モンタペルティ現象4-2


敗戦の効果

~ 世界史の中のモンタペルティ現象 ~

米山 喜晟



第二章 フィレンツェとシエナ

~同時多発的モンタペルティ現象~



 単独で発生したモンタペルティ現象を論じた前章に続いて、本章は複数で発生したモンタペルティ現象について考察する。

 実は第二次世界大戦後の日・独・伊三国と4年以上も占領下にあって准敗戦国とも見なし得るフランスやベネルックス三国のさまざまな面における繁栄こそ、複数で同時多発的に発生したモンタペルティ現象の典型的な実例であったが、すでに一度論じているため、ここではもう一度中世イタリアに戻り、フィレンツェに引き続いて、そのライバル都市シエナで発生していたと思われるモンタペルティ現象について明らかにしておきたい。幸いシエナに関しては、バウスキーの名著 や石鍋真澄著『聖母の都市シエナ 中世イタリアの都市国家と美術』 のような優れた著作が存在し、また筆者がかつてシエナに関する修士論文を審査した学生が、現在もシエナの研究を続けているので、本論のためにそれらの成果を利用させてもらうことができる。

① 拙稿『潮流に乗って・第二次世界大戦後のモンタペルティ現象』(「百万遍第5号」所収)

② W.M.Bowsky, Un comune italiano nel Medioevo Siena sotto il regime dei Nove 1287-1355, Bologna (Il Mulino) 1986. なお原著は、A Medieval Italian Commune.  Siena under the Nine 1287-1355, Berkeley,  Los Angeles, London, University of California Press, 1981.  英文で書かれた原著を著者自身がイタリア語に翻訳したものと思われる。

③ 石鍋真澄著『聖母の都市シエナ 中世イタリアの都市国家と美術』、東京(吉川弘文舘)1988。


 シエナでモンタペルティ現象を発生させた敗戦は、シエナが大勝利を納めたモンタペルティ戦争ではもちろんありえない。それは、1269年6月16日(日曜日)から翌17日にかけて勃発したコッレ・ディ・ヴァル・デルサ戦争である。したがってまずこの戦争にいたるまでのシエナの状況を見ておかねばならない。

 1260年9月4日に勝利して以来、すでに約9年の歳月を経ていて、その間にシエナやフィレンツェをめぐる状況にも想像を絶する変化が生じていた。

 まずモンタペルティで勝利した直後のシエナは、人口はフィレンツェの約半分、都市部だけなら5万にも足らない、当時のイタリアでは決して珍しくない中堅都市の一つに過ぎなかったが、おそらく瞬間風速的にはイタリアでもトップクラスの勢力を誇っていた。軍事・政治的にはナポリ王国のマンフレーディ王との同盟によってフィレンツェ以下グェルフィ(教皇派)都市の連合軍を撃破したばかりで、それらの諸都市からグェルフィ(教皇派)党員を追放してトスカーナ地方の大部分を勢力下においており、経済的には教皇庁の奥深くに食い込んでいて、同時にヨーロッパでも手広く営業していたために、「グラン・ターヴォラ(大きなテーブル)」と呼ばれ、後世の研究者から「13世紀のロスチャイルド」とも呼ばれたボンシニョーリをはじめ、モンタペルティ戦争で傭兵を集めるのに必要な経費を一手に引き受けたと伝えられるサリンベーニ、あるいはエジプトのプトレマイオス王朝の子孫だと名乗り、常にサリンベーニと張り合っていたトロメーイ、15世紀には教皇ピウス二世を生むピッコローミニなど数多くの国際的な銀行家を擁して、ヨーロッパの金融業界を牛耳っていたからである。

④ シエナの規模については、前注の著書の36ぺージ、銀行の各々については、中山明子『中世シエナの金融業~ボンシニョーリ銀行の興亡、およびシャンパーニュの大市との関係を中心に』、「イタリア学会誌第47号」、東京(イタリア学会)1997、および同『サリンベーニとトロメーイ・閥族、及び都市における反閥族規定の意味をめくって』、「AULA NUOVA イタリアの言語と文化・第3号」、大阪(大阪外国語大学イタリア語研究室)2001、に基づいている。


 こうした事実を考慮すると、同じモンタペルティ現象という言葉を用いていても、敗戦の影響の仕方はフィレンツェとシエナではかなり異なっていることを認めなければならない。すなわちモンタペルティ現象は、国際的経済活動などといった側面では、シエナに対してフィレンツェの場合ほど恩恵を与えているようには見えない。なぜならシエナは、すでに1260年代に軍事・経済的にそのピークに達していて、コッレ戦争の後で発生したと推測されるモンタペルティ現象は、こうした側面ではシエナをそれ以上の地位に押しあげることはできなかったからである。それにもかかわらず、この敗戦後に生じたシエナの新しい体制はこの都市を一新させ、今日なお住む人々の愛郷心をかきたて、訪れる人々を感嘆させてやまない、世界でも例のない珠玉のような都市に磨きあげたのであり、この類いなき都市を見ると、やはりそこにはフィレンツェの場合とはかなり趣を異にするモンタペルティ現象が発生していたとしか考えられないのである。さらにこの場合、すでにフィレンツェで発生していたモンタペルティ現象が、シエナのそれに対しても影響を及ぼしていたことが十分推測される。そこで筆者は本章において、コッレ戦争の後にシエナで発生したと思われるモンタペルティ現象の特性を明らかにするとともに、フィレンツェで発生していたこの現象との関係についても論及しておきたい。

 おそらく他でもそうした例が見られるものと思われるが、モンタペルティ戦争の地すべり的な勝利は、シエナ人に好ましい影響だけを与えたわけではなく、若い人々の間に一種の狂気じみた精神状態をもたらしたようである。この点に関しても、ダンテの『神曲』はきわめて興味深い事実を伝えている。石鍋真澄著の『聖母の都市シエナ 中世イタリアの都市国家と美術』は、『地獄篇』の第29歌から9行の詩句を引用した後、「ここに名をあげられた者たちは、市で最も富裕だったサリンベーニ家の一員らと考えられているが、10人あまりの若者が結成した「放蕩団」の団員であった。彼らはバカ騒ぎや狩りや宴会に打ち興じ、20ヵ月のあいだに20万金フィオリーニ(米山注: 今日の約100~200億円)というとてつもない金を浪費して、後世の語り草になったのである。今日なおシエナには、彼らが使ったと伝えられる13世紀の建物が残っており、「ラ・コンスーマ(浪費宮)」と呼ばれている」と記している。

⑤ 石鍋、前掲書、62ページ。なお引用されているのは、ダンテ『神曲・地獄篇』第29歌、第123~132行。

 

 また『神曲』の注釈者は、こうした振る舞いがなされたのは、モンタペルティ戦争の勝利からコッレ戦争の敗北までの間だったと記している。ダンテはこれらの詩句の直前で、「一体シエナ人のように / 虚栄心の強い人がかつていたでしょうか?」⑦ とウェルギリウスに質問しているが、こうした行為は決してシエナ人固有のものではなく、ヴェブレンが『有閑階級の理論』で「衒示的消費」と呼んだ行為⑧ か、またはモースが贈与の一例として紹介した「ポトラッチ」⑨ の一種として解釈できる行為であり、状況次第ではいかなる国民でも取り得る可能性がある、人類に普遍的な行動だったのである。要するに宿敵フィレンツェの打倒に成功した直後のシエナ人は、ここまで有頂天になっていたわけである。

