モンタペルティ現象3-2


潮流に乗って

~第二次世界大戦後のモンタペルティ現象~

米 山 喜 晟





第二章 戦後世界のモンタペルティ現象を支えた

基本的条件


 戦後世界における日・独・伊三国の「経済の奇跡」を見る時、それらの現象が三つの卵のように似ていること認めざるを得ないのではないだろうか。そしてそれらの実現を目の当りにした私たちにとって、それは奇跡どころかむしろかなり自然な経緯のようにさえ見えてくるのだが、 敗戦に直面した時点でこれらの経緯を予見できた人はおそらくこの世に一人も存在していなかったに違いない。また焼け野原に変わった東京を見た人々の内のだれが、20年足らずの内にオリンピックを開催するまでに復興する姿を予想できたであろうか。だからこそ、その後の三国の経済の発展ぶりに驚いた世界の人々は、それらを奇跡と呼んだのであろう。前章で見たとおり、この事実は紛れもなく敗戦と深く関わっていて、敗戦を抜きにしては考えられない出来事なので、当然モンタペルティ現象の実例に加えることが可能だと思われる。しかもいささか古くて資料が不足しているために完全に忘れられている中世フィレンツェの例とは異なり、私たちが生きている間に発生しているので資料にもこと欠かず、くわしく考察することができる。そこでまず本章では、これら三つの敗戦国に共通していた要素がいかなるものであったかを考えて、この現象が発生するために必要な基本的条件を考察しておきたい。

① イタリア史やドイツ史では「奇跡の」と表現されているが、一時期の日本ではそれよりも高い成長が見られたのに、日本史や日本の経済史関係の著書では通常「高度成長」と呼ばれているだけで、「奇跡の」という形容句はほとんど見られない。


 日・独・伊三国に共通している条件としてまず真っ先に思い付くのは、すでに以前に私が日本について指摘しておいた通り、いずれの国家も当時の軍事大国であるか、少なくともそれを志向し、かつまたその意図を広く表明していたという事実である。まずドイツの場合、第一次世界大戦には最後に敗れたとは言え大国ロシアを崩壊させており、また19世紀の後半のドイツ統一を巡る戦いにおいては、後にドイツの中核となるプロシャがまず当時ヨーロッパ屈指の大国だったオーストリアと、続いて当時のヨーロッパのリーダーを自負していたナポレオン三世の率いるフランスと相次いで戦い、これらに短期間で完勝するなど、本来強力な軍事力を誇りにしていた。ヒトラーの率いるナチズム体制はその伝統を復活させただけでなく、さらに過激かつ性急に軍事力の成果を追及し、第二次大戦の開戦以前からポーランドヘの侵略やスペイン内乱への干渉など、一貫して軍事活動に積極的で、第二次大戦勃発後はイギリスを除くヨーロッパ西部を席巻した後にロシアにまで攻め込み、一時期はヨーロッパの大半をその勢力圏に収めている。また日本も、衰えたりといえども当時自国よりもはるかに大きなな版図を有していた清、続いて世界屈指の軍事大国だったロシアを破り、さらに中国大陸の混乱と第一次大戦中のロシア革命とでアジアに生じた力の空白に乗じて中国東北部に満州国を建国した後、中国の本土深くに攻め入っており、第二次大戦勃発当初はアジアと太平洋上に広大な勢力圏を広げた。近代化が遅れていて、独立戦争の際にフランスの力を借りねばならなかったイタリアの場合でさえ、少なくともローマ帝国の栄光を夢見て軍事大国の再現を志向していたことは確実であり、第二次大戦の勃発に先立ってエチオピア・エリトリア・ソマリアなどを併合し、またドイツと共にスペイン内乱に関与した後にアルバニアを侵略、第二次大戦勃発後一度は非交戦国宣言(1939.9.1)をしておきながら、ドイツ軍の快進撃に幻惑されて結局参戦し、リビア、エジプト、ギリシャなどへの侵略を試みている

② 拙稿『「モンタペルティ現象」試論』(「百万遍第3号」所収)

③ 以上の記述は、主に北原敦編『イタリア史』東京(山川出版杜)2008、木村編『ドイツ史』前掲書および、宮地正人編『日本史』東京(山川出版杜)2001の巻末年表などに基づいている。


 しかしかつての中世フィレンツェがそうであったように、当時彼らを取り巻いていた世界においては軍事大国だったとしても、それはあくまで相対的な意味においてであって、絶対的な意味では、これら三国はともに当時の世界の中ではどうひいき目に見ても大国とは言えない、せいぜい中規模の国家に過ぎなかった。いわばこれらの国々は、人口や面積や資源などにおいて決して大国ではないのに、分不相応に強力な軍備を備えて、軍事に傾倒していたことでも共通していたのである。

 それに対してドイツが戦った相手は、まず当時世界中に膨大な植民地(その多くは当時すでに自治領になっていたが、それでも動員には応じた)を持っていたイギリス、続いてヒトラーが不可侵条約を破棄して侵入した世界一広大な領土を持つソ連、そして途中から戦いに加わったアメリカのいずれもが、人口、領土、資源のいずれにおいても、当時の世界における絶対的な意味での大国であった。日本の場合でも、第二次大戦以前から宣戦布告なき戦いを続けていた中国や、真珠湾攻撃によって開戦したアメリカ、日ソ中立条約を破棄して参戦したソ連は、いずれもがやはり真の意味での世界の大国であった。勿論戦争相手の連合国にはそれ以外に多くの中小国が加わってはいたけれども、とにかく日本やドイツが戦った主たる敵国は、当時の世界における絶対的な意味での大国であった。このようにいずれの敗戦国も、比較的まとまりやすい、大国でも小国でもない中規模の国家であった点が共通していて、このことも第二次世界大戦後のモンタペルティ現象を考える上で見逃せない共通性の一つだと思われる

