モンタペルティ現象2-3


モンタペルティ現象は

  イタリア・ルネサンスに

     どのように寄与したか

米 山 喜 晟



第三章  第一型のイタリア・ルネサンスに与えたモンタペルティ現象の影響


 すでに見たとおり、第一型のイタリア・ルネサンスの場合には、フィレンツェはこの現象の発起人のような存在ではなく、他の国々が用意していた舞台に途中から参加した、という印象が否み難い。そうした印象の原因の一つは、前論文でも指摘しておいたとおり、フィレンツェからイタリアを代表するような人物がある時代まで全く出ていないことである。ダンテの『神曲』のおかげで私達は彼の高祖父の時代までさかのぼって、古き良き時代に生きたフィレンツェ人を知ることができるのだが、ダンテが賞賛しているとおり彼らが質実剛健に生きた立派な人々であることには疑う必要はないものの、その中にはダンテやベアトリーチェに匹敵するような世界的著名人は一人もおらず、またイタリア史を動かしたような大人物も出現していなかったというのは、文句なしの事実なのである。それにもかかわらず、ブルクハルトの著書は、フィレンツェという大きな餡をイタリアという薄皮で包んだような印象を与える。それはブルクハルトの著書が中世イタリアの現実を忠実に反映しているものではなく、彼が自分の信じる方法で、主に彼自身がヨーロッパ近代化の推進力だと判断した断面を切開して見せたためだろう。

 ブルクハルトの著書が当時のイタリアの都市国家群の実力を忠実に反映したものではないことは、イタリア中世史を少し振り返るだけで十分である。まずイタリア都市国家の内で最も早く地中海に乗り出したのは、アマルフィ、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサ等の港湾都市であったとされ、はやくも13世紀の当初にヴェネツィアは東 ローマ帝国の占領に加わってその一部を領有しており、その後も衰えることはなくライバルのジェノヴァとともにイタリア史で重要な役割を演じ続けていた。両国がそれまでに蓄積し運用していた資産 は膨大なもので、いずれも世界金融の覇権国の一つと見なされているほどである

① フェルナン・ブローデル著、村上光彦訳『物質文明・経済・資本主義 Ⅲ-2、世界時間1』東京 1996、29ページによると、ヴェネツィア、アンヴェルス、ジェノヴァ、アムステルダム、ロンドンが、この順で西ヨーロッパ経済の支配的都市であったと記されている。そこにフィレンツェの名前はない。


 またロンバルディア地方では、トスカーナ地方よりも一足早くミラノに代表される都市コムーネが繁栄して、それらの国家連合が皇帝の権力に抵抗を繰り返し、1176年のレニャーノの戦いで赤髭皇帝フリードリッヒ一世の軍勢を完膚無きまでに撃ち破っており、その後もミラノはルネサンス期を通じてイタリア最強の軍事大国であり続けている。さらにシチリアでははるか以前に中世ヨーロッパで最も進んだイスラム文明が開花して、ノルマン人はその成果を温存して独自の国家を建設しており、おそらくその遺産が侵入者のフランス人に対するシチリア晩祷事件を引き起こし、地中海の彼方のアラゴン王家を招きよせたのであろう。さらに一時期衰微していたとは言え、ローマは中世ヨーロッパにおける最高権威、教皇権力の本拠として存在感を示し続けていて、やがて永遠の都として蘇る。おそらく人口だけを考えても、フィレンツェはミラノやヴェネツィアにはおよばなかったはずである。こうした一癖も二癖もある先輩の都市国家の間にかなり遅れて参入したのだから、フィレンツェごときに中世イタリアを全面的に代表できたわけはなく、ほんの一面だけを代表していることを認識しておく必要がある。むしろたとえ一断面とはいえ、フィレンツェがそれらの内の以上総代の地位を確立し得ただけでも十分意外なことであった。

 おそらく当時のイタリア人の多くは、もしもブルクハルトがフィレンツェに対して与えたような高い評価を耳にしたら、必ず強い不信感を表明したはずである。もしも当時の人々がインターネットで コメントが送れたら、ミラノ、ヴェネツィア、ナポリ、そして隣国のシエナなどの人々は、実態からほど遠い評価だという猛烈な抗議の声を上げたに違いない。たとえ近代化の推進力という断面だけに限っても、軍事史を筆頭に、商業史や社会史などさまざまな側面から、強い疑間の声が上げられたことが十分予想される。それにもかかわらずブルクハルトがフィレンツェをこのように高く評価して、ルネサンス・イタリアの以上総代として扱っている最大の理由は、文献史料を根拠として論証する近代的な歴史学の方法に頼る限りそうならざるを得なかった、という事情があるように思われる。本論は文献という側面のみに限って、すでに発表した数字なども用いながらモンタペルティ敗戦がイタリア・ルネサンスに与えたプラスの影響を考察する。

 周知のごとく、ブルクハルト(1818~97)は スイスのバーゼルに生まれ、歴史学をベルリン大学でランケ(1795~1886)の下で学び、後年バーゼル大学の教壇に立っていた時、ランケの後任としてベルリン大学から招かれたが辞退したことで有名である。 しかし彼は、あくまで自分の方法論に忠実で、印刷された史料しか用いていないという理由で自分の最初の著作を全集に加えることを拒否したというエピソードを持つランケとはかなり肌合いを異にした人物だったようである。またスイスの一地方都市 にあるとはいえ、自分の母校でもあり、信奉者も多く、研究対象であるイタリアやギリシャにも近く、1460年に創立されたという由緒あるバーゼル大学で教鞭を執っていれば、たとえそれが統一されたドイツを代表する名誉ある大学だったとしても、プロシャの国威発揚のために1810年 に設立されてから半世紀余りしか経ていないベルリン大学への転任を断ったのはむしろ当然の選択だったと言えるであろう。

② 私のフランツ・レオポルト・ランケについての知識は、主に『世界の名著・続11・ランケ』(東京 1984)所収の林健太郎の解説から得ている。 印刷された史料に関するエピソード は、 9ページで読んだ。


