大阪案内人
福島 勝彦
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毎日新聞大阪版に『わが町にも歴史あり・知られざる大阪』という連載がある。始まったのは、2005年4月15日。そして、現在もまだ継続中で、2026年2月28日に「651回」が掲載された。類いまれな長期連載である。
執筆は、松井宏員(ひろかず)記者だが、その松井記者に大阪各地を案内する人がいて、それが「大阪案内人」を自称する西俣稔(にしまた みのる)さんである。西俣さんはこのとき51歳。本職は、大阪府立高校の事務職員で、休日にボランティアとして大阪各所をガイドしているのをスカウトされ、松井記者と二人三脚で、大阪中を歩き回ることになった。
タイトルが「わが町にも歴史あり」と、「も」が入っているのが特長である。大阪といえば、船場、中之島、キタ、ミナミ、新世界など、著名な「観光スポット」はいくらでもあるが、そういうところではなく、自分たちがいま住んでいるところにも思いがけない「歴史」が埋もれている、それらを発掘するのがこの企画の「キモ」となっていた。第1回は「ガソリンカー慰霊碑」。ところは、大阪市此花区安治川口である。
JR環状線・西九条駅から、桜島線に乗り換え、今をときめく「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)」のひとつ手前にある「安治川口駅」付近で、1940(昭和15)年1月29日午前6時50分、3両編成の列車が脱線、転覆した。当時燃料に使われていたガソリンに引火して大爆発。沿線の、住友金属や大阪鉄工所(日立造船の前身)に勤める超満員の乗客が犠牲となった。
原因は、ポイントの切り替えミスだったが、191名が亡くなった。この死者数は、現在に至るまで史上最悪の鉄道事故だそうである。「ガソリン・カー」の危険性は以前から指摘されていて、この路線でも、「電化」される直前の事故だった。駅を出た線路脇に、ささやかな慰霊碑があるという。
USJには行ったことがあったが、この駅は素通りで、このような悲惨な大事故が大阪であったこともまったく知らなかった。大阪に住むほとんどの人々も知らなかっただろう。まさに「知られざる大阪」だった。
第2回は同じ此花区の「伝法(でんぽう)」。新淀川に架かる「伝法大橋」というのは聞いたことがあったが、私にとってはまったく馴染みのない土地である。この地には古代に港があって、「仏法」が伝来してきた土地だから「伝法」と名づけられたとのこと。帰港する船の目印になるように建てられた「澪標(みおつくし)」のレプリカが立つ「澪標住吉神社」というのもあるが、この澪標がのちに大阪市の「市章」に採用された。
さらに、第3回、第4回と「伝法」が続き、平安時代に弘法大師が中興し、「和歌山の根来(ねごろ)寺」「奈良の長谷寺」と並んで、「真言密教三兄弟」と称された「西念寺」や、近くの正蓮寺川の中洲にあった、「女工哀史」の舞台ともなった紡績工場、そして、そこを遡ったところの中洲・「鼠(ねずみ)島」には、明治初期にコレラが大流行したときに「消毒隔離所」という隔離施設が設けられたことなどが紹介されていた。
第5回から舞台は変わって「京街道」。といっても、城東区の関目というところに残る「七曲がり」。秀吉が、進軍してくる敵の人数を計るために、わざと、クネクネと蛇行した道にした、という箇所である。
さらに、この関目に1937(昭和12)年に完成した「大阪国技館」。東京両国の国技館の2倍以上の2万5000人収容の巨大なものだったが、当時全盛の双葉山らを招いた「準本番所」を何回か開催したのち、太平洋戦争勃発のため、4年で閉鎖。「本場所開催」に使われることなく、戦後の1951(昭和26)年に解体された。
第9回からは、大阪中央部の天王寺区玉造(たまつくり)から西に延びて、大阪港まで続いていた「軍用道路」、生玉公園に残る「地下壕」のあと、さらに「真田山陸軍墓地」などの「戦争遺跡」を巡ったあと、第15回から「守口市」に入って、「江戸川乱歩」がむかし住んでいた家が紹介される。この辺りになると、なじみ深い地域も多いが、ほとんどが知らないことだらけだった。
そして、その第17回の末尾に次のような広告が載っていた。
