戦後政治体制と芸術


戦後政治体制と現代芸術

 ━ 第二次大戦後の芸術界の動向 ━

                                                                                                      田淵晉也



 前提としての芸術界の動向 (ヨーロッパからニューヨークへ)


☆(大戦直後のヨーロッパとアメリカ)

 第二次世界大戦の6年間はヨーロッパとアジアに、物理的、社会的、経済的、生活的な破壊と荒廃をもたらした。ことに直接の戦場となった地域の惨状は、終戦によって直ちに回復するようなものではなかった。だが、その本土が戦場にもならず、空爆もほとんどうけることのなかったアメリカ合衆国が、往時の、いやそれ以上の活気を取り戻すのは早かった。ニューヨークを中心とする諸都市では、大掛かりな音楽会がひらかれ、オペラやバレー、演劇が開催され、美術館もはなやかに活動を再開した。マンハッタンに集まる女性たちは、くすんだ色のユニフォームや実用服を脱ぎすて、やわらかい肩の線や腰まわりを強調し、花冠のように広がるスカートを身にまとって、たおやかになびく姿態を見せながら闊歩した。ニュー・ルック・ファションの登場であった。

 そのような戦後アメリカの状況は、観客や聴衆を不可欠の条件とする芸術が復活するのに、新たな世界政治の力学が加わり、最適の国になっていた。



☆(20世紀アヴァンギャルド芸術の戦後の状況)

 アメリカ合衆国政府は、大戦中、爆撃と銃弾の戦場となり芸術が衰退したヨーロッパ諸国や、ナチス・ドイツの独裁支配から逃れた多くの芸術家や詩人・作家たちを、ニューヨークをはじめ東部社会で受け入れた。その数は1940年以降になると、急激にふえた。マルセル・デュシャンをはじめデ・スティルのピエト・モンドリアンや、アンドレ・ブルトン、アンドレ・マッソン、マックス・エルンスト、イヴ・タンギーらのシュルレアリストらもそうである。デュシャンは、第一次世界大戦以前から幾度もニューヨークを訪れ、その作品、『階段を下りる裸体(ヌード)』(1912年)などは、パリよりむしろアメリカでの評判が高かった。モンドリアンも同じであり、生涯はじめての彼の個展が開かれたのは、移住後のニューヨークであったし、作品はヨーロッパ以上に価値を認められ、その影響は後のアメリカの抽象表現主義やミニマル・アートの形成におおきな痕跡をのこしている。もっとも、彼ら以前でも、第一次世界大戦後の20年代おわりから30年代の経済大不況時には、アルメニア出身の アーシル・ゴーキー(1904-1948)やオランダ出身のデ・クーニング(1904-1997)が移住し、戦後のアメリカ現代芸術の開花で重要な役割をはたしている。彼らのうち、モンドリアンやタンギーはこの地で死亡し、ゴーキー、デ・クーニングはむろん、デュシャンやエルンスト、タンギーは合衆国の国籍を取得した。

 第二次大戦をはさんだこの時期、芸術家だけでなく芸術そのものの、パリからニューヨークへの中心移動がはじまった。

 移住した地アメリカで、なんらかの芸術活動ができたのは、ルネッサンス以来のヨーロッパ伝統の芸術家ではなく、20世紀にはじまる現代芸術家たちであった。ほとんどの者は、ヨーロッパで正規の美術教育を受けることなく、アヴァンギャルドに活躍の場を見いだした現代芸術家であった。アヴァンギャルド芸術というものはつぎのような性質をもつ芸術である。


☆(抽象芸術の興隆)

 アヴァンギャルディストは、自分たちの生活に不満をもつ、プチ・ブルジョワ出身の若者たちであって、当時のヨーロッパ・ブルジョワ社会を批判して、芸術的反抗者のグループをつくった。社会が推奨する美術学校が教える芸術に反抗し、「新しい芸術」を創造するのだと主張した。イタリア未来派、「青騎士」、ロシア・アヴァンギャルド、ダダ、シュルレアリスム、バウハウスなどに集まった、20~30歳代の若者らの目標は「新しい芸術」であった。

 彼らが推進し、20世紀後半の社会で成果を発揮した新しい芸術形態は、カンディンスキー、マレーヴィッチ、モンドリアン、クプカ、ドローネらがはじめた、美術学校の具象画を否定する抽象絵画であり、ブランクーシー、アルプ、カルダーらの抽象彫刻である。1950~60年代の日本でも、現代芸術といえば抽象画を指す時代もあった。この抽象画のエッセンスは、19世紀末からのデザイン芸術を活性化し、建築、ファション、グラフィック・デザインとして、現代社会を変貌させた。アヴァンギャルド芸術と抽象芸術は密接な関係にあり、抽象芸術はアヴァンギャルドによって発展し、20世紀のデザイン芸術が確立した。

 抽象というのは、本質をとらえ、原理をもとめる科学的営為であり、「科学主義」の価値観と一致する。

 だが、芸術における「抽象」は、科学を導く理性ではなく、感覚によっておこなわれる。日常の生活から、生活の素材から、感覚的に「抽象」された作品が、抽象デザイン絵画であり、キュビスムのコラージュ・コンストラクションやシュヴィッタースの「メルツ」オブジェであり、デュシャンの「レディーメイド」オブジェ であった。この「生活の抽象」芸術は、20世紀後半では、ジャン・ティンゲリーやジャック・ヴィルグレ、レイモン・アンスらのヌーヴォー・レアリストのアート作品につながっていく。また、感覚抽象芸術のひとつとして、身体運動感覚をとりいれた、ジャクソン・ポロックやヴォルスのアンフォルメルや抽象表現主義が、20世紀の作品芸術として誕生する。(注.ジャン=ポール・サルトル『指と指ならざるもの』を参照0)

 さらに、芸術的「抽象」をおこなう「感覚」は、視・聴・触・・・の共感覚へと発展し、展開されて、60年代以降のアヴァンギャルドは、造形芸術だけでなく、パフォーマンス、ハプニングを試みることになる。また、概念芸術であるコンセプチュアル・アートも「抽象」の延長で生まれた芸術である。

 20世紀アヴァンギャルドがはじめた芸術における「抽象」は、さまざまな形態をもつ戦後芸術の基本となった。

 そのような20世紀後半のアヴァンギャルドが、具体的な姿をあらわしたのはアメリカ合衆国においてであった。



◉ アメリカ合衆国は20世紀現代芸術のメッカだった


☆(アメリカ合衆国政府の政策と現代芸術)

