追悼 畏友 田淵晋也
思い出すままに
高藤 冬武
偉人(異人)田淵晋也との出会いは昭和三十三年(1958)、京都大学教養部宇治分校、旧陸軍火薬倉庫跡の仮設校舎、床はコンクリート地むき出し、冬期暖房なしの教室においてであった。
文学部一回生L3組、第一外国語フランス語初日、「大きな、ハキハキとした歯切れのよい声が、部屋中に心地よく響きわたった」(福島勝彦氏)、まさにそのような声が、地方出の者が意気がって真似る東京弁が、それでいて声調の故か気障にはあらず耳に聞こえた。目に驚かされたのはその風貌とみなりであった。長髪、洒落たジャケット(上着)、ネクタイという出で立ち、これにとどめをさしたは口にくわえたパイプと燻る煙。当時、大学生といえばおしなべて、黒の詰め襟り金釦、なかには角帽もいた。旧制第三高等学校、通称三高の戦前からの木造校舎が撤去され新装なった校舎の出入り口には藁草鞋(わらぞうり)が用意されていた。床のリノリウムが下駄の歯で傷つく、下駄履き通学の学生が多く見られた、そういう時代であったのである。
異人田淵晋也、歯科医の独り息子、県立岡山朝日高等学校出身、四浪、長い付き合いではあったが、浪人時代なにをしていたか、詳しく語ることはなかった。何かの折の思い出話の述懐に、家出をしたこと、入り浸った喫茶店(カフェ)で、ある時、「嗚呼、天国に行きてえとやけっぱち(自棄)にほざいたら、天国はお二階よと言われちゃってさ。上れば落ちる地獄行き、もちろん、上らなかったけど」など、声の懐かしく心地よく響く。今しも御座(おわ)す天上と過ぎし日のお二階、天地雲泥や如何ならん。死人に口なし。
当初は仏語クラスで顔を合わせるだけの顔見知り、それ以上の深い交わりは余りなかったが、日数を重ね顔見知りが級友となる秋口、基礎文法終了、中級講読に進んだ頃、田淵から声をかけられた。やさしい小説を原書で読む輪読会。稲浦、加わり有志三人で発足。稲浦は、兵庫県選出参議院議員の息、無口、優しい人柄だが一家言ある芯の強い男。河原町蛸薬師の丸善に赴けば、長身を屈めて仏書を漁る師、生田耕作先生に遭遇、臆せぬ田淵が来店の意を告げ書の選択を仰げば、ふと手を伸ばし一書を取り上げ、「これはどうだい」と。Jean Cocteau, Thomas, L'Imposteur ジャン・コクトー、『山師トマ』。先生は、宇治で我々の中級講読担当、アポリネール短編集(教科書版)を読み進めていた。海の物とも山の物とも分からぬ『山師トマ』を、中京二条通道祐町、イノダコヒー本店に持ち寄り輪読と名づくものを三人で始めたが歯がたたず数回で立ち消えとなった。
隠元開創黄檗宗萬福寺を目睫の間にする宇治分校、人呼んで憂シ分校、配流一年、二回生に進級、旧三高跡、紅もゆる吉田分校へ。まだ戦前からの校舎であった。昔のままの教場、織田作、三好達治の机か、掛けた椅子か、床しきに、床の板間から洩れくる冷風に夢覚めにけり。
吉田分校が思わぬ縁、田淵晋也が、忘れられぬ濃密な親交の仲となったのは、人生一刹那、瞬時の期間ではあったと言え、以下のような経緯による。
宇治時代、田淵の下宿は清水坂、こちらは上京区智惠光院通下立売であった。
自炊が許される下宿の一つがたまたま智惠光院にあったからで、初体験、習い始めはめずらしく丹精こめて弁当も作ったが、月日を経るにそれも億劫となりゆき、しかも界隈はいわゆる下町、西陣機屋(はたや)の終日止まぬバタン、バタンの音、千本通りの猥雑な賑わい、色町五番町の妖しげな薄暗闇と軒燈。三島由紀夫の金閣寺で世にも知られるようになった当時の町の面影は映画「西陣の姉妹」で覗うことができる。
