此岸の光景5


此岸の光景 その5


だれにも云えないこと

            

 岩田  強 



 


 きのう稲本のおじさんが死んだ。おじさんの部屋にあがる階段をおおぜいの人が出たり入ったりしていた。稲本のおばさんが出てくると近所のおばさんたちが近づいて、なにか言いながらお辞儀をした。稲本のおばさんもお辞儀を返した。フクマクエンとかハイケツショウという言葉が聞こえた。みんなお面のような顔をしていた。

 都電の運転手だったおじさんは職員住宅の二階におばさんと二人で住んでいた。子どもはなく、部屋中がきちんと片付いていた。コップにタンポポやアカマンマが挿してあった。

 おじさんには小学生のころ近所の金春湯(コンパルユ)でときどき会った。おじさんの右胸には大きな傷があり、背中の傷跡はもっと大きかった。中支の戦闘で鉄砲の弾が貫通した痕だ、とおじさんはいっていた。

 さいしょに会ったときから、おじさんはボクのことを知っているようだった。

「坊のおとっちゃんは松田係長だろ。おとっちゃんとワシは同郷で、徴兵検査もおなじところで受けたのよ」

 父さんは山梨県の小さな村の出身だと聞いていた。

「坊は山梨の鰍沢(カジカザワ)ちゅう町を知っとるかい。その鰍沢の小学校で徴兵検査をうけたのよ。もっとも坊のおとっちゃんのほうがワシより10歳ばかり年上だがな。ワシら17年兵は甲府の第49連隊に入隊して中支に送られ、襄陽(ジョウヨウ)という町で戦っているときに貫通銃創を負ったのよ。頭の上をヒュンヒュン飛んでいた弾が地面に突き刺さるブスブスという音に変わったなと思ったとたん、右肩を槍の穂先が突きぬけたような感じがして地面にぶっ倒れた。でもワシは運が強いんじゃ。衛生兵がたまたまそばに居ってな。戦場じゃ生きるも死ぬも運しだい」

 ボクは稲本のおじさんの話に興奮して、父さんにその話をした。

 置き炬燵でトランプの一人占いをしていた父さんは黙って聞いていたが、なにも言わず親指と薬指でメガネの縁をはさんで右左に動かした。不機嫌なときの父さんのクセだ。

「父さんはどこで戦ったの」とボクは聞いた。

 父さんは黙って5、6枚のカードをべつの列に移してから低い声でいった。

「父さんには赤紙が来なかった。第一乙種だから招集がかかって当然なのに、いつまで待っても来ない。周りの人たちから変に見られてつらかった。父さんの名前が徴兵台帳の綴じ目に綴じこまれていて見落とされたとしか考えられん」

 つぎの日曜日、近所の遊び友達と銭湯で泳ごうとまだ夕日が明るいうちに金春湯にいくと、稲本のおじさんがいた。父さんの名前が徴兵台帳の綴じ目に綴じこまれていたと話すと、おじさんはボクの目をのぞきこんでしばらく黙っていたが、

「一人っ子だとか長男だとか、いろんなことで招集が後回しになることもあったんだ」

といった。父さんは5人きょうだいの末っ子で次男だったが、長男は赤ん坊のころ子守が石の上に落として頭がおかしくなり成人前に亡くなったと聞いていたので、たしかに父さんは長男のようなものだった。

 その日、稲本のおじさんが都電7番の写真を持っていると聞いて、ボクと遊び友達はおじさんのウチに寄せてもらうことにした。友だちは大の乗り物好きだったし、ボクも7番の都電が青山墓地と進駐軍のキャンプのあいだで舗石から枕木にかわるあたりが好きだった。

 稲本のおじさんのウチに入ったのはその時が最初だった。目についた家具は箪笥が一つ、三面鏡、脚をたたんで壁に立てかけた丸い卓袱台(チャブダイ)、それに名札指しのついた古びた柳行李が4つか5つだけだった。鴨居に蚊帳の釣り具がかかっていた。おばさんが卓袱台をすえて新聞の折り込み広告のうえに蒸かし芋を出してくれた。