 アメリカ合衆国政府は、第一次世界大戦後の経済大恐慌期のニューディール政策によって、公共事業に雇用する失業者対策機関、WPA(公共事業促進局・雇用促進局) (Works Progress Administration, 後に Work Projects Administration に改称)を設置した。1935年から第二次大戦中の1943年まで、8年間にわたるこの政策は、音楽、演劇、造形など芸術分野の失業者救済にも適用され、戦後のアメリカ芸術におおきな影響をあたえた。たとえば、その一分野であった連邦美術プロジェクトによって、ゴーキー、デ・クーニング、ポロック、マーク・ロスコ、フィリップ・ガストンら、1950~60年代のアメリカ抽象芸術を形成、確立させた芸術家らがこれによって生活を保障され、作家活動をつづけることができたのはよく知られていることである。造形芸術家である彼らの仕事は、公共建築物に設置する彫刻や壁画、公共機関刊行のポスターなどに発揮された。(注. 大岡信「1948年・ニューヨーク ━ 20世紀美術の視点」[『美術手帖』1962年11月号]& ウィキペディア参照)

 この芸術家救済にみえる芸術奨励の政策は、戦後の60年代に設立された NEA(National Endowment for the Arts)(全米芸術基金)に受けつがれた。

 NEA(全米芸術基金)はアメリカ合衆国政府の独立機関であって、その諮問機関・国立芸術協議会(National Council on the Arts)の会長と会員は大統領の任命により上院の認可を受ける、政府と密接な関係をもつ機関であった。この組織は、1965年の設立以来21世紀の現在にいたるまで、さまざまな芸術活動に助成金提供をおこなう、アメリカ合衆国最大の芸術支援組織である。(注.オバマ政権下の2011年度では1億5,469万ドルであった。)この支援は、マッチング・グラント(助成金の半額を他の機関から調達することを条件に助成する制度)を基本としておこなわれ、その活動範囲は急速に拡大し、予算も92年には1億7,595万ドルに達した。(注.矢口祐人、吉原真里編著『現代アメリカのキーワード』[中公新書, 2006])

 ただし、この金額の大小についてはさまざまな評価ができるだろう。2015年5月のオークションハウス・ニューヨーク・サザビーズで成立した、ピカソの「アルジェの女たち」の価格は、1億7,936万5000ドル[約221億円]であった。(注.毎日新聞2015.11.12) ただこれについて、ここでは、芸術作品が数億ドルの金額に通じるチャンネルを、現代においてはもつことができたということだけを指摘しておこう。

☆(なぜ合衆国政府は、現代芸術のよきパトロンになったか)

 しかし、いずれにせよ、20世紀後半の世界二極構造の一方を形成するアメリカ合衆国政府のこのような芸術政策は、20世紀前半のアヴァンギャルド芸術にロシア革命がおよぼしたような影響を、20世紀現代芸術の性質にあたえたことは無視できない。(注.世界二極構造については、『百万遍』本号収録の拙著「’60年代日本の文芸アヴァンギャルド(余話)」の「序章2)ー①世界の状況」を参照) だが、なぜアメリカ合衆国政府が、重要な政治政策WPA予算の、雇用した労働者の数と支出の75%を投じたインフラ公共施設の建設とならんで、7%の予算を芸術活動支援にあてるほど芸術を重視したかについてふれておかねばならない。(注.数値については同上、荒木慎也)

 アメリカ合衆国は民族の国でなく、歴史ある国でなく、イデオロギーの国でなく、「新世界」であり、「ゴールド・ラッシュ」の国である。新興文明の国である。そうした国が世界の一方の中核を担うことを早急に世界に示す必要が、20世紀、殊にその後半にでてくる。そして、古代ギリシャ・ローマ文明以来、政治にせよ宗教にせよ、文明は建造物、石像、画像の造形芸術や式典、祭りの音楽、舞踏によって、芸術的に象徴されてきた。そして、NEA(全米芸術基金)設立についても、その主旨を「『アメリカ人は、科学や技術と同様、芸術にも価値を見出している』のだと世界に示すのが、目的のひとつだった」とするのが大筋の理由である。(注.「政府は芸術を助成すべきか」)(ウィリアム・D・グランプ(藤島泰輔訳)『名画の経済学』 pp.485-486) 

 したがって、連邦政府が支援する芸術活動が、「科学や技術と同様」現代文明形成をになう新しい芸術、具象系の伝統芸術を否定する現代芸術に集中されたのは、つぎに述べる理由もあるひとつの成りゆきであり、そうしたなかで、50年代の抽象表現主義、ポップ・アート、さらには、後のミニマル・アートやハード・エッジなどの抽象芸術系の作品群が隆盛をきわめることになった。60年代の世界のアヴァンギャルドの芸術家らにとって、アメリカは現代芸術のよき理解者、パトロンのように見え、日本をふくめ当時の世界の野心ある若い芸術家たちが、パリではなくニューヨークへ集まったのはとうぜんであった。

 だが、アメリカ合衆国の現代芸術隆盛は、連邦政府の政策とならんで、ニューヨーク画商集団の形成と営業活動、さらには、国際オークション・ハウスの参加があって、はじめてなされたものである。



 ☆(ニューヨーク画商集団の形成と営業活動)

  絵画だけを扱う画商集団の出現は、世界的に20世紀になってからのことである。

 「1907年のパリには、五本の指で数えられるぐらいの画廊しかなかった」のにたいして、それが、1960年代には、約400軒にふえたといわれる。([瀬木慎一、松尾国彦訳]『私の画廊 私の画家━ダニエル=ヘンリー・カーンワイラー、フランシス・クレミューとの対話』)

 近・現代絵画専門の画商では、19世紀末から20世紀の初頭まで、セザンヌやゴーギャン、ナビ派の作品を積極的にあつかったアンブロワーズ・ヴォラールや、第一次世界大戦から第二次大戦間に、新進のピカソやキュビスムのブラック、J.グリースや、フォ-ビスムのドラン、ブラマンク、さらには、デ・スティルのモンドリアンやダダ、シュルレアリスムの作品を奨励し、取り扱ったダニエル=アンリー・カーンワイラーらがパリでは有名である。だがヴォラールは死去し、第二次大戦後の荒廃したヨーロッパでカーンワイラーらは顧客をうしない資金力も枯渇し、戦後のアヴァンギャルド芸術では急速に影響力を喪失する。それは、かつてピカソを発見したカーンワイラーや、シュルレアリスムの理論家であり画商でもあったアンドレ・ブルトンが、第二次大戦後に出現したポップ・アートやアンフオルメル、抽象表現主義のもつアヴァンギャルドの価値をいかにしても認めようとしなかったことに、端的にあらわれるようなものである。つまり、世界的な人間社会の中心の位置をうしなったパリの生活環境では、その先駆性が理解できなかっということであろう。