 史料批判にこだわり、可能なかぎり手稿にまで遡行して確かめようとしたと伝えられるランケと比較すると、ブルクハルトは、ムラトーリなどによって刊行された、すでに印刷されている史料を、あまり厳密に「批判」することもなく存分に利用しているようである。たとえば彼はアーニョロ・パンドルフィーニの『斉家論』に何度も言及しているが、それがレオン・バッティスタ・アルベルティの第二章の改作であることはすでに当時指摘されていて、自らも言及しているにもかかわらず、第四章の「家庭」の節の記述に大いに利用しているのである。そこに認められるのは、入手できるかぎりの文献を集めて、それに基づいて自分の意見を論じていくという、今日の文系の研究者が普通に用いている方法だと考えて差し支えなさそうである。その場合、最少限度一応信頼し得る文献が入手できない限り論証を進めることは不可能である。はじめに文献ありきという、こうした方法を採用する限り、研究成果は文献の有無によって左右されざるを得ない。だからいくらタイトルにイタリアということばを記していたとしても、それだけでイタリア全土の史料が自動的に集まるわけではなく、結局入手できた史料を用いて論じるしかないのである。

③  第一章 ① の訳書1の226ページ、Ⅱ章 の「イタリア国家と個人」の節の原注〔6〕。


 当時ブルクハルトがどんな史料を用いたかは、原注に記されている文献によって知ることができるが、時たまパドウァ大学の教授のリストなどといった文書も利用されてはいるものの、ダンテら当時の代表的な著者たちの著作を中心に、前世紀にムラトーリが刊行した資料集などに代表される年代記類その他が主に用いられているようである。当然章によってかなりの違いは感じられるが、結局そうした文献の内の多数がフィレンツェ人またはその係累の手になるものであったために、前章で見たようなフィレンツェ偏重を生じさせたと考えられるのである。しかしブルクハルトが恣意的にそうした選択を行ったわけではなく、当時書かれた文献として彼が入手した資料の中には、フィレンツェ人またはその係累の人々によって書かれたものが圧倒的に多かったため、必然的にそうした結果が生じざるを得なかったものと推定されるのである。ここでようやく私たちは、かつてフィレンツェ人あるいはその係累が、イタリアのすべての著者の中で、どの程度の比率を占めていたかを見る段階に達した。残念ながらブルクハルト当時のそうした数字を知ることは、現在の私には不可能であることを認めざるを得ないのだが、今日知られているイタリアの中世およびルネサンス期の作者に関してであれば、その大体を把握することが可能であり、さらに今日の数字から執筆当時の状況を類推することも完全に不可能なわけではない。実は私はすでに一度自分の著書において そうした具体的な数字を示し、そこから推察し得るフィレンツェの特異性を論じたことがあるのだが、それらの論証は完全に無視されて今日に至っている。そこで要点だけにまとめて、それらの数字を再び提示することをお許しいただきたい。まず最初に提示するのは、アメリカで刊行された『イタリア文学辞典』 を基にして私自身が作製した表である。この事典自体はわずかに文学用語の解説を含む以外はほとんど人名事典に近いもので、それもせいぜい600ページそこそこの中事典なので、収録されている文学者の数は全時代を通じても324人、第一型のルネサンスに含まれる中世とルネサス期の著者となるとわずか123人に過ぎないが、その中にフィレンツェ人またはその係累が何人いて、全体に対してどの程度の比率を占めていたかを示している。要するに私たちが知りたいのは、当時の著者の中の大物、いわば当時のオピニオン・リーダーと見なされていた人物の中に、フィレンツェ関連の人々がどの程度の比率で含まれているかということなので、その全体数が少ないことはそれだけ厳選されているということを意味していて、むしろこの表のメリットだと見なすことができる。なおこの事典は、自然科学者のガリレイ、法学者のベッカリーア、 革命家のマッツィーニ、ガリバルディなどといった人々をも含んでいるので、『イタリア文学事典』とは名ばかりで、イタリアのあらゆる分野で著述を行った人々の内から、大物の数だけを選んで計上した数の表だと考えた方が実態に近い。

④ 米山喜晟『敗戦が中世フィレンツェを変えた』(東京 2005)所収の序章でこれらの数字をすでに紹介しているが、イタリアにおけるフィレンツェの特異性を示すあまりにも明瞭な、出典も確実な数字なので、再度取り上げることを許していただきたい。

⑤ P.&.J.C.Bondanella, Dictionary of Italian Literature, Connecticut 1979.



中世文学 (14世紀末まで)

   総数 42人

   フィレンツェ出身者   17人 (40.5%)

    (定説に従い『ノヴェッリーノ』の作者を含む)

   フィレンツェ関係者   2人  (4.8%)

   計          19人 (45.2%)



ルネサンス文学 (1400~1550年)

   総数 81人

   フィレンツェ出身者   26人 (32.1%)

   フィレンツェ関係者   7人   (8.6%)

   計          33人 (40.7%)


第一型イタリア・ルネサンス期の合計

   総計 123人

   フィレンツェ出身者   43人 (35.0%)

   フィレンツェ関係 者   9人 (7.3%)

   計          52人 (42.3%)



 以上の結果を見ただけでも、もっぱら文献を通してイタリア・ルネサンスを把握しようとしたブルクハルトが、フィレンツェ共和国をイタリア全体の代表のごとく見なさざるを得なかった理由が了解できるのではないだろうか。あるいはこの表を見て、ペトラルカやレオン・バッティスタ・アルベルティのような関係者を含めても半数以下の4割に過ぎないではないか、などと反論する人がいるかも知れないが、フィレンツェには第一型イタリア・ルネサンス全体を通じての有力なライバルが存在しておらず、残りの6割がイタリア全土に分散しているという事実と、ブルクハルトが最もしばしば引用しているダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョといういわゆるトレ・コローネ(三冠)の内2人がフィレンツェ人で残りの1人がフィレンツェからの亡命者の息子であること、さらに9世紀にはイタリアの文献の調査や紹介が今日ほどには進んでいなかったという事情などをも考慮すると、当時入手し得た文献史料を通して第一型ルネサンスの時代のイタリアの文化を論じた場合、圧倒的な比重をフィレンツェに与えざるを得なかったことは、かなり納得できるのである。

 上述の事典に関しては、ガリバルディを収録するのならば、なぜムッソリーニも収録しないか、などといった素朴な疑間が生じても当然であり、このように選択基準が明確でない文学事典から作製したリストだけではとても信用し難いという人々のために、私はイタリア文学研究の権威クリスチャン・ベックの「著者の社会的―職業的立場(14世紀と16世紀)」 に収録されている、もう少しくわしいイタリアの都市別の著者数の統計をここで再び提示しておきたい。それは14世紀全体と1450~ 1550年のそれぞれ100年間について、主要な「著者(autore)」の数を都市別に比較したもので、元の表では3期ごとに分けられているが、ここではその合計の数字と、都市毎の比較の参考のために、上位10都市およびその人数を示しておく。

