モンタペルティ現象1-2


「モンタペルティ現象」試論

米 山 喜 晟



第二章 二つのモデルから見た「モンタペルティ現象」発生の条件



 時代も歴史的背景も全く異なる中世フィレンツェと現代日本に生じた現象ではあるが、細部を無視して考察すると、意外に共通した要素が少なくないように思われる。それらの内の特に重要だと思われる条件を以下に列挙してみよう。

 まず基本的な条件として、この現象が発生する直前まで、二つの国は好戦的な軍事国家で、しかも敗戦までに長年にわたって戦っていたという事実が認められる。中世フィレンツェにおける対外戦争の最古の記録は、すぐとなりの丘陵地帯に位置するフィエーゾレとの戦いである。この戦いは、フィエーゾレが由緒あるエトルリア起源の都市だったので、古代ローマにとってのエトルリア都市ウェイイ攻略にも似た戦いだが、フィエーゾレがローマに対するウェイイよりもはるかにフィレンツェに近いので、というよりもむしろ古くから存在したフィエーゾレのふもとに、フィレンツェが後から割り込む形で人為的に建設されたために双方の勢力圏が重なりすぎていて、存亡をかけた戦いとならざるを得なかった。フィレンツェはこの戦いに勝ってフィエーゾレを併合してしまったので、司教区を二つ含む広大な領域を有するコムーネとなったが、併合したフィエーゾレ領の境界線をめぐる近隣のコムーネとの紛争が絶えず、とりわけ肥沃なキアンティ地方をめぐって南方のシエナと戦いつづけることになった。たとえばダーヴットゾーンの『フィレンツェ史』にはその経過が延々と記されている。こうした経緯から、この時期のフィレンツェは必然的に好戦的なコムーネとならざるをえなかったと言える。またヴィッラーニの『年代記』には、それ以外の周辺の領主たちや小都市との戦争も細々と記されており、さらにそれまでは友好的だった富裕な港湾都市ピサとの間で、ローマの枢機卿が二重に約束した子犬を巡って戦争が勃発したという奇妙な記述が見られるので、シエナ以外の相手とも頻繁に戦わねばならなかったことが分かる。傭兵制度がそれほど発達しておらず、原則として市民皆兵制のコムーネ同士が戦っていたこの当時のことなので、領域が広くて多数の兵士を徴募し得るという利点によって、フィレンツェはトスカーナにおける軍事大国であった。

① Y. Renouard,  Les villes d’Italie fin du Xe siecle au but du XIVe siecle, Tome 2,   Paris 1969,  p.269.  ただしルネサンス時代の人文学者の中には、帝政の先駆者カエサルによる創建を嫌い、スラの時代にさかのぼらせようとした学者もいた。マキアヴェッリなどは、山上のフィエーゾレが不便なので、平地に自然発生的に現れた市場がやがて都市に発展したと説明している。


R. Davidsohn,  Storia di Firenze,  Firenze,  1973、 Vol.I,  Cap.Ⅸ、 pp. 636 sgg.


G.ヴィッラーニ 『年代記』  第6巻第3章。



 それでも神聖ローマ皇帝フェデリーコ二世が健在だった時代には、フィレンツェは皇帝権による制約に服していたらしい。前章でもすでに記したが、フィレンツェは皇帝権に積極的に抵抗した都市ではなかった。1237年11月27日にコルテノーヴァでフェデリーコ相手に完敗を喫した後も、ロンバルディーア同盟の主要都市ミラノ、ブレッシャ、アレッサンドリアは抵抗を続けたし、45年のリヨン公会議で皇帝が罷免され、全イタリアに反フェデリーコの機運が高まった際、47年に公然とフェデリーコに反旗を翻したのはパルマであった。翌48年2月、フェデリーコが反抗したパルマを包囲していた際、油断して鷹狩に興じている最中にパルマ市民の捨身の急襲を受けてまさかの惨敗を喫した後でさえ、48年の内紛でフィレンツェから追放されたのはグェルフィ党の方だった。それは、皇帝が息子のフエデリーコ・ダンティオキアを代官として援軍とともに派遣したためだとされるが、ギベッリーニ党の援軍が周辺部を自由に往来していること自体、当時まだフェデリーコの権威に服していた証拠だと見なすことができる。ところが翌49年5月に皇帝の息子エンツォの率いるモデナとギベッリーニ党の軍隊がフォッサルタの戦いでボローニャとグェルフィ党の軍隊に敗れ、エンツォはボローニャの捕虜となる。こうしてイタリア中部における皇帝の権威が失墜した50年の9月、フィレンツェから追放されていたグェルフィ党がフィレンツェ郊外のフィリネでギベッリーニ党を破ったためにギベッリーニ党の権威が失墜し、翌10月に貴族から主導権を奪い取った平民たちがプリーモ・ポポロ政権を樹立して追放中のグェルフィ党を呼び戻した。そしてその後の数年間は、ギベッリーニ党も追放されることはなく、ポポロの政権のもとでグェルフィ党と共存していた。フェデリーコが死去したのが50年12月13日のことだから、フィレンツェはフェデリーコの権威が消滅する寸前に、ようやく皇帝権の軛から脱したわけである。

④ 同上、第33章。ただしグェルフィ党が追放された時点でかなり激しい戦闘が行われたことも事実で、フェデリーコ二世の権威が低下していたことは明らかである。


⑤ 同上、第38章、第39章。ただしヴィッラーニはプリーモ・ポポロの成立を 1251年7月のことだと記している。それだとフェデリーコの死後となる。いずれにしてもすでにフェデリーコの権威が失墜した後のことである。



 フェデリーコの死後、その長子コッラード(コンラート)はドイツにいてなかなかイタリア統治に着手せず、ようやく南下したがほどなく死去(54年)、その後を腹違いの弟マンフレーディが継いだ。こうしてイタリアでは、中世を通して例外的な権威を誇ったフェデリーコ二世が死に、その後数年にわたって巨大な力の空白が発生した。フィレンツェのプリーモ・ポポロ政権は、この力の空白の中で自らの権威を確立した。すでに私の著書でもくわしく紹介した通り、この政権に関するヴィッラーニの『年代記』の記述は戦争の記録が半ば以上を占めている。私たちはポポロ、すなわち人民の政権であれば当然平和を愛好するものだという錯覚を抱きがちであるが、多くの革命政府の現実が対外戦争に満ちているのと同様、プリーモ・ポポロ政権は、フィレンツェ共和国の歴史全体を通して見ても類い希な程好戦的な政権であった。それもメディチ政権を追放した共和制末期の政権のように、外からの脅威と戦う防衛戦争を強いられていたわけではなく、大半は自ら外に討って出る戦争に終始したのである。この政権のために弁護するならば、トスカーナにはピサとシエナというギベッリーニ党に近い有力コムーネが存在していて、常に外部のギベッリーニ党勢力と結託してことを起こそうとしていたことや、フィレンツェの周辺にポポロ政権の理念と敵対する封建領主が残っていたことなどが考えられるが、ともかくプリーモ・ポポロ政権の下で、それ以前とは一変して対外戦争が相次いだことは確かである。立て前として職業軍人に頼らず市民全員が戦うというコムーネ同士の戦争には、極寒の冬季などには戦いを避けるという暗黙のルールがあったが、プリーモ・ポポロ政権はそうしたルールをも無視して戦い続け、わずかな例外を除くと連戦連勝の状態が続いた。

⑥  第一章注① の私の著書の第一章第三節参照。


⑦  R. Davidsohn, op.cit., Vol.Ⅱ Ⅱ,  Par.I, Cap.VI,  p.555.



