一休とアルロット

一休とアルロット

~比較文学史上希有の偶然~




米山 喜晟



はじめに


 少なくとも日本国内において、一休和尚の名を知らない人はほとんどいないであろう。それに対して、今日のイタリアで、ピオヴァーノ(教区司祭)・アルロット(・マイナルディ)の名前を知っている人がどれだけいるであろうか。少なくとも1993年に京都で行われた国際学会で両者の簡単な比較を行った際、イタリア語の原稿を検閲してくれたヴェネツィア大学の卒業生は、そんな名前をそれまで一度も聞いたことがない、と言っていたし、恐らく今日ではノヴェッラやルネサンス文学の専門家を除くと、地元のフィレンツェにおいてもほとんど忘れられた存在だと考えるべきなのであろう。しかし生きていた時のアルロットは、少なくともフィレンツェ共和国の中では、下は市民や農民から、上はメディチ家やその宿敵パッツィ家の人々にまで、広く親しまれ愛されていた名物司祭であった。しかもその言行があまりにもユニークであるために、死後間もなく知人の一人の手で、『教区司祭アルロットの名言と冗談(MOTTI  E  FACEZIE  DEL  PIOVANO  ARLOTTO)』1) という書物が書かれ、それが刊行されると大人気を博し、その後ベストセラーとして60回以上も版を重ね、フランス語やドイツ語にも翻訳されていた、とされている2)

1)  A cura di Gianfranco Folena;   MOTTI E FACEZIE DEL PIOVANO ARLOTTO,RICCARDO RICCIARDI, MILANO-NAPOLI

 フィレンツェのイタリア国立図書館にマイクロフィルムを依頼して取り寄せたこの書物は、一流出版社から刊行された校訂版であるにもかかわらず、なぜか数多くのぺ一ジの乱丁が見られ(並べ変えるとぺージはそろっていたが)、どこを探しても発行年が見当たらなかった。

 本論はアルロットの人物像の紹介に止め、作品そのものの構成や内容の紹介は別の機会に行いたい。

2) 十六世紀初頭から十九世紀にかけて出版された、この種の冗談を扱った書物の多くの版については、 G.Pitre, Bibliogr. delle tradizi. popolari d'Italia, Torino-Palermo, 1894,nn.25-91 の膨大な目録にほぼ完全に収録されているが、それらを基にして数えられたこの書の刊行回数は、65回に及ぶとされている。 Folena, op. cit.,P.293.


 ところで原題にあるmottiという言葉を名言などと訳すと堅苦しい感じがするが、実はそのいくつかは相手に挑発されるなど、何らかの窮地に陥ったアルロットが、苦し紛れに発した一言の類で、それが問題の打開に役立った場合は、まさに頓知そのものであり、また冗談(facezie) の中には単なる言葉のジョークに止まらぬ、猛烈な悪戯 (プラクティカル・ジョーク) の類も入っている。すでに私はイタリアのノヴェッラ集の紹介を通して、ルネサンス期の悪戯なるものが、時には相手を殺してしまったり去勢してしまうほど猛烈なものであることを指摘してきたが、教区司祭アルロットの悪戯のいくつかは、その猛烈さにおいて、ほとんどそれに近いものである。このように彼を頓知と悪戯の主だと見なすと、その真の実像はさておいて、今日我々一般的な日本人の間に伝わっている一休和尚のイメージにかなり近い、と言えるのではないだろうか。おまけに二人とも、信仰している宗教こそ異なっているが、俗人ではなく長いキャリアーを持つ聖職者であり、本来は行い済ましているはずの聖職者が、頓知や悪戯を仕掛けるところもそっくりである。もっともこれだけなら、英国にロビンフッドがいて、我が国に国定忠治がいるように、どこの国にもよく似たイメージの奴がいるもんだ、ぐらいの話に過ぎないのだが、ここに上げた二人の間には、もう一つ大きな偶然が加わる。まず二人は、一休は数え年で88歳、アルロットは89歳 (満年齢だと各々87と88)3)、と彼らが生きた時代では珍しい長寿に恵まれていて、長寿で名高い日本女性の平均寿命をさえまだ軽く上回っている。といっても何もそんなことで私が騒いでいるわけではなく、問題は彼らの生きた年代にある。

3) なぜかフォレーナ版の本文冒頭のアルロット伝では,死去した年は1483年となっているが,百科事典等他のすべての文献では1484年となっているし、本文中に1484年と見なされる事件が語られている(144, 145)ので、1484年説を採用している。アルロットの没年がどちらであっても、二人が85年間並行して生きた事実は変わらない。なお,Folena, op. cit., p.XV, n.1 においても、1484年説が次注のサンタ・マリーア・ヌオーヴァ病院の記録などによって、証明されたことが記されている。


 一休が京の都に生まれたのは応永元年、すなわち西暦1394年。アルロットがフィレンツェに生まれたのはそれからわずか2年後だから、勿論応永三年、西暦に直すと1396年。当時フィレンツェは、ミラノ領主ジャンガレアッツォ・ヴィスコンティに攻撃されて、マーゾ・デッリ・アルビッツィを中心に、防戦に大わらわの状態にあった。そして一休は日本で延々と生き続け、数え年74歳であの応仁の乱に遭い、晩年はその余波に苦しめられながら、戦火で焼けた大徳寺の山門を再建したりした後、文明十三年、西暦1481年に薪村酬恩庵で入寂4)。アルロットはその3年後、日本では文明十六年、西暦では1484年にフィレンツェのサンタ・マリーア・ヌオーヴァ病院で死去した。ということは、アルロットが誕生した1396年から、一休が死去した1481年まで、なんと85年間もの長きにわたって、これらの聖職者の生涯が重なっているのである。この場合は文学者というよりも、作品の主人公同士のことだが、これほど長く同じ年代を生きた (その生年と没年が確定している)、 二人の類似したキャラクターが一組でも他にいたら、ぜひ教えていただきたいものである。いや、作品の主人公に限らず、作家にせよ、詩人にせよ、劇作家にせよ、文学に関係して、これほど長ぐ並行して活動した類似のペアが見付かったら、ぜひお教えいただきたいものだと思う。大体現代の日本女性を除くと、85年間生きること自体、結構困難なのではなかろうか。たとえば我々が長命な文学者だと思いこんでいる、あのゲーテでもせいぜい享年83歳、トルストイだと82歳程度であって、単独の寿命でさえ、85年にはとても達しないのである。もっとも現代の日本人の単なる女性同士のペアであれば、きんさん・ぎんさんのように、こんな記録はすでに軽く破ってしまっているので、話をあくまで文学者またはその主人公に限ることにしよう。少なくとも世界レベルの常識では、85年間も並行して生きたとなると、大変珍しいことであり、しかも、いずれも頓知と悪戯によって名を知られた聖職者だということになると、やはり比較文学史上希有の偶然と見なして差し支えないのではあるまいか。

4) 本文では「神父の病院」と記されていて、それは前注で見たとおりサンタ・マリーア・ヌオーヴァ病院であった。


 しかし、と反論する人がいるかも知れない。二人が同年代を生きた、ということにどんな意味があるというのか、と。二人は全然違う世界に生きていて、一休和尚はイタリアのフィレンツェ共和国の存在すら知らず、ましてアルロットの存在など想像だにしなかったであろうし、アルロットの場合は、あるいは日本の存在だけなら、マルコ・ポーロなどを通して知っていたかも知れないが、その国に一休が生きていることなど夢想さえしなかったはずである。だから二人の間には、こんなに長い歳月を共に生きていながら、奇麗さっぱり何の関係もなかった、と断定する他はあるまい。

 しかし、と私は言いたい。まさにそれだからこそ、二人の存在は面白いのだ、と。二人は全然相手を知らないで生き、そして生前は全く異なった生涯を過ごして死んでしまったのに、死後に、それも実際は大分たってから、大衆の間のイメージが突然似た存在となり、ある時点ではかなり類似した存在になってしまう。やはり何といっても、私にはそのしばらくの間の偶然の一致が何よりも面白いのである。後に述べる通り、両者のイメージは常に一定しているわけではなくて、たえず揺れ動いていた。特に一休のイメージの変貌と揺れは大きい。たとえ一時期アルロットに接近しても、その後特に現代日本においては、子供姿のイメージが強くなり過ぎて、アルロットのイメージからかなりずれているようである。それに対して、死後間もないころ (1485~88年) に前述の言行録が記された5) アルロットの方は、イメージ自体はかなり安定した形で保たれ続けるが、その代わり時代とともに印象が希薄になり、18世紀以後は次第に忘れられて、大衆の世界から消えていってしまうのである。たしかに偶然とはたわいないことである。たとえ偶然を追及しても、何か重要で普遍的なことが分かるとはとても思えない、というのがまず常識的な予測かも知れない。しかし私は本論で、あえてこの偶然について論じてみたいと思う。そのために、まず古い時期に把握され、そのため比較的安定しているアルロットのイメージを、前述の書物から大づかみに固定しておかねばならない。次に、日本の大衆の間に生じた一休和尚のイメージの揺れを大まかな形でたどり、二つのイメージが最も接近したと私が見なす時点における両者を比較した後、二人の主人公の類似と相違とを明らかにして、東西の人気者を生み出した条件を考察しておきたい。

5) Folena, op. cit. P.XVI.