⑥ C.Bec, Lo statuto socio-pprofessionale degli scrittori(Trecento e Cinquecento), in “Litteratura Italiana”, Vol.Ⅱ Produzione e Comsumo, Torino 1983, pp.229-267.  以下に挙げている2つの表はいずれもエイナウディ社 から刊行された『イタリア文学』双書第二巻の「生産と消費」に収録されたものの一部で、文学のみならずあらゆる分野のイタリアの知的生産性の変化 を知るための貴重な資料である。



14世紀

   3期 の合計  233人  フィレンツェ 47人 (20.2%)

   上位の主要都市  

    1位 フィレンツェ

    2位 シエナ 16人 

    3位パドヴァ 12人 

    4位 ヴェネツィア10人 

    5位 ボローニャ、ピサ 各 9人

    7位 ヴェローナ アレッツォ 各8人 

    9位 ペルージャ 66人 

    10位 ヴィチェンツァ 4人


1450~ 1550年

   3期の合計 194人 フィレンツェ 44人 (22.7%)

   上位の主要都市  

    1位 フィレンツェ

    2位 ヴェネツィア 22人

    3位 フェルラーラ 10人

    4位 ナポリ 9人 

    5位 パドヴァ、シエナ 各7人  

    7位 ローマ 6人 

    8位 ミラノ 5人 

    9位 ボローニャ、マントヴァ、モデナ 各4人


 二つの期間の間に半世紀の空白があるため、残念ながら以上の表によって第一型イタリア・ルネサンス全体の数字を把握するわけにはいかないが、イタリア全体で占めていたフィレンツェの重要性は、以上の表によっても明らかである。大物のみを扱った『イタリア文学事典』よりも3倍以上くわしくなっていることと、ペトラルカなどフィレンツェ関係者が除外されているために、フィレンツェのシェアは半減しているが、むしろそのことはフィレンツェ出身の著者の中に影響力が大きい大物たちの比率が高かったことを意味していて、けっして先に『イタリア文学事典』の数字から行った推論を否定する結果にはならない。大体こうした統計は、精度を高めれば高めるほど泡沫的な存在が加わって全体数が大きくなるために、大きな数の集団が占めている比率は低下せざるを得ないのである。フィレンツェの相対的な重要性を知るために、双方の数字の和を比較すると以下の結果となる。


双方の合計 427人   フィレンツェ 91人 (21.3%)

上位の主要都市  

  1位 フィレンツェ

  2位 ヴェネツィア 32人(7.5%)

  3位 シエナ  23人(5.4%) 

  4位 パドヴァ  19人(4.4%)

  5位 ボローニャ  13人(3.0%)

  6位 フェルラーラ 10人(2.3%)

  7位 ピサ、ナポリ 9人(2.1%)

  9位 アレッツォ、ヴェローナ 8人(1.9%)


 以上はあくまで二つの表の和なので、片方しか出ていない都市に関しては多少の誤差が生じる可能性がある。しかし少なくとも5位までの順位は確定しており、下位に関しても、多少順位が入れ代わっても大きな誤解が生じる余地はない。いずれにしてもヴェネツィアが総合2位を占めているのは順当なところだが、シエナが3位とは意外な健闘ぶりであり、そのあとに伝統ある大学都市と、華麗な宮廷都市が続いている。興味深いことは、ミラノ、ローマなどの影が薄いことで、特に人口や軍事力においてイタリアで首位を占めていたはずのミラノの低調ぶりは注目に価する。少なくともこの当時のイタリアでは、現在私たちが問題にしている著述活動という意味での知的生産性が、軍事力などを含めての全体的な国力を正確に反映していなかったことは確実である。

 以上の数字から分かることは、フィレンツェが第一型イタリア・ルネサンスの時代全体を通して、ぶっちぎりの首位を走り続けたということ、つまり約3世紀 にわたって、イタリアで抜群の知的生産性を発揮し続けたということである。おそらく著者の大部分を生んだフィレンツェの都市部の人口は、ルネサンスの盛期で6万前後、中世末期の最大に達した時期でも およそ10万人あまりに過ぎず、イタリア全体のせいぜい1%前後にすぎなかったはずである。その1%から大物だけに限ると何と全体の4割、もう少しマイナーな著者までを加えても全体の2割以上の著者が輩出しているのだから、まさに希有の都市と呼ぶことができるであろう。かろうじてライバルと呼べるのは、後期に2位についたヴェネツィアだが、前期にはわずか10人で4位、合計した数字でフィレンツェの35.2%、すなわちその3分の1を少し超える程度に過ぎない。おそらく人口はフィレンツェより多かったはずだから、総数がイタリアで2位であっても、少なくとも14世紀に関しては、その知的生産性はフィレンツェの足下にも及ばなかったのである。前期に16人で2位と健闘したシエナの場合、後期には5位に後退していて、総数はフィレンツェの4分の1にも及ばないが、人口がフィレンツェよりずっと少ないので、相対的にはヴェネツィアよりも知的生産性はかなり高いといえそうである。モンタペルティ戦争の勝利者であるこの都市は、1269年にフランスの将軍ジャン・プリトーの率いるトスカーナ・グェルフィ党の連合軍にコッレ・ディ・ヴァル・デルサの戦いで敗れ、その後グェルフィ党支配に服したものの混乱が続いたが、1287年に親グェルフィ党的な9人委員会の時代を迎えて、一時期経済的、文化的に大繁栄しており、やはり一種の(フィレンツェに較べると小規模な、そして明らかにフィレンツェの影響を受けた)モンタペルティ現象を体験した都市だと考えられるので、その見地からもっとくわしく論じる余地がある。

 先に示した2種類のリストによって、フィレンツェはイタリアに多数存在している都市の中で、唯一抜群の知的生産性を長期にわたって発揮し続けた例外的な存在だったことが明らかにされたはずである。この点に関しては、何人も異論をさしはさむ余地はあるまい。しかしそのフィレンツェとて、古来そうした知的生産性を発揮してきたわけではなかった。古来イタリアにおいては、文学をはじめとする著述活動がある時期まで極めて低調であった、というのが文学史の常識である。イタリア語史の権威ミリオリーニは、ラテン語を用いた著者を含めても、13世紀前半にはイタリア全土の著者の数は微々たるものであったと証言しており、フィレンツェとてその例外ではなく、要するにほとんどゼロから出発しているのである。だからフィレンツェは生まれながらの天才の都市などではなく、むしろある時点までは著述活動とは無縁な、イタリアの他の都市と全然異ならない凡庸な都市であった。ところがある時点で突如生まれ変わり、以後はおよそ2~300年間著述活動においてイタリアのみならずヨーロッパのトップを走り続けたということになる。

⑦ B.Migliorini, Breve storia della lingua italiana,  Firenze 1966, p.47.