 フィレンツェがこうした好戦的コムーネと化した最大の原因は、トスカーナとその周辺にフィレンツェの軍事行動に制約を加えるだけの強国が存在せず、プリーモ・ポポロ政権が戦えば勝てるという状況に置かれていたことであった。この政権の記録を検討しても、彼らの戦争の明確な目標は把握できない。最も顕著に感じられるのは、まだ根強く残る皇帝権の脅威に備えてその与党であるギベッリーニ党の勢力を抑制するという方針で、そのためにプリーモ政権末期にはギベッリーニ党の人々が亡命するのだが、アレッツォではギベッリーニ党を追放したグェルフィ党政権と戦ってギベッリーニ党を呼び戻させるなど、その方針と矛盾した行動も認められる。同様に領地拡大や封建領主との戦い、あるいは経済的動機の戦いにも一貫性は認められず、明確な方針は把握し難い。フィレンツェ市民は1254年を「勝利の年」と呼んで、ポデスタ館の西側の壁に碑銘を嵌め込み、フィレンツェの富、勝利、幸運、力を称え、フィレンツェには海と陸、すなわち全世界を支配する権利があることを主張し、古代ローマのように正義と法によって統治される人民に対する永遠の勝利を予言したが、それはまさに力の空白の中で具体的目標を喪失したまま軍事行動を続けているフィレンツェ市民の心的状況を象徴する行為であった。こうした全能感に止めを刺したのが、プリーモ・ポポロ政権成立から10年後の1260年9月4日に起きたモンタペルティの敗戦であった。敗戦以後のフィレンツェ市民は紆余曲折を経て、経済大国に変貌する。フィレンツェ市民が自らのそうした変化を自覚していたことは、モンタペルティ戦争当時シエナの指導者だったプロヴェンツアーノ・サルヴァーニに関するダンテの『煉獄篇』の中の次の詩句によっても明らかである。


ほんの少し私の前で歩いているこの男は、 

その名がトスカーナ中に鳴り響いていたものだが、 

今ではシエナでもやっとささやかれている程度だ。

今フィレンツェ人がちょうど貪欲の狂気に憑かれているように、

当時同じ彼らが取り憑かれていた高慢の狂気が打ち砕かれた時、 

かのシエナの首領だったというのに⑨ 。


⑧  J. M. Najemy, op.cit., p.70.


⑨  Dante Alighieri, Purgatorio, XI, 109-114.



 1945年の敗戦まで、日本が好戦的な軍事国家であり続けたことは、今更証明する必要はあるまい。日本のために弁護するならば、当時は植民地支配が世界の常識であり、日本を含めいかなる強国も、植民地を求めて狂奔していたという厳然たる事実がある。日本もそうした植民地獲得競争に巻き込まれていて、敗戦までの15年とも8年とも言われる歳月を戦い続けていたのである。そうした植民地獲得競争はすでに数世紀来世界の常識であり、植民地だった地域の人民にとっては許し難い事実だが、植民地の所有国は敗北するか、それに準じた何らかの困難が生じない限り、自らの植民地を自発的に解放しようとはしなかった。主に18世紀から19世紀にかけて南北アメリカで、また20世紀半ば以来アジア・アフリカで生じた一連の植民地からの解放は、植民地の所有国がさまざまな事情によって植民地経営が困難になり、維持し難くなったために植民地を放棄せざるをえなくなったために実現したというのが実情である。20世紀のアジアの場合、その大半が西欧諸国だった植民地所有国のアジアにおける植民地経営を困難にした最大の原因は、日本が西欧諸国にまじって植民地獲得竸争に参加したことであった。したがって日本は、自ら竸争に加わることで結果的にアジアの大半を植民地的状況から解放する原動力となったのである。

 実は日本が好戦的な軍事大国になったのも、長年にわたる鎖国状態から無理やり国際社会に引き摺りこまれた時、アジアの多くの地域が西欧諸国の植民地と化していて、軍事的に弱体では独立を維持できなかったという理由によるものである。そうした状況は、日本人に自国の存亡に関して激しい危機感を抱かせ、世界でも類い稀な軍事を重んじる国家を形成させた。そうした体制のおかげで何度かの戦争に勝利して大国の仲間入りした日本は、当時の世界の常識にしたがって、当然植民地と勢力圏の獲得競争に邁進した。日本は植民地獲得競争に遅れて参加したために、自国の周辺部にしか手が出せず、過去には文化的な恩恵を受けてきた周辺諸国を植民地にしたり将来植民地または勢力圏に加えるために侵入して戦ったためにそれらの国々の住民の恨みを買うことになった。

 さらに日本を混迷に導いたのは、ヨーロッパを主戦場とした第一次世界大戦の勃発である。この戦いの途中で、一度は戦争に勝ったとはいえ、当時の日本にとって最大の脅威の一つだったロシア帝国が崩壊すると、もう一つのアジアの大国である中国も混乱のさ中にあったので、アジアには巨大な力の空白が出現したかに見えた。航空機が未発達の時代には、イギリスやアメリカとは今よりも距離感が大きかった。第一次大戦後、ヨーロッパ諸国ではまだ第一次大戦の傷が癒えておらず,アメリカの評価もまだ定まらず、しかもそのアメリカが1929年の経済恐慌で権威を失墜させるに至っては、こうした力の空白は過大に感じられ、そのために生じる万能感の影響も強力だった。特に日本の軍人に与えた影響は大きく、日本がアジア地域で武力を行使しても、それを制止できる強国が近く存在していないという自信が軍人たちを鼓舞し、文民政府による統制を不可能にした。軍人たちは一種の万能感に浮かされて戦い続け、満州国を建設しただけではなく、戦線を拡大させて中国に攻めこんだ。もちろんこうした独断的な行動は国際社会の反発を招き、日本は国際連盟から脱退する。具体的な目標を持たない戦争は、歯止めを欠いていて拡大の一途をたどり、出口のない膠着状態に陥ってしまう。中国は一時期様々な勢力に分裂していたが、日本に対抗するために団結し始め、ソ連やアメリカなどの国際的支援を受けて、日本軍に対する抵抗を強化していった