第一章 教区司祭アルロットとは何者だったか


 正直のところ私は一休和尚について、泥縄式に何冊かの書物を読み散らしただけの門外漢である。しかもその書物たるや、たとえば最も重要な基本文献の一つである『一休和尚年譜』1) のいくつかの部分は、私ごとき教養の乏しい人間には、多少漢和辞典を捻くり回しても歯が立つような代物ではなく、まさしく視線で紙の表面を撫でただけに過ぎない。他方アルロットの方は、と開き直りたいところだが、実はそちらの方も、大したことがないことは言うまでもない。しかし一休について私よりも知っている人なら無数に存在するのに反して、アルロットについて知っている人は、日本にはほとんどいない。イタリアでも少数の専門家を除くと、そういう人は多くはあるまい。だからアルロットに関して、ここで必要最小限度の知識をまとめておくことも無意味ではあるまい。

1) 今泉淑夫校注、一休和尚年譜、1、II、東洋文庫、平凡社、641、642、1998 を利用した


 フィレンツェは、ヨーロッパでも抜群に古来の文献が几帳面に保存されている都市だとされている。元々イタリア中世都市は、戸籍や財産の記録の点で優れていたのだが、さらに1427年、資産税を課すための資産台帳(カタスト)制度 2) が加わったために、市民とその家族に関する情報がとりわけ豊富になった。まずそうした記録によって分かっていることを明らかにしておこう。

2) フィレンツェではメディチ家支配が確立される直前の1427年、収税を公平にする目的で、市民全員の資産台帳が作られた。その膨大な記録をコンピュータで分析して書かれた、ハーリヒとクラピッシュ-ジュベルの共著『トスカーナ人とその家族』は二十世紀におけるイタリア史研究の最大の成果の一つと見なされている。 D.Herlihy e C.Klapisch-Zuber, I toscani e le loro famiglie ー Uno studio sul catasto fiorentino del 1427, tr. M.Bensi, Bologna 1988(Paris 1978).


 まずその一族であるマイナルディ家は、ムジェッロ出身だとされている。ムジェッロとは、フィレンツェ北方の地名で、メディチ家などもその地方の出身だった。マイナルディ一族には公証人の伝統があったとも言う。なぜなら祖父の名はセル・マッテオ・ディ・セル・マイナルド(セル・マイナルドの息子のセル・マッテオ)といい 3) 、セルというのは、通常公証人の敬称だったから、祖父も曾祖父も公証人だったことが分かるのである。公証人というのは、当時のフィレンツェには結構多かった職業で、あらゆる契約や戸籍関係の業務に携わった。土地の売買にせよ、出生や結婚にせよ、公証人が文書を作成して市当局に届けておかなければ正式に成立したことにならないし、しかもそれには必ず手数料が伴うのだから、当時としては決して悪い職業ではなかった。たとえば13世紀末の市民軍がまだ健在だったころには、いざ合戦となると市庁舎内部にも約百人もの公証人が臨時に雇われて、市民動員の際の日当の支払いや、条約締結の文書作成などに携わった 4) 。現在フィレンツェ共和国には膨大な文書が残されているが、そのほとんどが公証人の手で作成されたものと見て差し支えあるまい。約半世紀遅れてあらわれたあの天才レオナルドも裕福な公証人の私生児だった。

 ところがアルロットの父ジョヴァンニはこの職業を継がず、といって他に何らかの専門的な職を身につけた痕跡もなかった。どうやら後年、若き日のアルロットも一時期従事した羊毛取引あたりに手を出していたようにも思われるが、あくまで推測の域を出ず、後世に確実に分かっていることはと言えば、ジョヴァンニが高利貸から借りた金を払うことができず、当時の法律に基づいて、スティンケの牢獄に入れられた、という事実である。それも一度ではなく、1412年、1426年、1432年、の三度に及んでいるという5)。たとえば、マキアヴェッリの『フィレンツェ史』のネタ本の一つとされる、やはり同じタイトルの『フィレンツェ史』の著者ジョヴァンニ・カヴァルカンティも、名門の末裔でありながら、借金のために投獄されたと自ら記している 6) ので、当時としては特に珍しいことではなかったのかも知れないが、息子にとっては相当の屈辱だったらしく、『名言と冗談』で、アルロットは亡き父のことを批判している。(1、 以下括弧内の数字は同書の章数)

3) Folena, op. cit., P.XIV.

4)   E.Salvini, Montaperti 1260. Un problema di datazione, in 'Archivio Storico Italiano(1990 Disp. II),Firenze 1990, 

5)   Folena, op. cit., P.XIV.

6)   Giovanni Cavalcanti, Istorie Fiorentine. の序文参照。



 こうしてやくざな父のため苦しい青少年期を過ごしたアルロットは、一時期は羊毛商人の修業を試みたりしたらしいが、やがて聖職に就き、1426年に早くも30歳前後で、フィレンツェ近郊のフィエーゾレ司教区内のサン・クレーシ教区を担当する教区司祭の地位についている。なおサン・クレーシとは251年デキウス帝の迫害で、地元ムジェッロで殉教した聖人の名前だが、アルロットは神父の一人に何者か、と問われて「飛脚だ」と答えている(72)が、それは明らかに冗談で、実際はよく分からないらしい。とにかくアルロットは、それ以後88歳で死去する直前に明け渡すまで、ずっと同じ地位を保ち続け、晩年には彼からその教区を取り上げようとして、いろいろな方面から干渉がなされたのに対して、頑としてこれを拒否し、老いて動けなくなるまでその地位を確保した。教区とフィレンツェの間をしょっちゅう往復して、フィレンツェの居酒屋でくつろぐライフスタイルは、司教たちの目には好ましいものではなかったが、アルロットにとっては、自分のためにも、教区民のためにも好都合なスタイルで、おいそれと変更できるものではなかった。アルロットが教区民の福祉や救済のために行なっている努力が並外れたものであることは、市内に広く知られていたために、結局だれも彼にその変更を強制することはできなかったし、ましてや教区を無理に取り上げることはできなかったのだ。

 ただしその途中で、アルロットは何度も 7) ガレー船の司祭として、フランドルやイギリスなどに航海しているので、長期にわたって教区を留守にしている。何故こういうことが可能だったのか、制度的に良く分からない点もあるが、これらの航海は、主に経済的な理由で行われたようである。実際、アルロットのこうした努力は、彼自身のためであると同時に、教区と教区民のためであったことは確実である。たとえば本論で利用しているテキストの校訂者であるジャンフランコ・フォレーナが本文の前に置いた序文の注において、アルロットが同教区に赴任して12年後の1438年のカタスト(資産台帳)とそれから40年後にあたる1478年のそれとが比較されている 8)

7)   Folena, op. cit., p.XIVには molte volte としか出ておらず、残念ながら具体的な回数は分からない。

8)   Ibid.


 その記述によると、前者では十分の一税として小麦12スタイオが相当だが、貧困のため徴収することができないし、建物は倒れそうである(つまり大規模な修理あるいは改築が必要である)と指摘されているのに対して、すでにアルロットが半世紀以上管理と修理を担当していた後者においては、三つの農園からの収穫は、小麦だけで187スタイオに達し、すべての資産は健全である、と明記されているそうである。勿論徴税のための調査だから、評価が高いことが必ずしも本人にとって良いことではないし、1438年の段階でもすでに小麦120スタイオ分の農地があったらしいので、物凄い大飛躍とまでは言えないかもしれないが、少なくとも教会や司祭館の改築は完壁に行われたことが、資産台帳という最も信用のある文書から推定することができるのである。要するに、アルロットは財政的に破綻した教区の再建を任され、それを「ガレー船の司祭」などという、人並はずれた努力によって、見事に実行したのであった。しかもこの航海先の国々でのアルロットの言行は、『名言と冗談』における重要な要素になっている。もしこの要素がなかったら、この作品はかなり貧しいものになっていたに違いない。以上が簡単な彼の経歴とその生き方であるが、彼は一体どんな人間だったのか、を前述の言行録を通して、簡単にまとめておくことにしよう。