 そのようなパリの画商たちのなかで、フォービスムの色彩画家アンリ・マチスの息子ピエール・マチスは、いち早く渡米し、1931年にニューヨークで画廊を開店し、当時のヨーロッパ最先端の現代画家をならべたギャラリー展を開き大成功をおさめる。父マチスの作品をはじめ、デュビュフェ、ミロ、デ・キリコ、タンギー、マッソン、リオペール、バルテュスらの作品紹介である。その時の彼が企画したギャラリー展のひとつに、ミロの生涯はじめての個展がある。

 ピエール・マチスが開店した1930年代は、先のWPA(公共事業促進局)が開設(1935年)された時代であり、ニューヨークでは、近現代芸術専門の「ニューヨーク近代美術館(The Museum of Modern Art, New York: MOMA)」(1929年)や「グッゲンハイム美術館(Guggenheim Museum)」(1939年)、さらには、近現代でも特にアメリカ合衆国美術に特化した「ホイットニー美術館(Whitney Museum of American Art)」(1931年)が創設された時代である。全世界の全時代の美術・工芸品を資金力にまかせて収集し展示した、ニューヨークの「メトロポリタン美術館」(1872年)や、フィラデルフィアの、ヤン・ファン・アイクからデュシャンにいたる、ルネッサンス初期からコンテンポラリー芸術までをあつかう「フィラデルフィア美術館」(1877年)が創設されたのは、19世紀末の南北戦争後の産業資本主義確立期であったが、両大戦間のこの時代では、アメリカ合衆国の独自性を現代文明に見出そうとする傾向が、芸術にも見えてくるようにおもわれる。

 この方向は第二次大戦後になるとさらに明確になり、進展することとなる。まず、現代絵画のみを中心にあつかう画廊が次々と開店し、繁栄していく。当初、ピエール・マチスとならんで人気をあつめたシドニー・ジャニスが1948年に画廊をニューヨークに開店したのは、マチスの店とおなじ街路、東57丁目であった。彼は、ヨーロッパ系の現代画家、 レジェやクレー、ミロ、モンドリアンと同列に、世界的には無名のアメリカ合衆国の画家たちの同じ規模の展覧会を開催した。ポロック、デ・クーニングをはじめとして、フランツ・クライン、ゴーキー、ロスコ、マザーウェルらの抽象表現主義、後には、クレス・オルデンバーグ、ジム・ダイン、トム・ウェセルマン、ジョージ・シーガルらのポップ・アートの作品展である。

 ニューヨークの現代芸術画廊の発展を示すものとして、ジャニスの回想がある。



☆(画商の新しい役割)

 1924年に結婚して、ニューヨークに引っ越してくると、私は57丁目で多くの時間をすごすようになった。その頃の画廊の軒数なんて微々たるものだ。ノドラー、ヴァレンティン・ドゥーデンシング、その他半ダースばかりだろう。・・・・・・・ 今では(1980~83年)毎月200から300の新しい展覧会が開かれているのだから、助手の6人もおかないことには、とてもすべてを見て回ることなどできはしない。(ローラ・ディ・コベット/アラン・ジョーンズ[木下哲夫訳]『アート・ディーラー ━ 美術界を動かす人々』)


 ここに示されているのは、大戦後の現代芸術の繁栄ぶりとともに、画商たちがいかに勤勉に触手をひろげて、新しい芸術家の発見につとめているかである。

 第二次大戦後のアメリカ合衆国の画商の仕事は、作家とコレクター間の取次店でなく、新しいアーティストを発見し、個展を開いて、紹介し、解説する美術館とパトロンの役割をもかね、それらを偏重なく演じることであった。したがって、新人情報と彼らへのアプローチ、そして、どこで、どのように公開して見せるかに最大の努力が傾注され、実力が発揮された。契約アーティストの作品展は頻繁に継続して開かれた。毎年開く場合もあった。アーティストの側へも、それに応えることができるだけの百号、二百号の新しい作品を、質・量ともに揃えるだけの才能が要求された。当時の成功芸術家のひとり、ラウシェンバーグが制作歴約40年になる1993年の時点で、絵画・彫刻1600点、ドローイング約1500点、版画約500版という驚異的数字を見せることができたことにもその実態が垣間見られる。(注.瀧悌三「不断に〝新(ネオ)〟を生きる開拓者精神」[講談社版現代美術『ラウシェンバーグ』]) そして、この膨大な制作点数の意味するのは、技術的完成ではなくとめどなく変態し噴出するアイデアがあるということであろう。



☆(アメリカの画商たちはいかにして芸術家を売り出すか)

 画商としての噴出する努力とアイデアは、彼らにつづいて現れ、現代アメリカ合衆国造形芸術の確立と定着の最大の立役者レオ・カステリにも言えることである。

 イタリア、トリエステ生まれのカステリは、パリで、個人的に交友関係のあったシュルレアリスム系の画家も扱う室内装飾画廊をルネ・ドルーアンと一時的に共同経営していたが、大戦が勃発するとパリを離れ、やがて1941年に、ニューヨークにたどりついた。そして、50歳になってはじめて、ニューヨークの東77丁目の自宅マンションを改造して、レオ・カステリ画廊を開業した。オープニング展では、アメリカ合衆国のデ・クーニング、ポロック、デヴィット・スミスの三名と、デュビュッフェ、レジェ、ピカビア、モンドリアンというヨーロッパ系のすでに評価の定着したアーティストの作品を併置し、それらがなんら遜色のない作品であることを示した。ついで、まず彼らの次世代であるジャスパー・ジョーンズとロバート・ラウシェンバーグ、後には、サイ・トゥンブリー、フランク・ステラ、ロイ・リキテンスタイン、さらには、ミニマル・アート系のジャッドやフレイヴァン、モリスなど、もっぱらアメリカ合衆国のアーティストを専属アーティストとすることによって成功者となった。

 ここに彼らアーティストの名前を列挙したのは、当時はほとんど無名に近い彼らが、社会と画商と国家政策の相互作用によって、半世紀後の今、美術オークションに登場する著名なアーティストになったことを語るためである。

 レオ・カステリが発掘し、開店の翌年、1958年に、初個展となる画廊展を開いて売出したジャスパー・ジョーンズの、このとき陳列され、代表作となる「旗」と「石膏像のある標的」の価格は、それぞれ900ドルと1200ドルであった。「旗」は、フィリップ・ジョンソンが購入し、後にニューヨーク近代美術館に寄贈されたが、「石膏像のある標的」は買手がつかずカステリが引取った。これらの価格の実効価値を判定できる資料がある。当時、渡米した日本のアヴァンギャルド画家、靉嘔の初年度(1958年)の生活白書によれば、一年間のニューヨークでの生活出費は2600ドルである。(注.中原佑介「絵では食えない新人たち━追いつめられた新人」[『芸術新潮』1959年7月号])  ジョーンズは当時27歳、靉嘔は一歳年少であるから、ニューヨーク在住の若い芸術家の生活水準は同じようなものとすれば、年間生活費の三分の一ないし二分の一弱の価値であったと推定できる。