④ 敗戦という非常事態に対する国家全体の反応とその速度は、国土の広さや人口の大きさによって当然影響を受けたものと思われる。現在のように情報の手段が発達しておらず、さらに戦争のためにそうした手段が阻害されていた時代には特にそうだったはずである。


 さらにこれら三国は、周知のごとくその近代国家としての出発そのものにおいて、きわめて類似しており、軍事国家と化して共に連合国と戦うことをほとんど運命付けられていたと見なせなくもない。まず近代国家として世界史に参加した時期が、偶然著しく接近しており、それまで小国に分かれていたイタリアが苫難の末に、ようやく王国として統一を宣言したのが1861年、久しく徳川幕府の下で鎖国体制を取って来た日本が、明治維新によって公式に世界に登場したのが1868年、イタリア同様小国に分かれていたドイツが統一されて、ドイツ皇帝が戴冠したのが1871年と、まるで示し合わせたかのように、これら三つの国は、約10年の間に近代国家として世界に登場しているのである。

 このようにそれぞれの事情から遅れて世界の舞台に参加した三国は、すでに見たとおりともに領土にも資源にもあまり恵まれていなかったが、さらに重要なことは、遅れて登場したために当時のヨーロッパの先進国が南北アメリカ、アフリカ、アジア一帯に有していた広大な植民地または元植民地を持たず、あわててその獲得に奔走せねばならなかったことである。三国にとって悔しいことは、国土そのものはさらに狭小なオランダやベルギーやポルトガルでさえも、有利な植民地や元植民地を持っていて、その富を収奪したり活用しているという事実であった。勿論日・独・伊の三国は手をこまねいていたわけではなく、それぞれ植民地獲得に奔走してそれなりの成果を挙げてはいたが、すでに資源や好条件に恵まれた地域はほとんどイギリスを筆頭とする「持てる国」に押えられていて、要するに三国が植民地と資源とを「持たざる国」であった点が共通している。おまけにドイツの場合は、第一次大戦の敗北によって、それまでに獲得していた植民地を手放さねばならなかったという事情が加わり、「持たざる国」としての屈辱感が一層強かった。彼らの結束を強めたのはまさにこの共通点であった。

⑤ すでに植民地が独立した後でも、英国とアメリカやスペインおよびポルトガルと南米諸国の関係からも分かるとおり、宗主国と元植民地との関係は完全に切れてしまうわけではない。たとえ一時期は険悪であっても、年数が経つにつれていつのまにか関係が修復され、互恵的関係に落ち着いている例が多いのではないだろうか。


 以上は三つの国自体の特性に見られる共通点であったが、恐らくそれ以上に重要な事柄は、アメリカが主導国となって三つの敗戦国に対する処置の大半を決定したことではないか、と思われる。三国同盟中で最も重要な役を演じたドイツが20年前に第一次世界大戦に敗れた時には「経済の奇跡」は起こっておらず、それどころか敗戦後に誕生したワイマール共和国では、まず通貨が天文学的な数字に及ぶ未曾有のインフレに襲われて預金や債権は紙屑と化し、賃金生活者や年金生活者らは苦難の日々を体験している。1923年11月、1兆マルクを1レンテンマルクと交換するという極端な平価切り下げによってインフレが何とか収まったかと思う、 そのわずか6年後の1929年10月にアメリカで発生した世界大恐慌が波及して、賠償の支払いに関してアメリカに大きく依存していたドイツは、その影響をもろに受けた。1930年以降急激に失業率が高まり、1932年には何とそれは29.9%という恐るべき数字に達した。 したがってワイマール共和国においては「経済の奇跡」どころではなく、まさに経済こそこの国のアキレス腱であり、少なくとも二度もそれが切れたために身動きできなくなり、自滅に近い仕方で崩壊した結果、ヒトラー率いるナチス党の第三帝国に体制を譲らねばならなかったのだ。ワイマール共和国の誕生から終焉までの経緯と、理想主義的憲法の下で国民が体験した苦難と屈辱の現実とを見る時、その後の行動は容認できないものの、少なくとも超国家主義的なナチズム体制を選んだドイツ人の怒りだけは了解できると思う人は、私一人ではあるまい。

⑥ 木村編『ドイツ史』、299ページおよび巻末年表の、39ページ。

⑦ 同上289ページの工業生産指数と失業率の表。


 しかし敗戦によって苦難の道を歩み、その結果全体主義的独裁体制に走った国は、ドイツだけに限らない。実はファシズム国家の出現に先駆けて、日露戦争に敗れて10年も経たない内に、第一次大戦でもドイツ軍の攻勢に苦しんだロシアでは、ロマノフ王朝の支配体制が崩壊し、暴動と混乱が相次いだ後、レーニンの指導の下でボルシェヴィキが勝利して、ファシズム以上に徹底した全体主義的独裁体制である共産主義体制が樹立されている。日本の知識階級の間では、敗戦後久しく共産主義体制が美化されていて、人民民主主義は民主主義の未来のあるべき姿のように説かれることさえあったが、 スターリン批判や東欧の相次ぐ暴動などで次第にその実態が明らかになり、1991年にソ連が解体するに及んで、さすがに現代の日本にはそれが粛清と強制収容所とで維持されるファシズムに勝るとも劣らぬ恐怖の独裁体制であったことを認めずに賛美し続けている人は、ごくわずかしか残っていないはずである。同様に、第二次大戦に一応名目的には勝利国に加わったとはいえ、日清戦争に敗れた後、長年にわたって日本軍に攻め込まれていた中国でも、終戦後の混乱と内戦の後に、毛沢東の指揮下でソ連をモデルとした共産主義体制が樹立された。それはスターリンが多くの同志を粛清したソ連同様のきびしい全体主義的独裁体制で、文化大革命などで多数の国民を粛清しながら、今日も存続している。それどころか経済を国際的に解放した結果、世界の工場として高度成長期に入り、目下大繁栄の様相を呈しているが、共産党の一党独裁体制であることは変わらず、民主化の兆候も感じられない。むしろ経済的繁栄によって一党独裁体制への自信を強めていて、中国の国民は自由や人権を獲得すること以上に、独裁体制を支えて自国の勢力が拡大することを望んでいるという印象が否めない。何しろ人口的に桁外れの大国なので、日本を含めたその周辺の国々は、常にこの巨大な独裁的権力の影響を感じざるを得ないのが実情である

