田淵さん追悼・岩田



田淵さんの思い出


                 岩田 強


 田淵さんと知り合ったのが何年のことだったのか記憶がはっきりしないが、会った場所はまずまちがいない。銀閣寺の北隣にある長谷川造園の広い庭内にあった学生下宿においてだっただろう。学生下宿といっても、銀閣寺の庭の続きかとおもわせる苔むした築山や庭木のあいだに、昭和の初めころのような下見板張りの二階屋が木の間隠れに点在する、趣のある下宿屋だった。そこへ京大に同年(1964年)に入学し同じクラス(L4)に所属して以来の友人の茂木信之君が下宿するようになり、茂木君のもとへ、同じクラスのもう一人の友人の亀井邦彦君が出入りするようになり、彼らをとおしてわたしも田淵さんと知り合うようになったのだとおもう。もしかしたら亀井君は、高校時代の同級生で同じく長谷川の住人だった木内義勝さんを通じて、かねて田淵さんと知り合っていたのかもしれない。今回茂木君に確認したところ、かれが長谷川に入居したのは1970年だったそうだ。


コトバの人

 田淵さんはわたしたちより10歳ほど年長で、何年も前から長谷川の下宿に住んでいて、長谷川の主(ヌシ)のような存在だった。田淵さんの部屋には、専門のフランス文学ばかりでなくさまざまな分野の書物があふれていて、岡山のご実家から運んできたのではないかとおもわせる大きくて黒い木製の書棚はいうまでもなく、床の間、テーブル、藤の椅子、畳の上、至るところに本が積まれていた。

 部屋には湯呑道具さへなかったのではないかとおもう。わたしの印象では、田淵さんはコトバ、コトバ、コトバの人で、生活臭は能うるかぎり薄かった。田淵さんは無類のコーヒー好きだったが、コーヒーを自分で淹れたり、淹れ方に凝るようなところは微塵もなく、コーヒーが飲みたくなると、一日に何度でも銀閣寺坂下の喫茶店バンビまで出かけていた。もちろん自炊などは田淵さんのイメージに反するもので、農学部近くの銀仙がお馴染みの食堂だった。仕事に追われたり病気だったりすると、銀仙からとり寄せた四角い塗りの弁当箱が戸口に置かれていた。

 田淵さんはわたしたちL4のクラス担任だったフランス文学の生田耕作先生の高弟だということだった。わたしたちは年下すぎて相手にならなかった所為か、わたしたちと文学論を戦わせることはほとんどなかったが、生田先生とは百万遍北にあった学士堂という喫茶店などで熱心に文学を論じておられたらしい。1970年に三島由紀夫が楯の会の会員と市谷駐屯地に突入したとき、田淵さんと生田先生の間で三島が命を懸けるかどうか議論になり、生田先生は懸けない、田淵さんは懸けると主張して、けっきょく田淵さんの判断どおり三島が自刃した、という話を事件後30年以上たった後に田淵さんからうかがったことがある。

 だから、田淵さんのシュルレアリスムは生田先生仕込みだったと考えていいだろう。田淵さんは、ブルトンの「シュルレアリスム宣言集」や「シュルレアリスムとは何か」の生田先生訳が載っている『アンドレ・ブルトン集成』第5巻(人文書院、1970年)に、「シュルレアリスムの政治的位置」を訳している。生田先生が田淵さんの力量をたかく評価して共訳者に選ばれたのだとおもう。また田淵さんはポール・ラファルグの『怠ける権利』を1972年に翻訳し、人文書院から出版している。この本はひろく読まれて、その後平凡ライブラリーに収められて現在も読みつがれている。30歳代の田淵さんの主要なお仕事は翻訳だったといえるとおもう。

