田淵さん追悼・森



田淵さんとの思い出


森 隆一


 田淵さんと初めて出会ったのは1973年以前で、恐らくその前年だと思っていて、筆者の友人Iが ‘長谷川下宿’ に移ったのがきっかけである。Iの部屋は6畳と3畳の二間続きで広いこととIの人柄により何時の間にか週末(祝日の前日も含める)にはオーバードクターやその同学年ら数人の溜まり場的存在となっていった。初めて訪れてからそんなに遅くないときに碁盤が置かれたことが拍車となったようだ。ここで田淵さんをはじめ岩田さんのほかKとTとに出会うことになった。

 1973年に大学入学以来9年間過ごしてきた下宿の大家から3月までに退去するように言われ、Iにこの近くで少し広めのところはないかと頼んだところ銀閣寺前町に1K風呂なしの下宿を見付けてくれ、1973年3月に移り住んだ。銀閣寺道(白川通今出川)より東に進むと疎水に架かる銀閣寺橋に至る。この北側で白川の東が銀閣寺前町である。ここに十年間住むことになる。

 次の図は今出川通りの吉田神社北参道鳥居から東から銀閣寺参道を経て銀閣寺までのGoogle Mapに銀閣寺を去るまでに利用した店を書き込んだものである。店名を思いだした店は大きめのに店名を付し、思いだせない店は少し小さいで示した。



 1973年では銀閣寺道(今出川・白川・丸太町)に市電が走っていた。なお、京都市電は1972年に四条・大宮・行院・千本を通る路線が廃止され、1974年に烏丸・七条を通る路線が廃止され、1976年に今出川・白川・丸太町を通る路線が廃止された。最終的は1978年に全線廃止となった。なお、1981年に地下鉄烏丸線の北大路・京都間が開業した。

 1973年の世相に関してWikipedia「1973年」「1973年の日本」より幾つかの項目を抜き出してみる。


・内閣総理大臣は田中角栄(1972~1974)

・キッシンジャーと黎徳寿、和平協定案に仮調印

・ベトナム和平協定

・為替レートが固定相場制から変動相場制に移行

・日本赤軍によるドバイ日航機ハイジャック事件

・金大中事件

・東京教育大学を廃して筑波大学を開学

・第四次中東戦争の影響により第一次オイルショック

・江崎玲於奈のノーベル物理学賞受賞


この他に

・週刊少年ジャンプではだしのゲンの連載が開始

・山口百恵・桜田淳子デビュー (前年に森昌子)

・せまい日本、そんなにいそいでどこへ行く (1972年の交通安全標語)

・ごきぶりホイホイが発売

などもあった。


 銀閣寺の左手に浄土院と書かれた石標があり道路に沿った石垣に沿って白壁の建物が建っている。この建物の北側に幅が2m(1間)程で両側に植え込みがあるため人1人が通れる程の石畳の小路がある。これが ‘長谷川下宿’ への入り口である。大家は ‘長谷川造園’ を経営していることは後で知った。Googleの Street View では小路の奥に門が見られるが、門があるということは意識していなかった。小路をぬけ門をくぐると、正面左に二階建て母屋の農家風玄関が見られる。左手の奥に離れ風の建物があり、この右側の部屋をIが借りていた。

 Iが移った直後は訪れてもIと話すだけであったが、あるとき、隣りの部屋にいたKが ‘コーンバンワ’ といって話に加わってきた。この後、1973年3月に筆者は銀閣寺前町に移ったが、引っ越しの経緯やこの間のIの部屋での雑談について具体的なことは全く覚えていない。

 この間にIの部屋では碁をするようになり集まる人も多くなっていった。この中に田淵さんも入っていた。Iからは大阪府立大学に勤務していてフランス文学が専門であると紹介された。後でわかったことであるが、田淵さんは筆者より9歳年長であり、山陽放送に勤務した後、大学院に入学されたとのことである、また住所は ‘長谷川下宿’ のままで、大学に行く場合は難波のホテルに宿泊しているということであった。これを聞いたとき、何とも贅沢というか、もったいないという印象をもったが、ビジネス客が半分以下のホテルを例にとれば、平日2泊3日で年間40週宿泊する客は最大の割引が見込まれ、合理的であったかもしれないと思うようになった。


 週末になると夕食をすませたあと用のない人が五月雨的に集まり参加者自身あるいはIのアレンジによりで碁が始まり、1局か2局打ち終わった後は雑談が続いた。雑談においては年齢と経験から自然と田淵さんが中心となった。印象としては、田淵さんの見方・意見を聞く会ともいえる。今も覚えている幾つかの話題を述べることにする。


 専門がフランス文学ということで、フランス文学者で唯一名前を知っている桑原武夫の名前を挙げたとき、田淵さんが語気を強めて話し出した。語気の強さとフランス文学の用語が理解できないため、話の内容は何も記憶にない。そのときは、文学部のフランス文学者と人文科学研究所のフランス文学者との間には何らかの競争があると理解した。


