此岸の光景 その6
安吾のコトバから
岩田 強
湖西の渡来人墓(太鼓塚)に副葬されたミニアチュア炊飯具(韓竈と蒸し器)
―大津市埋蔵文化財調査センターの提供による―
ボクは坂口安吾の文章が好きだ。20代、30代のころは奥野健男編の角川文庫『暗い青春・魔の退屈』を持ち歩いて、「いづこへ」や「二十七歳」などの自伝作品をくりかえし読んだ。40歳過ぎに和歌山から京都に帰ってきたころ、北大路橋西詰の古本屋でケースの潰れかけた8巻本の『坂口安吾選集』(檀一雄編集、東京創元社)を大枚をはたく気分で買い、「勝夢酔」「柿本人麿」「信長」などの史譚ものを愛読するようになった。安吾の本というと、誤字や落丁のあるこの8巻本がうかんでくるが、停年退職で大量の本を処分したとき、この8巻本も売ってしまい、あとで何度も後悔した。それで、本を部屋のゴミ扱いする妻の目を盗みゞ、ちくま文庫版『坂口安吾全集』を1冊また1冊と買いこんで、近ごろでは古代史ものをよく読んでいる。この文庫版全集は未収録の断簡短章まで編年体で網羅しているので、緑内障で小さな活字には往生するが、調べ物には重宝する。
こうやって思い返すと、ボクの生涯のどの時期にも安吾は気になる存在だった。文学好きには鷗外派と漱石派があってボクは後者だが、太宰治と坂口安吾のどちらが好きかと問われたら、ボクは断然安吾だ。性に合うのだ。
今回の「此岸の光景」では、つねづねボクの気にかかっている戦争放棄、天皇制、渡来人について安吾の「もう軍備はいらない」「天皇陛下にささぐる言葉」「高麗神社の祭の笛」をとりあげ、ボクの気に入っている章句を引用してコメントを添えることにした。大部分が安吾の文章で、ボクのコメントは刺身のツマほどしかなく、引用というより抄録に近いものもあるが、拙文の主たる目的が安吾の文章を読者に読んでもらうことにあるので、大量の引用や抄録はやむを得ない。ボクのまどろこしい説明より、鋭いけれどもサービス精神満点の生き生きとした安吾の達文のほうが、ボクの言いたいことを何層倍もよく代弁してくれるはずだ。
( 1 ) 戦争放棄について
2022年2月24日、プーチン・ロシアがウクライナに攻めこんだ。当初プーチン大統領は数日で首都キーウを攻略できると考えていたようだが、ザポリージャ・コサックの末裔であろう(?)ウクライナ軍は予想外に頑強に抵抗し、ゼレンスキー大統領も18歳から60歳の男性の出国を禁止して兵員増強につとめた。その結果、プーチンは1か月ほどでキーウの攻略を断念、主戦線をウクライナ東南部に縮小せざるをえなくなった。
ロシア軍が撤退した後、ロシア軍に殺害された一般市民の死体が410名、キーウ近郊のブチャなどの町で発見された、とウクライナ当局が発表した(国連発表では73名)。銃撃で倒れる人影、路上に放置されている死体、それらの映像がテレビで放映された。
とつぜん国境を越えて侵入してきた外国兵に問答無用で殺されるのはたまったものではない。1945年3月10日の空襲でアメリカ軍の焼夷弾爆撃で殺された9万5千人の東京下町の市民、ヒットラー・ドイツのレニングラード包囲戦で餓死した100万人前後のロシア市民、カチンの森でソ連軍に殺害された2万人以上のポーランド将兵と市民、日本のアジア太平洋侵略による2千万のアジア人犠牲者、それらと比較したら410名は物の数ではないように見えるが、命はただ一つ、分母の犠牲者数の多い、少ないなどなんの意味があるというのか。
たった一つしかないじぶんの命をじぶんの自由にできないという点では、ウクライナ人男性へのゼレンスキーの出国禁止令もおなじだ。出国禁止令の停止をもとめる請願が2万5千人のウクライナ市民から出されたとき、ゼレンスキーはその請願書の受け取りを拒み、「この請願書は誰に向けたものなのか。地元を守るために命を落とした息子を持つ親たちに、この請願書を示せるのか。署名者の多くは、生まれ故郷を守ろうとしていない」と述べた(朝日電子版 20220523)。
これぐらい為政者と一般庶民の違いを端的に示している挿話はない。為政者にとって重要なのは国家だろうが、一般庶民にとって国家などはどうでもいい。ウクライナ市民のなかに、戦火をさけて国外に出ようとする人々がいても不思議はない。庶民にとって大切なのはじぶんの命、それから、たぶん、家族の命だけだ。「生まれ故郷」だの「国家」のためにたった一つの命を捨てたりできるか、卑怯といわれようと、非国民と詰(なじ)られようと、タコつぼに隠れても、貝になってでも、荒れ狂う波濤をやり過ごして生き延びたい、と庶民は心の底ではそう願っている。そして、「ヒトを戦場に引っぱりだして殺し合いをさせるヤツラ、〈政治〉にかかわるすべてのヤツラを皆殺しにしたい。そうすれば世界は平和になるのに」と夢想している。
庶民が心底におし隠しているこういう無言の願いは、すべての日本人に文句なく共感されるものとボクはおもっていた。
それだけに、10数年前、第一次大戦への参戦に反対したユージーン・デブズの演説を教室で読んでいたとき、一人の学生が「先生は国家のために死なないんですか」と質問してきたときはショックをうけた。
ユージーン・デブズは19世紀末から20世紀初頭のアメリカ鉄道労組を先導した労働運動家・政治家で、アメリカ社会党の選出候補者として生涯に4回大統領選挙に立候補した。その最後の1920年の立候補は獄中から行われたが、それはかれが第一次世界大戦へのアメリカ参戦に反対して〈1917年スパイ活動防止法〉違反で有罪判決をうけ投獄されていたからだ。デブズは1918年6月18日の演説で、つぎのように戦争反対を訴えた。
歴史を通じて戦争は征服と略奪のために行われてきた。中世には、いまでもライン川沿いにその高塔がみえる城砦に住んでいた封建領主たちが、領土、権力、威信、富を増大させられると判断すると、たがいに宣戦を布告しあっていた。だが、封建領主自身は、現代の封建領主たるウォール街の大立者たち同様、戦場には赴かなかった。すべての宣戦布告は、今日の資本家たちの経済学的祖先である中世の封建領主たちによって発せられたが、戦闘をさせられたのは、いつも哀れな農奴たちだったのだ。貧しい、無知な農奴たちはご主人さまを尊敬するように教え込まれていた。ご主人さまが宣戦布告をしたら、ご主人さまの利益と栄光のためにたがいに飛びかかって、相手の首をかき切るのが愛国的義務だと教え込まれていた。ところがそのご主人さまは農奴たちのことを軽蔑しきっていたのである。戦争とは、つづめて言えば、これがすべてだ。宣戦布告をするのはつねに支配階級で、戦闘をするのはつねに被支配階級なのだ。支配階級が利益を独占して損失はゼロ、被支配階級はすべての損失を支払わさせられて利益はゼロ―おまけに命まで差し出させられるのだ。
オハイオ州カントンでの演説
これほど簡潔明快に戦争の本質を抉(えぐ)りだしたコトバは滅多にない。デブズは、戦争が一部の支配階級の利益のために行われること、その事実を糊塗し、戦争が〈社会〉や〈国家〉全体のために行われるかのように大衆に思いこませるのは〈教育者〉であることを喝破している。
いっしょにテキストを読んでいた学生たちにはデブズのこの訴えはとうぜん伝わっているとボクは思いこんでいたのだろう。それだけに、「先生は国家のために死なないんですか」という学生の問いには意表をつかれた。とっさに「たった一つしかない命を国家などのために犠牲にできますか」と切りかえしたが、そんな答えで学生が満足したとはおもえなかった。
1944(昭和19)年生まれのボクは戦後の平和教育にどっぷり浸かって成長した。
小学5年6年の担任だったK先生は大戦中の従軍体験を折にふれて教室で話してくれた。夜間行軍中僚友が枕木を踏みあやまってはるか下の大河へ叫び声とともに落ちていっても見殺しにして行軍をつづける話は、戦争と軍隊組織の非情さを子供心に焼きつけた。