「古地図で散歩する大阪」 毎日文化センター4月開講。この連載をナビゲートしてもらっている大阪案内人・西俣稔さんが講師を務める講座が開講します。第1回は4月23日、毎日文化センターにて。その後は、現地集合して、実際に知られざる大阪を巡ります。毎月第4日曜日、午後2時集合。受講料は、6ヶ月9450円。」
善は急げ。さっそく、その日の午前、勤務先から休憩中に電話したら、あっさりと受け付けてもらった。
そして、4月23日、新しく西梅田にできた毎日新聞社の新社屋の隣にある「毎日文化センター」に行った。連日、いろんな講座を開講している「カルチャーセンター」である。
出席は40名。キャンセル待ちも出るほどの人気だったそうで、選ばれたのはラッキーだった。さすがに、年配の人ばかりで、ほとんどが私よりも年上のように見えた。
そんななか、講師の西俣稔さんの若さが際立っていた。ジャンパーにジーパンというラフなスタイルで、目がキラキラとした精悍な顔つきだった。よく通る大きな声で、大阪のいろんな珍しい「地名」の話などをユーモアたっぷりに話してくれ、だんだんと和んできた会場から大きな笑い声が響きわたった。
1時間あまりそんな話があったあと、あとは、係りの人に会費を払ったり、などの事務手続きがあって、その日はお開き。2ヶ月後の次回は、環状線・大正駅に現地集合することになった。
2006年6月25日、午後2時、大正駅集合。この駅に降り立つのは、以前、8月のお盆の頃に、阪神タイガースの試合を観戦しに「大阪ドーム」へ行った時以来のことである。梅雨時とあって、あいにくの雨だった。傘をさして、ぞろぞろと「大正橋」へと向かった。さっそく、西俣さんの解説が入る。
「欄干を見てください。横棒が5本あるでしょう。これ、楽譜の五線紙です。よく見たらそこに四角いものが貼り付けてありますね。それが音符です。足許を見たら、白黒の模様。これ、ピアノの鍵盤です」
気になるその曲は、ベートーベンの「第九」の「歓喜の歌」だった。1974(昭和49)にこの橋は掛け替えられたのだが、設計した大阪市土木局の日置俊哉氏のアイディアだったそうだ。
初代の橋はは1915(大正4)年に建造されたが、木津川、尻無川に囲まれ「孤島」だったこの地区の人々の悲願だった。できたのが大正時代だったので「大正橋」と命名された。当時は「西区」だったこの地は、その後「港区」に組み込まれ、1932(昭和7)年に独立したとき、大正橋ができたことによって栄えたのだから、ということで「大正区」と名づけられたそうだ。大正区にあるから大正橋、ではなくて、大正橋があったから大正区になった、ということ。知らなかった!
橋を渡ってしばらく行くと、「南海電鉄・汐見橋」といううらぶれた駅があった。岸里玉出駅で、難波から高野山に向かう「高野線」と合流する「南海・汐見橋線」の始発駅だが、人が少なくて寂しい駅である。電車は1時間に2本しかない。ガラガラの電車に乗って、3つ目の「津守」駅で降りたが、無人駅だった。かつては「大日本紡績(現ユニチカ)津守工場」があって、そこに勤める人々で賑わったらしい。
「西成公園」や「西成高校」があったが、人の姿があまり見当たらない。しばらく歩くと、川に出た。「落合上渡船場」とある。木津川を渡って、対岸の「千島」に向かう「渡し船」の乗り場である。いろんな事情で橋が架けられないところに「渡し船」が今でも運航されている。座席はいっさいなくて、全員立ったままなので、40人ぐらいは楽に乗れそうな蒸気船。自転車を押して乗っている人もいた。橋の代わりだから、料金は無料。この渡し船がないと、遠回りして橋を渡らねばならず、30分以上かかるという。
あっという間に、対岸に着くと、「千島公園」というこんもり木の茂った公園があった。緩やかな坂道を登っていくと、「昭和山山頂・標高33メートル」という標識が建っていた。
横に説明板があり、1970(昭和45)年の大阪万国博に向けて、大阪市内で、谷町線などたくさんの地下鉄が建設されたときの「残土」など、ダンプカー57万台分の土砂でつくられた「人口の山」だという。貯木場などがあったこの地を再開発して「港の見える丘」を造ろうという構想だったとのこと。雨でよく見えなかったが、天気が好ければ、六甲山や葛城山、金剛山の山並みと、港大橋、なみはや大橋、新木津川大橋なども眺められるらしい。ちなみに、「標高33メートル」というのは、1990(平成2)年に「花の博覧会」が開催された鶴見緑地の「鶴見新山」ができるまで、大阪市内では最も標高の高いところだった。
