語り手は(7)



語り手は信用できるか:ホーソンの射程 


第6章 森のなかのリンチ

フォレスト・カーターの場合(3

                 

 岩田 強




         クリントン高校で




 今稿の目的は、フォレスト・カーターの評伝『KKK団員の仮面をはぐ―エイサ=フォレスト・カーターの二重人生』(ダン・カーター著)   Dan T. Carter, Unmasking the Klansman: The Double Life of Asa and Forrest Carter (Athens, Georgia: NewSouth Books, 2023)   に依拠しつつ、フォレスト・カーターの若年期について考察することだが、はじめにボクの問題意識を再確認しておくと、〈アメリカ先住民を親愛するフォレスト・カーターが、おなじアメリカの少数民族であるアフリカ系アメリカ人を差別するのはなぜかを理解すること〉だった。フォレスト・カーターの成長史をたどることで、その人種差別意識や極右的言動の淵源を確認してみたい。フォレスト・カーターはいったいいつ頃から、どのような経路をへて、黒人やユダヤ人にたいして人種差別的な言動をしめしたり、極右的な政治思想を口にするようになったのだろうか。

 ダン・カーターの評伝によると、エイサ=フォレスト・カーター(以降、誤解の生じない文脈ではエイサと略記) は、1925年、アラバマ州のオックスフォードという村に近いダーマンヴィルという非法人地域の小作農家に生まれた(3) 注1

(注1) 以降同書からの引用はページ数に丸かっこをつけて本文中に挿入する


 非法人地域というのは村や町といった行政単位に属さない地域のことだそうで、日本では考えにくいが、合衆国やカナダにはよくあるという。広大な土地に人家がポツンポツンと散在し、村や町を形成するほど密集していない状態を想像したらよいのだろうか。知人のアメリカ人によると、市民サービスは村や町より上位の行政単位(市や郡) からうけ、納税も市や郡にたいしておこなうという。

 母親ハーマイオンは独立戦争時代にまでさかのぼる旧家ウェザリー家とピンソン家の血をひいていたが、父親ラルフのカーター家は曾祖父の代から小作人だった。

 祖父のエドウィンは近くの農場をわたり歩く日雇い労働者で、収入の不足を補うため3部屋のうち2部屋を貸間にだし、家族はのこる1室と居間と差し掛け屋根のポーチにわら布団をしいて寝ていた。

 父親のラルフも、1921年にハーマイオンと結婚後、数マイルはなれたアニストンで日雇い労働者として長時間働くかたわら、オックスフォードに小さな農地を借り綿花を育てていた。かれは文盲にちかく、読み書きは結婚後妻から教えられて覚えたが、生まれつき数字に明るく、また天性の利発さをもっていて、「干し草作り機からトラクターまでどんな機具でも修理できるかれの能力」(10) は隣人たちに知られていた。

 カーター家の経済に変化が起きたのは1931年だった。この年ハーマイオンの父親 J. W.ウェザリーが死去、アニストン郊外のホワイト・プレインズにあった60エーカーの農地と家屋をハーマイオンに遺贈したからだ。もっとも「仕事中毒」だったラルフは、妻に遺産がころがりこんだ後も、アニストンのソフトドリンク工場の運転手として週40時間働くかたわら、酪農業をはじめたり、雑貨屋を開店するなど、「大恐慌で貧窮化したアラバマの水準でいえば、エイサが田舎の小学校をでて、数マイルはなれたオックスフォード村の〈町〉の高校に進学したころには、カーター家は中流階級になっていた」(12) と評伝は書いている。アラバマ州の就学年齢は7歳から16歳、1931年はエイサが小学校に入学する前年にあたる。両親の困窮時代もかすかに記憶し、それが遺産の相続で好転した変転の意味もなにがしか理解できる年齢だったと考えてよいだろう。

 評伝の作者ダン・カーターは当時のオックスフォード村の様子をまるでじぶんもそこに住んでいたかのように生き生きと描写していて、ボクはある個人的な感懐を刺激された。


 農場の少年ならだれでも同じだが、エイサ・カーターにもしなければならない日課の一覧表があったが、周りのコミュニティーには余暇の時間にたのしめるさまざまな娯楽があった。オックスフォードはアラバマ州北東部のアパラチア山脈山麓にひろがる丘陵地帯にあり、バーミンガムとアトランタの中間に位置していた。本通りには洋品店、食料雑貨屋、理髪店がそれぞれ1軒とその他の店が一握りほどあり、地元の農夫たちが出入りしていた。汽車は1870年代にもっと大きな隣り町のアニストンまで来ていたが、オックスフォードの街路は1925年になっても町の境界でとまっていて、その先は未舗装でしじゅう通行不能になる踏みわけ道が四方にのびていた。だがエイサが1940年にオックスフォード高校に通いはじめるころまでには、フランクリン・ルーズベルトのニューディールによる潤沢な資金であらたに舗装された大通りが東西、南北に四通していた。

 大恐慌のさなか、連邦政府は町の周辺の40万エーカー近くを購入してタラディーガ国立森林を開設したが、これが地元民のかっこうの狩猟地になった。また町の小ささにもかかわらず、オックスフォードの起業家がピシアス騎士団の支部(1892年設立) を映画館に改装した。入場料は15セント、トム・ミックスの西部劇とターザンの冒険ものなどの二本立てが上映される週末には20セントだった。

   『KKK団員の仮面をはぐ―エイサ=フォレスト・カーターの二重人生』 p. 12


 引用中の「オックスフォードの街路は1925年になっても町の境界でとまっていて、その先は未舗装でしじゅう通行不能になる踏みわけ道が四方にのびていた」を読むと、西部劇の映画によく出てくる、わずかばかりの人家が広大な原野のなかにポツンと孤立しているといった情景がうかんでくる。オックスフォードの人口は1940年国勢調査では1393人、おそらく200軒前後の人家があつまった程度の集落だったであろう。ウィキペディアによると1940年のアラバマ州の平均寿命は60.2歳だったから、おおざっぱに計算すると年あたりの平均人口は約23人、学校の1学年はクラスが1つできるかどうかという勘定になる。オックスフォード郊外の非法人地区だったダーマンヴィルやホワイト・プレインズの学校はさらに少人数だったにちがいない。

 唐突だが、上記の引用文と以下の拙文を読みくらべてほしい。


 バーバの生まれた村は、100軒くらいは家があったかなあ、ちいさなちいさな山里でテレビはなくラジオも入りにくかったけど、小学校、郵便局、お寺、お宮はあったし、お百姓さんばかりでなく、食料品店、酒屋、雑貨屋、医者、歯医者、仕立屋、散髪屋、樽屋、時計の修理屋、三味線のお師匠さん、猟師、うどん屋、旅籠屋、葬儀屋などいろんなお店があり、造り酒屋や八千代座という芝居小屋まであったのよ。