⑩  自分は昭和史の門外漢ではあるが、これまでも興味を持って自分なりの昭和史を構成して来た。以上の要約は、近年の概説書、たとえば有馬学『帝国の昭和』 東京 2002 、北原敦編『イタリア史』 東京 2008、木村鯖二編『ドイツ史』 東京 2008、その他を参照して、そこに記された史実と大きなへだたりがないことを確かめながら、自分の見解をまとめたものである。 



 第一次世界大戦後、戦後に結成された国際連盟が中心となって世界秩序を維持していたが、ロシア帝国のあとに出現した共産主義政権がソヴィエト連邦を形成してマルクス・レーニン主義に基づく理想社会の幻想を世界中に振り撒き、イタリアとドイツにファシズム政権が出現して自民族の栄光を訴えるなど、左右両翼から当時の世界秩序を揺るがした。国際的に孤立し始めていた日本は、国内に根強く存在した反対意見を押さえて、ヨーロッパのファシズム諸国に接近し、日独防共協定から日独伊三国同盟にまで発展させた。もともと1861年に統一したイタリア王国と1871年に統一を完成したドイツ帝国は、1868年に明治維新を実現した日本帝国同様近代国家としての出発が遅く、植民地獲得競争に遅れを取ったという共通の不利な条件を抱えていたことが、三国の結束の基盤となった。ドイツとイタリアはそれ以前に日本ほど連続して戦っていたわけではないが、22年に成立したムッソリーニのファシズム政権も、33年に誕生したヒトラーのナチズム政権も、好戦的な愛国主義を標榜し、イタリアのエチオピアやリビア侵略や両国によるスペイン内乱への干渉など、進んで戦いの機会を求めた。いずれの国々においても、日本と同様反戦を表明できる勢力は暴力的に排除されていた。やがてヨーロッパでドイツが暴走し始めて第二次世界大戦が勃発し、ドイツは東欧諸国を侵略しフランスを占領してイギリス軍を一度は大陸から駆逐した。その勢いを見てバルカン半島とギリシャでの覇権を望んでいたイタリアも参戦した。さらにドイツは矛先をソ連に向け、破竹の勢いで攻め込んだ。もともと国土が狭く資源の乏しい日本は、中国戦線に打開のめどが立たないまま、中国を支援する国々が結束して日本に対する資源の供給を停止することを恐れる余り、ドイツがソ連に易々と進攻するのを目の当りにして、その実力に望みを託し、日本の最大の抑圧者と見なしていた米英およびその同盟国に対して開戦した。アメリカ相手の戦争で、日本は開戦と同時に目覚ましい戦果を上げたが、半年余りでその快進撃は止まり、均衡状態も長くは続かず敗戦へと転落した

⑪   同上。河野康子『戦後と高度成長の終焉』 東京 2002、 その他。



 以上の概観によって、ヨーロッパ中世と現代世界という大いに異なった環境にあるとはいえ、フィレンツェと日本という二つの国の敗戦には、案外数々の共通点が認められる。まず、いずれも周辺諸国と比較してけっして弱小な存在ではなかったこと、そしてなんらかの事情で周囲の諸国よりも遅れてスタートしていて、そのことを強く自覚していたこと、その結果一時的に軍事行動に傾斜していて、その他には選択肢がないかのごとく思いこんでいたこと、その結果独善的な行動に走り、フィレンツェは敗戦当時、当時の最も権威ある国際機関だった教皇庁から破門されていたし、日本は国際連盟から脱退していたこと、また軍国主義的方針は一時的には成功したかに見え、たまたま発生した力の空白の中で全能感に陥り、具体的な目標を持たずに戦線拡大に突っ走ったたこと、フィレンツェは古代ローマ帝国の復活、日本は「八紘一宇」による大東亜共栄圏の建設などという誇大妄想的な夢想を掲げねばならなかったという点で二つの国はそっくりの迷路にはまりこんでいたと見なし得る。こうした軍国主義から経済活動に専念する平和国家への転換こそ、モンタペルティ現象が生じる最も重要な原因だったことを考えると、この現象は決して不可解なものではなく、自然な成り行きで発生したことが納得できるはずである。

⑫  いずれも力の空白を利用する意欲に駆り立てられている。規模は大いに異なるが、プリーモ・ポポロらのモンタペルティ戦争を推進した過程と、日本の軍人たちが中国戦線を拡大した過程は似ている。



 さらにフィレンツェと日本に共通しているもうーつの条件は、敗戦後に発生した国際状況が両国の経済的、文化的発展にとって有利に作用したということである。この点に関しては、フィレンツェと日本とではいくらか事情が異なっている。すなわちフィレンツェの場合は、敗戦そのものではなく、それ以後にたまたま発生した国際的状況の変化が影響しているので、必然的というよりも幸運によるところが大きい。しかし長期的にはやはり類似した条件が生じたと考えることができる。フィレンツェは敗戦後の6年間ギベッリーニ党の支配下におかれていた。ナポリのマンフレーディ王を首領とする当時のイタリアのギベッリーニ党の傘下では、フィレンツェの経済的飛躍など望むべくもなかった。『神曲』が伝えるところによると、ギベッリーニ党の会議でフィレンツェそのものの破壊が決議されそうになった時、フィレンツェではモンタペルティ戦争の首謀者と伝えられているファリナータ・デッリ・ウベルティの強硬な反対で辛うじて破壊を免れたことになっている。さらにプリーモ・ポポロの戦力を恐れるギベッリーニ党と周辺の領主らによって、徹底した武装解除が行われ、またギベッリーニ党の防御のための土木事業や亡命したグェルフィ党員の家屋と財産の没収なども行われた。したがってフィレンツェは、敗戦がそのまま経済状況を好転させる条件とはならなかった。

