田淵さん追悼・高田


浄楽学生寮 

- 田淵さんのこと -


高田 英樹


 田淵さん、といっても個人的な付き合いは乏しく、お出会いしたのも何度かしかない。その出会いを、もうアタマそのものが衰えて記憶も定かでないが、順次たどって行くことにする。

 最初の出会いは、浄楽学生寮というところだった、確かもう大学院になっていたと思う。

 私が入学したのは昭和35年(1960年)、教養部の校舎は宇治と吉田にあり、1回生が宇治、2回生は吉田に通う決りだった。おそらく戦後すぐからそうなったのではないかと思うが、その年は1回生が宇治に通う最後の年で、来年から全て吉田に統合されるとのことだった。ところで余談になるが、学年を指すのに1年生2年生…と言わずに、1回生2回生…と、回生で呼ぶのは京都だけだと聞いたことがあるが、本当だろうか。なんとなくいかにも大学生になったようで、気に入っていたが。確かに、私がその後関わったいくつかの大学では、回生ではなく年生だった気がする。

 丹波の田舎から出て来たヤマザルの私が下宿したのは、黄檗山万福寺の塔頭の一つで、校舎まで歩いて15分くらいだった。特に不便や不満はなかったが、来年から吉田に行くというので、後期になると皆京都に移り始めた。私もその一人で、市内に移った。最初は吉田山の裏手の神楽岡あたり、次は北大路、そのあともう一つあったはずだが、短期間だったのかどこだったか覚えがない。いずれもいわゆる下宿屋で、家の人と顔を合わすことが多く、あまり居心地のいいものではなかった。3回生になった時、宇治で同じ下宿だった友人から紹介してもらって移ったのが、浄楽学生寮だった。

 住所は左京区浄土寺馬場町、市電だと銀閣寺道の一つ南の「浄土寺」(「浄土寺前」だったか?)で降りて西に3百メートルほど行った所、歩きだと、農学部前から吉田山の麓を回って真裏あたりから東に2百メートルほど行った所にあった。これも余談になるが、南隣は児童公園で、その周りの一角に宮崎市定教授の家があった。熱烈な宮崎ファンだった工学部の同級生は、大学に通うのに毎日わざわざ遠回りしてその前を通り、何とか拝顔の栄に浴さないかと期待していたが、叶わなかったようだった。

 浄楽学生寮は、工学部の教授が自分の家の広い敷地にアパート形式の寮を2棟建てたもので、南寮と北寮があり、2階建てでそれぞれ20くらい室があった。室といっても3畳より狭いほどの部屋で、机とベッドと本棚と小さなロッカーがあるだけで、身動きできるスペースはほとんどなかった。それでも独立した個室で誰とも顔を合わせることはなく、気楽だった。入り口の傍には水道と流しとガスコンロを供えた小部屋があり、ちょっとした料理くらいは出来た。毎日何か作る逞しい奴もいた。電話もあったが、ケータイというのはまだなく、一々取り継がなければならず、大いに不便だった。風呂は、3百メートルほどのところに銭湯があった。私は、大学院の最後の年にさる「運動」に関わって京都にいられなくなるまで、そこに住んだ。

 寮生は、工学部の先生が建てた関係からか理系が大部分だったが、文学部も何人かいた。その一人が稲浦さんで、最も古顔の一人とのことだった。最初は面識がなかったが、何かの機会に知り合いになり、学年は2年上だったが仏文と伊文ということで、時々部屋にお邪魔した。ある時伺うと先客があり、同級生のタブチだと紹介された。ただ、田淵さんが浄楽学生寮の稲浦さんのところに来るのは滅多にないようで、2人は北白川の喫茶店(名前は憶えていない)で毎日のように出会ってダベッテいるとのことだった。確かに、稲浦さんのところで田淵さんと出会ったのは、その時かぎりだったと思う。仏文の他の人たちが来てはるのに遭遇したこともあった。高藤さんとも、そこでお出会いしているに違いないのだが、名前と顔が一致しない。

 次に出会った、というより見掛けたのは運動の最後の頃、百万遍の東北角の何とかいう喫茶店(これも名前は憶えていない、今もあるのだろうか)だった。入って行くと田淵さんが、カウンターで背の高い人と何か議論していた。あのよく通る甲高い声でもっぱらしゃべっているのは田淵さんの方で、すぐ分かったが、目礼しただけで挨拶はしなかった。相手の人は、生田耕作というフランス語の有名な先生で、時々ここに来られるとのことだった。その後のある時、その喫茶店でその先生を見掛けて横に坐ったが、相手にされなかった。そんな先生と渡り合う田淵さんの凄さを改めて思い知った。田淵さんは、かつて私が出会った最も雄弁でカッコイイ人だったと今も思う。

