、4月10日バーミンガム市立音楽堂で開催されたコールの公演を7名の団員が襲撃してコールに暴行を加えた。7名のうち4名が暴行罪で禁固180日、罰金100ドルの有罪判決をうけた。エイサ・カーター自身はこの襲撃に参加していなかった。


*1956年9月1日、2日:「クリントン高校の12人」事件で、エイサ・カーター、群衆を扇動して暴徒化させる。

 クリントン高校はテネシー州の白人高校だったが、12名の黒人学生が入学しようとして、白人社会や白人高校生とのあいだに衝突がおきた。1954年のブラウン判決以降、南部各地の高校で同様の衝突がおきる。そのうちNAACPがちょくせつ関与したアーカンソー州の「リトルロック高校の9人」(1957年)が有名だが、「クリントン高校の12人」はそれより1年先行していて、おなじように全米の注目をあつめた。エイサ・カーターといま一人の白人至上主義者ジョン・カスパーに扇動された1500人の群衆は地方裁判所を包囲し、黒人の乗る車を銃撃し、黒人地区でダイナマイトを爆発させ、町長公邸などの爆破予告をするなど、暴徒化した。判事の命令を無視して9月1日に扇動演説をしたカスパーは扇動罪と法廷侮辱罪で検挙されたが、カスパーの留置をうけて9月2日に演説したカーターは暴動の現場にいなかったため訴追されなかった。


*1956年12月:エイサ・カーター、モンゴメリーにバスボイコットを阻止するための「民兵」を送ることを計画。


*1957年1月:エイサ・カーターと兄ジェイムズ、警察官への暴行で逮捕、拘留される。警察官たちは「オリジナルKKK団」内部の銃撃事件の捜査中だった。


1957年9月2日:「オリジナルKKK団」の6名の団員が黒人の雑役夫エドワード・アーロンを誘拐して去勢、陰嚢を記念にとりのけて傷口にテレピン油をそそぎ、屋外に放置した

 アーロンは一命をとりとめたが、6名は逮捕され裁判に付された。判決は、4名に最長の刑期20年が課され、他の2名に執行猶予が付された。その後1963年に、人種隔離主義者のアラバマ州知事ジョージ・ウォレスに任命された仮釈放委員会が減刑をおこない、1965年までに全員が釈放された。エイサ・カーターはこの誘拐・暴行に参加していなかった。


1958年初め:エイサ・カーター、金銭上のトラブルで2名の団員を銃撃、殺人未遂で告発されるが、最終的に不起訴となる

 その後「南部連合のオリジナルKKK団」消滅。

Bahmwiki.com/w/Asa_Carter)。


1958年11月:エイサ・カーター、アラバマ州副知事選に立候補、最下位で落選。

 ちなみに、この年のアラバマ州知事選は民主党が独走、民主党の知事候補をきめる予備選が実質上の知事選になったが、アラバマ州法務長官ジョン・パターソンとアラバマ州議会議員ジョージ・ウォレスの事実上の一騎打ちとなった。結果は、人種隔離的立場をとりKKK団の推薦をうけたパターソンが、KKK団との協力を拒否してNAACP(全米有色人種地位向上協会)の推薦をうけたウォレスに、得票率32%対26%で勝利した。ウォレスは次回の知事選(1962年)で人種隔離的立場に変わるが、そこには

明らかに1958年の敗北が影響したといわれている。


1960年代:エイサ・カーター、政治活動に没頭


1962年~63年:アラバマ州知事ジョージ・ウォレスの知事就任演説の草稿を起草する

 エイサ・カーターは1958年の州副知事選落選後、ジョージ・ウォレスのスピーチライターとなった。つぎの文章はエイサ・カーターとウォレスの結びつきを説明していて興味ぶかい。