1. まず何と言っても、アルロットは言葉を運用することに、並外れた才能があった。全部で218の小さな章(と言っても、長さはかなりばらばらだが)の多くには、一種の落ちがついているが、その大半はアルロットの一言なのである。実は175以降に収められた名言の多くは、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』からの引用である 9) ように、実際にはどこまでがアルロットの独創と言えるものか、は大いに疑いの余地があるのだが、そうした点を留保しても、彼には巧みに、とっさの一言を捻り出すか、あるいは引用する才能があった。しかも短い一言だけではなくて、必要に応じて、小話、逸話、ノヴェッラなどをも引用、時には即興ででっちあげて、相手を説得したり、時にはぐうの音も出ないほどやりこめることができた。

9) 一枚目の原稿が欠落していたために、今日まで不明のままである『名言と冗談』の著者には、アルロットを哲学者として描きたい気持が強かった。そこで,主に175以下の章に、アンブロジオ・トラヴェルサーリ(1386-1439)が翻訳したディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』の名言をたびたび引用した。現代人には理解し難い行為だが、読者の便宜のために、書物に多くの機能を持たせようとしたのかも知れない。


 たとえば、フィレンツェのあるロッジャ(柱廊)は、夕涼みする人々が集まる場所だったが、ある成り上がり者の金持ちで、年は60歳を過ぎて18歳の若い妻を娶った嫉妬深い男が、人々の会話に一々口を挟んで皆を悩ましていた。何とかしてくれと頼まれたアルロットが、一夜そこに現れ、もっともらしく意見を述べ始めた男の前で、最近の町の出来事を語り始める。若い妻が浮気していることに気付いた老人が、寝室の高い屋根裏に潜んで様子を伺うと、妻の恋人が現れて二人でベッドに入る。その様子を覗こうとあせって身を乗り出した老人は、テラスの板を踏み抜いでベッドの上に転落する。びっくりした恋人はあわてて逃げ去り、怪我もなく残された夫は、この秘密が世間に知れないよう、妻に口止めする。と、ここまで話して来たアルロットは、不意に老人の方に振り向いて、「ところであんた、余分なことに口を挟むより、三人の内で一番怖い思いをしたのは誰か教えてくれよ」と言ったために、老人はその夜一言も口を利かなくなってしまう。(157) こうした痛烈なやりとりが聞きたくて、人々はアルロットの周囲に集まったのだ。


2. 言葉にとどまらず、行動に及ぶこともある。たとえば3人の友人とつつましい食事をしていた時、突然12人の市民が鳥撃ちに現れて、食事に加わろうとしたため、アルロットは(墓場で拾ってきたらしい)まだ肉のついている頭蓋骨を深鍋のスープに入れて煮始める。それを見て、市民たちは「もう食事は済まして来た」といってあわてて立ち去る。(87) こんなことが本当にあり得たのか、よくもスキャンダルにならなかった、と思われる話である。去勢鶏と子牛肉とマカロニの食事会に加えてもらえなかったことに腹を立てたアルロットは、うんこの塊をリンネルの袋二つに詰めて鍋にぶち込み、誰も食べられないようにしてしまう。(156) かと思うと、皿洗いを割り当てられたことに腹を立て、汚れた皿をそのまま篭に入れて井戸にぶちこんでしまい、当面井戸が使えなくなる。(14) 一体こんなことをして、その後の人間関係は大丈夫だろうか、と思わせるような悪戯である。ガレー船の上で、船長のチーズを盗んですり潰してフラスコに入れておいたりもする。(79) 船長の機嫌が悪かったら、生きて帰れなかったかも知れない。

そうした行為も、多くの場合、言葉と結びついていた。たとえば時間にルーズな農夫を雇って、早朝に出て来るよう何度も念を押すと、相手は「もし来るのが遅かったら、私が死んだと思って下さい」と答える。翌朝相手が出て来ないので、アルロットは見習いに葬式の鐘を鳴らさせる。誰が死んだかと問われて、農夫の名前を告げる。間もなく鍬を担いだ農夫が血相を変えてやって来て、「何ということをしてくれるのですか。親戚がみんな駆けつけましたよ」と怒る。「あんまり遅いので、てっきり君が死んだのかと思ったのだよ」。(120) ヒョコ豆のスープが出たが、あんまり薄いので、豆は一粒も当たらない。そこでアルロットはやおら服を脱ぎ始める。「どうしたんだ」と問われて、「この鍋の中で泳ぐためだ。そうしないとどうしても豆にはありつけない」と答える。(108)

3. 大変辛辣な舌と、傍若無人な行動力の持主である反面、アルロットは大変慈悲の心の厚い人物だった。生涯貧しい人のために、自分の持ち物や食べ物を分け与え続けた。作品の最後の章でも、16リラの借金のために夫の2頭のロバを奪われ、7人の子供を育てることが出来なくなる、と訴えて来た女のために、自分が今着ているキツネの皮が裏地になっている暖かい上着を脱いで与えてしまう、という著者自身が見た情景が語られている。(218) いくら高価な品でも、上着一着質に入れただけで、ロバ二頭が買い戻せるかどうかは、少し心もとないような気もするが、こうした何の迷いもない慈悲深い行為が作品のいたるところで描かれている。彼の居酒屋通いも、当入に言わせると慈悲(ピエタ)のためであったとされていて、(147) それもあながち嘘ではなかった。13人もの子供を持つ貧しい貴族が、金儲けのための投資として買った服の代金を支払えないまま死んでしまう。遺族を哀れんでその借金を肩代わりしたアルロットは、すでに代金分のお金はとっくに払っているのに、高額の利子のために、服屋が取り立てを依頼した屈強の若者につけ狙われる身となる。そこでアルロットは、親しい修道院長に、その若者が頭のおかしい自分の甥だと説明して、若くて力のある修道士8人の手でつかまえてもらう。(95) 若者は抵抗したため半殺しにされて降参し、服屋も残りの取り立てを諦めるという、この書物の中では最も筋が複雑で、量的にも長い作品の一つが、彼の慈悲の行為に基づいて書かれている。当時のヨーロッパで屈指の富裕な都市だったフィレンツェにも、飢饉はやって来る。そういう時真っ先に貧しい教区民の救済に当たったのはアルロットで、たとえば1475~6年の飢饅には毎週12スタイオのパンを提供し続け、年21モッジョの収穫の内、自分は4だけ取って残りを与えたなどと記されている。(112) しかもこんな年ですら、さらに自分の稼ぎを分け与えて、何人もの貧民の娘に持参金を与えて嫁がせている。おそらくこの時代のフィレンツェのどの聖職者と比較してもひけを取らないこうした慈悲の行いを実践していたことが、彼の数々の型破りの言動の支えになっていたのだった。


4. さらにもう一つアルロットの生涯で目立っているのは、やはり何といっても、上は王侯貴族、メディチ家やパッツィ家の人々、そして傭兵隊長、歩兵隊長、ガレー船の船長などから、さまざまな階層の市民や商人や農民や職人、そしてさらに下層の行商人や道化師や娼婦に至るまで、あるいは複数の法王から枢機卿、司教、修道院長、司祭、見習い司祭、修道士、修道尼に及ぶ聖職者たちとの幅の広い交友と出会いである。

 私の先輩にも話術に長けていて、そばにいると絶対に退屈しない人物(桃山学院大学名誉教授・故藤澤道郎氏)がいたが、テレビもなく、ラジオも故障し勝ちな貧しい学生にとって、森羅万象、政治事件から台風の襲来まで、すべてを大笑いできるコメント付きで解説してくれる知恵者は、この上なく貴重な存在で、つい暇があるとそっちの方に足が向いてしまう。勿論そう感じるのは私一人ではないので、その先輩の行くところ、その口から発せられる冗談と毒舌を聞くために、常に数人の取り巻きが群がっているという有り様であった。サービス精神満点で、後輩の女子学生の恋人が東京の新聞杜へ試験を受けに行った時には、「ぼおくの恋人東京へいっちっち」という歌を歌いながら、笑い転げている私たちを引率してキャンパスを横断した。

 現在はテレビ、インターネットなどの普及で、そうした語り部の存在は昔ほど重要ではないのかも知れないが、その先輩の存在のおかげで、アルロットがどれほど教区の人々や、居酒屋の飲み仲間から歓迎されたか、私には容易に想像することができる。実際、彼の評判を聞いて会いたがった英国のエドワード王、ナポリのアルフォンソ王、そしてブルゴーニュ公爵、あるいは法王ニコラウス、傭兵隊長フェデリーコ・モンテフェルトロ、あるいは彼と親交があったピエロ・デ・メディチ、その妻ルクレツィア、その息子のロレンツォ・イル・マニフィコらが、この作品に登場する。

