ダンテの「家」5


ダンテの作品における「家」の意味


5. ダンテの「家」の原像



 私は前章において、ダンテが「家」に関して記した事柄を、極めて簡単に概観した。だがその短い概観によっても、彼が終生「家」について如何に強い関心を保持したかが、ある程度想像できる筈である。彼は「家」に関わりのある事柄が話題に上るたびに聞き耳を立て、可能な限り「家」の内部の「戸棚の中の骸骨」を探り続けたといっても過言ではないのである。

 それでは、ダンテがこのように強い関心を「家」に対して抱くに至ったきっかけは何か、あるいはまた、あれ程多くの事柄を、多種多様の視点から捕え得た原因は何か。本章においては、そうした問題を考察しておきたい。

 彼が「家」に興味を抱くにいたったきっかけを知るためには、やはり具体的に、彼に「家」をめぐる様々の問題の面白さを体得せしめたのは、一体フィレンッェの何家であったのかを、考えておく必要があるように思われる。

 そこで先ず考えられるのは、当然、ダンテ自身が属しているアリギエーリ家とその周辺である。たしかに、さすがに作者本人の一族だけあって、アリギエーリ家およびその周辺に関しては、ファリナータのことば、ジェーリ・デル・ベッロの姿、そして特にカッチァグイダのことばなどによって、案外多くの情報が得られるのである。たとえば、カッチァグイダの生年、家の所在した場所、その十字軍参加、騎士の位の叙勲、殉教、妻の出身地、兄弟二人の名(その名より推察しうる本家)、フィレンツェの古い住民であること、その長子がアリギエーロといい、その名がアリギエーリ家の起源であること、長子はまだ煉獄で傲慢の罪を浄めていること、親戚に非業の死を逐げた人物がいて、まだその復讐がなされていないこと、ダンテの先祖たちは、ガェルフィ党に属していたこと等々……。しかしその一方で、ダンテがカッチァグイダに彼以前の先祖をたずねたのに対して、カッチァグイダが「私の先祖たちについては、このこと(住んでいた所)を聞くだけで充分だ(basti)、 / 彼らが誰であったか、どこから来たかなどは / しゃべるより、黙っている方がよい(onesto)」と述べていること、またこの basti ということばの調子は、ダンテの問いをはね返すようなかなり強いものであることが注目に価するように私には思われる。勿論ここでは、謙譲の精神が教えられているわけであるが、しかしその裏には、ダンテの一族がフィレンツェの中で占めている比重についての、冷静な平衡感覚が働いていると考えても誤りではあるまい。つまりダンテ自身、自らの「家」を、余り長々と語るには価いせぬものと考えていた、と見なしてもさしつかえあるまい。

①  いずれも前出。

②  Par. XVI, v.43-45.


 それでは、『神曲』の中で、最も多くのことが語られている「家」は何家であったか。実は、この作品中に最も多くの個別的な人物像を提供し(たとえばウゴーリノ伯と共に死んだ四人の子供たちに四つの異った人物像をみとめることは困難だし、単に羅列されているだけの人名にも個別性はみとめがたいのだ)、しかも最も多くの関連事項を添えて描かれていると思われる一族は、第一の友グイドのカヴァルカンティ家でもなければ、ダンテが属した白派の盟主チェルキ家でもなくて、ドナーティの一族なのである。彼の妻ジェンマがこのドナーティ家の一分枝の出身であることを考えると当然なようでもあるが、コルソ・ドナーティがダンテの敵黒派の指導者であったことや、ボッカッチオ等がしきりにジェンマ悪妻説をとなえ、ダンテが彼女から何ら精神的に得たものはなかったような印象が流布していること、若いころダンテがフォレーゼ・ドナーティとはげしい嘲罵を含むテンツォーネを交換したこと等々から考えると、やや意外な感じがしないわけでもない。しかし実は、ダンテは、この一族に関連のある記述を、極めて豊富に『神曲』の中に盛りこんだ。しかもその筆致は、決して単純なものではなかったのてある。