さらに、説明板には、「千島」という地名の由来も書かれたいた。それによると、1786(明和5)年から、東成郡千林村(現旭区)の岡島嘉平次によって、新田が開発され、千林村の「千」と岡島の「島」をつなぎ合わせて「千島新田」と命名されたとのこと。
旭区千林といえば、現在、私が住んでいるところだ。大阪市の東北の端っこの「場末」のところとばかり思っていたが、そこにこんな「大物」が住んでいたとは驚きだった。岡島という旧家は、今は、どこにも見当たらないけれど。
千島公園を出て、大正通りを南下していくと、料理店や、食品店、雑貨店などに「沖縄」と銘打った店がいくつも現れた。
西俣さんによると、大正区の人口の約1/4が沖縄にルーツのある人たちだとのこと。第一次世界大戦後の不況の時代、とくにそれがひどかった沖縄から大勢の人々が大阪に出稼ぎにやって来た。彼らが住んだのは、紡績関係の工場などがたくさんあった大正区で、ここで、お互いに助け合いながら、「リトル沖縄」と呼ばれるコミュニティーを形成していったそうだ。そして、今回の町歩きの終点、南恩加島(みなみおかじま)の「うるま御殿」という沖縄料理店に到着した。(恩加島という地名も、あの岡島嘉平次から来ている)
全員、まだ開店前の「うるま御殿」に入ると、奥に舞台があって、そこで、戦前、沖縄からこの地に移ってきた老婦人による「ミニ講演会」があった。西俣さんが予め準備していたものである。どうして、大阪にやって来たのか、この地の暮らしはどうだったかなどの苦労話がユーモアたっぷりに語られた。
それが済んで、解散となったが、希望者は残って、この店で「打ち上げ」の小宴会をするとのこと。20数名が残った。ゴーヤチャンプルー、モズク、豚の角煮、沖縄そばなど名物料理が次々と出され、ビールの他、泡盛というものもはじめて呑んだ。
舞台では、店の店主夫妻らしき人たちが、三線(さんしん)・太鼓で沖縄民謡を披露。やがて興が乗って、飛び入りで舞台に上がって唄いはじめるお客が現れ、アルコールが進むとともに、さらに座が乱れて、大勢が舞台に押しかけて踊り出す、という大盛況が8時まで続いた。結構飲み食いしたのに、代金はひとり3000円と格安だった。毎回こういうことだと、これは楽しい会だな、と、同じテーブルにいた65歳の元銀行員のおじさんと再会を約して、家路についた。
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次は7月23日、阪急十三駅集合だった。大阪梅田から、宝塚、京都、神戸を結ぶ分岐点となる大きな駅でいくつも出入り口がある。そのうちの「東口」に集まり、アーケードのある「十三東駅前商店街」を抜けて、「神津(かみつ)神社」に向かった。またも、あいにくの雨で、傘をさしての町歩きとなった。
この神社の中に、大きな「忠魂碑」が祀られている。日清・日露戦争で亡くなった神津村民を祀った碑で、1921(大正10)年に、別の場所に建てられたものである。
西俣さんが説明する。
「忠魂碑は別に珍しいものではありませんが、ここの忠魂碑には謂れがあるんです」
1945(昭和20)年の敗戦後、米進駐軍は忠魂碑の撤去を命じた。そのとき、ある地元の市会議員が突飛な行動に出た。
「なんと、この忠魂碑を自分の家の庭に埋めて隠したんです。高さが1メートル以上もあり、重さも半端じゃない。それを、穴掘って埋めるのは凄い重労働だったはずです」
1974(昭和49)年に掘り出して、この地に建てられた。
「忠魂碑をいたずらに美化するつもりはありませんが、当時の時代背景がわかるし、昔の人の思いが残っていますね」
このあと、小雨が降りしきるなか、飲み屋やキャバレーなどがひしめく街角を通り抜けて、大通りの信号を渡ると、急に緑が増えて、「十三公園」となり、その向かいに「大阪府立北野高校」があった。古くは、森繁久彌、手塚治虫、最近では、リチウムイオン電池の開発でノーベル化学賞を受賞した吉野彰など、各界の著名人を多数輩出した、大阪でも屈指の名門校である。
昨年までそこで事務職員をしていたという西俣さんは、躊躇なく通用門を開けて、すたすたと中に入って行く。ついて行くと、日曜日だったが、たくさんの生徒の姿があり、グランドでは小雨の中、野球部が練習をしていた。西俣さんは私たちを校舎の裏側へ連れていった。そこには高い煉瓦の壁があり、その下に「殉難の碑」という大きな石碑が置かれていた。