 カステリは、当時、このセミプロ・クラスのアーティストの作品を発掘していたということでもある。セミ・プロとは、今でもどこにでもいる、教師をやったり、サラリーマンであったりして、別途の収入源をもちながら、ときどきアートで稼ぐ芸術家という意味である。

 ところが20年後の1980年には、この発掘したアーティストの作品価格はつぎのようになる。

 ホイットニー美術館は1980年、ジョーンズの一連の国旗シリーズ作品のひとつ「三つの旗」を100万ドル(約2億3000万円)で購入した。これは当時の現存作家の最高価格であったが、レオ・カステリからバートン・トレイメンが1959年に買ったときの値は950ドルであった。(注.ローラ・ディ・コベット/アラン・ジョーンズ[木下哲夫訳]『アート・ディーラー ━ 美術界を動かす人々』)  貨幣価値の変動を考慮しても、美術品の投機価値がよくわかる。

 だが、このような美術品が投機対象となる過程には、画商の積極的な働きと政策の一致があってはじめて成立した結果である。

 カステリはたとえば、ここに至るまでに、1964年のフラッグ・デーに、ジョーンズのブロンズ製「星条旗」をケネディー大統領に贈呈している。(注.バーバラ・ヘス『ジャスパー・ジョーンズ』[タッシェン・ニュー・ベーシック・アート・ブックス]11p. ケネディーは1963年11月に暗殺されているから、贈呈年号か大統領名が誤記と思われる. だが、いずれにしても、その頃大統領にこの作品を贈呈したことは事実であろう.)  そして、20年後にこの作品は、ジョーンズの「自由のメダル」のデザインとして、縮小して用いられ、1986年7月3日(独立記念日前日)にレーガン大統領から、12名の帰化市民への贈呈品として使われ、オリジナル作品は名と値段を高めることになる。これは作家と画商の一体化した活動であり、このようにして100万ドルの美術品は生産されるのである。

 だが、この因果関係が成立するには、それなりの状況と他の政治的要因が関係していた。

 1954-55年に制作され、1958年の画廊展に陳列された作品「旗」は、布を張った合板と蜜蝋と油彩で構成されたアメリカ合衆国の国旗である星条旗をあらわすモノである。 

 「旗」の制作がはじめられた1954年は、国旗制定の日を祝うフラッグ・デーが、祝日として定められ、当時のマスコミが大々的に報じている年であった。また、星条旗の星の数は独立時の13個から、連邦にが加算されるたびに増やされ、ジョーンズの「旗」の星数は48星であったが、画廊展の開かれた1958年は、翌年にアラスカ州が加わることによって、49星になる直前の時期であった。制作時、公開時ともに、星条旗はある意味では時の「風俗」の輝かしいテーマであった。好悪いずれにせよ、社会の注目を惹くテーマであり、「風俗画のアレゴリー」として、芸術の条件をそなえた作品であった。 

 だが、この作品は、国旗掲揚、敬礼の仕方から取り扱いにいたるまでを、大戦後の戦勝気分のなかで細かく定めた、1942年のアメリカ合衆国議会制定の「星条旗の扱い」に照らすと、板切れでつくった、蜜蝋のシミだらけの星条旗など、国旗にたいしてもつ保守的感情を逆なでするものであった。そのところが、当時、ニューヨーク近代美術館の作品収集部長であったアルフレッド・バーが、作品を評価しながらも購入を逡巡し、コレクターのフィリップ・ジョンソンに買わせるようなことをしなければならなかった理由だった。(注.「展覧会を見にきたアルフレッド・バーは・・・・・・・・・問題は旗をテーマにした作品だった。アメリカ革命の申し子たちの感情を害することになりはしないか。どのような手立てが考えられるだろうかと。バーは早速フィリップ・ジョンソンに電話をかけた。美術館に代ってこの作品を購入し、旗をめぐる神聖冒瀆の論議に結着がつくまで預かってもらえないだろうか、と。」『アート・ディーラー ━ 美術界を動かす人々』)

 1958年のカステリの画廊展では、まだこのような「体制非順応」というアヴァンギャルドの性格をもっていた作品が、20年後に美術オークションの寵児となるには、1960年代のアメリカ合衆国政府の政策が、おおきくかかわってくる。(注.20世紀アヴァンギャルドのもつ「体制非順応」の性格については、拙著『「シュルレアリスム運動体」系の成立と理論』を参照.)



☆ (ソ連邦の芸術政策)

 世界政治二極構造の一方の側の盟主ソビエト連邦は、「世界革命」による世界統一路線からは離れていた。そして、その方向は、世界のなかのソ連邦の位置づけとしては、スターリンの死後、第一書記、ついで、首相となったフルシチョフのもとで、「雪どけ外交」とか「平和外交」とかいわれる外交政策をとっていたというのが、1950年代半ばから60年代半ばの状況であった。だがそれは、共産主義側としては、対極にある資本主義側との相違と区分を鮮明に示し、並び立つ意義をあきらかにせねばならなかった。そのことは、60年代になって、フルシチョフの文化政策にはっきり現れてくる。


 フルシチョフ・ソ連首相は8日、クレムリンにおける党、政府指導者と文学者および芸術家との会合で演説し、要旨次のように述べた。  1、ソ連の文学と芸術は全面的に発展しており、全体としてその任務をよく果たしつつあり、芸術活動でイデオロギー上の特別の失敗はなかったが、誤りを処理できない場合があった。 1、党は抽象主義、形式主義その他のすべてのブルジョア芸術の作品を否定する。われわれは芸術で階級的な立場をとっており、社会主義のイデオロギーとブルジョワ・イデオロギーの平和的共存に断固反対する。芸術における社会主義リアリズムと、抽象主義的傾向がソ連の芸術で平和に共存できると考える者はわれわれとあいいれない立場に堕落するだろう。(下線筆者)( 「フ首相演説━抽象芸術など批判」(『読売新聞』夕刊 1963年3月10日 2面))


 この頃、フルシチョフは機会ある毎にこれに類似した発言をくりかえしている。1962年12月にモスクワで開かれていた抽象絵画の展覧会場でも、「このような芸術は、ソヴィエトの国民に縁のないものであって、国民は受け容れない。芸術家と自称し、人間の手で描いたのか、ロバの尻尾でぬりたくったのかわからないような作品をつくる連中は、このことをよく反省すべきだ」と語ったという。(注.下線は筆者)(注.中原佑介「『ロバの尻尾』論」(『美術手帖』1963年4月号参照)