『原爆の子』に収められた山本節子の手記も母親っ子だったボクの心につき刺さった。節子と母親は原爆で倒壊した家屋の下敷きになる。節子はなんとか這い出すことができたが、母親は梁に上半身を挟まれて抜けだせない。節子は必死にまわりに助けを求めるが、火の手が迫ってくる。すると母親は「お母ちゃんは、あとからにげるから、節ちゃんは先ににげなさい。さ、早く早く」といって節子を立ち去らせ、じぶんは焼死する。母親の今際(いまわ)のコトバは、こうして今思い出していても、涙を催さずにいられない。
中学に入った年、母親が近所のだれかから五味川純平『人間の条件』(三一新書版)を一冊また一冊と借りてきて、ボクも走り読みをし、日本軍の陰湿さに〈オレにはとても耐えられまい〉と怖気をふるった。
もっと直接的だったのは、焼夷弾爆撃のなかを逃げまどった母親の体験談だった。1945年5月24日未明、ボクの父は発疹チフスで危篤になり、避病院(伝染病院)だった東京池上の荏原病院に入院していた。母は姉とボクと祖母(父の継母)をつれて新潟の実家に疎開していたが、最期に一目会うため生後10ヶ月のボクを背負って上京、その夜は芝三田の父の姉の家に泊めてもらっていて空襲にあった。防空頭巾を被って家を出ようとすると、軒先の地面に一列に焼夷弾が降ってきた。焼夷弾は爆発しない。鉄筒が地面に突き立って火を噴いたそうだ。つぎに掲げるのは、上京前後の母の日記からの引用だ。これはボクが生まれた昭和19年7月から昭和23年まで父母と10歳年上の姉が交互につけてくれていた「強の日記」の一節である。
五月十六日
東京のお父さん 発熱のためおばあさん上京す
五月二十二日
東京からの電話で、お父さんの容態が思わしくないので 出京するやうに 発疹チフスとの事 小林の兄(母の兄で、医師)の話では二十五六日ころに下熱するだろう 然し伝染がおそろしいから 強(ボクのこと)もあること故 看ゴは出来ないだろうとの事 七時十五分の夜行にて出かける 石山の踏切で一家の見送りをうける 迪子(ボクの姉)は沼垂にて見送る 空襲下、病人のこと故 迪子は同行を見合わすやう兄に云はれる
五月二十三日
朝五時半上野着 雨降り 空襲跡を汽車 省線の窓から眺めて感無量 大森駅から人力車にて臼田様(馬込にあった父の止宿先)へ 途中の戦災の跡をみて、勝たねばならぬと思った 午後より病院へ行く。強は病院の中へ入られない 外で臼田様の奥さまと待つ 殆ど昏睡状態にて解らなかったと思ふ 熱は四十度位 夕方より芝の三田綱町の露木宅(父の姉の嫁ぎ先)へ行く
五月二十四日
午前0時半 警戒警報発令、間もなく空襲警報 強を背にして防空頭巾を被り準備十分 午前二時半ころ宅の中へ焼夷弾落下 幸 直撃を身にうける事なし 一寸の間に姉達と別れてしまふ 仕方なく 芝公えんへひなん 四方火に包まれたが幸、空襲警報解除 病院の事が気になる。 自分の食糧も一粒の用意なし 姉達と会ふ事の不可能なるを知り 田町駅に赴く 大井、新橋駅故障のため省線開通の見込みなし 今はこれまでと臼田様まで歩くことにする。両側炎々ともえる中を歩く 歩く。背中の強が気になり何度も様子をみる。大井町駅近くなって泣き出す 近くの人の家に入りオッパイをのませ道をきいて又出かける 八時ころ臼田さま宅へつく。一同おどろきの中に心よく迎へられて おちつく 少々休んで午より病院へ行く 途中新京浜国道辺の工場は殆どやられてゐる 道があつい 空気があつい 病院に近づくにつれ、所々やられてゐる 病院の向ひもすっかりやられてゐる でも病院ががっちりたってゐるのでホット安心する 姑母さんはゆふべ隣までもえて来て もう重態だからここで死ぬつもりだったと云ってゐられる お父さんは何も分からないしと涙を流してよろこんでゐられた 私も安心してかへる 然し容態は相変らず昏睡状態 熱は八度台になる
(以下略)
荏原病院では木造の病棟とコンクリート製の病棟が接続していて、父の病室の隣室までは木造だったため焼け落ちたが、コンクリート病棟の端にあった父の病室で延焼がとまって父は命拾いをした。もっともそんなことは空襲の最中に分かるはずもなく、祖母は危篤の父をおいて逃げるわけにいかず、もろともに死ぬつもりで病床の傍らで念仏をとなえていたという。意識が戻ってこのことを聞かされた父は、「じぶんには運がついている」と感じて、生きる気力が湧いたそうだ。
母はボクを生む前の10年足らず小学校の教員をしていたから、軍国教育の片棒を担いでいたわけで、日記中の「勝たねばならぬと思った」が示すように、戦勝を願うふつうの国民だったろう。戦後になっても母から反戦めいた話を聞いた記憶はないが、母が折にふれ話してくれる、炎のなかを逃げまどった話じたいが、上で書いた他のさまざまな経験と絡みあって、ボクのなかに厭戦気分、反戦意識を植えつけたのは間違いない。常備軍の不保持、戦争放棄を宣言した憲法9条は、アジア太平洋戦争から日本人が得た数少ない宝の一つだ、とボクは今でも信じている。戦争を始め国民を戦場に駆りたてる政府は暴虐な政府であって、そんな政府なら無いほうがましだ。
坂口安吾の「もう軍備はいらない」は、そういうボクの内心の想いに、その襞々にまで、鋭敏に応えてくれる。
今日までの金持というものは、だいたいにねかせた財産をもち、その大小によって金持の番附がつくられるような富の在り方であった。莫大な預金、広大な所有地。そしてそれは泥棒が主として狙う富でもあった。だが、財産とか富貴というものがそれだけだとは限らない。泥棒がどうすることもできないような財産もありうるであろう。
高い工業技術とか優秀な製品というものは、その技能を身につけた人間を盗まぬ限りは盗むわけにはゆかない。そしてそれが特定の少数の人に属するものではなく国民全部に行きたわっている場合には盗みようがない。
美しい芸術を創ったり、うまい食べ物を造ったり、便利な生活を考案したりして、またそれを味うことが行きわたっているような生活自体を誰も盗むことができないだろう。すくなくとも、その国が自ら戦争さえしなければ、それがこわされる筈はあるまい。
このような生活自体の高さや豊かさというものは、それを守るために戦争することも必要ではなくなる性質のものだ。有りあまる金だの土地だのは持たないし、むしろ有りあまる物を持たずにモウケをそッくり生活を豊かにするためにつぎこんでいる国からは、国民の生活以外に盗むものがない。そしてその国民が自ら戦争さえしなければ、その生活は盗まれることがなかろう。
けれどもこんな国へもガムシャラに盗みを働きにくるキ印がいないとは限らないが、キ印を相手に戦争してよけいなケガを求めるのはバカバカしいから、さっさと手をあげて降参して相手にならずにいれば、それでも手当り次第ぶっこわすようなことはさすがにキ印でもできないし、さて腕力でおどしつけて家来にしたつもりでいたものの、生活万般にわたって家来の方がはるかに高くて豊かなことが分ってくるにしたがってさすがのキ印もだんだん気が弱くなり、結構ダンビラふりかざしてあばれこんできたキ印の方が居候のような手下のようなヒケメを持つようになってしまう。昔からキ印やバカは腕ッ節が強くてイノチ知らずだからケンカや戦争には勝つ率が多くて文化の発達した国の方が降参する例が少くなかったけれども、結局ダンビラふりまわして睨めまわしているうちにキ印やバカの方がだんだん居候になり、手下になって、やがて腑ぬけになってダンビラを忘れた頃を見すまされて逆に追ンだされたり完全な家来にしてもらって隅の方に居ついたりしてしまう。