⑥ たとえばボローニャのザニケッリ社から刊行された、マンフレーディ・ポレーナの注解によるダンテ『神曲』の Inferno (ボローニャ 1972)の267ページなど。ただしその仲間については、サリンベーニ家だけではなく、トロメーイ家やボンシニョーリ家の人々が加わっていたとする説もあるらしい。

⑦ ダンテ『神曲・地獄篇』第29歌、第121~122行。

⑧ ソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』(1899年)の第4章で論じられている、他人から賞賛され評価されるための不必要な消費。

⑨ 元は北米インディアンの間で行われていた互いに贈り物を競い合う儀式だが、文化人類学者の注目を引いて様々な形で解釈され、モースの『贈与論』で紹介されたエピソードなどを通して広く知られるに至っている。前注の行動とともに、社会科学一般の基礎となっている、人間は合理的行動を行うという想定に対する顕著な例外として興味深い。


 しかしシエナの絶頂期は、そう長くは続かなかった。北はギベッリーニ(皇帝派)化したトスカーナ地方と、南はイタリアのギベッリーニ(皇帝派)党の盟主マンフレーディ王のナポリ王国によって、その領土を両面から圧迫されて危機感に襲われた教皇庁は、まずモンタペルティ戦争直後にシエナを破門し、さらに1261年、アレキサンデル四世の死去に伴い、フランスのトロワの靴屋の息子と伝えられる、世情に明るい知謀の人、ウルバヌス四世を教皇に選出して教会の立て直しをはかる

⑩ Saba e Castiglione, STORIA DEI PAPI, Vol.I, Torino (U.T.E.T) 1966, p.729.


 ハインリッヒ四世に対するグレゴリウス七世、赤髭のフリードリッヒ一世に対するアレキサンデル三世、フェデリーコ二世に対するインノケンティウス四世など、教会の脅威となる君主が現れると、彼らの天敵のような教皇がその前に立ち塞がるという構図はこれまでもたびたび見られたが、イタリアから多数のグェルフィ(教皇派)党員を追放したために強力になり過ぎたマンフレーディ王に対抗するために、どうやら教会はとびきり有能な人物を選出したもののようである。モンタペルティ戦争の翌年、教皇のなり手がなくて困った枢機卿たちの申し合わせによって、たまたま教皇庁に陳情に来たために教皇に選ばれてしまったという伝説 の主であるウルバヌス四世は、おそらく枢機卿たちの期待をはるかに上回る果断な辣腕家で、まず異端者マンフレーディ王に対するイタリア十字軍を組織し、フランス王ルイ9世の弟シャルル・ダンジューをマンフレーディに代わるナポリ王として招聘することを決定する と、モンタペルティ戦後に破門されていたシエナの銀行家たちに対し、破門を解除することを条件に、ギベッリーニ(皇帝派)党と訣別してシャルルが率いるイタリア十字軍の資金調達に協力することを命令した。その資金はフランス王国内の教会が徴収する十分の一税3年分を貸与することで調達される予定なので、フランス全土の教会から資金を徴収する必要があったが、その作業に加わることを命じたわけである。

⑪ ヴィッラーニ『年代記』第6巻、第187章。

⑫ S. Runciman, The Sicilian Vespers, Cambridge 1958, pp. 81-82.

⑬ E. Jordan, LES ORIGINES DE LA DOMINATION ANGEVINE EN ITALIE, New York 1960 (Paris 1909), Tome II, p.307.


 何しろ金融業者が貸した金の利子を取ることの是非ですら論議の的となっていた 時代のことなので、破門宣告には銀行の存亡に関わりかねない重大な影響力があった。こうして1262年12月、当時シエナを支配していた親ギベッリーニ(皇帝派)党の24人委員会体制の有力な与党だった銀行家たちが、一挙に26家もグェルフィ(教皇派)党に転向し、市外に亡命するという事件が発生する。一説によると、グェルフィ党が優勢なフィレンツェヘの対抗上、従来ギベッリーニ(皇帝派)党一辺倒で、グェルフィ党の存在自体はっきりしなかったシエナに、この時はじめてグェルフィ党が誕生したとさえ伝えられているほどである

⑭ 日本語でこの問題をくわしく論じているのは、大黒俊二著『嘘と貪欲 西欧中世の商業・商人観』、名古屋(名古屋大学出版会)2006、「第1章・徴利禁止の克服をめざして」および「第2章・石から種子へ」。

⑮ Jordan, op.cit., P.343, nota(1).

⑯ Ibid., P.344.


 実はウルバヌスが採用したこの強引な手段そのものが、当時のヨーロッパ金融界におけるシエナの抜群の地位を証明していると見なすことができるはずである。まさにこの時期、フィレンツェをはじめとするトスカーナ地方のグェルフィ(教皇派)党員が、ギベッリーニ(皇帝派)党の圧力で一旦逃げ込んだルッカを追われ、フランスヘ大量に亡命していた。 その数はフィレンツェだけでも1,000人近いと伝えられているのだから、ピストイアやプラートなどフィレンツェの衛星都市からの亡命者をも含めると、それは相当な数に及び、人手だけなら十分足りていたはずである。そして、1267年フィレンツェを訪れたシャルル・ダンジューが、その協力ぶりに感謝して4家の9人を騎士に叙任している ことからも、フィレンツェの亡命者たちも可能な限り協力していたことは明らかである。それにもかかわらず、ウルバヌスがこれほど強硬な手段でシエナの銀行家の協力を命じたのは、この際の資金調達がシエナの銀行家抜きにしては実行できなかったことの証拠だと見なすことができるはずである。さらにこの資金調達計画そのものが、大体のところ、当時教皇庁の奥深くまで食い込んでいて、シエナ人でありながら最初から破門を免除されていた と伝えられるボンシニョーリ家が描いた構想に基づいていたとしか考えられない。なぜならまず第一に、いかにウルバヌスが有能で世情に明るくとも、金融の専門家でない以上、彼自身やその取り巻きだけでフランス全土の資金調達のアウトラインを構想できたとはとても考えられないし、第二に、もしもボンシニョーリ銀行以外の本物のグェルフィ党員、たとえばフィレンツェの銀行家あたりがその計画を構想していたとしたら、わざわざ破門などという強硬な手段を用いてシエナからギベッリーニ党員の銀行家のグループを引っ張り出し、この事業に参加させようとしたとは絶対に考えられないからである。第三に、遠征の資金のおよそ半分をボンシニョーリ銀行が調達していて、シャルル・ダンジューに賞賛されていたという事実 自体が、この推測を裏付けている。おそらくウルバヌスから資金調達を依頼されたボンシニョーリ銀行のメンバーは、この大事業を確実に成就するために、ライバルではあっても従来から取り引きがあり、やはり最も信頼できる祖国の同業者を起用したかったのであろうし、この機会に祖国の同業者たちを仲間に加えて恩を売っておこうという、ボンシニョーリ家自身の祖国における将来の地位に関する思惑も、当然影響していたものと思われる。第一ボンシニョーリからの何らかの示唆なしで、ウルバヌス四世がシエナの銀行家に対して、あれほど強硬に干渉したとはとても考えられないではないか。

⑰ ヴィッラーニ『年代記』第6巻、第85章。

⑱ J.M. Najemy, A HISTORY OF FLORENCE 1200-1575, Malden etc. (BLACKWELL PUBLISHING) 2006,  p.75.