 「エイサ・カーターは白人市民会議運動から追いだされた後、1958年の州副知事選に立候補したが、最下位に終わった。『テキサス・マンスリー』によると、この敗戦にたいしてエイサ・カーターは新聞に記事を書き、KKK団の指導部を〈クズ野郎ども〉とコキおろした。この記事がジョージ・ウォレスの注意をひいた。かれはその時アラバマ州知事選の最中で、KKK団の支援をうけるジョン・パターソンと争っていたからだ。ウォレスはスピーチライターの一人としてじぶんのチームに加わるようにカーターをスカウトしたが、けっきょくかれの初めての知事選挑戦は敗北に終わった。『ポリティコ』紙によれば、ウォレスはNAACPの推薦が敗北の原因だったとかんがえ、より人種隔離的な立場をとることを決意した、という。」

Marina Manoukian, “The Messed-up True Story behind Klansman Asa Earl Carter’s Giant Hoax,” www.grunge.com, 2021) 

 政治家が票をおいかけて豹変するのはどこの国、どの時代でも変わらない。ウォレスは、晩年、再度〈転向〉し、それまでの人種隔離的行動の非を認め、NAACPとの和解をもとめる。

 もっともウォレス自身はエイサ・カーターに会ったことはないと生涯主張しつづけたという。ウォレスの選挙参謀たちがカーターの過激すぎる言動を危惧して、カーターを雇っていることをウォレスから隠していたためらしい。けれども、さまざまな証拠を総合すると、カーターがウォレスの1963年州知事就任演説を起草した2名のスピーチライターの1人であったことは間違いないようだ。以下は悪名高いその一節:


 今日わたくしは、かつてジェファーソン・デーヴィス(南北戦争時の南部連合国大統領)の立っていた場所に立ち、わが同胞に宣誓しました。ですから、今日、この「南部連合の揺り籠」(モンゴメリー市の通称)から、この偉大なアングロサクソンの南部の中心地から、幾世代もの祖先たちが歴史を通じて折にふれしてきたように、自由のための軍鼓をとどろかすことは、まことに時機にかなったことでしょう。我々のうちを流れる自由を愛する血潮の呼び声に応じて立ち上がり、南部を鉄鎖につなごうとする圧制にたいして、我々の答えを投げつけましょう。地上を歩んだもっとも偉大な人民の名において、わたくしは大地に一線を画し、圧制の足元に手袋を投じ、今日も人種隔離、明日も人種隔離、永遠に人種隔離、と宣言します。

アラバマ州モンゴメリーにおける州知事就任演説、1963年1月14日


 蛇足だが、「手袋を投げる」は決闘を要求する古来のしきたりで、「大地に一線を画す」draw the line in the dust は直接的には決闘者同士の中間にひかれる線を意味しているけれども、黒人と白人のあいだに横たわる差別の一線をも暗喩している。「大地」dust には聖書由来の「人体」の含意があるからだ。つまりウォレスの演説は全体として南北戦争時の南部連合の立場、連邦主義ではなく洲権主義にたち、人種融合ではなく人種隔離を堅持することの宣言だった。以降「今日も人種隔離、明日も人種隔離、永遠に人種隔離」は人種隔離主義を象徴する標語として有名になる。

 ウォレスは就任演説どおり、1963年6月に自らアラバマ大学の校門に立ち、黒人学生の入学を阻止しようとした。ケネディー大統領はロバート・ケネディー司法長官他を派遣して説得につとめたが、ウォレスは「連邦政府は教育における洲権を侵害している」(britannica.com/biography/George-C-Wallace)、州の利益に反する場合には州内における連邦法の実施を無効にできると主張して、州兵に校門を守らせて抵抗した。けっきょくケネディー大統領が州兵を連邦軍に編入する大統領権限を行使したため、ウォレスは抵抗を中止せざるをえなくなったが、強烈な人種隔離主義者としてその名を全米にとどろかせた。

 今回調べていて分かったが、マーティン・ルーサー・キングが1963年8月28日にワシントン大行進でおこなった演説「わたしには夢がある」のつぎの一節は、ウォレスの就任演説にたいするキングの反応だったようだ。


