モンタペルティ現象2-2


モンタペルティ現象は

  イタリア・ルネサンスに

     どのように寄与したか

米 山 喜 晟


第二章  二つのイタリア・ルネサンスにおけるフィレンツェの役割


 こうして私たちは、ようやく二つのルネサンス像におけるフィレンツェの役割を検討する段階に到達した。第一型のルネサンスに関しては、当然まず本家本元のブルクハルトの著書を参照して、その中でフィレンツェはどのような役割を与えられているかを把握しなければならない。ある研究者は一世紀半も以前に生まれたブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』について、現代の家族史や社会史の研究者によってしばしば批判的に取り上げられながらも、「今だに強靭な所説としての力を保っている」と感嘆し、それが生き延びている理由は、この作品が「芸術作品としての国家」「個人の発展」「古代の復活」「世界と人間の発見」「社交と祝祭」「風俗と宗教」という章立てで「ルネサンス文化を一貫した説明体系の下に統合する力強い文章の魅力が、本質的な正しさを指呼しているからだろう」 と記しているが、筆者も全く同感であり、19世紀の古典的著作の中でこれほどその記述の骨董化の度合が低く、現役度 の高い作品は希有ではないかと思われてならない。おそらくその理由の一つは、著者の意見の大半が、丹念な上に鋭い、同時代の資料からの思慮と洞察、ユーモアと機知とに満ちた引用や要約によって裏付けられていて、少なくともその部分が現在も腐らずに生き続けていることによるものだと思われる。

① 池上俊一『ルネサンス再考 万能人とメディチ家の世紀』東京 2000、 8ページ。

  

 この作品におけるフィレンツェおよびフィレンツェ関連の人々が占める割合は、先に記した6つの章においてかなり異なっている。 まず最初の「芸術作品としての国家」と題された章は、フリードリッヒ二世を扱った序論以後全部で12の節で成り立ち、先に専制君主や諸君侯の国家が論じられ、そうした専制政治への対抗者が挙げられた後に、ヴェネツィアを扱った「共和国」に続く八番目にあたる節で「14世紀以降のフィレンツェ」が論じられている。その節は他の節に較べて少し長い程度で、特に多くの紙数が割かれているわけではない。なお中央公論新社版等の日本語訳ではこの節の後にのみ他の節にはない略年表が添えられているが、これは1930年にケーギによって編集 された全集にはなく、「共和国」の節に挿入されたヴェネツィア政府の組織図 と同様、後世になって読者の便宜のために付けられたもので、こうした形式的な面でブルクハルトがフィレンツェとヴェネツィアの二国に対してのみ特別な配慮を払っている訳ではない。しかし内容的にはフィレンツェは明らかに別格である。まず第八節の冒頭において、ブルクハルトは「フィレンツェの歴史には、もっとも高い政治意識ともっとも豊かな発展形式が結合して見いだされる。その意味においてフィレンツェは、世界最初の近代国家に値する」 と記し、また別の箇所で「フィレンツェ人はいくつかの偉大な事柄においてイタリア人および近代ヨーロッパ人全体の模範であり、最初の発現者であるが、いろいろな暗黒についても同じである」 と記している事実を考慮すると、ブルクハルトがフィレンツェこそルネサンス・イタリアにおける近代化の推進力であると見なし、フィレンツェ史の動きに周辺諸国の動きを補完すれば、最も容易に13世紀から16世紀後半までに起きたイタリア全体の動きを考えるための座標軸が出来上がると考えていたのではないかと推察することがでる。その意味で後世にその年表が付けられたのは、著者の意向に沿ったものであった。とはいうものの、少なくとも第一章ではその記述量その他に関して、フィレンツェは他の諸国にまじって、ほぼワン・オブ・ゼムの扱いを受けていると見なすことができるだろう。

