モンタペルティ現象4-1


敗戦の効果

~ 世界史の中のモンタペルティ現象 ~


米山 喜晟


シエナ市庁舎壁画、アンブロジォ・ロレンツェッティ『善政の効果』



はじめに


 私はモンタペルティ現象がフィレンツェ共和国にのみ発生した特異な現象ではなく、条件さえ揃えばいかなる国家にも起こり得る現象であることを示すために、これまでに三つの論文を、桃山学院大学総合研究所から刊行されている『国際文化論集』に発表した。それらの中で、私はすでにこの現象が発生する条件をいくつか示唆したが、それらの考察には必ずしも整合性や一貫性が認められないことを私自身率直に認めておかなければならない。今回の一連の論文の最初のものに私は「試論」ということばを付けたのも、私の考察が一連の試行錯誤の現状報告であることを示したかったためで、第一論文では社会学、第三論文では経済史の専門家の本格的な研究を期待して閉じているのも、将来この問題に関する各分野の本格的な研究に基づいて、上質の研究成果が生まれることを期待しているために他ならない。

① 拙稿『「モンタペルティ現象」試論』、国際文化論集第39号、大阪(桃山学院大学総合研究所)2009年3月。(「百万遍第3号」所収)

 同『モンタペルティ現象はイタリア・ルネサンスにどのように寄与したか』、国際文化論集第40号、大阪2009年6月。(「百万遍第4号」所収)

 同『潮流に乗って・第二次世界大戦後のモンタペルティ現象』、国際文化論集第41号、大阪2009年12月。(「百万遍第5号」所収)


 ただ一つ、こうした研究を進めた結果私が見出した意外な事柄は、敗戦がもたらすであろう効果について、従来普遍的な研究が世界中を見渡してもきわめて少ないらしいという、私にとっては意外な事実であった。あるいはこれは私の無知のために生じた完全な誤解であって、実はすでに優れた研究成果が残されているのであれば、私は喜んで自らの無知を認めたいと思う。そうした場合には、どうか今記した私の誤解を、世間に多数見られる夜郎自大な振る舞いの一つと見なしてお許し下さるとともに、そうした成果をご教示下さることを心から望む次第である。勿論個々の敗戦に関してなら、すでに優れた叙述や分析が無数に存在しており、それらの中で普遍的な価値を持つ示唆が得られるという事実は、いかに無知な私といえども全く知らない訳ではない。とりわけ近年日本の読書界の注目を浴びたジョン・ダワーの『敗戦を抱きしめて』 は、私が戦後日本におけるモンタペルティ現象と見なしている状況をくわしく論じた著作であった。あるいは、シヴェルブシュが『敗北の文化 敗戦トラウマ・回復・再生』で行ったような視点からの敗戦後の精神的変化を追跡した考察や、入江隆則が長期にわたって産経新聞社の『正論』に連載していた一連の考察がまとめられている『敗者の戦後 ナポレオン・ヒトラー・昭和天皇』が存在していることなども知らないわけではない。しかし敗戦がもたらす積極的な効果に関して、世界史的な立場から普遍的に論じた、まとまった著述が存在しているのであれば、是非ご教示いただきたいと私は望んでいるのである。さらにそうした記述が存在する場合には必ず触れられていると予想される、私がモンタペルティ現象と名付けた事態に関しても、それが何と呼ばれていて、どのような形で論じられているかを是非知りたいと強く望んでいることを付け加えておきたい。

② ジョン・ダワー著・三浦・高杉・田代訳『敗戦を抱きしめて(増補版)』、東京(岩波書店)2004。

③ ヴォルフガング・シヴェルブシュ著・福本・高本・白木訳『敗北の文化  敗戦トラウマ・回復・再生』、東京(法政大学出版局)2007。

④ 入江隆則著『敗者の戦後 ナポレオン・ヒトラー・昭和天皇』、東京(中央公論社)1989。


 少し話は変わるが、「人間万事塞翁が馬」と並んで、年を経る毎に私がその深い含蓄に感銘を覚えている諺らしきものの一つに、「例外は法則を強化する」という意味のものがあるが、前者とは異なり、記憶力の弱い私はその正しい言い回しすら定かではない。『現代英語ことわざ辞典』 を調べると、The exception proves the rule. の英訳で「例外あって法則が知れ」に当たるもの のようだが、率直に言ってこの訳文も私が記した言い回しと同様、ほとんど世間に知られていないのではないだろうか。

⑤ 戸田豊編著『現代英語ことわざ辞典』、東京(リ一ベル出版)2003。

⑥  同上、801~2ページ。


 原文はラテン語の法律の格言の英訳だということだが、この英訳自体他にも類形が2つと類諺が1つ出ているところを見ると、日本語の場合ほどではなくとも、やはりそれほど一般的に知られた諺ではないのかも知れない。

 このことばは「法則」だけではなく「推測」を確かめる場合にもあてはまるのであって、敗戦の普遍的影響に関する研究が世界的にきわめて乏しいのではないかという、前述した私の推測に関しても、上に示した敗戦研究の数少ない例外である書物がそのことを示している。たとえば入江隆則の著作の巻末 には、クラウゼヴィッツの『戦争論』を筆頭に282点の日本語、英語、フランス語の参考文献が列挙されているのであるが、その中で「敗戦」ということばを含むタイトルの書物は、参謀本部所蔵『敗戦の記録』と江藤淳『落葉の掃き寄せ~敗戦・占領・検閲と文学~』のわずか二点に過ぎず、そのタイトルからしていずれも私の推測を否定するものではない。

⑦ 入江隆則、前掲書、410~423ぺージ。


 また日本では、「敗戦」の代わりに「終戦」ということばが用いられる場合が多いのだが、実はそうした用語を用いていること自体が、現代日本の敗戦だけを扱っていることを自ら表明しているものと思われ、事実外務省編『終戦史録全六巻』以下を個別に検討してもその推測は当てはまるので、当然私が期待するような敗戦の効果を論じたものではない。それよりもむしろ、敗戦をタイトルには用いていない、ブートゥールとキャレールの共著『戦争の社会学』、レイモン・アロン『戦争を考える』、ボールディング『紛争の一般理論』、ケインズ『講和の経済的帰結』などといった一連の翻訳やKecskemeti の “Strategic Surrender” などの方がまだしも私が求めている敗戦研究により近いのではないかと思われるが、どれを取っても敗戦の効果と真正面から取り組んだ普遍的な研究からは程遠いことは明らかである。いずれにしてもこの時点で敗戦の効果について本格的に取り組んだ研究があれば、日本語に翻訳されていなくとも、少なくとも英文または仏文によって紹介されていた可能性が高いので、『正論』誌上における一連の連載が完了した1988年6月の時点までは、ほぼ十中八九、そうした研究成果は存在していなかったものと推測して差し支えあるまい。

⑧ ただし私はタイトルから内容を推測しただけである。


 しかしそれ以後20年余りの歳月が経過していて、世界の戦争研究も轟々と音を立てて進んだという程ではないとしても、それなりに進展しているはずであり、たとえば先に記したジョン・ダワーやシヴェルブシュそしてアイケンベリー の著書は、それ以後に現れたものである。

⑨ G.ジョン・アイケンベリー著(鈴木康雄訳)『アフター・ヴィクトリー 戦後構築の論理と行動』、東京(NTT出版)2004。


 ということで、とりあえず現在アマゾンで扱われている書物の内、「敗戦」関連の著書を引き出したところ、2010年2月22日午前中の時点でなんと6831件もの項目が存在することが判明し、一瞬その数に圧倒されたことを告白しておかなければなるまい。

 しかし実際に各々の項目に当たって見ると、まず今日の日本においてはこちらの方が重要らしく、戦争とは関係のない、ものつくりや半導体や金融の分野における日本の敗戦に関するものが真っ先に掲載されていた。

 続いて本来の意味の敗戦を扱っている場合でも、その大半が第二次大戦後の日本の敗戦を扱ったもので、ドイツ、デンマーク、イタリア、その他の国の敗戦を扱った著書がごく例外的に混じっているに過ぎず、世界史上の敗戦を普遍的な立場から比較検討したものは少なくとも現在取引されている和書には1点も存在していないことが判明した。また6831件の項目の内、318件まではほぼそのタイトルに「敗戦」ということばを含んでいたが、それ以後はそのことばを含まなくなり、その分次第に敗戦との直接的な関連は薄らいでいて、たとえば『日本国憲法』や『麻雀放浪記』から、はては『芸者論・花柳界の記憶』や『こだわらない』などといったタイトルの書物までが列挙され、それらの多くが敗戦に関連した貴重な文献であることまでは否定しないものの、私が期待しているような研究は1件も見当たらず、数的には大いに増加しているとはいえ、量が質に転化する段階には程遠いという印象を受けざるを得なかった。

