田淵さん追悼・田淵


四度目の偶然


田淵 和子


 この度は追悼号に寄稿してくださってありがとうございました。故人も泉下で喜んでいることと思います。また、皆さま方の過分なお言葉に恐縮していることでしょう。


 ここで書くのは恥ずかしいのですが、学生時代、母が四柱推命を勉強している友人に、私の運勢を占ってもらったことがありました。お友だちがおっしゃるには、私には天乙貴人という最強の吉星が二つもあり、良縁に恵まれるとのことでした。その後占いなんてまったく当てにならないと思うことも多々ありましたが、故人と暮らした37年間を振り返ると、良縁に恵まれるというのは当たっていたと思います。


 初めて夫を知ったのは大学2回生、フランス語の購読の先生としてでした。前期のテキストは、教科書版ジャック・プレヴェールの『お利口さんでない子どものためのお話』で、後期はアヌイの『アンティゴーヌ』でした。第二外国語の単位を取り終えたわけですが、高校時代からフランス語を勉強している友人が二人もいて、続けてはどうかと文法を担当されたK先生からお勧めがありました。友だちへの義理もあり、研究室で紅茶とクッキー付きだと聞かされて授業を受けることにしました。3回生のときK先生がご結婚され、出産のため4回生の4月1ヶ月だけは夫が代行すると聞かされました。ところが、ご出産が遅れ前期すべてを彼が代行することになったのです。ジョルジュ・ランプールの『バニラの木』という難解なテキストでした。クラスは6人ほどだったので、このとき顔と名前を覚えたのでしょう。


 ここで夫との関係が切れて当然なのですが、ベルギーから帰国して間もない彼と偶然南海電鉄の難波の駅で出会いました。友人と一緒に5分ほど立ち話をしたのではなかったでしょうか。その数年後、看護学校で英語を担当することになり、ゼミの先生にテキストなどの相談にのってもらおうと、大学に向かう電車で夫と乗り合わせました。何の話をしたのか覚えていませんが、プライベートなことは話しませんでした。彼はお弁当を買いに、私はスクールバスに乗るため、駅で別れました。偶然は重なり、私が修士課程に入学して大学の最寄り駅に降りたとき、2車線向こうのプラットホームにいる夫に気がつきました。向こうも気づき、あの大きなよく通る声で、「お元気ですか」と尋ねてきました。なんと答えたのか忘れましたが、彼の周りにいる乗客がいっせいに私を見るものですから、恥ずかしくてそそくさと改札口に向かったのです。


 こうした3回の偶然の後、約束した上で会うことになります。友だちの一人が音楽大学に復学して、アポリネールの詩に楽曲をつけたプーランクについて卒論を書いているところでした。彼女がアポリネールの代表的な参考文献を知りたい、できれば本を借りたいのでフランス語の先生に聞いてほしいと依頼してきたのです。K先生に電話すると、アポリネールなら田淵さんが専門で、あなたのことは覚えていると思うから、直接頼みなさいと言われました。電話をかけると、4~5冊あるので、郵送より手渡しましょうと会うことになったのです。そのとき、今はどうしているのと尋ねられ、修士論文を英語に直しているところで、通ればなんとか修了しますと答えると、修了したらお祝いにフランス料理のランチをご馳走しようと申しました。このランチが一緒に暮らすきっかけになったのだと思います。


 私たちはよく話す夫婦でした。お互いが自宅を離れるときはどちらも電話をかけました。「もしもし、僕だけど...」と始まり、他愛のない話でも深夜に及ぶこともたびたびでした。名前をこちらの漢字に変えた方がぴったりだと、何度も思ったものです。


 とはいえ、長年一緒に暮らしたのですから、お互いに不満を抱かないはずはありません。最大の不満は、夫が家事や雑事を一切顧みないことでした。しかし、この不満は仕方がないと思えるような偶然がまたあったのです。5月末に気道確保のため気管切開の手術を受けたのですが、執刀医のM先生がシュルレアリスムの絵がお好きだとわかりました。絵を見るためにフランスまで足を運ばれたそうです。夫の名前に見覚えがあると検索した結果、シュルレアリスムの専門家だとお知りになり、夫におっしゃったと聞きました。癌の手術までの3週間、毎日のように病室に来てくださったM先生にシュルレアリスムについて話ができたことは幸運としか言いようがありません。今となっては、学校行政はともかく、夫が研究だけに専念してきた結果なのだと思われます。『百万遍』に書き続けることができなくなったのは無念だったと思いますが、このような偶然に恵まれて、さぞ嬉しかったことでしょう。寄稿してくださった皆さまにお礼を申し上げたいのはもちろんですが、この奇跡のような僥倖をお伝えしたくて、福島さんに書かせてくださいとお願いしました。