 7番の運転台に立っているおじさんの写真を見せてもらったあと、ボクは戦争中の話をしてほしいとせがんだ。

「ワシはひと月あまり野戦病院で傷を治したあと原隊に復帰したんじゃが、そのあとワシらの部隊は本土防衛のため日本に戻されることになってな、朝鮮の釜山に向かっている途中、満州の四平街(シヘイガイ)という町にいたとき戦争が終わったんじゃ。8月15日の玉音放送って聞いたことがあるじゃろ。その日、日本は負けを認めたのよ。

 ところが、露スケというのはずるくてなあ、日本が負けたと手を挙げたのに攻めこんできて、女に乱暴したり、男を捕虜にしてシベリアに連れていって働かせたりしたのよ。もともと日本とソ連はおたがい戦争しないという条約を結んでいたのに、日本が負ける直前に一方的に約束を破って攻めこんできた。日本は無条件降伏したから、戦いもしないでやられちゃったんだ。ワシらの部隊も手もなく武装解除されて、捕虜にされてシベリアのカラカンダという炭坑に連れていかれてしもうた。坊たちはシベリアというところを知っとるかい」

 小学4年のボクも友達も「北はシベリア、南はジャワよ」の歌をのど自慢で 聞いたことがあるだけだった。

「シベリアは満州や蒙古の北にあって、やたらくたら広いんじゃ。ワシらを乗せた貨車がシベリアの東の端を出たのは9月の末だったが、カラカンダに着いたときには10月の中頃になっていた。それくらいバカでかい。

 それにシベリアは寒くてなあ。10月の初めでも親指の頭ほどの雹(ヒョウ)が降るし、真冬には零下40度にまで下がる。寒さでスズメが飛ばない日は仕事は休みという決まりになっとったが、零下40度がどんなものか坊たちには想像もつくまい。ジャガイモがコチンコチンに凍って、ジャガイモで釘が打てるんじゃ。

 石炭を掘る仕事はキツかった。3交代制で1日8時間休みなく働かされる。坑から上がってくるときには全身まっ黒になって、目と歯だけがギラギラ光って、だれがだれだか分からない。肺の中まで石炭の粉でまっ黒だったろうな。ところがシャワーのお湯は熱すぎたりぬるすぎたり、ロクに体を洗えない日もよくあった。

 食事は1日3回、黒パンかコーリャンの雑炊。石炭掘りは重労働だから黒パンは1日900グラム配給されたが、毎回秤で測って渡されるので、きちんと測られるか気が気じゃない。雑炊はキャベツの葉っぱが浮いた薄いスープのようなものを飯盒の蓋に1杯。20代の若者には腹の足しにもならんから、栄養失調になってフラフラする者がどんどん出る。病気になって死んだら、素っ裸にして大きな穴にポイポイ抛りこんで埋められ、墓も立てられない。名前もわからずに死んでいった人たちが大勢いたのさ。ワシは運よく3年間なんとか生き延びて帰国できたがな」

 稲本のおじさんがシベリアの炭坑で働かされた話は父さんにはしなかった。してはいけない気がした。

 父さんは無口でじぶんのことやお祖父さんのことはほとんど話さなかったが、父さんの姉さんの山木のおばさんは話好きで、「尻タブ据えたら、とまらない」と母さんがよくこぼしていた。あるときおばさんが帰ったあと、言いつかって座布団を片(カタ)していたら、おばさんの座った座布団が生暖かく蒸れた臭いがした。おばさんのオハコは一族ばなしで、いつかおばさんから父さんやお祖父さんの話を聞いたことがある。

「わたしたちのお父さんは事業に失敗して山梨にいられなくなり、東京に夜逃げしてくるような甲斐性なしだったけれど、軍人になった弟の詔二(ショウジ)おじさんは士官学校をでて連隊長にまで出世したのよ。連隊長というのはえらくて、カオも効いたんじゃないかな。あなたのお父さんは工業学校しか出ていないけど、商工奨励館の技手に就職できたものね。でも、あんたのお父さんもがんばったのよ。技術畑では出世できないというんで、なんども試験をうけて、事務畑にかわったんだから」