 ついでに上の検索を行った日の翌日、amazon USA において、日本語の「敗戦」にほぼ対応しているものと思われる defeat の項目を探索して見ると、総数は日本のものの半数以下の2935件であり、一瞬やはり敗戦そのものへの関心は、日本に比較してアメリカの方が多少薄いのかも知れないと感じたけれども、実際に個々の事例に当たって見ると、defeat ということばそのものは日本人用のアマゾンの場合よりもはるかに後まで現れていて、内容的には日本のアマゾンの場合と比較して、アメリカのアマゾンの場合の方が歴史上の敗戦に対する関心の密度は高いという印象を受けたことを認めなければならない。

 しかしそれらはナポレオンのロシアでの敗戦にはじまり、多くがドイツと日本の敗戦を扱っていて、すなわちほとんどすべてが個別の敗戦に関して論じたものであり、私の見落としでなければ、やはり敗戦の積極的な効果について、普遍的、客観的に論じていると思われる著書名は1件も見当たらなかった。だから少なくとも上述した文献目録や、おそらく現在市販されている書物の大半を扱っていると思われるアマゾンの検索から判断するかぎり、敗戦がもたらす肯定的、積極的な効果に関しては、個々の敗戦に関するものを除いて、これまで一度もまともに論じられたことがなく、ましてモンタペルティ現象などという概念はまったく存在していなかったのではないかと推測されるのである。しかしすでに私が1つの著書と3つの論文で論じてきたとおり、モンタペルティ現象は厳然と存在し、これまでの世界史にさまざまな重大な影響を及ぼし続けてきており、これからも及ぼし続けるに違いないのである。こうした事実をさらに確認するために、本論においてはさらに範囲を広げて、世界史の中に現れたモンタペルティ現象を全般的に論じていきたい。

 ただしそうした考察に取り掛かる前に、モンタペルティ現象ということばに関して、もう少し検討しておく必要があるだろう。何度も記しているとおり、このことばを最初に使い始めた私としては、このことばにあまり厳密な定義を与えることを望んでいない。私はこの現象を、第三論文において「ある国が何らかの幸運に恵まれて、敗戦を契機として、経済的、文化的に異常な繁栄を示す」現象だと説明しておいたが、従来の敗戦の影響に対する余りにもはなはだしい無視あるいは軽視ぶり(すでに記したとおりこの点で誤解があれば喜んで改めたい)を考慮し、敗戦の効果をより普遍的に考察するために、さらにハードルを低くして、「敗戦が(損失だけをもたらしているわけではなく)、経済・文化・歴史的に見て、敗北した側の関係者の多数に好ましい結果をもたらしていると見られる現象」程度のゆるやかな意味を与えておきたい、と考えている。

 というのは、「繁栄」などという要件をつけると、当然何をもって「繁栄」と見なすかという判断基準の問題が発生することが予想され、そうでなくとも数量的な資料が圧倒的に不足している過去の大半の時代に関して論じることが困難になるからである。それに対して「好ましい」とすると、意味はより曖昧になるものの、さらに広く適用することが可能となり、過去の証言をより幅広く活用することが可能になるであろう。

 また国という限定を避け、結果的にこの現象の受益者を敗戦国の国民だけではなく、敗北した側の関係者の多数としたのも、このことばをさらに普遍的に内戦や国家が消滅した場合をも含めて、敗戦全般に関して適用することを可能にするためであり、多くの場合は敗戦国の人民を意味している。前近代の多くの戦争に関しては、敗北によって国家や部族や集団が消滅している例が無数に見られ、その多くの場合敗北した側の関係者は当然悲惨な運命に翻弄されるのであるが、必ずしも長期にわたってそうなると決まっている訳ではなく、関係者の大多数が、敗戦によって凶悪な、あるいは愚昧な支配者から解放されて、従来よりもはるかに好ましい状況に恵まれる場合が存在することも、十分予想されるからである。

 さらにこの現象に関して私が強調しておきたいのは、この現象がもたらす文化的および歴史的な効果である。実はこれまでの三つの論文で、この現象を主に経済的な側面から考察してきた。

 たとえば中世フィレンツェの場合、モンタペルティの敗戦以前にはトスカーナ地方では抜群の軍事的強国ではあったが、経済的、そしておそらく文化的にも当時のイタリアでは二流の地位に甘んじていた。ところがこの敗戦後数十年足らずの内に、フィレンツェはイタリアのみならずヨーロッパでも屈指の経済・文化大国に転換することができた。こうした劇的な変化の理由に関して、私は従来十分説得的な説明が行われていたとは言えない、と考えているのであり、その説明のためにはモンタペルティの敗戦を無視することはできない、と主張しているのである。

 また第二次世界大戦後の日本は、その敗戦後約20数年の間に世界第二の経済大国にのし上がり、およそ40年間その地位を維持することができた。周知のごとく現在日本のGDPは、中国に抜かれて世界第二位から第三位に転落しつつあり、その点で中国自体と韓国等周辺の国々の憫笑の的となっているのだが、客観的に考えてみると、人口といい、国土の広さといい、資源といい、全く世界の国々の内のワン・オブ・ゼムに過ぎない日本が約40年もの長きにわたって(またたとえそれが実質は約30年だったとしても)世界第二位の地位を保ち続け、しかも代表的な世界の後進地域の一つであったアジアにおいて、長年にわたって世界一の長寿国であり続けている という事実の方がはるかに意外であり、むしろ特筆されるべきことなのである。

⑩ とっくに抜かれていたと思われた2009年には、まだかろうじて第二位を保っていたことが明らかになったが、2010年に抜かれることは確実だと見られている。

⑪ 2009年7月16日の毎日新聞によれば、「厚生労働省は16日、08年の日本人の平均寿命を公表した。男性は79.29歳(前年79.19歳)、女性86.05歳(同85.99歳)と男女ともに延び、3年連続で過去最高を更新した。男女の寿命差は、6.76歳で(前年6.80歳)よりやや縮まった。国・地域別では、女性は24年連続で世界一、男性は4位と一つ順位を下げた」 ちなみに男性で日本よりも平均寿命が長いのは、アイスランド、スイス、香港だという。何故か平均寿命に関しては、国どころか都市国家ですらない香港が、おそらく日本男性の順位を下げるために、上位に躍り出ることが国際的慣例となっているようである。近年日本男子の平均寿命は相対的に下り坂に向かっているようだが、これだけ多数の人口を持ちながら、24年という長期にわたって女性の平均寿命が世界の首位を保ち続けたという事実は、日本の優れた衛生状態の現れとして、もっと重視されねばならないのではないだろうか。最近の報道で、百歳以上の高齢者の数にかなり水ましがあることが判明したが、多少の修正は生じても、日本が長寿国であるという事実は変わらないはずである。


 ところが、私がこれまでこうした特に目立っている希有の事例のみを取り上げて論じたために、この現象がもっぱら経済的な繁栄としてのみ受け取られる恐れが生じたことを認めなければなるまい。しかし敗戦がもたらす効果は、そうした経済的な現象としてのみ現れるわけではなく、実はもっと多様な形で現れていることを見逃してはならないのである。たとえばパリ・コミューンの敗北の直後から長期にわたる大不況に遭遇したフランス や第一次大戦後のワイマール共和国の場合 のように、経済的には成功していなくとも、文化的に顕著な成果を発揮し、世界史的な影響を残している場合がある。あるいは後にくわしく論じるとおり、一見敗北した側に大きな打撃を与えたかに見えたにもかかわらず、その後の国家や団体の将来の歴史に好ましい影響を及ぼしたと考えられるいくつかの敗戦の例が認められるが、こうした事態も当然モンタペルティ現象の内に含めなければならないはずである。

⑫ 河野健二著『世界現代史19・フランス現代史』、東京(山川出版社)1977、巻末年表17ぺージの1873年の項によると、この年から始まった慢性不況は、1890年まで続いた。

⑬ ワイマール共和国の文化については、ピーター・ゲイ著・亀嶋庸一訳『ワイマール文化』、東京(みすず書房)1987、などにくわしい。


 あるいは私がこのように従来よりも意味を拡大し、あえて従来以上に曖昧にしてまでも、このことばに固執することに疑問を感じておられる人がいるかも知れない。それに対して私は、これまでにこうした事態を表現するための一般的に通用することばを知らないためである、と答えたい。この点でもそれは全く私の無知による誤解であって、日本語に限らず、こうした事態をあらわす適切なことばがとっくに存在しているのであれば、どうかご憫笑の上で是非ご教示たまわりたい。たとえば人類の英知の結晶である諺を例に取ると、あるいは「負けるが勝ち」ということばあたりが一見こうした事態に対応していることばのようにも感じられるが、『広辞苑」 によると、それは「強いて争わず、相手に勝ちを譲るのが結局は勝利となる」と説明されていて、この解釈を取る場合には「長いものには巻かれよ」に近い意味と見なすべきものなので、とても世界相手に戦い続けた日本の戦後の状況を表わしていることばだと見なすわけにはいかない。