           「タヌキに化かされること」 『百万遍』第11号


これは妻の郷里である愛媛県の山村の1955年ころの光景である。上記の引用文より15年ほど時代が下り、妻の郷里のほうが集落の複雑化がすすんでいるようだが、米国と日本というまったく異なる歴史・文化圏に属していても、集落が成り立つ基本的要件は共通しているという気がする。日常生活に必要な店舗と職種(食料品店、雑貨店、衣料品店、理髪店、医者など) が最低限そろっていて、日常生活がその集落内で曲がりなりにも循環できるというのが集落が成り立つための基本要件だろう。さらに、きびしい労働からくるストレスを解消するための装置(前者の狩猟地や劇場、後者の芝居小屋や酒屋) が用意されていることも共通している。

 妻の村の小学校の場合、妻の学年は1クラス24名だった。中学校は近隣のいくつかの小学校から集まって2クラス60名前後だったが、そのうち高校に進学したのは10名前後、約15%だった。小学校の同級生24名にかぎれば、高校へ進学したのはその内の3名のみだった。この進学率には、さまざまな要因が絡まっているにせよ、経済的理由が大きく影響していたことは間違いない。

 こうした事情はエイサの場合でも同様だったのではないだろうか。評伝によると、1943年にエイサがオックスフォード高校を卒業したときの級友数は47名だった(21) 。地元の高校ではなく、オックスフォードの〈町〉の高校へ進学できたのは、限られた数の学生だけだっただろう。その進学にはカーター家が「中流階級」になっていたことが影響していたにちがいない。

 ダン・カーターの評伝は、小中学校時代のエイサについてはほとんど触れていない。唯一、7歳のときの、小学校入学時の記念写真らしいエイサの写真と、母親が祖父から相続した家屋の写真が挿入されているのみである。祖父が建てたというその家は、フォーク・ヴィクトリア様式というのだろうか、破風がいくつもあって中流上層向けの家屋にみえる。写真のエイサは神経質そうで、空想をたくましくすれば、生来の明敏さにもかかわらず親の貧しさのため教育がうけられず二つの仕事を掛け持ちして労働に追われている父親と、旧家育ちの専業主婦で禁酒運動に熱心な母親の、水と油の夫婦生活や、それが子どもたちの心身におよぼすストレスを憶測したくなる。というのも、後年のエイサにつきまとう痼疾―飲酒癖と暴力嗜好―はエイサのみのものではなく、7歳年下の弟ダグラスにも見られるからで、それらの性癖が共通の生育過程でかれらの無意識に刷りこまれたものであった可能性も度外視できないからだ。



7歳のとき



 さて、オックスフォード高校時代に入ると、評伝はエイサの生活への言及がふえ、かれの人物像が具体的に見えはじめる。残念なことに、この評伝ではエイサ・カーターの手紙や日記の類は一切使用されていないが、ダン・カーターは、フレッド・バージャーという『アニストン・スター』紙の記者がエイサの少年時代の遊び友達や高校の級友5名にたいしておこなったインタヴューや、その他の関係者(エイサの兄弟など) に自らがおこなったインタヴューを活用して、エイサの高校生活をありありと再現している。


 かれ(エイサ・カーター)の級友たちの一致した意見では、かれは女の子に人気があり、学校演劇の才能ある役者で、友だちの一人のコトバを借りれば、〈クラスでいちばん頭がよく〉つねにオールAの成績をとっていた。バージャーのインタヴューに応じた5人の級友は誰一人、カーターがスポーツ以外の問題でじぶんの意見に固執したのを記憶していなかった。

前掲書  p. 20


 エイサが女子学生にモテたことは以下の事実が如実にしめしている。1946春、海軍を除隊後、エイサはアラバマ州の両親の農場に帰還し、間もなくセルマ・ウォーカーという女性と付き合いはじめるが、そのセルマはカーターの高校時代の同級生だった。好男子のカーターはたくさんの女学生から慕われていて、高校時代カーターとセルマはステディーの関係ではなかったが、セルマのほうが執心だったようで、カーターの軍務中たびたび手紙を送って、かれを引き寄せたらしい。もちろん3年の海軍生活でカーターが女性に飢えていたという事情もあっただろう。

 演劇についていえば、カーターはジェラルド・ベルの『気ちがいはどっちだ?』という劇で主役の医者を演じて好評を博した。この芝居は1930年代アメリカの高校演劇部が好んで上演したファルスだそうで、男子高校だったボクの母校の演劇部が、女性の登場が少ない有島武郎の『ドモ又の死』を十八番(オハコ)にしていたのを思い出した。級友の一人は「その他のことはほとんど覚えていないが、〈本物のハリウッドの俳優みたいな〉エイサの落着きはらった演技だけは忘れられない」(15) と証言している。役者の本質はじぶん以外の存在にのり移ることで、自己と他者の正確な分析にもとづく自己の滅却と他者への憑依が不可欠だ。後年エイサが実の息子を甥と詐称し、〈フォレスト・カーター〉に扮役したことをかんがえると、高校時代の演劇への傾倒がことさら興味ぶかく感じられる。

 カーターはスポーツでも活躍する。16歳で高校に入学すると、アメリカンフットボール部に入部し、身長の不足を持ち前のスピードと攻撃精神でカバーして、初年時からレギュラーの座を射止め、最終学年では仲間から副主将に選出された。テネシー・ウィリアムズ『焼けたトタン屋根の上のネコ』に描かれているように、アメリカンフットボールで活躍することはアメリカの青少年にとって特別の意味をもっている。それは勝れた体力の証であるばかりでなく、その人間の存在全体の有能さを示唆するものとうけとられる。ラグビー部で活躍したという経歴が就職戦線で有利にはたらく日本の場合を思い合わせたらいいかもしれない。

 カーターが〈頭がよかった〉ことは級友たちのコトバでも分かるが、かれの弟は「あいつ(エイサ)は〈本の虫〉じゃなかった。レポートの宿題が出ても提出の朝まで放っておいて、早起きをして、ささっと書いて、Aをとっていた」(14) と証言している。カーターはまじめな優等生タイプではなく、頭の回転のはやい、眼から鼻にぬけるタイプだったようだ。

 勉強ができ、級長をつとめ、女の子につきまとわれ、学生演劇の主役を演じ、スポーツにも秀でた浅黒い美男子の少年・・・小さな田舎町で、周りにはじぶん以上に優秀な子どもは一人もおらず、なにをやっても注目され、誉めそやされ、行くところ可ならざるはなしといった少年のイメージがうかんでくる。とうぜん満々たる自負、自信がその少年の心を満たしていただろう。高校時代のエイサがスポーツ以外のことでじぶんの意見に固執したことがなかったというのは当然だったかもしれない。なにをしても衆目がじぶんに集まるという状況では、声を荒げて自説をまくしたてる必要などなかっただろうからだ。高校時代のエイサにとって、オックスフォードという町やそこの住人たちは相手にするまでもない、矮小なものに感じられていたのではないか。ダン・カーターは、評伝の出版を30年以上さかのぼる1991年に、「あるKKK団員の変貌」という小文を『ニューヨーク・タイムズ』紙に寄稿し、フォレスト・カーターの前身がKKK団員だったことを暴露したことがあるが、その記事のなかで「ハンサムで、野心満々で、いつも演技しているエイサ・カーターは、この眠っているようなアラバマの小さな田舎町のオックスフォードから脱出するためなら、どんなことでもやることを級友たちはよく知っていた」と書いている。