 この有名な「『ロバの尻尾』論」の発言とクレムリンでの演説は、いずれも芸術が国民生活に密接にかかわるものであり、共産主義イデオロギーとソ連邦の政策と不可分の関係のあることを述べていることになる。

 そのことは、同時期のソビエト政府の日刊機関新聞「イズベスチヤ」紙に、「ジャン・ティンゲリーとその支持者は、人間と文明を脅かすものであり、アメリカの将軍の制服を着た、原爆戦争の狂信者である」(注.この発言は、東野芳明「東京のティンゲリー」[『読売新聞』1963年3月16日夕刊]からの引用であって筆者は確認していないが、いずれにしても、先のフルシチョフの発言とあわせると、この時代のソビエト連邦の政治的中枢部で、現代芸術をこのようにイデオロギーのなかに位置づけようとする政策があったことは推測できる。)にも、同一の政治的意図を読みとることができる。しかし、ここで、アメリカ合衆国でないフランスのヌーヴォー・レアリスムのアヴァンギャルド芸術家、ジャン・ティンゲリーを名指しするのは、彼がニューヨークで興業した動く立体作品『ニューヨーク賛歌』(1960年)があったためであろうが、それはイデオロギー的選別基準を単に「抽象主義・形式主義」にするのでなく、当時の現代芸術すべてにおいてであることを示している。



☆(対抗的なアメリカ芸術政策)

 つまり、芸術的区分の基準として、社会主義リアリズムに対立する芸術として現代芸術をおくものである。とすれば、対極の中心であるアメリカ合衆国政府としては、好むと好まざるにかかわらず、共産主義者側が忌み嫌う抽象芸術を支援せざるをえない。ましてや、アメリカ合衆国国内の保守派が好む、勤勉、愛国の美意識が支持する芸術は、社会主義リアリズムの芸術と、表現内容では裏表の関係にあるのだから、保守派の意向にさからっても、ソ連邦との相違を示す必要から、現代絵画や現代彫刻を奨励せねばならないことになる。 この1962~64年は、先に述べた、カステリが大統領ケネディーにジョーンズのブロンズ「旗」を贈呈した時期であり、政治家たちや合衆国政府の方針はまだ定まっているとはいえない時であった。

 だが、この頃から、現代芸術はアメリカ合衆国で脚光をあびる芸術となっていく。ニューヨーク近代美術館(MoMA)は増築し展示場を拡げ、合衆国の現代芸術だけをあつかうホイットニー美術館は、移転に移転をかさねて、1966年には、マルセル・ブロイヤー設計の斬新奇抜なデザインの建物に一新して、マディソン・アベニューでひとびとの耳目を驚かせる。そして、1969年には、先の全米芸術基金(NDA)の第一回交付金が、グランド・ラピッズ市のアレキサンダー・カルダーの抽象彫刻に交付された。



☆(アメリカ型抽象造形・パブリック・アートの台頭)

 グランド・ラピッズは、ミシガン州・ケント郡の郡都であり、後に大統領となるジェラルド・フォードゆかりの都市である。赤色ペイント塗装のスティール板で組上げられた、高さ13メートルにおよぶ、グランド・ヴィテスと名づけられたこの作品は、グランド・ラピッズ市と郡議会の委託で、町おこしの目玉として制作され、市庁舎前の中央広場に設置されたインスタレーションの作品である。(注.作品名グランド・ヴィテス(Grande Vitesse)(高速)は、都市名グランド・ラピッズ(Grand Rapids)のフランス語訳である。フランス語が使われているということは、まだこの時期では、パリが芸術の中心地であったことを示すのかもしれない。)   この頃から、アメリカ合衆国全土の都市広場や公園など公共の場所に、パブリック・アートが大量に設置されていくのだが、この作品は、その先駆的作品である。グランド・ラピッズは、これによって有名となり、その後の都市型パブリック・アートのほとんどは、ルイーズ・ネヴェルソンやケネス・スネルソン、イサム・ノグチ、リチャード・セラらの抽象彫刻のインスタレーションとなる。




 都市広場や公共建造物の正面、屋上、あるいは議事堂の回廊に設置されるパブリックアート・アートの歴史は古い。宗教的対象や、地方や国に貢献した人物、国家指導者を具象的に表現する肖像彫刻や画像を、古代ギリシャ・ローマからイタリア・ルネッサンス、そして、20世紀以降でもソビエト連邦や共産主義諸国の建造物・広場などに掲げてきた。つまり、歴史的にはパブリック・アートというものは、宗教あるいは政治的アートであった。アメリカ合衆国でも、多額の資金を投じるパブリック・アートに抽象芸術が指名されたのは、アメリカ合衆国の住民がとりわけ現代芸術を好んだからではなく、その背後には、60年代の世界政治にかかわる要因があった。(注.エヴァ・コッククロフトもその著書の中で「1950年代のニューヨーク派絵画は、アメリカ外交政策の道具で、産軍複合体の一部だった」と指摘している。[ウィリアム・D・グランプ(藤島泰輔訳)『名画の経済学』(pp.393)])

 だから、カルダーが死去した後の追悼展にさいして、当時、大統領になっていたジェラルド・フォードは「芸術の世界は偉大な天才を失い、アメリカ合衆国は20世紀文明に大きな寄与をしたアメリカ人を失った」(下線は筆者)(注.『カルダー』タッシェン・アルバムブック・シリーズ)と彼を悼んでいる。ひとりの現代抽象芸術家を、政治の最高責任者がこのように語るのは、アメリカ合衆国が、フルシチョフのいうソビエト連邦とは異なる国であるとともに、文明の国であり、また、期せずして現代芸術、ことに20世紀の抽象芸術が文明の芸術であることを証するものであろう。

 第二次世界大戦後の新しい世界秩序のなかで、20世紀後半の現代芸術には、政治的ベクトルと平行して別の力が働きかけてくる。国際オークションが現代美術をあつかったのである。



☆(国際オークションの参入)