 実はフィレンツェを中心に、シエナ、ピサ、アレッツォなどトスカーナの諸都市の知的生産性が一挙に高まった時期についても、イタリアの研究者たちによって、かなり厳密にその量的変化をも含めて特定されているので、やはりここで再度取り上げておく。それはR.アントネシリとS.ビアンキーニが共同で執筆した「聖職者から詩人へ」⑧ と題された論文巻末につけられた、タイトルでは詩人となっているが、ベックと同様著者の数に関する統計で、13世紀を4期に分け、都市別ではなく数個以上の都市を含む各々の(今日の州と異なる)地方別に、著者の数の増減を示している。トスカーナ地方の部分だけを取り上げると以下のとおりである。

⑧ R.Antonelli e S.Bianchini, Dal Clericus al Poeta, in “Letteratura Italiana”, op.cit.、pp.171-227. 表の数字はp.212の表から該当する部分を取り上げたもの。


   第一期 (1200-30)     2

   第二期 (1230~ 60)    7

   第三期 (1260~ 80)     87

   第四期 (1280~ 1300)     29


 上の数字によって、1260年を境にトスカーナ地方の性格が一変し、著者の数が一挙に12.4倍にも跳ね上がったことが分かる。なぜか第一期と第二期は30年ずつで、第三期は20年に短縮されているので、同じ長さの期間に換算すると18.6倍にも増加したことになる。さすがに第四期には息切れしたかのようにかなり減っているが、それでも第二期の数倍には達している。14世紀の著者の数を示したベックの表で、トスカーナ地方の都市は、一位フィレンツェ、二位シエナ、五位ピサ、七位アレッツォという優秀な成績を収めていたが、この時期の変化の延長だと考えると納得がいくはずである。フィレンツェ単独の増減は把握できないが、これまでに見てきたいろいろな数値から考えて、フィレンツェ出身者がその内で抜群の比率を占めていたことに疑間の余地はあるまい。

 しかし上の数字に対して、こうした著者数の増加は、他の地方にも見られる一般的現象ではないかという疑間が生じるかも知れない。しかしこうした極端な増加がイタリアの他の地域では生じていなかったことは、トスカーナ地方を除くイタリア全土の著者の総数が、第二期から第三期 にかけて、52人から37人 に減少しているという事実からも明らかである。こうした減少の主要な原因はナポリを含む半島南部地方の11→2や、シチリア地方の12→0という劇的なまでの減少にあるのだが、ミラノを含むロンバルディア地方でも9→4、ローマを含むラツィオ地方でも5→2という減少が認められる。たしかにエミリア・ロマーニャ地方の3→11、リグーリア地方の3→9という大幅な増加の例が見られなくはないけれども、トスカーナ地方の7→87に較べると、絶対数から考えても大した変化だとは見なせないであろう。さらにエミリア・ロマーニャ地方はトスカーナ地方に隣接して交流も盛んなので、トスカーナ地方に生じた変化に影響されたか、あるいはむしろそれと連動していた可能性が十分に考えられる。

 このようにトスカーナ地方では、1260年ごろを境にその住民たちの内面に劇的な変化が起こっていて、その知的生産能力は一挙に高まっているのであるが、中世イタリア史の研究者の間でそうした事実が共有されているとはとても考えられない。本場のイタリアにおいても、アントネッリとビアンキーニが掘り起こした著者数の12.4倍、実質18.6倍もの増加という変化が、まともに取り上げられた形跡は認められない。しかしこの数字をまともに取り上げるならば、その後少なくとも200年は読いたトスカーナ地方およびフィレンツェの知的生産性の劇的な上昇という、ほとんど第一型イタリア・ルネサンスの実質的な開始とも見なし得る現象について、それが発生したまさにその時点を特定することに成功している訳であり、私には極めて貴重な発見だと思われるのである。こうした変化が明らかにされた以上、当然その契機は何だったかを考察しなければなるまい。

 もちろんこれに対して、知的生産性の変化などという現象に関しては、特別な原因などは不要であり、長年にわたって社会的条件が整えられたことがそうした結果を生み出したのだとする立場があり得るかもしれない。私もたしかにそうした立場があり得ることは認める。しかしもしそうした立場を取るならば、今度はなぜトスカーナ地方およびフィレンツェにはこの時期にそうした条件が生まれ、他地方ではそうした条件が生まれなかったのかという、別のさらに重大な疑間が発生するはずである。かつてマラパルテという鬼才が『いまいましい トスカーナ人』⑨ という本でトスカーナ人の優秀さを宣伝していたが、それに類したトスカーナ人超人説でも取らないかぎり、人種的にはエトルリア人の子孫がやや多い(ただし肝心のフィレンツェはローマの植民市であり、当然その子孫が多い)程度で、気候条件や環境等に周囲の地方とは大きな違いが認められないトスカーナ地方においてのみ、この時点でそうした好条件が整えられ、その結果が現れたのかという理由を説明する必要が生じ、むしろそのことの方が至難の業ではないだろうか。それよりも大きな変化が発生した場合には、その前に発生した何らかの具体的な出来事にその原因を求める方がはるかに論理的であり、説明も容易であると私は考える。

⑨  C. Malapatte, Maledetti Toscani(1956).