 わたしには夢がある。いつの日か、凶暴な人種差別主義者がむらがり、洲権優位説や連邦法拒否権の言葉をたれ流す知事がいる南のアラバマでも、そんなアラバマでもいつの日か、黒人の少年少女と白人の少年少女が姉妹兄弟として手を握りあうことのできる日が来るだろう。 


 キング牧師がウォレスの知事就任演説を意識しているのは明らかで、公民権運動の闘士と人種隔離主義の先鋒がワシントン大行進や知事就任式という表舞台で丁々発止とやりあっている構図がうかんでくるが、エイサ・カーターも黒子(ゴーストライター)としてその舞台を裏から支えていたわけだ。


1963年11月22日、ジョン・ケネディー大統領、テキサス州ダラスで暗殺され、副大統領リンドン・ジョンソン、大統領に昇格。

     

1964年7月2日、「1964年公民権法」成立。これは人種や出身国にかかわりなく公民権をみとめることを目指した画期的な法案で、ケネディー大統領が前年議会に提案していたが、暗殺後、ジョンソン大統領がその遺志をついで成立させた。


1965年2月:ジョンソン大統領、北ヴェトナムへの北爆開始。     


1965年9月8日:米軍、ヴェトナム・バランアンで毒ガスにより78名を虐殺。


1966年:エイサ・カーター、ラーリーン・ウォレスのスピーチライターとなる。

 ラーリーン・ウォレスはジョージ・ウォレスの妻、当時アラバマ州では知事の再選が禁じられていたため、ジョージ・ウォレスが妻を代役にたてたのである。ラーリーンは夫の支持層である人種隔離派、公民権運動反対派、低所得の白人労働者の票を集めて対立候補に大差をつけて当選。その結果ジョージ・ウォレスは妻を背後からあやつる院政的州知事として権力を保持しつづけた。


1968年3月16日:米軍、ヴェトナム・ソンミ村で500名以上の村民を虐殺。     


1968年4月4日:キング牧師、テネシー州メンフィスで暗殺される。


1968年6月5日:ロバート・ケネディ―、大統領選挙運動中、カリフォルニア州ロサンゼルスで暗殺される。



 ジョージ・ウォレスが1966年のアラバマ州知事選に立候補しなかったのは、知事の再選制限のためばかりでなく、1968年の大統領選挙への出馬を考慮していたためだったともいわれている。じっさいかれはその年の大統領選に極右政党アメリカ独立党の候補者として出馬し、得票率13.5%で大敗する。ちなみに、このとき大統領に当選したのは、ベトナム戦争からの撤退を公約し、43.2%の得票率を獲得した共和党のリチャード・ニクソンだった。

 大統領選への出馬はジョージ・ウォレスの政治姿勢に影響をあたえた。より幅広い層からの支持をえるため、人種隔離主義の過激な主張を軟化させたのだ。それが凝り固まった人種隔離主義者エイサ・カーターの逆鱗にふれた。


1970年11月:エイサ・カーター、ジョージ・ウォレスの対立候補としてアラバマ州知事選に立候補して落選。

 エイサ・カーター は民主党予備選に7名の候補者中の一人として出馬、白人至上主義の論陣をはったが、得票率はわずか1.52%で大敗した。知事選本選では、民主党ジョージ・ウォレスが他の二人の候補者をおさえ74.5%の高得票で圧勝した。


*1971年1月、エイサ・カーター、知事就任式会場で「ウォレスは偏見の塊だ」「白人の子どもたちに自由を」というプラカードを掲げて反ジョージ・ウォレスをアピール。

 就任式会場でエイサ・カーターに出会ったジャーナリスト、ウェイン・グリーンホーはつぎのように証言している。

 「カーターは〈ウォレスはリベラルに寝返ったんだ。あいつは国家がもっともあいつを必要としているときに国家を裏切った反逆者だ!〉といって泣きだし、〈もし民族を混血させ、神の意図にそむいて今の道を進むならば、5年もたたないうちに我々の住む土地はなくなるぞ〉といった。」