 ボクは母さん子だったから、もともと山木のおばさんは煙たかったが、この話を聞いておばさんを憎んだ。まるで父さんがズルをしたみたいじゃないか、父さんがそんなことをするはずはない、と心のなかで打消しても、いちど注ぎこまれた疑いはいくら圧し殺してもまたムクムクと湧きだしてくる。

 父さんに赤紙が来なかった話を聞いたときも、山木のおばさんの話が浮かんできた。ボクは ほんの10歳の子どもだったけれど、〈もし詔二おじさんに仕事の口利きができたとしたら、徴兵の順番を後回しにすることもできたのじゃないか〉と勘ぐらずにいられなかった。そして同時に、〈けれど、これはぜったい父さんに聞いてはいけない〉とも感じた。

 聞かれたって、父さんにはなにも言えないだろう。父さんがおじさんに招集の順番変えを頼んだわけではなかったかもしれない。父さんが戦死したら松田の血筋が絶えると考えて、おじさんが勝手に手をまわしたのかもしれない。父さんの順番が回ってこなかったのは、きっとぐうぜんだったのだろう。父さんがそんなズルをしたはずはない ・・・

 そう考えても、父さんの名前が徴兵台帳の綴じ目に綴じこまれていたと話したときの稲本のおじさんの目つきを思い出すと気が沈んだ。父さんにつらい思いをさせた周りの人たちの目つきは、きっとこんな目つきだったのだろう。シベリアで死んで裸で穴に放りこまれた人たちのことを想像すると、ボクまで後ろめたいイヤな気持ちが湧いてきて、べつなことを考えて気を紛らわせずにいられなかった。


   *


 4年の3学期、ボクは区立の養護学園に行かされた。

 小学校の入学直前にハイモンリンパセンエンにかかり、肺病で兄弟姉妹を亡くしている母さんは怯えた。母さんは入学を1年延期させると言いはって、父さんとケンカになった。ボクは目の前のお菓子をとりあげられような気分で気が気でなかったが、母さん子のボクは母さんに逆らえなかった。逆らい方をしらなかった。「学校に行きたい!」と泣き叫んでダダをこねることなぞ思いつきもしなかった。

 さいわいストレプトマイシンという新しい薬が効き、かかりつけの松永先生が「入学させて大丈夫でしょう。ただ一学期は体育を休ませること」といってくれた。母さんは父さんにはすぐ文句をいうくせに、松永先生のいうことはニコニコしてすなおに聞く。山木のおばさんが「ストレプトマイシンなんて、訳の分からない新薬をよく使う気になったわね」といったときも、母さんは 「松永先生が大丈夫といってられましたからね。でも高くついたわ。わたしの嫁入り衣装はあらかた薬になりました」といった。

 母さんは肺病をシンケイ病みのように怖がった。松永先生から、病後の子どもたちが通える養護学園のことを聞きつけて、ボクをそこに行かせたがった。それは東京から離れた海沿いにあって、昔から肺病の療養所がある空気のよいところだそうだ。養護学園に入ると1学期間子どもたちだけで暮し、母さんや父さんに会えるのは1学期に1度の面会日だけだという。ボクはぜったい行きたくなかった。母さんは戦争中にガクドウソカイに行った姉さんを引き合いにだして、

「お姉ちゃんは小学3年で疎開して2年間もお父さんやお母さんと会えなかったのよ。養護学園は1と月もしたら面会日が来るし、がんばれるわよ。身体にはいいし、自立心がついて、なんでもじぶんでできるようになるわ。4年生から入れるそうだから、4年の1学期には行きなさいね」

と、しつこくいう。ボクは4年の1学期2学期はがんばって抵抗したが、3学期にはとうとう行かされた。

 学園は海沿いの松林のなかにあり、入園した日の晩は風が吹いて、松の枝や葉がこすれる音がザワザワ聞こえ、月明かりの窓ガラスに揺れる松の影がうつって、さびしくて涙がでた。