高校生



 ダン・カーターは 上記のさまざまな根拠にもとづいて、「少年時代と思春期の前期をつうじて、エイサ・カーターが政治に関心をもったり、人種問題に憑りつかれたりしたことを示す兆候はほとんどなかった」(19) と断定している。

 だが、そのことはエイサが黒人差別と無縁に成長したことを意味しない。評伝によると、エイサの生まれ育ったアラバマ州カルフーン郡は、州の黒人人口の1%以下しか住んでいなかったにもかかわらず、州内でおきたリンチ事件の5%がその郡内でおきたという(8) 。フリーダム・ライドのバスを暴徒が火炎びんで焼き討ちしたのがアニストンだったことは前稿でふれたが、そのアニストンはカルフーン郡の郡庁所在地である。エイサの生まれ故郷は黒人差別が熾烈で、リンチや焼き討ちといった暴力に結びつきやすい土地柄であった。そのような風土のなかで白人少年として成長することは、その意識、無意識にどのような影響を与えるのだろうか。

 評伝の作者ダン・カーターは、エイサより15歳年下の1940年生まれの白人だが、おなじく深南部のサウス・カロライナ州の農村育ちで、南部における白人と黒人の複雑微妙な関係を即自的に語れる出自をもっていて、そうした自己体験を直截に語ったイタリックス体の短章(本論では下線によって表示)を本文中のところどころに挿入することによって、白人少年の対黒人意識を説得力ゆたかに活写している。以下はその一例。


 州検定のこうした歴史教科書が黒人の子どもや10代の若者にとってどれほど残酷で屈辱的であろうとも、ほとんどの白人高校生にとって当時の歴史教科書は電話番号簿と同様の意味しかもっていなかった。つまりそれら教科書の唯一の存在意義は、白人南部人の過去意識に具体的な形をあたえ、またそれを反映してくれることだった。教室の外では、映画、大衆小説、〈愛国的〉な式典、19世紀末から20世紀初頭に建てられた無数の南部連合国の記念碑、南部の町や市の通りの名前、学校の名前、建物の名前、何気ない会話等々、それらすべてが白人にとっての南部の心象風景を作りあげていた。北部人の裏切り、南部人の武勇、黒人の退廃などに関するそうした集合的記憶は、連綿とつづく敗北と貧困と後進性を慰めてくれたし、また白人支配と黒人抑圧の日常的な残虐行為を正当化してくれさえした。白人南部人が作りあげた神話的過去を学ぶためには、エイサ・カーターは退屈な高校の歴史教科書を読む必要などなかったのだ。


 そしてそれはわたしも同じだった。子どもとして、またティーンエイジャーとして、わたしが暮していた世界は依然として分離された南部のそれだった。ここでわたしは〈分離された〉という語をその語が孕んでいるアイロニーを十二分に意識して使っている。間違いなくそれは、黒人たちをあらゆる経済的階梯の最下底に押しこめる抑圧的な文化だった。その文化によって黒人たちは、わたしの子ども時代の学校から法律によって排除され、わたしの住んでいたコミュニティーの投票箱から無慈悲な慣例によって締めだされていた。だが、それは人種分離的ではなかった。わたしは物心ついてからずっと黒人の子どもたちをそばで見かけたし、おしゃべりもしたし、遊んだり(ときにはケンカしたり) もした。9歳の夏からは、わたしはタバコ畑で週に5日働くようになったが、それは黒人のおとなの男や女、わたしとおなじ年頃の女の子や男の子と肩を並べてのことだった。

 にもかかわらず、心を動揺させる瞬間はあった。1952年の夏、わたしは大好きな一人のおばの家に1週間滞在するため、グレーハウンドバスにのってチャールストンまで旅行した。レーク・シティーのすぐ東にひろがる平野を進んでいると、ひとりの年配の黒人女性がバスを呼びとめ、孫娘(だとおもう) を30マイル足らず先の小さな町まで乗せるのに必要なバス代を、しっかり括ったハンカチのなかから数え数えとり出した。バスが走りだし、8歳か9歳のその女の子がほとんどガラ空きの前部の座席におずおずと座っているのをわたしは通路越しに見つめていた。はじめのうち運転手は女の子のほうを見なかったが、やがて目を向けると「後ろに行きな」とぶっきら棒にいった。女の子は聞こえなかったか、それでなければ、じぶんの犯しているタブーを理解していなかった。女の子が座席から動かないでいると、運転手はだしぬけにバスを路肩に停車させ、立ちあがり、女の子のそばに立って「後ろに行けといっただろう!」と頭ごなしにどなった。女の子は恐ろしさのあまり麻痺して、座席から動けずにしくしく泣いていた。するとバスの後部から、貧しい身なりの年配の黒人の男が通路を歩いてきて、やさしく女の子の手をとって「いい子だから、後ろの、わたしのそばにおいで」といった。30分後その子がバスを降りるまで、すすり泣きがおさまっていくのを聞きながら、わたしは意識してその子のほうを見ないようにしていた。わたしは少年時代の何事にもまして、このことを鮮明に記憶している。だが、わたしの怒りは、そのような蛮行を許容する制度にではなく、運転手の無礼な態度に向けられていた。わたしは12歳の子どもだったが、〈黒人には丁寧に〉しなければいけないことを知っていた。

                前掲書 pp. 18-19 


 ダン少年の怒りは黒人少女を邪険にあつかう運転手の無礼に向けられた。それはダン少年が、12歳にしてすでに、黒人は丁寧に扱わなければいけないという白人社会の通念(ポリティカル・コレクトネス)を学びとっていたからだ。

 だが、この評伝を書いている80歳過ぎのダン・カーターは、12歳のときのじぶんの怒りが的外れであったことを自覚している。ダン少年が教えこまれた「黒人には丁寧に」は、問題の真の原因であるジム・クロー法(「そのような蛮行を許容する制度」) を見えなくさせるようにしか働かなかった。「黒人には丁寧に」はノーブレス・オブリージュの一種にすぎなかったのであって、黒人を上から目線で見ている点では、〈良心的〉なダン少年も粗暴な運転手と択ぶところはなかったのだ。

 つまり、「わたしは12歳の子どもだったが、〈黒人には丁寧に〉しなければいけないことを知っていた」には80歳のダン・カーターの苦い自己批判がこもっている。黒人の幼友達と遊んだりケンカしたり肩をならべて労働した経験があっても、じぶんの内の黒人異種視(蔑視) の根深い情念に12歳のじぶんは無自覚だった。〈黒人には丁寧に〉の引用符には、80歳のダン・カーターのそのような内省が暗示されているようにおもえる。

 だが、上記の意味での人種差別ははたして根絶することが可能なのかどうか。1964年に公民権法が施行され法制度上の黒人差別はなくなっても、白人の下意識に黒人異種視(蔑視) が潜みつづけることを1967年の映画「夜の大捜査線」(ノーマン・ジュイソン監督) がみごとに描いていた。バラク・オバマが2008年に大統領になるまでにはさらに50年近くの歳月の経過を待たなければならなかったのであって、現在でもその問題が解消されたかどうか、ボクには分からない。白人アメリカ人の下意識にひそむ黒人異種視(蔑視) は、制度上の人種平等が実現してもなお残る、最後の難問なのかもしれない。