⑬  Dante Alighieri, Inferno, X, 91-3.  ヴィッラーニの『年代記』第6巻第81章にはさらにくわしくその模様が記されている。



 そうした状況を一変させたのは、1266年2月26日、教皇庁の勧めでイタリア十字軍を率いて南下したフランス王子シャルル・ダンジューが、カンパーニャ地方のベネヴェントでマンフレーディ王を倒して、新たにアンジュー王朝を開いたことであった。フィレンツェの繁栄はこの戦いにフィレンツェが協力したことへの論功行賞のごとく説明されることがあるが、亡命中のグェルフィ党員や金融業者などは確実に協力しているものの、当時のフィレンツェのコムーネそのものはギベッリーニ党の支配下にあり、おまけにまだ破門を解除されていなかったのだから、コムーネ自体としては傍観していたはずである。シャルル・ダンジューの財政支援に関しても、たとえばナジェミーに代表される通説が記しているほど、フィレンツェの富が貢献したとは考えられない。シャルル・ダンジューの遠征の費用の半分を調達して、そのメイン・バンクとなったのはシエナのボンシニョーリ銀行であり、トスカーナには他にもシャルルに協力した有力銀行がいくつもあった。もしもフィレンツェから亡命中の銀行家にそれだけの力があれば、ウルバヌス四世が破門の脅しをかけてまでギベッリーニ党の都市シエナの銀行家に協力を命じる必要はなかったはずである。ナジェミーは なぜかジョルダンやレオナールやヴェールなど、フランス人研究者のすぐれた研究を一切無視して、ほとんど当時の年代記類とダーヴットゾーン、およびラヴェッジらの共同研究やホームズに代表される英語圏の研究者の成果だけを利用してこの部分を書いている。しかしフランス出身のアンジュー王朝に関しては、一時期おそらくフランス人研究者の研究が最も進んでいたのであり、しかも第二次世界大戦の末期にイタリアの裏切りを怒ったドイツ軍がナポリのアンジュー王朝関係の資料を焼却したため、過去のその研究水準に戻ることは不可能であることを考えると、やはりそれらの研究成果やテルリッツィの資料集⑱ などを無視しては実態を把握することは不可能だと言わざるを得ない。さらにシエナを中心とする当時のトスカーナ全体の状況をほとんど無視して、フィレンツェの状況だけをとらえようとしても、極めて不十分な結果しか出てこない。ナジェミーの『フローレンス史』が学問的成果を丹念に取り入れたすぐれた労作であるだけにこのあたりの記述が従来の通説をかなり不完全な形でまとめているだけに過ぎないことが惜しまれる。おそらくそれは、ナジェミーがすでに引用した通りこの時代のフィレンツェにおける経済・文化史的発展の重要性を認めておきながら、この時代のフィレンツェに生じていた変化の特異性を十分究明しようとしなかったためではないかと思われる。

⑭  たとえば J. M. Najemy, op.cit., pp.72-6 の「アンジュー家との同盟」の節ではそうした事実が強調されている。


⑮ ナジェミーの記述だけを読むと、フィレンツェの銀行家たちがシャルル・ ダンジューの財政支援を一手に引き受けたような印象を受けるが、以下に示すとおり、その主役はシエナの銀行家であって、フィレンツェの銀行家はあくまで補助的な役割を演じていただけであった。


⑯  このあたりの事情は、 E.Jordan, LES ORIGINES DE LA DOMINATION ANGEVINES EN ITALIE,  New York 1960 (Paris 1909)などにくわしい。ウルバヌス四世とシエナの銀行家の交渉については、同書の338ページ以下で記されていて、ウルバヌスがシエナをトスカーナの諸悪の根源だと非難し、その銀行家に教皇庁に協力するか否かの二者択一を突き付けた結果、1262年12月初頭に銀行家のシエナからの大量脱出が発生し、この時シエナを去った金融業者が26家に上り、それまでシエナに存在しなかったグェルフィ党を結成したとされている。もしもフィレンツェの銀行家たちに十分な力があれば、何もわざわざ当時ギベッリーニ党の牙城となっていたシエナの銀行家に対して、このような働きかけをする必要はなかったはずだし、シエナの銀行家もただ脅しだけで行動したはずはない。その冒険と犠牲に値する利益が見込まれたから取り引きが成立したに違いないのである。こうした大きな取り引きが成立していた以上、フィレンツェの金融業者にはそのおこぼれしか回ってこなかったと考えるべきではないだろうか。ボンシニョーリ銀行が全事業の約半分の借款を担当したと記しているのはジョルダンの前掲書の545ページであり、テルリッツィの資料集の文書を見ても、この銀行がシャルル・ダンジューから別格の扱いを受けていたことを、私は自分の著書の第三章第二節で論証した。同銀行の活躍を証言しているのはフランス人の学者だけではなく、スティーブン・ランシマンの名著「シチリア晩祷事件」の見方に修正を試みている N. Housley, THE ITALIAN CRUSADES  The Papal-Angevin Alliance and the Crusades against Christian Lay Powers 1254-1343,  Oxford 1982 の227 ページなどでも強調されている事実である。ランシマンがシャルル・ダンジューの活動の財政面にはあまり触れていないのは、すでにジョルダンらの詳細な研究が存在したためだが、ハウスリーはその面を洗い直している。しかし第二次大戦末期のドイツ軍の破壊で、この面でジョルダンの成果を越えることはできなかったようである。いずれにせよフィレンツェの繁栄を安易に論功行賞に結びつけてはならないことは、私がこれまで論じてきたことから明らかである。


⑰  E. G. Léonard,  GLI ANGIOINI DI NAPOLI,  tr,  R Liguori, Varese 1967 (Paris 1954) G. Yver,  LE COMMERCE & MARCHANDS DANS L’ITALIE MERIDIONALE AU XⅢe & XIVe SIÈCLE,  Paris 1903.


⑱  S.Terlizzi,  DOCUMENTI DELLE RELAZIONI TRA CALRO D’ANGIÒ E LA TOSCANA,  Firenze 1950.



 ベネヴェント戦争でギベッリーニ党の盟主マンフレーディ王が倒れた後でも、プリーモ・ポポロ政権やグェルフィ党の亡命者がフィレンツェに直ちに帰国できたわけではない。彼らの帰国はベネヴェント戦争から8カ月半後の11月11日に、ギベッリーニ党のための増税に憤慨してポポロが蜂起した結果だったとされている。またモンタペルティ戦争でシエナにはまだ多くの捕虜が残されていたにもかかわらず、それを取り戻すためのシエナに対する報復戦争、コッレの戦いが行われたのは、それからさらに2年半後の1269年6月17日のことで、それはシャルル王の部下のフランス人ジャン・ブリトーが率いるフランス軍とトスカーナのグェルフィ党員によって戦われ、遅刻したためにポポロの軍隊の出番はなかったという。ここで注目されるのは、捕虜の多くがポポロ階層であったにもかかわらず、この時までにかつてあれほど勇猛を誇った軍隊を維持していたポポロ階層からこうした報復戦争が全く発案されなかった、という事実である。ギベッリーニ党支配の時代に行われたプリーモ・ポポロの軍隊の徹底した武装解除もその一因と見なし得るが、ギベッリーニ党員が追放された後にはポポロ軍再建と報復戦争の動きが生じても何の不思議もないのに、そうした動きは生じず、軍事活動はもっぱらナポリ王に委ねていたのである。このような紆余曲折を経た後ではあったが、従来ギベッリーニ党の最も強力な地盤で、北部のギベッリーニ党都市の商人が食い込んでいたナポリ王国に、教皇庁がシャルル・ダンジューを送り込んでグェルフィ党化した結果、ギベッリーニ党ゆかりの都市の商人は一掃され、イタリア南部におけるフィレンツェ商人の活躍の舞台は一挙に拡大した。フィレンツェから亡命したポポロが避難した先が、フランスとその周辺だったことも、フィレンツェの商圏が北と南に拡大することに貢献した。フィウーミやサポーリによる綿密な研究が、多くの名門商人の国外進出の上限を13世紀後半だと認めていることと、モンタペルティ敗戦とそれ以後に生じたイタリア南部におけるこうした大変動とは密接な関係があることは明らかである。このように必然的とは言えないベネヴェント戦争の結果、フィレンツェは当時のイタリアにおける勝ち組の仲間入りをして、国際的に有利な立場に立つことができたのである。プリーモ・ポポロ時代に武力に頼って国際的な孤立を恐れなかたために亡国の危機を体験した結果、ギベッリーニ党を追放して誕生したグェルフィ党政権は、一転して国際関係を特に重視するコムーネに生まれ変わり、フランスとローマ教皇庁とナポリ王国とを結ぶ枢軸の一角に加わった。こうした国際関係の変化こそがフィレンツェ商人の活動範囲を拡大して、その経済的大発展をもたらしたのである。