東の方、百万遍を山の手と見立て、京都大学近辺、徒歩の通学圏内に居を定め学問の気に馴染み浸りたしとの思いに駆られ宿探し、銀閣寺山門左隣り、長谷川造園母屋の二階一間を借りた。清水坂に蟄居の田淵も同じ心境か、転居を口にしはじめた。栗林敏郎氏の追悼記の冒頭、「下宿屋は造園業を営んでいて、手入れの行き届いた広い敷地に母屋と三棟の離れがあり20名近くの学生が住んでいた」とあるその最初の一棟が、ちょうどその頃、普請され、二階の三室、母屋からの移住組が二室を、真ん中の一室を、渡りに船と田淵が越してきたのであった。私が東端を田淵がその隣り中部屋を。田淵は、寝間着のまま布団の上で当時めずらしかったシェーヴィングクリームで顔をあたるのを午前の日課とする、翌朝目にした光景、パイプに劣らず文字通りめずらしい「風景」ではあった。第一外国語のフランス語、週6時間3コマは欠かさず通った。必修英語担当の川田周雄(ちかお)助教授は8時開始、8時半出席を取りそれ以後の入室は欠席あつかいとされた。当時、講義は2時間、30分遅れて始めるが全学暗黙の了解ではあったのだが。二人とも宵ぱっりの朝寝坊、これは付き合いきれぬと諦めた。外国語は一コマ2単位、学部進学に必要総単位数のうち2単位不足は許されて仮進学とされた。諦めは計算のうえであった。
以下は、後年知ったことだが、田淵も知らなかった、川田周雄先生は、老らくの恋で名の知れた歌人川田順の息(養子、甥)ということだった。川田順は元住友商事の常務理事、妻を亡くし、息子と娘の三人暮らしを続けていたが、前京大法学部教授の妻俊子と、古今和歌集が躓きの端(つま)、不倫の恋に陥り、当時、皇太子(現上皇)の作歌指導、歌会選者の身、いかばかりの騒ぎであったか、朝日新聞の見出しを参考までにここに挙げてみる(昭和23年12月4日付)、
老いらくの恋は怖れず / 相手は元教授夫人・歌にも悩み / 川田順氏 一度は死の家出 / 妻は引きずられた 夫の博士語る / 心境訴える詩と文 親友たちに遺書も発送
後年知ったということがいかにも残念であった。あのとき、知らまましかばその筋の興味から篤と周雄氏を観察したものを。玄関入ってすぐ横の部屋を書斎とし順氏の外出を牽制したという。「お父さん、何処へお出かけですか。またあの女の方ですか」と。(五十嵐信之 『川田順 生涯と歌』)
さて、部屋を隣り合わせに始まった二人の交流に話を戻す。
4年の浪人生活、伊達には送らなかったか、実に物知り、文学関係の読書量のいかばかりなる、此方は足下にも及ばず、いつも聞き役たずね役に終始した。話は専ら文学だった。作家と作品の関係に独特の見解を持っていた。為したことを書くのか、為したいことを文字に置くのか、私小説の可否、etc. シュールレアリスト田淵晋也の誕生はいつのことか、当時身近にいた者としていま記憶を辿っても定かならず。この年1959年、アポリネール全集刊行、革張り豪華本が田淵の書棚に列んだ。
この頃、郷里の父親が亡くなった。癌、かねて覚悟のことか報に接し淡々として行き淡々として戻ってきた。ついに死んだ、と。
田淵は、捨てたのか、入れられなかったのか、郷里岡山に対し実に疎遠であった。休暇とか折りにつけての帰郷は私の知る限りなかった。正月休み明けて下宿に戻ってきた私に向かって、開口一番、「いや、まいったのなんのって、どこも、店も何もかも全部閉まって、しょうがねえから、京都駅まで行って駅弁さ、三食だぜ、まいったよ」と。母君やいかに御座します、子の母を慕うの情、晋也にはなかりしか。