 さらに申し添えると、高齢者の運転免許更新の検査のとき、夫が静体視力より動体視力が優っていることがわかりました。検査官がイチローもそうですがこんな人は非常に珍しいと言ったそうです。「僕はイチローと一緒だ」と機嫌よく帰ってきました。バッティングセンターで速い球が打てたのは動体視力の方がよかったからでしょう。


 運動嫌いはご指摘通りですが、2020年の緊急事態宣言が出るまでは、最後の方は杖をついていたとはいえ、自宅とアトリエの往復で1km弱を毎日歩いていました。大学に行く時は夕食後に、そうでない時は毎食後3kmほど歩いたことになります。ある時重そうな鞄を持っていたので、警官に職務質問されたとか。ゴミ出しの午前中に間に合わないので、自宅で出そうと日が改まった12時過ぎに大きなゴミ袋を持って歩いていたら、不審に思ったのかパトカーが徐行してきたと聞きました。なんの運動もしてこなかった割には寝たきりにもならずにこれたのは、この往復のお陰に違いありません。


 夫は、美術に関する感覚は5~6代まで遡ることができる宮大工の家系のDNAだと思っていました。棟梁として曽祖父は和気神社の本殿を建立したり、牛窓の龍頭の山車を制作しています。我が家には高曽祖父か曽祖父の天保9年と書かれた龍が彫られた硯箱が残っています。義父が宮大工ではなく歯科医になったのは、両親が早逝した後に父方の祖父も亡くなったので、歯科医だった母方の叔父の下で暮らしたからです。


 義父は能楽の笛方としてはセミプロだったとかで、カラスの鳴かない日はあっても田淵の家から笛が聞こえない日はないと、ご近所では言われていたそうです。義母は料理が好きで同居する80過ぎまで毎月バナナのパウンドケーキを送ってくれました。脇目も振らずに好きなことに熱中する性質は両親からの遺伝だったのでしょう。一人息子だったので、マザコンと思われるのが嫌だったらしく、故意に義母と距離をとっていましたが、義母には何をしても許してもらえると思っていたようです。


 幼稚園に入るまでは虚弱体質で毎月熱を出していたと義母が教えてくれました。その後は丈夫になったそうですが、小学校の高学年になってから月に一度は学校を休み、お腹が痛いと言っては食べさせてもらえないので、頭が痛いと言って貸本屋さんから講談本を何冊も借りて読んでいたと夫から聞きました。高倉健のファンだったのはこの延長線上なのでしょう。


 高校1年のとき中耳炎を拗らせて手術しています。右の耳は全く聞こえず片耳だけの聴力でした。手術のため出席日数が足りなくて留年し、次の年も留年となり、3回目でようやく卒業したそうです。高校時代の5年間英語と数学の塾に行っていました。数学は解答するまでは帰してもらえず、英語は辞書しか見ることができなかったとのことです。お二人の先生はその後大学の教師になられたとか。お二人の先生に徹底的に鍛えられたのがよかったと何度も述懐していました。


 趣味だった競馬の予想は春休みすべてを費やして考え出したということです。万馬券を何回か当てていますが、払戻金で西川祐子先生の裁判を支援した方々に今はない大阪のホテルプラザのフランス料理に招待しています。今でもそれに言及される方がおられるのは、よほど印象深かったのでしょう。


 味覚が鋭いのも両親からの遺伝だと思われます。義父は大食漢で、ままかり寿司を一度に40数個食べたというのが語り草になっています。夫も同じでした。また、高校時代までマヨネーズをはじめ義母の手作りのものばかり食べていたからでしょうか、添加物が入っている物はほとんど食べませんでした。カップラーメンは保存料は入ってないようですが、食べたことはありません。昼食後に自宅に帰るのが辛くなってからは、母娘三人でやっているパン屋さんがお気に入りでした。田淵さんは、試作品の感想をおっしゃってくださるウチの最高顧問で、母娘で声をあげて泣きましたと、死亡を伝えた後で言っておられました。アトリエのある道路の一筋西に商店街があり、その中の魚屋さんと肉屋さんが贔屓でした。店主はどちらも夫と同い年で、とくに魚屋さんとは馬が合いました。仕入れた2キロの蜆の身が入っているかどうか、2枚の貝を叩いた音で確認したそうです。職人気質が好きだったのです。店主が店を片付けて帰宅途中に、アトリエに向かう夫と会うこともしばしばで、「大将はあんなに遅くから仕事しはるんでっか」と、「あんなに遅くまで働いているのか」と、どちらも感心し合っていました。


 追悼文で触れていただいた部分でわかっているところを追加しました。ですが、プライベートについては親しくしていただいた方々にも詳しくは話さなかったようです。こんなことまで書かなくてよかったのにと思っていることでしょうから、このあたりで切り上げようと思います。


 両親ともに一人っ子で、夫も一人っ子です。親戚と言える人はほとんどおりません。お付き合いくださった方々がその役目を果たしてくださったのだと思います。皆さま方のご交誼、故人に代わり厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。



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