②  第一章の ① のブルクハルト全集 第五巻の65ページの部分。

③ 同注の柴田治三郎による訳書の1巻、124ページ、1章の「14世紀以降のフィレンツェ」の節の冒頭部。

④ 同 、同じ節の134ページ。


 ところがそれに続く「個人の発展」の章に入った途端、フィレンツェ人またはその係累の役割が飛躍的に増大する。冒頭の「イタリア国家と個人」の節で、最初に国家から独立して個人主義を宣言したとされているのはダンテであり、本論の第二章で述べる理由のため、今は忘れられた感が強いアーニョロ・パンドルフィーニの『斉家論』が言及される。続く「人格の完成」の節に引用されるのはロレンツォ・デ・メディチやダンテやレオン・バッティスタ・アルベルティ、リ(レ)オナルド・ダ・ヴィンチである。「近代的名声」の節でもダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョその他圧倒的多数のフィレンツェ人が実例として示される。他の国の人々も出て来ないわけではないが、最終節以外ではその数はあまり多くはなく、記述の軸になっているのはあくまでフィレンツェ人またはその子孫である。比較的他国の人々が登場する、最後の「近代的嘲笑と機知」の節でさえ、フィレンツェ人のアルロットとピエトロ・ゴンネッラが代表選手として登場する。私たちが近代ヨーロッパ文明の最も価値ある遺産と見なしている、共同体から独立して自分の意志で行動する「個人」という存在は、この書物の中では、実質フィレンツェ人とその子孫によって形成されたものとして跡づけられているのである。

 以上最初の二つの章を比較しただけで、ブルクハルトがイタリア・ルネサンスにおいてフィレンツェに担わせている役割はほぼ推定し得る。すなわちブルクハルトは「世界最初の近代国家」と呼んだフィレンツェおよびその国民に、彼がイタリア・ルネサンスの最も重要な成果だと評価した、ヨーロッパ文明の近代化の牽引車という役割の主役を演じさせようとしているのである。しかし当時のイタリアの大部分は、決してフィレンツェのように「近代国家」と評価できるような状態ではなかった。むしろ大半の地域は、大小の残酷で利己的な君主や権力者の専制下にあったのである。もっとも第一章のタイトルによっても明らかなとおり、フリードリッヒ二世らに代表される君主らの恣意的な支配にも、ブルクハルトは封建的な中世ヨーロッパには見られない近代性を認めて評価しているので、話は決して単純ではないのだが、ともかく血腥い事件が頻発していた当時の状況を記さない限り、フィレンツェ人を中心としたいわば覚醒したイタリア人の努力の跡を語ることは不可能だったのである。そこでこの作品は、大別するともっぱら当時のイタリアの状況を紹介する箇所と、近代化への大胆な前進を論じる箇所との二つの部分から成り立つことになる。たまたま第一章は状況を中心に論じたためにフィレンツェ人の出番は特に多くはなかったが、第二章はルネサンスの近代化への試みを中心に論じているために、フィレンツェ人の名前が頻出しているのである。

 以下の章でもほぼ同様のことが言える。三つ目の「古代の復活」の章では、「前置き」に続く「廃墟の都市ローマ」の節でローマの廃墟への関心が本格的に蘇ったのも、フィレンツェ人またはその亡命者の子孫であるダンテやペトラルカやファーツィオ・デリ・ウベルティによるものだとされ、ここでも先鞭をつけたのはフィレンツェ関係者だということになる。あるいは「古代の著作者」に関しても、まずペトラルカやボッカッチョで始まり、教皇庁の図書館の基礎を築いたレオ十世、 コージモ・デオ・メディチに援助されたニッコロ・ニッコリの集書活動、そしてフィレンツェと縁が深いポッジョの写本探しなど、さらにロレンツォ・デ・メディチ、ジャンノッツォ・マネッティらの活動が続々と語られていて、要するにフィレンツェに関係した人々が主役である。彼らの間から、ヨーロッパ文明の基本的な要素であるアルファベットの書体が生まれたことなども語られる。またギリシャ人たちを招いてギリシャ語を普及させるためにも、フィレンツェ人たちの尽力が大きかった。その後に続 く、「十四世紀の人文主義」、「大学および学校」、「人文主義の促進者」、「古代の再生、書簡文」、「ラテン語の演説」、「ラテン語の論文と歴史」、「教養の一般的なラテン化」、「新ラテン語詩」、「十六世紀における人文主義者の没落」等のタイトルを見ただけでも、フィレンツェ関係者の活曜が予測でき、他の国民の比率も次第に高まりはするものの、フィレンツェ人は大体期待どおりに活躍しているのである。他の都市に比べて比較的弱そうな大学に関する節ですら、15世紀初頭のフィレンツェ大学の充実ぶりが賞賛されているほどである。しかしそうした革新がほぼ実現して普及した後のイタリア全体の状況を記した後半の数節では、フィレンツェ人たちの登場は減り、ベンボに代表されるヴェネツィア関係者らの比重が高くなっている。

