受験
福島 勝彦
自分が所属する組織以外で作成された問題による試験を受け、その結果によって、何らかの「資格」を手に入れることができることを〈受験〉と呼ぶとすれば、私の受験の初体験は、珠算(そろばん)の検定試験だった。
私自身にその記憶はないが、親によれば、小学校3年生の時、電柱の貼り紙を見て、私の方から「そろばんを習いたい」と云ったそうだ。おそらく、クラスの同級生に通っている者がいて、その影響を受けたのであろう。
小学校近くの畳屋の二階にその珠算塾はあった。畳屋の次男の20代の男性が先生で、商業学校でそろばんを習得し、どういう事情があったのか知らないが、就職せずに、実家の二階で珠算塾を始めたようである。襖を外した六畳二間ぐらいに長机を並べ、20人ほどは座っていただろうか、練習は1回1時間ほどで、日曜以外の週6日もあった。
自分のレベルに合った教材を見ながら、パチパチと計算したり、時には先生の読み上げる数字をそろばんで弾く「読み上げ算」の練習をしたりした。先生は野球が好きで、授業が終わると、家の前の道路で、みんなでゴムボールを使って野球をしたが、それも楽しみだった。日曜日には、グローブとバットを持って、近くの広っぱで「軟式野球」をしたこともある。
習いはじめてどのぐらい経った頃だろうか、「ぼつぼつ、検定試験を受けてみようか」といわれて、日曜日に、10人ほどの塾生といっしょに電車に乗って、どこか遠くの高等学校らしきところに行った。検定試験は、六級から一級まであったが、私は先生にいわれて五級を受験した。4桁の数字が10行並んでいるのを足す「見取り算」というのが10題、同程度の桁数の「掛け算」と「割り算」が10題ずつという3種目があって、ぞれぞれ、制限時間が10分だった。そして、各種目、70点が合格点で、3種目とも合格していれば、「五級」の免状を貰うことができた。
試験は午前中にあって、結果は後日ということになっていたが、先生には何かのコネによるルートがあるのか、昼前には結果を入手して教えてくれた。さいわい全員が合格していたが、あとで先生が私にこっそりと耳打ちした。
「オール満点やったぞ!」
3種目とも満点だったということで、低い級ではあるが、なかなかの快挙だとのこと。のちに、主催者から特別な賞品が出るようになったそうだが、そのときはそんなものは何もなく、代わりに、先生が食堂でうどんを奢ってくれた。
その後、四級、三級の試験は、オール満点ではなかったが、一発で合格した。三級になると、桁数が増えるだけではなく、当時は「伝票算」という種目が付け加わった。実際の伝票に見立てた小さな冊子が配られ、そこには1番からナンバーを振った数字が並んでいて、最初、その1番の数字だけを伝票をめくりながら足して行き、その10枚の合計が1番の解答となる。同様に2番以下も足していって、それが10題あった。もちろん、練習用の伝票冊子があって、それを使って事前にしっかり練習しておくのだが、この三級から合格ラインが80点にアップされたこともあって、ぼつぼつと不合格者が目立つようになっていた。
「おまえ、試験度胸があるんやな。あがったりせえへんのか?」
「はい」
その三級を難なく突破した私に対する先生の褒め言葉だった。
しかし、次の二級からは本当に難関だった。桁数が三級の6桁から一挙に8桁に跳ね上がり、そこに、4桁ほどの足し算をそろばんを使わないで計算する「見取り暗算」という種目も加わった。暗算とは、そろばんのイメージを頭の中に思い浮かべ、そのイメージのそろばんを弾いて計算するのである。そうすると、実際にそろばんの珠を弾くよりも早く計算できる。上級者になると、そろばんを弾いていても、同時に頭の中で暗算していて、そろばんはそれを確認するだけ、というようになってくる。それぐらいでないと、時間内に大量の計算はできないのである。
ただ、頭の中のそろばんといっても、それをどれぐらいイメージできるか、何桁まで見えて、動かすことができるか、それは練習次第で大きくなっていくのだが、個人差もあって、各人の限界もある。私の場合、3桁が限界だった。だから、それよりも大きな桁を計算する時は、3桁ずつに区切って、計算するしかなかった。
そんなこんなで、二級は私にとって高い壁となり、4回ほど失敗しただろうか。やっと合格した時には6年生になっていたと思う。
さらに、次の一級となると、桁数が10桁に跳ね上がり、さらに難度は高まった。検定試験では一級が最高峰で、一級を持っていれば、珠算を教える資格があるとさえ云われていた。当然、失敗が何回も繰り返され、小学校を卒業する時期が近づいてきた。中学に入ると勉強が忙しくなるので、そろばんは小学校でやめようと思っていたが、二級まで取って、あと一息なんだから、途中でやめてしまうのは惜しいと先生に説得され、それまでいっしょに頑張って二級まで到達した同級生とともに、中学に入っても、一級を取るまでは続けることにした。そして、5回ほど受験しただろうか、やっと一級に合格したのは、1年生の秋も深まった頃だった。
中学に入ると、各科目別に違う先生が教室にやって来て、いきなりレベルも高くなり、小学校時代の「楽しいお勉強」から「厳しい学習」へと様変わりした。そして、その最後には「高校入試」という大きな関門があり、その先には、いろんな種類の、レベルもさまざまな教育機関が待っていた。
義務教育の中学を卒業するとすぐに就職して、社会人になっていく者も少なからずいたが、この頃から、高校、そして大学へと進学する者が増えていった。〈受験〉によって各学校に振り分けられ、その後の人生ルートも定まっていく。そのような、大きな緊張がその後も続いていくが、そのプレッシャーに何とか耐えられたのは、かつてそろばんの先生にかけられた「おまえには試験度胸がある」というひと言だったかもしれない。まったく何の根拠もないにもかかわらず、いわばそれを「盲信」して、自分は大丈夫、「試験の神さま」がついているのだから、と言い聞かせていたのだろう。そのおかげで、高校、大学の入学試験は無事ストレートに通過することができた。
しかし、「自慢話」ができるのはこのあたりまでで、その「神さま」の効果も徐々に消えていく。次の受験は「大学院の入学試験」だった。
でもこれは入学試験とはいっても、同じ大学の次の段階に昇級する「内部」で作成された試験だったので、冒頭に挙げた〈受験〉の定義には当てはまらないかもしれない。事実、その難易度は、学部、学科によってまちまちであった。本当に「見込み」のある者のみを厳選し、その代わりに将来の「ポスト」もある程度保証するという方針の学科もあれば、定員に空きがある限り、大学在籍の自動延長のように進学を認めるというところもあって、私の属していた学科はその後者のタイプだった。その場合、競争というより、基礎的な学力(私の学科の場合は語学力)が一定の水準に達していれば、合格できるという甘いもので、その代わり、将来の保証はまったくなかった。