「1945(昭和20)年6月15日の空襲のとき、米軍機の機銃掃射を受けた、その跡が壁に残っています」
確かに、壁一面にたくさんの穴ぼこが開いていた。
「その空襲で、〈学校防衛〉中の生徒が2名、そのとき以外の空襲も含めて計9名の生徒が亡くなりました。1931(昭和6)に建てられたこの校舎は、1990年代に建て替えられましたが、そのとき、OBや教職員らの強い要望に府教委も応じて、壁面の永久保存が決まりました。壁は樹脂コーティングが施されて雨水から守られ、貴重な〈戦争遺産〉となっています」
グランドの片隅に1本の小さい楠の木が立っていて、「いのちの木」という説明板があった。
「これも新しい〈戦争遺産〉です。2001年9月11日、あの米国〈同時多発テロ〉のとき、ニューヨーク発サンフランシスコ行きの旅客機がハイジャックされ、ピッツバーグ近郊に墜落しました。そこに、20歳の北野高校の卒業生が搭乗していました。その死を悼んで、同級生たちが、2004年に植樹したんです」
北野高校を出て、少し歩くと、新淀川の堤防に出た。そこに「十三渡し跡」という石碑と説明板があった。
「今のこの広い淀川は1909(明治42)年に開削されたもので、以前は小さい川が流れていて、そこに渡しがありました。その跡です」
今は十三大橋という大きな橋ができていて、それを歩いて渡って対岸に着くと、阪急のガード下の通路に入っていった。そこを通り抜けると、「中津」という町になり、「中津商店街」という、路地みたいな細いアーケード街があった。そこを抜けてしばらく行くと「富島神社」があって、その近くに「光徳寺」という小さなお寺があった。よく見ると「佐伯」という表札がかかっている。
「ここが、1928(昭和3)年に30歳でパリで客死した、夭折の天才画家といわれる佐伯祐三の実家です。佐伯は旧制北野中学(現北野高校)の出身で、北野高校には、その貴重な写真が保管されています。展覧会などがあったとき、それを校長室の金庫から出して、美術館に運ぶのが私の仕事のひとつでした」
代表作といわれる『郵便配達夫』は、最近開館した「中之島美術館」が所蔵している。
激しくなってきた雨の中、石畳の道をトボトボ歩いてやってきたのは、「鶴乃茶屋跡」の石碑。「茶屋町」の由来となったものだ。その辺りで解散。打ち上げは「インカ」というペルー料理店。現地人らしい店主が、ギター片手に「コンドルは行く」などを唄ってくれたりしたが、雨の中の行軍ですっかり疲れて、あまり意気は上がらなかった。
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3回目は、8月27日。やっと雨から解放された。といっても好天とはいいがたく、残暑厳しいなか、時おり、一天俄(にわか)にかき曇る、ということが何度かあったが、幸い降られることはなかった。
集合は2:00に京阪天満橋駅・地下改札口。上にあがって、天満橋を渡り、河川敷きに降りる。そこに、「天満橋」と大書された大きな金属製の「橋名飾板」が置かれていた。
「この場所に〈天満橋〉が初めて架けられたのは豊臣時代です。以後、1885(明治18)年の淀川大洪水で流失するまで、何度も架け替えられてきましたが、すべて木橋でした。大洪水のあと、1888(明治21)年、ドイツから輸入して、〈鉄橋〉が架けられました。そのとき、橋門のうえに設置されたのが、この飾り板で、鋳鉄でできています」
車がたくさん走る「天満橋筋」を1筋東に入った道を北に向かって歩いて行くと小学校があった。滝川小学校。大阪案内人の西俣稔さんの母校だそうだが、校門の横に石碑が立っていた。「川崎東照宮跡」。
「徳川家康を祀った日光東照宮は有名ですが、二代将軍秀忠は、全国各地に〈東照宮〉という神社を建てるよう命じました。そして、大阪ではこの地に建てられましたが、明治維新後の1873(明治6)年に取り壊されました」
小学校の隣には、造幣局関係の建物があり、その門には「関係者以外の入門はご遠慮ください」という看板が掲げられていた。しかし、西俣さんはそれを無視して、留め金を外し、門の中に入って行く。おいおい、と思いながら、みんなあとについて入って行くと、その中は、造幣局の職員住宅のようだった。そこに住んで生活している人が自由に出入りできるように、門には鍵がかかっていなかったのだ。