 筆者の碁を ‘丸タン棒を振り回す碁’ と評された。これを聞いたときは戸惑いとともにはっきりと物言う人と思った。筆者の碁が対局中にやけくそ的に言っているモットーは ‘碁には負けても劫には負けるな’ である。今考えてみれば、碁とは順番に最適(最善)の位置に自分の石を置いていくゲームといえる。石が離れている場合、シチョウアタリを除いて、位置が少々ずれても最適性は殆ど変わらない。序盤や中盤はそれなりに自由度があり面白い。一方、終盤はヨセともいわれ、1手の価値がほぼ決まっていて、価値の高い順に打っていくのであるが、このヨセが筆者にはなかなか馴染まなかった。辛気臭いヨセのかわりに筆者の行っていたのは、中盤の一段落した頃に少々無謀でも相手の勢力圏に ‘落下傘じゃー!’ といって打ち込んでいくことであった。この辺りから ‘丸タン棒を振り回す’ と評したのと思われるが、うまく言い表したものと思った。このような言葉を思いつくのはフランス文学・関西の風土・田淵さんの個性などを漠然と思い浮かべていた。


 政治の話はあまりした記憶がないが、ある日の集まりでは、どういう経緯かは覚えていないが政治の話になっていた。そのせいか話はかなり長くなった。話のタネがつきかけた頃に、‘今日はどんな話をしたか’ ということで雑談の感想戦が始まった。終わった頃には夜が明け、半分ほどは帰ったが残りはバンビのモーニングに出かけた。


 別の日には、映画の話になっていた。田淵さんが高倉健の任侠シリーズ推しの熱弁をふるっていた。菅原文太も挙げていて、内容は覚えていないが、クライマックスシーンがかっこいいということだけが記憶に残っている。一乗寺の京一会館で、オールナイトで高倉健の映画が上映されるので誘われた。筆者以外の皆が行った。なお、京一会館は1988年に閉館となった。

 また別の日には、話が一段落したころ、誰かが ‘腹が減った’ と言い出し、田淵さんが ‘一乗寺においしいラーメン屋ができた’ といったので、皆で出かけた。これが白川通北大路にある天下一品総本店である。Wikipediaによれば開店は1975年8月ということである。


 大学入学直後に、小学校時代はよく遊んだが中学・高等学校では疎遠となっていた友人と出会った。当時は、今出川通も志賀越道との分岐交叉点を過ぎると銀閣寺の交差点まで食堂がなく、少し高そうだが再会を祝するということで入ったのが銀仙であった。その日、彼の兄に会ったとき、“銀仙は教師の行くところで、そんなところで食べていたら1ヵ月もたないぞ” と言われた。銀閣寺に移った後も、IとIの研究室の後輩たちと昼食を時々食べに行っていた。また、少しいい夕食を食べたいと思ったとき、すいているときに利用していた。そんなときに、田淵さんが1人で食事をしていた。相席の許可を求め、田淵さんと同じものを注文した。これが田淵さんとの初めての対話であったと思っている。後から聞いた話と併せると、銀仙の主人は岡山県出身で、戦前に開業し、戦争中も常連客のため苦労して営業を続けたということである。

 この時からかどうかは記憶にはないが、銀仙での食事の後はバンビに寄っていた。バンビに初めて行ったのは、これより前にIらとともにであったと思う。ここでは、田淵さんだけモーニング・カップであった。これは、田淵さんがいつもコーヒーのお替りをしているのを見かねての優遇処置ということである。この後筆者も田淵さんと同様にモーニング・カップで提供されるようになった。

 バンビの南に花山という焼き肉屋がある。よる9時以降に食事できる1番近い店であった。ある日、早めに(遅めの夕食に)行くと、田淵さんが食事をしていた。田淵さんの定番メニューは、カルテールスープ・キムチ・ライスであった。


 ある日、札幌でのシンポジウムに参加し、その後北海道を旅行し写真を撮ってきたと話したところ、写真を見たいといわれた。ポジ・フィルムで撮った数本からセレクトした30枚ほどをチャチな電池式ヴュアーで1枚1枚見ているうちに、 ‘これはいい’ といわれたのが花の写真であった。弟子屈駅で時間待ちで唯一行くことのできたオンネトーに行ったところ何もなく、目についた花を少し時間を懸けて撮ったので、セレクト集に入れておいたものであった。

 ここで、白黒写真を強く薦められた。また、ピントを見るには四つ切以上が必要とも言われた。これに乗っかり、ボーナスを使って、現像に必要なものを一式買い揃えた。

 白黒写真で褒められた写真で本誌に投稿したものは、写真アルバムから C03 妙心寺・北野神社10頁 鉄の吊り燈篭である。

 石仏あれこれ A01 百萬遍 知恩寺 10-11頁 五劫思惟阿弥陀仏は写真としては褒められなかったが、その由来には興味を抱いたようであった。とにかく、田淵さんに誉められた写真は、少なくとも、何かが浮んで時間をかけて撮ったものであった。初めのうちは、田淵さんに褒められる写真を念頭において色々な写真を撮っていた。