そんな試験ではあったが、私には大きな重荷であった。自分が選んだ「専門」にもかかわらず、その学問になかなか馴染むことができず、勉強も捗らなかった。しかし、私は、もう少し時間があれば何とか道が拓けるのではないか、あるいは、本音では、大学生という気楽な身分をもう少し続けていたい、という身勝手な心積もりで、「就職活動」などまったく念頭に置かずに、大学院修士課程の入学試験を受けたのであった。
その試験の出来は惨憺たるものに思われたが、結果は合格だった。おそらく、定員が空いていたので、「お情け」で入れてもらえたのだろう。しかし、私は結局、せっかくの「お情け」にも応えることができず、修士課程の在籍期間に、「専門」への道を切り拓くことを諦め、遅まきながら「就職」する道に進む決心をした。
春になると、事務室の前の掲示板に「求人票」が貼り出されはじめた。法学部や経済学部とは違って、文学部にくる求人は職種が限られていた。名の通った大手は、新聞社や放送局、それに出版関係ぐらいしかなかったが、私はすでに「大学新卒」よりも大分年を食っていたので、新聞社や放送局は「年齢制限」に引っ掛かり、それがなかった出版社に標的を絞った。
応募した新潮社、中央公論社、筑摩書房など有名な会社はすべて東京にあり、その入社試験を受けるために何度も上京した。試験会場は、たしか、上智大学とか、成城大学、それに東京大学の時もあり、試験が終わってから、あの本郷の安田講堂や三四郎池を見物したりした。
出版社というのは、外目よりも規模が小さい会社で、採用人数も僅かであったが、とても人気のある職種で、当時は給料も好いという評判だったので、どの会場も数百人もの応募者が押しかけていて、それを見ただけで、これは駄目だ、と思ってしまった。
ちょうどその数年前に上京して働いていた、同じ学科の友人かいて、私は、上京するたびに、彼のアパートに泊めてもらっていたのだが、そんな彼に、夜、新宿などの酒場に連れていってもらって杯を傾けたりするのが楽しく、後半は、就職試験よりも、彼のところに遊びに行くのが目的みたいになっていた。
出版社以外に、「日本ビジネスコンサルタント」という名前の会社が、交通費と宿泊費を支給してくれるというので、応募して、東京・青山にある会社まで行ったことがあった。よく名前を耳にする「六本木」あたりのビジネスホテルに泊まって、近くの食堂で晩ごはんを食べ、翌日のペーパーテストと面接に臨んだ。
私はその会社のことをまったく知らず、「コンサルタント」とあるので、「経営コンサルタント」のような業務をするのだろうかと思っていたら、実は、日立系のコンピューターの会社だった。そして、面接の時、コンピューターを操作する際、いろいろと「色分け」がされているので、「色弱」のあなたは残念ながら採用できないといわれた。そんな制限があるのなら、求人票に書いておいてくれればいいのに思ったが、新幹線代に宿泊費まで貰って東京まで遊びに来れたのだから、それで好しとした。しかし、いま思えば、1970年代初頭の「コンピューター」の仕事とはどんなものだったのだろうか、少しは気になる。それに、あの会社はその後どうなったのだろうかとネットで調べてみると、「日立情報システムズ」~「日立システムズ」と社名変更して、いまだ健在のようであった。
その他、住んでいる大阪でもいくつかの会社を受けてみたが、結果はすべて不合格だった。かつての「試験に強い」はずの自分はいったいどこに行ってしまったのだろうか?
いわゆる「高度経済成長」に指しかかった好景気の時代に、全戦全敗とはどうしたことだろうか。今にして思えば、「就職」に対する心構えが全然できていなかったのだ。本屋で一冊、手引き書のようなものを買ってきて、それを頼りに、ちょこちょこと「準備」らしきものをしていただけだった。相手の会社のこともよく調べていなかったし、それに、採用の鍵を握ると思われる「面接」についてはまったく対策など考えてもいなかった。のちに、「面接の要領」について書かれた本がいっぱいあって、そこには様々な注意事項やテクニックが懇切ていねいに説明されているのを知ったが、何の「準備」もなく、ただ問われるままに思いついたことを淡々と述べるこの応募者を目にして、手だれの人事担当者はすぐに、職業に対する意識の低さを見破ったのであろう。実際、私自身、就職すると決めていながら、心底では、社会に出ることに対する「恐怖心」のようなものが拭いきれず、これから働こうという自分が、ぜんぜん別の人間みたいな、他人事みたいな気分が流れていたのであろう。
どこにも就職できず、結局、「修士論文」を提出したあと、引き続き「博士課程」に進学したいという願書を出した。その選考は、試験ではなく、「論文審査」だけだったが、就職しますと宣言しておきながら、就職できず、おめおめと戻ってきた「出戻り」のような私に対する「口頭試問」は厳しいものだった。前回の、締め切り前のおっつけ仕事のようだった「卒業論文」に比べて、かたちは整っていたが、その内容が空疎なことは私自身が知悉していた。卒論と比べても、明らかに「モチベーション」が低下していたのだ。当然のごとく、「博士課程」の進学は不合格だった。
まったく行き場を失ってしまった私にとって、唯一の救いとなったのは「教員免許」だった。自分には向いていないと勝手に決めつけ、できるだけ避けていた「教職」だったが、取っておくと、いざという時の「保険」みたいにいつか役に立つかもしれないよ、と友人らに勧められて、大学院に入ってから、慌てて必要単位を集め、ぎりぎりで、中学一級・高校二級の「英語の教員免許」を取っていたのだが、それがさっそく役に立った。
公立学校はいろいろ試験などがあって面倒だが、私立学校なら、経営者の団体に履歴書を出しておけば、ひょっとすれば「非常勤講師」の口ぐらいはあるかもしれない、と、それも、大学院在学中からアルバイトで非常勤講師に行っている友人に教えられて、履歴書を出しておくと、3月の末になって、大阪市内のある私立男子校から、非常勤講師の話があった。これには試験のようなものはなく、校長との簡単な面接で採用が決まった。
こうして、思いがけなくも高校1年のクラスの教壇に立つことになったのだが、あれほど嫌がっていた教師の仕事も、やってみると結構おもしろい、ということに気がついた。それは、免許取得の最終段階で「教育実習」に行った時に知ったのだが、こんな自分の話でも生徒はしっかりと聴いてくれ、中にはあとで質問に来てくれる者もいて、そんな彼らの「こども」らしい、素直な可愛さに、強く癒されるものを感じたのであった。