⑭ 第五版は、東京(岩波書店)1998。


 さすがに古人の英知は奥が深く、一見損失に見える事件が有利に働いた場合を表す「雨降って地固まる」「怪我の功名」「焼け太り」などといったことばや、敗者が地位を逆転するために行う努力を表す「臥薪嘗胆」、あるいは危機に際して異常な力が発揮される「火事場の馬鹿力」などということばが多数存在しているのであるが、世界史や国際関係に関連して、上述したような事態を適確に表現している用語を、残念ながら私は知らないのである。

 参考のために講談社の『類語大辞典』 によって上述のことばの類語を調べてみると、「負けるが勝ち」と「火事場の馬鹿力」はそのことば自体が記載されておらず、「雨降って地固まる」は「鎮まる」の項目に含まれていて、「安定」や「鎮静」の類語、「怪我の功名」は「良い」の項目に含まれていて、「良縁」や「無病息災」の類語、「焼け太り」は「稼ぐ」の項目に含まれていて、「海老で鯛を釣る」や「一山当てる」などの類語と見なされている。さらに「臥薪嘗胆」となると「苦しむ」の項目に含まれていて、「自縄自縛」「火の中水の底」「七難八苦」などの類語とされて、一時的には見事に成功したと伝えられる、呉王夫差と越王勾践の努力の成果は全く無視されている。

⑮ 柴田武・山田進編『類語大辞典』、東京(講談社)2002。


 いずれもこれらのことばが含んでいるパラドックス的英知は全く切り捨てていると言わざるを得ない。むしろこうした逆説的な表現に対しては、類語に認められることはできないけれども、「人間万事塞翁が馬」とか、「禍福はあざなえる縄のごとし」などの方がまだしも意味的に近いように思われる。いずれにせよ、私が『類語大辞典』を引き合いにだしたのは、別にその不備を指摘するためではなくて、こうした逆説的な事象を示すことばはなかなか見出し難いという事実を示したかったために他ならない。要するに私が言いたいのは、敗戦がもたらすプラスの効果などという微妙な事柄を表すことばとして、「モンタペルティ現象」はきわめて便利なことばだということである。すでに見たとおり、従来敗戦がもたらす好ましい影響が余りにも無視され続けて来たことを考慮すると、そうした影響を真正面から考察するために、このことばを中世フィレンツェや第二次大戦後の敗戦国や准敗戦国に発生した顕著な成果だけに限定せず、世界史に見られる、敗戦がもたらしたと見られるプラスの影響全般を表す用語として用いることを、私は提案しておきたいと思う。

 このようにいくらかハードルを下げて幅広く用いる以上、結果的にはローマに脅威を感じさせたために国を滅亡させることになったカルタゴにおける第二次ポエニ戦争敗北後の一時的な繁栄 や、長くは続かなかったが一時期は大好況をもたらしたと伝えられるカイロネイア敗戦後のアテネ 、あるいは日独に比べてややあっけなく終わった後に「鉛の歳月」が到来した第二次大戦後のイタリア⑱ の場合なども当然含めるべきであろう。

⑯ 森本哲郎著『ある通商国家の興亡・カルタゴの遺書』、京都(PHP研究所)1989、189~206ぺージ、奇跡の経済復興。

⑰ 澤田典子著『アテネ最後の輝き』、東京(岩波書店)2008、「前338年以降のアテネ」の項(1~2ぺージ)と、「パクス・マケドニカ」の項(98ぺージ)。

⑱ 注①に記した、拙稿『潮流に乗って・第二次世界大戦後のモンタペルティ現象』の第一章(41ページ以下)。


 それと共に近代以前においてしばしば発生したように、敗戦が亡国に直結していた場合でも、新しく建国された国家においてその住民が以前よりも豊かな生活を享受し得た場合にも、当然この概念は適用し得るであろう。逆に頑なに勝利にのみこだわり、敗北を避けようとして要塞国家化したために、経済的に完全に行き詰まってしまう、逆モンタペルティ現象とも呼び得る状況が発生することも当然考えられるはずである。現代のアジアにも、戦争における勝利にこだわるあまり国力のほとんどすべてを軍備に傾けて人民が飢餓に追い込まれている国家が存在していて、逆モンタペルティ現象の存在を明白に証明しているのである。

 それにしても世界史全般となると対象が余りにも広く、到底本論の範囲ではおさまり難いので、論題をごく一部に集中しなければならないことは当然である。そこで本論はモンタペルティ現象の存在の様相についてのみ論じることにする。すでに見たとおり、モンタペルティ現象は単独で発生するとは限らない。中世フィレンツェの場合、周辺のトスカーナ地方でも連続して発生していた可能性が高く、第二次大戦後の世界でも、日・独・伊三国のみならずドイツによって4年間以上も占領されたフランスやベネルックス三国など准敗戦国においても、類似の現象がいわば連続して、連発あるいはむしろ房状に発生していた。

 しかし言うまでもなく、モンタペルティ現象が常にこうした様相で現れるとは限らない。単独の敗戦が、敗戦である以上その時は一時的にその国家に莫大な損害を与えても、長い目で見れば明らかに利益を与えていると思われる事例が見られることは否定できないのである。逆に連続あるいは房状というよりもさらに幅広く、あるかぎられた範囲全域に敗戦が影響を及ぼしている、いわば波状にモンタペルティ現象が見られる場合も存在しているものと思われる。

 本論は以下の各章において、単独の敗戦によるもの、連続または房状に発生するもの、波状のものの三つの様相に関して実例を挙げて論じることにする。そうすることによって、すでに三つの論文で明らかにしたこの現象の存在をさらに確証することができるものと、考えているからである。


* この論文は、桃山学院大学総合研究所『国際文化論集・第42号』(2010年10月20日発行)より転載したものです。(編集部・記)



第一章 白村江の戦い その他

~ 単発のモンタペルティ現象の実例 ~



 本章では、経済的な側面に止まらず、歴史的、文化的な側面にまで拡張されたモンタペルティ現象の概念に基づき、世界史からモンタペルティ現象らしき結果をもたらしたと推測できるいくつかの敗戦を具体的に取り上げて、実際にその結果がモンタペルティ現象の名に値するものかどうかを吟味してみることにする。

 そこでまず第一に取り上げるのは、わが国が外国の軍隊相手に体験したとして明確に記録されている最初の大規模な敗戦、白村江の戦いである。

 日本史上の重大事件だけあって、この敗戦の経緯は、すでに多くの人々によって記されているので、私たち門外漢にもその輪郭だけは知ることができる。私がこの論文で行うのは、(門外漢にとってそれは不可能なことなので)この敗戦に関する史実を検討することではなく、専門家が記した歴史書から知ることができる基本的な史実が、本論の「はじめに」に記したモンタペルティ現象の概念と一致しているかどうかを吟味することである。ただし史実を検証する際、独自の視点に立つ以上、その解釈をめぐって多少定説からの逸脱があるかも知れないが、その場合はお許しいただきたい。

 こうした吟味を行うためには、この敗戦の基本的な史実を把握しておくことがもちろん不可欠である。そこで多数存在する関係文献や論文の中から、比較的近年に刊行されていて現在公立図書館などで最も入手しやすく、同時にその内容がおそらく研究者の間で最もコンセンサスを得ているものと思われる二三の書物を利用して、この敗戦像をごく簡単に概観しておくことにする。

 その書物とは、古い順に、A. 遠山美津男著『白村江 古代東アジア大戦の謎』、B. 森公章著『「白村江」以後 国家危機と東アジア外交』、C. 森公章編『日本の時代史3・倭国から日本へ』 の3点である。後の2点は著者と編者が同一人物なので、当然のことながらかなり内容が重複している。3点とも敗戦の舞台となった当時の朝鮮半島の国々と唐および我が国の状況を紹介しているが、モンタペルティ現象の有無を検討するために不可欠な、この敗戦がその後の我が国に与えたと思われる影響に関しては後の2点がくわしい。