③  実は、ボッカッチオは全ての女を悪妻だと考え、ダンテが結婚してもろくなことはなかっただろうと想像しているにすぎないのだが。

G. Boccaccio; Trattatello in laude di Dante, Milano, 1965, p.34-37.(VII, Digressione sul matrimonio).


 兎に角、先ず『神曲』中に盛りこまれているドナーティ家に関連のある事項を、一応列挙しておくことにしよう。

 先ず直接に登場する人物は、チァンファ、盗賊のブォーゾ(これには異説がある)、フォレーゼ、ピッカルダの4人〔異説によれば3人)にすぎないが、彼らや、あるいはカッチァグイダその他の人々の口から、ブォーゾ(前出の盗賊とは別人)、家祖の一人ウベルティーノ、フォレーゼの妻ネッラらの名がはっきりと言及され、さらにコルソ、シモーネ、そしてドナーティ家そのものが、(名前を出さずに)はっきりそれと分るように話題に上り、また極めて短いヒントによってではあるが(しかし分る人には明白な形で)、グァルドラーダの行為が暗示されているのである。

④ チァンファは、Inf. XXV, v.43 sgg.  ブォーゾは、Inf. XXV, v.140. ただしアバーティ家の一員だとする異説もあり。フォレーゼ Purg. XXIII, v.41 sgg.  ピッカルダ Par. III, v.46 sgg.  もう一人のブォーゾ Inf. XXX, v.44.  ウベルティーノ  Par. XVI, v.118   および、98-99.   ネッラ Purg. XXIII, v.87.  コルソ Purg. XXIV, v.82-89.   シモーネ  Inf. XXX, v.43 sgg.  ドナーティ家  Par. XVI, v.106-107.  グァルドラーダ Par. XVI, v.141.


 さらにこの一族の関連事項として、一族の分家カルフッチ家、ウベルティーノの舅ベッリンチォーネ、その娘でウベルティーノの義姉にあたる「良きグァルドラーダ」(先述のグァルドラーダとは別人)、ウベルティーノの義妹(「良きグァルドラーダ」の妹)の結婚によってアディマーリ家との間に生じた姻戚関係(アディマーリ家がまだ小身であったためウベルティーノにはそれが気にくわなかった)、グァルドラーダ・ドナーティのすすめで、ブォンデルモンテが彼女の娘と結婚したこと(それがアミデイ家を怒らせ、グェルフィ対ギベリーニの闘争の直接のきっかけとなった)、シモーネがカヴァルカンティ家のジァンニ・スキッキと共謀しておじブォーゾの遺言状を偽造したこと、ピッカルダが修道院から連れ出され政略結婚を強制されたこと(その相手は、コルソの後の政敵ロッセリーノ・ダ・トーサ)、コルソの友である「良きゲラルド」などといった人々、家、出来事などが、明記もしくは暗示されているのである。

⑤  カルフッチ家  Par. XVI, v.106.   ベッリンチオーネ・ベルルティ Par. XVI, v.97-98. ivi, v.119-120.  「良きグァルドラーダ」 ivi, v.97-99. および inf. XVI, v.37.  アディマーリ家との姻戚関係は Par. XVI, v.118-120.  「良きゲラルド」Purg. XVI. 124 sgg.


 ところで、ついでに今述べたドナーティ家の人々同志の関係と、彼らとダンテ自身の関係をバルビの作った系図(略図)および、Siebzehner-Vivanti の『神曲辞典』の巻末にあるドナーティ家系図とを組み合わせて示しておこう。

⑥ Michele Barbi. Problemi di critica dantesca, Firenze, 1975, seconda serie, P. 345,  および、 Siebzehner-Vivanti: Dizionario della D.C. Milano, 1965, p.720.



(1)のウベルティーノは、ベッリンチョーネ・ベルティの娘(「良きグァルドラーダ」の妹)と結婚した男、義姉はグィディ伯家にとついだので、名門と姻戚関係を結んだが、義姉がアディマーリ家と結婚したことは気に入らなかった。ベッリンチョーネの娘たちが嫁入りしたドナーティおよびアディマーリの両家では、男子が生まれると、しばしばベッリンチォーネを名付けたという。(3)のブォーゾ(V)は、子なしで、遺産の一部を修道院に寄附しようとしたため、それを防ぐため(4)のシモーネがジァンニ・スキッキをブォーゾに化けさせて遺言を偽造した。(5)のブオーゾ(F)は(異説もあるが大勢に従うと)『地獄篇』25歌の盗賊とされる。ただしヴィーコ ⑦  等も指摘した通り、盗賊はしばしば貴族の生業であったのだ。(6)のコルソは黒派のリーダー、(7) のフォレーゼ(S)は、若いころダンテとテンツォーネをやりとりした男で、妻ネッラの祈りのおかげで、早く煉獄の門をくぐれた。(8) はロッセリーノ、デッラ・トーサと政略結婚させられたピッカルダである。さらに、ブォンデルモンテに対して、アミデイ家の娘との婚約を破棄するようにすすめ、自分の娘と結婚させて、グェルフィ対ギベリーニの戦争のきっかけを作った女グァルドラーダは、フォレーゼの妻であったと伝えられるので、(2) のフォレーゼ(V)は、あるいはその夫にあたる人物かも知れない。年令的にも決して不可能とはいえない。