もちろん、教室では不快な出来事も多く、腹を立てて怒鳴り散らしたり、あるいは、教室の秩序を取り戻すために、わざと「怒り狂う」振りをしたりして、そんなあとは深い自己嫌悪に悩まされた。でも、そんなことが10回あったとしても、11回目に、巧まぬ優しい心遣いを見せてくれる生徒が一人でもいれば、それらがすべてきれいに拭い去られ、温かいもので心が満たされていく気がして、それが、そのあとも仕事を続けて行く「ちから」となっていくのであった。
また、教師の世界というのにも水が合った。私が最初にお世話になった学校が特別だったのかもしれないが、4月の始業式の日、他の数名の新任の専任・非常勤の教師とともに「生徒朝礼」で紹介され、そのあとのホームルームなどが終わって、生徒が午前中に帰宅すると、生徒食堂の片隅に、全職員が集められた。
テーブルには生徒が食べるようなランチのセットとともにビール瓶が林立している。私たち「新任」が校長、教頭らの近くの席に座らされ、はじめに、みんなに紹介されてから、乾杯となった。
生徒食堂の他の席には、午後からの部活動に備えて、大勢の生徒たちが食事をしていたが、そんなことにはいっさい構わず、教師たちは、大声で談笑しながら、次々とビールのコップを傾け、ビール瓶を空にしていった。そして、そんな教師たちに対して、生徒たちも何とも思わず、黙々と食欲を満たしているようだった。いつの間にか、教師の姿が減っていき、気がつくと、私の側に何人かの教師が残ったビール瓶を持って集まっていた。彼らは英語の教師たちだった。
この学校では、毎年解散して組み換えられる「学年の担任団」より、メンバーが固定している「教科」のグループの方が学校組織の中核となっていて、新米教師の私も「英語科」の末席に加えられた。といっても、各学期末に催される「懇親会」に呼んでもらえるだけだったが、この懇親会はただの酒席ではなく、昼間に校内で開かれている「教科会議」ではなかなか出てこないような「本音」の仕事の話が、アルコールの勢いも借りて、活発になされたりするのであった。
私は学生時代の一時期、とある「サークル」に入っていて、そこでなんどか「懇親会(コンパ)」を体験したことがあった。それは、サークル内の上下関係が厳然と存在する中で下級生が「隠し芸」や「卑猥な歌唱」を強制されるという、いわゆる「体育会系」や企業の「社内宴会」ほどではないが、それに近い「伝統的』な雰囲気が残ったもので、あまり好きではなかった。しかし、この学校の英語科の「宴会」は、まったく上下関係もなく、新米の私の拙い意見にも親切に耳を傾けてくれて、好きなお酒が存分に飲めるだけでなく、そんな自由闊達で温かい空気がとても心地いいものだった。
そのような「厚遇」や、また、生徒たちとも馴染んできて、授業するのが楽しいとも思えるようになってきたので、親しくなった英語科の先生とも相談して、この学校の「専任教諭」に採用してもらえるよう頼んでみることになった。
その頃、大阪では「公立高校」が全盛だった。「私立高校」は公立高校に落ちた者や、始めから公立には入学できそうもない学力の者が行くところで、したがって、生徒の「質」も悪く、また、学校経営もワンマンで放漫なところが多くて、給料もよくない、というイメージが根強くあった。だから、私立の教師はあくまで「腰掛け」で、採用試験を受けて、公立に就職するのが王道だと、一般に思われていた。
しかし、私が非常勤で職を得たこの学校は、私立とはいえ、戦前からの古い歴史を持ち、その前身は「商業学校」で、大阪市内の中心部にあったことから、あたりの「老舗」の子弟が多数通っていて、その縁で、その息子たちも通うという、いっぱしの「伝統校」だった。戦後になって、「新制高校」の時代になると、3年間の高校のほか、その下に、戦前からのリピーターに応えるために中学校も併設されていた。もっとも、その中学は3クラスほどだったのに対して、高校はその倍以上の8クラスほどあって、これは、いわゆる公立と「併願」して流れてきた生徒たちだった。だから、私が受け持った高校1年というのは、中学からエスカレーターで入ってきた者と、公立中学から受験して入ってきた者が混じっていて、当然その区別はなされていなかったが、その持つ雰囲気によって、なんとなく違いが判る気がした。前者は、やはり、どこかおっとりとした「お坊ちゃん気質」のようなものが感じられて、折りに触れて確かめてみると、たしかにそうだった。しかしいずれにしても、それなりに高い授業料を払える家庭に育ってきて、だいたいにおいて、おおらかなゆとりのようなものがあり、教えていても、「根底的な困難」に遭遇することは少なかった。
「みんな、公立、公立って云うけど、公立に行ったら、何年かごとに転勤があって、どんな学校に飛ばされるかわかれへん。そうなったら、せっかく慣れ親しんだ学校や生徒ともお別れで、また一からやり直しや。その点、私学におったら、転勤はあらへん。そこが気に入ってたら、定年までゆっくり働ける。それに、うちなんか、給料も公立と比べて、悪くはないでぇ」
親しくなった英語科の先生に相談すると、そのような答えが返ってきて、私はさっそく、校長室へと向かった。
校長も、元英語の先生だったそうで、最初の面接の時から好意的な感じで、私の願いをニコニコしながら聴いて、「そんなにこの学校が気に入ってくれましたか」と云ってもらえたので、よい返事がもらえるかと期待していたのだが、「私も、あなたの授業ぶりを少し見せてもらって、いろいろ感心したところもあったので、そう云ってもらえるととてもうれしいです。しかし...」
要するに、非常勤講師ならば、来年度以降もずっと来てもらいたい、ただ「専任教諭」となれば、実は、本校の卒業生でこの春大学を卒業する者がいて、すでに教育実習も本校で済ませて、彼に専任の英語の教諭に来てもらうことが内定している、なぜ、彼にこだわるかというと、彼は在学中から野球部に在籍して、その主将を務めるなど中心選手で、大学野球でも大活躍していた、そんな彼に、英語を教えるとともに、野球部のコーチもしてもらい、ゆくゆくは監督になってもらうつもりだ、とのことだった。たしかに、この高校の野球部は、サッカー部、テニス部と並んで、全国レベルの実力を誇っており、その年の夏も甲子園でベスト8に入る活躍ぶりだった。
そんなことで、専任教諭の道は閉ざされてしまったが、どうしても専任にというのなら、また経営者団体に履歴書を出しておいてもらったら、私もなんとか口添えしてあげましょう、ということになった。
それが秋の中頃のことだったが、その後、年が明けても、履歴書の反応は何もなかった。あの「口添え」というのも、単なるリップサービスだったのか、と諦めかけていたところ、2月頃になって、校長から「あのあと、なにかありましたか?」と尋ねられたので、「いいえ、なんにも」と答えた。そして、来年もここで非常勤だな、と諦め気分でいると、3月に入って、突然、阪急京都線の沿線にある学校から連絡があった。