もっともキ印がダンビラふりまわして威勢よく乗りこんできた当座はいくら利巧者が相手にならなくとも、相当の被害はまぬがれない。女の子が暴行されたり、男の子が頭のハチを割られ片腕をヘシ折られキンタマを蹴りつぶされるようなことが相当ヒンピンと起ることはキ印相手のことでどうにも仕方がないが、それにしてもキ印相手にまともに戦争して殺されぶッこわされるのに比べれば被害は何万億分の一の軽さだか知れやしない。その国の文化水準や豊かな生活がシッカリした土台や支柱で支えられていさえすれば、結局キ印が居候になり家来になって隅ッこへひッこむことに相場がきまっているのである。
腕力と文明を混同するのがマチガイのもとである。原子バクダンだって鬼がふりまわすカナ棒の程度のもので、本当の文明文化はそれとはまるで違う。めいめいの豊かな生活だけが本当の文明文化というものである。
国防のためには原子バクダンだって本当はいらない筈のものだ。攻めこんでくるキ印がみんな自然に居候になって隅ッこへひっこむような文明文化の生活を確立するに限るのである。五反百姓の子沢山という日本がこのままマトモに働いて金持になれないというのは妄想である。有り余るお金や耕しきれない広大な土地は財産じゃない、それを羨む必要はないのである。そして国民全体が優秀な技術家になることや、国そのものが優秀な工場になることは不可能ではなかろう。
「もう軍備はいらない」
『文学界』 1952(昭和27)年10月号
坂口安吾全集16 ちくま文庫
pp.589-592。 引用は青空文庫に拠る。
(https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45748_24336.html)
ならず者の隣国が暴れこんできて男を殺し女を強姦しても放っておくほうがいい、というのは非現実的な極論のように聞こえるかもしれないが、いったん戦争が始まってしまえば、一般庶民にはできることはなにもない。「じぶんが殺されたり、妻子が強姦されても放っておくのか」と責められるだろうが、庶民にはそれ以外できることはないのだ。安吾にしても、ゆたかな文化とたかい生活水準さえあれば、攻めこんでくるならず者もやがては飼いならされて居候になる、と信じていたのではなかっただろう。戦争を回避するにはそれしか方途がないからそう言ったまでで、安吾にそう言わせたのは戦時中にかれが目撃した地獄絵だった。
原子バクダンの被害写真が流行しているので、私も買った。ひどいと思った。
しかし、戦争なら、どんな武器を用いたって仕様がないじゃないか、なぜヒロシマやナガサキだけがいけないのだ。いけないのは、原子バクダンじゃなくて、戦争なんだ。
東京だってヒドかったね。ショーバイ柄もあったが、空襲のたび、まだ燃えている焼跡を歩きまわるのがあのころの私の日課のようなものであった。公園の大きな空壕の中や、劇場や地下室の中で、何千という人たちが一かたまり折り重なって私の目の前でまだいぶっていたね。
サイパンだのオキナワだのイオー島などで、まるで島の害虫をボクメツするようにして人間が一かたまりに吹きとばされても、それが戦争なんだ。
私もあのころは生きて再び平和の日をむかえる希望の半分を失っていた。日本という国と一しょにオレも亡びることになるだろうとバクゼンと思いふけりながら、終戦ちかいころの焼野原にかこまれた乞食小屋のような防空壕の中でその時間を待つ以外に手がなかったものだ。三発目の原子バクダンがいつオレの頭上にサクレツするかと怯えつづけていたが、原子バクダンを呪う気持などはサラサラなかったね。オレの手に原子バクダンがあれば、むろん敵の頭の上でそれをいきなりバクハツさせてやったろう。何千という一かたまりの焼死体や、コンクリのカケラと一しょにねじきれた血まみれのクビが路にころがっているのを見ても、あのころは全然不感症だった。美も醜もない。死臭すら存在しない。屍体のかたわらで平然とベントーも食えたであろう。一分後には自分の運命がそうなるかも知れないというのが毎日のさしせまった思いの全部だから、散らばってる人々の屍体が変テツもない自然の風景にすぎなかった。
二月十五日だかの銀座のバクゲキ、三月十日の下町の熱地獄以来、四月と五月には私自身の頭上や身辺に落ちてきた焼夷ダンやバクダンだけでも何百発もあった。豪雨の夜中に近所の工場の上に照明ダンをたらして二百機が入れ代り立ち代り二時間にわたってバクゲキし、その半分がそれダマになって何百匹のカミナリが私の周囲をかけめぐるようなバクゲキがつづいた晩は息がつまったね。けれどもバクゲキが終ると、まず穴から首をだして形勢を眺め、つづいて隣りの被害を見物し、規則正しい大きな波のウネリのようなバクダンの穴ボコの行列と、その四周の吹きとばされ、なぎ倒された家々のウネリと、壁や柱や屋根やハメ板のゴチャマゼの中の首や足などを見て歩く。なんの感情もない。その首や足が私でなかったというだけのことだ。はるかなキリもない旅をしているような虚脱の日々があるだけのことだった。
焼夷ダンに追いまくられたのは、夜三度、昼三度。昼のうち二度は焼け残りの隣りの区のバクゲキを見物に行って、第二波にこッちがまきこまれ、目の前たッた四五間のところに五六十本の焼夷ダンが落ちてきて、いきなり路上に五六十本のタケノコが生えて火をふきだしたから、ふりむいて戻ろうと思ったら、どッこい、うしろの道にもいきなり足もとに五六十本のタケノコが生えやがった。仕方がないから火勢の衰えるのを待ってタケノコの間を縫いながら渡っていると、十字路の右と左に、また五六十本のタケノコがいきなり生えた。見まわすと、百米ぐらいまでの彼方此方の屋根にバラバラ、ガラガラとタケノコがふりこめており、たまにはそれを抑えたり投げたりして別世界の人のように格闘している人の姿も見えはしたが、通行人たちはニワカ雨のハレマを見て歩いているという様子でしかなかった。頭の真上に焼夷ダンが落ちて大の字になって威張って死んでる男がいた。通行人の一人が死人の腰にくくりつけた弁当包みを手にのせてみて、
「まだ弁当食ってねえや」
ほかの通行人たちの顔を見まわしてニヤリと笑って言やアがった。この時は薄気味わるかったね。オレがまだこの通行人ほど正直でないような気がして、そこまで正直にさせないと気がすまないような戦争という飛んでもないデカダン野郎に重ね重ねのウラミツラミがよみがえったようだった。しかし、そういうことにシゲキされていくらか理性だか正気のようなものの影がさしてハッとすることがあったけれども、すぐ目の前で小さなバクダンの筒に頭を砕かれて大の字にひッくり返って死んだ人間については全然無感動であったと云ってよい。雨に打たれて誰かが死んだ。それがオレでなかっただけの話にすぎないのである。
小平某という奴があの最中に女の子を強姦しては殺していたという。あの最中に人を殺すとは妙な奴だ。つまり、人を殺すという良心----人を殺して自分の生きのびる手段にしようという尋常な良心が、まだ麻痺しないでノルマルに動いていたらしいや。
一時間後には自分がどうなるか分りやしないということが唯一の人生の信条となりきっていた筈のあの最中に、自分の罪を隠すために人を殺すというような平常の心がチャンと時計のように動いているのは異常なことさね、あの場合に於てはまさに驚くべき良心だね。
あの時の大半の人間というものは自分の手で人を殺すことも忘れていたようなものだ。どうせみんな死んじまい、焼けちまい、バラバラになっちまうんだ。我々の理性も感情も躾けもみんな失われ一変して、戦争という大きさのケタの違うデカダンが心や習性の全部にとって代っていたのだ。それに比べると、小平某はあの最中に良心もタシナミも失わず、はるかにデカダンではなかったのさ。あの野郎はフテエ野郎だというのは戦争がすんでからの話さ。