⑦  G. Vico; Opere, Milano, 年代不明、p.659.

⑧  F. Schevill; Medieval and Renaissance Florence. New York, 1963, p.106.


 盗賊のチァンファ、およびグァルドラーダについては確実なことは分らないし、ブォーゾについても異説があるようだが、以上の系図によって、ドナーティ家の中でも、ウベルティーノの兄弟ヴィンチグェッラの系統がダンテの表現の対象となっていることが、ほぼ推察しえるだろう。またウベルティーノも、一族の名誉だったこと、しかもコルソの父シモーネから見ても大おじであったことを考えると、この系統とそれほど遠い存在ではなかったと考えられ、いわばヴィンチグェッラ-----コルソの系統とその周辺に、ダンテの目が向けられていたと見なしても差し支えあるまい。

 ところで、コルソとジェンマ(ダンテの妻)とは、通説によるといとこ同士とされているが(前出『神曲辞典』他)が、実はダヴィトゾーンでさえ、彼らの間が何親等であるかを明らかにできなかったということであり、バルビは一応前図のような関係だとしている(ただし母親等、婦人たちの関係が不明なので通説も一概には否定できない)。いずれにせよ、同じドナーティ一門ではあるが、別の系統であったと見なして差支えあるまい。ただし、まだ R.A. Goldthwaite が指摘したような「家」の変化は生じていなかった(もし実際にそれがあったと仮定しても)時代のことなので、はるかに強い一門意識が彼らの間に流れていたと言えるだろう。しかし、たとえばシェーナのプロヴェンツァーノ・サルヴァーニのおばが、甥の成功を嫉妬してその敗戦を祈ったなどという例も記されている点から考えると、ジェンマの実家の人々が、コルソたちの系統を見る目も、必らずしも単純なものではなかった筈である。

⑨  op. cit. p.247.

⑩  Michele Barbi;  op. cit. p.345.

⑪  A.R. Goldthwaite;  Private Wealth in Renaissance Florence, Princeton, 1968, の第7章で述べられたイタリアにおける家族形態の変化。それによると、13世紀は大家族の時代であったが、14世紀以後イタリアの核家族化は進み、15世紀にはむしろその方が大家族よりも優勢となったという説。ただし John Larner などは、op. cit. p.351 で前提そのものにも疑いをはさんでいる。

⑫  Purg. XIII, v.109-123.


 ダンテとジェンマは、勿論親同士の取り決めで、1277年(ほぼ12才のころ)、持参金200リラで婚約し、おそらく20才までには同居していただろうといわれる(バルビの説による).いわば、ダンテがある程度物心がつき始めたころから、ドナーティ一門との姻戚関係に入り、いろいろな内情(たとえばシモーネらの遺言状偽造など)を知るのに手頃であると同時に、余り近すぎない距離から、コルソたちの一家を観察しえた筈である。ダンテは多分、一時期、コルソたちに代表されるドナーティ一門にかなり反感を抱いただろうという推測は成立しそうである。グイド・カヴァルカンティヘの接近や、すでに見て来た古い家名だけを誇りにする、頑迷な名門意識への反感などが、そうした推測をかなり裏付けてくれるからである。

⑬  M. Barbi;  op. cit. p.354.