 第四章「世界と人間の発見」となると、冒頭の節「イタリア人の旅行」では、 さすがのフィレンツェ人も、マルコ・ポーロやコロンブスに代表されるヴェネツィア人やジェノヴァ人、あるいはシエナ人の教皇ピウス二世になどに主役を譲ったかに見えるが、続く「イタリアにおける自然科学」では、まずダンテの自然科学的知識の豊かさが語られ、フィレンツェ人は主役の座を取り戻す。ブルクハルトはトスカネッリ、リ(レ)オナルド・ダ・ヴィンチなどを挙げて、ルネサンス時代のイタリアが数学と自然科学においてヨーロッパ第一の国民だと賞賛する。また同じ節の後半の植物と動物と動物園の記述では、メディチ家の庭園が植物園の前身と見なされ、誤ってジョヴァンニ・ヴィッラーニがライオンの出産に立ち会ったことまでが賞賛されている

⑤ 同、Ⅱ巻、IV章、15ページ、「イタリアにおける自然科学」の節。 訳書でも原著でもジョヴァンニ・ヴィレラーニとその弟のマッテオの『年代記』について2箇所ずつ注を付けているが、ジョヴァンニに関しては、ポンテ・ヴェッキオの火災とピエロ・ロッソの戦死を扱っていて全く無関係。マッテオの『年代記』、第3巻第90章ではライオンが出産したとあり、イタリアではライオンは生まれないとか、ライオンは死んで生まれ、母親のほえる声で蘇るなどと伝えられているが、いずれも嘘で、子犬のように普通に生まれる、と記されている。ただし自分で見たわけではなく、たびたび目撃した人からの伝聞だとしている。マッテオの第5巻、第68章ではライオ ンが4頭誕生したと記されている。


 イタリアにおける「風景美の発見」も外国人の聖フランチェスコに続いて、ダンテやペトラルカや高山病の体験者らしいファーッイオ・デッリ・ウベルティによるものとされ、やはりフィレンツェ関係者がその中心である。後半の人間に関する部分に入ると「詩における精神的描写」の節の前半では、ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョ、そしてプルチらフィレンツェ関係者が、さらに他国の著者ボ(イ)アルド、アリオスト、タッソらにいたる世界を切り開いたとされていて、続く「伝記文学」の節では、ボッカッチョの『ダンテ伝』に始まり、フィリッポ・ヴィッラーニ、 ジョヴァンニ ・カヴァルカンティ、ヴェスパシアーノ・フィオレンティーノ、マキアヴェッリ、ニッコロ・ヴァローニ、グィッチャルディーニ、ヴァルキ、フ ランチェスコ・ヴェットーリ、アレッツォ生まれだがフィレンツェのために多くの仕事をしたヴァザーリ、ベンヴェヌート・チェッリーニ等、フィレンツェ人またはフィレンツェと特に関係が深い人々が量質ともに他を圧倒している。そして「国民と都市の性格描写」でのウベルティとマキアヴェッリ、「人間の外面の描写」のダンテ、ボッカッチョ、フィレンツォーラ (ブルクハルトは彼の好みの女性像を耳や唇の形まで長々と引用している)、「動的な生活の描写」のダンテ、フランコ・サッケッティの表現などが紹介されている。またこの最後の節では、ヨーロッパで異例に早く生まれたロレンツォ・デ・メディチ、ルイージ・プルチ、アンジェロ・ポリツィアーノらによる農民の姿の描写が比較検討されている。このように「発見」を扱ったこの章でも、旅行を扱った最初の節以外の大半で、フィレンツェ人とその関係者がそうした活動の先駆者であり、その主役でもあった、とされている。

 続く「社交と祝祭」の章でさえ、冒頭の節「身分の平等化」では、ダンテの『饗宴』やポッジョの『貴族について』の議論を紹介しながら、この時代の知識人の間で論じられた、人間の高貴さは血統によるものではなく本人の優秀な素質と努力に基づくという説や当時の貴族の生活などが紹介されている。またこうした平等化の結果として、貴族の真似をして馬上槍試合に出掛ける、サッケティが描いた老いた公証人の姿が紹介されていて、ここでもフィレンツェ人がこの風潮の推進者として描かれている。「イタリア人は今も昔も見栄坊である」⑥ というコメントをふくむ「生活の外面的洗練」の節では、ルネサンス時代のイタリア人は北方人よりも清潔で、また世界で最も富裕な国民だったという意見は否定できないとされているが、その筆致から19世紀の人々には信じ難い事柄だったことが分かる。フィレンツェ人が一時期各自が大胆で個性的な服装をしていたとして、流行に従うことを勧めて目立つことを戒めたフィレンツェ近郊生まれのデッラ・カーサの忠告に、ブルクハルトは彼らの衰微の兆しを認めている。