⑲ Jordan, op. cit., P.344, nota(1).

⑳ 「総額の約半分の調達」に関しては、Jordan、op. cit.、p.545、「賞賛」に関しては、シャルル・ダンジューの行動をイタリア十字軍という立場から見直した N. Housley, THE ITALIAN CRUSADES The Papal-Angevin Alliance and the Crusades against Christian Lay Powers 1254-1343, Oxford 1982, p.227、 なおその後もシャルル・ダンジュー一世がボンシニョーリ銀行をメイン・バンクとして活用し、他の銀行とは異なり繰り返し残高を確認していたことは、 DOCUMENTI DELLA RELAZIONI CARLO I D'ANGIO E LA TOSCANA, EDITH PER CURA DI SERGIO TERLIZZI, Firenze (OLSCHKI) 1950、 の文献 208、212、273、406などから見ても明らかである。


 こうして主にボンシニョーリ銀行を中心とするシエナの銀行家たちの奔走の結果、資金調達計画は成功し、シャルル・ダンジューが率いるイタリア十字軍は、1266年2月26日に異端者マンフレーディ王の軍勢とナポリから東北東約80キロの丘陵に広がる都市ベネヴェントの周辺で対決して王を殺害、ナポリ王国を簒奪した。すでに記したとおり、この時のイタリア十字軍の資金の約半分はボンシニョーリ銀行が調達したとされており、他にもトロメーイ、サリンベーニなどの有力銀行が協力していて、またピストイアのクラレンティなども大いに協力しているので、全体の中でフィレンツェ人が占めている比率は、最大限に見積もっても、おそらくシエナ人の半分以下、実際には数分の1にすぎなかったのではないかと推定される。ただし父親がバルディ銀行ナポリ支店長で自らもその世界にくわしかったボッカッチョが『デカメロン』第一日、第一話で登場人物に語らせている とおり、当時の金融業者の日常業務は危険に満ちていた。そしてこの時代には決して治安が良かったとは言えないフランス全土となると、シエナ人だけでは到底カバーしきれず、亡命中のフィレンツェ人やピストイア人らが参入するチャンスも少なくなかったはずである。もちろんその際に、現地に亡命中という条件が有利に作用したことは言うまでもない。しかしそうは言っても、すでに見たとおり、イタリア十字軍の資金調達の主役はあくまでシエナ人であった。


㉑ Runciman, op.cit., 6.THE ANGEVIN INVASION, pp.94-112.

㉒ 米山喜晟著『敗戦が中世フィレンツェを変えた モンタペルティ・ベネヴェント仮説』、東京(近代文芸社)2005、118~121および160~162ページ。

㉓ G.ボッカッチョ『デカメロン』第一日、第一話。そこに登場するチャペレットは、まさにこうした危険の中に生きている商人兼金貸しであった。


 ところが奇妙なことに、後世の歴史書ではこの時のイタリア十字軍の資金調達の事業において、しばしばフィレンツェ人がその主役を演じたかのように記されている。一応シエナ人の活動が記されている場合でも、「フィレンツェとシエナの商人らが協力した」という順で書かれている場合が少なくない。その原因の一つは、当時のアンジュー家の文献をくわしく検討した、主にフランス人研究者たちによる研究成果 が広く知られていないためであり、もう一つはこの時代の出来事が論じられる時に、もっぱらフィレンツェ史関係の文献が利用されているためである。たとえば近年刊行されたアカデミックな意味では現在もっとも信頼できるナジェミーの『フローレンスの歴史 1200~1575』 においても、この時の協力に対する謝礼としてのフィレンツェ人の騎士叙任が記録されているが、彼らの何倍も重要な働きをしたシエナ人たち、とりわけ真の意味で主役を務めたボンシニョーリ家については一言も触れられていない。もちろんこの本がフィレンツェの歴史であってシエナ史ではない以上それはやむを得ないことではあるが、フィレンツェ史を読む人に比べてシエナ史を読む人ははるかに少ないために、シエナ人の功績が世に知られる機会もその分だけ乏しくなり、いたずらにフィレンツェ人の活動ばかりが宣伝されてしまうのである。そしておそらくこれに類した事柄は、他のあらゆる分野でも起こっているものと考えられる。

㉔ たとえばシャルル・ダンジュー一世に関する最高の権威だったランシマンでさえも、その財政事情についてはごく簡単にしか触れておらず、その金策を論じた箇所では「フィレンツェとシエナの銀行家」とフィレンツェを先にあげて、一括した形でしるしている。Runciman, op.cit., p.103.  ウルバヌスのシエナの銀行家相手の強引な交渉には全く触れられておらず、索引のどこにもボンシニョーリという名前が出てこないところを見ると、どうやらランシマンはシエナ人の仕事は特に重視するに当たらないと考えたらしい。

㉕ ある時期までヨーロッパでは信じ難いほど民族主義的愛国意識が強く、フランス人はシャルル・ダンジューのことを評価して熱心に研究したが、シチリア人やドイツ人は彼を憎んだ。第二次大戦末期にイタリアに裏切られたドイツ軍は、ナポリから引き揚げる時にアンジュー王朝関係の古文書を焼いていったという話を、ボローニャで星野秀利先生から聞いたことがある。ともかく先に挙げたジョルダンのくわしい研究や、 E.G. Leonard, tr. R. Liguori, GLI ANGIOINI DI NAPOLI, Varese 1967 (Paris 1954) のような実証的な研究の成果が十分に評価されていないような印象は否めない。

㉖ 注⑱ 参照。


 ついでに言えば、シャルル・ダンジューのナポリ王国征服の際、グェルフィ(教皇派)同盟の一員としてフィレンツェは当然協力したはずだなどという記述が見られることがあるが、当時のフィレンツェは完全にギベッリーニ(皇帝派)党の支配下にあり、おまけにモンタペルティ戦争以前から教皇庁によって破門されていた ために、市政府そのものが教皇庁と協力するなどということは絶対にあり得なかった。シャルル・ダンジューのイタリア十字軍に参加して戦ったといわれるグェルフィ党の騎兵400騎は、たしかにフィレンツェ人ではあったが、それはあくまで当時のフィレンツェ共和国と敵対する亡命者たちの集団であった。またモンタペルティ戦争の前後にわたって、フィレンツェがずっと破門され続けていた、という事実を無視することは許されない。教皇庁から破門されるという経験を、フィレンツェはシエナよりも数年以前から味わっていたのであり、同時にたとえ市全体が破門されても、銀行をはじめさまざまな事業がただちに倒産するわけではないことをも、すでに自ら身をもって示していたのである。だからウルバヌスの前任者アレキサンデル四世がシエナに対して宣告した破門も、当然様々な支障をもたらして銀行家たちに悲鳴を上げさせてはいたことは事実だが、即倒産などという事態が生じるわけではなかった。したがってシエナの銀行家が大挙して亡命した最大の動機は、やはり莫大な利益が期待できる事業を委託されたために、いくつかの有力な銀行がそれに加わろうとしたことだったものと思われる。またたとえ自分は事業に直接参加しなくとも、有力な取り引き先が市外に出て行くと、中小の業者はそれについていく必要があったことや、シエナに止まったために熱心なギベッリーニ党員と見なされることを恐れたことなども加わって、これほど多数の銀行家が同時にグェルフィ党に転向し、市外へ亡命するという事態が発生したもののようである。