Morgan Dunn, allthatsinteresting.com/asa-earl-carter


*1971年:エイサ・カーター、あらたな民兵組織を立ちあげる。

 南軍旗のついた腕章をつけたこの民兵団は「まったくの失敗で、カーターの意気消沈を深めただけにおわった。かれは翌年にかけてアルコール関連の罪状で3回逮捕された。民兵団の組織はエイサ・カーターにとって最後の望みの綱だったようだ」(Marina Manoukian, op.cit.)。これ以降、エイサ・カーターは政治活動をふっつりとやめ、公の場から姿を消す。「それはまるで地球の表面からかき消されたみたいだった」とグリーンホーは書いている。(Marina Manoukian, op.cit.


1970年:ディー・ブラウン『わが魂を聖地に埋めよ』が出版される。これはいわゆる平原インディアンの潰滅〔ジェノサイド〕の記録で、ニューヨークタイムズのベストセラーリストに1年以上ランクインする大反響をよんだ。


1970年代:小説家フォレスト・カーターとして活躍

 政治運動をやめ雌伏していた時期のエイサ・カーターについてはいくつか資料があって、少しずつ食い違いがある。


 「選挙に敗れた後、カーターはテキサス州アビリーンに引越し、新規まき直しを期した。かれは連日スウィートウォーター図書館にこもって最初の小説にとりくんだ。かれはじぶんの過去と距離をおき、じぶんの息子たちを〈甥〉と呼びはじめ、フォレスト・カーターと名告りはじめた。その名前は南北戦争中の南軍の将軍でKKK団の創始者ネイサン・ベッドフォード・フォレストに因んでいた。

 カーターは1970年代にフロリダ州セント・ジョージ島に転居し、最初の小説の続編およびアメリカ・インディアンを主題とする2冊の本を完成させた。1970年代後半、かれはフロリダに残った妻と別居し、ふたたびテキサス州アビリーンに居を定めた。」 (en.wikipedia.org/wiki/Asa_Earl_Carter


 「カーターがやった素性の作り替えや南西部への移住は前例のないものではなかったが、〈他の人びとが新たな未来を見つけようと移住したのにたいして、エイサ・カーターは過去を見つけるために移住した〉と『テキサス・マンスリー』はいっている。1973年カーターと妻はフロリダに引越し、KKK団の創始者で南軍兵士だったネイサン・ベッドフォード・フォレストの名前を採り入れて、フォレスト・カーターへと変身した。カーターは息子たちをテキサス州アビリーンに住まわせ、たびたび会いに出かけたが、息子たちをじぶんの甥だと呼ぶようになった。〈フォレスト〉・カーターは自分用の新しい過去を作りはじめたのだ。かれは人びとに、じぶんにはチェロキーの血が混じっていて、いぜんはカウボーイとして、〈妻が住んでいるフロリダの家から、親類の住むインディアンの国まで、諸国をさまよって日を送っていた〉と話していた。」 (Marina Manoukian, op.cit.


 カーターは1973年にフロリダに引越し、その直後に、南軍の将軍で初期KKK団の指導者ネイサン・ベッドフォード・フォレストに因んでフォレスト・カーターと変名した。その後かれと妻はテキサス州アビリーンに引越し、処女作となる『テキサスヘ夜逃げ』(1973年発行時の書名は『南軍の無法者ジョージー・ウェイルズ』)にとり組みはじめた。 (Gillis Morgan, op.cit.


1973年:『南軍の無法者ジョージー・ウェイルズ』出版


1976年:『ジョージー・ウェイルズの復讐の旅路』出版

 2作のジョージー・ウェイルズ物は南北戦争中から戦後に時代設定されていて、北軍出の暴漢たちに妻を強姦され子どももろとも虐殺された元南軍兵士の復讐譚である。エイサ・カーターの前歴を知って読むと、かれの連邦政府や政治家への憎悪と不信がどろどろと煮凝っているような作品である。


1976年:『リトル・トリー』出版

 「カーターはまったく異なる種類の作品で最大の名声をかちえた。かれの『リトル・トリー』(1976)は因習化した宗教と政治への批判が充満している青春物である。主人公のリトル・トリーはチェロキー族の幼い孤児の少年で、教会役員や政治屋たちの偏狭と欺瞞を経験する。カーターはじぶんの物語は自伝だとウソをついた。『リトル・トリー』は多くの書評でとりあげられ、絶賛された」 (Gillis Morgan, op.cit.