私は、京阪沿線に住んでいたので、京都に行くのも京阪電車を使っていて、阪急京都線とはまったく縁がなかった。その学校のことも、一度ぐらい名前を聴いたことがあるかも、という程度だったが、指定された日時に、その学校の最寄りの駅に降り立つと、改札のところに白髪の老人が待っていて、それが、その学校の校長だった。
駅前のとあるレストランのようなところに連れていかれ、そこで、料理やビールも出してもらって、なにか雑談のような、実は「採用面接」が始まった。30分ぐらいだったか、もっと居ただろうか、どんな話をしたのかまったく記憶に残っていないが、その校長は、なぜかセカセカとして、こちらの話にゆっくり耳を傾けることもなく、終始自分のペースを話を進めて、それでは、うちに専任教諭で来てもらいましょう、とあっさりと採用が決まった。校長は、私が通っていた大学の大先輩に当たるらしく、「同じ学校を出てると、やっぱり気心がよく知れるね」と別れ際におっしゃったのだけ憶えている。
少し前に、あれだけ苦労して、就職活動で失敗ばかり重ねていたのがうそみたいに、このようにあっけなく決まってしまった「定職」だったが、その後、実に39年間もお世話になることになった。それにしても、この専任にせよ、その前の非常勤にせよ、どうして、3月の、年度末ぎりぎりに話が進展するのか、その後、その理由がいくらか分かってきた。
先に述べたように、その頃の教職は、公立が中心で、私学は後回しだった。それに私学には、専任といえども、公立予備軍の「腰掛け」として、公立採用の機会を待っている教師も多い。そして、そんな人事が発覚するのが、学年末になることが多く、そのため、突然、教師がいなくなって、授業に穴が空いてしまう。それをなんとか埋めるべく奔走する、というのが、この時期の私学の校長の最大の仕事だった。だから、私が「採用面接」を受けたあとも、その学校にはまだ欠員があったようで、いま採用が決まったばかりの私に、白髪の校長が、誰か君の知り合いで好い人はいないだろうか、と問いかけてきて、大いに戸惑ったものである。事実、その年、学校が始まって1~2週間ほどしてからやっと赴任した専任教諭も数人いた。
さて、専任の教諭になると、「授業」以外に、「校務分掌」という仕事がある。「教務」「生活指導」「生徒会指導」「進路指導」「保健指導」「人権教育」「視聴覚教育」などで、授業が、教育に直接携わる「ライン」の業務とすれば、教育を間接的にサポートする「スタッフ」的な業務といえばいいだろうか。専任の教諭は、それらのいくつかを受け持たねばならなかった。それらの中で、比較的「激務」といわれていた「生活指導」と「生徒会指導」は、新任教師にとって避けられない関門となっていたが、それらを無事にこなしたのち、私は「進路指導部」に入ることになった。
この学校は、いわゆる「中高6年一貫」の男子校で、入学試験で中学に入学した生徒はそのまま6年間、高校卒業まで在籍でき、その間、独自のカリキュラムを組んで、6年分の内容を5年間で終了して、最後の1年は大学入試のための勉強に専念する、というのを売り物にしていた。すでに、兵庫県や京都府ではこのタイプの私立校が進学の主流となりつつあったが、大阪はまだまだ公立の有名進学校が多数健在で、この学校に入ってくるのは、地元の小学生の他は、兵庫や京都とは試験日をずらしていたので、そこでの「中学受験」に失敗した者たちが入ってくる、いわば「すべり止め校」であった。だから、「一流進学校」といったような変なプライドはなく、それほど受験勉強偏重の露骨なカリキュラムも組まずに、ほぼ、公立校に倣ったペースで授業を進めていて、ただ、その内容は各教師の力量に任されていたので、中には、かなり高度なことを教えている授業もあった。
「進路指導」に関しても、「受験はプライベートなこと」という雰囲気があって、教師によってはさまざまだが、とくに「受験対策」的なことを強制されはしなかった。ただ、高校3年になれば、具体的に、各生徒の進学先、受験大学選びの相談は受けなければならないので、各年度の卒業生の成績と受験大学の合否を関連させた一覧表を載せた冊子は毎年つくって生徒に配布していた。校務分掌の「進路指導」の仕事といえば、年1回、大学受験が終わったあと、その一覧表の冊子を作成するのが最大の仕事で、他は特にこれというものはなかったのだが、その資料も、その時の高校3年担当の進路指導委員の先生と、長年その一覧表を作成してきた古参の委員の先生の2人が春休みを返上して作成していた。
だからそんな中に入った当初は、少し面喰らった。各学年から1名ずつ計6名も委員が出ているのに、仕事をしているのはその古参の先生と高3の先生の2人だけで、他のものは手持ち無沙汰だった。「進路」の仕事を、できれば、今後の自分の「得意技」にでもならないかと意気込んで入ってきたのに、少し当てが外れた思いだった。
これではだめだ、とにかく何か仕事を見つけなければならない、何かあるはずだ、と考えて、ふと気がついたのは、生徒が志望する大学をどうやって決めているか、ということだった。
図書館には何冊か、受験関連出版社の発行する分厚い「全国大学一覧」のような特集雑誌が置かれていて、生徒たちはそれを読みながら自分の行きたい大学を探しているようだった。その特集雑誌は高校3年の担任にも1冊ずつ配られていて、教師もそれを参考に生徒にアドバイスしていた。しかし、それまで2回、卒業生を送り出した経験から、そんなやり方だけでは、隔靴掻痒、いつも不十分で中途半端な「指導」しかできていない心苦しさを感じていた。
しかし、そんな卒業生たちがときたま学校に遊びに来ることがあって、その時、大学でどんな勉強をしているのか、どんなサークルに入っているのか、どんな生活をしているのか、そんな話をいろいろとしてくれる。それは、私自身が、過去の自分の経験から絞り出して彼らに話して聴かせてきた大学の話よりも、ずっと具体的で新味のある、おもしろいものだった。こんな話を今の生徒に直接聴かせたら、どれほど参考になるだろうか、と、あるとき、進路指導の会議で思い切って提案してみた。
「ワシも卒業生はたくさん知っとって、いろんな話を聴いて、それを生徒らにちょいちょい紹介したってるんやけど、卒業生から直接話してもろたら、その方が話が早いな」
そう云って、いちばんに賛成してくれたのは、例の古参の先生だった。さっそく『卒業生による大学説明会』と銘打った行事が持たれることになった。