⑲  ヴィッラーニ  『年代記』 第7巻、 第14-5章。


⑳  R.Davidsohn, op.cit.,  Vol.Ⅲ, Ⅱ, P.Ⅱ、Cap., VⅢ、 pp.64sgg. 

さらにこの戦争後700年目を記念してコッレ・ディ・ヴァル・デルサのコムーネ(町)から委嘱されたバスティオーニが、その経過を記述している。C.Bastioni、 La battaglia di Colle,  Colle di Val d' Elsa 1970.


㉑  フィレンツェはこれ以後軍事的にはナポリ王国に依存し、精神的・文化的には教皇庁に依存し始める。フェデリーコ二世の死後20年にも満たないイタリアでは、ギベッリーニ党の勢力が根強いため、グェルフィ党のフィレンツェはフランス、ナポリ王国、教皇庁の三者から好意的に受け入れられたことは容易に想像し得る。



 第二次世界大戦後の日本の場合はもっと単純明快で、周知のごとく主にアメリカによって占領され、新しい憲法の下で立て前としては軍備さえ否定されて、戦前とは全く異なる体制の国家となった。防御の手段を失って一方的に収奪されても仕方がない状況であったが、すでに大戦中から世界各地で発生していた冷戦が、日本にとって戦争中に待望された神風のような効果を発揮した。占領した国家から容赦なく資源を剥奪した共産主義陣営の貧困な盟主ソ連とは異なり、自由主義陣営の盟主となった富めるアメリカは、日本を冷戦における有力なパートナーに仕立てあげようとして、民生の安定に努めた。もしも日本が共産主義陣営に組みこまれていたら、北朝鮮なみの独裁国家となり、多数の餓死者を出しながら、独裁者を賛美しつつ体制の維持のみに汲々としていた可能性すら否定できない。少なくとも戦後日本が体験した経済的、文化的発展の可能性は皆無だったであろう。マルクス・レーニン・毛沢東主義による理想国家の建設を夢見た共産主義者にとっては遺憾な事態であったが、そうした理想を持たない一般大衆は、徴兵されることもなく、日常の経済活動に専念することができる体制に順応した。冷戦とはいっても、特にアジアでは共産主義陣営と自由主義陣営の間に時折武力紛争が勃発し、地理的に近い朝鮮やベトナムで起きた戦争では軍需物資の需要が生じて、日本の経済発展を刺激して飛躍させた。日本は先進資本主義国アメリカから多くのことを学び、経済的、文化的発展にとって有利な国際的立場に立つことができた。アメリカはモデルとなったばかりか、市場まで提供してくれた。その経過に関しては異なった点があるものの、敗戦後に有利な国際的状況が発生し、それをフルに活用している点が、二つの敗戦国に共通の現象である。

㉒  たとえば 河野康子『戦後と高度成長の終焉』 東京 2002、  90ページのアメリカの懲罰的講和の再検討など。


㉓ ジョン・ダワー(三浦・高杉・田代訳)『 敗戦を抱きしめて(増補版)』 東京 2004、 はこうした状況を描いている。



 二つの国において見られる第三の大きな共通点は、敗戦が人を鍛えたことである。すでに長年にわたって続いた戦争自体に、人を鍛える作用があったことを誰も否定できないであろう。さらに終戦を迎えた後も、勝者には一応の平和が訪れるが、敗者は武装解除された後でも、生き延びるために戦い続けなければならない。そうした武器なき戦いも、戦争そのものに劣らず人を鍛えたはずである。ここで忘れてはならないことは、敗戦の重圧は敗者全員に対して必ずしも平等にかかるわけではなく、不運な状況に置かれた人々に対して極端に不公平な形でかかるという事実である。そうした極端な不運を体験した人々の多くは死ぬか再起不能の状態に陥るが、幸運にも生き延びてその体験を糧にした人々も存在した。その最も分かり易い実例として、中世フィレンツェの場合はギベッリーニ党支配から逃れた一群の亡命者、現代日本の場合は復員兵、とりわけ外地で捕虜になった後に帰国した復員兵や外地からの引き揚げ者、戦災で家屋や財産を失った罹災者などが考えられるであろう。

㉔ すでに古典的名著となった会田雄次の『アーロン収容所』には、のんびり暮らす現地の人々と対照的に、労働を強いられながらも、倉庫の物品をくすねるなどの活動に忙しい捕虜たちの忙しい日常が描かれていて、感動的ですらある。


 

 フィレンツェがこのような大きな敗戦を体験したのは未曾有のことであったが、フィレンツェから敗者が集団で亡命した例は初めてではなく、1248年にまず皇帝権の圧力の下でグェルフィ党員がフィレンツェ南東24キロの郊外の村フィリネに亡命し、58年にはプリーモ・ポポロと衝突したギベッリーニ党員が南へ50キロたらずのシエナに亡命していて、いずれの場合も帰国に成功していた。モンタペルティ敗戦で市外に逃れたプリーモ・ポポロの要人とグェルフィ党員やその家族も、当然こうした前例に倣って、当初フィレンツェと同盟してモンタペルティ戦争に加わったルッカに亡命して再起を図ろうと考えた。そうした魂胆を見抜いたギベッリーニ党は、マンフレーディの代官グイド・ノヴェッロ伯を先頭にルッカを攻撃し周辺の領土を占領し始めた。モンタペルティ戦争で多くの捕虜をシエナに捕えられていたルッカは、グイド伯と交渉し、フィレンツェの亡命者を追放することと引き換えに、捕虜の釈放と領土の返還を求めて協定が成立した。突然ドイツ人の隊長が率いるギベッリーニ軍が乗り込んで来たため、フィレンツェとその他トスカーナ都市の亡命者はあわてて逃走せねばなら なかった、というのが実情らしい。ヴィッラーニは、「亡命者の妻である多数の貴夫人が、ルッカとモドナ(ママ)の間にあるサン・ペッレグリーノ峠で子供を生んだ」 という奇妙な事実を記しているが、亡命者たちは一旦落ち着いていたルッカから急に追出されて、グェルフィ党の都市ボローニャへと逃れた。

㉕  Studio F.M.B.Bologna (1986) ,  Grande Atlante Stradale 1:300, 000 Italia.