① 遠山美津男著『白村江 古代東アジア大戦の謎』、東京(講談社)1997。

② 森公章著『「白村江」以後 国家危機と東アジア外交』、東京(講談社)1998。

③ 森公章編『日本の時代史3・倭国から日本へ』、東京(吉川弘文舘)2002。


 私のような全くの門外漢から見ても、この敗戦の経緯自体はそれほど複雑ではない。要するに当時国際的には倭国と呼ぱれていた我が国が、朝鮮半島の覇権をめぐる戦争に巻き込まれ、派遣した遠征軍が大敗を喫したということのようである。

 ただしこの戦いが単なる国同士の戦争ではなく、我が国が戦った相手の唐(と隋その他のその前身)と新羅、そしてとりわけ我が国が再建を支援しようとした百済、あるいはこの時の覇権争いの結果としてこの戦いの5年後に滅亡する高句麗などの国々とは、それ以前から長年にわたって交渉があっただけでなく、当時それらの国々が悉く文化的には我が国の先進国で、法律や制度や宗教などあらゆる面で影響を受けていたこと、そして敗戦の舞台が我が国が先進国の文化を取り入れる際に最も重要な経路となった朝鮮半島だったことなどが、この戦争に特別な性格を与えていることは否定できない。

 それとともに、古来特に交渉が深かった百済の遺民からの依頼があったとは言え、なぜこれほど簡単に朝鮮半島への派兵を決定したのか、という大きな疑問が残る。何しろ相手は当時の超大国唐と当時の先進国新羅の連合軍であり、容易に勝てる相手ではないこと、またたとえ苦難の後に運良く百済を何とか再建できたとしても、それを維持するためには莫大な支援が引き続いて必要なことは、誰の目にも明らかだったはずだからである。出兵のための募兵や造船の手配など国内各地へのさまざまな指示といい、朝倉の仮宮への朝廷のあわただしい移動といい、斉明と中大兄皇子の母子が軽率に、と評しても良いほど簡単に、この重大な事態に対応しているという印象は否定できないのではないだろうか。

④ 井上光貞監訳『日本書紀・下』、東京(中央公論社)1987、259ぺージ以下。

⑤ 同上、260ぺージ。


 我が国が朝鮮半島の戦争に巻き込まれることになった直接の原因は、それまで高句麗征討に専念していた唐が、同盟国新羅の要請を受け入れて百済に派兵し、660年8月に両国の連合軍が百済を滅ぼしたことである。しかし百済ではなく高句麗を主たる敵と見なしていた唐・新羅連合軍は、百済王父子とその家来たちを捕えて唐に送った後、その百済の領土を完全に平定することなく、直ちに唐軍遠征の本来の目的である高句麗征伐に主力を向けた。こうして手薄になった百済では反乱が勃発して、祖国再建の活動が始まり、その活動のリーダーたちは我が国に使者を送り、軍事的支援と人質として預けられていた百済の王子余豊璋の返還を求めた。斉明大王(おおきみ)とその息子中大兄皇子の支配下にあった当時の倭国の朝廷は、早速この要請を受け入れて百済再建の軍事的支援を決定し、同年中に筑紫の朝倉宮に遷居したが、斉明大王は翌661年7月に死去してしまう。『日本書紀』には、不吉な前兆や意味不明の童謡など、朝廷のあわただしい動きに対して世間からかなり冷たい反応があったことをうかがわせる記述が見られる。しかし中大兄皇子は大王に即位する以前の同年9月、豊璋王子に170艘の軍船と5,000人余りの兵を与えて帰国させ、さらに自分が大王に即位して天智と名乗った年の翌663年に、百済王豊璋を支援するための軍勢27,000人を派兵した。しかし百済再建軍の陣中では、居城の移動などをめぐって紛争が発生し、百済王となった豊璋が自分を祖国に呼び戻した鬼室福信を誅殺したため、百済再建のための戦力と士気は一挙に低下し、新羅軍が百済再建軍の主力が立てこもる周留城を包囲してしまう。かくして663年8月27日、唐軍が170艘を配置して待ち受けている白村江へ、我が国の援軍を乗せた船団が接近したが、その日は苦戦して退却、翌28日には無謀な突進を企てた結果、まさに敵軍の罠にかかった形で、倭軍は完敗して多数の死傷者を出すこととなった

⑥ 同上、259ぺージ。

⑦ 類書はほぼ同じことを記しているが、注① の遠山の著書の161ぺージに5,000人、193ページに27,000人と記されている。なお注③ の森の編書の71ぺージには、さらに「万余」の第三次派遣軍の有無について、「❷(27,000人の第二次派遣軍のこと)の一部が迂回したものとする説もあるが、ここでは別部隊と見ておきたい」と肯定的に記されている。ただしその根拠は記されていない。

⑧ その事情は注① の遠山の著書の190ぺージ以下など。

⑨ 同上、201ぺージ以下。戦闘そのものについては、214~6ぺージ。


 以上が敗戦の大体の経緯であるが、まずこの敗戦が国家に与えたインパクトを単純な比例計算で推定してみると、7世紀当時の倭国の人口が500万から600万と推定されていて、1945年における日本の人口は7200万とされているので、単純計算で人口が第二次大戦当時の12分の1ないし14.4分の1程度の規模の国家だったことになる。

⑩ たとえば注②の森の著書の172ぺージに、「当時の倭国の人口は500万人~600万人と推計され」と記されている。

⑪ B.R.Mitchel, INTERNATIONAL HISTORICAL STATISTICS AFRICA, ASIA & OCEANIA 1750-2000, FOURTH EDITION, New York (Palgrave  Macmillan) 2003, p.8.


 白村江の戦いに加わった両軍の兵力について、前述の書物Aは『日本書紀』より唐水軍170艘、『三国史記』より倭国水軍1,000艘、『旧唐書』より「倭国水軍の船400艘を焼き払った」という数字を引用していて、特に後の数字は信用するに足るものと見なし、少なくとも400艘以上の船が参戦したものと推定している。書物Bに記されている船の数はAと同じだが、この戦いに加わった兵員の数の推定も行われていて、「さらに7,000人の唐軍に対して、倭国の軍隊は万余であったとする記録もあるが、これは風聞にすぎず、一説には5,000人程度しかいなかったとする見方もある」とされている。そこで書物Bに見られる5,000人または10,000人余りという数字を、第二次大戦当時の規模、すなわちその12倍または14.4倍に換算すると、最小でも6万、最大では14.4万あまりという数字が出て来る。2010年3月15日のインターネットの「不沈戦艦大和の最後」の項目によると戦艦大和の戦没者数は3,000人以上とされているので、最少限度に見積もっても十数隻の戦艦大和を一挙に失ったような打撃を受けたことになる。もちろん全員が死んだわけではないが、異国における水軍同士の戦いとなると、その死亡率は自国内や陸上の戦いと比較して高かったことは容易に想像できるであろう。

⑫ 注① の遠山の著書の208ページ。

⑬ 注② の森の著書の148ページ。


 包囲されていた周留城を脱出して、船で倭軍を迎えに来ていた百済王自身は、この戦いの帰趨を見て直ちにそのまま高句麗へ逃走したとされているが、周留城に立て籠っていた百済再建軍と倭国からの援軍も、この敗戦によって百済再建の希望を失い、戦意を喪失してその後間もなく降伏している。またこの敗戦で朝鮮半島に居場所を失ったと感じた百済人の支配層の多数が、倭国に引き揚げる兵士とともに亡命することを選び、我が国に流入して帰化している。

⑭ 注④ の井上監訳『日本書紀・下』、269ページ。

⑮ 同上。


 ついでに百済支援に加わった倭国の兵員の全体数について前述のような換算を行うと、このときの派兵数について、すでに見たとおり書物Aは最初に5,000人、続いて27,000人、合計32,000人と見なし、BとCはその説とそれに5,000人ないし10,000人余りを加えて最大42,000人以上とする説とを併記している。第二次大戦終戦当時に換算して12ないし14.4倍すると、最小でも384,000人、最大で604,800人余りという数字となる。この数字は国民総動員体制で1,000万人余りの兵員で戦われた 第二次大戦当時の日本の動員数とは比較にならないが、1904~5年当時、約4,500万人の人口だった 日本が国運を賭してロシア帝国と戦った日露戦争の100万人⑱(第二次大戦当時の人口に換算すると160万人)⑲ 近いとされている動員数と比較すると、最低でも24%、最大で37.8%以上に当たり、この戦争のためにあの日露戦争の約4分の1ないし約4割の規模の動員が行われていたことになる。しかも日露戦争とは異なり完敗を喫したために、賠償等の見返りは全く期待できず、派遣された兵員も自力で脱出して帰還する他はなかった。さらに短期間で手も足も出せない内に完敗したという事実も大きな衝撃を与えたはずである。また唐水軍に焼き払われた最低でも400艘の軍船の損害も馬鹿にはならないはずである。倭水軍の1,000艘という数字は疑問視されており、たとえ実際はその半数の数百艘だったとして、さらに唐水軍の170艘とは比較にならぬほどの小船だったのではないかという推測を認めたとしても、戦場が玄海灘の彼方の朝鮮半島だったことや、仮にも唐水軍相手に勇敢な突進を企てたという事実を考慮すると、たとえ小さくとも頑丈な、良質の素材と技術を用いた軍船だったことは否定できないのである。さらにこの遠征のために供給された武器、馬、食糧、資材などの莫大な費用を考えると、あまり豊かだったとは思えないこの当時の我が国に甚大な損害をもたらしたこと、そしてこの時の遠征軍の完敗が当時の我が国に強烈な衝撃を与えたことに疑問の余地はない。

