田淵さんを偲ぶ
栗林 敏郎
ことの始まりは銀閣寺北側二軒隣りの同じ下宿の住人になったことである。下宿屋は造園業を営んでいて、手入れの行き届いた広い敷地に母屋と三棟の離れがあり、20名近くの学生が住んでいた。1967年、農学部園芸学教室の修士課程に進学時、就職した同級生と入れ替わりに母屋の二階の部屋に入居した。
かつて知人を介して田淵さんとの面識があった。入居後、母屋の隣の棟の二階の部屋から夜になるとよく通る笑い声と話し声を度々耳にしたものである。文学部の人たちとの交流は全く無かったから、まるで別世界のようにみえる雰囲気に興味をそそられた。その隣の部屋の住人も同じ仏文科の人であった。夜になると木立の向こうからピンクのカーテンが明るく輝き、この興味に色を添えた。
ピンクのカーテンの下の一階の部屋には若い白人の男女が住んでいた。後々の話ではフランス人のカップルということであったが、二階のお二人とどういう関係だったのかは記憶にない。後々近くの白川沿いの銭湯でその女性が起こしたという事件を知った。彼女が湯船の中で頭髪を広げてすすいでいたところ、居合わせた他の客が汚いと騒ぎ出し、ちょうど男湯の脱衣場に居合わせた田淵さんが仲裁の労をとったということであった。仲裁の場所が銭湯のどこであったかは不明である。少し話が逸れた。
この下宿への転居から3, 4年後、それまでは田淵さんとは軽く会釈を交わすだけであったが、突然奥の別棟の移動先から来訪があり、奥の敷地の恰好の一角に下宿人共有の洗濯機を設置しようという提案を受けた。一緒に下宿の入居者を訪ね回った結果、すぐに新品の洗濯機がその一角に鎮座することになった。以後、黒い岩の流しに置いた洗濯板に向かって、冬の冷たい水に素手を晒すことはなくなった。
当方はこの頃、修士課程を中退して1970年京都府立医大に入学していた。まだ先が長いということで、前述のフランス人男女が住んでいた改装済みの部屋をあてがわれた。この部屋の南側、入口へ導く庭は生垣で囲まれ、一畳ほどの石卓と5個の丸い陶器の椅子が小さい池に隣接して置かれていた。部屋は二間に分かれ、新調の窓枠と厚目のガラスによる防音効果も期待された。そういうわけで、ここには昼夜季節を問わないみんなのたまり場としての条件が整っていた。田淵さんをはじめ、ひょんな縁で言葉を交わすようになった銀閣寺界隈の少し変った住人が気楽に覗く場所になった。以来、1996年に当方が福岡に転居した後も50数年に渡って続く交友を我が家では銀閣寺グループと称している。
田淵さんは文学部卒業後就職していたジャーナリズム関係の職場を退職した後、仏文学の大学院を経て大阪府立大学などで教鞭をとっておられた。皆がくつろいで集まるときには、酒があっても全く手を付けず、両切りピースを一缶携えるのが習わしで、「たくさん吸えなければ旨いタバコとは言えない」ということであった。タバコを吸い始めたのは高校生の時で、毎日帰宅時のおやつに添えられていたという。他界される半年前に判明した下咽頭癌に関係したかもしれない。
洒脱な断片的言動が他にいくつか記憶に残っている。「教養部の体育の授業でグラウンドと南禅寺間の往復長距離走を課せられることがあったが、とてもただ走ることに馴染むことはできなかった。いつも適当に歩いて、程よい時間にタクシーをつかまえて涼しい顔をして帰っていた」。銀閣寺界隈を一緒に歩行中、ジョギングをしている中年の男の姿が目に入った時には「歳に逆らって悪あがきしているように見える」という言があった。京都と大阪の二重生活のなか、銀閣寺へ向かう疎水縁りを書籍の詰まった重そうなバッグを手に颯爽と闊歩される姿をよく目にしたのであるが、走る姿はたとい小走りであってもどうにも想像がつかない。
運動は一切受け付けないということではなかった。ある時、突然バッティングセンターへ通っているということを直接耳にした。見学のためではなくて自分でバットを携えて行くと知った時は驚いた。打ちっぱなしの練習場が白川通りの西側に面して銀閣寺から歩いて10分余りのところあり、それから何回か同行した。腕、腰、脚がバランスよく動いて豪快にバットを振るということではなかったが、ともかくバットはうまくあの速いボールを捉えて前へ飛ばしていた。眼力が自慢であった。かつて学校野球や草野球に勤しんだという話はなく、バッティングを始めた動機は不明であったが、ともかく楽しそうであった。日常との乖離を満喫されていたのかもしれない。
運動といえば、もう一つ思い出されるのが田淵さん発案の海水浴である。5, 6人で毎年夏になると越前海岸や和歌山の海岸に2泊するのが恒例になった。皆が家庭を持った後は子供たちも含めた大所帯になった。田淵さんの泳ぎは颯爽と水を切って速さを競うのではなく、ただ長時間でも体が沈まないようにプカプカ浮いて移動ができた。子供時代に友達と一緒に近くの海岸で習得したという自慢の技であった。グループの一人にカナズチを自称する者がいて自身の意外な弱みになっていた。彼と囲碁の手合わせをして勝つことは皆無であったが、夏が近づき海へ行く話をするとあっさりと勝ちを譲ってもらえた。