 田淵さんがシュルレアリスム関係の論文を精力的に発表されはじめたのは1980年で、以降1982年、83年、86年、88年と書きつがれて、主著の『「シュルレアリスム運動体」系の成立と理論:「離合集散」の論理』(勁草書房、1994年)に纏められ、博士号を取得された。1980年代の中ごろ、わたしが論文を書いていて長文の引用文の処理に苦労すると話したところ、田淵さんが電動肩もみ器のような恰好のハンディ―・コピー機をとり出して「ボクはこれを使っているよ」といわれたことがある。上記の本では、書籍ばかりでなく雑誌、新聞、パンフレットその他からの大量の引用が利用されているので、田淵さんも引用にかかる手間や時間に往生され、そのような新器具に飛びつかれたのだろう。しばらくしてコピー機の使い勝手をお尋ねすると、「あまりよくないね。実用にはならない」というお答えだった。

 この回想文を書くためにウェッブに出ている京大の修士論文目録を調べたところ、田淵さんの修論のタイトルは「Apollinaire et son “Hérésiarque et Cie”」となっていた。シュルレアリストの先駆者のひとりで、シュルレアリスムという名称の命名者でもあるギヨーム・アポリネールの「異端教祖株式会社」などの散文作品を論じたものだとうかがった。修論の諮問のとき、副査として同席していた英文学の教授が「アポリネールは詩人なのだから、論文のどこかに詩の引用があってもよかったのではないか」と蘊蓄をひけらかしたので、主査のフランス文学の主任教授といっしょに英文教授をからかってやった、と田淵さんは持ち前の高い声で笑っておられた。そういう場面での田淵さんの機知(ウイット)は当意即妙で、冴えていたことだろう。


交友

 高藤冬武さんが追悼文のなかで、高藤さんと田淵さんが大学入学の同期(1958年)であり、同じく同期の稲浦嘉頴さんと3人で生田先生に教えられたフランス語の原書の読書会をやって挫折した話を書いておられる。高藤さんと田淵さんの親密な交友関係は今回はじめて知ったが、法然院の近くに住んでおられた稲浦さんにはわたしも何回かお会いしたことがあり、稲浦さんが2010年に早逝されたとき、「あいつしか知らないたくさんの記憶が消えてしまった。半身をもがれた気分だ」と話しておられたのが印象的だった。

 田淵さんの交友関係でもう一つ記憶に残っているのは、大学の採用人事で不当な扱いを受けて裁判を起こした友人(西川祐子さん)のために、「阪大教養第1003号による公募人事を考える会」の一員として1975年から4年間支援活動をされたことだ。この裁判は1979年に原告勝訴が確定した後、膨大な量の裁判記録が『ひとつの抗議:ある大学人事の裁判記録』(第三書館、1980年)というB5変型判、2段組、465ページの大冊に纏められて出版された。その末尾に、関係者の一人として、田淵さんも一文を寄せていて、田淵さんが裁判の裏の裏まで見とおす透徹した理解をもっておられたことが示されている。この本はめったに読まれることのない本なので、以下にその全文を紹介する。


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三月三十日の判決をめぐって

―勝利したのはだれか?

                                田淵晋也


 三月三十日に言渡された「判決」には、判決それ自体の分析と、その「判決」に続いて生じてくる「現状」という二つの問題があるように思われる。この二つについておおまかに考えてみたい。

 判決文を概観すると、原告の主張と被告の抗弁にたいして、裁判所のくだした判断は以下のような形態をとっている。

 一、経緯(帝塚山学院大学退職の経緯と阪大側からの原告への働きかけの経緯)。二、被告の責任(退職指示、通知の遅延、教官協議会決定の理由、手続の不合理性)。三、損害。

 これらの項目のうち、裁判所が具体的に最も積極的な判断を下したのは「経緯」についてであった。即ち、両者の争点であった20件目にたいし、裁判所が原告の主張をほぼ全面的に認めたものが、約11件、両者のやむを得ぬ喰い違いと見なしたもの、6件、被告の言い分を是認したものは、わずかに3件である。