⑯ 第二次世界大戦において日本が動員した兵士の概数を示した資料はまだ見当たらないが、おそらくその数字は藤村道生著『世界現代史1  日本現代史』、東京(山川出版社)1981、の218ぺージに記された、戦病死した軍人、軍属の数230万人という数字に、宮地正人編『日本史』、東京2008、で編者自身が執筆した「第11章 敗戦から経済大国へ」の497ぺージに記された、復員軍人700万入という数字を加えた930万人よりも、負傷者や退役軍人が加わるためはるかに大きいはずなので、1,000万人を優に越えている。

⑰ 注⑪の統計には2000年と2010年の日本の人口しか出ていないが、その中間の数字が約4,500万人となる。

⑱ 平凡社(1989年)の『世界大百科事典』の第21巻342ぺージ「日露戦争」の項に、「100万入近い兵員の動員」と記されている。

⑲ 1945年の日本の人口は日露戦争当時の1.6倍と見なされている。

⑳ 注② の森の著書の148ぺージには、倭の水軍は「船数だけは多いが、唐軍の目から見ると、「舟」=小舟にすぎなかったと考えられる」と記されている。


 もしもこの後、唐・新羅連合軍による高句麗征討が簡単に片付いていたら、当然倭国にも危機が及んでいたはずである。倭国は連合軍の敵である百済再建のために戦っただけでなく、多数の百済人の亡命を受け入れることで、公然と唐・新羅両国と敵対する行為を選んでいるからである。しかし倭国にとって好都合なことに、百済の場合とは異なり、高句麗征討は容易に進まなかった。唐・新羅連合軍は、この戦いの5年後の668年にようやく高句麗を滅亡させたが、朝鮮半島の統一を企図した新羅は、670年以降唐との全面戦争に入り、676年には唐軍を駆逐して半島統一を成就してしまう。。そして唐は新羅を攻める際の援軍を得るために、また新羅は倭国による背後からの攻撃を避けてあわよくば援軍を得るために、両国は競って我が国との友好関係を求めることになる。

㉑ 同上、201ぺージ。

㉒ 注③ の森の編書の84ぺージ以下。


 だがそうした未来など知る由もない我が国では、当然唐軍の来襲に対して危機感が高まった。敗戦の翌年の664年2月、天智は弟大海人皇子に甲子宣を発令させ、670年には我が国で初の全国的戸籍である庚午年籍を作成させたりして、大王家を軸にした国内の秩序強化をはかるとともに、急いで防衛の拠点作りを進め、まず北九州防衛の要である太宰府を守るために大小の水城を建設し、あるいは全国各地に百済式の山城を築かせると同時に、667年には飛鳥防衛のために百済人に3つの城を築かせて、防衛網を完成している。その一方で外交にも慎重に対応し、664年10月唐軍からの使者を迎え、本国からの使いでないことを理由に入京を拒み太宰府で応接する一方、賜物は付与するなどして丁重に対応し、翌665年9月に唐本国から使者が到来すると、菟道(うじ)で閲兵式を見せて倭軍の健在ぶりを誇示して、恐れていた唐からの倭国征討の動きを牽制している

㉓ 同上、72ぺージ以下。

㉔ 同上、87ページ以下。

㉕ 同上、77~78ぺージおよび74ぺージの図。

㉖ 同上、78ぺージ。

㉗ 同上、74~75ページ。

㉘ 同上、78ページ。


 先に見た飛鳥京の防衛網建設とはやや矛盾した印象を受けるが、667年3月、天智は飛鳥の開発が頭打ちになっていることなどいくつかの複合的な理由から、近江大津宮遷都を実行している。その翌年高句麗が滅亡していよいよ危機感が高まる中、唐への離反を決意した新羅が使者を派遣し、我が国も国王や重臣に船と贈り物を贈って丁重に応対しているが、その一方で670年には遣唐使を派遣して高句麗平定を慶賀することも怠らない。しかしその後30年間は遣唐使を取りやめ、その間の東アジアとの外交は、もっぱら先に朝貢の姿勢を示してきた新羅相手に限り、こちらからも遣新羅使を送るなどして対応している。このように遣唐使が30年間途絶えているという事実によっても、白村江以後に起きた唐からの干渉を過大視して、たとえば壬申の乱を倭国が唐から受けた懲罰のごとく見なしている著書には疑問を感じざるを得ない。実際倭国は671年に、新羅討伐を決定した旧百済領に駐留する唐軍から出兵を依頼されて断っているのである。それでも同年11月には船47艘、2,000人という大規模な唐使の来朝があり、これは白村江の戦いにおける倭国人の捕虜返還と新羅との戦争への倭国の軍事的支援を再度要請するためのものであったらしい。しかし翌年の5月に唐使は武器、布、棉を携えて帰国しており、結果的に倭国は朝鮮への出兵を断ったことになる。実はこの唐使が来朝した翌月にあたる671年12月に天智大王が死去しており、当面倭国では海外派兵どころではないという事態を、唐からの使者が了解したためだと思われる。

㉙ 同上、80~84ページ。

㉚ 同上、85ぺージ。

㉛ 注② の森の著書の205~206ページ。

㉜ 同上、200ページ以下。

㉝ 一々文献名は挙げないが、戦後の一時期にアメリカ軍が日本の各地に進駐していた影響からか、あたかも白村江の敗戦の後に、唐の軍隊が倭国に進駐していたかのように論じた文献が複数見られた。それらにおいては、壬申の乱も唐が天智と大友の父子に対して加えた懲罰のごとく受け取られていた。もしもそのような事態が生じていたら、当然唐に対する従属関係が生じていて、遣唐使はもっと頻繁に行われていたはずであり、670年の派遣以後30年間ものブランクなど生じるはずはなかった。また朝廷が唐に敵対した百済からの帰化人を重用することなど、不可能だったはずである。

㉞ 注② の森の著書の202ページなど。

㉟ 同上。

㊱ 同上。


 翌672年の6月、天智大王の子大友皇子と天智の弟大海人皇子の間で、大王の地位の継承をめぐって壬申の乱が勃発する。天智は死ぬ前に自分の後継者に関して大海人との間で話し合い、その結果大海人が出家して吉野に引退したことが記録されているので、この戦いは大海人が天智との約束を反古にした一種のクーデターだったことは明白である。しかし天智と大海人、後の天武の正確な没年令はおろか、どちらが年長だったかという基本的な事実さえ、一応定説らしきものはあるものの、決定的な確証が得られていないということであり、この戦いは何から何まで謎だらけといっても過言ではない。戦局を左右したと思われる二人の皇子とその重臣たちの血縁・姻戚関係、そこから生じる地盤や兵力などに関しても、推測に継ぐ推測が行われていて、そうした推測の内のどれをどこまで信用して良いのか分からないと言うのが、私のような門外漢の率直な感想である。しかし古代における最大級の内乱だけあって、極めて多数の論文と直木・田中論争のような重要な論争をもたらし、従来の記紀研究の限界を示すとともに、考古学や木簡研究など新しい研究方法の有効性を明らかにした点でも、日本史研究史上重要なテーマの一つであったことは確かである

㊲ 注④ の井上監訳『日本書紀・下』、283ぺージ。

㊳ 遠山美津男著『壬申の乱 天皇誕生の神話と史実』、東京(中央公論社)1996、Ⅱの「大海人皇子をめぐる群像」は天智と天武が兄弟だったか、またどちらが年上だったかについてさえ確証がないことを認めながらも、従来の兄弟説を覆す確かな史料が存在しないことを示し、50~51ぺージに記された二人の初生子の誕生年からの考証に基づき、天智は620年代の後半、天武は630年代半ばの生まれで、やはり天智は兄だっただろうと推定している。

㊴ 早川万年著『壬申の乱を読み解く』、東京(吉川弘文舘)2009、159ぺージ.以下の「壬申紀はいかに読まれてきたか」の章。および倉本一宏『壬申の乱(戦争の日本史2)』、東京(吉川弘文館)2007の「近代史の中の壬申の乱」の章など。