少し行くと、鉄筋コンクリート造りの住宅が並ぶなか、一軒だけ、平屋のしっかりとした日本家屋が建っていた。玄関には「桜クラブ」という表札があり、木の立て札が立っていた。「与力役宅門」とある。与力の屋敷があったらしい。
敷地の奥にどんどん進んでいくと、草むらの中に「洗心洞跡」という石碑が建っている。大塩平八郎が創設した私塾の跡だそうだ。ここで陽明学を講じ、1837(天保8)年の「大塩の乱」の拠点となったところである。
さらに歩いて、別の門から、また西俣さんが勝手に留め金を外して、外に出ると、国道1号の大きな道に出て、そこに「大塩の乱槐(えんじゅ)跡」という石碑が立っていた。
「天保8年、大塩平八郎が決起したとき、大砲の一発目は、大塩邸向かいの与力宅裏庭の槐(えんじゅ)の木に撃ち込まれました。記念すべきその木がここにあったのですが、その後、枯れ死してしまったので、若木を植えて、碑を建てることになったのです」
右へ曲がれば、右手に「造幣局」、国道を渡った左側には「泉布観」「旧桜宮公会堂」といったスポットがあって、その先には「桜宮橋(別名・銀橋)に通じているのだが、そちらには向かわず、進路を東にとった。
しばらく行くと「大阪天満宮(天満の天神さん)」があるのだが、その手前、天満宮の筋向かいに「相生楼」という大きな料亭があって、その入り口近くに「川端康成生誕之地」という石碑があった。
「日本人で初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成は1899(明治32)年6月14日に、ここで生まれました。といっても、この料亭の息子だったのではありません。お父さんは医者で、この相生楼の敷地の南の端に当たるところで開業医をしていました。しかし、肺を病んでいて、川端康成が1歳7ヶ月の時に亡くなります。その後、現在の東淀川区大道南にあった母の実家に預けられますが、その母も結核に感染していて、翌年亡くなり、川端康成は現茨木市の祖父母に引き取られ、そこで大きくなり、茨木中学、一高、東京帝国大学へと進学して、小説家となっていくのですが、中学3年の時に、たったひとりの肉親だった祖父が亡くなって、天涯孤独の身となってしまったのでした」
しかし、江戸時代からの創業190年を誇るこの「相生楼」は、11年後の2017年に閉店、取り壊されて、マンションに立て替えられ、川端康成生誕の碑もなくなってしまった。
天満宮をお参りして、裏門を出ると、当時の上方落語協会・会長の桂三枝(現・桂文枝)らの尽力でやっと復活した上方落語の定席「天満天神繁昌亭」の新築の建物が聳えていた。
その翌9月15日に開業したのだが、以後20年、文字通り「繁昌」し、「上方落語」を現在の隆盛に導くとともに、それまで寂れがちだった近くの「天神橋筋3丁目」あたりの商店街が大きく様変わりし、見違えるように賑やかになるきっかけとなったのである。
その横を通り抜けて、鳥居をくぐり、石の小橋を渡ると、小さな池があった。「星合(ほしあい)の池」という看板がある。
「949(天暦3)年に天満宮が創建されたとき、この池の水にご霊光が映ったという言い伝えがありますから、この池は、1000年以上も前からあったことになります。池にかかっている〈星合橋〉は、かつてお見合いがおこなわれたことから、この橋で出会ったふたりは結ばれるという〈縁結びスポット〉になっているそうです」
いくつかのお社がある奥には「星合茶屋」というお店があって、「すべらんうどん」というのが受験生に人気とのこと。きしめんみたいに平べったくした麺に切り込みが入っていて、そこに箸を突っ込んで食べると、うどんが「すべり落ちない」という仕掛けとなっている。効果があるかどうかは、「?」だけど。
池のほとりには、「天神橋」の橋名飾板が飾られていた。
そこを出て、北上、国道1号を渡り、堀川小学校、扇町総合高校(現・桜和高校)の横を通って、「寺町通り」というところに出た。その名前の通り、小さなお寺が東西にずらりと並んでいる。
「豊臣秀吉が大坂城を築いたとき、北の守りを固めるため、この地域にお寺をずらりと並べました。いざというとき、要塞として利用できるからです」