 この後は、石仏写真と赤外フィルムによる風景写真を主にするようになると、誉められることは少なくなり、質問をされるようになった。

 吊り燈篭の写真で褒められたとき、うれしかったことは間違いなかったが、戸惑いというか半信半疑でもあった。また、‘ここをこうすれば・・・’ というような助言を受けた。内容は覚えていないが、構図に関するもので、撮影に関する技術的なものではなかったと思う。技術的なことは別の人に聞いていた。

 このときは、吊り燈篭の写真よりも、写真アルバムから C02 泉涌寺・東福寺7頁 通天橋のほうに愛着を持っていたが、こちらは褒められなかった。この写真を撮ったときの状況を写真とかすかな記憶から推測してみた。シーズン・オフとはいえ通天橋は人が途切れなかった。暫くすると、中央にアヴェックが1組という状況になったが、彼らが渡りきる前に他の人現れたので、この場所での撮影はあきらめた。とにかく、田淵さんの写真に対する評価力(観察眼)を確認することとなった。


 しばらくして、Iが部屋をかわることになった。‘長谷川下宿’ には、母屋の裏にも2棟の下宿用の建物があった。この場所は現在駐車場になっているようだ。Iの部屋は南側の建物の2階にあり、1階に田淵さんの部屋があった。

 この頃 ‘カリタ’ でコーヒーを淹れるのが定着しだし、Iの部屋でも淹れるようになった。コーヒーの香りに曳かれるのか田淵さんも常連的に加わることになった。

 このあと、Iの結婚と就職により、Iの部屋での集まりは終わることになった。また、この間に田淵さんはベルギーに1年間海外研修となった。

 帰国直後の田淵さんとの話として覚えているのは、まず、ヤン・ファン・エイクの ‘ヘントの祭壇画’ である。いろいろな話のうち印象が強かったのは ‘絵では別視点の絵を組み込むことができる’ ということである。またフランドル絵画という言葉を知った。

 暫くして、“伊豆大島の自動車学校で合宿式のコースがあり、そこに行く” と聞いた。免許取得後、“バンビのマスターのを30万で買うことになった” といわれた。

 購入に関する(自慢)話の1つとして、あるとき、“稲浦が対抗心で20万の自転車買った” というのを聞いた。稲浦さんは田淵さんの同期で、Iによれば、“稲浦さんはスポーツ万能であるが、唯一水泳だけができない。一方、田淵さんは水泳だけができる” ということである。別の日に、稲浦さんと出会ったとき、“写真を撮っている” といったところ、“田淵にみてもらうといい。絵や写真に関する彼の眼は確かである” というような助言をもらった。また別の日、大学での用務の間に、教員室で居合わせたフランス語学科の人に、田淵さん稲浦さんを知っているかと聞いたら、“院生の2人が議論しているのを学部の女子学生は胸をときめかして聴いていた” に近い答が返ってきた。

 田淵さん稲浦さんはお互いに認めあいながら競い合っているという印象をもった。稲浦さんが亡くなった後、“理屈に合わないことにはくってかかるのが、姉の用は嬉々として勤めている。兄弟関係はわからない” ときかれた。このときは何も返せなかった。

 次は後日考えたことである。‘年の離れた姉は母親代わり’ になることがある。母親の場合は少々ぐずっても面倒をみるが、姉の場合は言うことをきかないと面倒をみてもらえない。


 銀閣寺に移った頃から漫画の単行本を買い始めた。水木しげるの妖怪ものや、ちばあきおのプレイボールとキャプテン、植田まさしの4コマものなどである。このうち、プレイボールは気に入ったようで、新刊がでたかと訊かれるようになった。また、レコードを聴いていたときの訪問では、パガニーニ(1782~1840)のヴァイオリン協奏曲を薦められた。このとき聴いていたのはラロ(1823~1892)のスペイン交響曲だったかもしれない。とにかくCDを買って聴いてみると、モーツァルト(1756~1791)とメンデルスゾーン(1809~1847)の間という印象をもった。


 70年代の終わり頃に、“100m当りの走行時間=走行時間/(走行距離/100)を基に競馬の着順予測(予想)をすることをどう思うか” と訊かれた。これに対し何を答えたかは覚えていない。覚えていないということはまともに答えられなかったと思っている。またまたしばらくして、“面白いことを見つけた。それは、上の100m当りの走行時間の折れ線グラフに波(周期性)が見られる。これを使えないか” と訊かれた。さらにしばらくして、“4頭まで絞ることができれば、3頭に絞れれば儲かるのだが” といわれた。この頃になると、バンビの常連で ‘先生の予想’ をあてにする人も現れた。

 車の話は田淵さん式の自慢話風味体験談で、競馬の話は疑問風勧誘であったと思っている。動機については、株式の運用の練習として考えているとのことであった。

 田淵さんと知り合ってからほぼ10年の間は頻繁にあっていた。思い出すことはまだまだあるが簡単には文章化できない。

 後ろ髪引かれる思いは残るが、田淵さんのご冥福を祈りつつ筆を置くことにしたい。


目次へ



©  百万遍 2019