㊵ 同上。


 しかしここで一つ、敗戦の影響について関心を抱いている門外漢として、提出しておきたい素朴な疑問がある。それはこれまで行われてきた壬申の乱に関する研究では、その9年前に発生した白村江の敗戦の影響が十分に評価されていないのではないか、という疑間である。もちろんこれまでも二つの戦いの関連が全く無視されてきたわけではなく、たとえば『白村江の戦いと壬申の乱  唐初期の朝鮮三国と日本』 のように、タイトルそのものが二つの戦いの関連を示唆している書物さえ存在しており、あるいは私がすでに何度も利用してきた書物Bの『「白村江」以後 国家危機と東アジア外交』というタイトルも、そうした関連を示唆していると言えるかも知れない。しかし実際にそれらの書物に当たって見ると、前者は『日本書紀』の記述から大きく離れた推測を重ねながら、天智と天武との兄弟関係を否定して、天武の父は漢人の玄理、母は不明、当人は外国生まれの外国育ちと推定するなど、私のような門外漢にはその説の真偽を検討する素養は全くないけれども、通説から極めて大胆に乖離しているという印象を受ける上に、二つの戦いの関係が、タイトルから期待されるほど真正面から論じられていないようである。それに対して後者は、タイトルが示す通り、白村江の戦い以後の国際関係のみならず、資料に基づきながら我が国で生じた変化を簡潔にたどっている点で、私のような門外漢にとってはまことに親切なガイドブックであったことを認めておきたいと思う。しかし二つの戦いの関連については、(他の多くの類書がそうであるように)史実を忠実に辿ろうとするあまり、史実から離れて二つの戦いの関連を客観的に検討した形跡は見当たらない。

㊶ 小林恵子著『白村江の戦いと壬申の乱 唐初期の朝鮮三国と日本』、東京(現代思潮社)1988。

㊷ 同上、42ページ。注㊳ の著書などの記述から考えると、案外こうした説も、我々門外漢が感じるほど、専門家にとっては違和感がないのかも知れない。


 だが私のような門外漢がごく常識的に想像しただけでも、9年前の衝撃的な敗戦は、我が国の古代における最大級の内乱に対して、始めから終わりまで通奏低音として影響し続けていたように思われてならないのである。その最大の原因は、やはり何と言ってもあの敗戦によって多数の犠牲者が出たことである。なぜなら、おそらく今日よりもはるかに遠く感じられた朝鮮半島に出陣した兵士たちは、動員した責任者に対して最も忠実であると同時に最も行動力のある人々だったはずであり、それらの多数の兵士を一挙に失ったことは、当然その動員の責任者が駆使し得る戦力を大きく削減したはずだからである。そして彼らを動員したのは、すでに見たとおり斉明大王と中大兄皇子の母子であり、斉明は早くに死去したため、動員と敗北の責任は、やがて母の地位を継いで天智と名乗って即位するはずの中大兄皇子の一身に降り懸かることとなり、本来ならば彼あるいはその子やその与党に備わっていたはずの動員能力を奪うことになったに違いないからである。事実壬申の乱の勃発直後、大友皇子は国内の各地に動員をかけていて、『日本書紀』には白村江の戦いへの参加者が多かったと推定されている筑紫や吉備にも動員の使者が赴いたことが記録されている。しかし筑紫では祖国防衛を理由として頑なに断られ、吉備では使者が協力的でない現地の責任者を殺したとされていで、いずれの地方からも期待した通りの援軍を得られなかったようである。おそらく9年前の敗戦がなければ、これら二つの地域の反応もこれほど冷たくはなかったはずで、むしろ天智の嗣子のために積極的に支援したはずである。またそれと同様のことが、他のいくつかの地域についても考えられるはずである。

㊸ 注④ の井上監訳『日本書紀・下』、294ぺージ。

㊹ 同上。


 それに劣らず重要だと思われる二つ目の原因は、白村江の敗戦後に発生していた危機的状況が、若い大友皇子にとって確実に不利に作用したと思われることである。たしかに敗戦から9年が経過した壬申の乱の時期になると、すでに唐や新羅との関係もいくらか安定していて、一時期のような危機的状況は収まっていたかも知れないが、むしろそれだけに一層、外交関係における慎重さを望む気持ちが強まっていたはずであり、たとえいかに優れた資質の持主だと見なされていても、敗戦当時まだ少年だった大友よりも、敗戦の衝撃をともに体験した後、甲子宣を発布して庚午年籍を作成するなど、危機的状況の打開のためにも深く関与した老練な大海人の方がはるかに信頼に値すると見なされたはずだからである。さらに『日本書紀』で「当時あらゆる百姓は遷都を願わず、これを諷刺する者が多かった。童謡も多く、また連日連夜のように火災が起こった」 と記されている、天智が唐突に推進した近江遷都も、大友に不利に作用していたはずである。唐や新羅からの使節の相次ぐ到来も、天智の若い息子の大友が、父と同様安易にいずれかの国のために派兵を決定するのではないか、という不安を人々に感じさせた可能性は十分考えられるのである。

㊺ 井上監訳『日本書紀・下』の273ページ。

 

 以上の2点だけでも、若い大友に大きな不利益をもたらしたはずである。さらに白村江派兵を決定し、敗戦後は百済からの多数の亡命者を気前よく大量に受け入れた天智の決断に対しても、民衆の間には根強い不安が生じていた可能性があり、たとえば大友の母の里であるはずの伊賀において、大海人を迎えるために多くの支援者が現れたという記録 からも、世間一般に暗黙裡の大海人支持が広がっていたことが感じられるのである。そうした反大友、親大海人の空気は、単にそれが勝者による記録だという理由だけで説明すべきではなく、白村江の敗戦という重大な失敗に対して強い責任を感じている様子もなく、世論を無視して近江遷都を強行していた天智・大友父子への批判的な空気の現れだったと見なすべきではないだろうか。このような見地に立つと、壬申の乱自体が、まさに白村江の敗戦の影響を色濃く受けていたことは明らかである。もしも白村江の敗戦の影響を基にして生まれた世間一般の支持がなければ、はたして大海人皇子が壬申の乱を起こしていたであろうか。私にはそうは思えないのである。だから敢えて言えば、壬申の乱自体が白村江の敗戦の影響の下で発生したと見なすことさえ可能なのではないだろうか。

㊻ 同上の292ぺージ。


 このように一見奇跡のように見えるクーデターが成功した後、大海人が意外に寛大な処置を取ることができた のも、大海人のおおらかな人柄の現れであるとともに、世間の好意的な反応のせいである、とも考えられる。もしもきびしい抵抗を受けた後の勝利であれば、大海人がいかに寛大であろうとしても、勝利を確実にするために苛酷な処置を避けられなかったはずだからである。実際大海人が飛鳥に戻って天武として即位した時には、クーデターの後と思えないほど、反対勢力は少なくなっていた。しかも天武は、戦った相手である天智系の人々をも朝廷に迎え入れているのである。このように、いわば輿望を担って即位した天武が期待に違わぬ英明な君主であったことは、先に挙げた書物BやCで簡潔にまとめられている数々の改革によって明らかである。もちろん議論の余地は大いにあると思われるが、書物Cの編者自身が執筆した天武天皇即位以降の項目の見出しを列挙しただけでも、天皇号の成立、飛鳥浄御原宮造営、天皇権威の創成、部民制の廃止、中央官制の整備、飛鳥浄御原令の編纂、八色の姓と新冠位制定、歴史書編纂と日本語の表記などがあり、まだ完成からはほど遠いとしても、少なくとも『日本書紀』や『古事記』の編纂が企画されたのもその治世であった。その在位はわずか足掛け14年だったことを考えると信じ難いほどの実り多い歳月であり、この時期を境に倭国は日本となり、大王(おおきみ)が天皇になったとされていて、まさに我が国を一新させた時代であった。

㊼ 注㊳ の著書の259~261ページの「戦犯処罰の項」は、「壬申の乱の処罰は全体的に軽微であったといわれる」という通説の紹介に始まり、「総じて、このようにいえるであろう。処罰の対象は極端に狭かったとは言えない、また、その処罰も極端に軽かったともいえないと」という評価で終わっている。要するに極端に軽微ではなかったけれども、比較的寛大なものであったと見なし得るであろう。

㊽ フランス革命のロベスピエールに代表される、古来の革命政府が残酷な粛清を行う理由の一つは、敵を生かしておくと自分の地位と生命が危ないためであると思われる。

㊾ 皇族に関しては、たび重なる婚姻によって天智と天武の血が交じり過ぎているために、天智系を排除することは事実上不可能であったし、臣下に関しては、たとえば注㊳ の遠山の著書255~257ページによると、大友皇子の最期に立ち会った物部連麻呂は、内乱の終息後、石上朝臣と改姓したが、比類のない忠節者と見なされて出世を重ね、正二位左大臣にのぼりつめたと記されている。