 多彩なのは人間関係ばかりではない。三度におよぶガレー船付き司祭という経歴から、ブルージュ、ロンドン、あるいはナポリやスペインヘと、地中海から大西洋、北海に至るまでを航海して得た、さまざまな経験は、それに劣らず幅の広い多彩なものであった。全部で218の章の内で、3、5、6、31、57、59、66、70、78、79、83、126、134、138、146、164、165、197の計18篇はガレー船上またはその旅先の出来事で、34はガレー船に乗りたがる司祭をアルロットが止めた際の問答である。本文の175章以下は、名言の羅列であることを考慮すると、ノヴェッラ的作品の1割がガレー船に関係したものだと言える。こうした幅広い体験のおかげで、アルロットはただの口舌の徒には止まらなかったのである。

 ある時一緒にガレー船で旅した船乗りたちが全員病気にかかり、3分の1までが死んだにもかかわらず、彼だけはぴんぴんして帰国したという頑健な体力(78) や、嵐に襲われながら船火事に遭うという二重の危難の中で冗談をいっていられるほどの度胸(197) など、彼の美点をこまごまと数え挙げはじめると、きりがないであろう。

 しかしそのアルロットは、同時に聖職者にふさわしくない多くの欠点の持主で、そうした欠点が多くの作品に素材を提供し続けている。


5. そうした欠点の中で最も顕著なものは、彼の並外れた飲酒癖であった。またそれに大変な食いしん坊であったことも、付け加えなければならない。週に3~4回は居酒屋に出入りしていた。(118) フィレンツェ大司教を始め、有力な友人たちも、そうした悪癖を止めさせようと尽力したが、結局成功せず、「自分は酒が飲みたいからではなくて、隣人愛のために居酒屋に通うのだ」という彼の言い分をある程度みとめて、黙認せざるを得なくなる話(147) などは、彼の飲酒癖と宗教的実践との微妙な関係を伝えるものである。だから、完全に非難できるものではなかったとしても、入々の噂の種になったことは否定できない。友人の一人が極上のワインを市庁舎に納入したのを嗅ぎ付けて、たかりに行く話(64) などは、まさしく飲ん兵衛の意地汚さとたっぷりと飲める喜びを表現している。逆に、友人の司教代理と共に司教区を巡回して、ものすごくけちな教区司祭から、まずいワインと食事を振る舞われたために、二度とその土地に戻ることがないよう、翌朝その教区を通る間、馬上でずっと目を閉じていた話(68) は、まずいワインや食物に対する本能的な嫌悪の現れと見ることができるだろう。さらに、アルロットが食物に対して抱いていた執念については、いくつかの下品で汚らしいプラクティカル・ジョークを通してすでに見たとおりである。


6. 欲望の中でさらにスキャンダルの程度の高い性欲については、さすがにその頻度は低くなる。しかしアルロットはけっして聖人君子だったわけではなく、またこの作品の著者も、作品の中のアルロット自身も、欲望に対して否定的ではない。それを端的に表しているのは作品75で、アルロットがまだ若くて神父になっていなかったころ、強烈な欲望に駆られて、彼にほれていた修道尼を訪問する。彼女は彼の身体を探って睾丸を見付け、「これは何」とたずねる。アルロットが「きんたま」と答えると、「私たち尼僧は外にひけらかす必要がないのだから、この中に押し込みなさい」といった、という笑い話である。なお彼女のせりふは分かりにくいが、実は病気による摘出や非行の罰としての去勢などによって神父が睾丸を失った場合、自分の睾丸を乾燥して常に持参していなければならない、という掟があったことと関係しているのであろう。バンデッロの作品に、幼い女の子に乾燥した睾丸を食べられてしまったので、ミサが上げられなくなるとあわてふためく神父を描いたノヴェッラ 10) があるが、彼の場合ミサは許されたものの、一時期狼狽したことは確かである。もし75の話がアルロットが神父になった後のことだったら、スキャンダルになりかねないという配慮から、念入りに若年のことと断られてはいるものの、著者の二人に対する筆致からは、その行為に対して何の批判も感じられない。恐らく冒頭近くにある上に、内容がエロチックなため、この作品中最も良く知られていると思われる4は、多少誤解を招きやすい話である。まだ見習い神父だったアルロットが、欲望に駆られてある娼婦の所へ行き、「共に愛と愛撫の動作を交わした後に(p.15)」、女から「自分は太り過ぎていて、普通の姿勢だと苦しいので、俯きに寝たままでいたい。あんたは後ろからシカのやり方でかかって来てほしい」と頼まれて、一度は満足して了解するのだが、女の臀部の余りの豊満さに圧倒されて、「これは私のような田舎の貧しい見習い神父ではなく、枢機卿にこそふさわしい代物」だと謝って女に降参し、1ボロニーノ銀貨を置いて立ち去る、という話である。これはうっかりすると、アルロットが危ういところで、買春の誘惑から逃れたとか、あるいはシカのやり方というのが、何故か教会が目の敵にした体位なので、そのいまわしい罪を辛うじて免れたという、感心な話のように受け取られてしまうかも知れない。しかしアルロットは63の中で、ある女にロバのやり方でやろうとしつこく頼み込んでいるし、206では、女に値段を聞いている。2ドゥカートという値段を聞いて、高い金で後悔を買いたくない、とは言うが、それを愚かだとはいっても、罪だなどとは毛頭考えていない。たしかに129では、一人の神父としての職業柄、後ろからの行為を冗談まじりに一応戒めてはいるが、ある法務官代理が村人から、夜は疲れているのと暗いので、前なのか後ろなのか分からない、と聞いて大笑いして許したという話(77)を肯定的に語っている。つまり、若い時、キリストの花嫁であるはずの尼僧と関係したこともある罰当りの神父は、こんな下らぬことにこだわる教会の態度がおかしくてならないのである。現在、カトリック教会は、「生めよ、ふやせよ、地に満てよ」という教義に忠実なあまり、コンドームの使用までを禁止し続けて、アフリカにおけるエイズの蔓延に協力していると非難されているが、アルロットが今生きていたら、真っ先にそういう原則に目をつぶったものと思われる。それどころか、待遇を良くするために、息子が若い義理の母と関係して、父と喧嘩している一家に対しても、世間を騒がせないよう静かにやれ、と勧告するばかりで、罪だから止めよ、などとは言わないのである。(137) 以上の通り、ワインの場合ほど実践がともなわず、そのために扱っている件数はずっと少ないものの、アルロットは性欲に対しても基本的に肯定的で寛大であり、自らも禁欲的ではなかった。

10) M.バンデッロ、『レ・ノヴェッレ』の第三部、第30話参照。


7. 最後にもう一つ、恐らく同時代の知識人には欠点と思われた点は、彼が比較的無学だったことである。たとえば25は、アルロットがドイツ人にラテン語で道を聞かれるが、意味が通じなくて教えることができなかった、という内容のものである。アルロット自身はそのことを正直に認めたが、その様子を見ていた農民たちは、アルロットがドイツ人をやりこめている、さすがだ、と思って感心しており、ドイツ人は殴られる、と脅えたそうである。28には、アルロットがラテン語でミサを挙げていた時、たびたびポッロ(さらに、続いて)という言葉が出たため、村人たちはポッロ(ネギの一種)がもらえるものと勘違いしてしまう、というエピソードが見られるので、ラテン語が全く分からなかったとは考えられないが、ペトラルカ以降飛躍的に進んだラテン語研究からは取り残された存在だった、と見なすことができる。アルロット自身も、ラテン語やギリシャ語を基にして進める人文主義の流れにあまり好意的でなかったらしい。そのことは、彼がフィレンツェ郊外のある宿屋の厩舎で、レオナルド・ブルーニの亡霊に、コップー杯のワインを求められたと語った(30) ことからも推察できる。アレッツォ出身のレオナルド・ブルーニはフィレンツェの書記官長を勤め、『フィレンツェ史』をはじめ多くの著書を残し、約8万ドゥカートもの遺産を残したといわれる、当時最高の人文主義者であった。アルロットはむしろ彼の蓄財ぶりに反感を抱いていたことがこのエピソードからうかがえるが、もし彼が人文主義の信奉者であれば、このように意地の悪いエピソードを語ることは遠慮したはずである。アルロットは自分の教区司祭としての活動に自信を持っていて、おそらく人文主義者の活動の意味をあまり理解していなかったようである。そのことは88において、周囲の有力者から、若い人に教区を譲るよう説得された時の反論に端的に現れている。「あなた方は、もっと若くて、もっと学問があるとおっしゃいましたね。わたしはあなた方にお答えしますよ。最近、人よりももっと賢く、もっと学者になろうとしたために、もっと馬鹿になり、本来の自分に戻れなくなってしまった者を何人となく見ました、とね(P.140)」