㉗ ヴィッラーニ『年代記』、第6巻、第65章。

㉘ 石鍋真澄著、前掲書、33-34ページ。


 いずれにしても、シエナの銀行家たちはイタリア十字軍の資金調達のために主力となって働き、見事その事業を成功へと導いたが、同時にそれは祖国シエナの親ギベッリーニ(皇帝派)党政権の首をしめる行為となった。マンフレーディ王が死に、シャルル・ダンジューという強力な後ろ盾を得たイタリア全土のグェルフィ(教皇派)党員は一気に活力を取り戻すと、フィレンツェでは早くも同じ年の4月にギベッリーニ党が支配する政権が動揺し始め、1264年のウルバヌスの死後その後継者となった教皇クレメンス四世の庇護を求めて延命を試みたが、1266年11月にポポロの蜂起が勃発し、ギベッリーニ党はドイツ人騎士らとトスカーナ一帯のギベッリーニ党党員を集めてこれを威圧しようと試みる。それに対してポポロが武力で抵抗し、ギベッリーニ党の指揮官グイド・ノヴェッロは早とちりして、ギベッリーニ軍団を率いて市外に逃亡してしまう。翌朝あわてて逃亡する必要がなかったことに気付いたギベッリーニ党軍団が市内に戻ろうとすると、市民たちはすでに武装して門を閉ざしていたために二度と入城できず、それに続いて亡命中のグェルフィ党員やプリーモ・ポポロの指導者たちが続々と帰国した結果、フィレンツェの政変はあっけなく実現してしまう。 しかしモンタペルティ戦争以前にフィレンツェを支配していた好戦的なプリーモ・ポポロ体制は、破門を解除した後に、以前と異なった親密な関係を築こうと試みる教皇庁の工作によって復活することが許されず、その代わりに新しいナポリ王、シャルル・ダンジューを後ろ盾とするグェルフィ党政権が発足する

㉙ 1266年3月、クレメンス四世は、ギベッリーニ党よりのウバルディーニ枢機卿を通して破門と政務停止令の撤回を行わせ、当時のギベッリーニ政府へのソフト・アプローチを試みる。それ以後11月の政変までの経緯は、私の著書『 敗戦が中世フィレンツェを変えた モンタペルティ・ベネヴェント仮説』、前掲書、138~141ページ参照。

㉚ 同上。

㉛ 同上、141ページ。

㉜ 同上、142ぺージ。


 こうしてシエナのギベッリーニ(皇帝派)党政権は、フィレンツェのグェルフィ(教皇派)党政権とまともに睨み合う事態になったが、まだドイツにはコンラート四世の息子コンラディンがいて、シチリアの王権の正統の相続者として広く認められており、イタリアヘの遠征が期待されていたので、トスカーナの二つの都市がただちに激突することはなかった。だがイタリアのギベッリーニ党員の期待を集めて南下したわずか17歳のコンラディンが率いるドイツ騎士団は、1268年8月23日、シャルルの率いる軍団とタリアコッツォで対決し、緒戦には圧勝したにもかかわらず、フランス騎士団の巧みな伏兵作戦に引っ掛かって惨敗、コンラディンは仲間と共に戦場から逃走したが途中で捕まり、ナポリのメルカート広場で処刑されてしまう。こうしてシエナのギベッリーニ党政権は、ピサ以外一気にグェルフィ化したトスカーナ地方で孤立してしまい、早晩周囲のグェルフィ党連合との対決は避けられない状況に追い込まれる。そしてついに両者が激突した戦いが、筆者がシエナにモンタペルティ現象をもたらしたと考えているコッレ戦争である。この戦争に関しては、戦後700年を記念してコッレ市から委嘱されたC.バスティオーニが、現存している資料を洗い直すことによって論文を作成している。以下はほぼその受け売りであるが、この戦争は様々な意味で予想外の展開を見せている。

㉝ Runciman, op.cit., 7. CONRADIN, pp.113-133.

㉞ C.Bastioni, La battaglia di Colle, Colle di Val d'Elsa 1970. この論文をコッレ・ディ・ヴァル・デルサ市がパンフレットとして刊行した。コッレ軍がシエナ軍を潰滅させた記憶が、同市内では長く語り継がれてきたのであろう。そういえば、フィレンツェ人は現在かすかに記憶している程度に過ぎないモンタペルティ戦争の勝利を記念して、シエナ人は今もその日には聖母マリアに感謝の祈りを捧げている。


 第一に普通に考えると、前述のような状況においては、グェルフィ党側が圧倒的多数の軍勢を揃えて堂々とシエナ領に進攻し、それをシエナ側が迎え撃つという構図を想定するはずであるが、実際に大軍を先に動かしたのはシエナ側であった。すなわちシエナの領域部の都市コッレに、市外に亡命中だったグェルフィ党員が多数入り込みすでにグェルフィ化しているという知らせを聞いて、モンタペルティ戦争を指揮して勝利に導いたプロヴェンツァーノ・サルヴァーニらギベッリーニ党の指導者たちは、1269年6月16日、コッレを包囲・攻撃するためにピサなどの援軍も合む騎兵1,400と歩兵8,000という大軍を率いて出動したのである。シエナからピサに支援を求めた際にこの情報が漏れて、グェルフィ党のスパイから報告を受けたシャルル・ダンジューのトスカーナ地方の代官を務めるフランス入騎士ジャン・ブリトーは、自らが指揮する800の騎兵隊と騎兵の補助兵や志願兵からなる少数の歩兵隊を率いて直ちに出動し、同時にフィレンツェにもその情報を伝えた。フィレンツェではモンタペルティ戦争の復讐のための好機到来とばかり、15日の午前中に会議が開かれ、騎兵たちはすでに出動していたので、動員可能な歩兵の約半数(全6区中の3区)の出動を決議し、兵士たちに対して各自明かり持参で、15日夜間にコッレヘ向けて出発することを命令した

㉟ Bastioni, op.cit., P.10.

㊱ R. Davidsohn, Storia di Firenze, Firenze (Sansoni) 1972, Vol. lll、 (ll. P. ll), Cap. Vlll, p.64.  (米山の著書、『 敗戦が中世フィレンツェを変えた モンタペルティ・ベネヴェント仮説』のコッレ戦争を扱った箇所(145ぺージ)の注19)(313ぺージ)では、誤ってp.74となっていたので訂正しておく。)


 ところがフィレンツェの歩兵団がまだ到着していない16日の夜中に、丘の上のコッレの町を包囲していたシエナの軍勢は、背後に到来したグェルフィ党騎兵団の来襲に備えて、戦いに有利な形の陣営を構えるために移動を開始した。これを見たブリトーが突如攻撃命令を出したために、シエナ陣営は大混乱に陥り、その異変に気付いたコッレ市民も、門を開けて一斉に攻め下り、上下の双方から攻められたギベッリーニ党騎士団長グイド・ノヴェッロは、フィレンツェ市内でもそうしたように、騎兵団を引き連れて逸速く逃走したため、シエナ陣営はほとんど一気に潰滅しだ。残党狩りの戦いはそのまま17日にも続いたが、シエナ軍は死者の数は約1,000人、捕虜の数はなぜかとても細かい数字が残されていて1,644人 と完敗し、その総大将サルヴァーニは捕えられて斬首され、その首を槍に刺したままグェルフィ軍はコッレの町に凱旋した。

㊲ Bastioni, op.cit., p.16.