⑥ ブルクハルト、V章 、130ページ。


 続く「社交の基礎としての言語」の節も、当然フィレンツェで生まれたノヴェッラ集『古渾百種 (=ノヴェッリーノ)』やダンテで始まり、他国のカスティリオーネ、ベンボヘと続く。「高級な社交形式」でブルクハルトは、『デカメロン』やフィレンツォーラのノヴェッラ集の枠組として用いられている、出席者が交互に物語を語り合う社交的な集いが、作者の想像の産物ではなくて、当時の実際の習慣にもとづいていたことを認める。この節では話題は一度フィレンツェから離れて転々と移動するが、やがて再びロレンツォの宮廷に戻って来る。「完全な社交人」の節に至って、ようやく話題はフィレンツェから離れ、カスティリオーネの『宮廷人』に基づいて進められ、当時の音楽に言及されているが、ここではもはや当時音楽も盛んだったはずのフィレンツェには触れられていない。「婦人 の地位」の節も、カテリーナ・スフォルツァのような貴婦人や娼婦のような特別な女性に関する記述が中心で、内容はタイトル通りではない。おそらく現代の研究者から最も激しい批判を受けそうな部分の一つだが、やはりフィレンツェには言及されていない。ところが次の節「家庭」では、もっぱらパンドルフィーニの『斉家論』に基づいて論じられ、まイタリア人が田園での生活を好むことなどが指摘される。この章の最後の節「祝祭」では、この面に関してもフィレンツェは他の諸都市に先んじていた、とされていて、またダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョの作品にはくわしく祝祭が描かれていることが指摘され、量的にはイタリア全土の祝祭の記述の方が多 いが、明らかに にフィレンツェ関係の人々を軸にして記述を進めていて、 節の最後でフィレンツェの謝肉祭に戻り、ロレンツォ作と伝られる青春の詩でこの章は閉 じられる。

 最終章「風俗と宗教」の冒頭の「道徳性」の節も、まずフィレンツェ人と共に始まり、当時の政治的不幸と風紀の退廃とを結び付けて考えた真面目な思想家としてマキアヴェッリの名が挙げられ、あるいはそれとは対照的な存在として世界を股にかけて活動した賭博師、ボナコルソ・ピッティが紹介される。しかし殺し屋を雇った殺人について語った箇所で、「当時イタリアでもっとも高度に発展した国民であるフィレンツェ人のもとで、 そのような(筆者注、金銭で雇われた他人による殺人)事件が最も少なかったということは、フィレンツェ人にとって最大の名誉であるが、それはおそらく、正当な訴願にたいしては一般に認められた司法がまだ存在していた為か、あるいは犯行によって運命の歯車に干渉することについて、高度の文化が人間にべつな見解を与えたためであろう」 と記していることからも分かるとおり、ブルクハルトはフィレンツェの制度あるいは高い文化がこうした卑劣な犯罪を抑制していたと考えている。そして復讐、売春、不倫、犯罪、毒薬などに関して、イタリア各地の生々しい実例が挙げられている。

  同、Ⅵ章、248ページ。


 続く「日常生活における宗教」の節では、主にイタリアの聖職者の堕落とそれに対する批判が扱われ、ボッカッチョやサッケッティやグィッチャルディーニらのフィレンツェ人はその代表的証言者となる。修道士の説教などが論じられた後、サヴォナローラの処刑に至るまでの出来事にかなりの紙数があてられている。最後は各地の宗教運動の記述にあてられるが、この節もフィレンツェ人に関連した事柄が軸となって記述されている。ブルクハルトは続「宗教とルネサンスの精神」において、「イタリア人は自由と必然に関する瞑想にほしいままに身をゆだねた最初の近代的ヨーロッパ人」 としたが、不安定な政情の下にいたために、神の意識が不安定になり、一部は宿命論的になったとしている。要するにこの節とそれに続く古代的迷信と近代的迷信のもつれあい」と「信仰一般の動揺」との最後の三つの節では、キリスト教信仰に頼りきれず占星術や魔術に走り、霊魂不滅をも信じ難くなったイタリア人の不安を、近代人の先駆者として捕えていて、ここでも時折 フィレンツェ人の証言が現れるが、もはや主役というわけではない。