 勿論、アルロットとて自分が教区に固執する動機が全く不純ではないということは、百も承知していた。しかし、もしも自分が苦労して再建した教区に、たとえばレオナルド・ブルーニのような学者が、これまでの学問研鑽のご褒美として教区司祭の地位について、蓄財に専念したらどうなるであろうか。だれが飢饉の時に助けてやり、だれが貧民の娘の持参金を立て替えて嫁に出してやることになるのか。法王庁の官僚として出世して、巨万の富を蓄えている名高い人文主義者たちの背後には、彼らの成功をこのような目で苦々しく眺めている、無学だが良心的な教区司祭がいたことを忘れてはならないのであろう。そうした冷たい視線が、あの世からやって来てわずかのワインを求めるレオナルド・ブルーニの亡霊を見いだしたのだ。他方アルロットは、狂信者というやつも嫌いだった。毎日ミサに出て神父よりも先に祈りを唱えたり、朝早くから教会に現れて神の好意を人並以上に得ようとするその魂胆に腹が立ったらしい。要するにそういう人種は、ことごとく偽善者としか思えなかったのだ。だから、168の彼の祈りの文句には、「悪人の怒りと手、....神父の良心、....朝毎に2回ミサに出る奴、私の良心にかけて、と誓う奴から、神よ、私を守りたまえ(P.232)」という言葉がある。こういう人間だから、三位一体説は神父にも俗人にも理解できないこと、とあっさり割り切り(3)、 修道士は我々の女に子供を生ませてその費用を出させ、彼らが尻をふいた草を我々が食う(39) とか、「マリアは子供を生む前も、生む時も、生んだ後も処女だった(34) とか、「もしもだれかがキリストを持って来たら、焼いておいてくれ」などといった罰当りな言葉を吐き散らして、周囲を明るくしたのであった。多くの信奉者や友人に囲まれて、一見天下無敵のように見えながら、アルロットの晩年は、教区の明け渡し要求に煩わされる日々であった。アルロットと権力者メディチ家との関係も微妙である。彼とピエロ・デ・メディチとは、23と24でノヴェッラを交換しているように、結構打ち解けた仲であったらしい。またピエロの女房ルクレツィアもアルロットヘの信頼が厚く、ある時、貧しい娘のために持参金を出してやることと、借金が返せぬために投獄された囚人の借金を払って、出所させてやること以上の善行があるだろうか、と彼にたずねている。それに対してアルロットは、もっと上の善行がある、と答える。それは何かと問い詰められて、「それは他人のもの、すなわち労力や汗を奪わないこと、特に貧乏人のそれを」と、聞きようによってはとても辛辣な返事をしている。(47) しかしとにかくピエロの世代とは心のつながりがあったことはたしかである。ところがその息子ロレンツォの時代となると、半世紀以上の年齢差はいかんともし難いようだ。もしもロレンツォにアルロットを守ろうとする断固たる意志があれば、おそらく教区をめぐる騒ぎなど起こらなかったし、たとえ起こったとしてもすぐ消せたはずだ。しかし逆にロレンツォ自身が奪おうとしたら、これはアルロットの抵抗も無駄だっただろう。だからこの問題に関しては、ロレンツォははっきりした態度を示さず、そのことがアルロットをいらだたせていたはずだ。(88、89、90) ロレンツォは祖国の危機の打開のためナポリに出かける 11) が、それについてのアルロットのコメントは、意外なほどシニカルで冷ややかである。(92、93) ロレンツォ外交の成功を期待する、市民の希望は全然反映していない。といって両者の関係が決裂したわけではけっしてなかった。アルロットもロレンツォも、相争うほどには未熟ではなかった。一代の人気者も、晩年には早々と自分で墓を二つ作り、また死後に遺体を運ぶのに不満が出ないよう8人分の手間賃がたっぷり用意されていた。教区と死去した病院との二箇所に作られた墓のために、彼は墓碑銘も自分で作ったが、そこにはこう記されていたという。

「この墓は、教区司祭アルロットが、自分のためと、この墓に入りたいすべての人のために作ったものである」(145)

アルロットは死ぬ時にも、墓も作れない貧民のことを忘れない司祭であった


11) 1479年、シクストゥス法王と結ぶナポリ王フェルディナンドの軍隊に、自国の傭兵軍が敗北した後、残酷な王として名高いフェルディナンドを説得するため、自らフィレンツェ共和国を代表して、ロレンツォはナポリに乗り込む。この困難な交渉を、アルロットは「二人の食いしん坊が一皿のチキンを食べているようなもの」と評した。(92)




第二章 一休説話の転換とアルロット像への接近



 さていよいよもう一人のヒーロー、一休についての考察に取り掛かるが、すでに記したとおり、実在人物としての一休和尚の生涯についても、『一休はなし』1) に代表される一休説話に関しても、私ごとき門外漢よりはずっとくわしい人が多数存在しているので、アルロットの場合よりもずっと簡潔に、論議を進めていくことができる。なおこれから論じる事柄に関しては、特に岡雅彦『一休ばなし とんち小僧の来歴』2) という書物に依拠している点が多いので、あらかじめ断っておきたいと思う。

1) 本論では,寛文八年(1668)に刊行された一休を主役とする最初の説話集を、『噺本大系 第三巻』(昭和五十一年、東京堂出版 武藤、岡編)の表記に従い、『一休はなし』と澄んで表記し、類似の一休説話群をまとめて『一休ばなし』と濁って表記しておく。なお『一休はなし』は『噺本大系』の3~62ぺ一ジに収録されている。

2) 岡雅彦、『一休ばなし とんち小僧の来歴』〔セミナー原典を読む〕7 東京、平凡社、1995年


 まず実在の一休の生涯について、おそらくこの時代としてはくわしい資料が残されている。それは「一休の示寂後まもなく、弟子たちによって比較的短期間に作られたとされ」3) る『年譜』で、その内容の真偽はともかく、それをとおして、彼が同時代人、特に身近にいた弟子たちに、どういう人物だと見られていたか、あるいは彼がどういう人物だと見られることを弟子が望んでいたかを知ることができる。1484年に死去したアルロットの場合、前章で見た書物が書かれたのが1485~8年のこととされているので、一休和尚にもほぼそれと対応する資料が残されていたことになる。ただし、その分量は、原文だけだと東洋文庫の小さな版で、27ぺ一ジで、本文が280ページ近い量のアルロットの言行録に比してはるかに簡潔な記録である。

3) 『年譜』、 前掲書、1、9ぺ一ジ


 問題はその中身であるが、冒頭の出生の記事からしてすでに論争の的になっている。少なくともこの『年譜』の執筆者たちが、皇胤説を信奉して世に広めようとしたことは確かである 4) 。また一休和尚が何度か父親と目された後小松院に召されていることは確実であり、その後も別の天皇から何度も勅命を受けたとされているので、この当時、皇室が一休あるいはそれと同レベルの禅宗の僧侶にとって、雲の上の存在ではなかったことも明らかである。たしかにこの皇胤説にも大いに疑問の余地はあるが、少なくとも天一坊のご落胤説の類とは質を異にしている説であることは認めるべきであろう。この説の真偽は、本人に対して皇位継承や遺産相続などといった現実的利害が全く及ばないことなので、もし何らかの意味があるとすれば、まず本人が信じていたかどうか、もし仮に信じていたとすれば本人の生涯にそのことがどのような影響を及ぼしたか、またそのことを世間が信じていたかどうか、仮に万一信じていたとすれば、そのことが一休の評価にどのような影響を及ぼしているか、などの点に関してであろう。

4) 本論を書くに当たって,一休の伝記を知るために用いた主な文献は、『年譜』の他に、

市川白弦、『一休 乱世に生きた禅者』、 東京、昭和四十五年、NHKブックス 

平野宗浄、『一休と禅』、東京、平成十年、春秋社等である。


 たとえ正真正銘のご落胤であっても、だれ一人その事実を知らなければ、その事実は誰にも何の影響も及ぼさず、したがって何の意味も持たないはずである。一休の場合、死後間もない時期に複数の弟子たちがおそらく合議の上でこのことを記録しているところを見ると、真偽とは全く無関係に、少なくとも弟子たちは一休自身がそれを信じていて、それによって強い影響を受けていたことを認めている、と受け取ることができそうである。なぜなら、せっかく師のために生涯の年譜を作成しようと取り組む時、冒頭から師が信じてもいないでたらめを記録する弟子たちがいるとは考えられないからである。たしかに「世無有識者」という言葉は怪しい。まさにこの説には何の根拠もないことを、自ら認めているに等しいとも言える。しかし同時に、それが彼らの確信の強さの現れだと取れないこともないのだ。おそらく師の入寂後、年譜作成のためにその類希な生涯を振り返った弟子たちは、皇胤説でも信奉しない限り、とても納得できない何かを感じていたのではないだろうか。やっぱりあれは本当だったな、そしてそれは身近にいた我々でなければ信じ難いことだな、という確信が、冒頭にこうした途方もないことを記させたのではないだろうか。勿論、そのことと皇胤説の真偽とは関係ない。たとえば悪い男にだまされた南朝方の貧しい貴族の娘が、裏切った男への軽蔑の思いをも込めて、生まれて来た子は天皇の子供だと言い張り続け、それを息子が生涯真に受けていたのだとしても、事情は全く変わらないのだ。とにかくこの記事によって、本人はそう信じており、弟子たちもある時点からそれが真実だと確信した、という程度の推測は可能になるのではないだろうか。それに対して世間の方は、少なくとも同時代においては、まさに「世無有識者」という状態だったのだろう。少なくとも世間一般は、名もない貧乏貴族の娘の言葉など、全く信じてはいなかったもののようである。そうした世間と本人の意識のギャップが、一人の詩人や思想家の生涯にわたる苦闘の端緒になることは、十分に有り得ることである。しかしその後時が経つにつれて、少数の弟子たちの確信に裏付けられたこの『年譜』の記事と、一応それを読む気にさせた一休自身の抜群の存在感によって、皇胤説はじわじわと浸透して行くことになる。そしてまさしく貴種流離譚の土壌が耕されていったのである。『年譜』には、この他にも、たとえば神泉苑の蛇や、将軍義持の威圧的な訪問への応対など、将来貴種流離譚をふくらませていくための契機となりそうな記事が見られることも事実である。