 翌朝から新しい生活が始まった。生徒は4年、5年、6年あわせて35名ほど、先生が2人、寮母さん2人、まかないのおばさん2人、用務員のおじさん1人。日課は、6時半に起床、布団をじぶんで畳んで押し入れの上の段にしまい、下の段の個人用の棚を整頓。晴れた日は松林のあいだのグラウンドでラジオ体操。食事は渡り廊下でつながった食堂にゆきアルマイトの食器で食べる。朝食がすむと勉強の時間。病み上がりや小児喘息の子どもがいるので勉強は午前中だけ。昼食後は自由時間だが、3時になると掃除の時間になり、教室、居室、廊下を毎日雑巾やモップでふき、庭に散った松葉を熊手で掃く。夕食後は自習時間があり、その後じぶんで布団をしいて8時半には消灯、就寝。

 家では家事の手伝いをほとんどしなかったボクは養護学園の日課の多さに驚いたが、1週間もたつうちにそれには慣れた。慣れられなかったのは共同生活で、引っ込み思案のボクは新しい友だちや先生たちに気おくれがして、けっきょく1学期間ずっとみんなとなじめなかった。

 ただ一つの楽しみは土曜と日曜だけに許可される釣りだった。近くの磯ではサンコチなどが釣れ、釣れた魚はまかないのおばさんが唐揚げにして、夕ご飯に一品追加してくれた。雨が降らず、風で磯が荒れていなければ、ボクは毎週のように用務員の吉田のおじさんに性のいい竹竿を選んでもらい、調理場の排水口のジメジメしたところからミミズを掘りだして磯にでかけた。ヒトと話しているより、波や風や魚といるほうがなんぼか楽しかった。

 面会日には母さんも父さんも会いに来てくれた。ボクは楽しいのは釣りだけだと強調して、養護学園がボクにあわないことを訴えた。たまたま吉田のおじさんがそばにいて、ボクが毎週釣りに行って、釣りが上手だといってくれた。ボクが便所に行って帰ってくると、母さんが吉田のおじさんとなにか話していた。母さんはニコニコして、吉田のおじさんに相槌をうっていた。

 5年生になり、ボクはがんばって養護学園に行かなくてよくなった。

 1学期が始まって1と月ほどしたある土曜日の午後、ボクが家のまえでケン玉をしていると、「松田くん」という野太い声が聞こえた。吉田のおじさんだった。母さんも出てきて、おじさんを座敷に通し、お茶をだした。おじさんは大きな鰹節をだして「お土産です」といい、じぶんはむかし漁師をしていて、いまでも櫓船で釣りに出ることもあるなどと、しばらく話をして帰っていった。

「吉田のおじさんはなんの用事で来たの」とボクは聞いた。

「養護学園の用事で東京に出てきたので、ついでにあなたの様子を聞きに寄ったんですって」

と母さんはいった。

 それからしばらくたったある日、父さんが鰹節削りで鰹節を削っていて、

「鰹節が鉛筆みたいに細くなって、指を削りそうだ」といった。

「吉田のおじさんにもらった鰹節があるでしょう」とボクが母さんにいった。

父さん:「吉田のおじさんの鰹節って、なんのことだ?」

母さん:「このあいだ吉田のおじさんがみえて、鰹節をお土産にいただいたんですよ」

父さん:「吉田のおじさんって、養護学園の吉田さんか。なんで吉田さんが来たんだ?」

母さん:「東京に用事で来て、ついでに喬の様子を見に寄ったといってました」

父さん:「なんでそれを黙っていたんだ。様子を見にって、学園を止めた子は何人もいるだろうに、いちいちみんな尋ねていったのか?」

母さん:「そうじゃないですか。知りませんけど」

父さん:「鰹節をもらったのなら、隠したりせず鰹節削りに入れておいたらいいじゃないか」

母さん:「隠してなどいません! 大きすぎて鰹節削りに入りきらなかっただけです!」

 ボクはケンカがはじまりそうでハラハラした。父さんと母さんがケンカをはじめると、地球がこわれそうな気持ちになる。母さんが男の人とニコニコして話していると父さんが不機嫌になるのを忘れていた。母さんが吉田のおじさんを座敷に上げて話したことは、父さんには云ってはいけないことだったのだ。