ある日、こんな珍事があった。二時限の仏語に出るべく銀閣寺道を急ぎ行くとき、登り来る女性の、「あら!」と、此方は、「まさか」と、双方、人違いか空目か、懐かしさ入り交じり、夢か現か、一瞬たじろいだ。成城学園前駅北口にあった喫茶店、風月のウエイトレス、顔見知りの仲であった。いったん帰福、故郷福岡で充電、再度の上京中、半日、京都観光の途中下車と言う。先ずはその足で京都大学、町中へ出て、新京極、寺町、勝手知った西陣、千本通りなど巡った。明日もゆっくりしたい、手元不如意、出来れば一宿の仮寝を許せかしとの流れとなった。下宿のお上さんに事情を話し許された。乗り合わせた見知らぬ女と名古屋の宿に同衾する三四郎(夏目漱石『三四郎』の主人公)の心境、その流儀に倣うべく意をかためた。お二階の天国、田淵は何を忖度か、早くも布団を運んで西隣り経済学部学生の部屋にあたふた避難した。
下女が一枚の布団を蚊帳いっぱいに敷いて出て行った。三四郎はシーツを巻いて布団のまん中に白い長い仕切りをこしらえそれを境界にして二人は別れて寝た。(『三四郎』)
此方は、あり合わせの寝具で仮の床らしきものを、なるべく隙間を作りながら二つ並べ、身を細長くして、相手も壁を向いたまま黙って寝た、、、。
逢フト見テコトゾトモナク明ケニケリハカナノ夢ノ忘レ形身ヤ (新古今和歌集恋歌)
別れぎわ、駅のフォームで、女は、「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」と言って、にやりと笑った。
(以上、引用下線部は『三四郎』原文)
翌日、新京極で、ゲリー・クーパー「真昼の決闘」を観て別れ相手は東京へ。
期末試験を控え、京の底冷え、準備は暖房のきく喫茶店に居座ってしたものだった。例の、毎回出席を取る川田英語、通年出席一回とあっては、筆記試験は受けても無駄と思う。だが、出席優良筆記不良、筆記優良出席不良を勘案するに、「毎回出ていて情けない点数、一体なにを聴いていたんだ」、「顔も出さず立派な点を取る、これ実力のなせるわざ」、後者を良しとする粋な教授もいるはず、これに賭けよう」、と田淵と二人して銀閣寺道の喫茶店に一週間通い詰め、テキストの実に難解な英文学評論に取り組んだ。辞書の訳語をそのまま並べてすました顔をする、それですませる類いの英文ではなかった。訳語は自分の言葉で作る、これを知ったこと、この試験準備の思わぬ成果ではあった。二人とも合格点を取った。父親の恋の乱行を諫める息子、相手の人妻、離婚成立、再婚を勧める息子、それを渋る父。人生、理(筆記)と情(出席)、理をもって情を殺す、情をもって理を抑える、一筋縄には括れぬを、身を以て知った果ての寛容ではあったか。
深夜、茶店を出て、受験勉強の進捗に満足、空腹の不満を屋台のラーメンで満たし、肩を並べて道を行く、こういうときの田淵に肉親に近き愛狎の情を感じたものだった。いつだったか、コンパのあとの二次会、深夜喫茶というものがあった時代、そこにねばって、明けぐれの京大路を、銀閣寺まで練り歩いたことがあった。今でもその情と景、想えば目に浮かぶ。
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。 (清少納言 枕草子)
おし明け方の東山の情景、いにしえもかかりけりやと想い遣られた。