 クリスティーズやフィリプス とならぶ、国際オークション・ハウスのひとつであるサザビーズが、レオ・カステリ画廊開店の直前の時期、1957年に、ニューヨークで、ワインバーグ・コレクションの競売を実施した。それは、現代美術のはじめて大量のオークションであった。ワインバーグはオランダの銀行経営者であったが、第二次大戦中ニューヨークに移住していたのだった。そして、彼がそれまでに収集していたゴッホ、ルノワール、ピカソ、ユトリロ等々の膨大な数のヨーロッパ現代美術作品の競売をそこでおこない、みごとな成功をおさめた。以後、19世紀後半以降の現代芸術が美術品として公認され、現代美術の価格高騰がはじまった。(注.瀬木慎一「オークション・ハウス」[『芸術新潮』1990年12月号])  ここではじまった現代美術価格高騰は、半世紀後の21世紀になると、ジャコメッティのブロンズ彫刻に1億ドルを越える評価がつけられ、2015年5月のニューヨーク・クリスティーズのオークションでは、ピカソ の「アルジェの女たち(バージョン0)」が、当時の史上最高額である1億7936万5000ドル[約221億円]で落札されるまでになる。(注.毎日新聞2015.11.12) ちなみに、2010年代の100億円の貨幣価値は、一国の領土の4.5パーセントを購入でき、また、ステルス戦闘機一機の概略の値段である。(注.アイスランドの国土の約0.3パーセントにあたる約300平方キロメートルの農地価格が880万ドル(約6億8千万円)で中国の実業家に売却されるのをアイスランド政府は不許可とした。(当時の為替レート1$/約87円)[2011年11月26日 Asahi com])また、ステルス戦闘機 F35、4機分2012年度予算概算要求額は551億円であった。)

 国際オークションへのこのような道は、まず画商たちによって開拓されたものであり、それが戦後アメリカ合衆国の現代芸術が、フランスを追いやってトップの座についた最初の原動力であり、ヨーロッパ型アヴァンギャルドからアメリカ型アヴァンギャルドへ変質する根底にある。



☆(アメリカ型アヴァンギャルドの確立)

 60年代アメリカ合衆国の画商たちの販路開拓はつぎのようにおこなわれた。

 たとえば、1958年に開店直後のレオ・カステリ画廊(1957年開業)で、900ドルで購入したラウシェンバーグの「雪どけ(ソー,Thaw)」は、1973年のニューヨーク、サザビーズのオークションでは85,000ドルで落札された。ロバート・ラウシェンバーグは、ジャスパー・ジョンーズとともにカステリ画廊創設時の二枚看板画家であり、当初の価格は、先に述べたジャスパー・ジョンズの「旗」とほぼ同額であった。また、「旗」(星条旗)がそうであったように、タイトルの「雪どけ」は、当時のフルシチョフ政治外交を、イリヤ・エレンブルグの小説『雪どけ』(1954年)に由来して「雪どけ」外交と呼んだ西側先端の時事用語であった。

 しかも、板、金網、大文字の印刷された紙片を乱雑に貼り合わせ、上方から絵具を垂れ流した、コラージュともミックスト・メディアともつかぬ作品は、「雪どけ外交」をそれなりに象徴すると見えなくもない、これまた「風俗画のアレゴリー」ともいえる900ドルの作品であった。そして、タクシー業界の資産家コレクター、ロバート・スカールがこの価格で購入した作品が16年後に85,000ドルにまで上昇するには、その間1964年のヴェニス・ビエンナーレで、アメリカ合衆国美術はじめてとなる絵画大賞を、ヨーロッパのアンフォルメルもヌーヴォー・レアリスムも斥けて、ラウシェンバーグが受賞していることが、密接に関係しているにちがいない。そして、またその受賞は、画商と美術館のアメリカ合衆国美術界の影響力のあらわれであるだけでなく、アメリカ合衆国現代芸術が国際的に公認され、国際オークションに登場する資格を得たことのあらわれでもある。そのようなさまざまな要因によって、このような価格上昇があったのである。 

 しかし、国際オークションに登場するということは、すべてのものを商品化する資本主義の市場システムに20世紀アヴァンギャルド・アートが組みこまれ、利潤を得ることを至上目的とする市場メカニズムのなかにはいったということである。アバンギャルド性が、すっかり漂白されてしまったということである。



☆(合衆国政府の税制優遇措置と現代芸術) 

 また、商品化された芸術作品が利潤をもたらすのは「オークション」によるだけではない。アメリカ合衆国政府や州政府は、公共的サービスを提供する非営利団体にたいして免税資格を与え、その団体にたいする寄付金を所得税の控除対象とするなど、多くの税法上の優遇措置を講じてきた。(注.Clair Report Number 172(august 10,1998)『米国の公的芸術・文化支援政策』(自治体国際化協会)第1章 第3節 「非営利法人に対する税制優遇制度」による.) この公共サービスを提供する非営利団体には、とうぜん公立や私立の美術館がふくまれている。というわけで、先のジョンソンが「旗」をニューヨーク近代美術館(MoMA)に提供したように、美術作品を美術館に贈与すれば、その美術品の時価が寄付金に換算され、その金額が贈与者の所得税から控除されることになる。



☆(アメリカではなぜ現代芸術が儲かったかについて)

 そこで、資産価値のセフティネットがある現代芸術について、当時ニューヨークで現代芸術をあつかう画商のひとりジョゼフ・ヘルマンの発言がなされることになる。


 若いアーティストの作品を買うことによってコレクターが負うことになる経済的な危険の度合いはきわめて小さい。若いアーティストであっても、ニューヨークの一流の画廊で展覧会をしたとなれば、今日の美術市場の状況からして、たぶん作品は完売だろう。ということは第二回目の展覧会があるということになり、その時には作品の価格がかなり上昇することは間違いない。税制からしても、コレクターは作品を短期間手元に置いた後、それを寄付すれば作品に支払った分の金は帳消しにできる。(ジョゼフ・ヘルマンの回想、下線は筆者)(注.『アート・ディーラー ━ 現代美術を動かす人々』)


 この発言の意味するところでは、短期間になんらかの利潤をうむことができる「作品」は、既成の芸術家の作品ではなく、評価の定まらぬ「若いアーティストの作品」が有利ということになる。また、短期間で「作品の価格がかなり上昇すること」を「間違いなく」するためには、画商は、同一作家をふくめて複数の新進芸術家の画廊展を頻繁に開かねばならず、しかも同時に、それら作家について効果ある話題つくりに励まねば、利潤追求の市場メカニズムは有利に機能しない。

 そして、その新進芸術家というのは、既成の芸術形式の芸術家よりむしろ、新たな形式に挑むアヴァンギャルドの芸術家のほうが望ましい。既存の芸術形式の場合、新進芸術家が人目を引きつける要因はおもにテクニックにある。そして、精緻なテクニックにせよ、新奇なテクニックにせよ、技術の習得には、並はずれた才能と時間を要する。新鮮な作品をつねに充たした展覧会を、短期間で準備することは難しい。これにたいしてアヴァンギャルドは、既存の形式を越えるところにその芸術的意義があるのだから、技術より、一瞬の閃きがうむアイデアさえあれば、新規の作品をつぎつぎと生産できることは、新しい美の価値観を見出そうとしているアメリカ合衆国では比較的容易であった。