 しかし、たしかにそうした要素を含みながらも、それはあくまで萌芽の段階に止まっていて、やはり『年譜』の一休像は、弟子たちが本来伝えようとした通り、一人の苦闘する禅の求道者の肖像以外の何物でもない。彼は数え年22歳にして生涯の師華叟に巡り会うまでの遍歴の途中で、自殺まで考えていた。華叟の指導の下で開悟しさらに省悟し、やがてその師が病むと介護に当たり、自分の手を使ってその下の世話を行っている。兄弟子養叟が華叟を怒らせた時には、仲裁役をつとめるが、華叟の没後その同じ養叟と(一時的には協力関係にあったものの)激しく争い、大徳寺の住職となって寺や師の世間的権威を高めようとする養叟とその弟子たちに対して、批判し罵倒し続けることになる。自らは独特の方法で教えを説き、いくつかの新しい土地で庵を開き弟子を育てる。やがて応仁の乱に遭い、一時はせっかく築いた拠点からも追われるが、めげることなく新しい拠点を開拓しつつ失地を回復する。80歳を過ぎてから、勅命によってかつて敵地となっていた大徳寺の四十七(または八)世住持となり、実際は形式だけの入山だったらしいのだが、残り少ない日々を応仁の兵火で焼けた伽藍の復興のために費やした。

 弟子たちが伝えようとした一休の生涯はこうしたものだが、それは必ずしも師の精神生活の全貌を伝えているわけではない。この『年譜』は、その記事の記述の仕方によっても、またたとえば一休の晩年に影響をおよぼしたと思われる森女との交渉など、弟子から見て不都合だと思われる事柄を省略したことによっても、専門の研究者からはかなり不完全なものだと見なされている。その欠点を補っているのが、一休自身の作品で、その『自戒集』は養叟一派への厳しい非難、罵倒を含んでおり、『狂雲集』5) は一休の生涯にわたる創作活動を集大成し、若き日の才能の流露から、禅の世界の探求と遍歴のみならず、森女との性愛の大胆、率直な表現まで、一休の精神活動のすべての面を網羅して伝えている点で、かけがえのないドキュメントとなっている。なお性愛が実体験に基づくものか否かに関しては、皇胤説の場合と同様、熱心に論議がなされていて、何人かの論者たちによって、実際にそうしたことが体験されたとは言えない、と説かれている。勿論私自身その説に異論を唱えるつもりはないが、そうした論議は、そこに見られる表現が、当時としては大胆かつ異色なもので、人々の注目を引きやすかったということを意味している。あるいは聖職者の卵たちが、「一休も結構好色な破戒僧だった」と安易に誤解することを避けようとする老婆心もまじっているのかも知れない。しかし先に見た貴種流離譚の土壌にも、早々とそうした安易な誤解がはびごっていったようである。だがそうした安易な誤解こそ、一休という人物に世間がひかれた理由の一つであることを忘れてはなるまい。人は多かれ少なかれ破戒を犯すように定められているのであり、その時、性愛の喜びを公然と歌い上げた一休こそ、最大の心の慰めとなったはずである。狂歌の作者としての、人気の秘密はまさにその点にあったのではないだろうか。

5) この作品を垣間見るために、

柳田聖山、一休 狂雲集、禅シリーズ 7、 東京、1994、講談社

同、一休「狂雲集」の世界、 京都、1980、人文書院他を用いた。


 以上がとぼしい国語力で私が読み取った、生前から没後間もないころの一休像である。それは今日私たちが説話を通して馴れ親しんできた一休像から、かなりへだたりがあることを認めなければならないであろう。第一ここにはまだ彼の「頓知」がない。またそれによって相手をぎゃふんとやりこめている快感が感じられない。『年譜』の一休の場合、将軍義持の威圧的な訪問のエピソードを除くと、彼のなんらかの言動がそれほど際立って効果的だったという印象はないし、また18歳の一休が美少年の手を握り、色目を使って将軍をいたたまれない気分にさせたという問題のエピソード自体、たとえお寺の難を救うための窮余の策だったとしても、あまり感じの良いものとは言えない。さらにたとえば56歳の時、街頭の僧から仕掛けられて行った問答にしても、まさにこれこそ一休の独壇場のような状況で、事実一休自身は相手を見事に論破したつもりだったようだが、相手にはその真意が十分に伝わらず、ぎゃふんと言わせるまでには至らなかったようである。また今日残されている、その問答に対する他人の評価も、一休に対して好意的なものではない。さらに『年譜』の中で一番はげしい論争だと思われる、一休61歳の時の養叟との口論も、一休の弟子が記録したにもかかわらず、一休の口から十分説得力のある議論が展開されているようには思えない。一休が日頃から印可証を否定しているにもかかわらず、結局二人の印可のどちらが上かなどという水掛け論に陥っていて、到底相手を論破し切ったとは言えないものである。どうやら現実自体が、頓知で鮮やかに決着がつくようにはできていないもののようである。

 実は先に挙げた二書の他にも、『一休骸骨』、『一休水鏡』、『一休和尚法話』、『仏鬼軍』などの書物が、一休の作品として江戸時代の初期から通用していたらしいが、疑問の余地があると見なされているので、ここではそれらに触れないでおく。

 その後一休像がどう変化したかについては、岡雅彦『一休ばなし とんち小僧の来歴』が、その「第二講『一休ばなし』 ~ 俗伝の世界へ」の前半で追跡されている。一々その受け売りをしていても仕方がないので、だれのどうした作品で何年に何ヵ所扱われているかを、分かる範囲で一覧表にして示すことにする。ほぼ同書に出て来た順に挙げておくので、年代は前後している。誤りや欠落がある場合、すべて私の写し違いである。


 心敬    『ひとりごと』    (1468)  

 光瑳他   『本阿弥行状記』   (1751~64) 

  ?     『三国物語』          (1667) 

   山鹿素行  『懐中便覧』     江戸初期       風顛十人の一人 

 明人守宜人 一休画像         (1485)      風顛漢 

  ?    『似我蜂物語』    (1661)       3ヵ所「小便開眼地蔵」 

 季弘大叔  『庶軒日録』     (1484~86)     8ヵ所 

 尊舜     『法華経鷲林拾葉鈔』 (1512)             3ヵ所 

   栄俊ら         『多聞院日記』         (1587~94)      3ヵ所 

   沢庵          『万松祖録』                                        ? 

   大徳寺派    『臨済録鈔』                                        ? 