 少年時代のエイサにも、ダン・カーターと同様、近所の農園に住むジョン・ジャクソンという黒人の遊び友達がいてエイサを〈アイツ〉と呼ぶような間柄だったが、「〈アイツ〉から黒人だといってバカにされた覚えはいちどもないな」と証言している(19) 。すでに述べたように、エイサ・カーターはオックスフォード高校を卒業するまで「人種問題に憑りつかれた」形跡はなかったようだ。けれども、エイサの下意識にまでほり下げれば、問題はけっして単純ではなかったはずだ。以下の引用はそのことを推量させる。


 この時代に成長した白人南部人の大半は狂信的な人種差別主義者にも人種差別活動家にもならなかったが、子ども時代の教えはつねに素地にのこっていた。つまり心の底では、黒人は子供のような人種で、ぜったいに白人とは対等になれず、そこから這いあがろうとする試みはいかなるものでも脅威であり、その脅威は外部の扇動者が出てきて白人が支配する社会の微妙なバランスを崩そうとすると、よりいっそう危険なものになる、と感じていた。

              前掲書 p.20


 この引用のごとく、エイサの下意識のなかにも人種差別の〈素地〉が胚胎されていて、なにかのキッカケがあれば、それが言動の表面に噴出してきてもおかしくないような状態だったのではないだろうか。

 

     *


 前節までかんがえてきて、高校卒業までのエイサ・カーターには人種差別や極右的思想の明徴はなかったが、当時の白人南部人の常として黒人差別の素地は十分もっていたであろうことが了解された。エイサは高校卒業後海軍を志願し、1943年か1946年までの3年間、兵役生活をすごす。かれが人種差別家に変貌をするのはこの3年間においてであって、この論考の対象もその兵役時代にうつることになるのだが、ここではその兵役時代をとびこして、除隊後エイサが入学したコロラド大学の入学初日のあるエピソードをとりあげることにする。それがエイサの変化をこれ以上ないほど劇的に示しているからだ。

 1946年3月、エイサは正式な名誉除隊証明書をうけとってアラバマ州アニストン郊外の両親の農場に帰還するが、終戦から半年以上たっていて、目ぼしい就職口は早目に除隊した先輩兵にとられ、思ったような仕事口が見つからない。けっきょくエイサはフロリダ州タラハシでソフトドリンクの瓶詰め業をやっていた母方の叔父のもとで働くことを決意して、1947年2月、除隊後親しくなった高校同窓生のセルマ・ウォーカーを車に乗せ、途中のモンゴメリー市で6ドルの結婚許可証代をはらい、遺言検認裁判所の判事のまえで二人だけの結婚誓約をおこない、タラハシまでの4時間のドライブが二人の新婚旅行となった。

 このときエイサは21歳5か月。20歳のときに19歳の妻と駆け落ち結婚したボクにはエイサの「恍惚と不安、二つ我にあり」の心境が偲ばれて、かれの結婚の顛末をながながと書いてみたくなったが、フロリダにいって半年もたたないうちに、叔父はアルコール中毒で、瓶詰め業には未来がないことが明らかになり、妻をかかえたエイサは方向転換を余儀なくされた。

 エイサが選んだのは復員兵援護法を利用してコロラド大学に入学するという道だった。生活のための知識を身につけることが焦眉の急だったろうことは推測するまでもない。結婚後大学を1年休学して出版社の断裁部で段ボール詰めのアルバイトをやっていたボクには、これまた身につまされる話だ。

 さて、以下に紹介する文章は、1947年9月、コロラド大学の入学初日のオリエンテーションで、エイサとたまたま隣りあわせに坐ったある学生が書いたものだ。その学生の名前はジェリー・コペルといい、後年ジャーナリスト、弁護士、コロラド州議会議員として活躍することになる。ダン・カーターはジェリー・コペルに何度もインタヴューしていて、以下の文章も評伝の注記によってその所在を知った。


 50年前の今月、わたしは新入生オリエンテーションをうけるため、ボールダーのコロラド大学キャンパスにあるマッキー講堂に入っていった。ある若者のとなりの座席がいくつか並んで空いていたので、わたしはかれのとなりに坐った。プログラムが始まるまで、わたしたちは名前を名のりあい、二人とも復員兵(かれは22歳、わたしは19歳) で、ともに実家からとおく離れ、ともにジャーナリズム入門コースに登録していることが分かった。

  オリエンテーションが終わったあと、わたしたちはマッキー講堂を出て本館に行き、ジャーナリズム学部の学部長だったゲール・ウォルドロップに自己紹介した。わたしたちは二人とも英作文と英文学のコースに履修登録していたので、登校日ごとに時間割の一部が重なった。かれの名前はエイサ・カーターといった。かれは南部の出身で、こり固まった人種差別主義者だった。

 カーターとわたしは単なる知り合い以上だったが、友だちではなかった。わたしたちは授業が終わると、ほとんど毎日いっしょにコーヒーを飲んだが、わたしがいつもそうしていたように人種問題に踏みこまなければ、かれは会話の名手で、理解力に富んでいた。わたしたちは二人とも政治にどっぷり漬かっていた。カーターはその後早々にエド・ジョンソン対ジーン・サーヴィの民主党予備選の選挙運動に関与した。わたしはかれが1948年にサーヴィにたいして「きたないペテン」といってもよいようなことをやったと信じている。

 カーターのことでわたしが理解できなかったのは、アメリカ・インディアンの祖父のことをあれほど賞賛と愛情をこめて話す人間が、この国で虐待されているもう一つの少数民族にたいしてあれほど共感を欠くことができるのは何故なのかということだった。その年の夏までにカーターはコロラド大から姿を消し、それ以降わたしはかれと一度も会わなかったが、1950年代、1960年代になってかれは新聞紙上を賑わせるようになった。

 カーターはアラバマ州知事ジョージ・ウォーレスのスピーチ代筆者になった。最近ウォーレスの伝記『憤怒の政治』を出版したエモリー大学歴史学教授のダン・カーター(エイサの遠縁) は、1963年のウォーレスのスピーチ「今日も人種分離、あすも人種分離、永遠に人種分離!」はエイサが書いたものだと主張している。

 1991年11月の『ニューヨークタイムズ』書評欄で、カーター教授はエイサ・カーターを「KKKのテロリスト、右翼のラジオ解説者、アメリカ生まれのファッシストにしてユダヤ人排斥者、民衆扇動者」と呼んでいる。もし1950年代、1960年代の新聞に目を通すならば、北アラバマ白人市民会議の指導者として、また独自のKKK団の組織者として、エイサがそれらすべてを兼ねていたことが分かるだろう。エイサ・カーターはジョージ・ウォーレスを「リベラルすぎる」と断じて、ウォーレスの対抗馬として知事選に立候補し、敗北した。

 かれは〈フォレスト・カーター〉という筆名で『南軍あがりの無法者ジョージー・ウェイルズ』という小説を書き、1973年に世間に再登場してきた。この本はその後タイトルを『一旗あげにテキサスへ』に変えて再出版され、それをクリント・イーストウッドが「無法者ジョージー・ウェイルズ」という映画に脚色した。さらにエイサはジェロニモについての歴史小説『山上で待機せよ』を書いた。