 「経緯」の把握がこうである以上、「被告の責任」への判断が、「採用を前提とした働きかけ、退職指示」の責任、「通知の遅延」の責任において、被告に責があるとしたのは極めて当然の論理展開であって、原告主張の支持は、争点12件中9件、被告支持は1件のみとなる。但し、ここにおいて、裁判所は「教官協議会の決定の理由、及び手続の不合理性」については、注意深くと言ってよいほど判断を避けているのは、注目すべき点であり、また、後に述べることとも緊密な関係を持ってくると思われる。

 「経緯」、「被告の責任」について、このような判断をおこなったからには、「損害」について、全面的―7件目すべてに原告の主張・要求を認めたのは、当然の結論であった。

 しかし、このように概観すると、裁判所の下した主要な判断は、「経緯」においてであったとみなすことができ、その「経緯」の判断から、「公権力の優越的意思の発動」が原告にたいしてふるわれたという事実を認めたことになる。即ち、裁判所は事実認識(原文では傍点、以下同様)をおこなっただけであって、真の意味では、何の判断も結論も出していない。つまり「原告」としてはいざしらず、「西川さん」自身としては、「公権力の優越的意思の発動」の犠牲者、被害者であることに認定をうけただけであって、今なおその被害者であることには変わりないのである。蛇足であるが、「賠償金」とは、現実的には認定のアカシ以上のものではないことは、その金額から明らかである。

 このことだけは銘記しておかねばなるまい。つまり、「公権力の優越的意思の発動」とは、公の組織が個人にたいしてふるった暴力であって、暴力の被害者は、いかに金銭で償われようとも、被害者でありつづけていることである。

 さらに言えば、この「阪大教養第1003号による公募人事」は、未だ勝ったとはいえないのであり、このような「被害者から始った戦い」においては、決して勝つことはないのである。勝ったとおもうことは危険な錯覚であって、実は、敗北者であるとおもわれているものが真の勝利者であることが往々にしてある。

 具体的にこれを「考える会」の活動としてみる場合、ある意味では、極端に言えば、私はこれを敗北だと思っている。

 その理由はこうである。つまり、この活動の当初から、阪大側、殊に言語文化部教官協議会の内部から、この問題にたいする積極的反応がなんら得られなかったこと。「事実の認定」があった後においてさえ、なんらの主張も公にあらわれる形でおこなわれなかったこと。川口言語文化部元部長代行でさえ自ら、法廷で認めている「道義的責任」の所在についての判断を含めて、この問題は言語文化部のなかではどうなっているのか。語調を強めて言えば、大阪大学言語文化部教官協議会には、もはや希望はあるまい。大学の自治は担いきれまい。彼らは、将来もまた、同じ道義的過誤を犯すことに、積極的、消極的に加担するであろうし、また、今回よりも、はるかに巧妙に、隠微にこれをおこなうであろう。

 そのことは、大阪大学言語文化部について言えるだけでなく、すべての大学関係者についても言いうる危険であろう。「考える会」のなかにもその危険の芽はあったように思える。つまり、組織・機構が個人に暴力をふるう場合、それは、組織対個人の関係把握だけでは、教官協議会決定(実は川口個人決定)にたいする協議会各構成員の沈黙以上のものにはなり得ないのであって、その組織・機構を支えた個人にまで、問題を深める必要がやはりあったと思われる。組織と個人を切り離すことは、その個人が組織のなかで果たした咎を責める場合にも、また、その個人が組織の構成員でありながら、その組織と無関係を装う場合にも、共に危険をはらんだ考え方と言えよう。

 そういう意味において、つまり個人と組織の関係を掘り下げえなかったこと、具体的には、阪大言語文化部の構成員の真の参加を得られなかったこと、および、組織のなかで複数の個人が果たした悪の役割の追及を論理的な局面にまで高めえなかったことは、「考える会」の一構成員として深く反省している。

 このような判決後の「現状」において、結論的にいえることは、われわれはすべて、誰も勝っていないということである。「西川さん」は今なお被害者でありつづけるのであるし、且つ、このような暴力が跋扈跳梁する風土は、いよいよ豊かにあるからである。