   林羅山       『梅村載筆』                                        7ヵ所 

   養叟派       『大徳寺夜話』                                    数ヵ所 

      ?           『遠近草』               (1592~95頃)  132話中の4話 

   安楽庵策伝 『醒睡笑』               (1623)           約1030話中の4話 

      ?           『かさぬ草子』         (1644以前)     122話中の6話 

      ?           『百物語』               (1656)            100話中の3話「酒と蛸」

      ?           『月刈藻集』            (1644頃)          ?「正月鰯艘」 

   浅井了意      『東海道名所記』                                  ?「地蔵・歌のみ」

    ?           『勢陽雑記』                                        ?「地蔵・歌のみ」

    ?           『新撰狂歌集』         (1624~43)        狂歌2首 

      ?           『新旧狂歌俳譜聞書』 (寛永初期)       1首

    ?           『古今夷曲集』          (1666)             10首



 以上の指摘に続いて、この書物の著者が一休の墨跡について触れておられる部分は、第三講の三でさらにくわしく論じておられる、しばしば茶会等で用いられた膨大な量の一休の墨跡が、彼の根強い人気の原因の一つであるという著者の新しい仮説の伏線であり、重要な箇所である。しかし扱われている事柄の性格がこれまでとやや異なる上に、私の論議のためには以上の例だけで十分であり、かつ重大な反証も含まないと思われるので、ここでは省略することにする。

 一休が死去した1481年から約一世紀半の間の状況は、現在まで続いている後世の一休の人気に較べると、率直に言って盛況だったとは言えそうにない。それは、たとえば死後間もなく刊行されて、版を重ね続けたアルロットの『名言と冗談』に比較すると、むしろ低調だといっても差し支えないかも知れない。特に16世紀には乏しくなるようだ。しかし当時の日本が、戦国時代を経てようやく国家統一がなされ、安定期を迎えたことを考えると、単純な比較は許されない。むしろこんな時代に、有名無名の多種多様な作品の中で、たとえわずかでも、途切れることなく一休について記述され続けた、という事実の方を重視すべきであろう。この期間ある程度の間隔を隔てて、覚書類や説話集や狂歌集で一休が取り上げられ続けていたということは、一休説話への潜在的需要が存在し続けたことを意味しているのではないだろうか。とりわけ『遠近草』、『醒睡笑』、『かさぬ草子』、『百物語』という説話集の中にちらほらと現れていることは、後の展開への予兆だと見なせないこともない。また『百物語』においては、酒に溺れ、殺生戒の掟に反して蛸を食べて嘲笑される一休が登場して、ただ狂歌をやりとりするだけの老人の域からかなり逸脱している点も注目に値する。ここでは、まさしく先に挙げた破戒者の一休が登場しているからである。しかしいずれの作品においても、彼はまだ気がむいた時にふらりと現れる旅人程度の存在であることは否定できない。そうした存在から、出ずっぱりの主役に変身するには、やはりそれだけの転換が必要だったのだ。

 寛文八年(1668)に刊行された、編者不明とされている『一休はなし』には、そうした転換が鮮やかに示されている。私はその転換が、巻の一の冒頭の2篇の主役として、子供の一休を登場させたことによるところが大きいものと考える。少なくとも上のリストで見る限り、私の読みちがいでなければ、死後この時期までに描かれた一休はことごとく大人であった。(もし万が一例外が見られたとしても、それは原則を確認する程度の例外だと見なし得る。)要するにそれまで大半の場合、一休は狂歌の名人で、時には破戒僧である、変わり者の老和尚として登場していたと言えるのではないか。ところがこの作品の冒頭の2篇によって、一休説話は、従来の一休像を超えた未踏の領域に踏み出すことになる。子供の一休を登場させたことで得られた効果を示すと、以下のようなものだろう。


1. まず子供の一休像を登場させることで、それまでの一休のイメージに馴染みきっていた当時の読者の意表をついたことは確かである。たしかに『年譜』の中には、年に似合わぬ聡明で老成した機敏な少年が描かれていたし、皇胤説にしても、貴種流離譚にしても、むしろ少年に馴染みやすい観念であったが、それにもかかわらず、この時までは、なぜか説話の中で子供の頃の一休について語られることはなかったらしい。その新しさが読者をつかむとともに、それまでのイメージから、一休を一瞬切り離すことにも成功した。勿論、従来のイメージが実像に近い安定したものである以上、完全に削除してしまうことは不可能であり、またその必要も全然ない。実際それは以後もやはり説話集の大きな部分を占め続けることになるのだが、それだけでは従来の時たま現れるだけの旅人のような、脇役的性格から脱皮し得ない。それとは対照的な子供というイメージによって、一瞬従来のイメージから解放された一休は、一種の自律性を得て、点景を彩る脇役から作品の主役へと昇格し得たのだ。


2. 同時にこれらの説話は、この説話集が全くのフィクションであることを宣言した点でも効果があった。何と小坊主の一休は、こともあろうに華叟ではなく、彼が生涯争ったあの兄弟子、養叟和尚の下で修行していることになっているのである。彼が養叟の下で「いとけなき時」に小僧などを勤めていることがあり得ないことは、一休の生涯を少しでも知る人にとって、自明の事実である。おそらく私もよくやる単なる無知か、不注意による書き誤りだと思われるが、この一事によって、この説話集が実際の一休の生涯から離れた、なんでもありのフィクションの世界であることを、冒頭の作品がはっきりと暴露してしまったのである。それにしても、ここに描かれている養叟とその小僧たちの世界は、『年譜』に描かれている厳しい現実の師弟関係に較べて、何と明るく笑いに溢れていることであろうか。もしも一休自身やその崇拝者が知ったら大いに憤慨したはずだが、この明るさこそ以後の一休説話の人気の秘密の一つであり、何も知らない読者には、史実との違いなどとやかく言わせないだけの魅力を有していたのだ。またその自由な表現の魅力は、この作品の後に模倣者や追随者を生み出して、一大作品群が形成されるに至る契機となった。


3. さらに本論にとって最も重要なことは、作者が子供の一休を登場させることによってのみ、「頓知」というこの説話集の主要なテーマの一つをはっきりと表現し得たという事実である。これら二つの作品の中には、利口な子供が大人をやりこめるという事例が繰り返し現れる。子供だからこそ賢さが鮮明に現れ、大人に対する勝利がはっきりと示されて、その後に笑いを生む訳である。同じことを大人がやることは許されない。どうやら「利根発明」「利口」「怜悧」などという形容詞は、通常日本ではもっぱら子供相手に使われる修飾語だと言えるのではないか。そしてすでにこの時代から、日本では知恵をありったけ働かせて動き回り、言葉の意味をそのままおし通して議論するようなことは、まともな大人のすることではない、という感覚が通用していたのではないだろうか。だから、賢さを賢さとしてまともに発揮でき、またそれが評価されるのは、結局少年時代までの事柄なのであった。「十で神童、十五で才子、はたち過ぎればただの人」というのは、おそらく日本社会の頭の良い人々のすべてが、例外なしに体験する変化だったのだ。有り余るほどの知恵に恵まれていた一休とて例外ではなく、子供として表現された時に初めて、本来の能力をフルに発揮しえたのであった。また本来狂歌というジャンル自身、言葉の知恵比べのような性格を帯びていたのだが、子供時代を扱った2つの作品のおかげで、まさにそうしたものとして意識的に扱われることになった。こうした方向づけによってのみ、これまで単なるウィットやユーモアの才能のはけ口として、いわば破戒僧の言い訳(勿論それはそれで重要だが)としてしか機能していなかった狂歌群が、一休の「頓知」の証明としてまとめ上げられることが可能となったのである。

 こうした意味で、あのいわば宿敵養叟を師匠として描かれるという、一休にとっては不本意な仕方で描かれた少年時代ではあったが、『一休はなし』の冒頭の二つの作品は、一休説話の展開にとってまさしく画期的な転換点となったのである。純然たるフィクションであることが公認されたおかげで、説話文学特有の仮託がおおっぴらに行われることになる。ありとあらゆるこっけいな冗談や悪戯が、相手をぎゃふんとやりこめている限りにおいて一休のものとされ、またありとあらゆる狂歌が、冴えた知恵の現れである限り、やはり一休のものとされることになる。一度この『一休はなし』が普及すると、一休説話とはこういうものだという通念が出来あがる。こうして作中人物としての一休は、「頓知」に基づく言葉と行動によって活躍し、即興の才によって狂歌を歌いまくる人物となった。もはやそこには、厳しい求道者一休の姿は薄れている。こうして鋭い冗談で相手をやりこめたり、残酷な悪戯を仕掛けて相手を陥れたりするとともに、機会あるごとに名言を吐きまくるフィレンツェのアルロットとかなり似た人物像が成立することになった。これまで論じて来た『一休はなし』を始め、一部は本人が行ったこともない関東を舞台にして描かれた『一休関東咄』(1672)、そして仏教説話を大幅に取り込んで膨らませた『一休諸国物語』(1672)などにおいてさえも、基本的にはこうした人物像を主人公にしていて、そのためにアルロット像とのかなりの一致が認められることになったのだ。

 これまで見て来たことを簡単に整理しておく。一休とアルロットとの偶然の類似は、両者の生前からある程度潜在的には存在していたものの、その死後、二人が作品の登場人物となった後も、久しい間特に顕著なものではなかった。ところが寛文八年(1668)の『一休はなし』が刊行され、子供時代の一休を描くことによってその「頓知」を強調したことで、大人の一休についても知的優越者としての面が意識的に取り上げられて、一気に顕著なものとなった。さらに一休説話がフィクションをおおっぴらに受け入れたために、一作品群と呼べるものを生むこととなったために、そうした類似はそうした作品群の多くの作品に共通することとなった。かくして希有の偶然が成立したわけである。しかし早くも18世紀にはアルロットが忘れられ始めたので、この一致が実現した時期は短かった。