⑧ 史的唯物論に基づく発展段階説では、資本主義社会の後に共産主義社会が到来することが歴史の必然だと説かれていた。

⑨ 1970年、日本人でただ一人北京に残ることを許された朝日新聞社の秋岡特派員は、文化大革命を讃美し続けたが、ナンバー2の林彪の変死あたりから、それが多くの死者を伴う権力闘争だったことが日本でも次第に知られるようになった。

⑩ 韓国の状況などを考えると、大国でなくとも強力な独裁国家が隣にあるだけで大きな影響を受けることは、金元大統領、廬前大統領の選出などによっても推察できる。


 実は第一次大戦で、国境に近いカポレットの戦闘で敗れたためにオーストリア軍に攻め込まれ、その後国内を蹂躙され続けたあげく、終戦間際にようやく勝利を得て失地を回復できたイタリアでも、一応名目上は戦勝国に加わったものの、国民の一部に第二次大戦後の中国と似たような気分が生じており、一時期労働組合や農民組合の活動が盛り上がった。 1922年10月、ロシア革命のイタリアヘの波及を恐れた国王らが、左翼勢力と暴力的に対決していたムッソリーニの率いるファシスト党に政権を委ねたため、世界で初めてファシズム政権が樹立され、その体制はその後1943年の7月のムッソリーニ罷免まで、実に20年間以上にわたってイタリアを支配し続けた。イタリアで生まれたこの体制は、1933年にワイマール共和国が破綻した際に、怒れるドイツ人に共産主義以外の全体主義的独裁体制のモデルを提供し、さらにその後ファシストたちの同盟が第二次大戦を引き起こしたことで、世界史的意味を持つこととなった

⑪ 北原編の前掲書『イタリア史』によると、1919年11月の総選挙で、社会党は156議席を獲得して、自由主義諸派の約200議席に迫り、翌20年の地方選挙では、社会党がエリア・ロマーニャ地方とトスカーナ地方で圧勝した。

⑫ アンドレ・フランソワ=ポンセ著、大久保昭男訳『ヒトラー=ムッソリーニ秘密往復書簡』東京(草思社)1996、7~8ページのポンセの解説には、「明らかにナチズムはファシズムに多くを負っている。そこから生まれたのだともいえる。ファシズムの模倣であり、ドイツ的・プロシャ的方式に基づく移植ともいえよう。ナチズムはファシズムから、特徴的な諸制度、親衛隊、褐色の制服、古代ローマ式の敬礼、青年組織、職場クラブ、さらには “ドゥーチェ”(統領)の訳語にほかならない、“フューラー”(総統)の称号まで借用した」と記されている。またヒトラー(1889~1945)は、1922年に政権を奪取していたムッソリーニ(1883~1945)から資金援助を受け、避難所や支援も提供されていたので、その恩義を認め、師に対するようにつねに配慮と敬意を表明していた、とされている。


 このような観点に立つ時、共産主義とファシズムという現代における二つの全体主義的独裁体制の成立は、モンタペルティ現象と同様、敗戦もしくはそれに準ずる状況と密接な関係があるように思われる。ただし全体主義的独裁体制、特にファシズムに関して言えば、第二次大戦の敗北まで敗戦を体験することがなかった日本でも発生し、ポルトガルやスペインでも発生しているので、必ずしもそのすべてが敗戦の結果だとは言えない

⑬ ソ連に代表される共産主義陣営の見解では、ファシズムとはさまざまな矛盾がもはや解決し得ないまでに進行した時点に発生する資本主義の末期的症状とされ、クーデターなどで生まれる反動的独裁政権は、一般的にファシズム体制だと見なされていた。彼らにとってファシズムとは過去の断末魔的存在であり、未来を制覇するはずの共産主義の対極にあるものとされていたが、粛清と強制収容所と嘘まみれの宣伝によって一党独裁(しかもその一党の権力は民主集中制によって一人に収斂しがちであった)を貫徹する統治の在り方が酷似していることは否定できない。彼らは共産主義社会の到来に反対する勢力を一括して「ファシスト」と罵った。またこうした歴史観に基づいて、ソ連はドイツの支配から解放した東欧諸国を、ファシズムから解放したことと新しいファシズムから守ることを理由に、第二次大戦後の半世紀近く支配し続けた。イタリアのファシズムをくわしく研究したデ・フェリーチェは、ファシズムを反動勢力として安易に一般化することに反対している。レンツォ・デ・フェリーチェ著、西川知一、村上信一郎訳『ファシズムを語る』京都(ミネルヴァ書房)1979参照。


 こうして世界の大勢を見る時、第一次大戦の途中あるいはその後には、いくつかの国で共産主義とファシズムという二つの全体主義独裁体制が誕生し、しかもわずかその20年後には再び前回をはるかに上回る規模の第二次大戦が勃発しているのに対し、第二次世界大戦後には、私が「モンタペルティ現象」と呼んでいる現象が日・独・伊三国に発生し、また大戦前半にドイツに敗北して占領されたフランスやベネルックス三国などでも類似の現象が発生していて⑭ 20世紀後半の繁栄を支えており、またたしかに朝鮮やヴェトナムや中近東などの各地で戦争が勃発したけれども、半世紀余りにわたって世界大戦に拡大することはなかったという点で、二つの大戦後には際立った差異が認められる。