どこかの海辺の喫茶店で休憩をとっている時、店の若い女の子が「誰かアラミスの香水を使っている」と言った。田淵さんの整髪剤がそれであった。当方にとっては「アラミス」はフランス小説「三銃士」ゆかりの懐かしい漫画の主役の一人であった。近づいて頭の匂いを確かめたくなったが、そういうことをされると気持ちが悪いと断られた。
運転免許の取得は1970年代中頃、40歳前後の頃であったろうか。なんと、春休みをまるまる費やして、太平洋の伊豆大島に閉じ込もって教習所に通われた成果であった。以後しばらく中古車を練習用に所有し、海水浴旅行の際は自分で運転された。その際いつも旅行から帰ると間もなく踝が赤く腫れあがり、痛みのため1, 2週間の歩行困難が続いた。日に焼けた皮膚をアリにやられたということであったが、何故いつも踝だけなのか不思議であった。そのうち当方の医学生としての知識が増え、痛風発作であることが判明した。冷房装置のない車の汗かき運転が災いしたにちがいない。
海水浴での話がもう一つある。岩場の浅瀬で10㎝程の色鮮やかな魚(ベラ?日本近海に126種)を摑まえ、新鮮な魚は生で味わうものだと言って、なんと皆の前で皮ごとの生食技を披露された。しかし、誰も後に続かなかった。明るい緑色と赤褐色の鮮やかな縞模様の皮膚を持つ魚に食欲をそそられることはなかった。有ろう事か、その日家に帰ってから異変が起きた。顔が赤く丸々と腫れ上がり、眼を開けるのも容易ではない状態が数日続いた。その魚が災いしたのは明らかであったが、さいわい体の他の部分に変調はないようであった。あの特徴的な皮膚は、お互いの仲間としての目印であると同時に生物学的な分類上の指標の一つとも考えられるが、或いは獲物として狙ってくる捕食動物に対して護身用の毒物を備えていることを警告する標識であるかもしれない。
後々、シュルレアリスム(超現実主義)という用語を知った。関連する芸術作品の展示会場を覗いたことがある。どの作品も見慣れない光景・描写で溢れていた。記憶に残っているのは、太陽がさんさんと輝く青空の下、暗闇の地上に建つ一軒家の窓からほのかな灯りが漏れ出でている光景である。確かに「現実を超えている」と納得した。【「シュルレアリスム運動体」系の成立と理論「集合離散の論理」】と題された370頁の大部の著書を田淵さんから贈呈されたのは、署名の期日によると1994年2月のことであった。初めて目にするカタカナ人名に満ちた難解な文章を辿ると、【(シュルレアリスム革命とは)‐‐‐「知性を否定し無意識の解放によって人間の自由を獲得しようという精神領域の革命の宣言である」(59頁、7行)】とある。さらにアンドレ・ブルトンという人の次の言葉が引用されている「自分たちを取りまくいわゆるデカルト的世界は我慢できぬ、面白くも可笑しくもない欺瞞的世界であって、それに対しては、あらゆる形態の反乱が正当化されます。悟性の心理学はすべて検討しなおされます」(同頁13行)。後々、宝塚の芸術大学の教授を経て理事に就任された。
この著作は、ベラ生食事件から20数年経て出版されている。この著作とあの事件が重なってくるのであるが、「執筆中にあの事件が記憶に蘇ることはなかったのだろうか」と尋ねていたら、何と答えられただろうか。「アッハッハッハ、いやなことを訊いてくるネ」という声が聞こえてくるようである。
常々結婚はしないと聞いていた。結婚は人生設計に合わないということであった。50歳を過ぎて新たな結婚の話を淡々と切り出された時はこちらも淡々と聴いた。相手の女性をグループの集まりに初めて同伴された時には最初に「お手柔らかに」という言葉を発された。後日お披露目の会が催され、宴たけなわの時、向かいの席の古い友人らしき人からある言葉が漏れた「何だか腹が立ってきた。教え子には手を出さないというのがあいつの信条だったはずなのに」。教師と教え子の間の一線を画すべき関係については確かに当方も耳にした覚えがあったが、「まっ、もういいんじゃないですか。それから20数年も別々の人生があったことだし」というのがこちらの反応であった。なお、前述の著作は奥様に捧げられている。
奥様には既にいわゆるお嬢様学校へ通う娘さんがいて、阪大へ入学された。父親の役目としての受験指導に際して、最初に使われた手が銀閣寺グループを出しにすることであった。「一緒に泳ぎに行っているあの連中を見たらわかるやろ、バカなことを言って喜ぶ何の変哲もない連中や、それでも受験勉強はきちんとやって京大に入って何とかやっとる」というようなことを言って鼓舞されたらしい。この話は、後に同じような女子高に通っていた当方の娘の受験に際してもおおいに参考になり、うまく国立大の医学部に入ってくれた。かつての田淵さんの独身生活を目にしている当方の家内がよく口にするのは、これほどの長生きはひとえに結婚の賜物に違いないということである。