私が担当していた学年の卒業生がちょうど大学4回生あたりに在籍していたので、彼らに声をかけ、いろんな学部を案配して、6~7名来てもらい、土曜日の放課後に小講堂でその会を開催した。まったくの自由参加だったが、100名近い高校生らが出席してくれ、講師で来てくれた卒業生たちも思っていた以上に熱弁を振るってくれた。
後輩たちに、いま自分がやっていることを話すのは心地よいことのようだった。また、それを傾聴する高校生たちも、そこに数年後の自分の姿を見る思いがして、夢が膨らんだことだろう。途中から様子を見に来た、あの白髪の校長も、その雰囲気に感心し、急遽、卒業生たちへのお礼として、地元の銘菓を買いに走らせたという。
「卒業していった生徒がその後どうなっているのか、いつも気になってたんやけど、みんな元気に逞しくやっているようで、とてもうれしかったよ」
いつもクールで近寄りがたい雰囲気を醸し出している校長が、そのあとそっと私にそう囁いた。
会が終わってから、近くの寿司屋の2階で卒業生たちへの「謝礼」の意味を込めた「慰労会」が持たれた。同じ学年ばかりだったので、その会は期せずして「ミニ同窓会」と化して大いに盛り上がった。その費用は古参の先生が事前に交渉して、すべて「学校持ち」となっていた。
この大成功によって『卒業生による大学説明会』は恒例の行事となり、毎年開かれることになった。卒業生の話してくれる話は生徒たちにとってとても参考になるものだったので、その要旨を小冊子にプリントして、高校生全員に配布した。すると、ぜひ直接聴きに行きたいけど、土曜日の午後はクラブの練習があって行けない、何とかしてくれないか、という声が強まり、ある特定の学年(この場合、高校1年生)全員に特別に時間をとって聴かせることになった。
こうして『卒業生による大学説明会』は、改まった「公式的」な行事に格上げされたのだが、そうなると、それまでとは少し雰囲気が異なってくる。聴きたい者が出入り自由で参加し、説明する卒業生もそのつもりで意気込んでやって来る、というものだったのが、全員参加となると、なかには嫌々聴いている者もいたり、卒業生の方も、わざわざ招請するのではなく、毎年、ある時期に「教育実習生」としてやってくる者たちを活用するということになったので、義務的になかば強制されたものに感じるのか、以前のような「自由闊達さ」が幾分か失われたように思われた。
しかし、それも毎年繰り返されると、卒業生が後輩のためにいろいろな話をする、という「慣行」が定着して、例えば、文化祭などに卒業生を呼んで様々な行事を催すということも当たり前になって、それまでにはなかった、生徒たちの「たての繋がり」、つまり「歴史」のようなものが自覚されるきっかけとなったのは確かであった。
かくして、かつては「受験生」として関わってきた〈受験〉に今度は、それをサポートする立場として、ふたたび関わることになったのであるが、その後、大学入試に関しては、さまざまな制度の変遷があった。
私が高校3年の担任として、最初に「大学入試」に直面したのは、1978年のことだったが、その当時の大学入試制度は、私自身が入学試験を受けた時とまったく同じで、全国の国公立大学が「一期校」と「二期校」と二分されていた。一期校の試験が3月3日から始まり、その合格発表が3月中旬頃にあって、二期校の試験は3月下旬にあった。出願は、一期校・二期校同時に行うのだが、一期校で失敗しても、二期校で挽回できるという仕組みになっていた。
ただ問題は、「一期校」と「二期校」の大学の割り振りで、いわゆる旧七帝大(北海道・東北・東京・名古屋・京都・大阪・九州)をはじめとする主な「総合大学」は一期校に集中し、二期校は、教員養成、語学、理工系などの「単科大学」もしくは地方の「総合大学」ばかりとなって、本命は一期校で、二期校は「すべり止め」というふうな格差が生じるようになっていた。そこで、翌1979年に「共通一次試験」が導入されると同時に、両者は一本化されることとなった。
「共通一次試験」とは、全国の国公立大学が同時一斉に、同じ問題を使って実施する共通の試験である。それまでは、各大学が個別に別々の問題を作成して実施していたのだから、画期的なことだった。大学側からは「大学の自治」が侵害されるとの反対意見もあったようだが、毎年毎年、入試問題を作成しなければならない大学教員の労力は馬鹿にできず、それからいくらかでも解放されるなら大歓迎という声もあった。とくに、単科大学の場合は、「一般教養」にもある英語、数学の教員はある程度いたが、国語、理科、社会の各科目の専門家となると少人数しかおらず、毎年、同じ人物が出題する結果、ときはクセの強い「難問・奇問」となって受験生を悩ますということもあったが、そんな弊害もなくなることが期待されていた。
さらに、1月中旬に実施される「共通一次」のあと、2月下旬に各大学別に独自の、科目を絞った「二次試験」もあって、その総合成績で合否を判定することになっていたので、大学側の反対はほぼ消滅した。
そして、数十万人もの受験生が一斉に受験した答案を限られた短い期間に採点しなければならないという問題も、選択肢の中からひとつの正解を選ぶ「客観テスト」とし、その解答はカード様の「マークシート」用紙に鉛筆で黒くマークさせることによって解決した。その「マークシート」を「光学式の読み取り機」で読み取り、あとはコンピューターによって高速に処理するのである。
ただ、試験が一次、二次と2回になったということは、片方の失敗をもう一方で取り戻せるチャンスができた、というよりは、受験生にとっては、失敗する可能性がただ2倍になっただけで、おまけに一期校・二期校が一本化されて受験の機会は半減したので、リスクはこれまでの4倍にも大きくなった。
そうなると、共通一次試験でどれほどの成績が取れたのか、その結果、どの大学の二次試験を出願すればいいのか、が大きな悩み事となる。そこで、「共通一次」を取り仕切る、文部省の外郭団体の「大学入試センター」が、試験翌日にその正解を発表し、受験生はあらかじめ記録しておいた自分の解答と照らし合わせて「自己採点」をするシステムとなった。しかしそれで自分の得点が判っても、それをどう判断すればいいのか、なにも手掛かりがない。そこで登場したのが、大手の「受験産業」であった。
受験情報誌の発行や大学入試模擬試験を全国的に行っていた「旺文社」「学習研究社」、通信添削の進研ゼミの「福武書店」、全国展開で予備校を経営し、模擬試験も実施していた「駿台予備校」「代々木ゼミナール」「河合塾」などが、全国の高校生や浪人生に向けて、各人の自己採点結果と志望校データの提供を求め、見返りに、集めたデータから分析した、その成績での「合格可能性」を知らせる、というサービスを行いはじめた。そのための経費は莫大な額に達しただろうが、どこの企業も「無料」で行った。有料などにして、データが集まらなければ意味がないし、たとえ、大幅な赤字となっても、そのデータを通して得られる、膨大な数の受験生との繋がりはおおきな「情報資産」となるだろうと見越してのことだった。