 1976年、かれは同じくフォレスト・カーター名で『リトル・トリーの教育』を書いた。この本の売れ行きははじめ芳しくなかったが、1990年代に再出版されると、ニューヨークタイムズのノンフィクション部門のベストセラー・リストのトップを占めた。エイサは1979年に死去していたけれども、この本は1991年に全米書店協会の〈今年度の本〉賞を受賞した。

 〈共同通信〉によると、「この本はカーターが孤児リトル・トリーとしてすごした日々の回想記という触れこみになっている。1930年代、5歳のかれはチェロキー族の祖母と祖父とともにテネシー州で暮すようになり、山々やインディアンの暮し方を愛するようになった、というのである」。

 『リトル・トリー』は小冊子だが、大人にも子どもにも適していて、これまでにわたしが読んだうちでもっともたのしかった本の一冊である。『リトル・トリー』は100万部近く売れ、〈アメリカ先住民文学の授業の補助教材に指定〉されており、アメリカ文学におけるその位置を疑う者はいない。もっとも批評家のうちでは、この本のどこまでがフィクションでどこまでが事実かがいまだに論議されているが・・・。

 『リトル・トリー』が全国的な名声を博すようになると、文芸批評家たちは親カーター派と反カーター派に二分されはじめ、反カーター派は『リトル・トリー』は孤児ではない、祖父母と暮したこともない、ジョージ・ウォーレスのスピーチ代筆者だった白人の書いた作り話だと主張した。

 わたしは1948年にエイサ・カーターと知り合い、かれが目を輝かせて祖父のことを語り、子ども時代のことを話しても両親について触れたことがなく、じぶんのなかのインディアンの血をどれほど誇りにおもっているか語るのを聞いたことがあるので、かれの回想記はフィクションというより事実だと証言できる。そうでないとしたら、かれは『リトル・トリー』を書き上げる28年前からウソをつき始めたことになる。わたしと交わした毎日の長時間の議論のなかで、かれは一度として口を滑らしたことがなかった。そういうことは可能かもしれないが、わたしにはありそうもないことにおもえる。

 エイサ・カーターが1970年代になって1950年代、60年代とはちがう人間に変身したのかどうか、わたしには分からない。けれども、わたしとしては贖罪というものの存在を信じたい。今月その生誕記念日をむかえるマーティン・ルーサー・キングJr.は、その人生と活動がエイサ・カーターのそれらとどこかで交差したにちがいない人物だが、1970年代のエイサ・カーターを知ったら、どんなことを語っただろう。

 コロラド大のキャンパスにいたころ、エイサ・カーターは妻と赤ん坊といっしょに退役軍人村と呼ばれていた一角のカマボコ兵舎に住んでいた。わたしはかれの家族と会ったことはなかった(すでに書いたように、わたしたちは友だちといえるほど親しくなかった) が、『リトル・トリー』のなかに出てくる次の一節は、かれの家族からエイサ・カーターへの惜別の辞として読むことのできるだろう。リトル・トリーの〈おじいさん〉はこう語っている。

 「年をとって、愛していた人々のことを思い出すと、憶えているのは良いことばかりで、悪いことは一つも憶えていない。ということは、悪いことにはなんの価値もないということなのさ」

 エイサ・カーターはひどいことをやって、多くの人びとを傷つけ害をあたえたけれども、『リトル・トリー』を書くことで、この人生で、なにがしか良いことを遺したのである。

Jerry Kopel, “Asa Carter,” Colorado Statesman, 16 Jan. , 1998.


 人生において大学入学時が独特なのは日本でも合衆国でもおなじだろう。大学という新しい舞台にどんな仮面をつけて登場するか、だれもが無意識にでも考える。その仮面が肉付きの面になる者もいれば、いくども面をつけかえる者もいる。大学入学時にできた友人たちは、かれらの脱皮前か脱皮中の時代を知っているようなものだ。コペルはエイサが人種差別主義者の仮面をかぶって大学に初登場したことを知っており、またその後30年間のエイサの仮面のつけ替えを見届けたうえでこの文章を書いている。長いつきあいに裏打ちされた正確な理解と批判が旧友への愛惜と綯い交ぜられて、味わいふかい追悼文になっているが、この文章は以下の点を明らかにしてくれる点でボクにはとくに興味ぶかい。


1)エイサは22歳でコロラド大に入学した時点で、すでに〈こり固まった人種差別主義者〉になっていた。

2)エイサは間もなく政治運動に実践的に関わりはじめ、政敵にたいするペテンじみた策謀にさえ加担するようになった。

3)エイサはすでに、じぶんは孤児でアメリカ先住民の祖父母に育てられたという偽りの履歴を作りあげていた。その作り話は、祖父母の話はしても両親については触れないなど、入念な計算のもとに組み立てられていて、毎日のように長時間話していたコペルにも齟齬や矛盾は感じとれなかった。

4)アメリカ先住民を親愛するエイサがおなじ少数民族のアフリカ系アメリカ人にたいして「あれほど共感を欠く」理由がコペルには理解できなかった。


 大学入学の初日にすでにエイサが「こり固まった人種差別主義者」になっていたという証言は興味ぶかい。それはエイサの変貌が高校卒業から大学入学までの期間、すなわちかれの軍役中、に起きたことをこれ以上ないほど明瞭に示しているからだ。すでに見たように高校時代のエイサには黒人差別の言動はなかった。ところが大学に入学したときには、人種を話題にすると差別的なコトバを果てしなく言いつのるので、辟易したコペルは議論が人種問題に向かないように気を配らなければならなかった、というのである。当時のほとんどの白人南部人の下意識には黒人異種視(蔑視) が胚胎されていたことはすでに触れたが、エイサのなかではそれがなにかの原因で顕在化していたわけだ。

 それではその原因とはなんだったのだろうか。評伝をもとにボクが推測するその原因は以下のとおりだ。

 1943年5月中旬にオックスフォード高校を卒業したエイサは、ただちに海軍の士官候補生訓練プログラムV-12に応募し、6月15日の早朝、新兵たちの集結地であるバーミンガムまで父親が運転する車で送ってもらい、そこからプログラムが実施されるミシシッピー大学にむかった(22) 。

 ウィキペディアによると、V-12は戦線の拡大にともなって需要が急増する海軍士官を養成するため、通常2年間の訓練を8か月に短縮した速成コースで、1943年7月1日から1946年6月30日の間に125,000名以上がこのプログラムを参加したという。V-12の正式名称は「海軍V-12大学訓練プログラム」といい、全米131の大学が海軍に協力してそれぞれのキャンパスで学業と軍事訓練が実施された。最初の1か月は新兵訓練所での海兵隊教官による「地獄のような新兵訓練」、つづく3か月は週15時間の軍事訓練に17時間の学業が加味され、ここまでの第1段階に合格した者のみがさらに4か月の第2段階に進級できた注2。受講者のなかには兵役終了後V-12をうけた大学にもどり、学位を取得した者もいたという。

(注2) V-12 Navy College Training Program のサイトでは、第1段階は4か月、第2段階は3か月となっていて、評伝の記述とは食い違っている。どちらの記述が正しいかは不明。