まとめ ~ 類似と相違 ~



 最後に、二人の主人公を簡単に比較して、結論に代えることにする。

 二人の内ではアルロットの方が二歳年下であったが、『冗談と名言』によってアルロットのイメージの方が先に固定されてしまったので、まずその特性を基にして、時代とともに変化した、一休のイメージと比較してみることにする。

 すでに記した通り、アルロットは、


1. すぐれた言語能力を有して、ウィットとユーモアにも恵まれ、一言で事態を打開し、あるいは人々を笑わせることができた。


2. しかも勇気とアイデアに満ちた行動力にも恵まれていて、時には、残酷な悪戯、プラクティカル・ジョークを実行することもできた。


3. しかし教区司祭としての彼は、ピエタ、すなわち慈悲の行為の実践者で、その点では市内の何者にもひけを取らない、と自負していた。


4. 彼は王侯賞族、フィレンツェの最高権力者から市民や農民まで幅広く人と付き合い、よく旅をして、ガレー船の司祭を務めるなど、その行動半径も並外れて広かった。


5. 一方彼は酒が大好きで、御馳走にも目がなかった。人々に注意されても、居酒屋に出入りすることをやめなかった。


6. 性欲にも抵抗力が弱く、若いころには修道尼と関係したこともあり、聖職者になってからも買春をしたことがある。


7. 学問がなく、また当時流行した人文主義的学問研究にも、意義を認めようとはしなかった。三位一体説をも、聖俗いずれの世界の人間も理解し得ぬこととするなど、結構冒涜的なせりふを吐いていたようだ。


 アルロットの特性を、一休のそれと比較すると、1、2などの点では、共通していると言える。ただし一休の場合、前章で見た通り、一連の『一休ばなし』を通して、そうした特性が特に際立っていったのであって、それ以前はむしろ潜在的な素質に止まっていた、と見るべきである。ところが一度一休の説話集に、「頓知」とか知恵比べという一つの方向が定まってしまうと、いろいろな分野から同系統の作品が集められて、その方向でどんどんふくれ上がっていった。たとえば『一休諸国物語』巻二、第一の「一休殺生人に教化したまうこと」という作品がある。ある男が、他人の命令や依頼で人を殺した場合には、罪は命令または依頼したものに降りかかるものなので、自分はいくらでも人を殺すことができる、と豪語していた。それを聞いた一休が、雪で柳の枝が重そうだから払ってくれ、と頼む。男が柳をゆすって雪を落とすと、雪が男に降りかかり、男がそれを払った時、一休が「どうして君は雪を払うのか、私が頼んだのに」と言ったために、男ははっと気付いてもう殺生をやめた、という話で、まさしくアルロットの問答に加えてもそのまま通用する内容であるが、一休の実話というよりは、裁判の話などからの仮託されて生まれた話であろう。このようにして、作品の主人公としての一休のすぐれた「頓知」や悪戯の才能の具体例は、後代にどんどんつけ加えられていったもののようである。

 さらにもっと明瞭に二人の間で共通しているのは、4という美点と、5および6という弱点においてであった。特に弱点が重要で、実人生において、アルロットは好色というよりも酒食の誘惑に対して弱く、一休の方は好色の点で著しかったが、狂歌咄に代表される説話においては、何故か好物の蛸を食べたことで、嘲笑されることが多かった。そうした弱点こそまさに二人の人気の秘密であった。二人のユーモアの源は、「頓知」を除くと、多くの誘惑に弱い点にあった。

 しかし二人の生涯は、3の点において大きく異なっていた。アルロットが慈愛の実践家であるのに対して、一休は禅の真理の探究者であり、思想家であると同時に詩人であった。したがって7の世間的常識は豊富だが、無学を恥じないアルロットに対して、一休は若いころから禅の真理を追究する一方で、学問に親しみ、漢詩の名手としても極めて独創的な、優れた詩を書き残した。おそらく今日の本物の一休の研究者は、自らの一休への強い関心が、一休説話の存在とは無関係で、一休本来の価値によるものだと主張するであろう。

 以上の通りの類似点と相似点に基づいて、二人の死後の名声は、浮沈した。誰の目にもはっきりした、慈愛に充ちた教区司祭としての称賛すべきアルロットの生涯は、死後直ちに高い評価を得て、『名言と冗談』は一挙に当時のベストセラーとなり、反宗教改革によって多少の改訂を強いられはしたものの 1)  版を重ね続けた。

1)   宗教改革の挑戦に危機感を抱いたカトリック教会は、反宗教改革によって教会の立て直しをはかるが、それは聖職者を笑いの種にするノヴェッラの弾圧を伴った。『名言と冗談』中の聖職者像にも修正が加わる。1565年のジュンティ版以後修正が行われた。Folena, op. cit., p.293.


 一休の生涯はそれほどはっきりした形での評判にはならなかったが、一部の人々から興味を寄せられ続けた。1668年に、実体はすでに忘れかけていた一休の生涯が、全くのフィクションとして登場し、やはり当時のベストセラーとなった 2) 。ほとんど忘れられていたことが、自由な創作欲を刺激して、かずかずの模倣模作が行われることとなった 3) 。ところが18世紀以降アルロットの『名言と冗談』の出版が一挙に下火になり 4) 、彼自身も忘れられてしまう。『一休はなし』刊行以後、アルロットが退場するまでの約半世紀のあいだ、ふたりはほとんど同時代に生きた長命な聖職者で、いずれも「頓知」と悪戯の名手として、そっくりな主人公となって活躍していたのである。その意味では、やはり「比較文学史上希有の偶然」と呼び得る現象は存在していたのである。ただしその時期に、その奇妙な偶然に気付いた人は、地球上一人も存在していなかった

2)   岡雅彦、前掲書、81ページの脚注に、ある論文でその版本が14類に分類されている、とある。

3)   同上、79ぺ一ジより111ぺ一ジ参照。

4)   Folena,p.293..


 おそらく人の死後の評判の差、とりわけ今日の有名と無名とを分けているのは、先に上げた3と7の点の差ではないかと思われる。アルロットの生涯は、一見分かり易いだけに、その分忘れられ易かったのであろう。

(おわり)




Ikkyu and Arlotto

 ~ On a Very Rare Case of Coincidence in the History 

of Comparative Literature ~ 


Yoshiaki YONEYAMA 


0 : In the field of Japanese popular literature, Ikkyu (1394-1481) is very famous for his quick wits and humorous tricks.   In the Florentine Republic of the 15th century, Piovano Arlotto (1396-1484) was also famous for his quick wits and practical jokes.   Both of them were not laymen but priests.  To our surprise they lived in the almost same time and their lives overlapped for 85 years.   In this essay, I try to make clear how this rare case of coincidence happened. 

1 : The image of Arlotto was established when the "Mottoes and Jokes of Piovano Arlotto" was written and published some years after his death.   The book became a long-seller and was published more than 60 times through the 16th and 17th centuries. 

2 : We can get a partial image of lkkyu by "Nenpu", a chronological history of his life written by his disciples some years after his death.   His quick wits and tricks appeared only fragmentally there.   According to "Nenpu", his nearly real life was a severe one of a seeker after the truth of Zen.   For more than 150 years after his death, Ikkyu appeared only intermittently in collections of poems or tales as a writer of funny poems.  In 1668, Ikkyu finally appeared as the hero of "Ikkyu-hanashi (Tales of lkkyu) ".   In the initial two tales of this work, Ikkyu appeared as a young bonze, a boy-disciple of a famous master of Zen.   This work became a best seller, and 14 different editions remain today.   I believe, the image of boy-disciple of Ikkyu was the secret of this success.   Only by drawing this boy-disciple could Ikkyu's image as a man of quick wits and tricks be established.   After this success, many imitations appeared and formed a big group of tales in which Ikkyu competed with others in quick wits or wisdom.   Thus, in the second half of the 17th century, the image of Ikkyu finally came to resemble that of Arlotto.   But, in the 18th century, the "Mottoes and Jokes of Piovano Arlotto" ceased to be published, and Arlotto went out of the memory of the Italians.   In the not so long term of reciprocal resemblance, there was not anybody in the world, who became aware of their resemblances and overlapping of their lives for 85 years. 

3 :  As for the 7 features of Arlotto pointed out in the first chapter, we can find many similar features in Ikkyu's image.   But there were two important differences.   Arlotto practiced continually relief works and helped the poor and the sick.   Ikkyu didn't perform such deeds.   Ikkyu liked letters and was a poet full of originality.   Perhaps these differences caused Arlotto to be forgotten by the Italians, and made Ikkyu remain famous among the Japanese. 




*「桃山学院大学人間科学」第24号(2003年1月発行)より転載いたしました。(編集部・記)


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