    *


 小学5年の春の運動会で、一年上級の女の子が徒競走で走るのをみた。その子の名前は知らなかったが、学校の下駄箱が隣りあわせだったので、ときどき身体が触れあいそうになった。いい匂いがした。母さんの匂いとも姉さんの匂いともちがう匂いだった。

 小学校の校庭はせまいので、上級生の徒競走は校庭の南西の端からスタートし、丸いコーナーを2つ回って、ゴールまで西にむかってまっすぐ走る。ボクたち5年生の席はゴールの近くにあった。あの子が先頭の子からすこし遅れて第2コーナーをまわり、こちらに向かって駆けてきた。髪の毛がなびき、むきだしになった額が夕日をあびて光った。眉がせばまって、苦しそうにみえた。ボクはお腹の下のほうがゾクッとした。

 秋の運動会になって、ボクたち5年生はスタートラインの後ろに座って、5人一組の徒競走の番が回ってくるのを待っていた。あの子が第2コーナー近くの6年生の席にいるのがみえた。 

 ボクは駆けっこは得意なほうだった。ずば抜けて足の早い橋爪くんと組まなければたいてい勝てる。徒競走の組は身長順で決められたが、おなじくらいの背丈の子は何人かいるので、駆け引きができないわけではない。ボクは橋爪くんと同じ組にならないように算段して、走る順番が来るのを待っていた。

 ところが走り出してみると、問題にしていなかった香取くんがボクの前にきて、第1コーナーを回ってもその背中に追いつけない。第2コーナーをまわるとき、6年の席にいるあの子の顔がみえ、〈負けるな〉と感じるのと転ぶのがほとんど同時だった。

 起きあがると、擦りむいた膝小僧から血が出ていたけれど、声援のなかをゴールにむかってダッシュした。同級生たちや先生には「コーナーに砂があって足が滑ったんだ」といった。みんなはそれを信じたようだった。

 けれどボクは、転ぶ直前に、〈転ぼう〉というコトバとも直感ともつかないものが頭にひらめいたのをはっきり覚えていた。1秒の何分の1かのうちに〈転べば、競走に負けた言い訳になる〉と思いつき、すぐさまそれを実行にうつしたのだ。

 ボクはいったいだれにむかって言い訳しようとしたのだろう? 友だちや先生にむかって? 勝てると思いこんでいたじぶんの自尊心にむかって? 

 でも転んだのはあの子の顔が見えたのとほとんど同時だった。だとすると、転んだのはあの子のせいじゃなかっただろうか? あの子の前で負けるのがイヤで、負けたのは転んだせいだと言い訳できるように、わざと転んだのじゃなかったか?

 でも、友だちにバカにされたくない気持ちや、じぶんの負けを認めたくない気持ちもボクの心のなかには混じっていた。こんがらがって、じぶんの心がよく分からない。

 負けそうになったら転ぼう、と競走まえから考えていたわけではなかった。いくら思い返してみても、〈転ぼう〉がひらめいたのは転ぶ直前だった。ひらめいた途端、そうするのがいいか悪いか考える間もなく、身体がうごいてしまった。考える前に身体が動くなら、じぶんはなにをやりだすか分からない。いったいボクの心のどこから〈転ぼう〉は飛びだしてきたのだろう? 分からない。心や身体はじぶんのもののはずなのに、そうではないようでもある。うす気味がわるい。

 わざと転んだなんて、すごくキタナイ。そういうキタナイものがじぶんの心のなかのどこかに潜んでいる。そう考えると、消すことのできないどす黒いシミが心についた気持ちになる。わざと転んだことは友だちたちにぜったいに知られてはならない。それはだれにも云えないボクの秘密だ。