㊳ この数字は、注㊱ の Davidsohn が、op.cit., p.66で記している。なお死者の1,000人は約1,000人(un migliaio)となっている。


 この時の両軍の戦力も予想を全く裏切るものだった。トスカーナ全域から圧倒的多数が動員されても不思議ではないはずのグェルフィ党軍の騎兵の数は、全員でわずか800に過ぎず、その内400はフランス人の騎士団で、他の200はフィレンツェ人、残りの200はトスカーナの他のグェルフィ都市の人々だったとされている。そしてさらにもう一つ予想外だったことは、フィレンツェの歩兵たちがこの戦闘に間に合わなかったことで、ヴィッラーニを始め複数のフィレンツェの年代記類が証言している とおり、かつて勇猛果敢で知られたフィレンツェのポポロは、せっかくのモンタペルティの復讐戦に参加できなかったのである。

㊴ Bastioni, op.cit., p.10.

㊵ ヴィッラーニ『年代記』第7巻、第31章に、「もしもフィレンツェ側から歩兵が戦闘に到着していたら、シエナ人はほとんど生き残らなかっただろう」という文章が見られる。パオリーノ・ピエーリの『年代記』にも同様のことが書かれ、「フィレンツェのポデスタはバルベリーノまでしか行かなかった」と記されている。


 どうやらブリトーは好機と見て、歩兵部隊の援護なしに自分たちよりもはるか多数の敵軍に戦いを仕揖けたらしい。さらにコッレの市民は地の利を生かし、フィレンツェの歩兵部隊の不在を補って余りある働きを示したもののようである。なおヴィッラーニを始め、この戦いを17日の朝のこととしている説もある が、それだと出発から少なくとも30時間以上たっているので、フィレンツェの歩兵部隊は十分間に合っていたはずであるし、また周囲が明かるければ当然1,400騎対800騎というシエナにとって有利な戦力の差が見えたはずで、先に記したような混乱やギベッリーニ党騎士団の逃走が発生したとは考えられないので、戦闘が16日の夜に始まったとする説を採用しておきたい。なおこの時の指揮官はブリトーではなく、グイ・ド・モンフォールだったとする説をどこかで見た記憶があるが、1270年3月24日付けのシャルル・ダンジューの文書がトスカーナ代官ブリトーの更迭を告示している ので、この戦いを指揮したのはヴィッラーニもその名を記しているジャン・ブリトーであったことに疑問の余地はない。いずれにせよこの戦争はヴィッラーニによってモンタペルティ戦争の復讐戦と呼ばれているが、彼自身が認めているとおり、フィレンツェ市民の歩兵隊は間に合わなかったために途中から引き返していて、この戦いに実際に参加したフィレンツェ人は、わずか200の騎兵とごく少数だったとされる志願兵の一部にすぎず、せいぜい4分の1ないし3分の1程度しか貢献していない。そして実際にこの戦争に勝利をもたらしたのは、機敏に敵のすきをついた老練な指揮官ジャン・ブリトーの戦術眼と、その股肱となって戦った400のフランス人騎兵、そしてシエナ軍に制圧された場合の屈辱を免れるために、必死になって城外へと駆け下ったコッレ市民との三者であった。

㊶ ヴィッラーニ、同上。

㊷ 本章注⑳ で紹介した Terlizzi の DOCUMENTI の p.99 所収の文献183参照。


 こうしてプロヴェンツァーノ・サルヴァーニらが率いていたギベッリーニ党が大打撃を受けたために、シエナにおけるグェルフィ党政権の成立は時間の問題となったが、それでも敗戦したギベッリーニ党の政府は2年近く持ちこたえ、政変が起こったのは帰国したグェルフィ党の貴族と富裕な商人の集団が同盟した1271年半ばのこととされている。やはり1262年に教皇ウルバヌス四世の強力なてこ入れを受けなければならなかったシエナのグェルフィ党には、フィレンツェのグェルフィ党のようなポポロの支持に基づく土着的な活力が不足していたことは否定できない。それはともかく、こうして1237年以来30年以上続いていて、モンタペルティの大勝利をもたらした24人委員会体制は崩壊し、まず出現したのが36人委員会、続いて15人委員会と改革は繰り返され、ついに1287年、通例「ノーヴェ」と呼ばれている9人委員会体制が発足した

㊸ Bowsky, op.cit., p.73.

㊹ 石鍋真澄、前掲書、37ページではコッレ戦争直後からグェルフィ党が帰国して政変をもたらしたとされているが、 Bowsky, op.cit., p.73. によると、グェルフィ党員のシエナ帰国は1270年で、さらに政体(signoria)が変化したのはその翌年すなわち1271年半ばのこととされている。このように両者の間には、政変の時期に関して多少の食い違いがみられるものの、その後の経過は一致している。


 この体制は1290年から91年にかけて一時的な変更はあったものの、すぐ元に戻されて、結局1355年まで約70年間続いたが、後世の歴史家たちによってシエナの黄金時代だったと見なされている。ただし9人委員会とは2ヵ月毎に交代する行政執行機関であり、シエナの最高議決機関は、従来通り「鐘の評議会」とも呼ばれている「総評議会」であった。なおギベッリーニ党の24人委員会から交代して発足した親グェルフィ党の36人委員会当時から、一般にはマニャーティあるいはグランディなどと呼ばれているが、シエナではカザーティと呼ばれている封建領主や大商人たちからなる豪族の階層を、原則として委員から排除 していて、その方針はノーヴェ体制でもしっかりと受け継がれた。ただしその排除はあくまで原則であって、実際には明らかにカザーティ階層に属している人々も選出されており、さらに外交使節や領域部の行政官などにはカザーティの人々が重用されている ので、市民階層の上層にあたるノーヴェの階層の人たちは、単純な階級意識からこうした原則を採用したわけではない。フィレンツェでもプリオーレ制度の定着後、グェルフィ党貴族の横暴をさけるため、「正義の規定」によってマニャーティ階層はプリオーレになれないことが決められた が、この制限はシエナに較べると約20年遅く、しかもはげしい争乱の後に、明確な階級意識に基づいて成立したものであった。それに較べてシエナの場合には、教皇庁のてこ入れによって確立され、土着的なポポロの支持を得ないまま、国際関係の必要上軍事・外交上の主導権を握ることになったグェルフィ党の存在といい、カザーティ階層が自発的に参加を遠慮した感が強いカザーティ排除の原則といい、ノーヴェの政治なるものが何らかの明確な理想や階級意識に基づいて成立したものとは到底考えられない。

㊺ Bowsky、石鍋の二つの著書は、いずれもその読後にノーヴェ体制へのオマージュのごとき印象を受けるはずである。Bowsky は「第8章エピローグ」の冒頭(407ページ)で、今日のすばらしいシエナは、「大部分ノーヴェ体制の産物である」と断言している。

㊻ 中山明子『サリンベーニとトロメーイ~閥族、及び都市における反閥族規定の意味を巡って~』、前掲論文、はこの問題を取り上げ、二つの豪族の反応の仕方を対比している。

㊼ Bowsky, op.cit., p.257.