 また、1960年代では、作品にまつわる話題に信憑性と切実さをもたせる20世紀の新しいテーマは、政治、殊に国際政治であった。共産主義、ファシズム、民族主義という国家イデオロギーであるにせよ、戦争であるにせよ、他国との輸出・入であるにせよ、国際政治が直接個人生活を左右するものとなった。毎日の新聞やラジオ、そして、60年代になって急激に普及したテレビでは、国際政治が語られぬ日が1日たりともないのが、20世紀後半の社会生活であった。

 このようにして、現代芸術の作品が、国際市場システムのなかに組入れられようとしている時期が、1960年代のニューヨークであり、また、主にそれらのことが20世紀後半の現代芸術に、それまでとは異なる性格をあたえようとしていた。そのことは、半世紀後のいま、芸術の舞台に留まっている20世紀現代芸術は、ピカソであり、ポロック、ウォーホル、ジャコメティら・・・・・そのほとんどが国際オークションにかけられた記念のリボンを飾った作品の制作者ばかりであることからもよく分かる。これが、20世紀後半で先ず定められようとしていた1960年代の現代芸術の位置である。



☆(市場システムから芸術家は必然的に排除される)

 だが、商品市場システムのなかに芸術作品がはいるということは、このシステム内の芸術からは、生活者としての作家が、排除されることである。作家と芸術作品の関係は、労働者と製品の関係となる。たとえ作品にサインがあっても、それは製品の一部であって、芸術家の生活に直接反映するものではない。

 先のラウシェンバーグの作品『雪どけ』が、1973年に、8万5千ドルで落札が成立しても、ジョーンズの『三つの旗』が、1980年に100万ドルで美術館へ売却されようとも、それは作家であるラウシェンバーグやジョーンズの生活圏外でおこったイベントであった。彼らの生活にその作品のサインがもつ関係は、最初の契約にある900ドルと950ドルの関係のみである。労働者が生産した製品、たとえば時計や自動車が、いかなる価格で卸され、小売りされようとも、また、その製品が、後に稀少価値をもって、値段がいかに高騰しようとも、その価格は、労働者の生活にはなんの反映もなされないのとおなじである。労働者と製品の関係は、製品の直接的価値とは分離した契約だけである。

 20世紀になると、芸術の商品化の動向のなかで、おなじような芸術家と芸術作品の関係がうまれてくる。当初の問題は、ピカソと画商のカーンワイラーのあいだで成文化された、将来制作される作品の所有権を定める契約書が示すような作品の所有権の問題であった。だが、20世紀後半となると、短期間に価格高騰をもたらす現代芸術を契機として、美術の商品化には、モノの所有権だけではなく、モノ芸術ではない文学や音楽のように、モノにも著作権や著作者人格権をふくめねば、制作者は、理不尽な労働に従事する「ロバのような境遇」から脱出できないといわれるようになる。(注.オークション落札価格を聞いたときのラウシェンバーグの言.http://www.slate.com/articles/arts/culturebox/2-14/06/)  絵画、彫刻を「美術」ではなく「芸術」として位置づけること、しかもその芸術には詩、小説、戯曲、エッセイ、楽曲、研究書、写真、映画、マンガ、更には、テレビゲーム等々いっさいをふくめる総称としての芸術に位置づけ、そのなかで芸術と芸術家の関係をいま一度定めようとするのである。そうでなければ、ラウシェンバーグやジョーンズがこうむったような「不公平な」身分が改善されることはない。



☆(芸術家の生活権を確立しなければいけない)

 とはいえ、21世紀の現在においても、著作権によって芸術作家の財産権が、所有権によって所有者が保護されているように、保護されているとはいえない。だが、1980年頃から21世紀の今にいたるまで、たとえば、オークション落札純益の5%を元の制作者が得る、再版著作権再度使用料条約など、芸術家の財産権を以前より保護する現実的法案が審議されていることにも見えるように、急速に新しい状況が、芸術家と芸術作品のあいだには生まれつつある。そして、そのような状況のはじまりが、1950~60年代のニューヨークのアート・シーンではじまったのである。芸術の商品化には、法律的には、所有権だけでなく著作権が関わってくることが明確になった。

 

 今まで語ってきたようなさまざまな経緯をへて、20世紀の現代芸術は成立したのだったが、他の時代に比して、その成立でおおきな役割を演じたのは、第二次大戦後の画商であった。そして、それら画商たちのなかでも代表的であるのは、レオ・カステリであった。彼について、最後に述べておこう。



☆(レオ・カステリはどのような画商であったか)

 それでは、現代造形芸術を、20世紀の新しい社会に適した位置においた、ニューヨークの現代芸術の画商レオ・カステリはどのような画商だったのだろうか。

 レオ・カステリ(1907-1999)は、トリエステという、第一次世界大戦まではオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあり、スロバニアと国境を接するするイタリアの湾港都市で、父はハンガリー、母はイタリア出身のユダヤ系実業家という、地理的・民族的に複雑な環境のもとで生まれた。第一次大戦中は、一家でウィーンに移住し、レオはそこでドイツ語初等教育をうけた。イギリスとフランス、ロシア、後にはアメリカ合衆国、イタリアも加わって戦勝する連合国側ではなく、敗戦するドイツ、オーストリア=ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国で構成される同盟国側で、思春期の形成をはじめたことになる。戦後、一家はトリエステへかえり、1930年代半ばには、家族名を、父方クラウスから母方のカステリに変更する。当時台頭したムッソリー二のファシスト政権が、イタリア名を推奨したからである。ミラノ大学で法律を学んだ後、トリエステで保険会社に就職した。後、ルーマニアのブカレスト支店に転勤し、この都市(まち)で、実業家で資産家の娘イレアナ・シャピーラと結婚する。そして、義父の後ろ楯により、イタリア銀行のパリ支店に転職し、ついで、第二次世界大戦直前の1939年7月、パリのヴァンドーム広場にルネ・ドルーアンと共同経営の室内装飾画廊を開く。大戦が勃発するとパリを逃れ、南フランスから北アフリカ、スペイン、キューバを経て、2年後の1941年にニューヨークに到着する。その間、レオの両親はブカレストを脱出することなく、ハンガリーのファシスト集団によるジェノサイドの犠牲となり死亡している。ニューヨークではコロンビア大学で経済史を学び、後、アメリカ合衆国の志願兵となり、ヨーロッパ戦線の情報部に派遣された。パリ解放後は、ブカレストで治安を維持する連合国通訳将校として勤務している。そして、こうした軍歴によって、アメリカ合衆国の市民権を獲得した。