   *


 中学に入ると、都電7番で通学するようになり、毎日進駐軍の青山キャンプのそばを通るようになった。忍び返しのついた鉄条網はよそで見かける鉄条網より一段と背が高く、柱の鉄材も太い。

 その鉄条網のすぐ内側、ずらりと並んだカマボコ兵舎のずっと手前に、25mプールがあって、4月の末には進駐軍の男や女が泳ぎはじめた。

「こんなに寒いのに、連中はいったいなにを食っているのかな」

というヒソヒソ声が乗客のなかから聞こえた。

 窓から見ると、彼らの透きとおる生毛やニキビの丘疹まではっきり見える。男たちの履いている肌色や緑色の水泳パンツは、ボクたちの下穿きのような黒のパンツとちがって、テカテカ光る人絹製だ。女たちのすらりと伸びた肢体は、ピンクや水色の水着が押しこみきれずにオッパイがはみ出している。V字の股のあたりは陰って色が他より濃くみえる。見つめていると、身体の芯に生暖かい潮が満ちてきて、ペニスがズボンをつき上げる。ズボンがテントみたいになるのを、腰を引いて前に座っている女学生に気づかれないようにする。

 家に帰ると、だれもいなかった。父さんはいつものように仕事に行き、夜遅くならないと帰らない。母さんは若いころに同僚だった友だちに会いにいくと言っていたから、帰ってくるのは夕方だろう。姉さんが学校から帰るのはいつも夜だ。今日は夕方までボク一人だ。

 ボクは勉強部屋に入り、机のうえの本立ての下から、隠しておいたフィギュアスケートのプログラムをとり出した。二つ折りのその表紙には、パンツもあらわにジャンプしている女のスケーターの挿し絵が描かれていた。

 半年ほどまえ、母さんに連れられて品川のスケート場に、オリンピックのフィギュアスケートで銀メダルをとったキャロル・ヘイスを見にいった。ウチにはテレビがなかったのでフィギュアスケートを見るのははじめてだった。女がパンツをさらけ出して滑るのが異様だった。ふだん女の人は電車で座ってもスカートを窄(スボ)めて股の奥が見えないようにする。なのに、平気でパンツをさらけ出し、何千人もの観客もそれを平気で見ている。ボクの目はパンツに釘づけになって、他のものはなにひとつ目にはいらない。それでも演技に感心しているフリをしているのは、パンツから目が離せないのを母さんに気づかれたくないからだ。じぶんがそんなスケベーであることを母さんにはこんりんざい知られたくない。

 それ以来、家族が留守になると、だれも不意に帰って来ないことを確かめて、そのプログラムをだして見ずにいられなくなった。キャロル・ヘイスのパンツを見つめていると、ペニスが固くなり、それをズボン越しにしごきたくなる。

 けれども、それはいけないことだ。なぜだか分からないが、それは禁断のことだ。もしそれを野放しにしたら、四六時中そのことしか考えられなくなり、勉強が手につかなくなるだろう。

 気を変えようと、ボクは父さんと母さんが使っている四畳半の部屋にいくことにした。その部屋は、ボクが中学に入学して3畳の勉強部屋を与えられるまで、姉さんといっしょに使っていた部屋だった。

 姉さんも卒論の資料が入りきらないといって、この間亡くなるまでお祖母さんが寝ていた6畳間に移った。それでその四畳半の部屋は父さんと母さんが使うようになった。

 その部屋には1間(ケン)の押し入れに接して、縦横半間(ゲン)の板の間がついていた。その正方形の板の間はいっぽうの壁の上半分がガラス張りになっていて、部屋の本体から突き出たその板の間に立つと、船の操舵室にいるようだ。ボクはその板の間で空想の舵輪(ダリン)を回したり、隣の寺の木立や崖のむこうの屋並みやその向こうの建ち掛けの東京タワーをみるのが好きだった。押し入れはボクの秘密の隠れ家でもあった。

