田淵さんを偲んで
木内 義勝
生活感覚からの乖離
私は銀閣寺近くの学生下宿で、20歳から5年余を田淵晋也さんと生活をともにしました。田淵さんは私より8歳年上ですから28歳から33歳まで、他の学生より広い下宿棟1階の部屋を占有していました。ところが、思い出すことの第一といえば、その部屋の「芸術的」ともいえる紙屑の散乱です。寒いこたつの時期には、ご自分の座るところと入室者が座る場所に至るところだけにわずかな畳が見え、足を忍ばせるようにそこを踏んで目的地に到達するのが常でした。坂口安吾集の口絵写真を髣髴とさせる景色そのものでした。
その部屋から田淵さんが外出するときは、濃い緑のブレザーコートと茶系のネクタイをリュウと着こなし、哲学者風俳優の如くに現れるものですから、下宿人たちは揶揄と親愛の情をこめて「はき溜めからツル」と呼んでおりました。
部屋に生活感を連想させるものは全くありませんでした。水を飲むコップが一つあるだけです。そういえば洗濯も自分ではせず、下着は買い求めて使い捨てでした。一緒に銀閣寺電停近くの洋品店へ行ったとき、店の親父さんが「ウチもちゃんとした洋品店やさかい、パンツ屋と呼ぶのだけは堪忍しておくれやす!」と頼んでいたことを思い出します。品揃えも店構えもかなりととのった店であるにも拘わらず、田淵さんにとってはパンツを求める店でしかなかったのです。田淵さんには、普通の人の生活感から離れたどこか超然としたところがありました。
青春の遍歴
岡山の高校時代は数学と物理が得意で、将来は精神科医になりたかったと語っていました。仏文へ入り文学の道を進むにつれ、華々しく登場した石原慎太郎を意識しつつ芥川賞を目指したこともあるとも聞きました。同じ岡山出身の吉行淳之介にも伝があったようです。しかし仏文の大学院時代にだんだんとsurrealismeに軸足を移すようになり、アポリネールで修士論文をまとめることになりました。大学院時代にはその日のセミナーを振り返り、たしかシラノ・ド・ベルジュラックの翻訳演習でadieuを「あばよでチバヨでさんしょの木!」と訳して皆を驚かせてやったと専門外のわたしにも話してくれました。後年、田淵さんのsurrealisme研究が博士号取得に合わせ本になって送られてきたとき、田淵さんは小説家でなく学者になってしまわれたのだと、下宿時代を追想しつつ感慨の思いに浸りました。
大学院へ戻る前には、学部を卒業すると同時に中国テレビに就職し、主に東京駐在で、TVキー局から番組を“奪取する”仕事に従事していました。地方局間の競争は激烈でした。この番組だけは取りたいと決めた時は、関西弁を縦横に駆使して周りを黙らせたという話が印象的でした。能弁で声も大きい人間が本気になったら、普段は静かな姿からの豹変ぶりも手伝って、さぞや周りは怖い思いをしただろうなと想像を逞しくしております。
そもそもどうして大学院へ入りなおそうと決めたのですかと、あるとき不躾な質問を放ったことがあります。その返答には夜も遅い退社時の車窓に映るご自分の姿が登場します。
この疲れ切って生気を欠いた顔はだれのものかと訝り、それがまぎれもない自分であることに気付いたとき、このままでは自分がダメになると思ったというのです。すぐに、大学院入試の手続きに走ったそうです。劇的な展開でした。
エピソードを思うままに
次に田淵さんの姿を思い浮かべながら心に去来したことを脈絡もなく述べてみます。
イ. 田淵さんは、口が大きいというか顎が大きく開き、握ったこぶしを口の中に入れることができました。リンゴがお好きで、晩秋に松本から送られてくるフジを差し上げると、皮がついたまま種まで見事に召し上がり、あとには1センチにも及ばない「ヘタ」だけが残されるだけでした。豪快な食べ方に感心いたしました。
ロ. 私のふるさと松本へは3度お出でになりました。最初はフランス人のご夫妻とともに、若いフランス人の運転でおいでになりました。我が家に泊まったPierre Knechtといういかにもアルザスロレーヌ生まれの名を持つ運転手の青年から話を聞くと、surrealismeのことに関して田淵さんの教えを乞うフランス人、ベルギー人が引きも切らないとのことでした。専門的な内容の深さにおいて、母国語の人たちを研究分野で凌駕する田淵さんの奥深い知識にはただただ感心し私もうれしくまた誇らしく思いました。