 と、このように、五十歳にしてはじめたニューヨークでの画廊開設とその成功にいたる彼の履歴を眺めてみると、そこには20世紀を生きたひとつの特徴がある。それは第一に国際的に生活するということであり、ついで、政治と金融・経済に直結した社会で、つまり政治と経済を見つめながら生活するということであった。そのなかで、なによりもおおきな特徴は、トリエステという名目はイタリア、実体はオーストリア=ハンガリー帝国というふたつの政治体制のせめぎあう地で、しかも、オーストリア=ハンガリー帝国ではユダヤ系の弱小ハンガリー人である父と、イタリア人の母のあいだで誕生し、第一次大戦の敗者側で育ち、勝者側の戦後イタリアにもどっても、そこはファシズム政権が支配する生活がまっている。やがて移り住むブカレストの保険会社、パリの銀行勤務と画商経験そしてニューヨークにしても、国際政治の網の目のうちにある公的・私的の生活であった。さらに大戦後の世界政治のなかでは、彼が現実の生活を営む社会は、アメリカ合衆国が中心である自由と資本主義の北大西洋条約機構(NATO)の側にあったが、彼の青年期までを形成した思い出の国と都市は、父の出身国ハンガリーにしても、青春と結婚の都市ブカレストのあるルーマニアにしても、そして生地トリエステの隣国スロバキア、それらことごとくは、自由と資本主義を否定し対立する共産主義のワルシャワ条約機構のなかにあった。そこは、往来もままならぬ地であり、また、少年期の最初の教養が培われたウィーンは、大戦の直後では、ありやなしやの国の都市であり、すべては思い出のなかにしか存在しない都市であった。

 そして、このような20世紀の国際政治と国際金融経済のルツボのなかで鍛えられた経歴ということは、彼にとっては、ファシズムがそうであったように、共産主義も自由主義も資本主義も、政治と経済は生活にとって空論ではないことを思い知ったことを示すものである。そのようにしてカステリは、大学教育でも、美学や文学でなく法律や経済史を専攻したように、芸術を文化的文芸的にあつかう画商ではなく、社会的、ひいては文明的にあつかう、時代に敏感に反応する画商として、1960年代を直前とする時期にニューヨークに登場したのである。

 というわけで、現代美術が国際オークションで認知されるという時代の風潮のキャッチと現代芸術、ことに過激なまでの現代芸術専用画廊を50歳にして開店したということは、20世紀は、政治と経済のうえに立つ文明社会であることを、積極的に肯定したからであったろう。そしてこのような選択と行動は、アメリカ合衆国が中核にあった現代文明の動向と重なり、それが彼の成功をもたらした。また、それは、現代芸術のむかう方向とも、まったく同じではないまでも、おおよそのところでは一致するものであった。

 それというのも、以後、彼が終生あつかう芸術は、アメリカ合衆国作家に限定しながらも、アメリカ合衆国の自由と開拓精神にたいして、アーモリー・ショー的スキャンダルにしてスキャンダルにとどまらない芸術であり、伝統的具象芸術ではなく、「抽象表現主義」「ネオ・ダダ」「ポップ・アート」「カラー・フィールド・ペインティング」「「ハード=エッジ・ペィンティング」「ミニマル・アート」「コンセプチュアル・アート」「ネオ・表現主義」の芸術家の作品であった。これらはすべて、光と電気とプラスティックとコンピュータと生体で構築される現代文明を先取り的に表現し、創造する芸術である。

 レオ・カステリの功績は、現代芸術は、このように、サルトルとは異なる方向からの「社会参加」の芸術であり、しかもそれは文明の芸術であることを示し、画商であったが故に、その実効価値をあきらかにできたことである。

 しかし、彼が鍬入れをおこなった20世紀芸術は、おそらくは彼の意図をこえた領域にすすんでいった。このような芸術の社会化により、1960年代から明確になりはじめた20世紀の現代芸術、「社会化した芸術」では、オークションにかかり、美術館に陳列される芸術は、現代芸術の一部となる。現代文明を創造する現代芸術は、建築であり、ファッションであり、写真、音楽、映画、ダンス、演劇、イラスト、マンガ、アニメ、ゲーム、電子映像と、芸術ジャンルは広がり、序列のない、デザインとコトバとリズムの総合芸術となる。そしてそこでは、社会化しているいじょう、レオが察知していたように、とうぜん政治と経済と直結しているものであり、その属性が20世紀芸術を証するものである。

 そのような総合芸術へ通じる道路の舗装がはじめられるのが60年代の現代芸術であった。そして、今から振り返ってみると、’60年代に日本でも台頭した現代芸術を専門とする画商たちは、そのようなことにまったく思いいたらず、日米安保条約改定にも、大学紛争にも、ベトナム戦争にもまったく関心を示さなかった。お金が渦巻いていた万博にたいしてさえ、敬して遠ざける態度をとった。そればかりか、政治、経済と美術は無縁であると広言し、うそぶいていた。そして、それによって彼らは、しょせん立ち枯れとなった。彼らが高度経済成長が破綻するバブル期が到来するや、破産や、自滅したのはとうぜんのこととおもわれる。



☆(「芸術の社会化」か? 「芸術の生活化」か?)

 しかし、一方、そのような社会化した芸術でも、ジャンルが広がり、総合芸術化すると、芸術自体の存在意義が希薄となり、哲学的美学の意味は失われ、芸術の解体あるいは「非芸術」が課題となる。この課題にこたえうる芸術活動をはじめたのが、未完ではあったが、瀧口修造らの「実験工房グループ」をはじめとする1950~60年代の日本の芸術家たちであった。なかでも、先鋭に、というのは、部分的にではあるが極端に、かつ真剣にということであるが、芸術の解体と「非芸術」の意味を、実践的に追求したのがハイレッド・センターの活動であった。そして、彼らのうちのひとり赤瀬川原平は、「芸術の社会化」を「芸術の生活化」へとシュルレアリスム的に展開することになる。

 そのような芸術活動がはじまる日本の1960年代はどのように位置づけられるのであろうか、ということについては次の課題である。


 

おことわり. 

 本論は、別途構想していたテーマの一章として用意していたものである。しかし、調べたことや考えたことを備忘録あるいは研究ノートとして、このような独立した形でのこしてもよいかと思い発表することにした。  

 したがって章分けや文節のない構想で書いていたものであるから、かえって通読し難いものとなっていた。そこで、部分を強調するために、◉印や☆印の中見出し、小見出しをつけた。というわけで、見出しは、論旨を構成するものではなく、見当はずれや重複するように見えるかもしれない。だが、むしろ、研究ノートとしてならこのほうが役に立つかとおもっている。



   目次へ



©  百万遍 2019