 その板の間に今では母さんの三面鏡が置かれていて、その脇をまわってガラス窓のそばに行くのはケンノンにみえた。三面鏡にぶつかって角度がずれたら、ボクが部屋に入ったことがバレてしまうだろう。

 押し入れの襖をあけると、前はなかった整理ダンスが下の段にいれてあり、上の段の片側に布団がつまれていた。もう片側は空いていて、もぐり込めそうにみえた。ボクは以前のように押し入れに閉じこもろうと、タンスの抽斗をすこし引いて足をかけ、棚板に両手をかけて身体をもちあげようとした。積まれた布団に身体があたり、布団の下に敷いてあった新聞紙の下から本の表紙がのぞいた。足をタタミにもどして布団をもちあげると、『夫婦生活』という雑誌と謄写版刷りの古びた薄い冊子が出てきた。『夫婦生活』の表紙には、赤や黄色の原色で、太腿あらわに横座りしている半裸体の女が描かれている。披(ヒラ)くと、入浴している女のからだの写真や「最新四大性愛秘術」という活字が目に飛び込んだ。冊子のほうは紙が茶色に変色してガリ切りの文字が読みにくいうえ、まら、だの、つび、だの分からない単語だらけ、また平仮名の「く」の字を縦にながくひき延ばしたのがくり返されているのはどういう意味だろう。ただ全体として、男と女が裸で抱きあってなにかしていることは直感された。

 ボクは見てはいけないものを見た気がして、慌てて雑誌と冊子を新聞紙の下にもどし、思いつくかぎりすべてを元どおりにして四畳半の部屋を出た。

 父さんと母さんはどうしてあんな本を隠しているのだろう? 父さんと母さんも裸で抱きあったりしているのだろうか? 信じられない。その姿を想像するのさえイヤだ。抱きあっていったいなにをしているのだろう?

 勉強部屋にもどると、机のうえにキャロル・ヘイスのプログラムが出しっぱなしになっていた。そのパンツに目を凝らしていると、さっき見た雑誌の横座りの女や入浴中の女体が浮かんできた。いつものようにそのパンツの下の肉体を空想しはじめて、オヤッとおもった。これまでは空想の女体は白地図のようだったのに、今日は色や陰影がついたふつうの地図のようだ。

 ペニスがはちきれそうに固くなっている。ボクは社会の窓をあけ、パンツに手を入れてペニスを握って上から覗いた。こんなふうにペニスをじかに握るのは、風呂に入るとき以外、今日がはじめてだ。充血して赤黒くみえる。握った手の平を前後にうごかすと、快感が身体の奥から湧きだしてくる。手の動きを緩めたり早めたりしてみる。そうするうちに、ますます快感がたかまり、やがて腰の奥から熱いかたまりが肉管をおし広げて駆けあがってきて、ペニスの先端から白い液体が噴きだし、おもわず快感の吐息がもれた。部屋中に青臭い匂いが広がった。これがかねて聞いていた射精だな、と直感した。

 激情が消えると、めんどうな後片付けが待っていた。手をちり紙でぬぐっても精液のネバネバがとりきれない。パンツについた精液はもっと始末に困る。精液が滴らないようにそろそろと便所に行って、落とし紙で拭おうとしたが、布にしみ込んだ精液はそのままゴワゴワと固まりそうだ。こっそり洗濯し、生乾きになるまで勉強カバンに隠しておいて、また履くしかなさそうだ。

 けれども、なんという快感だったろう。ボクはもうこの快感から逃れられないだろう。この快感にはきっとなにかの害があるにちがいない。快感と害は裏と腹に縒り合されている。害をうけいれなければ快感はえられない。だから性は恐ろしい。なにかの本で読んだ「自涜」という言葉が浮かんできた。「じぶんを涜(ケガ)す」ことをボクはやってしまった。このことは、他の秘密の何層倍も罪深い、だれにも云えない秘密だ。とくに、父さんや母さんには知られたくない。たとえ父さんや母さんがこっそり裸で抱きあっているとしても。




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