 そこで時期を1260年以前に限定し、トスカーナ地方でそうした劇的な変化が生じた原因を客観的に考えるならば、やはりなんと言っても1260年9月4日にそれまでトスカーナきっての軍事大国だったフィレンツェの軍隊がモンタペルティの野でシエナ軍に敗れ、それまで10年にわたってフィレンツェを支配していたプリーモ・ポポロ政権が崩壊したこと以外には考えられないのである。

 ところが話をややこしくしているのは、この敗戦だけではフィレンツェの繁栄はなく、そのためにはもう一つの事件が加わらなければならなかったことである。それは1266年2月26日にフランスの王子シャルル・ダンジューがイタリア十字軍をひきいて、シチリア王マンフレーディをベネヴェントで倒したことで、イタリアのグェルフィ党勢力は一挙に挽回し、フィレンツェでも同年11月ポポロに、勢力がギベッリーニ党を市外に追放してグェルフィ党を呼び戻すことができた。さらにかつてはフリードリッヒ二世の支配下にあり、ギベッリーニ党の牙城であったために、フィレンツェ人が容易に進出できなかった南イタリアがグェルフィ党の勢力下に入ったために、フィレンツェ人の市場は一挙に拡大したという客観的事実によって、その後のフィレンツェの経済的繁栄が一応説明できるために、モンタペルティ敗戦の影響は無視されることになったのである。

 フィレンツェ人はさらフランスをはじめとするヨーロッパ各地に進出し、たまたまヨーロッパ経済がおそらく中世最高の好況期を迎えつつあったことも幸いして、フィレンツェ経済は黄金時代を迎えることになった。最近ナジェミーによって著された、今日最も信頼に値すると思われる『フローレンス史』においても、それまであらゆる面で二流のコムーネだったフィレンツェが経済的にも、文化的にもイタリアで一流国家に変貌したのは、13世紀後半のことであったことが明記されている 。たまたまモンタペルティ戦争に敗れて亡命中のフィレンツェ市民が、シャルル・ダンジュー一世のイタリア十字軍にさまざまな形で協力したこと、そのことがフィレンツェ人の各地への進出を有利にしたことは確かである。そこで従来の歴史家は、モンタペルティの敗戦の影響を無視して、ベネヴェント戦争におけるフランスと親グェルフィ党勢力の勝利およびその後の経済的好況だけで、この時代のフィレンツェの経済と文化の両面における驚異的な発展を説明するのに十分だと考えて、モンタペルティ敗戦の影響を無視し続けて来たのであった。

⑩ J.M.Najemy, A History of Florence1200-1575, Malden etc. 2006. 

経済については96ページ、文化については28ページ。


 この敗戦は、トスカーナ地方で強盛を誇ったプリーモ・ポポロ政権を崩壊させたという事実だけでも決して軽視できず、ヴィッラーニ等の年代記類にも結構豊富に記録されていたにもかかわらず、その影響は従来のフィレンツェ史研究ではほとんど無視され続けてきた。マキアヴェッリの『フィレンツェ史』でも、プリーモ・ポポロ政権が絶賛されているにもかかわらず、その敗戦の経緯は「ファリナータの奔走」の一言で済まされ、大殺戮のすざましさと市民の亡命だけが語られている

⑪ マキアヴェッリ全集第三巻、ニッコロ・マキアヴェッリ著、在里・米山訳『フィレンツェ史』 東京 1999、67ページ。


 あれほどフィレンツェの文献にくわしく、前章で見たとおりその著書のために他のどの国の文献よりもそれらを利用したブルクハル トも、この戦争については一言も触れていない。もっとも、第一章でフィレンツェについて論じた節のタイトルは、「十四世紀以降のフィレンツェ」となっているので、1260年の出来事に触れていなくても当然だが、問題はこの敗戦やそれに伴う政変や亡命などといったフィレンツェが体験した試練に全く触れずにフィレンツェの特異性が把握できるだろうか、という疑間の念が禁じ得ないことである。こうしたフィレンツェ人の試練の時代を無視するならば、プリーモ・ポポロとセコンド・ポポロの間にすざましい敗戦とギベッリーニ党による支配とそれに代わるグェルフィ党の政権とが介在していたなどとはとても想像し得ず、あたかも13世紀を通してフィレンツェ共和国が順風満帆に、全然挫折することなく繁栄し続け、市民的政体を改善しつつ、近代化への改革を着々と進めていったという印象を与えるはずである。そして私は敗戦以前のフィレンツェが他のコムーネに劣らず発展していたことまでは否定ないが、そうした順風満帆的印象が事実とは程遠いと言わざるを得ない。しかし従来のフィレンツェ史像の大半が、ブルクハルトが与えようとしたフィレンツェ史のイメージに、基本的に忠実だったと思われてならない。

⑫ なお原著にはなくて『世界の名著59 ブルクハルト』に付けられているフィレンツェ史の略年表は、まさにこうした印象を助長するもので、 1252年のプリーモ・ポポロ政権のフィオリーノ金貨鋳造を記した後に、「このころからフィレンツェ経済は全盛期に入る」としている。これはナジェミーの記述から考えても早すぎるのではないだろうか。もちろんモンタペルティの敗戦については全く触れられておらず、あたかもフィレンツェでは、敗戦や亡命などとは無関係に文化や経済が発達したような印象を受ける。


 要するに13世紀のフィレンツェ史の発展過程に関しては、主に二つの立場があるということになる。その一つは、ブルクハルトの「14世紀以降のフィレンツェ」で記されているように、フィレンツェは古来富裕な都市であり、早くから商業活動が盛んで共和主義的な市民の政権が成立しており、優れた経済政策によって繁栄を続けていて、時には白黒闘争のような紛争はあっても、13世紀半ばからイタリア史のリーダーであり続けた、とするほとんど一般的な立場である。それに対して私一人が提示しているもう一つの立場とは、フィレンツェは諸般の事情からイタリア史への登場が遅く、1250年に登場した第一次市民政権はきわめて好戦的で、10年にわたって戦い続けたあげく、モンタペルティの敗戦によって崩壊してギベッリーニ党の支配下におかれた。幸運にもシャルル・ダンジューのベネヴェントの勝利に助けられてグェルフィ党の支配が復活し、それが敗戦の影響で第一次とは大いに性格が異なっている、国際関係に敏感な、ギルドを基盤として成立している第二次市民政権の成立へとつながり、その政権の下で従来イタリアでは二流だった経済も文化も驚異的に発展して、イタリアを代表するまでに発達したとする立場である。

 先に二番煎じにもかかわらず、延々と数字を並べた理由は、フィレンツェという都市国家が、イタリアの他の都市国家とは極めて異なった個性をもっていたことと、そうした個性はフィレンツェに古来存在していたものではなく、1260年以降にフィレンツェとトスカーナのいくつかの都市とが共有したものに他ならなかったことを示すためであった。そして先に示した知的生産性に関する数字の顕著な変化が、1260年ごろにフィレンツェを中心とするトスカーナ一帯で驚異的な変化が発生していたことを証言しているのである。そういえば、モンタペルティでドイツ騎士団から潰滅的な打撃を受けたのはフィレンツェだけではなく、トスカーナ一帯のグェルフィ党都市の市民軍がフィレンツェ軍と共に潰滅し、その後それぞれの運命に身をゆだねたのであった。したがってその市民たちが、フィレンツェ市民と同様のショックを受けて、同様の変化を示したのは当然だと言える。