 

㉖  ヴィッラーニ  『年代記』 第6巻第85章。



 しかし本格的な軍人であるグェルフィ党の騎士たち約400人は、間もなく活路を見いだした。騎士たちは着の身着のまま、馬や武器さえも揃わぬ状態でグェルフィ党の都市ボローニャにたどり着くが、早速隣のモデナから招かれて、グェルフィ党の傭兵として戦いに加わって勝利し、さらにレッジョからも助力を求められて勝利して、いずれの都市でも追放したギベッリーニ党員から夥しい戦利品を奪い取ってたちまち立ち直った。そしてこの地域のグェルフィ党傭兵集団として定着し、さらに1266年にはやって来たシャルル・ダンジューのイタリア十字軍に合流し、イタリアの事情に明るい利点を生かして手柄を立てた

㉗  ヴィッラーニ 『年代記』 第6巻第86章。


㉘  同 第7巻 第2章、第4章、第6章、第8章など。



 それに反して、そうした機会にめぐまれないおよそ1000人のポポロ階層の亡命者たちには、さらにきびしい試練が待っていた。彼らは成功したグェルフィ党員とたもとを分かって、フランスへ逃れたらしい。彼らがフランスでどのように生きたかが、私の最も知りたいところだが、この時代の最も信頼できる証言者であるヴィッラーニは、何故かその『年代記』の中でこの逃避行については全く触れていない。ただ先に記した亡命者がルッカから追放され、多数の貴夫人が峠で出産した記録のすぐ後の箇所で、唐突に次のように記している。


 いみじくも多くの古人たちによって、(この時の)フィレンツェのグェルフィ党員のルッカからの退去は、彼らの富の原因であったと言われている。なぜなら多くの退去したフィレンツェ人は山を越えてフランスに稼ぎに行ったが、それはそれ以前にはおこなわれていなかったことで、その後そこから彼らは莫大な富をフィレンツェに齎したからである。そして我々の間で、「必要は勇者を作る」という諺が生まれた


  ㉙ ヴィッラーニ 『年代記』 第6巻第85章。



 まさに私が言いたいことをそのまま記している証言なので、私の著書では一部をもっとくだけた形に意訳しておいたが、この訳の方が回りくどいけれども原文に忠実なはずである。なおここでは、亡命者たちはグェルフィ党員の名で一括されているが、次の章で騎士階級のグェルフィ党員が、モデナやレッジョで勝利を得て富を取り戻したことが記されているのだから、当然フランスへ流れたのは主にポポロ階層だったと見なすことができる。

 ここで注目すべきことは、この時点でフィレンツェのポポロにとってフランスへ行くことが未曾有の出来事であり、彼らにとって大変な試練だったように記されていることである。この事実は、私には大いに注目すべきことのように思われてならない。シャンパーニュの大市㉚ などを含めて考慮すると、実際にフィレンツェの商業や金融活動がそれ以前に全くフランスにおよんでいなかったかどうかについては大いに疑問の余地があるが、フィレンツェの経済にくわしいヴィッラーニがはっきりとこのように記しているという事実は、少なくともこのころまで、フィレンツェの商人や銀行家をも含めた大半の人々にとって、フランスは遠い無縁の国でしかなかったと受け取るべきではないだろうか。ところが彼らはこの時必要に迫られて難民として逃げ込んだ先で経済活動のチャンスに恵まれ、新しい市場を開拓する結果が生じたと見なすのが、最も自然な解釈ではないだろうか。そして彼らがフランスで見いだした経済活動の最大のチャンスとして考えられるのは、何と言ってもシャルル・ダンジューのイタリア十字軍のために、フランス各地の教会で十分の一税を集金してシャルルの許に届けることであった。恐らく1000人前後のフィレンツェのポポロ階層の人々が亡命しているので、もしもフィレンツェがすでに従来考えられてきたような経済大国であれば、ウルバヌス四世はギベッリーニ都市のシエナの銀行家たちを、破門で脅かしてまで強制的に協力させる必要はなかったはずである。しかしフランス人研究者ジョルダンやレオナールの研究は、この時の金融はあくまでシエナの銀行家を主体として行われたとしており、ナポリに残されていたシャルル・ダンジューとトスカーナ商人の間で交わされた文書を集めたテルリッツィの資料集㉛ にも、私の著書でも検討したとおり、その説を裏付けるような文書が見られるのである。ということは、フィレンツェの亡命者たちは現地にいる有利さを生かし、シエナ出身だが最初から協力を依頼されていた(後にナポリ王国のメイン・バンクとなる)ボンシニョーリ銀行やウルバヌス四世に脅されてシエナを出て来たサリンベーニやトロメーイなどのシエナの銀行家の手足となって協力したと見なすのが妥当ではないだろうか。しかもシエナの銀行家たちの多くは祖国亡命後グェルフィ党を結成していたから、立て前上すでに敵ではなかった。したがってこの場合徒手空拳で何の用意もなくフランスに流れ着いたフィレンツェの難民が、かつての敵国民だが今は教皇庁の圧力でグェルフィ党となったシエナの銀行家に協力することで生き延びたと考えるのが最も自然な解釈だと思われる。治安の良くない現地で金銭を調達する事業に加わったため、フィレンツェの亡命者はこの時大いに危険な体験をしたはずだし、ボンシニョーリ銀行以下有力なシエナの銀行との交渉でさまざまな屈辱的な体験を強いられたはずだが、やはり現地で危険な実務に携わった経験は大きく、たちまち実利とともに能力やコネも獲得して、優秀な銀行家に成長し、将来への展望を得ることができたものと思われる。もしもこの時までにフィレンツェがすでに経済大国になっていたのであれば、商人階層の人々の方がはるかに行動半径が広かったはずで、ルッカくんだりに逃げ込んだりせずに直接フランスなりドイツなりに行ったはずだし前記のような悲壮な記録が残されたはずがない。

㉚ 勿論周辺のコムーネ同様、 12世紀末以来フィレンツェ商人の国外への進出は行われており、ルヌアール(Y.Renouard, Storia di Firenze, tr. F. D. Beccato, Firenze 1907, p.34) によるとフィレンツェ商人は1209年にシャンパーニュの大市に加わっていたとされている。しかし他のコムーネの場合と同様、それは一部の国際商人の活動であった。13世紀後半のフィレンツェで起きたのは、一般市民が国際商人・職人化するための障壁が一挙に低くなったことである。


㉛  S.Terlizzi, op.cit.