㊽ その規定が成立した経緯については、Dino Compagni, Cronica の前半がくわしい。

㊾ そこには市民の間で戦われた階級闘争が赤裸々に記録されていて、19世紀の批評家デ・サンクティスが絶賛した理由もそのあたりにあるらしい。


 以上がモンタペルティ戦争の勝利から、コッレ戦争の敗北を経て「ノーヴェ」政権が成立した経緯であるが、すでに見たとおり、コッレ戦争の敗北によって一時期シエナが多くの犠牲者を出し、大きな損害を被ったことに疑いの余地はない。国際的には、シエナはモンタペルティの勝利によって得たトスカーナの盟主の地位をフィレンツェに返上し、新参者としてグェルフィ党連合の一員に加わらなければならなかったし、その地位を挽回しようとしても、かつてのマンフレーディ王のように支援が期待できる相手は、身近にはもはや存在していなかった。それどころか、新しいナポリ王は、イタリア全土におけるグェルフィ党の盟主としてかつてのギベッリーニ都市にきびしい監視の目を光らせていた。さらに経済活動に関しても、ライバルであるフィレンツェの発展が目覚ましく、とりわけシエナに較べるとはるかに立地条件に恵まれたラーナ(羊毛)産業はもちろん、シエナが最も得意とする金融業においてさえ、イタリアにおける二流の存在から、イタリアのみならずヨーロッパ全体でも一流の地位へと成長しつつあり、シエナはその分シエアを奪われて圧迫されざるを得なかった。そしてついに1298年、ボンシニョーリ銀行が倒産して取引先にも多大の損害を及ぼし(51)、国際経済におけるシエナの地位はさらに低下する。このように客観的には地盤沈下の時期であったにもかかわらず、コッレの敗戦がシエナにもたらしたのは、犠牲者と損害だけではなかった。紙数の都合もあるので、以下でコッレの敗戦がシエナにもたらしたと考えられる恩恵の数々を箇条書として列挙しておきたい。

㊿ Najemy, op.cit., p.96.

(51) ボンシニョーリ銀行の倒産については、Bowsky, op.cit., pp.342 sgg. で扱われている。さらに中山明子『 中世シエナの金融業~ボンシニョーリ銀行の興亡、およびシャンパーニュの大市との関係を中心に』、前掲論文、138ぺージ以下参照。


1. まずこの敗戦には、モンタペルティの勝利によってもたらされたシエナ市民の異常に高揚した精神状態に冷水を浴びせかけて、日常生活に引き戻した、という利点を認めなければならない。すでに記したとおり、モンタペルティ戦争直後のシエナは、瞬間風速的にその国力に比して分不相応な勢力を獲得したが、所詮それは長期にわたって維持し得る性質のものではなかった。それにもかかわらずシエナの豪族の子弟の間で「放蕩団」などという団体が生まれるほど、市民は有頂天になっていた。その後わずか9年足らずの内に自らの領域内で体験したこの敗北は、シエナ本体を巡る攻防や占領というさらに悲惨な事態を伴うことなしに(52) シエナ市民の意識を変えることに成功しているという点で、好ましい結果をもたらした敗戦だったと見なし得るのではないだろうか。

(52) ダンテ『神曲・煉獄篇』第13歌に嫉妬深いために、コッレの戦いでの甥の率いる軍勢の敗北を喜ぶ女サピーアのことが歌われているが、シエナ本体をめぐる戦いだとこんな余裕は生じ得なかったであろう。


2. この敗戦に続いてシエナ国内で発生した一連の政変も、長い目で見ると、この国に有利な結果をもたらすものであった。たとえばフィレンツェの年代記作者ヴィッラーニはこの戦争について記した後、次のようなコメントを記している。「したがって、シエナ市は、その人民の規模に比較して、フィレンツェがモンタペルティで受けた以上の市民の損害を被り、そこに彼らのすべての甲冑類を残した。そのためフィレンツェはそれから間もなくシエナに亡命中のグェルフィ(教皇派)党員を帰らせ、ギベッリーニ(皇帝派)党員を追い出し、双方のコムーネは和解し、その後永久に友となり相捧となった」(53) この記述は、シエナの政体のギベッリーニ党からグェルフィ党への転換が敗戦の2年後にようやく達成されたという事実から考えても明らかに誤りであるが、それにもかかわらず、14世紀の一般的フィレンツェ人がこのように信じていたということの方が、より一層重要であるものと思われる。実際にシエナで起こった変化は、ヴィッラーニが記したようにてっとり早く進行したわけではなく、はるかに緩慢で試行錯誤を伴った自主的な変化であった。だがそれだけにシエナは着実に親グェルフィ(教皇派)化して、国際協調路線に順応したのである。ヴィッラーニが記したほど両国が仲良くなったわけではなく、シエナ人はフィレンツェ人に対して常にはげしいライバル意識を燃やし続けたのだが、その後これら二つのコムーネの間で、モンタペルティ戦争やコッレ戦争のような本格的戦争が一度も起こらなかったことは事実である。両国の協力関係を象徴的に示しているのは、1310年10月にイタリア入りしたハインリッヒ七世に対する戦争で、シエナは市政府に反抗する一部のギベッリーニ党員を除くと、皇帝の権力に柔順だった古来の伝統から外れて、フィレンツェを中心とするトスカーナのグェルフィ同盟のメンバーとして、1313年8月ハインリッヒがシエナの領域内を通過中に死去するまでの期間、皇帝に対して抵抗し続けたのである(54)。このようにナポリ王国のアンジュー王朝を盟主とあおぐグェルフィ党の路線は、多くのシエナ市民にとっては心から満足できる体制ではなかったものと推測されるが、客観的にはこれ以外の選択肢はなかったことと、結果的に好ましいものであったことを認めなければならないだろう。とりわけ1260年代まで繰り返されてきたフィレンツェ相手の戦争がこの時点で終わったことは、両国にとって計り知れない恩恵をもたらしたことは明白である。シエナをしてこうした国際協調平和路線を選ばせたのは他ならぬコッレの敗戦であったことを考慮すると、この点だけでもシエナにモンタペルティ現象が発生していたことに、疑問の余地はないものと思われる。

(53) ヴィッラーニ『年代記』第7巻、第31章。

(54) この戦いについては、これまで引用してきたのと同じM.W.Bowskyによる、 Henry Vll in Italy The Conflict of Empire and City-State 1310-1313, Lincoln (UNIVERSITY OF NEBRASKA PRESS)1960、 がくわしくかつ興味深い。