⑭ すでに指摘したとおり、フランスやベネルックス三国は、第二次大戦の前半では敗者であり、自力でドイツ軍を排除したわけでもなかった。したがって敗戦国に発生するモンタペルティ現象が発生する可能性があり、事実戦後の知的分野をリードしたフランス文化の異様な活力は、モンタペルティ現象と見なされるべきものであった。ただし日・独・伊三国のように軍国主義を標榜していたわけではないので、いくらか事情は異なる。


 そこで私たちが直面するのは、第一次大戦と第二次大戦とがなぜこれほど大きく異なった結果を生み出すことになったのかという疑問である。この点に関して、私たちの一般的な常識では、第一次大戦後にはフランスに代表される戦勝国が膨大な賠償を請求したり、ドイツの領土の一部を占領したりして、そうでなくとも不満が欝積していたドイツをいじめぬいたのに対して、 第二次大戦後には圧倒的な経済力と軍事力とを兼ね備えたアメリカが戦勝国の代表として、敗戦国をも含めて戦争で疲弊しきっていた西側の国々にマーシャル・プランやガリオア・エロア資金に基づく膨大な援助 を行って、それらの国々が立ち直り繁栄するのを助けた、という違いが真っ先に頭に浮かぶ。前章で引用したアーベルスハウザーのいくらか否定的な見解のように、こうした援助の効果についてはいろいろな見方があり得るが、援助それ自体以上に重大なことは、敗戦国と対処した際の戦勝国側の態度の違いだと思われる。

⑮ 木村『ドイツ史』、297ぺージの1320億金マルクの賠償金やその結果生じた天文学的数字のインフレ、同書、298ぺージの仏・白両軍によるルール地方侵入と賠償の直接取り立てなど。

⑯ 平凡社版の『世界大百科事典』のそれぞれの項日によると、マーシャル・プランとは正式には「ヨーロッパ復興計画」といい、1947年6月アメリカ合衆国・国務長官G.C.マーシャルが表明し、48年から52年にかけて総額130億ドルが、多い順にイギリス、フランス、イタリア、西ドイツ、オランダなどに供与された。ガリオア・エロア資金とは、「占領地域統治救済資金」および「占領地域経済復興資金」の総称で、アメリカ政府の予算で1947年から50年度にかけて日本、韓国あてに、前者には食糧、医療品、肥料など、後者には鉄鉱石、石油、石炭、機械類などが供給された。日本あての分は総額19億ドルに達し、当初は贈与とされたが、後に債務とされ返済交渉は61年に妥結した。

⑰ アーベルスハウザーの前掲書、69ページでは、マーシャル・プランの効果についてかなり否定的な見解を記すが、その後、同書81ページではフランスの賠償問題の解消に役立ったことを認めるなど、いくらか肯定的に評価する態度を示している。


 どうやら戦勝国の筆頭にあったアメリカが、寸前まで殺しあっていた相手にこのような温情的態度を取った裏には、アメリカの「戦後問題」に対する懸念があったためだと思われる。ホブズボームによると、アメリカが戦後世界の社会的、政治的、経済的安定性を掘り崩すような「大きな戦後問題」として予想していたことは、「アメリカを除く戦後の交戦国がすべて廃墟となり、住民はアメリカ人から見れば飢えて絶望しており、おそらくは急進化していて、自由企業、自由な貿易と投資の政策(それによってアメリカと世界は救われるはずであった)とは両立しないような社会革命と経済政策の訴えにやすやすと耳をかす ような事態であった。この見解に従えば、アメリカは第二次大戦に関係したアメリカ以外の国々が相次いで社会主義体制を採用して、資本主義世界から離脱することを恐れていたということになる。こうした懸念の背後には、第二次大戦末期にソ連の勢力下に入った東欧諸国が戦後共産主義国となり、ソ連を盟主とする東側世界に加わったという現実があった。

⑱ ホブズボームの前掲書、上巻、346ページ。


 このように私たちの常識は、第二次大戦後のアメリカの政策をもっぱら冷戦と関連させて考え勝ちであるが、国際関係論の専門家にとっては、それだけではあまりにも短絡的な見方だと言うことになりそうである。実は近代世界の大戦後の戦後構築について独自の論理を構築し、主要な世界大戦の戦後を比較検討した優れた研究が存在するので、その成果を先に記した冷戦に基づく見方の対案として取り上げ、二つの大戦後における戦後処理の違いについてさらにくわしく検討しておきたい。その研究成果とは、G・ジョン・アイケンベリーが著した『アフター・ヴィクトリー 戦後構築の論理と行動』 である。この著書はその邦訳のタイトルが示しているとおり、世界大戦後に戦勝国がどのように戦後の体制を構築したかを比較研究したもので、そこでは1815年のヨーロッパにおける対ナポレオン戦争、1919年の第一次大戦、1945年の第二次大戦、そして1990年代に終わった冷戦、という四つの大戦の戦後が比較されている。その内1815年はイギリスが、1945年と冷戦後とはアメリカが主導国となって見事に成功した戦後構築として、いかなる国も責任ある戦後構築を行わなかった1919年の無残な失敗例と比較対照して論じられている。