 この頃、私とは直接の関係はないが、運動の仲間たちと関わりのある出来事があった。そのずっと前からであろうが、田淵さんの周囲にはその人柄と学識を慕って、下宿で一緒だった者たちを中心に、多くの後輩たちが集まっているとのことだった。イタリア学科の亀井君もその一人だった。おそらく就職先が決まったのであろう、田淵さんが銀閣寺の下宿から大阪に引っ越すことになり、車の免許を取ったばかりの気のいい亀井君が、では僕が運んであげましょうということになり、レンタカーか友人の車を借りて、田淵さんも同乗して大阪の新たなアパートまで運転したらしい。後に聞いたことだが、亀井君も田淵さんも道中生きた気がしなかったとのことだった。さもありなん、その頃まだオートマではなくマニュアルでナヴィももちろん無かったろうし、免許を取ったばかりの者が高速ではなくあの国道1号線を大阪まで運転する、何をか言わん哉だったろう。

 次は外国、留学先でだった。私は、1973年から75年にかけてイタリアはピーサのスクォーラ・ノルマーレ(高等師範学校)という学校に2年間いた。その2年目の夏、フィアットの中古小型のポンコツ(650㏄10年もの)に女房とテントを積んでヨーロッパ一周に出掛けた。口の悪い奴は、何でノリモノが二つも要るんだ、オマエにウンテンはムリじゃないか、と言った。ウン、ナントカナルヨ、と言って出発した。ところが果たして、50キロも行かないうちに車の方がダウンして動かなくなった。レッカー車を呼んでピーサに戻り、修理してもらい(エンジンのピストンのシャフトが折れるというかなり重い故障だった)、再び出発しようとすると、修理屋のおやじが、その車では無謀だから止めた方がいいと忠告してくれた。ウンウン、アリガトウ、ジャヤメトクヨと言ってアパートに戻ったが、翌日になるとどうしても行きたくなり、結局出発した。今度は、行く先々で小さな故障やエンストやオーバーヒートはあったが、大きな故障と事故はなく、スウェーデンまで行って1か月かけてピーサに戻ってきた。泊ったのはほとんどキャンプ場だったが、途中日が暮れて野宿したり、ガス欠になったり、危険な目にも合った。今思い出すとよく無事だったものだと身が震える。これが、ワカサのバカサというものなのだろうか。

 その折、田淵さんが在外研究でブリュッセルにおられることを知り、ベルギーではそこを訪ねて行くことにした。ところが、ブリュッセルに入ると日が暮れて真っ暗になり、どこを走っているのか全く分からなくなった。南国イタリアは9時になってもまだ明るいが、緯度の高いベルギーは4時頃から暗くなり始め、6時ごろには真っ暗になる。途方に暮れて迷っていると、通りの一角にPOLICEと書いた門灯があったのでそこに駆け込み、ここに行きたいのだがと、田淵さんの下宿の住所を書いた紙を差し出した。すると、これまた僥倖というべきか、ここからそう遠くないところだと言って、電話をかけてくれた。田淵さんはすぐ迎えに来て下さり、一緒に下宿まで行った。今夜の宿はどうするのかと聞かれたので、テントをもってキャンプ場に泊まる予定だったので宿は取ってないと答えた。寝具はあるかと聞くので、シュラフならあると言うと、それなら問題はない、ここに泊まればいいとのことで、田淵さんの寝ているベッドの横のスペースにシュラフを二つ敷いて眠った。

 次の日、きっといろんなこと、イタリアのこと、ベルギーのこと、学校のこと、街のこと、その他諸々のことを話したのだろうが、一つだけ今もはっきり覚えているのは、車のことだった。私が、留学するにあたって免許を取り、イタリアで車を買い、それで旅して回っていることを知って田淵さん曰く、羨ましい、先見の明がある、自分もそうすべきだった、それが最大の痛恨事だ、ヨーロッパじゃ車がないと何もできない、と。実際、歴史的に近代に入って馬車から直接自動車に移行したヨーロッパは、鉄道網が発達せず、移動はもっぱら車、バスや自動車に依らざるを得ない(主要都市間を結ぶ鉄道はあるが、周辺の小都市や地方と結ぶ路線はほとんどないかひどく未発達)。もう一晩お世話になって、翌朝辞去した。田淵さんが、日本に帰ってから車の免許を取らはったかは聞いていない。

 その多分次の年、今度は田淵さんがローマに来た。私はピーサでの留学を終えてローマに移り、日本文化会館という所で日本語を教えていた。宿は取ってあり、私のアパートに来はることはなかった。中心街の喫茶店の路上テーブル(イタリアでは、カフェやレストランはテーブルを歩道に出してもよい)で話題になったのはベルギーとイタリアの違い、特に二つのことだった。一つは、料理が美味しいということ、とりわけスパゲティ、それもアサリ(イタリア語でボンゴレと言う)をオリーブ油とニンニクで炒めて絡めたのが素晴らしいと絶賛された。最もポピュラーなものの一つで値段も高くないが、味は絶妙で、田淵さんの舌の確かだったことを証している。