*1976年6月:第1作『南軍の無法者ジョージー・ウェイルズ』がクリント・イーストウッド監督主演で映画化され、さらに世間の注目をあつめる。

 

1976年:有名なテレビ司会者バーバラ・ウォルターズの「トゥデイ・ショー」でインタビューをうける。

 カーターはインタビュー中「日焼けをし、20ポンド減量し、口ひげをつけ」、極力カメラの方を向かないようにしていたが、放映後、幾人かの人がフォレスト・カーターはエイサ・カーターではないかという疑いをもった。そのうちの一人グリーンホー(前出)はカーターに電話をかけて問いただしたらしい。

 「だが記者のウェイン・グリーンホーはなにか違うものを感じた。カーターが1975年〔ママ〕のインタビューでバーバラ・ウォルターズから〈チェロキー〉の出自について質問攻めにされるのを見たあと、この男はアラバマでじぶんが以前から知っている白人至上主義者のエイサ・アール・カーターにちがいない、とグリーンホーは気づいた。

 〈ウォルターズに質問されて、カーターは《馬の世話をしたり、オクラホマにいた時分にはチェロキーの語り部だった》というようなことを、もごもご返事していたね〉とグリーンホーは回想する。

 グリーンホーはカーターの反応を〈まごついていた〉と表現した。けっきょくかれはカーターに連絡をとった。するとカーターは《昔なじみのフォレストを今になって痛めつけるつもりじゃあるまいな》といった。《フォレストなんて、よせやい、エイサ、その声には聞き覚えがあるぞ》とグリーンホーは答えた。」

Morgan Dunn, op.cit.


*1976年8月25日:暴露記事「フォレスト・カーターは本当にエイサ・カーターなのか? たしかなことはジョージー・ウェイルズにしか分からない」がニューヨークタイムズに掲載される。(Wayne Greenhaw, “Is Forrest Carter really Asa Carter? Only Josey Wales may know for Sure” The New York Times

 暴露記事の筆者はグリーンホーだったが、かれはなぜか匿名で投稿した。

 その中でグリーンホーは、「バーミンガム時代からカーターがフォレスト・カーター名義でたくさんの文書を発表していたこと」(カーターの顧問弁護士の証言)、「処女作のコピーライト申請書に書かれた住所が1970年に知事選に立候補したときの住所と同一であること」、「エイサをよく知る法務長官事務所の主任調査官が〈トゥデイ・ショー〉をみて、フォレストはエイサにちがいないと述べたこと」などの証拠をあげてフォレスト・カーター=エイサ・カーターを暴露したのだが、フォレスト・カーターはシラを切りつづけた。またグリーンホーの記事も10年以上にわたって黙殺されつづけた。『リトル・トリー』の愛読者や出版者にはその内容が目障りだったからだろう。


1978年:『山の上でオレを待て』出版

 これはアパッチ族のメディシン・マン、ジェロニモのフィクション化された肖像画だが、『わが魂を聖地に埋めよ』の作者ディー・ブラウンは「古今未来のどの作家にもまして、ジェロニモの実像の創出に接近している 」と絶賛。


1978年:『リトル・トリーの放浪』の執筆を開始したが、未完に終わる。


1979年6月7日:エイサ・カーター、テキサス州アビリーンの息子の家で急死、53歳

 公表された死因は心臓発作だったが、自作の映画化について話し合うためにロサンジェルスに向かう途中、息子の家にたちより、泥酔して息子と殴り合いのけんかになり、倒れた拍子にカウンターで頭を打ち、食べたものと血を嘔吐し、それが気管や肺にはいって窒息死したというのが真相だったらしい。




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