⑲ G・ジョン・アイケンベリー著、鈴木康雄訳『アフター・ヴィクトリー 戦後構築の論理と行動』、東京(NTT出版)2004。


 まずアイケンベリーの論理の要点を紹介すると、戦争が終わった時、戦勝国は棚ぼた式に莫大なパワー資産を獲得するが、戦勝国はそうして得たパワーを、「支配する」「切り捨てる」「変容させる」の3種のいずれかの形で行使する。 国家戦略は時代とともに進歩し続け、1815年に初めて永続的な戦後秩序を固定化するメカニズムとして制度戦略に依存するようになり、それ以後はさらにその依存は深まった。 秩序には「勢力均衡型」「覇権型」「立憲(別名 協約)型」の三つがあり、それぞれ異なった構成原理、「パワーの集中」の抑制の手段、安定源がある。 それらの内で、立憲型の合意は国際関係における「勝利」の印象を薄める効果があり、戦後立憲的秩序が形成されると、安定性と永続性が得られて平和が保たれ易くなる。強力なパワーを有する国家に対するパワー抑制戦略としては、1)国の自律性強化、2)領土・パワーの分配、3)対抗的同盟、4)制度的拘束、5)超国家的統合などの手段がある(ので、いかに強力なパワーを持った国といえどもパワーを恣意的に行使できる訳ではなく、またそのパワーが永続するわけでもない)

⑳ G・ジョン・アイケンベリー『アフター・ヴィクトリー 戦後構築の論理と行動』、55~7ぺージ。

㉑ 同上、5ぺージ。

㉒ 同上、28ぺージの表2-1、 およびそれに関連した23ぺージ以下の記述。

㉓ 同上、35ぺージ、および42ページの表2-2 とそれに関連した40ページ以下の記述


 すでに見たとおり、戦後分岐点において主導国には三つの選択肢がある。

 第一の選択は、「敗戦国と弱小国を支配するために自らのパワーを行使する」こと、

 第二の選択は、敗戦国を切り捨てる方針を取り、「自国に引き揚げる」こと。

 第三の選択は、「主導国が諸国への司法権力を持つ立場を利用し、敗戦国が相互に受け入れ可能な戦後秩序を黙って受け入れ、その秩序に参加するよう、各国に働きかける」ことである。

 この第三の選択における目標は、「正統性を持ち、長続きする一連のルールと取り決めを確立すること」である。そのためには「主導国が有利な立場を悪用することはない」ことと、「コミットメントを必ず履行する」ことを弱小国に確信させなければならない。主導国には、勝利の直後に得られた一時的な「指令権力」を、長期的で耐久性に富む「優位」に変えたいというインセンティヴが生まれ、そのために第一や第二の選択よりも第三の選択を取り、弱小国の信頼を得るために、自国の「パワーの行使」に制約を加える方針を選ぶという結果が生じ易い

㉔ 同上、55ページ以下。


 このように、勝利から得られた優位を永続させようと望んで理性的に行動する主導国は、当然制度的秩序を構築しようとするのであるが、その際には「パワーの不均衡」と戦後構築に参加する各国の性質とが二つの主要な「変数」として関係する。アイケンベリーは大規模な戦後構築が行われた、1820年、1920年、1945年、1996年における当時の世界を代表する国々のGNPと軍事支出をそれぞれ4位まで挙げて比較し、特に1945年の時点で、アメリカが経済的にも軍事的にもどれほど突出したパワーを有していたかを示しながら、そうしたパワーを基にして弱小国に対するさまざまな援助や抑制とコミットメント履行の約束などを行うことによって弱小国の同意を獲得し、すでにパワーは備えていてもそうした立場になかった第一次大戦後とは比較にならないほど強固で安定した戦後の制度的秩序を第二次大戦後に構築し得たことを明らかにする。さらにアメリカが民主主義国であったことが、その透明性と非中央集権的な政策プロセスと開放的でやはり非中央集権的なプロセスによって、他の体制よりも抑制とコミットメントの確立が容易であったことをもあわせて指摘している

㉕ 同上、76ページ。

㉖ 同上、78ぺ一ジの表3-1。

㉗ 同上、80ページ以下の記述と81ページの表3-2。


 以上がアイケンベリーの著書の第三章までに記された戦後構築の論理を私流にまとめた要旨であるが、この著者の論理に従うならば、冷戦の有無に関わりなく、勝利によって獲得した優位を将来に向けて永続させようとする戦勝国は、現有するパワーを乱用することなく、むしろ援助や約束という形で活用して弱小国を制度的秩序に参加させようと努めるものと見なされている。続く第四章で、そうした戦後構築の実例として、ナポレオン戦争の後にイギリスが主導国となって行われた戦後構築が論じられる。私たちはウィーン会議と言えばメッテルニヒの名前を思い出すが、ここで戦後構築を行った立役者はイギリス外相カースルレーであり、その制度的秩序は見事に定着して、その間にクリミア戦争やイタリアやドイツの独立戦争などはあったものの、大規模な世界戦争は1914年まで一度も起こらなかった。そして当時軍事的にも経済的にも一流のパワーを持ちながら、それを乱用することなくあくまで協議と抑制の制度化に徹したイギリス自体は、そのことによって損をするどころか、19世紀を通して他国との差を広げ続け、超一流のパワーを維持して黄金時代を謳歌した。

㉘ 同上の索引によって比較すると、クレメンス・メッテルニヒに関連する箇所は12もあるが、関連するページ数も同じく12に止まるのに対し、ロバート・カースルレーに関連する箇所は9に過ぎないが、関連するページ数は31に及ぶ。この違いは、メッテルニヒについての言及が断片的であるのに対し、カースルレーに関しては、彼とその政府の意図や行動、ピット首相らとの役割分担などがくわしく論述されているために生じた。