 すでに見たとおり経済的繁栄という現象だけであれば、ベネヴェント戦争の結果による南イタリアのグェルフィ党化だけでも一応説明することができる。しかしフィレンツェのみならずトスカーナ全域でその後2~3世紀も続いたイタリアで抜群に高い知的生産性(それが芸術活動の活性化とも連動していることは明らかである)を説明するには、フィレンツェから遠く離れたベネヴェントの野原で起きた、フィレンツェの騎士団が参加したとは言え、外国の軍隊同士で戦われた戦争の結果としては到底説明できない。なぜならこうした長期にわたる影響が生じるためには、単なる状況の好転などではなく、市民一人一人が各々の内的体験を通して変化し、かつそれを家族を通して子孫に伝えることを必要としているからである。そうしたフィレンツェ全市民、あるいはトスカーナ全域の住民に影響して共通の変化をもたらした体験と言えば、ヴィッラーニがその著書で「痛ましい敗戦のニュースがフィレンツェに達して、悲惨な戦場からの逃亡者たちが帰国すると、フィレンツェの男女は天に届くばかりの泣き声をはり上げた」 と記しているモンタペルティの敗戦以外には考えられないのである。実はナジェミーの近年の労作が13世紀後半に二流から一流にのし上がったことを証言している、フィレンツェ人の経済活動に関しても、状況の好転などという従来の説明では到底不十分で、ヨーロッパ各地へのフィレンツェ市民の貪欲なまでの進出は、やはり市民一人一人の内面の変化がなくては不可能だったと思われるのだが、ブルクハルトに代表されるフィレンツェの順風満帆式の発展イメージが強すぎたために、そうした変化の動機は完全に見落とされたまま、特定の動機を持たない発展と見なされたまま今日に至ったのである。

⑬ ヴィッラーニ、『年代記』、第6巻、第79章。


 モンタペルティ敗戦後の変化について、ヴィッラーニの証言を重視してその変化を重大視する立場を取る研究者は、私以外にはほとんどいない。ブルクハルトのようにこの敗戦を完全に無視するか、あるいは現在のルネサンス研究の本場とも言えるアメリカの代表的な研究者たちのように、歴史上の事件としてそれが存在したことは認めても、その影響をほとんど認めない研究者が大半のようである。たとえばヴィッラーニがプリーモ・ポポロ時代には人々は愛国心が強く正直であったこと、少額の持参金で済んだこと、服装等が質素で勇敢だったことなどを彼自身の時代と対照的に論じているのに対し、C. T. デーヴィスの論文「古き良き時代」 は、ダンテが『神曲』で高祖父が生きていた12世紀のフィレンツェ人の美徳と見なしていたものを、ヴィッラーニは時代を下げてプリーモ・ポポロ時代のフィレンツェ人の美徳として賞賛しているとし、ヴィッラーニの一連の証言は、「古き良き時代」というトポス(決まり文句)と見なすべきもので、後世の人々に訓戒を垂れているに過ぎないとしている。さらに彼はヴィッラーニが指摘したような変化はなかったことを強調するあまり、フィレンツェはプリーモ・ポポロ時代とヴィッラーニが生きていて、フィレンツェが最も栄えていた1339年ごろとの間に、その状態にも政府にも大差がなかったとまで断言している。 まさにブルクハルト的な見方に忠実な立場だと言えるであろう。しかしダンテもヴィッラーニも共通して、プリーモ・ポポロ時代のフィレンツェ人が「狂気(ラッビア)」に取り憑かれて戦争に明け暮れていたことを認めていて、さらにダンテはモンタペルティ敗戦がその狂気を一掃させたことを認めていたのではなかったか。 またナジェミーの近著が認めているとおり、フィレンツェはそれ以後に、文化的、経済的に急激に発展したという事実は、無視し得ないのではないだろうか。

⑭ C.T.Davis, Il Buon Tempo Antico, in “Florence Studies”(edited by N.Rubinstein)London 1968, pp.45-69.

⑮ Ibid., p.69.  But when he [=Villani] made his great survey of her[of Florence]power(c, 1339)[Villani, XI, 91-4], the state and government of Florence was not so obviously different from her state and government 

between 1250 and 1260.

デーヴィスはこのようにプリーモ・ポポロ時代とセコンド・ポポロ時代の間に、フィレンツェでは大きな変化は生じていないと断言しているのである。

⑯ Ibid., p.54 において、デーヴィス自身、ダンテの『神曲』 (purg.XI, 113)でも、ヴィッラーニの『年代記 』(VI, 78)でも、そして彼がヴィッラーニの作品の模作と考えているマリスピーニの作品 (ch.171)でも、プリーモ・ポポロ時代の好戦性を表すのに、共通して rabbia(狂気)という言葉が用いられているという事実を指摘している。その同じデーヴィスが、そうした「狂気」に取り憑かれていたプリーモ・ポポロの時代と、1339年ごろとの間にはっきりした変化はないと、本気で断言できるのであろうか。


 ここでモンタペルティ敗戦の後にフィレンツェはどのように変わったかを具体的に見ておかねばならない。まず第一に、好戦的で毎年のごとく周囲のコムーネと戦争を繰り返していたプリーモ・ポポロ政権が崩壊したことと、この戦争から真っ先に離脱したため36人しか犠牲が出なかったとされる騎士階級に較べてはるかに大きな打撃を受けたと伝えられているフィレンツェ人の平民階級の間に、戦争を嫌う気分が生まれ、その後もその影響が根強く残ったことを認めなければなるまい。ヴィッラーニは、軍人として冷静にモンタペルティ遠征の危険を指摘して反対した騎士たちと、あくまでも出陣を強行するプリーモ・ポポロ政権の首脳部とを対照的に描いているが、それまでの10年間戦争を主導して来たのは、皇帝権力の欠落による力の空白から生じた周辺都市への連戦連勝状態によって自らの権力を維持してきた平民階級であった。しかし彼らは敗戦によって一気に戦う意欲も動機も失なつた。だからおそらくモンタペルティの敗戦がフィレンツェ共和国に与えた最大の影響は、フィレンツェ平民階級の戦争離れであったと見なすことができる。そうした平民階級の厭戦気分に形を与えたのは、グイド・ノヴェッロに代表される新しい支配階級のギベッリーニ党であった。彼らはプリーモ・ポポロの軍隊を解体し、その武器を封建領主の城に運ぶなどして、フィレンツェ市民が戦えないようにした。 平民の指導者やグェルィ党にとっては悔しい事態であったが、平民階級にとっては一概に迷惑だったとは言えない。少なくともプリーモ・ポポロ時代のように 毎年何度も兵役に駆り立てられることなく、落ち着いて仕事に専念できたからである。フィレンツェの領域部の住民にとっても同様で、従軍の義務を果すことは犠牲を伴い、その義務を軽減されるに越したことはなかったからである。なおフィレンツェの戦争離れについては、次の章で詳しく論じたい。