いったん戦争になッちまえば、健全なのは小平君ぐらいのもので、人間は地獄の人たちよりもはるかに無感動、無意志の冷血ムザンな虫になるだけのことだ。おそらくそのとき何が美しいと云ったってサクレツする原子バクダンぐらい素敵な美はないだろう。あの頃でも自分をバクゲキにくる敵の飛行機が一番美しく見えた。そして、その美を見ることができた代りに死ななければならないということは、たいしたことじゃアないのさ。人を殺すのが戦争じゃないか。戦争とは人を殺すことなんだ。
こんな戦争をさせるヤツは何ヤツなのだろう? 勝たずば生きて帰らじと……というような歌を戦争の時もオリンピックの時もとかく歌いたがる日本人だが、戦争が好きだという日本人が決してタクサンいるわけではなかろう。けれども権力に無抵抗主義の日本人は近づく戦争にも無抵抗で、戦争も一ツの天災だというようにバクゼンと諦めきっているのかも知れない。そして、天災に襲われ叩きのめされてもたじろがず、ツルハシやクワを握って立ち上り立ち向う根気をこの上もない美徳と考えているのかも知れないな。また、天災にそなえて非常米を備蓄するのと同じように軍備というものを考えているのかも知れない。しかし戦争は天災ではないのだから、努力や工夫や良識によってそれを避けることもできるし、非常米のように軍隊をたくわえておく必要が不可欠のものでは決してない。
pp.583-587
屍体から戦闘帽をもらった火葬係りなどは、明日は自分がその戦闘帽と一しょに吹きとばされてバラバラになるかも知れない無数の迷い子の一人にすぎないのである。彼はまだ生きてたから屍体の戦闘帽をもらっただけのことであろう。戦争とはそういうものなんだ。戦争になってしまえば、そうあるだけのことだ。
戦争にも正義があるし、大義名分があるというようなことは大ウソである。戦争とは人を殺すだけのことでしかないのである。その人殺しは全然ムダで損だらけの手間にすぎない。
p.595
降りそそぐ焼夷弾、建物の倒壊と焼失、何千という焼死体やちぎれた首や手足、それらを目にしても、「あのころは全然不感症だった。屍体のかたわらで平然とベントーも食えたであろう」と安吾は 書いている。それは戦争という「飛んでもないデカダン野郎」のなせる業で、どんな人間も「いったん戦争になッちまえば、人間は地獄の人たちよりもはるかに無感動、無意志の冷血ムザンな虫」にならざるをえない。そういう「冷酷ムザンな虫」となって焼け跡をうろついていた時のじぶんの心理を思いかえして、安吾は「三発目の原子バクダンがいつオレの頭上にサクレツするかと怯えながら、原子バクダンを呪う気持などサラサラなかったね。オレの手に原子バクダンがあれば、むろん敵の頭の上にそれをいきなりバクハツさせてやったろう」と書いている。戦争という極限状況におかれれば、原子バクダンをもてば、けっきょくそれを使うことになってしまう、と安吾は確信したのだ。つまり、核抑止など絵空事で、軍拡競争は滅びに通じる道でしかない、と安吾は考えたにちがいない。
昔は三大強国と自称し、一等国の中のそのまたAクラスから負けて四等国に落ッこッたと本人は云ってるけれども、その四等国のしかも散々叩きつぶされ焼きはらわれ手足をもがれて丸ハダカになってからやッと七年目にすぎないというのに、もうそろそろ昔の自称一等国時代の生活水準と変りがないじゃないか。足りないものは軍艦や戦車や飛行機だけ。つまり負けるまでは四等国の生活水準を国防するために超Aクラスのダンビラをそろえて磨きあげて目玉をギョロつかせていただけのことではないか。
人に無理強いされた憲法だと云うが、拙者は戦争はいたしません、というのはこの一条に限って全く世界一の憲法さ。戦争はキ印かバカがするものにきまっているのだ。四等国が超Aクラスの軍備をととのえて目の玉だけギョロつかせて威張り返って睨めまわしているのも滑稽だが、四等国が四等国なみの軍備をととのえそれで一人前の体裁がととのったつもりでいるのも同じように滑稽である。日本ばかりではないのだ。軍備をととのえ、敵なる者と一戦を辞せずの考えに憑かれている国という国がみんな滑稽なのさ。彼らはみんなキツネ憑きなのさ。本性はまだ居候の域を卒業しておらず、要するに地球上には本当の一等国も二等国もまだ存在せず、ようやく三等国ぐらいがそれもチラホラ、そんなものだ。大軍備、原子バクダンのたぐいは三好清海入道の鉄の棒に類するもので、それをぶらさげて歩くだけ腹がへるにすぎない。
戦争や軍備は割に合わないにきまっているが、そのために大いに割が合う少数の実業家や、そのために職にありつける失業者や、今度という今度はギャバ族のアラモード、南京虫、電蓄、ピアノはおろか銀座をそッくりぶッたくッてやろうと考えながらサツマイモの畑を耕している百姓などがあちこちにいて軍備や戦争熱を支持し、国論も次第にそれにひきずられて傾き易いということは悲しむべきことではあるが、世界中がキツネ憑きであってみれば日本だけキツネを落すということも容易でないのはやむを得ない。けれども、ともかく憲法によって軍備も戦争も捨てたというのは日本だけだということ、そしてその憲法が人から与えられ強いられたものであるという面子に拘泥さえしなければどの国よりも先にキツネを落す機会にめぐまれているのも日本だけだということは確かであろう。
pp.592-593
安吾は同時代人の冴えた眼で、日本人の生活水準が戦後わずか7年で戦前の水準にもどったことをユーモアたっぷりに証言していて、当時はまだ幼児だったボクなぞは戦後復興について「そんな感じだったのか」と新鮮な印象を与えられた。そういう急速な復興が軍隊を捨てたことで可能になったという安吾の見方はだれからも首肯(しゅこう)されるであろう。
GHQの当初の方針は旧日本軍の解体だったから、集団的自衛権ばかりでなく個別的自衛権もふくめて軍隊の保持と交戦権を全面禁止しようとしていた。それが方針転換したのは中華人民共和国の建国(1949年)と朝鮮戦争の勃発(1950年)の結果、米政府が日本を反共産主義のための前線基地や兵站基地として利用しようと考えたからだ。
そしてそのアメリカの方針転換は日本の支配階級である保守層(天皇をふくむ)の利害と合致していたから、彼らは1950年にマッカーサーが警察予備隊の設置を指令してきたのを好機ととらえ、「再軍備」を開始し、以降国内の反対を躱(かわ)しながら、警察予備隊を自衛隊に改組し、軍備を増強し、憲法9条の骨抜きを画策してきた。安倍晋三政権以降の政権が推し進めてきたことはこの「逆コース」の流れの集大成で、 集団的自衛権の容認、特定秘密保持法の施行、敵基地攻撃能力の保有、防衛費の倍増、米軍と自衛隊の一体化などはいずれも憲法9条を有名無実化して臨戦態勢をととのえるための努力だった。
けれでも、戦争を望んでいるのは日本の支配階級とそのとり巻きたち―政治屋と官僚、そして安吾のいう「そのために大いに割が合う少数の実業家や、そのために職にありつける失業者や、今度という今度はギャバ族のアラモード(注1)、南京虫(注2)、電蓄、ピアノはおろか銀座をそッくりぶッたくッてやろうと考えながらサツマイモの畑を耕している百姓など」―だけであって、前線に駆りたてられる被支配階級にとっては悪夢でしかない。だから山上被告に喝采する人びとがでてくるのだ。
アメリカも憲法9条を日本に押しつけたのを今では後悔しているだろうが、いったん出来てしまえばもうこっちのもので、憲法9条を利用しない手はない。トランプは「日米安保条約は片務条約だから、米兵の命を犠牲にして日本を守る義務はない」と安保条約の廃棄をちらつかせ始めたが、アメリカが東アジアで戦争をするには、不沈空母としての日本、兵站線としての日本、米兵のガス抜きのための歓楽地としての日本はなくてはならないはずだ。だから「憲法9条があるから戦争には加わらない。中国にもつかない。中立を守る」と日本が言いだしたら、アメリカはどうするだろうか。こういう素朴な非戦論に現実的な骨格と肉付けをあたえ、リアル・ポリティクスに耐えるヴィジョンに仕上げてくれる理論家が出てきてくれないものだろうか。世界共和国が実現するまでにはまだ何百年もかかかるだろう。その間は使える手段はなんでも使って戦争を回避するほうがどれほど被害が少なくてすむか知れはしない、と安吾ならば言うだろう。