それまでは、「受験指導」といえば、何よりも生徒の「実力」をつけることが第一で、定期考査の他に受験対策として年に数回実施する「校内模擬試験」を、その実力を測る指標としてきた。各大学の入試の過去の問題(過去問)を参考に、練りに練った問題を作成し、生徒がなんとかそれに喰いついて、苦心の末に「解く歓び」をつかんでくれるように工夫した、かなりの「難問」ぞろいになることが多かった。そして、その試験で平均点が5割を超えていれば、大抵の志望校には合格できるという目安となっていて、こんなやり方は、私自身が高校生だった時代からも、基本的には変わらないものだった。
しかし、「共通一次」が導入されるようになると、そんな「古典的」な方法は通用しなくなる。 ある「絶対的な尺度」を基準にして実力を推し量る、というより、他の受験生たちと比べてどうなのか、という「相対的な比較」が重要になってくる。それも、校内の同級生たちと競争するだけでは不十分で、それこそ、全国の、自分が志望する大学と同じところを目指す他の高校生たちとの競争が必要となり、そのためには、全国的な規模で一斉に実施している「業者の模擬試験」を受けなければならなくなった。その業者とは、先に述べた、「共通一次」の自己採点データの分析サービスをしている、出版社系の「旺文社」「学習研究社」「福武書店」、予備校系の「駿台予備校」「代々木ゼミナール」「河合塾」などであったが、それぞれ、年に何回も「全国模試」を実施していて、それらをすべて受けるわけにはいかないので、各模擬試験の「参加高校」などを調べて、高校3年では、1学期と2学期に2回ずつ、校内に問題を取り寄せて、平日に全員に受験させるようになった。
そのような全国規模の模擬試験となると、想定する受験生のレベルの幅は広くなり、その分、難易度もさまざまな、当たり障りのないものになってしまう。それを物足りなく思う難関大学を狙う生徒のために、敢えて、練りに練った難しい問題にすると、受験者の数は激減してしまう。そのリスクを冒しても、敢えて、特色を出すために、そのような出題にする業者もあった。
そのようにして受験した各「業者模試」の結果は、「個人成績票」として学校に送られてくるのだが、その規格は各業者まちまちで、B5判のもあれば、A3判の大きなものもある。それを、志望校を決める「個人面談」で、取っ換え引っ換え、引っ張り出して説明するのはけっこう大変だった。 ....... まず、これを何とかできないものか。
その頃、私はワープロから発展してパソコンを使いはじめていたのだが、そこにデータベース・ソフトというのがあり、私が使っているMacには「ファイルメーカー・プロ」というものがあったのでそれを活用することにした。
これは、いわゆる「カード型」のデータベースで、例えば、ある1回の模擬テストの成績を1枚のカードに入力するとして、そんなカードのデータを1枚の大きなカードにまとめたり、その大きなカードの中の一部のデータを切り取って、趣旨に合った新たなカードに作り替えたりすることができた。
また業者から送られてくる模擬試験の個人データはデジタル・ファイルもあって、それはエクセルで読み取ることができたから、そのエクセルデータをファイルメーカーに流し込むと、たいした労力もなしに、データを取り込むことができた。すると、これまで大きな紙のファイル何冊にも入っていた模擬試験のデータが、1枚の用紙にきれいに並べられて、ひと目で成績や、志望校への合格可能性などが見られるので、個人面談もスムーズに進むようになった。
このソフトは年々改良して、最終的には、中学1年から高校3年までの6年間に受けたすべての模擬試験の成績を1枚の大きなカードに集中させるようにし、あとは各学年ごとに、そのときに合った様式の個人成績カードが打ち出せるようにした。このシステムは、私が定年で退職したのちもずっと使われていたようである。
このように、「共通一次」の導入とともに、受験の世界では「情報」というものが重視されるようになってきた。共通一次の自己採点データを集める業者も、提供した受験生に、その志望校の合格可能性を記した「個人票」を返すだけではなく、各科目の得点を入力すると、即座に、どの大学・学部の合格可能性をも瞬時に見ることができる「ソフト」を開発して、それをCD-ROMにして、各校に配布するようになった。学校では、そのCD-ROMをコピーして、各担任のパソコンにインストールし、それを使って、各生徒と出願する大学を相談するのである。
共通一次が始まって20年ほど経った頃だろうか、ある、とてもコンピューターに精通した生徒がいた。彼は、幼い頃からプログラミングを独習していて、在学中に、それに関する「解説書」を出版するほどの腕前になっていた。彼は、すでに前年の秋に、ある大学の「推薦入学」に合格していて、共通一次はもう受ける必要はなかった。そんな彼に、当時の担任が頼んで、自己採点のCD-ROMのコピーの作成や、その使い方の教示などを手伝ってもらっていたが、その彼が、ある業者のCD-ROMの中に重大な「セキュリティーホール」があることを発見した。
ある方法でそこを突破すれば、その業者の本社のサーバーに侵入して、そこにあるすべての高校の自己採点データにアクセスすることができるというのだ。その発見を知らされた教師は、すぐに業者にその旨を通知した。業者は慌てて、その対策を講じたが、その生徒は、教師に知らせる前に、自分の発見を、あるコンピューターのマニア雑誌に投稿していた。全国の高校に配られている「自己採点ソフト」のセキュリティーホールという大きな発見を埋もれさせてしまうのは、「ハッカー」としての功名心が許さなかったのだろう。もちろん、アクセスする「キーワード」などは秘したままであったが、その雑誌のネット版に出た記事は、その筋で大評判となり、東京では新聞記事にもなったとのこと。それを知った業者の方も黙ってはいない。その翌日、朝いちばんに、その業者の出入りの担当者に連れられて、東京本社からだという、仰々しい名刺を持ったスーツ姿が数人、学校へやってきた。
その時、私は高校3年の担任ではなかったが、進路指導部の代表者の立場にあったので、校長室に呼ばれて、彼らと応対した。
「このようなことになって、我々の信用が傷つけられたのはとても遺憾です。でも、そもそも、あのマル秘の資料を勝手に生徒に扱わさせた御校の責任ですよ」
そんな風に、彼らは強く学校に抗議してきた。損害賠償をも辞さないと仄めかすほどの高飛車ぶりである。それには、さすがにこちらもカチンときた。