⑰ ヴィッラーニ、『年代記』、第6巻、第185章。


 モンタペルティ戦争がもたらした第二の影響は、フィレンツェ人の間に国際関係に対する本能的な配慮が生じたことである。近年公にされた、慣例通り深夜に進軍して来たフィレンツェ軍を中心とするトスカーナ連合軍を、シエナ軍とドイツ人騎士団が待ち伏せて強襲したとするモンタペルティ戦争のイメージに従うならば、従軍したフィレンツェ市民の身には、まさに目を疑うような出来事が起きたのである。シエナ側の資料には全くなくて、客観的に考えても到底事実とは信じ難いファリナータ謀略説がフィレンツェでは事実として信じられ続けたのも、シエナ方の反撃が余りにも強力で予想をはるかに上まわっていたためだと思われる

⑱ 米山『敗戦が中世フィレンツェを変えた』、第一章、第四節で、モンタペルティ敗戦は、大別して4種類の形で語られていることが紹介されている。フィレンツェの年代記類やダンテの『神曲』は、ファナリータ・デッリ・ウベルティの謀略説を取っていて、シエナの記録や近代の歴史家の仮説など、それ以外の説とは真っ向から対立している。


 こうした苦い体験を通してフィレンツェ人が得た最大の教訓は、国際関係を軽視してはならない、というものだった。都市の規模や軍事力において明らかに格下であり、すでに何度も対戦していて、抵抗したとしてもたかが知れていると侮っていたシエナが、マンフレーディ王から援軍を得て巧妙な作戦を立てた結果、予想をはるかに上回る反撃でフィレンツェ軍のみならず好戦的な市民政権自体を粉砕したのだから、ファリナータの諜略の真偽は抜きにしても、国際関係の重要さを認識したことは当然である。ベネヴェント戦争の後にグェルフィ党が復権したフィレンツェが、ナポリ王国やアンジュー王朝関連の軍隊や軍人に長年にわたって依存し続けたのも、こうしたモンタペルティ敗戦のトラウマを反映しているのである。

⑲ 同、第三章、第一節のシャルル・ダンジューの軍隊のトスカーナ介入以来、フィレンツェはポッジ・ボンシ等の失地回復や、コッレ・ディ・ヴァル・デルサ戦争、カンパルディーノ戦争等ことあるごとに指揮官や援軍をアンジュー家に求めた。ハインリッヒ七世との戦いも、ロベルト王との連携で戦われ、カストルッチョ戦争でも、カルロ二世 の援軍を求めた。


 グェルフィ党が1266年にフィレンツェに復帰した後、フィレンツェはアンジュー王家の係累に対してのみ、何年にもわたって領主権を委ねている という事実も、フィレンツェの発展を基本的に順風満帆だったと見なしている人々からは全く無視されているが、けっして軽視し得る事柄ではなく、まさにフィレンツェを支配していたモンタペルティ戦争のトラウマの結果以外の何物でもない。またこのこともなぜか多くの歴史家によって無視されているが、モンタペルティ敗戦当時フィレンツェが教皇庁から破門されていたと言う事実も重要である。それは敗戦天罰説の信奉者でなくとも、やはり国際関係を軽視することの危険さを示す教訓となった。

⑳ 同、第五章、第四節で記したとおり、古来フィレンツェは共和制を堅持してきたことを誇りとしているが、実際は1267年以後の60年間に23年もアンジュー家の王や王子にシニョリーア(領主権)を委ねており、このような関係は他のどの君主とも結ばれていない。


 こうした国際関係の情報やその背景となる人文関連の知識の重視は、そのままその後のフィレンツェ人の旺盛な知識欲と好奇心とにつながっている。スペイン王への使節の旅の途中でモンタペルティの敗戦を知り、そのままパリに亡命してフランス語で百科事典『トレゾール』を執筆したブルネット・ラティーニ こそ、そのいくつかの著書執筆や、ダンテを教えてその天才を予告したことなどによって、モンタペルティ敗戦の結果生じたフィレンツェの変化を象徴する人物だと見なすことができる。おそらくラティーニにとって、情報や知識は私たちにとってのそれよりもはるかに死活に直結した、敵地にいる情報部員が求めている情報のように、まさしく切実な意味を持っていたはずである。

㉑ DIZIONARIO CRITICO della LETTERATURE ITALIANA, Vol.Ⅱ, Torino 1974, pp.361-364. 


 キケロの雄弁術への期待も、単なる古代文化の探求ではなく、フィレンツェ共和国の将来の改革と密接に関連した実践的な意味があった。今日どこにでもころがっている常識にすぎないと思われる程度の知識でも、当時その価値に目覚めた人々にとっては貴重な宝の山であった。また魔術が広く信じられていた当時は、それらの知識のそれぞれが生死に関わりかねない呪術的な意味を帯びていた可能性が大きい。国際関係および人文関係一般の常識の欠如によって敗北したフィレンツェ人は、原子爆弾によって科学技術の力を見せ付けられた現代の日本人が科学に抱いたのと同じ夢と期待を、人文系の知識に対して抱いたはずである。モンタペルティの敗戦は、このようにフィレンツェ人と トスカーナ人の知識欲を一気に活性化し、そのことが先に見た多数の著者を生むことになった大きな理由の一つなのである。その延長として、同じことは ルネサンス時代の人々が古代の知識に対して抱いた夢と期待に関しても言える。老コジモがフィチーノたちを援助したのも、現代国家が核融合や超伝導などといった科学技術に投資するのに似た期待がこめられていたことは否定できないだろう。