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 当時、大学改革は大学にかかわるすべての人間に突きつけられた課題だったが、それは各自の生活を根底からゆるがす要素を孕んでいたから、その課題から目をそらす人間が多かった。引用の最後の数節を読むと、田淵さんが「考える会」の活動を自分に与えられた大学改革の場ととらえ、最後までやりきる決意だったことが畏敬の念とともに見えてきた。当時わたしにはそのような田淵さんの深い覚悟は理解できていなかった。

 さて、L4の仲間だった亀井君夫婦は田淵さんとすぐに親しくなって、夏には一緒に泊りがけで海水浴に行ったりするようになったが、わたしは二十歳の年に駆け落ち結婚して、寮生でもないのに熊野寮の自習室でこっそり学習塾をやったり、妻が創作ローケツ染めの工房で働いたりして、どうにか生計がたつ貧乏暮らしだったから、海水浴に参加したことはなかった。

 わたしが田淵さんと親しくなったキッカケは、田淵さんに家庭教師を紹介してもらったことだった。田淵さんは早くから文才を発揮して母校の岡山朝日高校の校内新聞に青色の血液をもった人間(だったと思う)を描いた短編を投稿したりしていたそうだが、その一方科学にも興味があって、物理のY先生に私淑していた。Y先生はその後岡山大学理学部に移られたが、田淵さんは高校卒業後も岡山に帰るとY先生を訪ねるといった付き合いが20年も続いていたようだ。田淵さんから、高校時代にアインシュタインとインフェルトの共著『物理学はいかに創られたか』(岩波新書)を読んだとうかがったことがあり、そのときわたしは「これはY先生の影響かもしれないな」と想像した。また田淵さんはご自分の論文の書き方について、最初に論旨展開の全体をさだめ、つぎに章立てや小見出しも決めてから、執筆にとりかかると話しておられた。わたしの書き方は、1行書いて、その1行の起爆力でつぎの1行を手繰り寄せる、という出たとこ勝負の書き方なので、田淵さんの書き方がいかにも科学的なことに感心した。これもY先生の影響のひとつであったかもしれない。田淵さんは数字につよく、ひところ凝っておられた競馬予想でも、パドックでの馬体の状態などは度外視し、レースの初めだか中盤だか終盤だかの1ハロン(約200メートル)の所要時間の平均値(だったかな?)で予想するといっておられた。主観や解釈の入る要素を排除し、数字という客観的データのみに賭けるという決断は高校以来の科学の素養に裏打ちされていたとおもう。

 さて、そのY先生が、1974年9月から翌年の9月まで、アメリカの大学で在外研究されることになり、奥さんも同行されることになったが、一人息子のT君は翌春に大学受験を控えていたので単身日本に残ることになり、田淵さんがT君の勉学面のサポートを任されることになった。一人息子の将来にかかわる大学受験を託したのだから、Y先生が田淵さんをどれほど信頼していたかが窺い知れる。T君は74年の春ごろから、月に1度か2度京都に来て、わたしから英語を教わり、田淵さんからその他の学科や生活面のアドバイスをうけるようになり、翌春みごとに岡山大学医学部に合格した。チームを組んでT君の受験の手助けをしたこの1年足らずのあいだに、10歳ほども年長の田淵さんがわたしにとってグッと身近な存在になった。

 T君の家庭教師についてはもう一つ記憶に残っていることがある。T君の家庭教師をしてから10年ほどたって、わたしの長男が高校受験をひかえて数学の家庭教師を探したことがあった。わたしは無考えに、そのころ大手予備校の教員室で知り合った数学の先生の息子さんで京大理学部の学生だった人の下宿をアポもとらずに訪ねていって、藪から棒に家庭教師を依頼した。その話を聞いた田淵さんは「岩田氏はムチャなことをするね。数学の教師の息子で京大理学部の学生だからといって、どんな人物か分からないじゃない? ボクがT君の家庭教師を頼む前には、生田さんに岩田氏のことを聞いてみたぜ。生田さんが〈フランス語文法もソコソコ勉強していたから、英語もたぶんシッカリしているだろう〉といったので、岩田氏に家庭教師を頼んだんだ」といった。田淵さんにはこのように、物事にとりかかる前に十分データを集め、慎重に分析するところがあったとおもう。