㊿ 注③ の森の編書の99~121ぺージ。


 このあたりで本論文の趣旨に戻ることにして、前章で「敗戦が(損失だけをもたらしているわけではなく)、経済・文化・歴史的に見て、敗北した側の関係者の多数に好ましい結果をもたらしていると見られる現象」と規定したモンタペルティ現象が、はたして白村江の戦いの後に発生しているかどうか、を検討することにしよう。結論から先に記すと、以下に記す最低でも4つの理由によって、白村江の戦いに敗北した我が国の国民に対して好ましい結果をもたらしていると思われるので、この敗戦からモンタペルティ現象が発生していたものと私は判断するのである。


1. 敗戦の危機感が我が国の防衛体制を固めたこと(51)。すなわち敗戦直後に唐・新羅連合軍による征討を恐れた我が国では、北九州に大小の水城を築き、各地に山城を構えるなど、防衛体制を強化した。朝鮮半島での苦しい戦いを体験した帰還兵や百済人によって、当然軍事組織や戦法にも、従来のものに較べて大きな改良が加えられているはずである。

(51) 恥をさらすようであるが、このあたりで本章成立の内幕を告白しておくと、本論の第一章で歴史的側面でのモンタペルティ現象を扱うことは既定の方針ではあったが、いかなる事例をメインとして扱うかについてはなかなかきまらず、たまたま桃山学院の演習の時間にモンタペルティ現象について話した大学院生が利休についての論文を執筆中だったために、利休の運命とも関連があるらしい秀吉の文禄・慶長の役が日本に与えた歴史的影響を、モンタペルティ現象という見地から論じるつもりであった。ところがたまたま毎日新聞で五百旗頭真防衛大学校長の白村江に関する記事を読み、こちらの方がより簡明に本論の趣旨を伝えることができると考えて、急遽方針を変更した次第である。新聞記事そのものはその後一度も確認することなく、白村江の戦いが壬申の乱に与えた影響からその後に行われた大改革までを記した後、自分としてはほとんど五百旗頭史観をなぞったつもりだったので後ろめたく思いながら、再度図書館で2009年6月14日付けのその記事に当たって確かめて見たところ、防衛大学校長としては当然のことながら、そこには白村江の戦い当時の国際情勢と、その敗戦後に危機感を覚えた大和王朝がいかに見事に防衛力を強化したかが記されているだけで、壬申の乱のじの字も出ていなかった。要するに頭の中で幻の五百旗頭史観をでっちあげて、それをなぞっていたわけであり、自分の記憶の良い加減さに、まさに狐につままれたような感じがしたことを白状しておく。


2. 敗戦によって多数の百済人が我が国に亡命したこと。前項の山城建造では百済人が大いに利用されたという事実によっても明らかな通り、彼らの多くは優れた先進文明の知識や技術の持主であった。敗戦そのものは悲惨であったが、この敗戦は百済という国の有能な人々を大量に招き入れる好機となった。天智大王は彼らを歓迎し、『日本書紀』に諷刺の歌が記録されるほど(52) 気前良く高い位につけてその才能を発揮させた。

(52) 注④ の井上監訳『日本書紀・下』、281ぺージ。百済からの多数の帰化人に一挙に大錦下以下の官位を賜ったとする記事の直後に、「橘は、己が枝枝、生れれども、玉に貫く時、同じ緒に貫く」という童謡が記されている。


3. 敗戦の犠牲によって権力構造に変化が生じてクーデターが発生し、国家の改革が大幅に前進したこと。クーデターによって世間が広く待望する優れた人材が権力の座につき、律令制度に向けて大幅な改革を推進した。勿論その結果誕生した天皇制や日本という国家がもたらした結果に対しては様々な見解があり得るが、少なくとも将来高い水準の文明を維持する装置として、この時期に日本という国家の枠組が確固とした形で形成されたことは、その後の国民に好ましい結果をもたらしたことは明らかである。


4. 白鳳文化が開花してその成果が後世に残されたこと(53)。すでに2.で指摘したように、多くの渡来人を受け入れた結果、我が国は多くの新しい知識や技術を取り入れることができ、強い刺激を得ることができた。もちろん、我が国の人々はそうした知識や技術を単に吸収しただけではなく、それまでに我が国で発達していた固有の文化と擦り合わせることによって、新しい境地を開拓し、それまでには見られなかった、今日白鳳文化とよばれている優れた成果を残すことになった。私はこれまでの論文で、第二次大戦後の日本では、大陸からの引き揚げ者が文化の面で目立って大きな役割を果していることを指摘したが、白村江の敗戦の後には百済からの帰化人が同じような役割を果した可能性が高い。

(53) 注③ の森の編書の166ぺージ(曾根正人分担執筆)と310ぺージ以下(鐘江宏之分担執筆)など。


 たまたま白村江の戦いの場合は、このように好ましい結果がかなり鮮明に現れているのだが、それほど好ましい結果が明らかではなくとも、あるいはたとえその時点では、敗戦による損害の方が明らかな場合であっても、長い目で見ると歴史的に好影響をもたらしているのではないかと推測される例が存在している。すでに記したとおり、白村江の戦いの場合、我が国はあまりにも安易に参戦しているという印象が否めないが、そうした決断を下した最大の理由は、当時情報源が決定的に不足していたために、百済人がもたらした一方的な情報を信じるしかなかったことではないかと思われる。しかしいくら楽観的な人々だったとしても、おそらくそうした外側からの働きかけだけでは、斉明・中大兄の母子は動かなかったはずで、もう一つ彼らをこうした冒険的な行動に内側から駆り立てた動機があったはずである。書物Aによると、それは百済王冊封の夢が捨てられなかったためだとされている(54)。百済からの使者はおそらくこの点をうまく衝いたのではないだろうか。さらに考えられるもう一つの動機は、それ以前に大王家が強力な政敵であった蘇我氏の本家を倒して我が国の支配体制の一元化に成功していたことだろう(55)。というのは後に見るとおり、国家の支配の一元化に成功した場合に対外的な進出を試みたという実例が他にいくつも見られるからである。白村江の場合をも含めて、必ずしもそれは自信過剰のためだけとは言いきれないようである。むしろ国内の一元化に成功したという状態を確認し、それを維持するために、あえて戦争に突入せざるを得ない場合も十分にあり得るからである。

(54) 注① の遠山の著書の170ぺージ以下。

(55) 注③ の森の編書の40ぺージ以下、「蘇我本宗家の討滅」の項


 すなわち、内乱状態が収まって支配権力の一元化が確立された国家もしくは集団が、それによって生じた自信と諸般の事情に基づいて、国外に征討軍を派遣するという事例は、世界史においてそれほど稀ではない。たとえば国家統一に成功した豊臣秀吉が、明を目指して朝鮮半島に侵入した文禄・慶長の役などはまさにそうした例の典型である(56)。 結局隣国に大迷惑をかけただけで何ら利益をもたらさなかったと思われるこの戦争も、日本国内では豊臣から徳川への政権交代の重要な契機として影響しており、さらに江戸幕府による長期にわたる外国との不戦状態をもたらした可能性が高いのである(57)。 第二次大戦後に国民党を台湾に追い込んだ中国共産党は、朝鮮戦争に積極的に関与し、その後はベトナム征討まで行っている(58)。 おそらくこの中越戦争における苦戦がその後の中国政府に影響を与えていて、中共軍のその後の対外活動をより慎重なものにするとともに、今日の中国の近代化を進める動因の一つとして作用しているものと思われる(59)。 以上の失敗した戦争は、攻撃した側に白村江の敗戦ほどの成果をもたらしたとは言えないけれども、対外戦争は高くつくという貴重な教訓を与えることによって、敗北した側のその後の歴史に好ましい結果を与えたと判定することが可能なのではないだろうか。こうした実例は、少し丹念に調べれば世界史にいくらでも見られるはずであり、たとえその成果がそれほど積極的なものではなくても、やはり歴史的モンタペルティ現象のグループに加えることが可能であると思われる。

(56) 私の文禄・慶長の役に関する知識は、主に中野等著『戦争の日本史16  文禄・慶長の役』、東京(吉川弘文舘)2008に負うている。

(57) この戦争をめぐって発生した豊臣の家臣たちの間の不和は、ほとんどそのまま関ヶ原の合戦における東西両軍の構成に直結して、江戸幕府の成立をもたらした。さらにこの戦いの経緯を目撃したことが、徳川家康の外交政策に影響しなかったはずはない。