 敗戦がもたらしたもう一つの効果は、プリーモ・ポポロ政権崩壊後のフィレンツェ市民の大量亡命である。その亡命の苦難は6年間続き、グェルフィ党騎士団400騎はレッジョやパルマのグェルフィ党の助っ人として活躍して一財産作り上げ、シャルル・ダンジューの軍勢に加わってベネヴェント戦争で活躍したとされている。それはそれで立派な経験であるが、問題はそうした騎士階級ではないため落ち着く先を見出すことができなかった、プリーモ・ポポロ政権の中枢を占めていた平民階級の人々である。彼らは一度はルッカに落ち着いたものの、ルッカ政権がギベッリーニ党と妥協したために再びその地を追われ、「山を越えてフランスに稼ぎにいった」

㉒ ヴィッラーニ、『年代記』、第6巻、第85章。


 こうして追い詰められた1000人近いフィレンツェの市民階級の人々がフランスに逃げ込んだのだが、ヴィッラーニは多くの古人によって、これまでにはなかったこの体験が、「彼らの富の原因」であったと伝えられていることを、「必要は勇者を作る」という格言とともに証言している。すでに見たとおり、彼らの内の何人かがシャルル・ダンジューのイタリア遠征の費用を集めるために協力したことは確実であるが、ヴィッラーニの記述に従う限り、当初からそのような見通しがあったわけではなく、正真正銘の難民としてフランスに逃げ込んだことは明らかである。ところがこの亡命生活は、ベネヴェント戦争後の政変の結果、幸運にも6年間しか続かず、グェルフィ党と市民階級の指導者は祖国に復帰して、まずグェルフィ党が政権を握るが、貴族同士の内紛が絶えないために、着実に市政を支えて来たアルテ、すなわちギルドを基盤とするプリオーレ制度によって統治するセコンド・ポポロすなわち第二次平民政権が成立して、一応永続的なフィレンツェ共和国の形が整い、経済、文化両面における繁栄期を迎える。

 敗戦がもたらしたこのフランスにおける亡命体験が、フィレンツェの市民階級にいかに大きな影響を及ぼしたかは、恐らく私たちの想像を超えているはずである。そのフランスがフィレンツェが覇権を奪う以前にはヨーロッパの文化的覇権国であったことの意義もきわめて重大で、ブルネット・ラティーニはその意義を身をもって証明している。すでに記したとおり、フィレンツェ人はフランスに亡命して、その中にはシャルル・ダンジューの資金調達その他で大いに儲けた人もいたらしい。そうした成功体験はたちまち市民に伝わり、まず味方を求めていたシャルル・ダンジューが統治するナポリや、その領土内の都市、そして十数年の間領主権をシャルル・ダンジューに委ねることで、彼が統治するプロヴァンス地方や彼の故郷でありフィレンツェ人多数の亡命先のフランス、あるいはその向こうのイングランドや現在のオランダなどへと、フィレンツェ人の行動半径は一気に拡大し、イギリスやスペインなどの原料を扱い始めた羊毛加工業も進歩して、金融とならぶ大きな収益を生む産業へと成長した。こうしてヨーロッパのいたるところに散らばったフィレンツェ人は、フランス等の知的先進地域から情報や知識を国に持ち帰り、それを交換し検討し直して再輸出した。こうしてフィレンツェは、ヨーロッパ、とりわけフランスやネーデルランドから情報や知識を吸い込んでは排出する強力なポンプのごとき役割を果し続けたのである。14世紀は危機の時代と呼ばれ、たしかにフィレンツェも多事多難ではあったけれども、一度活性化されたフィレンツェ人の経済活動も知的生産も、困難に襲われれば襲われるほど、むしろそのことを糧にして強化されたという感が強い。

 もう一つ忘れてはならないことは、当時のきびしい生活環境の中では、ダンテら優れた著者たちは文化英雄として、多くの青年の憧れの的であったという事実である。ヴィッラーニはフィレンツェの反逆者であったにもかかわらず、ダンテのために一章を割かずにはいられなかった。  ボッカッチョらもその伝記を書いた。 そうした実例が後のフィレンツェ人の一つのモデルとして影響を及ぼし続けた。ノヴェッラに残された一見あわれな放浪者のダンテ像にすら、ひそかな敬意が籠められていることを見逃してはなるまい。

㉓  同、第9巻、第136章。

㉔  G.Boccaccio, Trattatello in laude di Dante. 

さらにボッカッチョはフィレンツェ市民のために、『神曲』の解説も行っている。(Esposizione sopra la Comedia di Dante)

サッケッティやセルカンビなど、同時代のノヴェッラには時折ダンテが登場する。


 ここまでモンタペルティ敗戦が、第一型イタリア・ルネサンスの時代にイタリアの文化に対して与えたと思われるプラスの要因を探って来たのであるが、それをまとめると以下のとおりである。


1. 敗戦の打撃による平民階級の戦闘意欲の喪失と厭戦気分から軍事離れが生じ、ギベッリーニ党によるフィレンツェの武装解除がその変化を確証した。

2. 以後フィレンツェ共和国自体が戦争への期待を失い、軍事に対して消極化した。

3. プリーモ・ポポロ時代に比して市民と領域内の住民の兵役義務が軽減されたこと。

4. 敗戦の反省から国際関係の情報の必要を痛感したこと。

5. 前項の情報の予備知識としての人文系の知識欲が盛んになった。

6. 知識そのものの呪術的効果への夢と期待が強まり知識欲がさらに刺激された。

7. 敗戦の結果多数の亡命者を生み、フィレンツェ人が集団的に外国文化に触れた。

8. 市民階級の多数が亡命した先のフランスが当時のヨーロッパの知的覇権国であったために、多くの市民が新しい知識を吸収した。たとえばブルネット・ラティーニは最新の知識を集めて著述するとともに、帰国後はダンテらに当時の最先端の知識とともに、最先端で活躍するためのノウハウをも教えた。

9. ベネヴェント戦争の結果早く帰国できたため、フィレンツェは指導層に大量の国際人を擁することができた。国際的な知識がそれ以後の指導者の必須条件となった。

10. 亡命者たちによるフランスでの経済的成功体験が、フィレンツェ市民をナポリ王国、フランス、イングランドその他への進出へと駆り立てた。

11. こうした基盤に基づいてヨーロッパ各地に広がったフィレンツェ人が、持ち帰った情報を交換して、各地に再輸出した。フィレンツェ人は、ヨーロッパ全域から情報を持ち帰り、それを再び放出するポンプのごとき役割を果し続けた。

12. ブルネット・ラティーニやダンテらが文化英雄として、次の世代以降の若者に生き方のモデルを提供し、多くの著者たちを生む原因となった。



「第四章  第二型のイタリア・ルネサンスに与えたモンタペルティ現象の影響」


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