 T君の家庭教師とはちょくせつ関係ないが、おなじ時期の忘れられない記憶がもう一つある。1975年1月、修士4年目だったわたしは修論が書きあがらず、修論の提出を諦めかけていた。修士課程は4年が期限で、4年目に修論が提出できなければ除籍になる規程だった。つまり大学の教師になる道は閉ざされるわけだが、塾の講師などでなんとか食いつなげていたから、なかばヤケクソで、なんとかなるような気持になっていた。

 ところが田淵さんは、わたしが修論の提出を諦めかけていると聞くと、「内容などどうでもいいから、ともかく論文を書き上げて出してしまったほうがいい」といい、わたしを長谷川の自分の部屋に呼びよせて、朝から晩まで、わたしが論文を書き進める間ずっと側にいて、わたしのなぐり書きの英文ができる端からタイプでうってくださった。それが一日や二日ではない、1週間近くもつづいたのではなかっただろうか。田淵さんは論文の内容には一言もふれず、ただただタバコを鎖喫みしながら、わたしの側に居つづけてくれた。それはなまじっか内容についてアドバイスをしたり議論したりすることよりも、ずっと辛抱のいることだったにちがいない。

 というわけで、わたしが修論を提出できたのはひとえに田淵さんのお陰だった。八十寿をすぎてふり返ると、社会人の適性に欠ける自分には、自分勝手がある程度許される大学教師が唯一できる職業だったと痛感されるので、こうして停年までなんとか家族を路頭に迷わせずに生きてこれたのは、あのとき田淵さんに助けていただいたお陰だと思わずにいられない。

 田淵さんはどうして一文の得にもならないのに、1週間ちかく、毎日何時間も、黙って側に居つづけてくださったのだろうか。大学院から除籍されれば、乳飲み子をかかえてそれでなくとも逼迫している家計が破綻するのではないかと心配されたのかもしれない。また、除籍でわたしがヤケになり、T君の指導に支障がおきるのを危惧されたということもあったかもしれない。だが、そうした現実的な理由だけでは説明しきれないものを感じるのだ。田淵さんとY先生や稲浦さんとの交友につよくそれを感じるのだが、田淵さんの中には無償の友愛が秘められていて、たまたまわたしもその余沢にあずかったのではなかっただろうか。

 さて、修論が提出できたわたしは1975年の春から和歌山大学に勤めることになり、1学期は京都から通っていたが、7月に公務員宿舎に空きができて、一家で引っ越すことになった。すると田淵さんは長谷川下宿の知り合いたちに声をかけて京都での荷物の積み込みを手伝ってくださったばかりか、さらに和歌山まで足を運んで荷下ろしも手伝ってくださった。

 その翌日の和歌山雑賀埼での海水浴が、その後毎年のようにご一緒するようになった田淵さんとの海水浴の初回となった。田淵さんはお気に入りの黄色と紺色のスズラン型の帽子をかぶり、「岩場はこれに限る」といって黒の木綿足袋を履き、帽子とおなかと足袋の指先だけ水面に出して波間に浮かんでいた。子ども時代に岡山の海岸で覚えた特技ということだったが、口の悪いだれかは「死んだタヌキが浮いているようだ」といった。