(注1)ギャバはギャバジンの略語。ギャバジンは米軍の軍服にも使用されていた高級な布地で、物資統制下の戦後の日本ではギャバジン製の背広を着れる人は限られており、それを着ている人はギャバ人種と呼ばれた。つまり、ギャバ人種(族)には占領統治下でうまい汁を吸っている人々というニュアンスがあった。1950(昭和25)年11月に発行された雑誌『真相』第51号に、〈風俗研究 ギャバ族盛衰記〉という記事が載っていて、米軍の占領統治下でうまい汁を吸ったり、吸い損ねたりした事例が列挙されている。次節にも出てくるように安吾は雑誌『真相』の読者だったので、「ギャバ族のアラモード」という表現はこの〈ギャバ族盛衰記〉に触発されて思い付いたのではなかっただろうか。〈進駐軍ビジネスで大儲けをねらう新手の連中〉といった意味になるだろう。
(注2) 女性用の高級腕時計の俗称。
( 2 ) 天皇制について
ボクは天皇制がきらいだ。テレビのアナウンサーや新聞記者が天皇や皇族に敬語をつけて話したり書いたりするのを見聞きすると虫唾(むしず)がはしる。
こんなイヤな習慣が戦後いつから始まったのかよく知らないが、少なくとも安吾が書いていた昭和30年代初めまでは、こんなことはなかったのではないだろうか。
「真相」という雑誌が、この旅行を諷刺して、天皇は箒(ほおき)である、という写真をのせたのが不敬罪だとか、告訴だとか、天皇自身がそれをするなら特別、オセッカイ、まことに敗戦の愚をさとらざるも甚しい侘(わび)しい話である。
私は「真相」のカタをもつもので、天皇陛下の旅行の仕方は、充分諷刺に値して、尚あまりあるものだと思っている。
戦争中、我々の東京は焼け野原となった。その工場を、住宅を、たてる資材も労力もないというときに、明治神宮が焼ける、一週間後にはもう、新しい神殿が造られたという、兵器をつくる工場も再建することができずに、呆(あき)れかえった話だ。
こういうバカらしさは、敗戦と共にキレイサッパリなくなるかと思っていると、忽(たちま)ち、もう、この話である。
私のところへは地方新聞が送られてくるから、陛下旅行の様子は手にとる如く分るが、まったく天皇は箒であると言われても仕方がない。
天皇陛下の行く先々、都市も農村も清掃運動、まったく箒である。陛下も亦(また)、一国民として、何の飾りもない都市や農村へ、旅行するのでなければ、人間天皇などゝは何のことだか、ワケが分らない。
朕(ちん)はタラフク食っている、というプラカードで、不敬罪とか騒いだ話があったが、思うに私は、メーデーに、こういうプラカードが現れた原因は、タラフク食っているという事柄よりも、朕という変テコな第一人称が存在したせいだと思っており、私はそのことを、当時、新聞に書いた。
私はタラフク食っている、という文句だったら、殆ど諷刺の効果はない。それもヤミ屋かなんかを諷刺するなら、まだ国民もアハハと多少はつきあって笑うかも知れないが、天皇を諷刺して、私はタラフク食っていると弥次ってみたところで、ヤミ屋でもタラフク食っているのだもの、ともかく日本一古い家柄の天皇がタラフク食えなくてどうするものか、国民が笑う筈はない。これが諷刺の効果をもつのは、朕という妙テコリンの第一人称が存在したからに外ならぬのである。
朕という言葉もなくなり、天皇服という妙テコリンの服もぬがれて、ちかごろは背広をきておられるが、これでもう、ともかく、諷刺の原料が二つなくなったということをハッキリとさとる必要がある。
人間の値打というものは、実質的なものだ。天皇という虚名によって、人間そのものゝ真実の尊敬をうけることはできないもので、天皇陛下が生物学者として真に偉大であるならば、生物学者として偉大なのであり、天皇ということゝは関係がない。況(いわ)んや、生物学者としてさのみではないが、天皇の素人芸としては、というような意味の過大評価は、哀れ、まずしい話である。
「天皇陛下にささぐる言葉」 『風報』第二巻第一号 1948(昭和23)年
坂口安吾全集15 ちくま文庫 pp. 285-287。
引用は青空文庫に拠る。
(https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42818_26242.html)
読んでのとおり、安吾は天皇にたいして丁寧語以上の敬語を使っていない。「天皇は箒である」というのは、天皇が各地へ巡幸すると、その都道府県が清掃したり、建て替えたり、整備したり、隠蔽したりして、天皇の立ち寄り先を見違えるほどきれいにする。そのことを雑誌『真相』が「天皇は箒みたいだ」と皮肉って、不敬罪呼ばわりされたことを指している。安吾は、天皇がそうした忖度を黙認していることを問題にして、それでは「人間天皇」の名が廃(すた)ると手きびしく批判している。安吾は不敬罪を恐れることなく天皇を批判し、「人間の値打ちは実質的なものだ」と平然と言いきっている。安吾にとって敗戦までの天皇崇拝は異常で危険なものに感じられていたし、その崇拝が戦後も払拭されていないことに苛立っている。
地にぬかずき、人間以上の尊厳へ礼拝するということが、すでに不自然、狂信であり、悲しむべき未開蒙昧の仕業であります。天皇に政治権なきこと憲法にも定むるところであるにも拘らず、直訴する青年がある。天皇には御領田もあるに拘らず、何十俵の米を献納しようという農村の青年団がある。かゝる記事を読む読者の半数は、皇威いまだ衰えずと、涙を流す。
かく涙を流す人々は、同じ新聞紙上に璽光(じこう)様を読み笑殺するが、璽光様とは何か、彼女はその信徒から国民儀礼のような同じマジナイ式の礼拝を受けたり、米や着物を献納されたり、直訴をうけたりしており、この教祖と信徒との結びつきの在り方は、そっくり天皇と狂信民との在り方で、いさゝかも変りはない。その変りのなさを自覚せず、璽光様をバカな奴めと笑っているだけ、狂信民の蒙昧には救われぬ貧しさがあります。
超人間的な礼拝、歓呼、敬愛を受ける侘びしさ、悲しさに気付かれないとは、これを暗愚と言わざるを得ぬ。
人間が受ける敬愛、人気は、もっと実質的でなければならぬ。
天皇が人間ならば、もっと、つゝましさがなければならぬ。天皇が我々と同じ混雑の電車で出勤する、それをふと国民が気がついて、サアサア、天皇、どうぞおかけ下さい、と席をすゝめる。これだけの自然の尊敬が持続すればそれでよい。天皇が国民から受ける尊敬の在り方が、そのようなものとなるとき、日本は真に民主国となり、礼節正しく、人情あつい国となっている筈だ。
私とても、銀座の散歩の人波の中に、もし天皇とすれ違う時があるなら、私はオジギなどはしないであろうけれども、道はゆずってあげるであろう。天皇家というものが、人間として、日本人から受ける尊敬は、それが限度であり、又、この尊敬の限度が、元来、尊敬というものゝ全ての限度ではないか。
pp.292-3