「適塾」の緒方洪庵の墓所がある「龍海寺」、江戸時代に、極めて唯物論的な立場をとって、迷信をいっさい排した町人学者・山片蟠桃の墓所「善導寺」、そして、天神橋筋商店街を越えたところの「成正寺」には、大塩平八郎親子の墓所があった。


「大塩平八郎の決起は、ビビった門人の密告により奉行所に察知され、半日で鎮圧されました。首謀者たちは次々と自首、自決、あるいは逮捕されましたが、大塩父子の行方は杳(よう)として分かりませんでした。実は再起を期して、あちこちを転々としたのち、船場の商家にかくまわれていたんですが、そこの女中が、いつも2人分の食事が余分にあるのを不審に思って、奉行所に訴え出たことで発覚。駆けつけた役人たちに囲まれるなか、短刀と火薬で自決しました」
成正寺から扇町公園に向かう途中、西俣さんが、ある看板を指差した。
「みなさん、南森町はご存知ですね。地下鉄の駅名にもなっています。では、北森町は? そういう町があったんです。その証拠をお見せします。あの、左側のビルに〈南森町イシカワビル〉とありますが、その向かいにあるのが〈日宝北森町ビル〉。この看板にあるように、ここに〈北森町〉があったのです。しかし、1978(昭和53)年の〈住居表示の実施〉によって、〈南森町1丁目〉に吸収されてしまいました」
「扇町公園」に着く。私が子どもの頃、ここには「大阪プール」というスタンド付きの大きなプールがあり、「日米対抗」や「日米豪三国対抗」などの大きな国際大会が開催されていた。プールサイドが広くて泳ぎやすいと、選手たちに好評で、好記録がよく生まれたそうだ。何もないときは一般に開放されていたが、深さが2メートル近くあったので、子どもには無理で、外の、もっと浅い普通の「扇町プール」というのが設けられていて、そこに入ったことはあった。また、のちに自分の子どもを連れていったこともあった。1950年代には、プールの水を落として、大相撲の巡業興業があり、新聞販売店からもらったチケットで、父親に連れていってもらった記憶もある。
そんな大阪プールも老朽化のため、1996年に取り壊されて、港区の方に移転し、跡地には、現在「関西テレビ」の社屋が建っている。
「この地は、江戸時代まで寂しいところで、刑場がありました。明治に入って、1882(明治15)年に〈堀川監獄、のちに大阪監獄に改称〉がつくられました。1896(明治29)から始まった〈淀川改良工事〉で、長柄から大阪湾へ通す〈新淀川〉が開削されるのですが、その工事には、この監獄にいた囚人たちが駆り出されたと言われています。
1895(明治28)年に大阪鉄道(現JR)の玉造駅~大阪駅間が開通した際、近くに「天満駅」が開業して、急速に市街化しました。そこで、大阪監獄は1920(大正9)年に堺市へ移転して、現・大阪刑務所となり、3年後に、〈扇町公園〉が開園しました」
この日の打ち上げは、天神橋筋「天五商店街」横筋に入ったところの、「奄美料理・てぃだ」というところだった。西俣さんご贔屓で推薦の店とあって、モズクの天麩羅、海葡萄など珍しい南国料理に、まだ若そうな店長の三線(さんしん)を伴奏に、西俣さんが『島唄』を美声で披露するなど、大いに盛り上がり、生ビールに泡盛もしこたま呑んで、一人4000円とは破格の値段だった。
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次の9月24日の集合場所の「地下鉄谷町線・守口駅改札口」は、私が住んでいるところから僅か1駅の、いわば「地元」である。そんな地元に、どんな歴史が眠っているのか、興味津々でもあった。
まず、西俣さんから配られたのは、明治18年の地図のコピーである。
「今日行くところは、ずべて、この地図に関係しています。真ん中にぐるっと曲がりくねっている、やや黒い太い線が、当時の淀川です。その南側に、いろんな村が点々とありますが、当時、人が住んでいたのはそんなところで、ほとんどが、田圃や畑でした。そして、淀川の少し上に、太い2本の線が描き加えられていますが、これが、先月お話しました、1896(明治29)から始まった〈淀川改良工事〉で、「新淀川」の開削とともに、このあたりの蛇行する淀川の流れを、真っ直ぐにしようという工事も行われまして、その結果できた、現在の淀川がこれなんです」