 もう一つは女性で、ベルギーあるいは北方の女性は堅くて冷たいが、イタリアの女性は柔らかくて親しみ易い、というものだった。実体験があったのかどうかは知らないが、次のような出来事の披露があった。なんでもフィレンツェでのこと、駅を出ると一人の若い女性が走り寄って来て、イタリア語で何やら話しかけて来た、決してそのスジのクロウト風ではなく、素直で純朴そうな娘だった、ひとしきり何か喋った後、バイバイと手を振って去って行った、この時ほどイタリア語が出来たらと残念に思ったことはない、と。料理に劣らずこの方面にも通じていらっしゃる(?)田淵さんのことゆえ、間違いないとは思ったが、アハハそれはザンネンでしたねと答え、その美しい思い出にミズを差すことは控えておいた。

 もう一つ、田淵さんとは直接の関係はないが、今度の追悼文と関わる出来事がローマであった。その経緯については定かでないが、それからさほど経たぬ(と思われる)ある時、日本文化会館にいる私のもとに、日本から亀井君の友人、確かキウチさんといった、が来るとの連絡があった。今度も中心街のさるカフェの路上テーブルでお会いしたのだが、その口から伝えられた知らせに私は絶句した。亀井君が亡くなった、それも自死したと。その後どうしたか何も覚えていない、宿にも送って行かなかったのではないかと危惧する。失礼なことをしてしまったと今も後悔している。それ以上に私を苛んだのは、彼が何故自死したのか、その理由や動機、経緯や情況については何も知らないし分からないが、その責のほんの一端は自分にもあるのではないかという自責の念だった。どのようにか、書き始めると長くなるので止めるが、とにかく、自分はあの運動に加わる資格はなかったのではないか、それを彼らはムリして仲間に加えてくれたのではないか、そして彼らの邪魔をし、その人生を狂わせてしまったのではないか、と。もちろん亀井君は言うだろう、ウヌボレなさんな、あんたには何の関係もない、と。

 そして1985年、私は13年のイタリア暮らしを切り上げて日本に帰った。帰って来たのはいいが、仕事の宛がない。イタリア学の世界とはもう縁が切れているし、向こうで手に付けた職、日本語教師しかない(日本でイタリア語を学び、イタリアで日本語を教えるというのは、チグハグな人生だ)。ちょうどその頃、文科省の留学生30万人計画というのが始まっており、多くの大学で日本語教師を募集していた。京都の精華大学にもあり、稲浦さんがそこに勤めているとの情報を得たので連絡を取り、百万遍のあの喫茶店で出会った。稲浦さん自身は、その後頃浄楽学生寮を去り、疎水べり法然院の近くに住んでいる、まだ独身、とのことだった。話は当然田淵さんのことにも及び、アイツは結婚したそれも教え子と、とのことだった。その口調は、ウマクヤッタともケシカラヌとも取れた。

 その後田淵さんとお出会いしたのはそれからずっと後、7年前の2018年、「百万遍」にお誘いすべく福島さんとその書斎となっているマンションに訪ねた時と、翌年阪急雲雀丘花屋敷の明月記で岩田さんも含めて会食した時であるが、この時のことは、驚嘆すべき記憶力の持ち主でありまた記録魔でもある福島編集長の追悼文に余すところなく記されているので、付け加えることは何もない(それどころか、数年前のことなのに自分は碌に覚えていないことに改めて愕然とした)。

 最後に、つまらぬエピソードを一つ。大学院博士課程の頃、私は有里さんという学科の先輩の紹介で、大阪音楽大学というところでイタリア語の非常勤講師をしていた。音大ということで、ほとんど女性、良家の子女風の学生たちばかりであった。その声楽科のクラスにひと際目立つ子がいた。といっても美人というわけではなく、どちらかといえばイカツイ感じだったが、とにかく大柄で、態度も堂々としていた。体重はもちろん、背も僕より高かった。貧弱な体躯の持ち主で、体格コンプレックスの塊である私は、そうした女性にめっぽうヨワイ。アイとかコイというのではなく、アコガレである。私は授業で出欠を取らないのだが、ある時たぶん試験かレポートで、その女子学生がタブチという名であることを知った。で、ある日浄楽学生寮で稲浦さんに出会った際、何気なく田淵さんは姉妹があるか尋ねてみた。稲浦さん曰く、イヤ、あいつは一人っ子で姉妹はない、安心しろ。安心しろというのがどういう意味か分かりかねたが、とにかく僕はアンシンした。そしてその年が終わると東京に出奔し、それきりになってしまった。あのタブチさんは今頃どうしているだろう。


 我らが「百万遍」の心優しき同人であり、最も先鋭な論者であった田淵さんを失ったのは痛恨の極みである。その追悼は、これら遺稿を世に問うことによって完結されようか。諸兄のご支援をよろしく請う次第である。


2026.1.3/5 記 



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