いつかどこかで、オランダ国王が路面電車で執務室に通勤しているという記事を読んだような記憶があるが、もしそれが事実なら、それこそまさに安吾が願っていた国民と天皇の関係だったであろう。どのような人間関係でも、たとえ男女の恋愛関係においても、安吾は自由と自立を追求した。そのような安吾には、国民のうちたった一人でも特別扱いされる者があれば、その小さな穴から万民平等という大理想も易々として潰(つい)えてしまうと感じていたはずだ。「私とても、銀座の散歩の人並みの中に、もし天皇とすれ違う時があるなら、私はオジギなどはしないであろうけれども、道はゆずってあげるであろう。天皇家というものが、人間として、日本人から受ける尊敬は、それが限度であり、又、この尊敬の限度が、元来、尊敬というものゝ全ての限度ではないか」というコトバからは、人間が人間に拝跪してはならないこと、それは人間の尊厳に反するという安吾の思想の根源がはっきりと感じとれる。
もっとも、この時代、天皇や天皇制への醒めた意識は安吾だけに限ったことではなかったのかもしれない。ボクは小学5年か6年のとき、憲法の天皇の地位について学んでいて、担任のK先生が、
「ほら、君たち、天皇の地位は主権の存する日本国民の総意に基づく、と書いてあるだろ。つまり、国民の多くがそれを望めば、天皇をやめさせられるんだ」
といったのを忘れることができない。それでボクは天皇の代替わりごとに国民投票があって、天皇制への賛成反対が問われるのだと思いこみ、中学になって憲法を学び直すときまで、じぶんの勘違いに気づかなかった。
しかしボクの誤解は真っ当な誤解だったと今でもおもう。国民が民意を直接表明できる国民投票は、憲法改正にかぎらず、多くの機会に認められるべきで、天皇の代替わりごとに天皇制の可否を問う国民投票もとうぜんその機会の一つに含められるべきだ。
参政党は、その憲法草案で、日本は「天皇のしらす君民一体の国家」であり、「国は主権を有」するというトンデモナイことを言いはじめた。この憲法草案のまとめ役だという人物がテレビで「国が主権を有する、という場合の〈国〉は対外的な局面での話で、国内的には主権は国民にある」と言っていたが、詭弁にしか聞こえなかった。かれらが戦前の天皇の強権や神格を復活させたがっているのは明らかだ。安吾が生きていたら「悲しむべき未開蒙昧の仕業」と嘆いたことだろう。主権の所在や天皇制の可否といった重要な問題は、代議士や政党を選択する間接選挙でではなく、国民が直接民意を表明できる国民投票で決議されるべきだ。
( 3 ) 渡来人について
ボクは40年来京都の東山連山の稜線上にある団地に住んでいるが、団地から旧志賀越え道にそって琵琶湖側に下った山裾(すそ)に、百穴古墳群という遺跡がある。ドーム状の玄室をもつ横穴式円墳が、大小150ほど(確認されているのは70基ほど)竹林のなかに点在していて、その形状(持ち送り工法で天井をドームにし、その上に大きな天井石をのせる)や副葬品(炊事道具を模したミニアチュアの土器)からみて、朝鮮半島からの渡来人が6世紀後半から7世紀前半に築いた彼らの埋葬地だと考えられている。
とうぜん、彼らが生活していた場所は埋葬地からそう遠くないところにあったはずで、百穴古墳群から北へ3キロほどのところにある穴太(あのう)遺跡もそのうちの一つだと見ていいだろう。『図説 大津の歴史』によると、穴太遺跡の建物はすべて掘っ立て柱建物で、大壁(おおかべ)造り(柱を土壁のなかに塗り込める工法)や礎石建ち工法も用いられていた。また穴太遺跡周辺からは朝鮮半島の暖房装置オンドルの遺構や韓竈(からかまど)(土師(はじ)製の移動式カマド)も出土していて、そこが朝鮮系氏族の集住地だったことを示している。縄文時代以来の竪穴住居が並んでいた周辺の先住民の集落とくらべると、板塀に囲われたその村は異彩を放っていたことだろうが、それらの集落がとなりあって存続していたらしい。
穴太はまた織豊時代に城壁造りのエキスパートとして重用された穴太衆の根拠地としても有名だが、彼らの石積みの真骨頂は、大阪城の石垣のような巨大な切り石を積み重ねる石組みにではなく、大きさも形もさまざまな、どこにでも転がっている自然石を組み合わせる野面積みにあった。彼らが築いた比叡山麓の坂本の町の石垣や水路をみていると、その技術が生活上の必要から生まれ、磨かれた技術であったろうことが推察される。比叡山や比良山の山裾が急こう配で琵琶湖におちこんでいる湖西の地形では、田畑を開墾するにも家屋の土台を築くにも、石垣を築いて土留めをする必要があるからだ。穴太衆は「古墳時代に朝鮮半島から日本に渡ってきた渡来人」の末裔(https://nihonmono.jp/article/32930/#index_id1)といわれているが、金達寿は『日本の中の朝鮮文化』で、穴太(あのう)の地名は朝鮮半島南端にあった安那(あな)国から来ていると推定していて、もしそれが正しければ、安那をふくむ大伽耶が新羅に滅ぼされた6世紀後半から7世紀前半ころ、穴太衆の祖先たちは日本に逃避してきたのかもしれない。
だが、もっと早い時期に、もっと目立たない形で、おなじような石工の技術をもった名も知れない渡来人の小集団が湖西の方々に住みつき、その技術をそれぞれの環境にあわせて進化させ、それを周囲の先住民たちも学び、広めていったということは考えられないだろうか。そう考えないと、堅牢で美しい石垣や溝がこれだけ広く湖西の各地に広がっていることの説明がつかないように思えるのだ。そんなことを考えていたときに読んだ『安吾新日本地理』の一篇「高麗神社の祭の笛」は、目から鱗が落ちるように新鮮で感動的だった。
今日では埼玉県入間郡高麗(こま)村ですが、昔は武蔵の国の高麗郡であり、高麗村でありました。東京からそこへ行くには池袋駅から西武電車の飯能(はんのう)行きで終点まで行き、吾野(あがの)行きに乗りかえ(同じ西武電車だが池袋から吾野行きの直通はなく、いっぺん飯能で乗りかえなければならない)飯能から二ツ目の駅が高麗(こま)です。高麗村の北側背面は正丸峠を越えて秩父に通じ、東南は高麗峠を越えて飯能に、また高麗川を下れば川越市へでて入間川から荒川となり(つまり高麗川が入間川に注ぎ、入間川が荒川にそそいで)昔の隅田川で申しますと浅草で海にそそいでおった。その海にそそぐところが今の浅草観音様のところ、そこが当時の海岸で海はそこから上野不忍池(しのばずのいけ)まで入海になっていたものの由です。もっともそれは江戸開府ごろの話ではなくて、浅草の観音様ができた当時、千何百年むかしの話です。本郷の弥生ヶ丘や芝山内がまだ海岸だった頃のことだ。
続日本紀、元正天皇霊亀二年五月の条に、「駿河、甲斐、相模、上総(かずさ)、下総、常陸(ひたち)、下野(しもつけ)の七国の高麗人一千七百九十九人を武蔵の国にうつし、高麗郡を置く」とある。これが今の高麗村、または高麗郡(現入間郡)発祥を語る官撰国史の記事なのである。
この高麗(こま)は新羅(しらぎ)滅亡後朝鮮の主権を握った高麗(こうらい)ではなくて、高句麗(こくり)をさすものである。
高句麗は扶余(ふよ)族という。松花江上流から満洲を南下して朝鮮の北半に至り、最後には平壌に都した。当時朝鮮には高句麗のほかに百済(くだら)と新羅(しらぎ)があった。百済は高句麗同様、扶余族と称せられている。日本の仏教は欽明天皇の時、今から千四百年ほど前に百済の聖明王から伝えられたと云われているのである。
ともかく扶余族の発祥地はハッキリしないが満洲から朝鮮へと南下して、高句麗、百済の二国をおこしたもので、大陸を移動してきた民族であることは確かなようです。
この民族の一部はすでに古くから安住の地をもとめて海を越え、日本の諸方に住みついていたと考えられます。高句麗は天智天皇の時代に新羅(しらぎ)に亡ぼされたが、そのはるか以前から当時の大陸文化をたずさえて日本に移住していることは史書には散見しているところで、これらの史書に見ゆるものは公式の招請に応じたものか、または日本のミヤコや朝廷をめざして移住してきたものに限られているのであろう。