 後年、田淵さんが結婚された後の夏には、奥さんや娘さんもご一緒に海水浴に参加され、田淵さんの愛妻ぶりとお二人の仲睦まじさに周りはアテラレ通しだった。

 田淵さんは子供のころから友だちたちと海に遊びに行っていたそうで、グループ遊びでのリーダーシップは見事だった。始めに全員から一定の金額のお金を徴収し、それを会計係にあずけ、すべての出費はそこから支払い、足りなくなるとまた全員から一定額を徴収するというやり方だった。高い料理と安い料理、酒を飲む人と飲まない人といった差は無視する。ちょっと考えると不公平のようだが、旅行の初めから終りまでをトータルすると、それが一番文句が出にくい。歳の差もあるだろうが、田淵さんは少年時代の経験でそういう生活の知恵を身につけておられたのではなかったかとおもう。


絵画

 田淵さんとのお付き合いでもう一つ書き落とせないのは、田淵さんがわたしの妻の絵の「先生」だったことだ。といっても、田淵さんが絵筆をとって妻の絵の指導をしてくださったことは一度もない。これにはすこし説明がいる。

 田淵さんと絵画との係わりは独特だった。田淵さんは色や線や形にたいする感覚が鋭敏で、絵画の良し悪しが識別でき、気に入った絵画をみると気持がよくなって、何時間でも見ていられるが、自分で絵筆をにぎったことは1度もない、とのことだった。田淵さんには独立美術の森本勇さんやパステル画の天羽均さんをはじめ画家の友人がたくさんあり、パリで画家をしているご親類もいるような話を聞いた記憶もあるので、絵筆をとる機会はいくらでもあっただろう。絵は好きでも自分では描かないという決断には田淵さん独自の理由があったにちがいない。その理由を伺ったことがあったような気もするが、残念ながら記憶に残っていない。

 わたしの妻が、結婚後遠ざかっていた油絵を1980年前後から再開し、タタミ1畳もある大作を次々に描くようになったのを知ると、田淵さんの絵画好きに火がついたのかもしれない。春、秋の展覧会の前などにお願いすると、大阪府立大の帰りに和歌山まで出むいて、妻の絵を見てくださるようになった。田淵さんは、わたしの修論をタイプしてくださったときと同じようにタバコを鎖喫みし、わたしが淹れるコーヒーを飲んだり、わたしとダベッたりしながら、何時間も妻の制作につきあってくださった。

 わたしの修論の場合とちがったのは、妻の絵についてはときどきご自分の意見を言われたことだ。絵をじっくりと見据えた末に

「ここに赤い色面があったらどうですかね」

 妻が言われた場所に赤の四角を描き入れると、

「四角ではないのかもしれない。もうちょっと丸みのある形かもしれませんね」とか、

「赤の明度をもうすこし上げられませんか」とか、

「その女性の肩を、デッサンなど無視して、ずっと大きくしてはどうですか」などと注文が出る。どうやら田淵さんは目の前の絵の、どこに、どんな色の、どんな形をおけばその絵がよくなるか、かなり具体的に感じとれたらしい。実作の経験が無かったにもかかわらず、田淵さんはあるべき絵を幻視する特異な能力を持っておられたようだ。もし田淵さんに技術があったならば、いったいどんな絵を描かれたことだろうか。妻は今でも、当時の絵の写真を見ながら、「この部分は田淵さんのアイデア」「ここは田淵さんの意見で変えた部分」などと鮮明に覚えていて、中に1枚、田淵さんの作品といえるほど田淵さんのアイデアが濃厚なものがあって、妻はその絵について「田淵さんは、わたしの手を使って、ご自分の絵を描いてみたかったのじゃないかしら」といっている。

 妻が絵に没入しはじめた時期に、自分以外の人のアイデアと真剣に格闘させてもらった経験はとても大きくて、妻の最初の絵の先生は田淵さんだった、とわたしは感じている。

 田淵さんが在外研究でベルギーに行かれ、そのお土産にフェルメールの「デルフト光景」のパネル画をいただいたことがあった。田淵さんが口をきわめて激賞されたのはファン・アイクなどのフランドル派の写実力だった。「たとえば宝石が描かれていると、どれほど眼を近づけてみても、宝石の細部が粗くなったり歪んだりせず、宝石が宝石のままにみえる。フランドル派の画家は宝石自体の価値と同じだけの価値を絵画の宝石に持たせるつもりで描いたにちがいない」というような話をされていた。