3. シエナのグェルフィ(教皇派)党は、このように国際関係に関してシエナを指導したものの、すでに見たとおりその成立基盤は弱体で、フィレンツェのそれのように、たとえ一時的にでも、自らが市政の中心となるために戦うだけの力量はなかった。フィレンツェの場合、グェルフィ党はモンタペルティの敗戦にもベネヴェントやコッレの勝利にも自ら加わっており、モンタペルティ敗戦後には6年間の亡命生活を味わうなど、人民と苦楽を共にしたという実績があった。それに較べるとウルバヌス四世の強制によって、平地に波瀾を起こす形で亡命を余儀なくされた金融業者を中心とするシエナのグェルフィ党は、コッレ戦争の際にはシエナの敵側にいてフランス騎士団を支援しており、シエナがこの戦いに敗れた後、ほとぼりが冷めてから帰国して市政に干渉し始めたに過ぎない。このようにシエナのグェルフィ(教皇派)党は、政党として人民と共に戦ったという実績が皆無なため、長期にわたって市政を担当するなどという大それた意志は持ち得なかったらしい。その上、サリンベーニ、トロメーイ、ボンシニョーリ、ピッコローミニその他、国際金融の分野での大物たちは、いずれもその分野でイタリアあるいはヨーロッパを舞台にして鏑を削り続けていて、階級的に団結することなど到底望むべくもなく、早くも親ギベッリーニ(皇帝派)党の24人委員会体制が崩壊した時点で、彼らが属しているカザーティと呼ばれている階層は市政の執行機関のメンバーに参加しないという原則を受け入れているのである(55)。こうしてコッレの敗戦後に崩壊した親ギベッリーニ(皇帝派)政府の後を受けて成立した親グェルフィ(教皇派)政権で実際に市政を担当したのは、ギベッリーニ党と共にコッレの戦いを戦い、敗戦の苦難を体験した人民の最上部に位置していた階層であった。すでに見たとおり、敗戦から2年後に発足した36人委員会、それに続く15人委員会という二つの過渡的政体をへて1287年に成立した9人委員会の体制は、このように国際的には親グェルフィ党路線を取りながら、国内ではギベッリーニ党贔屓の気風が濃厚な自分たちよりも下層の人民の支持を求めざるを得ないという、複雑かつ微妙な基盤の上に成立したのである。親グェルフィ党路線を取りながら、原則としてグェルフィ党の貴族を政権に加えないという9人委員会体制の成立には、グェルフィ党員がコッレ戦争の際にシエナの敵側にいたという事実が関係しているものと思われ、この体制の成立にもコッレの敗戦が関係しているのであり、コッレの敗戦がシエナにもたらしたモンタペルティ現象の具体的な影響の一つはこの9人委員会という政体だったと見なすことができるだろう。

(55) Bowky, op.cit., pp. 107 sgg.


4. 前項で見たような微妙なバランスで成り立っていたシエナの9人委員会体制には、かつて親ギベッリーニ(皇帝派)党時代の24人委員会体制に見られたような、フィレンツェに対する敵対意識を共有することで結ばれた人民との土着的な連帯感は存在しなかった。後世には「ノヴェスキ」と呼ばれ、シエナの由緒ある貴族階層を形成することになるこの時代の政府の指導者たちは、こうした事実を十分すぎるほど認識していた。とりわけ国際協調を重視するあまり親グェルフィ(教皇派)党路線を強引に貫いた場合、根強く残っている親ギベッリーニ党感情あるいは反フィレンツェ感情に火がついて、いつなんどき反乱が発生してもおかしくないことを常に意識せざるを得なかったのである(56)。このように古来の伝統から外れていて、決して堅固とは言えない基盤に立っていたが故に、ノヴェスキの政権は常に世論の動向に敏感で、市民の必要に答える必要に迫られていた。それと同時にさまざまな手段で治安の維持に配慮していたことは言うまでもないが、限られた予算の中から治安維持のために割ける費用など高が知れていた上に、カザーティ階層のように自らクランを形成して一族郎党という自前の戦力を形成する力も微弱だったために、結局政権維持のために彼らに残された手段とは、グェルフィ党と協調して非常事態には支援が期待できる盟友を国の内外に確保することと、善政を布いて市民の多数を味方に付けておくことだけだったということになる。このようにコッレ敗戦後のシエナでは、様々な原因が複合的に作用した結果、生き延びるためには善政を布くことが不可欠な独特の政体が、約70年間継続することになった。当時のイタリアでは、ミラノのヴィスコンティ家支配の確立などによって代表されるとおり、「コムーネ(共和制都市国家)からシニョリーア(君主制独裁国家)」への転換が一般的傾向として認められたが、シエナはそうした風潮に逆行して、多数の市民を市政から排除している(57) 寡頭的体制だったとはいえ、市民全体の利害に配慮を怠らず、常に善政を志向している共和制を堅持し続けたのであった。

(56) たとえばバウスキーの192ページによると、1318年10月26日に、ノーヴェ体制は政権成立後最大規模の反乱に直面した。

(57) バウスキーによると、ノーヴェ体制は、カザーティだけではなく、判事と公証人(113ページ)、医師(116ぺージ)、ギベッリーニ党員(117ページ)なども原則として政権から排除しており、1318年の反乱に加わったために肉屋のアルテは潰された(196ペーシ)。


5. 「ノーヴェ体制」が実現した善政の具体的な中身に関しては、先に挙げたウィリアム・M・バウスキーや石鍋眞澄の著書にくわしく記されている。今日のシエナはこの時期に形成されたと言っても過言ではないとさえ見なされ(58) ていて、たとえばカール五世がそれを見て、「シエナは地上以上に地下がすばらしい」と述べたと伝えられている(59) シエナの地下水道は、今日も市民の生活を支えながら、同時に私たちを感嘆させ続けている。9人委員会が行った善政は、大別すると市民生活を維持するための必要に対処するための処置と、市民生活の質をさらに向上させるために行われる様々な事業に分かれるはずであるが、そのいずれの面においても、当時のコムーネ一般の水準をはるかに越えていた、と言えるだろう。前者では市民の衣食住や治安の維持などに関して、こまごまとした配慮が払われたし、後者に関しては、相次ぐ公共事業によって市民の生活の質の向上が図られ、その成果の多くはほとんどそのまま今日まで残されている。たとえば石鍋真澄の著書の目次(60) を開くと、第一部は「都市国家」と題され三つの章でこれまで本章が論じて来た事柄が、もちろん別の視点から論じられている。続く第二部の「都市建設」の部分は、「第四章 城壁・道路・フォンテ」「第五章 大聖堂」「第六章 市庁舎とカンポ広場」に分かれていて、タイトルを見ただけで、当時のシエナ政府が企画した公共事業に関する章だということが分かる。第五章で扱われた大聖堂の改築計画は、幾度かの挫折の後、9人委員会の体制が崩壊した1年後に決定的に頓挫する(61) が、それを除く大半の公共事業は完成し、たとえば堂々たる市庁舎の前に広がるカンポ広場は「全キリスト教世界で最も美しい広場の一つ」などと賞賛され続けているのである(62)。 さらに「第三部  美術作品」の「第七章 マエスタ(荘厳の聖母)」「第八章 正義を愛せ」「第九章 ブオン・ゴヴェルノ(善き政府)」は、著者の専門である絵画について論じた章だが、それらのいずれもが市政府の委嘱によって描かれたという点で、9人委員会の政府と関係している。第八章は主にシモーネ・マルティーニに関する章で、このタイトルから連想される悪人たちの恥ずべき行為や末路を描いた「さらし絵」(63) は、この章ではなく次の章で語られている。この「さらし絵」の存在自体、美術作品が当時社会で発揮していた公共的機能の証拠となっている。9人委員会の市政府は、当時のヨーロッパ最高の画家たちの手で、そのすぐれた統治の果実を後世に残すことができたのであった。同時にドゥッチョ、シモーネ・マルティーニ、アンブロジォ・ロレンツェッティという豪華な顔触れ(64) を同時に擁していたこの時期のシエナ芸術の水準の高さを、市内の公共の場で誇示することによって、今日も将来も私たちを感嘆させ続けているのである。

(58) Bowsky, op. cit., p.407.