 さらに、ダンテのドナーティ家を見る目に対して、大きな影響を及ぼしたと考えられる要素がもう一つある。それは、1293年の「正義の法典」においてその頂点に達した、フィレンツェ市の政治的改革の流れである。またそれを支えたと思われる、一般市民の政治的意識である。ところで私がここで、不意に政治などを持ち出さねばならぬ理由は他でもなく、1293年に一つの極に達した政治制度が、むしろ素朴なばかりに真正面から.「家」の問題と対決し、ドナーティ家のような豪族の無法ぶりを徹底的に抑圧しようと試みているからである。すなわち、この制度においては約140戸の家族が.マニャーティという烙印がおされ、それらに属する成人男子は、市に忠誠を誓約させられた上、平和を保つことを証拠立てる証拠金を積まなければならなかった。おまけに、その人々は決してプリオーリには選出され得ず、カピターノの地位にもつけない。またアルテに属することが許されてはいるものの、コーンソレやレットーレなどという要職にはつきえなかった。しかも、もし彼らが一般市民に対して乱暴を加えた場合一般市民の犯罪の二倍もの重さの刑罰を加えることが定められ、たとえば約30年後の規定にくらべても、時には5倍も6倍もの罰金が課せられたのであった。乱暴に対する刑罰は兎も角、証拠金の義務や政治的要職からの締め出しは、その必要性は理解できないこともないが、今日的なことばを借りると一種の逆差別と言えないこともないきびしい規定であった。しかもこの制度の面白さは、マニャーティの家名を具体的に名指ししたということ(「正義の法典」そのものには記されていないそうだが)で、その具体性に生々しい市民の目が感じられる。

⑭  G. Salvemini;  Magnati e popolani in Firenze dal 1280 al 1295, Milano, 1974, p.26, および F. Schevll; op, cit. pp.158-159.

⑮  G. Salvemini;  op. cit. P.146.


 このような制度を、ダンテがどのような気持で眺めていたかは、余りはっきり断言できないように思われる。たとえばこの制度を確立させるための指導者であったジァーノ・デッラ・ベッラについても、カッチァグイダが少しふれてはいるが、大ウーゴの紋章の一部を拝領した程の古い貴族でありながら、今では人民の側についているという、客観的事実を述べているにすぎない。ある人はこれを暗黙の同意だとし、ある人は隠された非難だとするが、いずれにせよ、ダンテの日頃のはげしい非難や賞賛からは遠い。私には、ダンテがこの人物に余りはっきりした好悪の感情を持っていなかったように思われる。没落した小貴族のダンテが、まだ市政に加わっていないその当時、この改革を他人事のように感じていたとしても不思議ではないのだ。

⑯  Par. XVI, v.131-2.

⑰  たとえば Sapegno は "potrebbe nascondere un rimprovero" とし、前掲の『神曲辞典』は、"forse una tacita approvazione" だとみなしている。


 しかし、やはりこうした制度の成立は、ダンテがフィレンッェの家を、特にドナーティ家のような特色ある家を見る場合、当然何らかの影響を及ぼしている筈である。またこうした制度を確立させ、存続させるためには、マニャーティの横暴さについて、市民の間で広範な了解が成立していた筈である。何といっても1000人近い成人男子(それもとりわけ有力な人々)を、市の政治の要所からしめ出ておく以上、相当の説得力をそなえた根拠が市民の間に浸透している必要があるからである。またそのためには、多くのマニャーティ批判が(「正義の法典」中にも彼らの不正(フローティ)に対する批判が記されているようだが)、意図的に市民の間に流されたに違いない。これは、マニャーティに関する論議を(「戸棚の中の骸骨」に関するものも含めて)、大いに活溌ならしめる環境であったといえるであろう。十代から二十代にかけてこうした風潮の中で生きたダンテは、当然、「家」批判の論理を充分体得できた筈である。

⑱  G. Salvemini;  op. cit. p.153.


 しかし、こうした風潮が、必らずしもストレートにダンテのドナーティ家批判を強めさせたとは決していえない。それは白派の指導者となったグイドとの交友が、そのままドナーティ家への距離を現わしているとは言えないとの同様である。ダンテは、市民からドナーティ家批判を聞くことによって、心情的には案外姻戚関係にもとづく身内意識を強めたかも知れないのである。