 それに対して1919年に行われたヴェルサイユ体制と呼ばれる第一次大戦の戦後構築は、それがもたらした最悪の結果によっても明らかなとおり、失敗だった。アイケンベリーによると、1919年1月連合国の代表がパリに集まった時、戦後構築に関して事前の合意が全くなかったことが、主導国となるイギリスやアメリカが共通の合意を早期に実現するために動き初めていた1815年や1945年の場合と際立った対照を示しているという。その結果、当然すでにその1年前に14条の平和原則を打ち出していたアメリカのウィルソン大統領と、ドイツ領の割譲や巨額の賠償によってドイツの無力化を目指すクレマンソー首相との激突が生じたが、1917年4月という遅い時期に参戦したアメリカは強力な指導力を発揮できなかった上に、ウィルソンが足元のアメリカ国内の選挙に大敗したため、ヴェルサイユ条約も彼が提唱して発足させた国際連盟への加入案も議会の批准を得られなかった。フランスなどが求めた巨額の賠償の支払いのため、ワイマール共和国はアメリカに依存し続けたが、大恐慌と共にそうした関係の継続が不可能となり、理想主義的憲法と共に共和国は消滅した。アイケンベリーによると、1919年当時アメリカはすでに世界一のパワーを有していたが、ウィルソンにはそのパワーを行使して永続的な秩序を形成する能力が欠如していたとされている

㉙ 同上、146ぺージおよび、340ページの注53。

㉚ 同上、175ぺージ。


 アイケンベリーは1945年の戦後構築を「最も細部にわたって組み立てられた……最も長期にわたってその生命を保っている」 ものとして称賛する。著者によるとこの時行われた戦後構築は二つあり、「第一の戦後構築は、米国とその同盟諸国、ソ連とその同盟諸国という両陣営間の戦後構築だった。この戦後構築はしばらくして〈冷戦〉という二極体制を生み出した。第二の戦後構築は、西側工業諸国と日本の間の戦後構築だった。この戦後構築はやがて安全保障、経済政治各分野で密接に絡み合った制度的枠組を創り出した。そのほとんどの制度に米国が関与した。この二つの戦後構築は、相互に影響を及ぼしてしいた。冷戦の激化とともに、西側世界の先進工業国間の結束は強化した。(中略)冷戦が西側秩序を強化したことは事実であるとはいえ、二つの戦後構築には明確な起源と論理が存在した。一つは史上最も軍事化された戦後構築であり、もう一つは史上最も制度化された戦後構築だった」 

㉛ 同上、179ページ。

㉜ 同上、179~80ページ。


 第二次大戦後にアメリカがこうした戦後構築を平行して行うことを可能にしたのは、言うまでもなくアメリカと他の列強諸国との間に生じた巨大な「パワーの不均衡」であった。著者によると、この時点において「米国は、世界の経済生産のざっと半分を占めていたほか、世界を圧倒するような軍事力、先端テクノロジーにおけるリーダーシップ、石油産出と食糧生産からの利益を有していた。(中略)1945年、英国とソ連は、経済的ライバルとしてほぼ同等の立場に立っていた。両国の経済規模は、それぞれ米国の約五分の一でしかなかった。ソ連と欧州諸国は戦後復興を遂げていったが、経済規模に見られた「非対称」はほとんど縮まらなかった。(中略)軍事力の点でも、同様の不均衡が見られた。」  これほど抜群のパワーを備えた国が戦後構築に真剣に取り組み、戦争当時の味方の国々だけではなく敗戦国をも取り込んだ戦後秩序を構築したからこそ、冷戦が世界大戦につながらずに済み、また早くも日・独の終戦以前の1944年7月に開催されたブレトン・ウッズ会議など一連の協議を通して構築された制度のおかげで、西側諸国の目覚ましい経済発展が可能になったのであり、日・独・伊三国の「経済の奇跡」もその枠組のおかげで発生し得たということになる。

㉝ 同上、184ぺージ。


 後に検討する安全保障の問題にも関連するので、ついでに続きの部分を瞥見すると、すでに見たとおり冷戦自体、アメリカが第二次大戦後に行った二つの戦後構築の内の一つであったが、アメリカの圧倒的なパワーは、中国革命、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争などの試練に会いながらも、東欧諸国の紛争やソ連と中国の関係悪化、ソ連のアフガニスタン進攻などを通じて次第に優位に立ち、「1989年の『ベルリンの壁』瓦解、その2年後のソ連崩壊は、40年にわたって続いた超大国対決時代に突然の終止符を打った。」 この終戦は戦いの結果ではなく、ソ連帝国の崩壊の結果であり、そこには外国軍隊による進攻や占領がなかった点で、先に見た三つの例と異なるが、その結果アメリカのパワーが急激に増大した点では、前の二つの終戦と共通している。 アメリカは、英・仏両国の否定的な牽制にもかかわらず、ソ連がドイツ統一と統一後のドイツが従来通りのNATOに残留することを黙認するように働きかけ、その代わりソ連のゴルバチョフ大統領の協調路線に呼応して、崩壊しつつあるソ連に対して攻撃的な態度を示すことはなかったし、崩壊後に生まれたロシア共和国を脅威と見なすこともなく、終始協調的な態度を維持して、世界唯一の超大国としてのパワーの使用を抑制することで、冷戦終結後の世界の秩序を構築することに成功した。これと平行してアジアではAPECが組織され、アメリカもそれに加入して秩序を強化している。 このとおりアイケンベリーは、アメリカがいかに見事に第二次大戦と冷戦との戦後構築に成功したかを論証している。しかし2009年現在に生きて、世界とアメリカを見ている私たちにとっては、一応論理が首尾一貫していることは認めても、必ずしも実感として納得できるわけではない。