Cf.  https://en.wikipedia.org/wiki/V-12_Navy_College_Training_Program


 エイサにとってV-12はじぶんの高校卒業と同時に開始された未知の新制度だったことになる。エイサがV-12をどのように見ていたか、評伝はなにも触れていない。したがって以下はボクの推測になるが、エイサにとってV-12はこのうえなく魅力的に見えたのではないだろうか。

 2年間の訓練が8か月で済ませられること自体、時間の節約だったが、そのうえV-12を修了すれば海軍少尉の資格が与られたのである。これは通常4年制大学を卒業して海軍に入隊する者に与えられる資格だった(Cf. https://www.military-ranks.org/navy/ensign) 。

つまりV-12 は4年間の訓練を8か月に短縮できるうえ、少尉に特進できるシステムだったわけだ。

 ルーズベルト大統領が復員兵援護法を導入するのは1年後の1944年で、エイサの高校卒業時には兵役経験が大学教育に結びつく制度はなかった。だが、V-12の修了者のうちに、退役後、受講大学にもどって学位を取得した例があったことをかんがえると、V-12で受講した学業を大学の要卒単位に読みかえる何らかの方策が設けられていたのかもしれない。もしそうした互換制度があったとすれば、とうぜん海軍は、新兵募集を促進するため、V-12のその利点をひろく喧伝しただろう。高校卒業生にとってV-12は、大学の授業料の一部を海軍が出してくれる有利な制度におもえたかもしれない。

 さて、出願の動機の詮索は措くとして、すでに述べたように、エイサは高校卒業と同時に海軍を志願しV-12の受講手続きをとった。V-12は新しい制度で実際に体験した者はまだいなかったが、2年間の訓練を8か月に圧縮するのだから、その訓練が過酷なものになることは予想される。エイサはそういう過酷であろうプログラムに挑戦することを選んだわけで、かれのこの選択が「緊密に編みあげられたオックスフォードの白人コミュニティー」の絶賛をあびた、と評伝は書いている。


DAR〈アメリカ革命の娘たち〉は7月の例会の冒頭で、戦争勃発直後にエイサが書いてDAR賞をもらった「過ぎし日の栄光」という詩を朗読してカーターへの賛仰を表した。その一節には「英雄たちの血潮に染まった/栄光の軍旗に歓呼して・・・」とあった(22) 。


 〈アメリカ革命の娘たち〉はアメリカ独立戦争に参戦した人びとの子孫のみによって構成されている愛国的な女性団体で、全国に3000の支部と18万人の会員を擁する大組織だった。日本でいえば、国防婦人会のようなものだろう。応召兵が地域の人びとから千人針の襷をもらい幟や万歳の声で送り出される光景を思い浮かべずにいられない。エイサも周囲の人びとの期待を一身にあびて晴れがましく入隊したのである。

 ところが、V-12の受講は予想したようには順調に進まなかった。エイサは高校で初級代数しか学んでいなかったため、上級代数のテストにくりかえし落第し、不安を紛らわせるため酒を飲み、泥酔して2度授業を欠席した結果、補習授業からも除籍されてしまう。公文書がどんどん破棄される日本から見ると、海軍が訓練生の2度の欠席、補習授業からの除籍といったこまかな記録まで保存していることに驚くが、とうぜん11月初めの記録として、エイサをふくむ40名の受講生がV-12プログラムの監督官に呼び出され、後半の第2段階への進級不可を通告された記録も残されている(23) 。

 この落第はエイサにとって経験したことのない深刻な打撃だったにちがいない。すでに見たように、かれはホワイト・プレインズやオックスフォードの学校ではつねにAの成績をとり、級友から〈いちばん頭がいい〉と認められ、じぶんの頭脳に絶対の自信をもっていたはずだ。だが、それは井のなかの蛙の自信だったのであって、せまい在所を出た途端、三、四ケ月もしないうちにその自信は粉々にうち砕かれた。翌日の授業での立ち往生や屈辱を予感して、かれがアルコールに手を出した気持ちは理解できる。飲酒はすでに高校時代からかれの悪癖になっていた(13) 。評伝によると、V-12の受講生の大半は大学の教養課程かそれ以上の学歴をもっていた。エイサはすでにスタート時点で不利な立場に立たされていたのだが、順風満帆だったこれまでの学校生活で、じぶんの理解力を過信していたのだろう。失敗の経験がなかっただけに、転落のショックはいっそう応えただろう。エイサの弟のラリーは「農場育ちの17歳の少年が、じぶんより高学歴で洗練されたクラス仲間に怖気づいているところを想像してみろよ」(23) とインタヴューで答えているが、身内のいない異郷で、思いがけない蹉跌に茫然とする17歳の少年の心中を想いやると、肉親でなくとも悲哀を感じざるをえない。

 エイサはこの打撃にどのように対処したか。評伝によると、エイサは1943年11月初めにV-12の落第が判明した後、コロラド大学で実施される海軍無線技士訓練プログラムに応募する。無線技士は「羨望される」職だったと評伝は書いている(23) が、モールス信号のような特殊技術が習得でき、ちょくせつ戦闘に参加しなくてすむ任務だからだろうか。訓練プログラムの所要期間は書かれていないが、「9か月後に」エイサはカリフォルニア州ロングビーチの海軍基地に出頭して、兵員輸送船アップリング号の無線技士に着任した、と評伝には書かれている。エイサが受講したのと同時期の1944年に制作された「無線技士の戦い」という海軍無線技士の訓練風景を描いた8分間の宣伝フィルム

 (https://archive.org/details/52364USNavyRadioOperatorTraining)  がネット上に残っていて、それを見た印象では、無線技士の養成には少なくとも数か月はかかりそうだ。おそらくエイサはV-12の落第が判明した直後に、無線技士プログラムに応募したのであろう。エイサは多くの者が落伍するモールス信号の習得をはじめ、すべての教程で優秀の評価をうけ、1944年の前半には無線技士の資格を取得していたとおもわれる。このことは、V-12による少尉任官という当初の夢が潰えたあと、エイサが自暴自棄におちいらず、理性的に方向転換し、次善の策(無線技士) にむかって努力を傾注できたことを示唆しているだろう。

 もっとも、それはエイサの内面の葛藤とは別問題だったのかもしれない。評伝によると、アップリング号の乗組員325名のうちの10数名に1990年代になって『アニストン・スター』紙の記者がおこなったインタヴューが残っていて、それによると、その10数名の同艦者のうち2名しかエイサを記憶していなかったという。その内の一人はエイサが「静かで、内気といえるほど」(25) だったと回想していて、アップリング号ではエイサが目立たない存在だったことをうかがわせる。高校時代や後の政治活動家時代の自由奔放なエイサとは別人の観がある。エイサを覚えていたもう一人の戦友はエイサとよく飲み歩いたらしく、〈エイス〉(エイサの愛称) は「たいていは物静かだったが、2、3杯飲みすぎると話は別で、しかもそれが始終あったんだ。そうなるとアイツはタガが外れて、はんぶんインディアンの祖父母からインディアンの土地で狩りや射撃を学びながら育ったなどと喋りまくっていた。なかにはホラ話も混じっているな、とオレはおもったが、それをいうなら、オレたちはたいていホラ吹きだろ」と答えたという(26) 。