 そこで先に列挙したドナーティ家に関する記述にもどり、その特性を考えてみよう。先ず注目される点は、登場者の数(4人または3人)に比して、言及されたり、あるいは名前を出さずに暗示されている人々が不均衡なばかりに多い、という事実である。たとえばカヴァルカンティ家の場合を見ると、それに反して、グイドの父カヴァルカンテ、ガヴィッレ虐殺事件の原因となったフランチェスコ、およびドナーティ家遺言事件に協力したジァンニ・スキッキ(この事件の首謀者はむしろシモーネ・ドナーティである)の三人が地獄に登場し、グイドの生死や才能に関する会話が語られる(その父およびオデリージによって)。登場者数という点では必らずしも少くはないが、関連事項や言及されている人物は、たとえグイドの舅ファリナータを含めても、はるかに少ない。表現されている人物の芸術的出来栄えを全く度外視して、ただ情報量という点だけを較べると、ドナーティ家の場合とは比較にならない程乏しい。ダンテ自身の一族について同じことが言える筈である。白派の盟主チェルキ家などは、新参者で、フィレンツェに迷惑を与えるということを、カッチァグイダの口から二度ばかり非難されているにすぎない。他にたとえば、グイディ伯家なども、案外多くの箇所で言及されているが、ダンテの当時でさえはっきり別系統と見なされていた、遠くはなれて住んでいる人々のことなので、一括して考えるのは不自然である。要するに、ドナーティ家に関する記述は、特に含みが多く、関連事項の網が広いのである。

⑲ グイドの父については前出。オデリージは、Purg. XI, v.97-98.

⑳  Par. XVI, v.65, v.94-96.

㉑  前掲の S.V. 『神曲辞典』p.286-7.


 さらにそれらの第二の特長は、量が多いわりに、案外印象が稀薄だという事実である。フォレーゼや、ピッカルダとの対話は、それなりに興味深くはあるが、ファリナータはおろか、グイドの父親程の印象も止め得ないのである。ドナーティ家の場合、明らかに二流の人々が前面に出ているのである。こうした人々を登場させることによって、ドナーティ家の強烈な個性を代表していた人々、たとえばブォンデルモンテの婚約を破棄させたフォレーゼ・ドナーティの妻グァルドラーダ、遺言偽造の張本人であるシモーネ、あるいは白黒闘争の張本人コルソなどは背景に後退させられている。家祖の一人ウベルティーノやその舅ベッリンチォーネ、そしてフォレーゼとその妻ネッラや妹ピッカルダ等の善良な印象によって、前述の代表的な三悪人(実は彼らの名前は一度も明記されていない)の印象をぬぐい消そうという魂胆だと見なしてもそれなど大きな誤解ではないと、私は考える。ということは、少くともダンテがこの一族を単純に憎んだりはしていなかったらしいということ、しかも(充分考えられる通り)特に妻の実家とは連絡が保たれておリ、『神曲』の創作においても配慮が加えられているらしいということ(その直系の祖ウベルティーノおよび、その舅ベッリンチォーネヘの好意的な筆致は明らか)、さらに年月の経過と共に、ドナーティ一族全体に対しても、彼の好意が強まっていったらしい、という推測を可能にするであろう。あえていえば、私はダンテが、ドナーティ家に関しては、当然他の家に関してなら記したであろうことも記さなかったのではないかとさえ考えるのである。たとえば、サルヴェミーニによると、ドナーティ一族は貧乏のために持参金泥棒だという定評があり、またコルソがチェルキ家出身の妻を殺したという噂さえ流れていたとされている。これらは当然地獄の罪人たちの口の端に上っても不思議ではない話題である。ところがダンテはこうした中傷を一切黙殺しているのである。

㉒  G. Salvemini;  La dignità cavalleresca nel Comune di Firenze e altri scritti, Milano, 1972. 所収の Firenze ai tempi di Dante, p.377.


 ここでもう一つ疑問となるのは、ダンテがベアトリーチェの「家」について、何故一言もふれていないかということである。哲学の象徴だとされるヴィルジリオは、古代の人であったにもかかわらず、マントヴァの人として扱われている 。 たとえ神学の象徴ではあっても、ベアトリーチェをフィレンツェの人として扱い、それを生んだ名誉ある「家」を、たとえばカッチァグイダの口から賞賛させても少しも不自然ではないのだ。むしろカッチァグイダが、あれ程多くのフィレンツェの家を(未だ市内に入っていないものまで含めて)論じておきながら、子孫の恩人の「家」に関しては、全く黙殺してしまっているということ自体、考えて見れば、実ははるかに不自然なのではあるまいか。私には、単に神学の特性だけでは片付けられない、心理的な抑制が働いているように思われるのである。

㉓   Purg. VI, v.72-75.


