「晉ちゃん」と「邦ちゃん」
本城 邦彦
晉ちゃんは、歯医者のお父さんと料理の先生のお母さんの間に生まれた一人っ子です。
我が家は、曽祖父夫妻、祖父夫妻、母の姉弟5人の叔父叔母と父と母とその子供(私はその一人)の13人で住んでいました。戦後の住宅事情から思えば大家族同居は当然のことで、その上、田淵さんと我が家は一つの大家族のような付き合いでした。
田淵さんと我が家は50メートルほど離れていましたが、裏庭はほとんどつながっていました。私はいつも裏庭から田淵さんへ出入りしていました。叔父の一人(売れなかった画家でパリで亡くなりました)は、帰省すると食事はほとんど田淵さんでいただいていました。ほんとうに、近い関係の両家でした。
歯医者のお父さんは、歯医者をやりながら、能楽囃子方の笛方をされていました。晉ちゃんを笛方にしたかったようですが、不器用で運動神経ゼロだと歯医者さんは諦めたようです。代わりにと、私と弟は小学時代からずっと、「笛方になれ」と誘われ続けました。
晉ちゃんは私の兄貴分で、小学校時代から、私は晉ちゃんの「金魚のふん」でした。
晉ちゃんは大学卒業までに4浪しました。私は2浪で、兄貴分には後れをとりました。
「浪人すると、たくさんの友だちができるぞ」といつも豪語していました。
小学校時代の「後楽園」
晉ちゃんの子供の時の趣味は昆虫採集でした。沢山の昆虫標本を作っていました。意外と手先は器用でした。
岡山の「後楽園」は、現在は天下の名園として有名です。しかし、我々の子供の時代では、戦後の荒れ果てたままで、無料で出入りできる昆虫採集の絶好の遊び場でした。
昆虫採集の師匠は、毎日のように昆虫採集に誘うのでした。後楽園は荒れ果てていましたが、橋のたもとに見晴らしの良い茶店がありました。
ある日、一番年下の叔母が言いました。「茶店の女の子、元気?」と。
私は、やっと気がつきました。晉ちゃんは、昆虫採集をだしに、かわいい女の子に会いに行っていたのです。「金魚のふん」は、ちょっぴり羨ましい気持ちになりました。
中学校時代の「マラソン大会」
中学時代、冬には恒例のマラソン大会がありました。我々は近所に転居しており、マラソン大会では我が家の前を生徒が走ります。我が家では、全員で晉ちゃんを応援するため勢ぞろいで家の前に待機しました。晉ちゃんが帰ってくるまでずっと待ちました。応援していた人達がいなくなった頃、やっと晉ちゃんが戻ってきます。皆、大声で「晉ちゃん頑張れ」と応援しました。
ある日、晉ちゃんは私に、「邦ちゃん、皆に、早く家に入るように言ってよ。棄権できないし、大声の応援が恥ずかしいから」と頼むのでした。
我が家では、冬の楽しみの一つだったようです。
大学時代、体育の授業のマラソンがあったそうで、この中学時代の教訓が生きました。
「マラソンは中間期間を、友人の自転車の後ろに乗ることにしたので、楽だった。応援する人もいないしなあ」と、ほっとした顔で話しました。
大学時代の「車の運転」
大学時代は、晉ちゃんは京都。私は神戸でした。余り交流がなかったのですが、一度だけ。京都を案内してもらう機会がありました。我が家の家族全員から「晉ちゃんの車には乗るな」と言われました。しかし「金魚のふん」は「兄貴分」には逆らえず、決死の決意で車に乗り京都を楽しみました。
就職活動
4浪という実績をベースに大学を終了し「晉ちゃん」は就職活動に入りました。
晉ちゃんが「新聞記者になりたい」と言っているという情報が我が家に入りました。
その頃、「新聞記者」=「事件記者」という定義が我が家を支配していました。テレビの人気番組に「事件記者」があり、画家の叔父の友人の俳優たちが出演しており、身近な我が家の人気番組でした。スピーディに走り回る事件記者たちの振る舞いが新聞記者のイメージで、「運動神経ゼロの晉ちゃんには絶対無理だ」と決めつけていたのです。
晉ちゃんは、「新聞記者には、学芸部の記者などがあり、事件記者とは違う」と懸命に説明をしていました。最終面接で3名まで残ったそうですが、「不合格」! しょげている「晉ちゃん」を尻目に、我が家族たちは、「無理なことはせん方がええんじゃ」と岡山弁で喜びました。
大阪府大 教授時代
「邦ちゃんの娘か」と絶句したそうです。夜「邦ちゃん!・・・」と晉ちゃんから電話がありました。
私の次女は、小さい時から乗馬をやっておりました。阪神競馬場のそばに住んでおりましたので、馬大好きで小学校時代から馬に乗っていました。馬術部があるという理由だけで、大阪府大を選び入学していました。そこで「晉ちゃん」、に出会います。
絶句の後、「邦ちゃんの娘さんを教えることになるなんて」と喜びの電話をくれたのでした。
このことから、昔の「晉ちゃん」「邦ちゃん」の関係が再開しました。
年数回の「夕食会」
晉ちゃん夫妻との夕食会が始まりました。
私は、おいしいもの大好きで、大学時代や、結婚後も、よく食べ歩いていました。
初めてイタリアンを食べたのは大学時代の神戸の「ドンナロイヤ」でした。イタリア人のオーナーシェフが始めた有名店で、老婦人が存命で、初めて訪れた日、老婦人は「貧乏学生は全部食べて帰ること」と、全部食べ切るまで店を出ることを許してくれませんでした。その後、店を引き継ぎオーナーシェフとなったW氏と接客担当のマダムの日本人夫妻とも仲良くなりました。「晉ちゃん」はこのマダムとも息が合い「田淵先生、田淵先生」と店では呼ばれていました。
「ワタリガニ」の名店、「上海蟹」の名店、ロシア料理の名店、インド料理の名店など、神戸の店を食べ歩きました。
美味しい神戸のお店に案内し、兄貴分から「今回の店も美味しい店だったね」と言ってもらった時、「金魚のふん」はちょっぴり自慢の気持ちを持ったものです。
「晉ちゃん」が逝ってしまった2025年、12月30日に老舗「ドンナロイヤ」も店を閉じました。
今思い出すと、優しくて、物知りで、大きな声で笑う兄貴分でした
沢山の思い出を残して 兄貴分は逝きました。
「晉ちゃん、一旦、さようなら。天国の美味しい店を案内するのは、兄貴の番だからね」
(幼なじみの老建築家)