㉜ このことは、この後の故国シエナのグェルフィ党化からも推察できる。シエナではコッレの戦いの後シャルル・ダンジューの代官の干渉でグェルフィ党化が進み、シャルル・ダンジューの強力化を望まぬ教皇庁の干渉や、ギベッリーニ党の巻き返しにもかかわらず、1287年には親グェルフィ党勢力による九人委員会の政権が樹立され、1355年まで続いた。この政権の下で、シエナは文化の最盛期を迎えている。



 ここで私は公平のために、ナジェミーの『フローレンス史』から自分の説にとって一見不利になる文章を引用しておくことにする。それはベネヴエントの勝利後、プリオーレ制度を基盤としたセコンド・ポポロ体制が成立する以前に約20年続いた騎士階級を主体とするグェルフィ党支配の時代における亡命者出身の銀行家に関する一文である。


驚くべきことは、権力を握ったのは教皇庁およびアンジュー家と同盟した商人・銀行家ではなかったことである。彼らの会社がシャルルに莫大なローンを与えた家族(主に1267年にそれらの9人がシャルルから騎士の称号を得たフレスコバルディ、バルディ、スカーリ、チェルキ家)の内で、 バルディ家だけが、 1267年から80年にかけてのグェルフィ党の評議会に定期的に参加している。グェルフィ党の勝利における決定的な役割にもかかわらず、恐らく多くの人々がアンジュー家のトスカーナ支配を恐れ始めていたために、彼らがあまりにも密接な絆をシャルルと結んでいるという事実が、これらの家々を権力から遠ざけたのだろう


 ㉝  J. M. Najemy,  op.cit.,  p.75.


 すでに見た通りナジェミーは、ジョルダンやレオナールやイヴェールらのフランス人研究者の優れた研究成果を無視して、フィレンツェ商人がイタリア十字軍で果した役割を過大評価している。少なくともテルリッツィの資料集で見るかぎり、シャルル・ダンジューの宮廷におけるフィレンツェの銀行家の存在感は、ボンシニョーリ銀行に代表されるトスカーナの他の銀行家のそれと比較すると取るに足らぬものである。シャルル・ダンジューが10数年の長きにわたってフィレンツェの領主権(シニョリーア)を委ねられポデスタを派遣し続けたグェルフィ党政権において、その程度の功績よりも亡命先で400騎の騎士団を結成してイタリア十字軍の案内役を務めたことの方がはるかに大きな功績だと見なされていたと考えれば、金融業者がこの時期市政において大して重んじられていなくとも、それほど驚くべき事柄とは思われない。4つの家の9人もの人々が騎士の称号を得たことを特記しているが、1267年という時期を考えれば、それは単なる論功行賞ではなかったことは明白である。まだこの時期にはドイツでコンラディンの軍隊によるイタリア奪回計画が進行中であり、トスカーナにもシエナやピサなど強力なコムーネがギベッリーニ党の支配下にあって、ドイツの騎士団の到来を待っている状態だった。シャルル・ダンジユーは案外簡単にナポリ王国を制覇したものの、フェデリーコニ世の影が色濃くのこるイタリア半島では、ギベッリーニ党の勢力が予想外に強く、そうした勢力の巻き返しが必然と感じられている状態であった。事実この翌年の 1268年の8月22日、タリアコッツォでコンラディン相手に勝利を収めてようやくシャルル・ダンジューの権力が確定するのである。したがってポポロの暴動によってギベッリーニ党から解放されたばかりのフィレンツェは、シャルルにとって貴重な同盟国であり、そこにシャルルは一人でも多くの味方を求めていたのである。この場合シャルルは、単なる論功行賞としてではなく、将来のフィレンツェとの絆を強化するために名誉をばらまいたと見なすべきである。

㉞  注⑱の資料集では、シエナのボンシニョーリやサリンベーニ、ピストイアのクラレンティやジェラルディーニ、 後にはルッカのバックージなどが巨額の資金を扱い、フィレンツェのフレスコバルディ、スピッリアーティ、スカーラなどの扱う金額はそれほど大きくない。安全通行証から推定される企業の規模も明らかにシエナやピストイアの方が大きい。しかし小規模な企業や職人などが大挙してナポリに進出したことが、次の世代以降の繁栄につながったものと思われる。拙著、『敗戦が中世フィレンツェを変えた』の第三章第二節、160ページ以下参照。 


㉟  拙著、第二章第四節で記したが、シャルル・ダンジューは計略によってこの戦いで薄氷の勝利を得たとされる。兵力そのものはコンラディンの方が上回っていた。



 こうしてようやく安泰な王位を獲ち得たシャルルの許に、フィレンツェの商人や職人が押しかけたのは自然の成り行きであった。何しろ他のコムーネでは考えられないほど多数のポポロ階層の亡命者が、ナポリよりもはるかに遠い地域で何とか生き延びていただけでなく、中には大成功を収めた人々さえいたのだから、国外への出稼ぎは亡命以前に較べてはるかに容易になっていたのである。トスカーナの他の都市では国際商人と一般市民の間の敷居は高かったが、フィレンツェでは敗戦による大量の市民の亡命体験がその敷居を低くしており、やがて一般の市民にとっては国外で稼いで来ることは生涯に一度は体験しておくべき経験となっていった。実際ヴィッラーニがいろいろな形で証言している通り、モンタペルティ戦争以前と以後とでは市民生活が大きく様変わりしていたのであり、そうした証言が伝えている変化を、一部の研究者が強調しているような、「古き良き時代」という感情に基づくお説教だと見なすわけにはいかないのである

㊱  注㉛の資料集によると、ナポリ王国とトスカーナ商人の契約の内、職人や写字生など少額の取引を行っているのは大部分フィレンツェ人である。拙著、 166ぺージ。


㊲ 市民進出によるフィレンツェ社会の変化については、拙著175ページ以下。ボナッコルソ・ピッティの『家族年代記』にフィレンツェの青年の赤裸々な外国体験が伝えられている。


㊳ ヴィッラーニは、『年代記』第6巻のいくつかの章でプリーモ・ポポロ時代のフィレンツェ人は質実剛健で愛国心に富んでいたと称賛しているのに対して、 AA.VV., Florentine Studies; Politics and Society in Renaissance Florence,  edited by Nicolai Rubinstein,  London  1986 所収の, C.T.Davis, ‘Ⅱ buon tempo antico’は、彼は「古き良き時代」というトポスに基づいて同時代人に説教しているのだから、ヴィッラーニの言葉を文字どおり受け取るのは危険だと警告している。しかしすでに見たような大きな変化を体験していたフィレンツェでは、プリーモ・ポポロ時代とはメンタリティが大いに異なっていても決して意外ではない。ダンテの詩句でも高慢の狂気から貪欲の狂気に変わったと歌われている。愛国心や質実剛健に対して拒絶反応を起こしやすい現代の研究者特有のシニシズムから、デイヴィスはプリーモ・ポポロ時代の気風を解釈し直しているようだが、すでに見た様々な事実から実際に大きな変化、つまりモンタペルティ現象が起きていたことが分かるはずである。