 ところで、再びドナーティの間題に戻って、それでは何故、たとえばコルソや、シモーネや、グァルドラーダの行為を、ダンテが黙殺してしまわなかったのかという反論が生じるであろう。しかしその点に関しては、それらが黙ってはおけないほど重要事件であるということと、ある種の行為は、たとえ道徳的に感心できなくとも、誇りの原因となりうるという、心理的事実によって説明しうる。グァルドラーダの忠告や、コルソのクーデターなどといった事件は、文宇通りフィレンツェを震撼させた事件であり、ドナーティ家の子孫たちは表て向きこそ恐縮してみせたかも知れないが、おそらくそうした事件を起しえた先祖たちに対して内心誇りを抱いていたに違いないのである。シモーネの遺言偽造にしても、当時の聖職者への反感を背景にして考えると、必らずしも単なる破廉恥事件ではなく、しかもその手口の鮮かさ、奇抜さには、市民の喝釆を博す要素があった筈である。いずれにせよ、まさにドナーティ家こそ、二度にわたってフィレンツェの大紛争のきっかけを生み出すという運命を担っている、フィレンツェ史上稀有な呪われた家だったのだ。だからこの家と12才のころから関係を持ち、内輪からの情報を得ていたダンテは、おそらく新興の大銀行家チェルキ家や、大不動産業者カヴァルカンティ家の観察によっても到底得られないような多くの知見を、この家の観察を通して得た筈である。勿論本物の領主ではなかったが、しばしば多くの人々から「御領主(ヴィーヴァ)、万歳(バローネ)」という歓呼の声で迎えられたという、野心家コルソ・ドナーティの姿は、「正義の法典」というきびしい規定に拘束されて、一種の領主の戯画を形作ったに違いない。それは後に領主の家や、王家について論じる際の多くのヒントを与えてくれた筈である。

㉔   Dino Compagni;  Cronica, Milano, 1965, p.87.


 ダンテは、コルソ・ドナーティの死を、弟フォレーゼの口から予言させる。弟の口から語らせるということ自体私には一種のやさしい配慮があるように思われるのだが、サペーニョはこの部分の注釈で、「民話」(una leggenda popolare)の趣きがあると述べている。私がその6行から思い出すのは、中世都市を夥しく飾ったと伝えられている pitture infamanti (「見せしめの絵」とでも訳すべきであろうか)のことである。たとえば1344年の12月、フィレンッェ市は、前の年に追い払った独裁者アテネ公の汚名を永久にとどめるために、彼とその高官たちの絵をジョツティーノに依頼したという。そうした絵の一種が今日も残っていて、その中では、聖アンナにはげまされた市民たちが、暴君アテネ公を追い払っている姿が描かれている。ダンテが表現した、馬の尾にしばられて地獄へ落ちていくコルソ・ドナーティの姿は、G・ヴィッラーニや、ディーノ・コンパーニが伝えるそのリアルな死に様とは違って、いかにも中世の画匠が描く「見せしめの絵」にふさわしく感じられるのだ。同時に、この幻覚は明らかに、1290年代のフィレンツェに充ちていて、ダンテが若いころに見聞した、市民たちのマニャーティ批判を反映していると見なすことができるであろう。

(終)


㉕  Purg. XXIV, v.82-87. サペーニョの意見は、"La Nuova Italia" 版の同箇所の注にあり。

㉖  Pitture infamanti については、John Larner; op. cit. p.106, 111.

㉗  C. Paoli; Della signoria di Gualtieri duca d'Atene in Firenze  [ Giornale storico degli archivi toscani, vol. 6 (1862)]  p.47-48.

㉘  Piero Bargellini; La splendida storia di Firenze vol. II.  中のアテネ公の支配に関する記述中に記載あり。

㉙  Dino Compagni; op. cit. p.134-5.  また同書の巻末に G・ヴィッラーニの記録も参考のために記載されている。op. cit. p.256-7.



* この論文は、『イタリア学会誌・第24号(1976年10月1日発行)』および『同・第26号(1978年3月20日発行)』より転載したものです。(編集部・記)


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