 この飲み友だちの証言は、エイサが高校卒業直後にはすでに、インディアンの祖父母に育てられたという偽りの履歴を吹聴していたことを教えてくれる点でも興味ぶかいが、いま注目したいのは二人の証言がエイサの〈物静かさ〉で一致している点だ。酔後の豹変からかんがえて、エイサのふだんの物静かさの奥には、さまざまな鬱屈が抑し殺されていたにちがいない。なにをやっても喝采され、臆することなくふるまえた高校時代には考えられなかったことだ。

 人種差別に関しては、飲み友だちの戦友が伝えている次の「ちょっとヒヤッとさせるような」挿話が示唆的だ。サン・ディエゴの海軍基地に停泊中、上陸許可で離船したエイサと戦友が酒場で飲んでいるうち、そばで飲んでいた空軍兵がボクシングのヘビー級チャンピオンのジョー・ルイス(黒人) についてなにか誉めコトバを口にしたところ、エイサがその空軍兵に詰めよって「あのくそったれのくろんぼ野郎」と罵ったため険悪な雰囲気になり、戦友がいそいでエイサを酒場から連れ出したという(26) 。黒人の友だちジョン・ジャクソンと〈アイツ〉〈オレ〉と呼びあい、人種偏見をいちども感じさせなかった高校時代のエイサとはなにかが変ってしまっている。

 この変化は、入隊後エイサがさまざまな不満をかかえ、心の余裕を失っていたことに原因があったのではないか、とボクは推測する。第一希望だったV-12プログラムでは落第する、希望していた駆逐艦か巡洋艦か空母への配属は叶わず、乗り込めたのは欠陥箇所だらけの見栄えのしない兵員輸送船だったなど、入隊後のエイサには思うに任せないことの連続で、おまけにその不満や憤懣を遠慮会釈なく発散させることもできない。ネガティヴな感情はじぶんに自信がもてる環境でなければ爆発させにくいものだ。高校時代のエイサにはそれができた。失敗続きの軍隊では委縮して、憤懣をおし殺して〈物静か〉にせざるをえない。かれが酒にのめりこんだのは、父親譲りの酒好きという要素もあったにせよ、根本的にはアルコールがなければ内面の鬱屈を吐きだせなかったからではないか。

 評伝によると、エイサは、1944年5月ころ、泥酔して起床ラッパで整列点呼がうけられず、艦内法廷(軍法会議に次ぐ上級法廷) で兵員給与減額の判決をうけ、さらに翌月にも宿酔のため最初の上陸許可からの帰艦が遅れ、ふたたび艦内法廷に立たされたという。この艦内法廷については、「不出頭ないし判決ないしその両者による給与調整の個別命令、カーター=エイサ・アール、5/18/44」という記録がFBI(連邦捜査局) のファイル(BH 157-4634) に残っていたらしい(398, 注59) 。海軍にしろFBIにしろ、このような些末な裁判記録をふくむ膨大な量の記録をどうやって管理し保存しているのか見当もつかないが、それはともかく、この記録のおかげでエイサが泥酔事件を起こしたのが1944年5月18日以前であることが分かる注3。もっともアップリング号は1944年4月9日に進水したばかりの新造艦だったから(Cf.https://en.wikipedia.org/wiki/USS_Appling) 、エイサの泥酔が4月9日以前であることはありえない。いずれにせよそれは、エイサが無線技士訓練をおえてアップリング号に着任したばかりの時期だったにちがいない。そのころのエイサの心底には、酒の力を借りなければ発散しがたい鬱屈が蟠っていたのではないだろうか。兵員給与で酒が買いやすくなったという事情や、禁酒協会に入りかねないほど飲酒を嫌った母親の監視の目がなくなったという事情だけでは説明しきれないのではないだろうか。まず自信の喪失があり、そのためイライラとした過敏な心理状態が恒常的につづき、その結果心底に抑圧されていたもの―たとえば黒人蔑視―が些細な刺激で表面化されてしまう。ジョー・ルイスへの卑罵語はそのような心理機序で表出されたのではなかったか。

(注3) すでに触れたように、評伝ではエイサが「9か月後」にアップリング号に乗艦したとしているが、なにから数えて「9か月後」なのか曖昧である。かりにV-12で落第した1943年11月を起点とすると、9か月後は1944年の7月になり、懲罰をうけた5月18日にはまだ着任していないことになる。この矛盾はどう解釈すべきか分からない。



三等水兵


     

 さて、兵役中に期間を限定すれば、評伝中でエイサのアルコール問題がとりあげられているのは、上記の2回の艦内法廷とジョー・ルイスをめぐるケンカ騒ぎだけである。替わって焦点があてられていくのは、エイサの政治・思想活動に関してだ。

 1929年の大恐慌後、世界各国は長期にわたって経済不況にくるしみ、そのなかからムソリーニやヒトラーなどのファッシストが台頭してくるが、アメリカ国内でも不況の影響をつよくうける貧困層を中心に、KKK団、ムッソリーニに共鳴する〈黒シャツ隊〉、ナチス・ドイツに倣った〈ドイツ系アメリカ人協会〉など、多くの親ファッシストグループが勢力を拡大していく。ところが、1941年12月の日本の真珠湾攻撃をうけて、合衆国が日本、ドイツ、イタリアに宣戦布告して交戦状態に突入すると、これらアメリカ人ファッシストたちは従来の思想的立場について再考を迫られ、軌道修正や離合集散がおこる。

 このようなアメリカ人ファッシストのうち、エイサがもっともつよい影響を受けたのはジェラルド・スミス(1898~1976) だった。スミスはもとは聖書回帰を唱えるディサイプルス派教会の牧師だったが、大企業が独占している富の再分割を唱えるヒューイ・ロングの〈富の共有化運動〉に共鳴して政治運動にはいった人物である。大衆の動きに敏感なポピュリスト的な政治家だったようで、最初はニューディールに同情的なリベラル派の立場をとっていたが、ヒューイ・ロングが議会で暗殺されると、急に右翼に転向し、反ユダヤ、反共産、人種分離の旗幟を鮮明にした。かれの特徴をもっとも端的に表している一節を評伝から引用しよう。


 じぶんの雑誌『剣と旗』(『十字架と旗』の間違えであろう―論者注)のなかで、スミスはヒトラーを「聖書を信仰するキリスト教徒」と擁護し、ある私信のなかで、このナチの指導者はドイツ国民を滅ぼそうとするユダヤ人の陰謀の犠牲者だ、と不平をのべている。

 スミスが反ユダヤ主義に走ったのは後年のことだが、かれは昔からの人種差別家だった。1920年代、23歳の聖職者だったころ、かれはシカゴのダンスホールに(かれ曰く、客たちに福音を説くために) 行ったことがあった。そこでかれは、白人の娘が「黒人の男と頬を寄せあい」、腰を旋回させて踊っているのを見て「胸が悪くなった」。かれは「わたしは善良で素朴なプランテーションの黒ん坊たちは好きだが」、連中は性病にとりつかれた子どもじみた人種で、「食人をやめてまだ200年も経っていないのだ」といった。1940年代までにかれは、共産主義者と黒人とユダヤ人の強まっていく団結こそ、アメリカのキリスト教文明にとっての最大の脅威だ、というようになった。とりわけかれが支持者たちに警告したのは、「人種混交の背後にユダヤ人がいる」ことを忘れるな、ということだった。