自分の一族だけで自分勝手に海をわたり、どこかの浜や川の中流、上流などで舟をすて、自分の気に入った地形のところへ居を定めた。というテンデンバラバラの家族的な移動は、日本の諸地に無数にあったものと想像しうるのである。
もとより、新羅人や百済人の来朝移住も多かった。南鮮と九州もしくは中国地方の裏日本側とを結ぶ航海が千数百年前に於ても易々たるものであったことは想像に難くない。いかなる猛獣や毒虫が住むかも知れぬ原始の山野を歩くのに比べれば、南鮮と北日本を結ぶ航海の方ははるかに易々たるものであったに相違ない。
戦後の今日、朝鮮からの密輸や密入国は発動機船を用いているらしいが、それは監視船の目をくぐるに必要な速力がいるための話で、まだ沿岸に監視の乏しかった終戦直後には大昔と変りのないアマの小舟でさかんに密輸や密入国が行われ、それで間に合ったのだ。別に監視のあるわけでもない大昔には、アマの小舟で易々と、また無限に入国して、諸方に定住し得たのは自然であろう。
遠く北鮮の高句麗には、南鮮と北九州北中国を結ぶような便利はないが、今日、密輸入密入国の一基地はウラジオストックに近い北鮮の羅津あたりにもあって、小舟によって潮流を利用したり、または潮流を利用して荷物を流す方法もあるという話であるが、荷物を流すのはとにかくとして、潮流を利用するというカンタンな航海法、もしくは出航後自然に潮流に乗ってしまったという航海の可能性は十二分に考えられるのである。
この潮流は季節によって異るかも知れないが、たとえば、裏日本の海辺に於ては太平洋戦争前から再々ウラジオストックの機雷の漂流に悩んでいたのであった。ウラジオのものらしい機雷が津軽海峡にまで漂流し、本土と北海道を結ぶレンラク船の航海にまで危険が起ったのは今年の話である。東京はじめ太平洋岸の人々にとってウラジオの機雷という物騒な漂流児が話題にのぼったのはようやく今春来のことである。
けれども裏日本の海辺がウラジオからの漂流機雷に悩みはじめたのは太平洋戦争の起る前からのことだ。私が昭和十七年の夏に新潟市へ行ったとき、博物館(であったと思う。あるいは別の場所だったかも知れない)でドラムカンの化け物のようなこの機雷を見た。それはその年かその前年ごろ新潟の浜へ漂着し工兵が処理したものであったが、すでに当時から裏日本の諸方の浜ではこの機雷に悩んでいた。もっともそのタネは日本がまいたようなもので、支那で戦争を起したりノモンハン事変などもあったから、ロシヤはウラジオ港外に機雷網をしいて用心しはじめたのであろう。それが冬期の激浪にもまれ解氷時に至ってロビンソン・クルーソーの行動を起すもののようである。
この日本海の漂流児は能登半島から福井方面へ南下するのもあるが、富山方面へ南下して佐渡と新潟間より北上を起して途中の浜辺でバクハツせずについに津軽海峡にまで至り、そこから更に太平洋にまで突入して行方をくらますという颱風の半分ぐらいも息の長いのが存在しているのである。そして、能登半島から山陰方面へ南下するのと、富山新潟方面へ南下して更に北上するのと、どっちの方が多いのか知らないが、富山新潟方面へ南下して更に北上する漂流機雷が決して少数ではなく、敗戦後元海軍の技術将校にきいた話では、そッちへ流れるのが春夏の自然の潮流だという話であった。ともかく多くの漂流機雷が能登半島の北岸沿いに新潟秋田方面にまで北上していることは事実なのである。
日本の原住民はアイヌ人だのコロポックル人だのといろいろに云われておるが、貝塚時代の住民はとにかくとして、扶余族が北鮮まで南下して以来、つまり千六七百年ぐらい前から、朝鮮からの自発的な、または族長に率いられた家族的な移住者は陸続としてつづき、彼らは貝塚人種と違って相当の文化を持っておったし、数的にも忽ち先住民を追い越す程度の優位を占めたものと思われる。先住民が主として海沿いの高台に居を占めて原始生活をしていたのに比べて、彼らは習性的に(または当時の彼らの科学的考察の結果として)山間の高燥地帯に居を占め、低地の原野を避けるような生活様式を所有しておった。大昔の低地は原始林でもあるし洪水の起り易い沼沢地帯でもあって毒虫猛獣の害も多く、それに比して山岳地帯の盆地の方が居住地としての安全率が高かったのであろう。そこには先住民たる貝塚人種の居住もなく、全てに於て山間に居住地を定める方が他部落とのマサツや獣虫天災の被害が少なかったのであろう。またコマ、クダラが亡びて後は特に密入国的な隠遁移住が多かったであろう。
つまり天皇家の祖神の最初の定着地点たるタカマガ原が日本のどこに当るか。それを考える前に、すでにそれ以前に日本の各地に多くの扶余族だの新羅人だのの移住があったということ、及び当時はまだ日本という国の確立がなかったから彼らは日本人でもなければ扶余人でもなく、恐らく単に族長に統率された部落民として各地にテンデンバラバラに生活しておったことを考えておく必要がある。
つまり今日に於てもウラジオストックからの漂流機雷が津軽海峡のレンラク船をおびやかす如くに、当時に於ても遠く北鮮からの小舟すらも少からぬ高句麗の人々をのせて越や出羽の北辺にまで彼らを運び随所に安住の部落を営ませていたであろうということを念頭にとどめておくべきであろう。
むろん馬関海峡から瀬戸内海にはいって、そこここの島々や九州四国本州に土着したのも更に多かったであろうし、一部は長崎から鹿児島宮崎と九州を一巡して土着の地を探し、または四国を一巡したり、紀伊半島を廻ったり、中部日本へ上陸したり、更に遠く伊豆七島や関東、奥州の北辺にまで安住の地をもとめた氏族もあったであろう。そして彼らは原住民にない文化を持っていたので、まもなく近隣の支配的地位につく場合が少くなかったと思われる。
『安吾新日本地理』「高麗神社の祭の笛」 『文藝春秋』1951(昭和26)年12月号
坂口安吾全集18 ちくま文庫 pp. 594-599。
引用は青空文庫に拠る。
(https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45910_37866.html)
安吾の想像力はアマの小舟や漂流機雷をおって、朝鮮半島から山陰、若狭、新潟、秋田、さらに津軽海峡をぬけて伊豆諸島にまで融通無碍(むげ)に広がっていく。
だが安吾の融通無碍さは空間的ばかりではない。かれは『古事記』『日本書紀』はいうまでもなく、『続日本紀』『新撰姓氏録』ほかの史書を熟読し、『上宮聖徳法王定説』については、『安吾新日本地理』中の他の一篇「飛鳥の幻」のなかで、テキスト中の2字と3字の欠字について「天皇」または「皇太子」に類する単語が意図的に抹消されたのではないかと「歴史タンテイ」するほど史書に親炙(しんしゃ)していたが、そうした「官撰国史」に縛られることはなかった。安吾は、それらの国史が「公式の招請に応じたものか、または日本のミヤコや朝廷をめざして移住してきたもの」しか扱っておらず、国史が相手にしなかったその他の移住が無数にあったことを見逃さなかった。
すでに引用したように、安吾は扶余族系の移住者が「自分の一族だけで自分勝手に海をわたり、どこかの浜や川の中流、上流などで舟をすて、自分の気に入った地形のところへ居を定めた。というテンデンバラバラの家族的な移動は、日本の諸地に無数にあったものと想像しうるのである。もとより、新羅人や百済人の来朝移住も多かった。南鮮と九州もしくは中国地方の裏日本側とを結ぶ航海が千数百年前に於ても易々たるものであったことは想像に難(かた)くない」と考えていた。安吾はウラジオストックから故郷新潟の海岸に漂着した機雷を目にして、古代においてもシベリアや北朝鮮から日本への航海(ないしは漂着)は可能だったし、さらに南朝鮮から日本への渡航はさらに容易だったはずだと推定した。説得力のある推定だろう。