㉞ 同上、233ぺージ。

㉟ 同上、234ぺージと252ページ。

㊱ 同上、244~5ぺージ。英国のサッチャー首相もフランスのミッテラン大統領も、ブッシュ大統領に書簡を送り、ドイツ再統一には慎重であるようにと勧告した。

㊲ 同上、241~52ぺージ。

㊳ 同上、252ぺージ。「この結果、ソ連は、弱体化していたソ連秩序に止めを刺そうとする攻撃的な統一戦線に直面することはなかった。」

㊴ 同上、255ぺージ。

㊵ 同上、260~2ページ。


 実はこの書物の原著は、2001年というアメリカ史にとって象徴的な年に刊行されている。おそらくこの著書が完成した2000年という年は、20世紀最後の年であるとともに、国際関係論的にはアメリカの威信が最も高まった年で、まさにアメリカがこの著書に記された二つの戦後構築の成功を誇るのに最もふさわしい年であった。その日本語訳が刊行されたのは2004年で、その「訳者あとがき」には「本書刊行は、2001年の〈9・11〉テロの発生、その後のアフガニスタン攻撃、イラク戦争の以前であった」 と記されているが、それは同時に2007年のサブプライム・ローンの破綻、08年のリーマン・ブラザーズの倒産、09年10月の失業率が10%を越えるなど大恐慌以来といわれているアメリカ経済の危機以前のことでもあった。勿論それ以前から膨大な国債を発行し続けるアメリカの状況を怪しむ人々や、「強欲資本主義」などと呼ばれることもあるアメリカの金融資本主義に疑念を表明する人々や、エマニュエル・トッドのように とっくにアメリカの覇権は終わっていることを指摘する入々は存在していたが、それにしてもわずか10年足らずの内に、これほどアメリカの経済力と信頼の失墜が世界中に明らかになるとは、私たち一般人には到底予想できない急激な変化であった。

㊶ 同上、300ぺージ。

㊷ 同上、エマニュエル・トッド著、平野泰朗訳『経済幻想』東京(藤原書店)1999,で一部が指摘され、同著者による、石崎晴己訳『帝国以後 アメリカ・システムの崩壊』東京(藤原書店)2003、で詳述されたアメリカ経済の衰退に関する予測。


 このようにわずか10年足らずの間にアメリカヘの信頼は大暴落し、その分この著書に記された二つの戦後構築におけるアメリカの役割を論じた言葉も色褪せたことは否めないだろう。とりわけ冷戦の終結によって、すでにそれ以前でも抜群の存在であったアメリカのパワーがさらに急激に増大したなどといわれると、今の若者のことばを借りて「まじー」とか、「うそー」とかと問い返したくなるのは私一人ではあるまい。アメリカのパワーを大きな気球にたとえることが許されるならば、どうやらそれはすでに前世紀の末ごろからかなりのガス漏れを起こしていたのではないだろうか。少なくともすでにその時期には、今日世界中に波及している金融危機の原因の蓄積が着々と進行していて、その分アメリカのパワーが誇大評価されていたことを否定できる人はいないだろう

㊸ たとえばアメリカ経済の一連の不祥事の先触れとなる大規模な破綻事件を起こしたエンロン社は、1980年代から粉飾をおこなっていたという。同様に、現在アメリカを揺るがしている多くの経済事件は、2000年の時点ですでに地下でかなり進行していたはずである。だからアメリカのパワーの基盤は、アイケンベリーが考えるほど堅固ではなかったのではなかろうか。


 したがって末尾近くの部分の論調と私たちの現在の実感との間には若干の齟齬が感じられるのであるが、それにもかかわらずアイケンベリーの戦後構築に関する論理そのものは見事な整合性を有しており、今後終戦処理の問題が論じられる場合の基礎となり得るものであろう。さらにその論理に基づいて四つの実例を捌いている手並

も鮮やかであり、特に第一次大戦後と第二次大戦後との比較は興味深くかつ説得的である。こうした分析のおかげで、第二次大戦後の三つの敗戦国が、アメリカという民主的な資本主義の超大国が中心となって構想した戦後の制度的秩序に組み込まれ、有力な輸出国となって繁栄した事情をも了解することが可能となった。逆に言えば、もしも主導国であるアメリカが立憲型秩序より覇権型秩序を選び、説得によって制度的合意を求める代わりに支配という手法を採用していたとすれば、三つの敗戦国の経済活動ははるかに停滞していたはずである。そして一度はファシズムを捨てて民主的体制を選ぶことを強制されたとしても、その体制ははるかに不安定なものとなり、順調な経済発展は到底困難だったであろう。またアメリカが切り捨て政策を取っていたら、当時日の出の勢いに見えたソ連の率いる東側陣営に取り込まれて、三つの敗戦国は、民主主義体制を確立する以前に中国や北朝鮮同様、人民民主共和国と自称する、共産主義的一党独裁国家となっていた可能性も、決して小さくはないのである。

 以上で私たちはまず三つの敗戦国に生じた「経済の奇跡」を見た後、戦勝国、特に有史以来初めてと言われるほど卓抜したパワーを用いて戦後の世界を主導したアメリカの戦後構築について概観したのであるが、そこから得られるモンタペルティ現象が発現するための基本的な条件とは何であったかを、簡単にまとめておくことにしよう。まず真っ先に目につくことは、三つの敗戦国が戦前特に大きくはない普通の規模の国家でありながら、国家としての発展を軍事に賭けており、可能な限りの国力を軍事に投入していたのに、敗戦によって一挙に経済活動に向けて方向転換しなければならなかった、という事実である。まさにこうした国家あげての方向転換が起こったことこそ、モンタペルティ現象が発生するための最大の基本的条件だといえるであろう。いずれの国も大国ではなく、しかも戦争という非常事態のために、敗戦時の混乱にもかかわらず、全体として比較的まとまっていたことが、国民全体のこうした方向転換を容易にしたことは想像に難くない。