(58) 以下の中越戦争の経過に関する記述は、ほとんどウィキペディアの「中越戦争」の項に負うている。

(59) ベトナム軍の方が近代化が進んでいたために、侵入した中国軍の損害は大きく、北部地域を占領した後早々に引き上げたとされている。


 有史以来4,000年という長い歴史を誇る中国には、こうした一見敗北者をきびしく打ちのめしただけのように見えながら、実は長い目で見ると、敗北した側にとって有利に作用したのではないかと思われる例がいくつか見られるようである。有名な臥薪嘗胆の故事は、一代で決着しているためにそうした実例と見なすにはスパンが短すぎるが、漢の高祖が冒頓単于(ぼくとつぜんう)相手に喫した敗戦などは、まさにこうした実例の一つのように思われる。

 モンゴリアの統一に成功した冒頓単于が山西省北部に侵入した際、おりしも紀元前202年に項羽を破って中国を統一したばかりの漢の高祖が北上してこれを迎え討ったが、冒頓単于は40万の騎兵によって彼を大同付近において包囲した。冒頓の温情でかろうじて脱出した後、高祖は漢の公主(皇室の娘)を妻として差し出すこと、絹織物、酒、米などを毎年おくることなどを条件に、紀元前198年冒頓単于との間で和議を結んだ、とされている(60)

(60) 漢の高祖と冒頓単于の関係についての知識は、杉山正明著『遊牧民から見た世界史 民族も国境もこえて』、東京(日本経済新聞社)1997、およびウィキペディアの「冒頓単于」や「漢の高祖」の項に負うている。


 これは一見どう考えても高祖にとって損なだけの屈辱的な講和だったように見えるが、まず北方の遊牧民族の強さを知って周到な準備なしでは絶対に戦えないことを教えたことと、毎年贈らねばならない貢ぎ物のために漢の皇室に倹約を強いたこと、という少なくとも2つの点で、漢の支配の永続にとって好ましい影響を与えていたはずである(61)

(61) 杉山氏は前注で挙げた著書126ページの中で、「漢王朝がよたりながらもともかくも「内むき」のままでいられた背景には、じつは匈奴帝国による安全保障という傘のなかで、むしろ護られていた点を見逃すことはできない。(中略)劉邦はむしろ「虎の威」を借りたのである」とまで記している。この見解に従うと、ここでもまさしく歴史的モンタペルティ現象が発生していたのである。


 史上初めて中国を統一した秦帝国は、始皇帝の下で絶大な権勢を誇っていたが、自信過剰が昂じて皇室に隙が生じたため、信じ難いほどあっけなく崩壊した(62)。それに対し高祖は統一後4年にして冒頓単于に完敗を喫したため、わずか7年間の治世では権勢を誇る余裕はなく、また高祖の死後も漢の皇室は、歴代旬奴に贈らねばならない貢ぎ物のために、倹約を強いられざるを得なかった。秦の場合とは対照的に、こうした厳しい状況が漢の皇室を史上初の永続的な統一政権となり得るように鍛えたと言えるのではないだろうか。したがって私は、この敗戦においてさえ一種のモンタペルティ現象が発生していると考えている。

(62) 秦の滅亡に関する記述は、ウィキペディアの「秦」の項と「始皇帝」の項に負うている。


 それに対して1004年遼の第六代皇帝聖宗が攻め込んだ時、宋の第三代の皇帝真宗が、宰相冠準に引きずられて澶州に出陣した際に結ばれたいわゆる澶淵の盟は、戦争が起きておらず、そのため当然敗戦を伴わない上に、一応和約とされていて、

1. 宋は遼に毎年絹10万匹、銀20万両を送る

2. 宋を兄、遼を弟とする

3. 両国国境は現状維持とする

という3つの条件も、名と実を双方に分けることで一応公平らしき体裁はととのっているものの、少なくともこの時点におけるこの和約の実質は、毎年宋が遼に貢ぎ物を贈るというものであったことを忘れてはならないであろう(63)

(63) 澶淵の盟についての本章の記述は、小島毅『中国思想と宗教の奔流 宋朝、中国の歴史07』、東京(講談社)2005の73~76ぺージに基づいている。遼(契丹)との和平の条件は同書75ぺージ。


 戦えば敗北することが目にみえているので、宋は兄という名目だけで我慢して、屈辱的な毎年の朝貢を約束せざるを得なかった、というのが実情だったのだろう。しかしその後平和な日々が続いたおかげで、年々宋が豊かになるにつれて、毎年の贈与の負担よりも、遼との盟約によって北方が安定していることから生じる恩恵の方がはるかに大きくなり、豊かな兄から貧しい弟へのささやかな援助という性格が強まったようである。このように考えると、この時結ばれた澶淵の盟なるものをも一種の敗戦と見なし、その後にモンタペルティ現象が発生していると解釈することが可能である。中国文明史上宋がどんなに優れた時代であったかは、宮崎市定博士らの著述などによって説かれており(64)、今更繰り返す必要はあるまい。このようにこの優れた時代の繁栄の基盤となったのは、やや変則ではあるが、戦わずして双方が認めた敗戦の結果として発生したモンタペルティ現象だったのである。

(64) 宮崎市定『中国史・下』、東京(岩波書店)1978、417ぺージに、「宋は南宋150年、北宋と合せて317年の命脈を保った。宋の歴史はその文化と共に長く後世に模範を垂れた」という一文があるように、著者の宋に対する評価はきわめて高い。


 そう言えば、1127年靖康の変で金によって北宋が滅亡した後、金に連れ去られた北宋の皇帝欽宗の弟が、高宗と名乗って建国した南宋という国家も、敗北が建国の動機となっているという事実によって、それ自体がまさにモンタペルティ現象を基盤にして成立したと見なし得る国家であった。やがて長期にわたる交渉の後、金との親密な関係が疑われている秦檜による主戦派の中心人物岳飛の処刑を経て、1141年に締結された第一次和約では、

1. 国境の画定

2. 宋の皇帝は金の皇帝の臣下として毎年使節を派遣し、絹25万匹と銀25万両を貢納すること

3. 徽宗の梓宮と高宗の生母の身柄返還

などが約束されていて、先に見た宋と遼との関係が、金と南宋との間でさらに敗者側に厳しくした形で繰り返されていることは明らかである(65)

(65) 注(63) の著書の120~134ぺージに基づく。金との講和の具体的な条件は131ページ。


 後年、金でクーデターを起こして中国統一を試みた海陵王の侵略に抵抗してこれをくい止めることができたために、臣下の関係から叔姪の関係に格上げされ、歳貢も歳幣と名を改めて条件も緩和されたということだが(66)、基本的にはその後も遼に対していたのと類似の関係が保たれていたと見なしても差し支えないであろう。そして1234年金がモンゴル軍に滅ぼされる以前は、海陵王の時代の一時期を除くと、南宋と金との平和な関係は結構長く続き、そのおかげで南宋はそれまでと同様に高い水準の文化を維持することができた。途中で北宋の滅亡という一種の断絶は見られるものの、当初から強力な敵国に威圧され続けて、いかにも頼りなげに見えた宋王朝は、皮肉にも中国の王朝としては最も長い316年もの長期にわたって、一応皇帝の地位を保ち続けたのである(67)

(66) 同上、136~139ぺージ。

(67) 同上、53~55ページ。


 以上、白村江の戦い以外は簡単に触れただけだが、私のような歴史の知識が乏しい人間でもこうした実例が次々と思い浮かぶことから判断すると、結果的に見て敗戦が敗北した側の人々に好ましい影響を及ぼし、モンタペルティ現象と見なすことができる出来事は、決して希有ではなさそうである。ただしその恩恵が経済的繁栄などといった目に見える形であらわれるとはかぎらず、むしろ漢の高祖の場合のように、その時点では大きな損失と屈辱しかもたらさないように感じられる場合も十分にあり得るだろう。

 いずれにしても本章で扱ったケースは、ほぼ単独で、孤立した形で発生しているものばかりである。たとえば白村江の戦いの場合、我が国が二度と体験することのできない貴重な時期に発生した結果、重大な変化を引き起こして、そこから生じた結果はほとんど永久的に我が国に影響し続けることになった。こうした変化は、この段階にある国家にだけ起こることであって、何らかの偶然が生じない限り、単独でしか発生し得ないものである。したがって、もちろんまだまだ熟考の余地はあるけれども、このようにもっぱら歴史的な側面において好ましい影響を与える場合のモンタペルティ現象は、ほぼ孤立した形で単独で発生するものと考えることができるのではないだろうか。



第二章 フィレンツェとシエナ


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