この年、昭和35年(1960)一般教養科目自然科学系4単位不足で留年(落第)となった。田淵はそつなく仏文科に進んだ。
新規一転、京に田舎あり、山科に蟄居、下宿は国鉄山科駅北裏すぐ、安朱中小路町、和歌におなじみの音羽山、窓から手に取るばかり至近に眺め遣られた。
山しなのをとはの山のをとにだに人のしるべくわがこひめかも (新古今和歌集恋歌)
大石内蔵助の隠棲居宅跡が山科三条通にあった。国鉄と並行して京阪電車京津線が乗り入れ、京都大津、石山寺などを結び交通の便は良かった。
内蔵助に倣い隠棲、身を隠者と思いなし京の町とも縁を切り、専ら書見と散歩にあけくれた。
散策の道程(コース)は二つ、一は、逢坂の関(大関)に至る東海道に並行する旧道、小関(おぜき)峠越え、山科から大津、北陸道に通ずる古道でおよそ4キロ、道の南面は樹木なく、眺望ひらけ遙かに伏見城が見渡せた。人跡、稀にして、あるときはリスのお迎えもあった。芭蕉の、山路来て何やらゆかしすみれ草(野ざらし紀行)、この峠での作という。「孤独な散歩者の夢想」を恣にやがて園城寺三井寺の裏手に出る。黄昏、琵琶湖に映える夕陰(せきいん)を夢想の閉じめとして門前町から大津へ、京津線に乗り山科の宿に戻る。晡時、書見に倦んじ、日和に誘われ意あらばの遊歩ではある。
近場は、琵琶湖の水を京に運ぶ疎水沿い、御陵(みささぎ)の天智天皇陵。飛鳥から大津に遷都した都(みやこ)「近江大津宮」から小関峠を逆に辿れば、その終着が天智天皇の陵というわけである。
一年有余の濃密な田淵晋也との交流も自ずから疎となった。田淵は卒業後、地元の山陽放送に就職、東京支社勤務、数年後辞して京大の大学院で学究の道。大阪府立大学に職を得た。ベルギーのブリュッセル自由大学留学一年。その頃非常勤として府立大に出講していた私は週一回田淵との再会交流の機に恵まれた。それもこちらが九州大学へ移っていらいぱったり絶えた。賀状は欠かさず律儀に毎年元日に届けられた。私生活、私行の消息に触れることはなかった。結婚も、知ったのは本人の口からにはあらず、東風(こち)の便り。此方は、寒中見舞い狀、菅原道真の漢詩『敍意一百韻』二百行、毎年10行の拙訳、二十年に渉った。拙訳詩文、励まし褒められた、それも一字千金の賛嘆ぶり、「これは外交辞令にあらず」の念の入れようであった。完結に近づく頃、デジタル同人誌百万遍入会と拙訳掲載を勧められたが、未完を理由に、勧奨者本人の意に反し別稿を提出した。
最後に近しく接したのは、1997年4月から翌年3月まで、駒場の大学入試センター、フランス語出題部会で机を並べ仕事をした時期であった。毎月一回上京、3日間に渉る入試問題作成作業、室内禁煙、休憩をはさんでの入室時、ニコチン中毒の往生際、煙草を二本同時に口に咥えて、せわしなくプカプカ鼻から煙を出す田淵晋也のヘヴィースモーカー振り、哀れともせつなしとも、嘗ての我が身なれば目に浮かぶ。毎回、最終日の打上げ飲み会、酒は飲めぬ田淵だが、例の声で座を賑わしたものであった。今、思うにも懐かしさ一入である。
最後の肉声を耳にしたのは、今春、病床からの電話であった。張りもつやも声に衰えはなかった。加えて話の長さも。 合掌
今回、福島、栗林両氏の臨場感せまる追悼記のおかげを以て、ほぼ交流絶えしより晩年に至る田淵晋也の消息30年弱の仔細を知り得た。伺い知る機会がなかった隙間が埋められ、宇治分校の出会いから病床の肉声に及ぶ六十七年間に及ぶ田淵晋也の生涯を見通し偲ぶことができたのは有りがたき幸せであった。深謝。
2025年12月12日 識