 第二に敗戦後に三つの国が新しく採用した体制が、いずれも国民の基本的人権を保証した自由な民主主義的体制であった、という事実がある。もちろん国によって事情は異なるが、それまでの軍事独裁国家では経済活動に厳しい統制が課せられていたのに対して、一般的に個々人の経済活動が自由になったことは否定できない。戦争直後の食料難の時代には、それは下手をすると飢える自由でもあったのだが、それでも人々が解放感を抱いたことは確かである。たとえば日本の戦後の場合、宮崎勇元経済企画庁長官は次のように証言している。「基本的には農民の場合も労働組合の場合も、終戦後、働けば自分たちのところに成果がそれなりに戻って来るという状況になった。制度改革が活力の源泉であったと思います。さらに家族制度でも、個人の自由が大事にされるようになった。それから間接的には民法の分野で、例えば家族制度でも、個人の自由を大切にする、大家族制度が崩壊するということを通じて、そこに自由な空気が吹きこまれた。そういうことが戦後復興の基礎となった力ではないかと私は思います」㊹ ソ連が占領したドイツの一部は、東側陣営に取り込まれて、マルクス主義を信奉する共産主義国家として建国されたが、自由な経済活動が許されない東ドイツでは、東側諸国の優等生と言われながらも「経済の奇跡」は起こるはずがなかった。そこには軍国主義ではないものの、共産主義体制という新しい束縛が個人の自由な活動を妨げていたからである。

㊹ 宮崎勇談『証言戦後日本経済・政策形成の現場から』東京(岩波書店)2005、68ぺ一ジ。


 第三にわずか20年前に行われた第一次大戦の戦後処理の失敗を目の当りにしていた連合国の首脳部は、第二次大戦後についてそれなりの準備を重ねていて、とりわけ第一次大戦後すでに抜群のパワーを有し、ウィルソン大統領を通して立派な提案を行いながら、結局戦後構築の主導国にはなれなかったアメリカが、第二次大戦後に前回に上回る圧倒的なパワーで 戦後構築の主導国の役割を積極的に引き受けたことが大きかった。先に挙げた第二の条件も、アメリカの指導の下で形成されたことは言うまでもない。特に日本の戦後の憲法は、日本人が自主的に起草したものではなくて、アメリカ人のグループがかなり短期間に作成した草案に基づいており、いわばアメリカの進駐軍から押し付けられたものであることは周知の事実に他ならない。 経済政策に関しても、ドッジ・ラインによる金融引き締め政策やシャウプの税制改革の勧告など、あるいは政治家や財界人の追放などといった形で、戦後日本の経済政策の骨格作りにはアメリカの強力な干渉が加わっていることに疑いの余地がない。

㊺ アイケンベリーの前掲書の78ぺージの表3-1 によると、1920年当時のGNPは、米国100、英国34、フランス21、ドイツ19。同年の軍事支出は、米国100、英国89、ロシア71、日本27であるのに対し、1945年当時のGNPは、米国100、英国20、ソ連20、ドイツ12。同年の軍事支出は、米国100、ソ連71、英国19、日本4と、アメリカのパワーは1920年当時よりもさらに2位以下を引き離している。ただし、1920年は革命以後なのにロシアとなっているなど、この資料には疑問の余地がある。

㊻ たとえば、ジョン・ダワー著、三浦、高杉、田代訳『敗北を抱きしめて・第二次大戦後の日本人』東京(岩波書店)2001、下巻、第12章、135ぺ一ジ以下。草案を起草したGHQの「憲法制定会議」のメンバーには、若き海軍少尉リチャード・A・プールや22歳の女性ベアテ・シロタも加わり活躍した、とされている。その草案を突き付けられて日本人の代表が困惑する様子は、半藤一利著『昭和史 戦後篇 1945~1989』東京(平凡社)2009、179ぺ一ジ以下などに記されている。現在の憲法が占領軍の押し付け憲法であったという事実には疑問の余地がない。

㊼ ドッジ・ラインはすでに前章で触れた1949年のインフレ抑制策だが、必ずしもデトロイト銀行頭取でGHQの経済顧問J・M・ドッジ一人が考えた指針ではなく、統合参謀本部その他が決定した日本の《経済安定9原則》に沿ったものだという。1949年と1950年に、コロンビア大学教授のC・S・シャウプはマッカーサーに対して報告書を提出して、日本の税制に関する勧告を行った。現代日本の所得税中心の税制はこの勧告に基づいている。


 ドイツの経済政策に関しても、エアハルトの通貨改革の名で呼ばれる改革の草案が、アメリカ軍政部によって指名された若い空軍少尉ティネンバウムが調整役となって3人の権威の意見をまとめて作成されたCDGプランであったことが、アーベルスハウザーによって指摘されていて、けっしてドイツ人がその全部を自発的に考案したわけではなかったのである。 これら具体的な事実によっても、当時のアメリカがいかに第二次大戦後の戦後構築に努めたかは明らかであり、この条件がなければ、最初の二つの条件も成立しなかったに違いあるまい。このように史上初めてのパワーを持った民主的な超大国が、立憲的秩序を目指して安定した制度の確立に努力した成果が、ファシズム体制から民主主義体制に生まれ変わった三つの敗戦国の「経済の奇跡」として開花したのである。現在アメリカの凋落を笑うことはたやすいし、そのための材料はいくらでもころがっているのであるが、私たち敗戦国の国民はアイケンベリーが明らかにしたアメリカによる戦後構築の恩恵を率直に認めるべきであろう。またこのように類似した条件を備えた三国が、揃ってアメリカという富裕な資本主義国の戦後構築の構想に組み込まれたことが、三つの国で共通して「経済の奇跡」が発生した理由だと言えるであろう。

㊽ アーベルスハウザー著の前掲書、61~2ぺージ。1946年、イェール大学でドイツ経済史をとったことでアメリカ軍政部から調整役を任された若き空軍少尉E・A・ティネンバウムは、前注で記したドッジを含むアメリカ人とドイツ人の専門家3人の協議から「CDGプラン」と呼ばれる通貨改革の計画を作成した。このプランは1948年6月に行われたエアハルトの通貨改革の主要構成部分全部を包含していたということである。




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