安吾は、その「テンデンバラバラの家族的な移動」がおきた年代を「貝塚時代(縄文時代の戦前の別称)の住民はとにかくとして、扶余族が北鮮まで南下して以来、つまり千六七百年ぐらい前から」と明確にしている。「高麗神社の祭の笛」が執筆された1951年から計算すると、「千六七百年ぐらい前」はAD250年か350年ころ、つまり古墳時代に入ってから、を安吾は念頭においていたことになる。
古墳時代人の移住が有力な指導者に率いられた大集団ではなく、「テンデンバラバラの家族的な移動」であったことが、先住民との権力争いを起こりにくくさせ、いわばこっそりと先住民の中に入りこんで住みつくことを可能にさせたと安吾は考えていたようだ。また、「山岳地帯の盆地の方が居住地としての安全率が高」く、「そこには先住民たる貝塚人種の居住もなく、(中略)他部落とのマサツ」も少なかったであろう、というコトバから判断すれば、新移住者たちが先住民の多い海辺の低地を避け、山間の盆地などに入植するケースが多かったと安吾は推測していたようだ。そして、そうした「テンデンバラバラの家族的な移動」は個々には小規模であっても、それが陸続とつづくことによって、やがて「数的にも忽ち先住民を追い越す程度の優位を占めたものと思われる」と書いている。
ボクは以前、金達寿が「歴史の中心は渡来人だった」(『日本古代史の謎ゼミナール』所収)のなかで、昭和はじめの人口増加率(1000人あたり12人増)で計算すると、「天智天皇四年に百済より内地に帰化した男女400名の増加率を計算するに、100年目に1300名となり、300年後に13,847名となり、500年後には187,198名となり、900年後には実に23,827,285名を算するのである」という小松寛美の文章を紹介しているのを読んだことがある。新規の渡来人の移住に加え、移住後のこのような累代増を考慮すれば、古墳時代の渡来人とその子孫が「数的にも忽ち先住民を追い越す」ことは十分ありえただろうとおもう。
ところで、最近注目を集めているように、金沢大学の覚張隆史らの研究グループが12体の古代人骨のDNAを解析して、日本人のルーツが従来信じられていた縄文人と弥生人の二層構造ではなく三層構造になっており、古墳時代に渡来した大量の移住者に由来するDNAが古墳人のDNAの60%(現代日本人では70%)を占めているという革新的な新説を2021年に発表した。その後、3000名以上の日本人のゲノム解析にもとづき理化学研究所がおこなった大規模な研究の結果、古墳時代人に由来するDNAの比率が60%から25%に修正されたけれども、日本人のルーツが縄文人、弥生人ばかりでなく古墳時代人を加えた三層構造をなしているという覚張説の根本は揺らいでいないようだ。武光誠『渡来人とは何者か』によると、古墳時代の人口550万~560万の25%、130万~140万人が古墳時代に渡来してきたことになるが、その「多人数の集団が一挙に日本列島に移住したわけではない。一家族ないし二、三家族程度の小集団が、ばらばらに日本列島に渡って来たのだ。そして300年ほどの間に日本列島に入ってきた多数の小集団の人数を合わせると、当時の日本列島の人口の約四分の一近くという驚くべき数字になったのだ」としている。
ボクは覚張説をはじめて知ったとき、即座に安吾の「高麗神社の祭の笛」を思い出し、覚張説とのあまりの合致に驚いた。安吾の慧眼は時流をはるかに抜いて、70年先まで届いていたことになる。安吾が生きていたら、じぶんの素人「歴史タンテイ」眼が学説で裏付けられたと自慢したことだろう。
それはともかくとして、「高麗神社の祭の笛」からの引用の末尾近くにある一節「天皇家の祖神の最初の定着地点たるタカマガ原が日本のどこに当るか。それを考える前に、すでにそれ以前に日本の各地に多くの扶余族だの新羅人だのの移住があったということ、及び当時はまだ日本という国の確立がなかったから彼らは日本人でもなければ扶余人でもなく、恐らく単に族長に統率された部落民として各地にテンデンバラバラに生活しておったことを考えておく必要がある」はボクにはことさらに興味ぶかい。それが安吾のいだいていた古代日本のイメーヂを明快に示しているからだ。まだ国家も国境もなかったその時代、人びとは日本人でも扶余人でも百済人でも新羅人でもなく、さまざまな民族が入り乱れて「族長に率いられた部族民として各地にテンデンバラバラに生活しておった」。その自由で束縛されない暮らしぶりのイメーヂは、根っからのアナキストだった安吾のもっとも好むものだっただろう。
だが、いま検討している一節のもう1つのポイントは最初の2行にある、とボクは考える。つまり、やがて日本と呼ばれるようになるこの土地には、天皇族の到来以前から人びとが住んでいたという事実を安吾は言いたがっているように見えるのだ。「天皇陛下にささぐる言葉」からも推察されるだろうが、安吾は徹底した天皇制否定論者で、さまざまな箇所で天皇制への嫌悪や批判を述べているが、この一節にもそれが顔をのぞかせている、とボクは見たい。
安吾は天皇制を代々の権力者たちがおのれの覇権を永続させるために利用してきた「極めて日本的な(従って或いは独創的な)政治的作品」だと、「堕落論」(1946(昭和21)年)で書いている。たしかに、マッカーサーまで日本統治のために天皇制を利用したのだから、天皇制が為政者たちに担がれる「歴史のカラクリ」(人工物)だという安吾の指摘には説得力がある。人工物である以上、廃棄したり修正することが可能で、敗戦はその絶好の機会なのに、日本人はその好機を活かそうとしない、と安吾は苦虫を噛みつぶす口調で書いている。
日本人の生活に残存する封建的偽瞞(ぎまん)は根強いもので、ともかく旧来の一切の権威に懐疑や否定を行ふことは重要でこの敗戦は絶好の機会であつたが、かういふ単純な偽瞞が尚無意識に持続せられるのみならず、社会主義政党が選挙戦術のために之を利用し天皇制を支持するに至つては、日本の悲劇、文化的貧困、これより大なるはない。
日本的知性の中から封建的偽瞞をとりさるためには天皇をたゞの天皇家になつて貰ふことがどうしても必要で、歴代の山陵や三種の神器なども科学の当然な検討の対象としてすべて神格をとり去ることが絶対的に必要だ。科学の前に公平な一人間となることが日本の歴史的発展のために必要欠くべからざることなのであり、科学の前に裸となりたゞの人間となつても、尚、日本人の生活に天皇制が必要であつたら、必要に応じた天皇制をつくるがよい。人間天皇は機関として存否を論ぜられるのは当然であるが、単純に政治的にのみ論ぜらるべきではなく、一応科学の前で裸の人間にした上で、更に宗教的な深さに戻つて考察せられることが必要だと思ふ。
「天皇小論」『文学時標』第9号(1946(昭和21)年)
坂口安吾全集14 ちくま文庫 pp. 523-4。 引用は歴史的仮名遣いの 青空文庫に拠る。
(https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42891_21292.html)
「高麗神社の祭の笛」をはじめとして、安吾は多くのエッセイで日本の古代史をあつかった。『安吾新日本地理』11篇中の5編「安吾・伊勢神宮にゆく」「飛鳥の幻」「飛騨・高山の抹殺」「飛騨の秘密」「高麗神社の祭の笛」、また最後の連作となった『安吾新日本風土記』の「高千穂に冬雨降れり」などがその代表だが、それらのすべてのエッセイの根底に、「天皇小論」に述べられている想いが底流していたのは間違いない。つまり、天皇制に科学のメスを入れ、徹底した分析をおこない、しかる後、解体もしくは再構築を図らなければならないという衝迫が、安吾をこれらのエッセイの執筆に駆り立てた根源のエネルギーだった、とボクは考えている。
(了)