 それだけに田淵さんがその後現代芸術に関する著書『現代芸術は難しくない:豊かさの芸術から「場」の芸術へ』(世界思想社、2005年)を出版されたときはちょっと意外な気がした。もっとも田淵さんの原点であるアポリネールは同時代の前衛芸術家たち(キュービストやフォービスト)と親交があったというから、田淵さんも修論でアポリネールを論じた当初から前衛芸術への関心をもっておられたのだろう。この本は現代芸術の分かりやすい解説書として国内で好評を博したばかりでなく、中国語に翻訳され、中国でも多くの読者をもっていると聞いている。


味覚

 田淵さんは味覚が敏感だったのではないかとおもう。味覚に関する思い出がいくつかある。1977年の春、田淵さんが運転免許を取得されて間がないころ、車で和歌山まで来られ、妻や長男もいっしょに御坊の煙樹ケ浜までドライブさせてもらったことがあった。ちょうど土地の人たちが地引網を引き上げていて、サワラを一尾分けてもらい、和歌山に帰って妻がサワラを刺身にしたところ、田淵さんは「サワラはこうして食べるのがいちばん美味しいんですよ」といって、刺身を白飯のうえに並べ、ワサビをのせ、熱い煎茶をかけると、透きとおった身が白くなった。たしかにその茶漬けはとても美味しくて、岡山ではそれがふつうの食べ方なのかとも考えたが、いっぽうこれは母上仕込みの食べ方かもしれないとも想像した。田淵さんのお母さんは料理が得意で、料理を教えているとうかがったことがあったからだ。田淵さんはお母さんを話題にするときはいつも、「まとわりつかれると困るので、イヌを当てがっているんだ」というようなアクタレを口にされていたが、じつはお母さんに溺愛され、お母さんからたくさんのものを学んでおられて、このサワラの食べ方もその一つではなかったか、と思うのだ。

 また、1975年の夏、田淵さんが木内さんやその他の人びとと愛媛の日振島に海水浴に行き、わたしも宇和島までご一緒してそこで別れ、わたしは宇和島の山中の妻の郷里へ、田淵さんたちは宇和島港から汽船で日振島に向かわれたことがあった。よく晴れた早朝、見送りに宇和島駅から桟橋まで歩いていく途中、揚げたてのテンプラを売っている店があった。テンプラは地元の小魚を骨ごと擂り潰し、手のひら大のすり身にして油で揚げたなんの変哲もない惣菜だが、田淵さんは紙に包んで渡されたテンプラを手づかみで食べて「これ、美味しいね」といわれた。その後何年も経ってからも「あのテンプラは美味しかったね」といわれたので、よほどお気に召したのであろう。

 田淵さんから教えていただいた中華料理の「飛雲」や浄土寺の「盛華亭」はどちらも薄味で美味しく、何度でも行きたくなる店だった。また別当町にあった「金剛亭」や銀閣寺の「花山」という焼肉屋には、仲間たちといっしょに連れていっていただいき、時にはご馳走になった。田淵さんには恩着せがましいところが微塵もなかったので、わたしたちも平気でご馳走になっていた。


 田淵さんには、人生の危機や岐路で、助けていただいたり、絶妙の距離で見守っていただいた。田淵さんのような方に出会えたことは、我が人生の奇跡と感じている。にもかかわらずご恩返しはなに一つしなかった。申訳ない気持ちでいっぱいだ。田淵さんは子供のころ中耳炎の手術で何年も休学を余儀なくされたとうかがったが、晩年は難聴がひどくなって、電話で話していても、こちらの声が聞こえておられないと思われることが多く、お電話するのがつい間遠になった。これも忸怩たる思いの一つだが、後悔先に立たずである。



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