(59) Ibid., P.402.

(60) 石鍋真澄著、前掲書、3~4ぺージ。

(61) Bowsky, op. cit., p.388.

(62) 石鍋真澄著、前掲書、139ページ。

(63) pittura infamante と呼ばれ、コムーネにとって有害な人物の非行をおおやけの場にさらけ出すために描かれたもの。前注の書物の208~212ページ参照。

(64) こうした大物3人以外にもアンブロジォの弟ピエトロなどすぐれた画家が輩出した当時のシエナは、チマブーエやジョットらによってヨーロッパをリードしていたフィレンツェに勝るとも劣らぬ美術大国であった。


6. ここでもう1点、決して無視し得ない重要な事実は、まさに同じ時期にシエナの宿命のライバル、フィレンツェでもモンタペルティ現象が発生していたことである(65)。フィレンツェの場合、1260年の敗戦から6年後、思わぬ僥倖によってナポリのマンフレーディ王が戦死し、イタリアは一挙にグェルフィ(教皇派)化して、フィレンツェはトスカーナの盟主に返り咲いている。しかしモンタペルティ戦争以前のプリーモ・ポポロ体制は復活せず、もはやその体制が有していた好戦性は失われていた。モンタペルティの敗戦以来、身代金を払うことができないために、フィレンツェの貧しい人民たちの捕虜がシエナに捕えられたままだったにもかかわらず、フィレンツェは独自でシエナと戦おうとはしなかった(66)。グェルフィ党の貴族だけは、その階級的性格上好戦性を失っていなかったが、全人口に対するそうした貴族の比率は小さく、人民一般の好戦性が消えた後には、フィレンツェは基本的に敵の侵略に対応するだけの軍事的に受け身な国家に変貌してしまったのである。すでに見たとおり、歩兵たちが遅刻したためとはいえ、フランス人の指揮の下でコッレ戦争に加わったのは、約200の騎兵とわずかな志願兵にすぎなかった。こうしたフィレンツェの国柄の変化は、明らかにシエナのモンタペルティ現象の発生に対して有利な影響を与えている。もしもフィレンツェにかつての好戦的なプリーモ・ポポロが復活していたとすれば、当然真っ先にシエナヘの復讐戦を企てたはずであり、またコッレ戦争に類する戦いで勝利した後にも度々シエナ領域への侵入を繰り返したはずで、それに対抗してシエナ市民も基盤の弱いグェルフィ党を追放し、元どおりのギベッリーニ(皇帝派)党主導体制に戻って戦い続けた可能性が高い。こうした戦闘態勢が続くと、両コムーネ間の交流も途切れ、ことに国際的に孤立しているシエナは新しい文化的刺激を得ることができず、その文化は沈滞せざるを得なかったにちがいない。ことにフィレンツェの影響で、当時イタリア第二位の地位を確保するに至った文学の流行など望むべくもなかった(67)。このように考えると、フィレンツェで先にモンタペルティ現象が発生していたことが、シエナにおけるモンタペルティ現象の発生に有利に働いたことは疑問の余地がないのである。またそれとは逆に、シエナで発生したモンタペルティ現象が、フィレンツェのモンタペルティ現象のその後の継続のために有利に影響し続けたことも十分推測し得る事柄である。このように、一つの国家で発生したモンタペルティ現象が、周辺の国家におけるモンタペルティ現象の発生を助長し、同時多発的に進行するという事態は十分想定できるものであり、第二次世界大戦後の世界に限らず、世界史の中で結構頻繁に発生していた可能性が高いのである。

(65) 残念ながら、今のところ私の説に対して誰ひとり公的に賛成する人は現れていないが、私の『敗戦が中世フィレンツェを変えた』(前掲書)は、全巻フィレンツェがモンタペルティ敗戦後にいかに変貌したか、すなわち当時フィレンツェでモンタペルティ現象が発生していたことを明らかにするために書かれたものである。

(66) ヴィッラーニの『年代記」の第6巻でプリーモ・ポポロ時代の誇り高さと好戦性を知っている人々にとって、これは信じ難いほどの慎重さであるが、当時のフィレンツェは期限限定で領主権すらシャルル・ダンジュー一世に献上し、その威光の下でグェルフィ党が統治していたのである。不思議なことにモンタペルティ戦争以前とのこうした変貌ぶりについても、従来はまともに考察されることはなかったのである。まさに第二次大戦後の日、独、伊三国の国柄の変化に似た変化がフィレンツェで発生し、それに釣られてシエナも変貌したのである。

(67) バウスキーはその著書の383ページで、自分がシエナの文学を軽視していたことを率直に認めて、余りにも偉大なフィレンツェと比較していたための誤解だったと弁解しているが、たしかにこの点に関しては認識不足があったことを否定できない。私が前掲書(19~20ページ、および p.298の注)、などですでに何度も紹介したクリスチャン・ベックのイタリア文学者の都市別統計よると、14世紀を通してシエナではフィレンツェ47人につぐ16人が輩出しており、パドヴァ(12人)、ヴェネツィア(10人)、ボローニャ(9人)、ピサ(9人)などをおさえて堂々2位の地位を占め、チェッコ・アンジョリエーリ、ベヌッチョ・サリンベーニ、メーオ・トロメーイなどという才能豊かな詩人を生んでいるからである。


 このようにシエナでこまごまとした配慮に基づく善政を布きながら、この町を奇跡のような美しい町に仕上げた9人委員会体制は、1355年3月25日、その前々日のカール四世の到来によって勃発したクーデターによってあっけなく崩壊する(68)。やはりこの都市の人民の気分は基本的に親ギベッリーニ(皇帝派)的であり、わずか約1,000人の騎士を伴った(69) 皇帝が入城しただけで転覆したのであった。カールはかつてシエナがフィレンツェとともに戦ったハインリッヒ七世の甥であるが、全盛期のハインリッヒが率いた戦力の数分の1にも満たぬ戦力でシエナを占領し、さらにフィレンツェから10万フィオリーノという巨額の献金をもぎ取ったのである(70)

(68) Bowsky, op. cit., p.410.

(69) Ibid.

(70) Ibid., p.411.


 こうした変化の原因は、ロベルト王が死去した後のアンジュー家が混乱して、イタリアにおけるグェルフィ(教皇派)党の盟主として配下のグェルフィ都市群を保護できなくなったためであった。外国人君主の到来がクーデターを誘発した例は、フランス王子シャルル・ド・ヴァロワ到来によるフィレンツェの白派政府の崩壊、ハインリッヒ七世到来時におけるミラノのヴィスコンティ家のクーデターなど、イタリアではすでに前例がいくつも見られる出来事である。いずれにしても、この政体が軍事的なひ弱さによって終止符を打たれたという事実は、モンタペルティ現象の負の側面に関する一つの証言だと見なすことができるかも知れない。実は9人委員会体制はすでに40年代から外人傭兵部隊などの脅迫によって動揺しており、崩壊した時点においては、ペストの大流行を辛うじて生き延びたばかりで、きわめて衰弱した状態に陥っており、早晩何らかの政変はさけられなかったのかも知れない。ともかく確実に発生していたと思われるシエナのモンタペルティ現象は、さらに深く検討されれば、同時進行中であったフィレンツェのモンタペルティ現象に勝るとも劣らぬ様々な問題点を提供してくれるはずである。



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