ハ. 2度目は奥様とご一緒に信州の山とソバを楽しみにお出でになりました。田淵さんはソバと穂高のワサビ漬けが大好きでした。車を運転しての再訪でびっくりしました。
8年ほど前の3度目は、美ヶ原高原の野外彫刻を楽しみにお出ででした。この時は偶然にも、私が務めている短大が「自己点検評価」の評価員による面接調査を受けるちょうど1か月前にあたり、学長として初めて受ける私の緊張を解いて下さるかのように、評価の「裏情報」をいろいろと教えていただきました。それが面接当日の質疑応答に大いに役立ちました。田淵さんは宝塚の大学で経営面でも活躍しておられて、基本的にとても政治的なこととか策略がお好きであることを改めて知ることになりました。
ニ. 田淵さんは仕事に疲れた頭を、物理と数学で気分転換されていました。数学というよりこの場合は競馬の予想が対象で、電卓を3台も叩き潰して「勝ち馬券」獲得予想の方程式なるものを密かに作成されていました。馬それぞれの出走記録や特徴をA4の紙にまとめたものが、30cmほどの高さに積んであるのを見たことがあります。私は全く競馬には興味がないのですが、長年に及ぶ作業の結晶として得た“方程式”なるものを、ついに教えていただくことはありませんでした。田淵さんにとって、膨大な時間を集注した成果であり簡単には見せられない大切な秘密であったのだと思います。
銀閣寺駐車場の向かいに「バンビ」という喫茶店があります。菊花賞とか天皇賞の前になると、田淵さんがコーヒーを飲みに来るのをひそかに探り、どこからともなく数人の競馬好きがレース展開についての「ご高説」を伺いに集まってきたようです。かなり「田淵屋予想」の命中確度が高かった証拠に、この密かな集いは何年か続きました。
ホ. 河原町へ出て時間があるときは、丸善に寄って画集を見るのがお好きでした。1時間も、時には2時間も費やすことがあったようです。画家の中ではオディロン・ルドン(1840-1916)の作品がいちばんのお好みでした。
ヘ. 田淵さんは、アルコールを全く嗜みませんでした。留学中のベルギー、フランスではレストランのディナーに一人で向かう時には苦労をしたようです。ワインなしのディナーなど恥という雰囲気の中で、一滴も飲まないのにいつもワインを一本注文してテーブルに置いていました。ああもったいないとワイン好きの私などは思います。ボトルの半分でも飲むことができたら、寿命を6か月縮めてもよいとまで話していました。
ト. 海育ちの田淵さんから、全く「カナヅチ」の私が丹後の海で泳ぎを習ったことがあります。私は運動部育ちですから、先輩の言うことを素直に聞くタイプです。こぶしを強く握った両手を海面から出したまま足だけで泳げと宣うのに従って、塩辛い海水をたくさん飲みながら必死に足を動かしました。そこで、足を伸ばし切って体が沈もうとするタイミングで握りを解いた両手を動かすと、平泳ぎでいとも簡単に身体が前に進むようになったのです。わずか30分の教えにより、その日の終わりにはビクつきながらも、遠く離れた岩までたどり着けるようになりました。たいへんに優れた教え方だったと後からつくづく思い返していました。ご親友のIさんは、教える人間を疑って言うことを聞かないため、半日かけて教えても泳げなかったとぼやいていました。
田淵さんから学んだこと
* まず鮮烈に思い出すのは、田淵さんが文章を手にして読むときの傍にいるのが怖くなるような真剣そのもののお姿です。ある時、同人誌を読んで一言でも批評をいただけないかと亀井邦彦君から頼まれ、同誌の創刊号をお渡ししたことがあります。田淵さんはそれを手に取るなり、初めにじっと同人誌の全体をにらみつけ、それからやおら目を文章に移し、眼光紙背に徹すとばかりに前後に体を微動させながら、創刊号をお読みになりました。彼の身体全体から発する激波に、私は本当に物理的に圧殺される思いでした。
ああ、紛れもないプロの作家とか文筆家はこのように文章に対峙するのだなと、私はそれまでのだらしなかった自分の読む態度に根底からの反省を迫られました。