「そもそも、といっても、それはそちらがミスして、あんなCD-ROMをつくって配ったことでしょう。彼に云わせれば、あのセキュリティーホールは、ちょっとコンピューターに詳しい者ならすぐに見つけられような初歩的なミスだそうですよ。彼でなくても、どこかの高校の先生が見つけるかもしれない。それを彼がいち早く見つけて、おたくにお知らせし、おたくがすぐに対処したので、大事に至らなくて済んだのではないですか。彼に抗議するよりも、感謝すべきではないですか。彼が雑誌に投稿したのは勇み足だったかもしれないけれど、肝心のところはいっさい漏らさない、というマナーはきっちり守っているのだから、いいじゃないですか」
それで話は終わった。以後、その業者の、デジタルに対するセキュリティー意識は向上したことだろう。
1982年に首相に就任した中曽根康弘は、政治課題のひとつとして「教育」を取り挙げ、1984年に「臨時教育審議会(臨教審)」を発足させた。そこでは大学入試制度の改革も取り扱われ、共通一次以降、受験生のリスクが4倍に拡大している問題が俎上に上って、受験機会の複数化が提言され、さっそく、1987年から、「AB連続方式」というのが始まった。
これは、全国の国立大学を東西に二分し、西日本の大学を「A日程」、東日本の大学を「B日程」と、二次試験の日程をずらして、東西2つの大学を受験できるようにしたものである。その結果、例えば、受験生は、A日程で京都大学、B日程で東京大学、の両方を受験できるようになった。
これに強硬に反対したのは、京都大学法学部である。東大とは別のA日程に実施することを拒否し、特別に、B日程と同じ時に試験をすることになった。当然、京大が作成する入試問題は使用できず、法学部の教官たちが独自に作成した「記述式」の問題などが出題された。
京大法学部がこのように強硬に抵抗した理由はまもなく判明した。他の学部では、A日程の京大とB日程の東大をダブル合格した受験生の多くが、東大の入学手続きをしたのである。もともと京大を第一志望にしていた関西圏の合格者でさえ、東大に行ってしまうという現象が続出した。これは京大に限らず、大阪大学や神戸大学、さらには九州大学など西日本の旧帝大にまで拡がって、これらの大学では、「追加合格」の作業にてんやわんやとなった。
それまで隠然としていた「東京一極集中」がこれほどまでに進んでいるということが一気に暴露されたのだったが、京大法学部はそれを見通していたのであった。とにかく、このままでは、西日本の大学はすべて、格下の「すべりどめ校」に成り下がってしまうという危機感が拡がり、2年後の1989年には、京大などが発案した「分離分割方式」というのが、「AB連続方式」と並行して実施された。
これは、同じ大学の定員を2つにわけて、その大部分を「A日程」とおなじ「前期日程」に実施し、「B日程」の合格発表の前に、合格者を発表して、すぐに入学手続きをさせる、というものであった。そうなると、「前期」で京大を受験して合格し、入学手続きをしてしまうと、「B日程」で東大を受験していても、その結果は無効となってしまう。もともと京大が第一志望ならそれでも構わないが、東大が第一志望で、先に京大に合格してしまった場合には悩ましい選択を迫られることになった。東京在住で東大志望の受験生が、機会があるからと京大も受験して、それに合格してしまうと、あえてそれを辞退して、東大入試の結果に賭けるのは、余程の自信がない限り、相当の勇気がいる。そのため「泣く泣く」京大に入学した者も少なくはなかっただろう。おかげで、一転、京大の競争率が跳ね上がり、京大第一志望の関西の受験生が割を食って、不合格になってしまうという現象も起こった。
こうして、B日程では、明らかに大学にとって不利だと判明した結果、数年後には、すべての大学が「前期・後期」の「分離分割方式」になってしまった。その場合、たいていの大学は前期に定員の7~8割を割き、後期は残りの2~3割で、中には、「小論文と面接」など、前期とまったく異なる試験を行う大学もあったが、そうでなくて、前期とほとんど同じ科目のところも多かった。前・後期で異なる大学を志願する場合もあったが、同じ大学を2回受験するケースも多く、その場合、「後期」は、「前期」の「敗者復活戦」のようになる。そして、その入試結果をあとで精査してみれば、「前期」不合格者のうちの上位の成績者が、「後期」でも上位の成績を取って結局合格していることが多かった。それならば、わざわざ2回試験せずとも、「後期」の定員を先に「前期」に繰り入れておけば、合格者は同じ顔触れになるのではないか、とも考えられて、最近では、「後期」試験は有名無実化しているようである。
また、「前期」に合格した場合、発表から2日ぐらいの短い期間に「入学手続」をしなければ、その合格は無効になる、というルールのために、こんな「悲劇」も起こった。
ある生徒が、大阪大学の「前期」に合格していたのに、見落として、無効になってしまったのである。当時の大阪大学では、前期入試の合格発表は、大学本部の構内で、各学部一斉に掲示されていた。しかも、発表は「受験番号」のみである。その生徒は、たくさん並んだ、学部・学科の中で、自分の受けた学部の掲示板を見間違えたのだろうか、それとも、それは間違っていなかったのに、単に番号を見落としていたのだろうか。
「不合格でした」との連絡があった数日後、学校に配達されてきた「夕刊紙」に掲載された阪大の合格者名簿の中に彼の名前があったので大騒ぎになった。彼は受験票を持って、慌てて大学に駆けつけたが、締め切りは過ぎていて、「手続きがなかったので、辞退して、後期の方に賭けていると見なしました」と冷たく言い渡されただけだったそうだ。
合格発表を見るのはとても緊張するものだ。だれかについていってもらえば安心だが、あまり自信がなく、落ちている姿を見られるのは嫌だと、彼はひとりで見に行ったらしい。そういえば、私自身もかつて自分の大学入試の発表の時、そうだった。ついていってもらうのを断り、ひとりで、しかも発表の時間よりもかなり遅れて行ったものだ。着くと、掲示場所にはほとんど人はおらず、そこにぽつねんと貼られた巻き紙に自分の名前を見つけたとき、自分の目が信じられなかった。カメラでも持っていれば撮っておきたいぐらいだった。私の場合はそれでも、受験番号の他に、氏名も書かれていたので、見間違えることはなかっただろうが、それでも心配で、家に帰ってしばらくして、大学から「手続き書類」が送られてくるまでは心底から喜べなかった。
彼の場合は、番号だけの発表で、しかも「自己申告」で手続きに行かねばならなかった。そんな悔しい間違いは、他にもたくさんあったのではないだろうか。その後、合格者の番号がインターネットでも発表されるようになって、もはや、こういうことはなくなったであろうが...