 ラヴェッジによると、モンタペルティ敗戦後の亡命者の数は約1500人で、当時のフィレンツェの全市民数75000人の2%に当たるとされているが、大陸や南洋の全植民地を失った直後の日本の全人口はフィレンツェの市民数の1000倍に当たる7500万より少なくはなかったはずだから、敗戦直後の日本に換算すると150万人以上の人々が国外亡命して外地を転々としたことになるであろう。それも平均的な市民ではなくて、プリーモ・ポポロ時代に市政を担当していたポポロの要人たちとグェルフィ党の主な貴族たちとその家族たちからなるエリートの集団であり、ギベッリーニ党の亡命後は勝利者として帰国して繁栄したことを考えると、6年間に及んだこの亡命体験だけでも、その後の市民の気風に重大な変革をもたらしたことは疑いの余地がないであろう。

㊴  S. Raveggi, M. Tarassi, D. Medici, P. Parenti, GHIBELLNI, GUELFI,  E POPOLO GRASSO: I DETENTORI DEL POTERE POLITICO A FIRENZE NELLA SECONDA METÀ DEL DUGENTO,  Firenze 1978 に収められた,  Raveggiの論文, Il Regime Ghibellino,  p.15.



 第二次大戦後の日本に関しても、戦争と敗戦とが国民を鍛えたことは明らかである。かつて私は、中国での戦争から帰還した村の中年のおじさんが、外地で転戦した自分の体験を自嘲的に「官費旅行」と呼んでいるのを聞いたことがあるが、戦争が個人では到底体験できない大移動を行わせることやその体験が人々に新しい知識や能力を与えたことは紛れもない事実である。ある日本史の概説書には「他方、戦時下の軍需工場からの労働者の解雇、700万の復員軍人と150万人の海外からの引き揚げ者などにより、失業者は1000万人を越えた」 という記述が見られるが、まさに戦争直後にこれほど多数の人々が厳しい試練にさらされていたのである。特に700万の復員軍人と150万の引き揚げ者こそ、敗戦によって最も鍛えられた人々であった。それは苦難の体験であったが、教育効果も小さくはなかった。そうした教育効果のおかげで、戦後の政治も経済も主に彼らによって実行された、と言っても過言ではあるまい。

㊵   宮地正人編『日本史』東京  2008 、の宮地氏自身が執筆した「第11章・敗戦から経済大国へ」 497ページ。



 残念ながら日本の近現代史に関しても、社会科学に関しても門外漢である私は、太平洋戦争とその敗戦とがいかに人を鍛えたかについて、適確に証明するだけの能力が自分には欠けていることを認めなければならない。ここでは一つだけ実例を紹介して敗戦がいかに人を鍛えたかを示し、将来統計学など本格的な社会科学の手法にもとづいた研究によって、この仮説が学問的に裏付けられるのを待つことにしたい。私が紹介する実例とは、中国引き揚げ漫画家の会が編集した『ボクの満州(漫画家たちの敗戦体験) という書物である。この書物の執筆者は、上田トシ子、赤塚不二夫、古谷三敏、ちばてつや、森田拳次、北見けんいち、山内ジョージ、横山孝雄、高井研一郎という9人の漫画家と石子順という漫画評論家で、その中には石子順のように通常の引き揚げの時代よりも遅れて帰国した人もいるが、全員が満州帰りで、広い意味での引き揚げ者たちである。彼らの何人かは漫画界のスーパースターであり、それほどでなくとも作品名を聞くと、案外ビッグネームであることが分かる人々である。おそらく食うや食わずで満州から引き揚げて来た人々がそれほど大きいとは思えないこの業界にこれほどあつまり、しかもこれほど効率良く大物になっているのは、漫画が戦後に急に多くの読者を得てメジャーになったジャンルで、しかもおかしくなければ、あるいは面白くなければ誰も読んでくれない、親の七光や学歴などとは最も縁遠い、実力本位の分野であることと無関係ではないことであろう。

㊶ 中国引き揚げ漫画家の会編『ボクの満州漫画家たちの敗戦体験』東京 1995。この本は亜紀書房から刊行されている。



 本文や巻末に掲載されている座談会で、執筆者たち自身、互いの境遇が似ていることに驚き、似たような満州引き揚げ者には自由業者が多いことや、漫画家以外にも立花隆、山田洋次、小沢征爾などの大物がいることが指摘されている。すでに第一章でも記した通り、他にも五木寛之、畑正憲、宮尾登美子などが加わり、あるいは有馬稲子、加藤登紀子、瀬戸内寂聴、そして新田次郎と藤原正彦の父子など、ほんの少し考えただけで芋蔓式に大物の名前が現れる。 ここには記憶力が悪くかつ無知な私がたまたま思い出した名前だけを列挙しただけなので、該当する大物の名前が抜けているのに気付かれた方は、どうか憫笑と共にお許しいただきたい。さらに哲学者の木田元のように満州育ちだが敗戦以前に帰国していた人々を含めると、その数はさらに増大するはずである。これらの名前に共通しているのは、際立った個性とふてぶてしいばかりの存在感であり、まさに日本人離れしているという表現がぴったりしている。そういえば今日定年を迎えつつある団塊の世代とそれ以前の世代の最大の違いは、当たり前のことながら、この世代には引き揚げ者がいないという事実である。この世代には赤塚不二夫も山田洋次もひとりもいない、という厳然たる事実こそこの世代の最大の限界であるのかも知れない。実際私には、帰国子女はいても引き揚げ者が一人もいないという事実が、この世代以降の世代を著しく貧しいものにしているように思われてならないのである。そしてまさに私が感じているこの貧困さこそ、敗戦がいかに人間を鍛えたかを裏付けていることなのである。母親に手を引かれて歩いた長い道程は、絶対に無駄なことではなくて、戦後の文化を最も豊かにした肥料だったのである。

㊷  同書の42ページの赤塚不二夫の文章と、座談会の225ページ。



 こうした意味では、それ以前に強国でなくとも、また敗戦後に幸運に恵まれて国際関係が好転しなくとも、敗戦の苛酷な体験は平等に人を鍛えてくれるはずである。だから亡国の民ですら、その能力と努力と個人的幸運によって成功することは可能である。そして先に挙げた二つの条件の充足度に応じて、モンタペルティ現象が発生する確率は高くなるものと思われる。したがってモンタペルティ現象は意外に頻繁に起きていた可能性は否定できない。 



「第三章  「モンタペルティ現象」に関する

いくつかの問題点」


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