  前掲書 p.35


 トランプ対ハリスの大統領選から目が離せない現在のボクたちからすると、スミスが1943年に〈アメリカ第一党〉を結党したことは興味ぶかい。この党はその綱領に、孤立主義、「劣等民族」の移民反対、米国はキリスト教国であることの宣言、人種分離の厳格化、黒人アメリカ人のアフリカへの移送などを掲げていて、スミスは党の公認候補として1944年の大統領選に出馬して大敗した。〈アメリカ・ファースト〉という標語ばかりでなくその綱領のいくつかにおいても、トランプとの類似は驚くほどだ。

 さて、ジェラルド・スミスとエイサの結びつきが明るみに出たのは、海軍情報部がアップリング号艦内にファッシスト的文書を回覧している読書グループがあることを探知したことによる。評伝は探知の時期を「1944年はじめ」(31) としているが、すでに指摘したように、アップリング号は進水自体が1944年4月9日なので、「1944年はじめ」には疑問がのこるが、この情報をうけた艦長は腹心の部下をその読書グループにスパイとして潜入させたという。開戦以降、海軍のどの艦船でも、乗組員内の〈第五列〉(味方のなかに潜む敵方の同調者) に神経をとがらせていたからだ。そのスパイからの報告には、問題の読書グループはファッシスト的、極右的な文書、主としてジェラルド・スミスの月刊誌『十字架と旗』などを回覧し、議論していて、エイサはその積極的な参加者で、スミスの「信奉者」だと記されていた(35) 。

 高校時代、政治や歴史に無関心で、黒人と友だち付きあいしていたエイサが、反ユダヤ主義の黒人差別主義者の思想に共感するのはおおきな変化である。しかもその変化は高校卒業後1年ほどのうちに急激におきたことになる。以下の挿話はその変化がエイサの家族を驚かせたことを如実に物語っている。

 1945年5月、アップリング号が修理・改装のためロングビーチの海軍工廠に停泊中、エイサはアラバマの実家に帰郷した。評伝にはその間の帰郷の記載がないので、1943年11月2日の帰郷以来、1年半ぶりの帰郷であったようだ。そのとき7歳だった弟のラリーは、後年うけたインタヴューで、エイサの変貌ぶりを次のように証言している。


 「はっきりと覚えているけど、〈アンチャン〉(家族はエイサをそう呼んでいた) が大股に行ったり来たりしながら、1時間ばかりもの間、共産主義だのその危険だのについて興奮してまくし立てるのを、父ちゃんと母ちゃんとオレはテーブルについて聞いていた」とラリーは回想している。エイサの考えの多くはジェラルド・スミスの月刊誌『旗と十字架』(正しくは『十字架と旗』)のページからちょくせつ抜きだして来たもののようだった。(中略)かれ(=スミス)の考えはエイサの共感を呼んだ。エイサはスミスがアメリカ社会への共産主義者の浸透と呼んでいる状態にもっとも憤慨しているようだった。ラリーは「オレにはアンチャンがなんのことを話しているのかぜんぜん分からなかった」が、兄の熱狂ぶりには驚かされた。その晩遅く、エイサが15歳の弟(じつは13歳)のダグに、いい本だからアドルフ・ヒットラーの『わが闘争』を読めと勧めたり、父親の質問に答えて、家族で『旗と十字架』(ママ)を定期購読したらどうか、と勧めるのに耳を傾けていた。  

 前掲書 p.35-6


 このときエイサがどんな気持ちで帰郷し、家族に長広舌をふるったかについて、評伝はなにも語っていない。したがって、以下は根拠薄弱なボクの推量として書く。

 前回の帰郷(1943年11月) はV-12で落第した直後のことで、周囲の期待が大きかっただけに、エイサとしては両親にも高校の同級生にもコミュニティーの人びとにも会わせる顔がないような、惨めな帰郷だっただろう。ところが、それから1年半たった今回(1945年5月) の帰郷では、高校時代には口にしたこともない政治や人種問題の話を滔々と捲したて、弟にはヒトラーの『わが闘争』を読めといったり、父親にはスミスの『十字架と旗』の定期購読を勧めたりしている。この激変をどう解釈したらよいだろうか。

 最近じぶんが熱中して学んでいる新しい知識を家族に紹介したいという気持ちはもちろんあっただろう。しかしその奥に、じぶんの勉強ぶりを誇示したいという動機、V-12落第で失墜した秀才としての誇りをとりもどしたいという動機が潜んでいたのではないだろうか。そのためには他人とはちがうこと、他人にはできないことをやったり言ったりする必要がある。アメリカ国民がこぞって憎悪するヒトラーへの崇拝を口にすることや、共産主義者と黒人とユダヤ人の団結がアメリカの白人文化を破壊するという異説注4 を述べることは、いずれも滅多にヒトが口にしないことだ。また、言うまでもなく、ファッシスト国家と戦っている軍艦のなかで親ファッシズムの読書会を開くことも滅多にヒトのやらないことだ。このようなエイサの言動の背後には、人の意表をつくことを言ったりやったりしようという動機があり、その動機は潰れた面目をとりもどしたい、自尊心を回復したいという心底の願望から生まれてきたのではなかったか。

(注4) リベラルと黒人とユダヤ人の団結が右翼的な白人層から危険視されるようになるのは、10年後の公民権運動の渦中においてで、この時代にはまだ一般化していなかった。


 はじめに断ったように、以上の解釈は根拠薄弱なボクの推測にもとづいている。しかし、このような想定をしなければ、V-12落第後数か月のうちに、突如としてエイサが親ファッシズム的な読書会に参加し、時論に逆行してヒトラーを賛美しはじめる理由がうまく理解できないのだ。弟のラリーは「アンチャン(=エイサ)は世界を一変させるようなやり方で歴史に名を刻みたいと心に決めていた。第二のリンカーンかリーになりたかったんだな。(中略) どう説明していいか分からないけど、アンチャンが話しているのを聞いていると、ひとかどの人間になるってことが、物すごい野心になっていたんだな」(40) と語っている。ヒトと違うことをやる並外れた存在でありたいというのが、エイサの終生変わらぬ願望であり生き方だったのだ。ある意味で、二度目の帰郷は、エイサがじぶんのこの生き方を家族相手に試みた実験の場だったとも考えられる。暴力によって世界を支配しようというヒトラーの思想を両親や弟たちに高飛車に説いて聞かせても、両親はかれの逆鱗にふれることを恐れて反論もしてこない。それがエイサにじぶんのやり方への自信をあたえ、さらにかれをその方向へと深入りさせたということはあるかもしれない。V-12落第による絶望、自暴自棄にかられての泥酔騒動、異数を追って読書会へ参加、そして両親による無言の裁可、そのような経過をたどって過激な人種差別扇動家がエイサのなかで育っていったのではないだろうか。

了 



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