そんな悔しい経験をした彼は、後期も失敗して、1年の浪人生活を余儀なくされたが、翌年、1ランク上げた京都大学に無事合格、われわれ教師一同も心から安堵したものだった。
中曽根内閣の臨教審(臨時教育審議会)答申のもうひとつの目玉は、私立大学も利用できる「共通テスト」の創設だったが、それは1990年、「共通一次」を「大学入試センター試験」に衣替えすることによって実現した。
私学の入試は、文科系学部が「国語・社会・英語」、理科系が「数学・理科・英語」の3科目受験が通例である。そのため、これまで「5教科」の受験を義務づけられていた「共通一次」を「ア・ラ・カルト方式」と銘打って、必要な科目だけでも受験できるようになった。それと、私学の入試は国公立の二次試験よりも1ヶ月早い2月から始まるので、「センター試験」の実施は12月末にするという案が出てきた。
実は、1979年に始まった「共通一次」も、当初は12月23~24日に実施することが予定されていた。それは2年前の1977年に文部省から「要項」が発表されたときに明らかになったのだが、さっそく高校側から強い反発が出た。こんな時期に「大学入試」が始まれば、二学期はその準備に追われて、「文化祭」「体育祭」といった高校生活での最大の行事ができなくなってしまうだけでなく、通常の授業の進行にも大きな障害が出てしまうからである。
「全国高校進学指導連絡協議会」「全国高校校長会」「教職員組合」などから次々反対の声があがった。そもそもこの12月案は、二次試験の採点、成績処理にかかる時間などから、大学側が高校の都合など考慮せずに一方的に設定したものであった。しかし、すでに国立大学協会(国大協)の総会で決定し、文部省、入試センターを通して発表された日程を変更するのには強い抵抗があったようで、しばらくは押し問答が続いた。こういう時、「世論」に敏感なのは政治家で、当時の海部俊樹文部大臣が動いて、年末にようやく、1月13~14日に繰り下げることで決着した。
それから11年経って、またしても12月実施案が浮上してきたのである。前回の轍は踏むまいと、今回は事前に周到に根回ししていたのか、反対の声はあまり起きなかった。気がついたら、「全国高校校長会」も賛成の意思表示をしていた。マスコミでもあまり問題にされず、試験の早い私学が参加するのだからやむをえないだろう、という雰囲気だった。しかし、12月では、高校の行事や授業進度が無茶苦茶になってしまうことに変わりはない。
毎年、夏休みが始まった頃、翌年の共通一次の実施に関して、各高校の担当教師に対する説明会が、全国を数地区に分けて行われる。実施するのは、「大学入試センター」だが、出席するのは、その事務担当者で、おそらくは文部省から出向してきた若手の官僚のようである。
新しい「センター試験」の要項が発表された1988年の、7月25日のことだった。場所は、京都府立勤労会館で、ほぼ近畿一円から、共通一次を受験する生徒を持つ高校の担当者が集められていた。
毎年、各高校には、事前にその会合の案内状が来るのだが、そこには「出欠」を知らせる用紙といっしょに、いつも「質問書」という用紙も入っていた。当日質問したいことがあれば、予めこの用紙に記入して、出欠票といっしょに送ってほしいとあった。しかし、この会合自体きわめて形式的なもので、のちに送られてきる「要項」をしっかり読めばよく分かることを、当日、口頭で説明するだけである。質問が出ることもほとんどなかった。
私は、この年、進路指導部の代表でなおかつ、高校3年の担任でもあったので、この会合に出席することになっていた。そんな私に、その案内状が回ってきたのだが、その「質問書」を見て、ふと、あることを思いついた。どんな質問でもいいのであれば、ダメで元々で、あの「センター試験の日程問題」を質問してみようか、と思い立ったのである。そして、「12月に実施されると、高校の行事や授業計画は無茶苦茶になってしまう。なんとかならないものか」というようなことを書いて、送付した。
当日、会場に行くと、いろんな資料の中に、1枚「別紙」が入っていて、「○○高校より、このような質問がありました」と、私が送った「質問書」の文章が、大きな文字で書かれていた。他には、何も質問はなかった。
思いがけず、こんなにデカデカと書かれていて、少し当惑した。学校の名前を売る、好い宣伝にはなるかもしれないが。
その日の本論についての長い話が一段落して、質疑応答の時間となり、私が提出した「質問書」が司会者より読み上げられ、若いキャリア官僚風の人物がそれに答えた。私立大学も参加するため、その試験日程を考慮すると、センター試験はぎりぎりこの日程で行かなければ間に合わない、高校さんにはたいへん迷惑をおかけして申し訳ないが、なんとかご理解願いたい、というような、あらかじめ予想された回答が、慇懃無礼を絵にかいたような口調で返ってきた。一瞬、思わず掛けてしまった期待が、あえなく裏切られ、かといって、切り込むスキも見つけられない、という、浅く、長い、溜め息のようなものがしばらく会場内に拡がったが、それが収まって、ひと息ついた頃、どこからか手が上がった。
「いま、そのように、高校には我慢してくれとおっしゃいましたが、われわれとしては到底承服できません。2学期から受験一色になってしまっては、文化祭も体育祭も1学期に繰り上げざるをえず、そうなると、その準備で新学年早々、きりきり舞いとなって、授業どころではなくなってしまいます...」
云ってることは、私の質問書のなかみを超えるものではなかったが、このような質問、というより、要望が、次々といろんな高校から出されて、一時騒然となった。それに対して、説明者は、例の官僚答弁まるだしののらりくらりとした回答をするばかりで、埒が明かないまま、その場はとにかく収まった。
驚いたことに、その時手を上げて質問したのは、兵庫県の六甲高校、灘高校、奈良県の東大寺学園など、私立の高校ばかりであった。これらの高校は、私の勤めていた学校と同じ、「中高6年一貫」のところで、実は、文化祭も体育祭も、高校2年の時に中心になって済ませており、高校3年はもとから受験一色で、センター試験が12月になっても、特に困ることはなかったのだ。もっとも困るのは、高校3年間しかない公立の高校で、そこでは、3年生が行事の中心にならなければならない。しかし、不思議なことに、そんな高校からは一切発言がなかった。こういう場で、担当者が勝手に「自分の意見」を述べることは許されていないのか。あるいは、そんなことをいまさら訴えてしかたがない、と諦めているのか。
私自身、公立高校の出身だったので、このような公立の「沈黙」もしくは「無気力」をとてもさびしく思った。かつてなら、云っても無駄だと分かっていても、「この世の中を背負っているのは自分たちだ」という気概で、何やかやと口出していたことだろう。そんな役割を、いまや、自分たちには直接利害が及ばないのに、敢えて抗議の発言をする私学の教師たちが担っている。世の中はいつの間にか変わっていた、と云うことだろうか。
そして、さらに驚いたことに、その年の終わり頃、「センター試験12月案」はひっそりと撤回されて、それまでの共通一次と同じ1月となっていた。
その間にどのような経緯があったのだろうか。あの時、他の会場でも同じような質問が続出して紛糾したのだろうか、それとも、だれかが働きかけて、政治家が動いたりしたのだろうか、あるいは、官僚たちの中にも、もともと12月は無理だという意見があって、その勢力が盛り返したのだろうか。
真相は判らない。
いずれにしても、あの時、私が提出した「質問書」が誘い水となって、そのような流れが生まれ、それが大きくなって、世の中を動かしたのだ、と、勝手に思い描いて、私は秘かにほくそ笑んだ。そして、政治というものも、案外、このように動いていくのだろうか、とひとり得心したのであった。
(完)