ちなみに、早逝した亀井君について、40,50まで生きたらきっと何か独特の面白い世界を開いてくれそうなタイプだったのにと、とても残念がっておられました。
* 長谷川さんの下宿で出会ったとき、私は高卒2年目の学生で田淵さんは「社会人」を経験した立派な大人でしたから、とにかく話す内容のレベルと広さが違います。当時、たしか3億円強奪事件があったと思います。事件などの社会現象はもとより、メディアに登場する人間の行動に及ぶまで、田淵さんはユニークな見方を私に示してくれました。
ものごとを広く背景を視野に入れながら、事件とか物事を構成する要素の全貌が私にもわかるように描いてくださった気がします。このような「思考実験」に具体例を通して際会できたことは、私が今までに得た貴重な経験の中でも「大きな宝」の一つです。
* 田淵さんと私には、対照的な面がいくつかありました。酒は飲まない・飲む、運動はしない・する、好きな領域は文学系・社会科学系などです。ただし、クラシック音楽に関しては、感じ方の一致をみることが多かったように思います。文学論争はほとんどしませんでした。私が相手ではどうしようもありません。ただし、一回だけ三島由紀夫をめぐって、法然院の鐘が鳴る明け方まで話したことがあります。詳細は忘れましたが、たしか私が三島の評論『太陽と鉄』の中から無視できない箇所をみつけて話を持ち掛けたのだと思います。知行合一を旨とする三島がこんなことを書いたら、これから先は生きていけないのではないかと話題を挙げました。三島が自裁する2年くらい前でした。たしかそうかもしれないねと、田淵さんは最後につぶやいておられました。重要な事柄を、詳細も説明できずにただ揚言する失礼をお許しください。夜型の田淵さんがご自分でも認めていましたが、明け方になるほど頭がさえてくることを私はその時にありありと知ったことをお伝えしたいのです。ポーカーを下宿の仲間とやった時など暁闇を過ぎてなお調子がでて、田淵さんにガッポリもっていかれたくやしい出来事も同時に思い出しました。田淵さんは、外見以上にしぶとい方でした。ご自分で決めたテーマに永年にわたり固執する姿勢を学ぶべきだと思いつつも、私には到底その域に達することができない諦めに至ったことを寂しく思い返しております。
* 北白川通りを北に進むとDonQがあり、その近くにバッティングセンターができたことがあります。紅茶を飲んだ後で私がセンターで打ってみたいというと、田淵さんは快く付き合ってくれました。私は野球少年で高校3年間はテニスに没頭しインターハイにも行っていますので、体を動かす機会があるとすぐに飛びつきます。田淵さんにはしばらく私が打つのを見ていただく気持ちでしたが、突然、私も打ってみると言い出されて驚きました。バットの持ち方からお教えしてベースの横に立ってボールに向かいバットを振ると、生まれて初めてのことだったようですが不思議にも?ボールが見事に飛んでいくのです。私は驚きました。田淵さんはもっと驚いていました。そして、自分には意外にも運動面での反射神経が備わっているのだと大発見をされたのです。そのすぐ後で、私はホノルルのEast-West Centerへ派遣されることになるのですが、いただいた航空便には、打撃の好結果をきっかけに自動車運転の宿泊合宿に参加して、みごと運転免許を取得したとありました。私はうれしくなりました。田淵さんからは、ものの考え方,見方など多くのことを学ばせていただき、私が押しかけても常に温かく迎えて有益なアドバイスを賜りました。その間、私の側からは何のお返しもできませんでした。隠れた才能である「優れた反射神経」の偶然的な発見がもたらす「運転免許の取得」というささやかな「果実」をお贈りすることができたことをうれしく思いました。
田淵さんの磊落な笑い声といつも温かく私を迎え入れてくださったお姿は、思い出すだけでも心がなごみ癒されます。ご本人とはもう直にお話しできないことに思いが及ぶと、癒しの深さをはるかに超える哀しさに襲われます。田淵さんとの邂逅とご縁に、私は心から感謝しております。田淵さん、すべてにわたってありがとうございました。
(松本短期大学学長)