⑧  同 、Ⅵ 章、318ページ。


 以上でブルクハルトの著書においてフィレンツェとフィレンツェ人あるいはその係累が果している役割を概観したのであるが、おそらくそれらが自らの記憶よりもはるかに重要な役割を果していることに驚いた人が少なくはないであろう。私自身がそうであったように、イタリア・ルネサンスということばを含むタイトル、フリードリッヒ二世について論じた第一章の序論やミラノ等の専制君主についての記述、あるいは「世界と人間の発見」などの第二章のタイトルなどから、他の都市に関する記述がもっとずっと多く、当時のイタリア全体に関してはるかにバランス良く書かれているように記憶していた読者が少なくないのではないだろうか。やはり第一章でイタリアが一応網羅的に論じられていることと、最後の二章、特に最終章で再びイタリアがほぼ網羅的に扱われていることが、こうした錯覚を生み出すのに大いに寄与している。ところがすでに見たとおり、第二章と第三章の大部分、第四章の第一節以外の部分、そして最後の二章ですらいくつかの節はフィレンツェ人の証言や行動を軸として記されているのであり、イタリアという薄い皮でフィレンツェという大量の餡を包んだ餡パンのごとき作品だということが分かる。それに較べると、第一型ルネサンスを採用している啓蒙書の類の方がはるかにバランス良く他の地域を取り入れている。しかしそこでもフィレンツェの比重はけっして低くはなく、ブルクハルトの 5~6割が2~3割程度に押えられているという印象を受ける。こうした違いは、ブルクハルトがイタリア・ルネサンスがヨーロッパ近代化の推進者であることを論証しようとしているのに対し、他の啓蒙書はそうした目的にこだわらず、もっぱら当時のイタリアの興味深い状況や出来事を紹介しているためであろう。

 ブルクハルトの著書に関して私たちが錯覚を抱いたもう一つの理由は、フィレンツェが第一章のかなり遅くから登場していて、少なくともイタリア・ルネサンスという一大イヴェントの発起人の一人とは見なされていないという事実である。この書物に現れる多くの諸国を登場人物にたとえるならば、フィレンツェは発起人たちが立ち挙げた舞台にかなり遅く登場しておきながら、いきな主役の座を奪い取り、最後近くまで舞台を占領し続けたというわけだが、フィレンツェが登場する舞台を準備したフリードリッヒ二世の独裁国家を始めとする発起人たちの印象が強すぎるために、果している役割の重要さの割にもう一つ存在感が弱くなっているという印象が否めないのではないだろうか。途中から、他人が準備した舞台を占領したという事情が、この国の立場を弱くして、せっかくヨーロッパに先駆けて試みた近代化の動きも腰砕けにおわってしまったのである。逆に言えばイタリア史において遅く登場したというフィレンツェの立場の弱さが、以上のような論議を必要としたとも言えるかもしれない。モンタペルティ現象は、第一型ルネサンスの最中に起こった出来事なので、その形成に影響していることは確実である。次の章で私は、まずブルクハルトが何故あれほどフィレンツェ中心にイタリア・ルネサンスについて記さなければならなかったのかを明らかにした後、モンタペルティ現象がルネサンス形成に影響したと思われる事項を具体的に指摘しておきたい。

 それに較べると、1400年ごろに現れる様式全般の変化を根拠としている第二型のイタリア・ルネサンスは、早くも16世紀のヴァザーリが記録しているとおり、この変化が主にフィレンツェ人を主役として、場所も主にフィレンツェにおいて始まっているために、今更フィレンツェとの関係を改めて洗い出す必要はないものと思われる。たとえばそうしたルネサス像の代表的な提唱者ハンス・バロンの著書は、全巻フィレンツェに関連した事柄が論じられており、今更この著書とフィレンツェとの関連の有無を論じること自体、こっけいな印象が禁じ得ないだろう。ヨーロッパ全体の経済と関連して論じたロペスの場合は、厳密に言うとイタリア・ルネサンス論ではないのだが、そこでもフィレンツェの事例は重視されている。ただしモンタペルティの敗戦直後か盛んになった第一型のイタリア・ルネサンスはともかく、同じフィレンツェの出来事とは言え、1260年の出来事が約1世紀半後の1400年前後にまで影響し得るか、という疑間は生じて当然である。それに対して私は、明白かつ重要な少なくとも4つの理由によって、モンタペルティ現象が第二型のルネサンスにも影響しているものと信じており、第四章においてその影響について具体的に明らかにしておきたい。


「第三章  第一型のイタリア・ルネサンスに与えたモンタペルティ現象の影響」


目次へ



©  百万遍 2019