地下鉄の駅から地上に出ると、国道1号に出て、目の前に「守口市役所」がある。(現在、市役所の建物は取り壊されて、隣にあった、旧三洋電機本社ビルに移転している)
「先ほどの地図の右上、旧淀川が曲がったところに島がありますね。〈狼島〉というのですが、それがいま立っているところです。車が走っているところは〈淀川〉だったんですね」
国道を渡ると、吹奏楽部が有名な「淀川工科高校」がある。むかしから「淀工(よどこう)」と呼ばれていた、工業高校の名門である。隣には「守口第一中学」があり、その横を通り抜けて住宅街に入ったところで、西俣さんが立ち止まった。
「この家の、町名表示板を見てください。〈守口市梅町〉となっていますね。それから、隣の家をごらんください。〈(大阪市)旭区太子橋〉となっています。この向かいの2軒もそうです。つまり、このくっついた住宅の間に、大阪市と守口市の境界線があるんです。先ほど通ってきた淀工と守口一中では、校地の真ん中を境界線が通っているのですが、淀工は〈大阪市旭区〉、守口一中は〈守口市〉が所在地となっています」
たしかにそうなっている。道路に白い線が引いてあるが、それが境界線を表しているのだろうか。
「まさに、〈謎の境界線〉ですが、何でこんなことになったかというと、始まりは奈良時代の741年、大和朝廷の〈お達し〉で、国の境目は川の中心にしなさい、ということになって、ここが淀川の真ん中だったんですが、明治の〈改良工事〉で流れが変わって、陸地になってしまった。それがここです。川はなくなったけど、境界線は残った、というわけです。川の流れが変わったのなら、新しい流れにあわせればいいんですが、なにせ、もとは〈摂津〉と〈河内〉の国境(くにざかい)やったから、そうもいかんかったんでしょうな。珍しいことです」
ここの、「旭区太子橋」にあたるところは、私の母校の中学校の校区だったから、同級生もたくさんいたはずだが、そんな彼らが、こんなギリギリの「辺境」にいたとは、今の今まで。まったく知らないことだった。
そう云えば、今は1970年代の「町名改正」によって「太子橋」となっているが、当時はたしか「橋寺町」とか「豊里町」と呼ばれていた。対岸の「豊里鎮守大宮」という神社に次のような地図が掲示されている。
〈改修〉前は対岸にあった「橋寺村」は、〈改修〉後は、こちら岸に入り、「豊里村」は両岸に分かれている。そして、橋寺村にあったこの神社は、新しい川の中に入ってしまうので、対岸の、現在の位置に移っている。このため、「橋寺町に」に住んでいた同級生は、「豊里鎮守大宮」の氏子となっていて、お祭りの時は、(現在の豊里大橋はなかったので)「平田の渡し」に乗って、対岸の神社までお参りに行っていたと、それは最近になって聴いた話である。
さて、住宅街を北に行くと、現在の淀川の堤防にぶつかった。そこを上って、川風に吹かれながらブラブラと歩く。この堤防は、かつて中学時代のマラソン大会のコースで、またその準備運動として、毎朝始業前に20分ほど走らされたところだった。
現在でも、ときおりの散歩コースとして、馴染みきった、「日常」の、いわば、自分の〈庭〉のようなところだが、いま、こうして「非日常」の付き合いのグループの人々と歩くと、また別世界に来たような、不思議な感覚がした。
さて、堤防を下って、国道1号の方に戻っていくと、その手前で、西俣さんがストップをかけた。
「江戸川乱歩って、ご存知ですか? 〈怪人二十面相〉などを書いた乱歩が若いときに住んでいた家がここにあります」
そこは小さな二階建ての家で、「大野クリニック」という看板が出ているが、もはや診察はしていないようで、玄関先に、「江戸川乱歩寓居の跡」という説明板が掲げてあった。
「ここに書いてあるように、乱歩は27才の時に大阪にやって来て、守口、門真あたりを転々としていましたが、ここに住んでいたときに、探偵小説を書き始めました。明智小五郎が初登場する〈D坂の殺人事件〉のほか、有名な〈屋根裏の散歩者〉は、この家の天井裏に上がってみて発想したといわれています」
乱歩が出たあと、医師の大野正さんのご両親がこの家に住みはじめ、大野さんはここで生まれた。しかし、この家が乱歩の旧居だとはもちろん、乱歩のこともあまり知らなかったそうだ。ところが、乱歩の足跡(そくせき)をたどっていた門真市の市史編纂室の調査でそのことが判明するや、俄然乱歩のファンになり、その作品を読破しただけでなく、いろんな乱歩グッズも集めて、2階を乱歩ファンに公開するようになった。
「大野さんが亡くなられたあと、奥さんがあとを継いで世話をされていますが、結構お年で、今日もお願いしたのですが、都合がつかずに開けてもらえませんでした」
毎日新聞の『わが町にも歴史あり』にその2階の写真が掲載されている。
国道に出ると「八島交差点」があり、国道1号ほか、大小5本の道路が交差している。その筋向かいのところに、古い門構えで、白壁の倉のある大きな屋敷があった。
「これは、白井孝右衛門という豪商の隠居所だったところです。この人は、あの大塩平八郎の高弟で、大塩平八郎も何度も訪れて近隣の農民たちに〈陽明学の講義〉をしていたので、〈大塩書院〉と呼ばれています。案内板がありますが、今は老朽化して、非公開になっています」
その向かいの、すこし細い上り坂の道に入っていった。豊臣秀吉が、伏見城と大坂城をつなぐためにつくった「京街道」の一部で、1594(文禄3)にできたので「文禄堤」とよばれている淀川の堤防の跡である。もともと、もっと長いものだったが、このあたりだけが残っているという。
やや曲がりくねった「街道風」の道の両側には、いかにもそれらしい古い建物も散見する。文禄堤に上ったところに「川東」という「ちょうちん屋」があった。いまや珍しい商売である。我々が通りかかると、ちょうど店の主人が表に出てきた。外に乾そうとしていたのか、両腕にできたばかりの提灯を嵌めている。ひと懐っこい西俣さんが声をかけると、主人もそれに応じて、いろんな話をしてくれた。
「うちの建物は江戸時代のものです。昔はこの辺は宿場町で、大名が泊まる〈本陣〉もそこにあり、宿屋が何十軒とありました」
屋根の上には、魔除けの「鍾馗さん」が飾られていた。
他にも、昔のままの建物を利用したいろんな店があった。「中華料理店」とか「写真館」とか。
「あの二階の窓を見てください。縦に細かい格子が入っています。〈虫籠窓(むしこまど)〉と云います。街道ですから、大名行列も通ります。〈下に~、下に~〉と云ってるのに、上から眺めるなんて、とんでもないことですから、あんな風に、細い細い格子にしてあるんですね。それを真似したんか、向かいのマンションの廊下も、ほれ、あんな風な模様つけてます。意味、判ってんのかな?」
途中、右の細い道を通って、堤を降りて下の道路に出た。石段を降りたところが、小さい石垣になっている。
「ここが〈船頭ヶ浜〉といって、舟の荷下ろしなどをするところでした。ということは、この道路のところは淀川だったわけで、明治の〈改修〉まで、そうだったんですね」
すぐ近くに、京阪電車の守口駅があって、そこで解散となった。そして、「有志」の面々は打ち上げへ。今日の会場は近くのマンションの1階にある「みすじ」という店で、「民謡酒場」と銘打つだけに、小さいところだったが、奥のほうに舞台があって、ナマの三味線・太鼓・尺八の伴奏で、日本各地の民謡が披露されていた。そして、お酒がまわってくるにつれて、舞台は客に開放され、次々とマイクを持って、いろんな民謡が飛び出す、あの大正の「うるま御殿」のような雰囲気に。5時半から7時まで、けっこう呑んだのに、ひとり2000円と信じられない代金だった。
最後に、ちょっと悲しい「後日談」。
あの「江戸川乱歩が住んでいた家」はいつの間にか取り壊されて、普通の住宅になっていた。近くに「江戸川乱歩居住跡」という標識は残っているが、あの「説明板」は見当たらない。2012年4月5日の毎日新聞『わが町にも歴史あり(246)』によれば、2010年に解体されたとのこと。
さらに、「大塩書院」だった白井家の屋敷もなくなって、「マクドナルド」のハンバーガー店になっていた。2011年のことだそうである。ただ、その横に、「大塩書院の跡」という大きな石碑と、写真入りの「説明板」が立てられているのが救いかもしれないが。
いずれも歴史的に由緒ある、地域の「宝物」である。とくに「乱歩の旧宅」は、行政がまるごと買い取って改造し、大野さんが残した資料などを展示した「江戸川乱歩記念館」とでもすれば、ちょっとした「観光名所」になったかもしれない。守口市にそのようなセンスと度量がなかったことが悔やまれる。
そして、あの「川東ちょうちん屋」の江戸時代の建物も消えて、近代風の住宅が建っていた。
「諸行無常」とは云うけれど、なんとも寂しいかぎりである。
(以下次号)